和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

7 / 28
西暦646年~647年 

和国・百済、両国の王となったウィジャ王は、後は新羅さえ従えさせれば、日本列島と朝鮮半島に覇を唱えることが可能となり、新羅攻略へ動きだす。反唐三国にかこまれた新羅はかつてない危機に陥ってしまった。

東アジアの覇者たらんとするウィジャ王は和国から高向玄里を新羅入りさせ圧力を強めていく。そして高向玄里の工作によって新羅で反乱が起き女王は没してしまった。反乱後、新羅の金春秋・金ユシンらはウィジャ王に百済と和国から挟撃されることを警戒し、唐と和国の二面外交を行うことを決め、ウィジャ王には恭順の態度を取りつつ、唐には百済出兵を請う使節を送ることにした。

1話 ウィジャ王の野望 三国連合国
2話 新羅・高向の暗躍
3話 新羅・ピダムの乱
4話 新羅・滅亡の危機


第5章 ウィジャ王の野望【三国統一】

646年5月、和国の大化の改新後の体制がひと段落ついてくると、イリは和国での徴兵を終え高句麗へと戻り、唐へ和平の使者を遣わした。

 

これで熾烈を極めた唐・高句麗戦はひとまず終戦したかたちとなった。

 

しかし、イリの唐への使いは全く人を喰ったもので、貢納品などはなく美女二人を献上しただけであり、太宗皇帝はこれを受けなかった。

 

9月になり、今度は唐の太宗皇帝が「弓と服」をイリに賜ったが、当然イリは「唐の服」など贈られても喜ぶはずもなく、使者を遇せず謝恩の使も派遣しなかったため、その不遜な態度に怒った太宗皇帝は、高句麗からの朝貢を受け取らないよう命じ、再び高句麗征討の検討をはじめた。

 

 

【ウィジャ王の野望 三国連合国】

和国ウィジャ王政権下で右大臣になった蘇我石川倉麻呂は、

 

(自分が蘇我氏の長者にとって代わりたい)と、

 

野心を持ち、蘇我馬子・蘇我蝦夷らと対立し続け、ウィジャ(軽王子)を対立候補として擁立し、今やっと蘇我親子打倒が叶ったことで、ウィジャ王から右大臣の地位を与えられた。

 

一方、中臣鎌足の仲介で那珂大兄王子には娘の遠智姫を嫁がせている。

 

もう1人、左大臣となった阿部内麻呂は方々へ娘を嫁がせている強か者で、ウィジャが和国へ亡命したはがりでまだ軽王子と呼ばれていた頃、娘の阿部小足姫を差出して姻戚関係となり、蘇我石川倉麻呂と共にウィジャを推していた。

 

 

【挿絵表示】

 

石川倉麻呂

 

その後、ウィジャが百済へと去ってしまい、蘇我蝦夷・入鹿親子の天下となると、時勢になびいた阿部内麻呂は今度は蘇我氏に娘を嫁がせ、蘇我蝦夷の側近となっていた。

 

生前の上宮法王が隋との戦いに敗れ、逃亡先の高句麗で寵姫の宝妃を嬰耀王に差出したように、アジアには懐妊している寵姫を託すことにより、絆を深めるという風習があり、ウィジャ王も懐妊していた寵姫・阿部妃を中臣鎌足に下賜していた。

 

しかし、普通は臣下に差し出すということ等なく、これは破格の行いで中臣鎌足は

 

「この日のことは生生忘れませぬ」と

 

感激したが、このときの『阿部妃』がウィジャ王の下もとに嫁いでいた阿部内麻呂の娘・小足姫である。

 

ウィジャ王と阿部妃の間には既に幼い「有馬王子」が生まれていたが、鎌足には阿部姫だけでなく、この有馬王子もともなわせ和国に向かわせた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

これは、和国の阿部内麻呂に対し、

 

「こちら側につくように」と

 

ウィジャ王の意図も含んでいた。

 

百済王室の王子であり、阿部内麻呂の孫でもある有馬王子を和国入りさせ、阿部内麻呂を味方につけようとした思惑どおり、

 

阿部内麻呂は鎌足のもとにいる娘と孫に頻回に会ううちに、蘇我王朝打倒の協力を承諾し、蘇我蝦夷の見張り役となって乙巳の変を成功へと導いた。

 

この一連の流れで阿部内麻呂、中臣鎌足、ウィジャ王、三者の絆は強まり、蘇我石川倉麻呂の包囲網となっていった。

 

 

蘇我石川倉麻呂は朝庭での位階受任式の後、中臣鎌足にいちから問うた。

 

 

【挿絵表示】

中臣鎌足

 

中臣鎌足は大冠錦を賜っていて、左右両大臣より上の位である。

 

 

「鎌足様、左右に大臣を置くのはかつて和国ではなかっことだ。果たして左大臣と右大臣では、どれほどの違いがあるか?」

 

「それは、図り兼ねますが、、『左が上』は確かです。」

 

「ばかな!そもそも何故、左大臣の阿部の方が、右大臣の吾より上位であるのか!和王即位に至って阿部に何の功があったというのか?礼典も違うのか!?」

 

「礼典はおなじです、、しかし、

 

石川倉麻呂殿は、まだ思い違いをされてる様だ。

 

和国の位階勲等はウィジャ王様が和王に即位したことの論功行賞ではござらぬ。

 

新たな強い和国の為の制度だ。くれぐれも私心や二心を持たぬ様に。その様に和国に仕えねばならぬ。叛心を疑われば身が危うくなりますぞ」

 

 

「くっ、、」

 

 

【挿絵表示】

 

 

石川倉麻呂は、吾が身の立場を改めて考え直さなければならなかった。

 

阿部内麻呂は、蘇我蝦夷側にありながら裏から協力しウィジャ王の大化の改新に功があったが、

左大臣として石川倉麻呂より上位に就くという程のことかと、石川倉麻呂の如く納得のいかぬ者共もいた。

 

阿部内麻呂の立場はもと蘇我蝦夷側の人物で、また阿部一族では高句麗宰相のイリに加担している『阿部比羅夫』にも繋がりがある。

 

和国の勢力を全て手中に収めたいウィジャ王にとって、石川倉麻呂らの新興勢力と、既存の勢力分布の均衡を考えた最善の策だったのかもしれない。

 

 

阿部内麻呂にとっては、ウィジャ王が和国王に即位すれば、和国王の外戚となり阿部妃が生んだ有馬王子・自分の血を引く孫が次期和王になる可能性が出てくる。

 

このことによって、阿部内麻呂は俄然野心に火がつけられてしまっていた。

 

ウィジャ王は野心家たちの力を均衡を計りながら利用する。

 

二人の大臣に継承権のある王子を奉戴させることで互いに対立させ臣下の力が集中することを防いだ。

 

右大臣・蘇我石川倉麻呂は那珂大兄王子を、左大臣・阿部内麻呂は有馬王子を推し、ウィジャ王の次世代には自分の擁立する王が即位することを密かに夢みている。

 

また、そのように対立させている間は、ウィジャ王に対して刃が向く可能性も幾分少なくなる。特に那珂大兄王子はウィジャに対して父・武王の敵という敵愾心を捨てずにいたから、対抗する有馬王子の存在を強くしなければ、直接ウィジャに刃を向け父・武王の敵を討ち、王座を狙おうとすることも想定された。

 

唐を背後に新羅と交戦中だったウィジャ王は、和国での権力争いや派閥争いなどを生み出している場合ではなかったので、

 

(派閥が生れる前に、逆にこちらから派閥を作り出して統制していくしかない)…

 

と、この様な諸刃のやり方を選んだ。

 

 

 

【挿絵表示】

ウィジャ王

 

 

ウィジャ王は、蘇我石川倉麻呂と阿部内麻呂の左右二人の大臣を置くことで足元の序列を固め、和国にいまだ残存している、王家と有力部族が同列的であった古い部族連合意識を無くさせ、王家の下に、臣下との主従関係を作ろうとしていた。

 

そして、和国の構造改革の後に続く

 

「百済・高句麗・和国」

 

三国連合国家の樹立を目指し、唐と戦う大国建国への道を着々と思案しはじめている。

 

今や和国・百済の両国の王となり、高句麗にはウィジャ王の息子・宝蔵王が君臨している。

 

そして後は、新羅さえ従えさせれば朝鮮半島と日本列島に『覇』をとなえることができる。

 

大望を描くということは、

 

「東海の曾子」「孝徳の王」とまで言われたウィジャ王にとって欠かすことのできない心がまえだ。

 

王子時代のウィジャは、親唐派の栄留王によって高句麗を追われ和国へ亡命し、和国では親唐派の蘇我氏の暗殺から逃れて百済にまで渡った。

 

元々は高句麗の嬰陽王の王子だったウィジャ王が、和国・百済両国の王となった今、高句麗の権力に野心がない訳がなかった。

 

「息子の宝蔵王に命じ、イリを高句麗の宰相から外させれば、、高句麗は後はどうにでもなる」

 

ウィジャ王には、

 

「百済・和国・高句麗」三国連合国の夢は、そう遠くないように思えていた。

 

 

 

一方

 

イリは思う、

 

(血が繋がっているだけという親子よりも、 我ら義理の親子の絆は固い)

 

宝蔵王も、

(血が繋がっているだけの父親が今さら何だというのだ)、と、思っている。

 

ウィジャ王が思っているほど、息子の宝蔵王は父ウィジャ王に対しての思い入れは無い。

イリのおかげで王位についた今でも、子供の頃自分が高句麗に置き去りにされてしまった事は悔しいと感じている。

 

宝蔵王は実際、ウィジャ王より義理の息子イリとの絆を大切にしていたし、イリも実の父・高向など(たまたま父親という存在)という遠い親戚程度の関係にしかみておらず、或いはそう捻じ曲げて自分に言い聞かせていて、義理の父・宝蔵王との絆を、自分という存在の根であるかの様に大切にしていた。

 

イリと宝蔵王親子の義理は、

 

(いざ事あれば、実父を捨てる)という、

 

心がまえがあり、

 

ただその一点だけで、ウイジャ王が望む連合国樹立への力動的均衡は既に崩れてしまっていた。

 

逆にイリもウィジャ王を警戒し、

 

高句麗をウィジャ王の思いどおりに連合させようとは、思っていない。

 

ウィジャ王の描く三国連合国にも冷やかであり、

 

(ウィジャ王についていけば、唐軍のとの戦で利用され行く末は高句麗が犠牲になるだけだ)、と

 

宝蔵王もイリも思っている。

 

ウィジャ王は、和国の統治と新羅への介入へ意識が向き、そうしたことにはまだ気がついていなかった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

ウィジャ王の和国統治は、和韓諸国への先駆けとなる試行的取り組みである。

 

中国に統一王朝が誕生したことによって、周辺諸国は今までにない大軍に脅かされるという脅威に改めて直面するようになった。

 

一丸となって戦うことが難しい古い「部族連合体質」からの脱却は、東アジアの和韓諸国が抱える共通の課題だった。

 

部族長たちはそれぞれの利益と危険を考えて兵を出し、その為に派閥や軍閥が生じてしまうことで、常に一枚岩になって国が全力をあげて戦うことができず、また出兵を拒む部族は、敵側からの攪乱や切り崩しの工作を受けるかっこうの対象となっていた。

 

軍派閥は自国内にも敵を生む為、国は弱体化することが多い。

 

大国はこうした危うい過程を乗り越えてきたからこそ、大国なのであり、逆にこの様に小国を切り崩すことには長けていた。

 

唐の太宗皇帝は、李靖将軍が暴走したことをきっかけに軍改革を行い軍閥化を防ぎ、門閥(与党)貴族と寒門(野党)との均衡に常に心を配り国内の安定化を図っていて、辺境国の部族連合軍に比べ遥かに越えた次元で国をまとめ戦っていた。

 

 

まだ、国内の派閥争いや隣国との衝突程度の戦で「部族軍」だけでも生き延びることが可能だった時代は、諸国の有力部族達それぞれが軍を率いる連合によって敵と戦い、戦いによって各部族たちが求め得るのは恩賞などでなく、もっと直接的な部族にとっての利得のみを目的としていた。

 

時代が変わっても、和韓諸国の部族達のそうした権利意識は容易には変わらない。

 

大軍を起こして国が一丸となって戦うことのできない、

 

「乱世にはおよそ不向き」と、

 

云われる古い部族連合体質のままで乱世をむかえてしまっているのだ。

 

古くなってしまった虚構を捨て、乱世を生き延びる新しい国家へと軸足移動できない部族や国は、滅びてしまうかもしれない。

 

百済ではウィジャ王が有力部族達の

『政事厳会議』の停止に動き、八大部族らの影響力を押さえていたが、土地制度に改革課題があり、百済37郡を有力部族らが分かっていた。

 

高句麗でも宰相イリが強引に五大部族を押さえたので反唐に治まってはいたが、五大部族達の私兵に対する統制権をイリが行使するだけであり、まだ抜本的な構造改革は進んでいなかった。

 

高句麗は、王族である「桂樓部」を中心に、絶奴部、肖奴部、順奴部、権奴部らに分かれそれぞれ所領と部民を有していたが、多民族系の国家である。

 

扶余族に始まり、安息族、鮮婢族等の部族らが同化し、強さと繁栄を誇った国であり、イリが少しでも油断をすれば彼らの巻き返しを受けることは明らかだった。

 

 

和国はウィジャ王が有力部族達の私有地・私有民を取り上げる大化の改新を実行し、「班田収受の法」という先進的な施策を試みたが、新羅はそれよりも早くから農民(国民)に土地を与え、国軍を持つということを実行していた。

 

新羅でも有力部族の力は残存し「和白会議」という部族達の決定会議がまだ残っていたが、ずっと百済・高句麗に攻められ続けていた新羅では早くから兵部を設置し正規軍ではないが「花朗」ファランという直轄兵も配備されていた。

 

 

その一方、

 

新羅は裏では40年もの間、『ミシル』という巫女がその実権を握り続けてきていた。

 

 

ようやくそのミシルが没し、束の間の安寧がもたらされたが、後に高句麗が唐の侵攻を跳ね返し和韓諸国が全て反唐となり、唐の臣国だった新羅は周辺諸国の猛威にさらされることになってしまった。

 

そして、今では新羅全ての有力部族達の私兵を国軍として編成しなければ防衛できないほどの危機に陥っていた。

 

その危機的状況で、女王側に私兵を止む無く奪われてしまって力を有さなくなった「元有力部族」達は、

 

不安に駆られ、

 

(ミシルの後継者ピダムしかいない)と、

 

ミシルの勢力を受け継いだ後継者のピダムという者を頼り派閥をつくって

「反女王派」の勢力となり、金春秋を筆頭とする「女王派」伽耶勢力の金一族と対立し、新羅を二分していった。

 

 

ピダムは司量部令という諜報活動を担っている。

 

ピダムも、金春秋も、お互い新羅の影の実力者ミシルに廃位されてしまった先々代の王「真智王」の血統同志で、王位継承権の無い王族【真骨】である。

 

真智王の孫の金春秋は、金一族の金ユシンと義兄弟となり伽耶勢力に支持されている。

 

真智王の子のピダムは部族勢力に担ぎ出されていた。母はミシルでありその勢力を受け継いでいて伽耶勢力に続く勢力である。

 

ミシルはただの巫女ではない。

 

新羅は自ら「神国」と名乗っている国だった。 

 

それは神の血統を保持している唯一の国であるという自負からであり、母系血統を大切に継いできたからに他ならない。

 

巫女というより神統血女である。

 

「大元神統」という血統で、権力者は大元神統の純粋血統であるミシルと結ぶからこそ王となれる。ミシルと結ばなかった王が廃位されたのも当然だった。

 

王の血統である女王と金一族、

神の血統であるミシルと部族たちの対立は、

 

ミシルが没したことによって熾烈な後継者争いという内訌に繋がっていった。

 

神の血統のミシルの子ピダムが、王の血統の女王と結婚し、新羅の権力を継いでゆこうとするのは当然の成り行きであった。

 

女王を囲い込む様に奉戴する金一族から、

 

女王を切り離して夫になろうとするピダム、

 

善徳女王には子が無く【聖骨】という正統後継者がいなかった為に、ピダム側は殊更に女王との婚姻を迫っていた。

 

 

【挿絵表示】

ピダム

 

 

 

伽耶勢力は、新羅に吸収された旧任那の部族達で、新羅ではずっと差別され冷遇されてきたが、金春秋の義兄・金ユシン将軍は新羅一の武将であり、新羅の防衛になくてはならない存在になっていた為、ミシル没後は伽耶勢力側も女王を奉戴し金ユシンを中心にその勢力を着々と伸ばしていた。

 

百済に攻められる度に、金ユシンは大将軍として出陣し家に帰る間もない程戦い続けた。

 

部族らの私兵でも、一軍となって新羅を守る為、戦い続けていれば金ユシンの下にも連帯感が生まれる。

 

危機回避的な緊急措置とはいえ、私兵廃止によって力を奪われた各部族達は、

 

「このまま軍部に力が集中していけば、伽耶勢力の金一族に新羅が奪われてしまうのではないか」

 

と懸念し、排除を口にする者も出始めてきた。

 

部族長らは秘密裏に集まり謀議を重ねた

 

「吾らの私兵が国軍に駆り出され久しい。なんとかしてら取り戻さねば金ユシンらを討つことも出来ぬ」、、

 

「否。それは無理だ、、今、金ユシンが国軍兵を失えば、新羅はあっという間に百済の領土になってしまうだろう。」

 

「それは分かってる。その有り様だからこそ、新羅は唐の臣国となり救援を求めてるのではないか、、」

 

「だが、唐が新羅の為に援軍をよこした事はない。新羅を高句麗との戦に駆り出すだけだ。その上、男王を立てなければ助けぬとまで言って来ている。ここは、唐の要求どおりに唐の王族から婿を頂き、唐の力で金ユシンらを打ち払うしかないのでは、、?」

 

 

、、

 

「いや、、それはいくら何でも無理だ。その様なことをすれば吾ら『神国』新羅の神統が穢れる。それに、金ユシンを討つため唐国の王を迎え入れるなど、狼を払い虎を招き入れる様なものではないか」

 

「ならば!、、男王はピダムしかない。」

 

「うむ、しかしピダムを王に擁立したとしても、どうやって唐へ冊封を願い出るかだ?今の吾らは遣唐使を送る事など出来ぬ。

 

やはりまずは、金ユシンらを倒さねばならぬ、、

 

話しが巡るがどうやって金ユシンを討つ?」

 

「唐の加護を期待せず、新たに私兵を雇い吾らだけで金ユシンを倒そう。流民や百性の中から人を集め、調練して兵士にするしかない。その分時間は掛かるが、他に手立てがない、、」

 

部族長らは、密かに金ユシンらを討つ『新たな』部族軍の編成に動きはじめた。

 

 

 

四年前、

 

新羅は、百済ウィジャ王に40余城を落とされ高句麗と百済から党頒城を攻められ唐に救援を求めたが、

 

太宗皇帝より

 

「助けて欲しければ男王を立てよ」と、

 

牡丹の絵を送られ女王を否定されて以来、

 

私兵を奪われて憤りを感じていた部族長らは、皆「反女王派」に靡き、

 

「唐からの援軍を期待する以上、女王廃位はやむを得ず」

 

との意見を声高に上げ続けてきた。

 

是を殊更に宮廷で言い騒ぎ、

 

地方に潜伏させ、調練を密かに続けている部族軍の存在から注意をそらした。

 

 

女王を奉戴している金春秋・金ユシンらはこの女王廃位の動きは阻止しなければならなかった。

 

奉戴、、というよりは人身御供に近い扱いである。

 

「ピダム側は女王との結婚を認めぬなら女王を廃位せよと迫りくる。どうする?

 

金春秋を立太する前に廃位されてしまったら、新羅王座は大元神統へ明け渡さねばならないのか…?」

 

 

女王派の金ユシンやアルチョンらは、ピダム側の対抗手段に困っていた。

 

新羅という国は、大元神統の血統を入れなければ王位につくことは難しい。

 

もしも大元神統を入れずにその様な事をすれば、真智王の如く排除されるか、権簒奪者としての攻撃を受け新羅が内乱状態になることは必然である。

 

既に部族らが新たに兵を雇い入れ訓練し、攻撃準備をしてる疑いがあるという情報が金ユシンらにもたらされている。

 

「もはや、内戦は避けられぬか、、」

 

金ユシンらは、百済側からの攻撃に曝されながら、如何に内戦にも勝利するかという難しい瀬戸際に立たされていた。

 

 

 

 

 

【新羅・高向の暗躍】

高向玄里は、極東の親唐政策を担わされていたにも関わらず、息子イリの暴挙を抑えられずに、唐・高句麗戦争のきっかけとなった、栄留王殺害事件が起きてしまった。

 

以来、高向は唐に見限られ、唐の後ろ盾を失ったうえ、百済・和国・高句麗三国が反唐一色となり居場所がなくなってしまい、和国での命運もつきかけていた。

 

アジア世界最強の軍隊といわれた唐軍の進撃を高句麗が撃退して以来、三国の対唐政策は強行に転じて政治家の高向玄里の存在は必要とされなくなっていた。

 

今のところ、和国での新しい体制づくりには政治知識の豊富な高向玄里がまだ必要だったが、用が済んでしまえば、その後はどうなるかさえ分からない。

 

知識だけが必要とされ「国博士」という何の権力もない地位の高向には未来がなかった。

 

ウィジャ王の元では野心を望めなくなった高向玄里は、巻き返しを謀り、親唐国の新羅を通じて唐を動かして百済へ圧力をかけ、ウィジャ王を百済へ追返そうと考えた。ウィジャ王を百済に追い払えれば、宝妃を和国女王に擁立する機会も巡ってくるかもしれない。

 

今は無力になってしまったが、高向は、

 

(上宮法王の娘である宝妃がこちら側についてる限り、なんとかなる)と、思っている。

 

646年、7月になり百済・新羅からの御調使いの使節が来和してくると、

 

高向はウィジャ王に対し、

 

「百済に中臣鎌足総督、高句麗には宝蔵王、そしてウィジャ王さまが和国の王となった今、残るは新羅を帰服させるだけです。東アジア統一のため、新羅・金一族と旧知の間柄である自分を帰服を促す使者として新羅に派遣して欲しい。」

 

と願いでた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

高向はそうした外渉と工作だけで、身を起してきた者であり、ウィジャ王は高向を使者とすることには懐疑的だったが、その分高向への要求は強くし、

 

「新羅に交渉に行く以上は必ず王族より人質を出させろ!」と厳命した。

 

そして、和国と百済、両国の王であるウィジャ王は、まず百済・任那からの和国への調使いを止め、新羅との通交を求めた。

 

ウィジャ王は、

 

「任那地方は既に百済領となった為、新羅からはもう任那と称しての和国への調使いは必要ない。」と、

 

改めてそのことを新羅王室へ伝える様に高向に命じた。

 

これは、百済が任那地方を新羅から奪って領有したことをわざわざ強調して屈辱を与えるためで、その時の戦で、大伽耶城の娘夫婦を殺されてしまった金春秋の感情を逆なでする行為でもあり、高向は難しい命令を課せられてしまった。

 

通常の使臣は、必要以外のことを伝えないが、更に要求があるときは相手国の気に障ることをわざと言うこのような心理戦が用いられた。

 

新羅に敗戦国としての意識を持たせて、和国へ人質を出させようとするウィジャ王の支配的な物言いである。

 

 

646年9月、

 

ウィジャ王は高向玄里を新羅へ派遣する。

 

新羅では度重なる百済や高句麗の侵攻に対して、もはや女王ではなく男の王を立て対抗すべきだとの声が上がり、善徳女王側の金春秋・金ユシンらと、朝廷側の有力部族達の執行機関「和白会議」との対立が深まっていた。

 

唐の太宗皇帝は「女王でなく男性の王を立てよ」と指示し「新羅の王に唐の皇族をおくる」とまで言ってきた為、

 

(唐に介入にされるぐらいなら)と、

 

ピダムは自ら善徳女王の入り婿となって新羅の王につこうとしていた。

 

ピダムは先々代の新羅王である真智王とミシルの間に生まれた子であり、善徳女王の父・真平王の父である銅輪の義兄弟にあたる王族であるが善徳女王とは血は近くない。

 

ミシルが真智王の皇后となり、ピダムはその皇子の地位をえていたはずだったが、真智王はミシルの擁立により王位についた後、ミシルを皇后にはしなかった。

 

ミシルの従妹で同じ大元神統だが嫡子ではないチドを皇后とした。

 

真智王は【大元神統】という血統聖母に対しての理解が浅はかで不遜であり、大元神統の血統で煩いミシル以外の者であれば誰でも良かったのかもしれない。

 

怒ったミシルは真智王を廃位に追込んで、真智王の甥の「真平王」を即位させてしまった。

 

そのため、真平王の世ではピダムはずっと日陰者として忍ぶように生きてきた。

 

ミシルも真平王もなき今、陽の当たる所で自分をもっと伸ばしていきたい。ピダムに与えられた諜報組織も、影にまわる役割であったため

 

「陰陽逆転の好機である」、と、ピダムは考えていた。

 

「女性の身で1人で国を治め、列強と渡り合っていくことは難しいですから、どうか私を共に新羅を支える相手として選んで下さい」

 

と善徳女王を説得し、

 

共に新羅を支える女王の夫=王の地位を望んだ。

 

神統の女性に、権利者が婿入りし王になるという新羅の伝統的なやり方に対し、男性と女性の立場が入れかわってしまっているが、血統を継いでいくという事には変わりはない。

 

 

【挿絵表示】

善徳女王

 

男王は、一度に何人もの姫を娶り、何十人もの妃に子を産んでもらうことができる。ウィジャ王には、王子だけでも50人の王子がいた。

 

しかし、女王はその様に一度に多数の婿をとって沢山の子を産むということはできない。

 

この時代、女性が生涯で産める子供は10人程度である。

 

和国の女王の様に、王が変わり、夫が変わり、生涯何人もの夫を持つことはあるが、一度に婚姻を結ぶのは必ず一人だ。

 

一度に多数の夫を持つことができないだけに、どの相手と結ぶかは慎重にならざるを得ない。

 

誰かと結んでしまえば、結ばなかった勢力を失うことになり、善徳女王は国力の分散と唐の王室乗っ取りを恐れ、結局誰とも相手を決められずにいた。

 

乱世でなく何事も無ければ、神の子孫ピダムと王の子孫善徳女王の婚姻は有り得たかもしれない。

 

しかし、内戦勃発の危険をはらみ反唐国から侵攻を受けている今、金ユシンらの勢力との対立は新羅を崩壊させ兼ねない。

 

操り人形の様にすえられた善徳女王であったとしても、国を守る為の苦悩はあった。

 

そもそも、聖骨の女性とは斎宮のように(斎宮=部族の繁栄の為、宮に入り神に使える巫女)未婚のまま生涯を神に捧げる様な存在である。

 

善徳女王は、誰とも婚姻を結ばず生涯独身を貫き、新羅の伴侶であろうとする。

 

そして、仏教に傾倒していった。

 

竜宮の南の皇龍寺にアジア世界を模した

「九重塔」を建立して、争いから身をかわすかの様に斎宮の如く引きこもり、周辺国の侵攻を鎮め新羅の民が安祥であるようにと慈しみの祈りを捧げ続けていた。

 

 

その様なとき、新羅に渡ってきた高向は、この状況を利用し少しでも有利な工作を行って失態を雪ごうとやっきになっていた。

 

新羅入りした高向は、王都ソラボル(韓国ソウル)で正式な挨拶を済ませる前に、まず新羅の金一族のもとへと立ち寄った。

 

何か政治工作を企むときの高向の行動は早い。

 

高向玄里は旧知の間柄である、金ユシンの館へ案内されたが、そこには高向によって夫のイリを高句麗へと連れ去られてしまった鏡宝姫とその息子・法敏がいた。

 

高向にとって法敏は孫であるが、長じてからはこの時初めて対面する。

 

離別以来である。

 

「大きくなった」と、笑みを浮かべ高向は、

 

心にもない言葉をかけながら法敏の人相を素早く読み取り、政治的利用の選択肢を考えていた。

 

息子であるイリはもはや思うままにならない為、今度は孫である法敏を如何に使うかに高向の関心は絞られている。

 

高向は、一本気で素直そうな少年に、息子イリの懐柔を委ねることにした。

 

高句麗に金春秋が軟禁されたとき、密かに金春秋がイリの息子・法敏を養育していることを伝えて放免されたように、イリにとっては息子・法敏は家族というものをはじめて感じることができた大切な存在であり、イリの猛々しく冷徹な武威の内側にある唯一のぬくもりである。

 

高向は法敏に、自分が祖父であることを伝えた。

 

法敏は驚いたが、高向玄理に対しては和国にいる遠い親戚のような感覚であり、まだ実感は沸かない。

 

和国からの使節である高向に対しては、

 

(さすが、金一族だ…)

 

と、思った。

 

和国にも金一族の里がいくつかあり、金一族は新羅だけでなく、和国にも隠然とした勢力があるということは少年ながらおぼろげに理解していた。

和国から来た高向の存在は、改めてその片鱗を見せられたようで、金一族の奥行きのように感じていた。

 

その後、高向は

 

金ユシン、金春秋らと密議をはじめると、

 

おもむろに

 

「法敏を正式に金春秋様の跡継ぎとして、イリをこちら側につけましょう」

 

と、提案を切り出した。

 

金春秋は、ウィジャ王に娘夫婦を殺されて以来、その恨みが先に立っている。

 

「ウィジャ王側についているイリをこちらの味方にできるのであれば」と、前のめりで食いつく。

 

いまや和韓諸国のみならず、大国唐でさえイリの武威には一目置いている。イリと高句麗の武力を後方支援に置けるのならば、優位このうえない。

 

金春秋も新羅の王族である。実子の法敏を金春秋の養子(元子)とすることは、イリにとっても悪いことではない。

 

新羅女王にもしものことがあれば、継承権のある聖骨がいない為、金春秋かピダムによって王位が争われ、また唐から使わされた唐の王族が新羅王位につく可能性もあった。

 

イリの息子金法敏と金春秋、ミシルの子ピダム、唐の王族、三つの勢力で新羅の王位が争われるのであれば、高句麗の宰相としてではなくとも、イリにとっては全力で金春秋の擁立を支援したいはずである。

 

また法敏を金春秋の後継者としてイリから離しておくことは、体の良い人質にもなる。以前、金春秋が高句麗に軟禁されてしまった時も、法敏を引き合いに出し解放へとつながったのだ。

 

高向の考えは、和韓連合国の新たな構想へと進んでいく。

 

孫の法敏と金一族を使い新羅を制し、法敏を皇太子とすることで息子イリを抑え、新羅と高句麗の力を背景に和国へ圧力をかけて、宝妃を和国女王に擁立し、自分はそれを傀儡として実権をにぎる。

 

(ウィジャ王さえ百済に追い払えば、不可能ではない)・・・

 

ウィジャ王が夢見る「三国連合国」とはまったく異質の、

 

「新羅・高句麗・和国」の三国連合国が、高向の頭の中にふつふつと沸きあがった。

 

高向の孫法敏の新羅、

高向の息子イリの高句麗、

高向の元妻宝皇妃の和国、

 

やりようによっては、それぞれの権力に手が届くつもりでいる。

 

 

 

(まずは法敏をこちら側にしっかりと、つながなければならない)

 

 

高向は、周到に法敏との距離を詰めていった。

 

法敏と話す毎に、隋と唐、高句麗、和国の様子など新羅では耳にすることの無い様なアジアの出来事を度々、語った。国際政治家として大陸を奔走してきた高向の遊舌に、思春期の一本気な少年は夢中になっていった。

 

 

高向玄里には、あまり家族に対する境界線というものが無く、子供や妻も、自分とは別個の独立した人格を持つ存在だということを尊重せず、自分の手足か道具くらいにしか考えてない。

 

自分の野望の為に、

 

「手足や道具をどの様に動かすか」

 

といった具合で考えて、粛々とそれを実行する。

 

 

突厥族などの、寵愛している妻を相手に差し出すという習慣は、最も大切な人をおくるという意味であり、大切な存在であればあるほど相手への畏敬をしめしている。

 

しかし、高向玄里はそうした大切な意識さえ踏みにじるかの様に、何の思い入れも感じずにいともたやすく己の野心のために家族を使う。

 

高向は、新たな切り札である法敏を掌に乗せ、

 

邪魔者であるピダムの追い落としにかかった。

 

 

 

【新羅・ピダムの乱】

高向は、和国ウィジャ王からの使者として王都ソラボルの宮廷へ行き、

 

新羅に対して、

 

「任那地方はもう百済領となった為、新羅から任那と称しての和国への調使いは必要ない。」

 

という口上を正式に伝えた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

そして、新羅との通交を求め、

 

「新羅が和国へと帰服し、和国のウィジャ王のもとへ女王様が参るならば、新羅を攻撃せずに和平を結ぶ」

 

とした。

 

これには、金春秋だけでなく、新羅の宮廷は反発し列っしている諸臣からは怒号が溢れた。

 

、、高向は

 

「女王様に変わって金春秋が参行することです」と

 

続けたが、

 

「たとえ和国と百済から挟撃を受ける事になろうとも、是は受け入れざること!」という主戦派と、

 

「唐との二面外交にして和国にも帰服の姿勢をとるべきであろう」という穏健派で

 

意見が分かれて収拾がつかなくなってしまった。

 

穏健派といえば、平和主義者の様に聞こえるが、この場合は、戦の為に私有民や私兵を犠牲にされたくない非戦派の部族達である。

 

部族長らはそもそも、女王の存在にも肯定的ではない。

 

「女王派の実力者の金春秋が和国に人質に、、」という事は当然の是であり、天下の蒼生や国の勝ち負けよりも前に、部族の存亡がかかっていた。

 

「聞けば、和国の改新とやらでは、私兵を差し出すと本領安堵で民は与えられ、その上新たな官職と地位が保障されるというぞ!」

 

「新羅の様に、なんの保障もなくただ私兵を奪うだけでは、吾らに死ねということではないか!」

 

と、ピダムを担いでいた部族達の間では女王に対する不満が高まってきた。

 

 

 

ピダムは金ユシン・金春秋と反目していたが、元々は女王側についていた者である。

 

以前、善徳女王が病で倒れた時、ピダムは傍にあって、

 

「和白会議の部族との対立は負担が大きすぎます、私が女王に代わって和白会議を制止します」

 

と、女王に提言した。

 

 

【挿絵表示】

ピダム

 

善徳女王は、新羅を支えるためにピダムとも、他の誰とも結婚する気はなかったが、そうした役割であればとピダムの案を容れた。

 

ピダムは、直ぐに女王の夫になることはあきらめて、女王派の有力者として信頼を得ようとしていた。

 

そして、女王に対しての信義に基づく誓約を誓い、上大臣の位を与えられ、部族達の決定機関「和白会議」首座に就任した。

 

ところが、女王に代わって各部族らを抑える為に和白会議の首座に就いたはずのピダムだったが、今では女王を裏切り、部族達におされるままに旗頭となって女王の退陣を要求するようになってしまった。

 

これには、女王からピダムを切り離そうとする高向玄里の暗躍が早くも働いていた。

 

ピダムが和白会議に就いた時には既に

 

『女主不能善理』(女王では国は治められない)と、

金春秋・金ユシンの傀儡となりつつある女王を廃し、唐の要求に応え男王を即位させ、唐に援軍を請うべきだという「反女王派」の意見が強かった。

 

そこへきて高向玄里は、

 

ピダムが唐と女王排除の密約をかわしている密書を偽造し、女王の目に触れるように画策した。

 

唐の密書の偽造は、唐の手先として動いていた高向にしかできない。

 

高向玄里にとって、女王は金春秋、金ユシンの側で無ければならず、絶対にピダムを近づける訳にはいかなかった。

 

 

高向の離間策は見事に成功し、ピダムが唐の女王排除に協力するとした密書は女王の知るところとなって、女王側はピダムに対し疑心暗鬼になっていった。

 

そして、疑われたピダムは女王から遠ざけられてしまい、

 

「もはやこれまで、」と、女王を見かぎって

 

女王廃位の強行策に転じて自らが王位に就こうと考えはじめた。

 

新羅での高向は唐の代理としての表見がかろうじて残っていた為、ピダム側の朝廷部族らに対してもその様に振る舞い、

 

「唐の実力者・長孫無己氏を通じて、ピダム王位の冊封を働きかける」などと騙し、

 

反乱をたきつけていった。

 

「高向王の言うことを、そのまま信じて良いものか、、」

 

「確かに謎多き者、、だが、信じるも信じぬもない!吾らは唐に繋がりを持ってなく、遣唐使を送ることも出来ないのだ。絶妙な機会に現れた唯一の唐との繋がりだ。例え偽りであったとしても、吾らはピダムを王に立てる以外に道はないのだ、、」

 

部族長らは、高向の言葉に懐疑しつつもピダムを擁立し唐の冊封を受けんとする案には飛びついた。

 

 

不満がくすぶっていたピダム側の部族達は、廉宗らを中心にピダムを担ぎ上げ、女王廃位を強行に訴えるようになった。

 

ピダム自身は、まだ強行には慎重であり、新羅の力が二分され国力が失なわれる事を憂慮していたが、高向に煽動された部族達の勢いは、ピダムにも抑えが効かないほど過激になっていった。

 

 

一方で、高向は、

 

「ピダムは強引にでも善徳女王の夫となり、王位につくことを狙っている」と流言を流し、女王派の金春秋・金ユシンらを慌てさせた。

 

ピダムの存在をいよいよ警戒しはじめた金春秋らは、ピダムを押さえる為に女王の皇太子を擁立することにし、善徳女王の妹である聖骨の真徳妃を皇太子にしようと動き始めていった。

 

新羅の金一族の権勢にあやかろうとする高向は、ともかくピダムが邪魔であり、和国ウィジャ王の圧力で反応する部族もろとも片付けるつもりでいた。野望の為には犠牲を払ってでも邪魔もの共を破砕し、金一族の権威を不動のものにしなければならない。

 

 

エフタル族の真興王(宣化将軍)に攻め滅ぼされ任那が新羅の領土となって以来、金一族をはじめ任那地方出身の伽耶部族達は、新羅の中で、差別され弾圧され、冷遇され続けてきた。

 

新羅エフタル族の真興王(宣化将軍)没後のエフタル政権は次第に弱まり、今では将軍・金ユシンの戦闘力なくして新羅国境の防衛は敵わず、新羅の危機は金一族が武力で新羅の実権を握る好機となった。そして、女王を推戴するようになり金一族を筆頭とする旧任那の伽耶部族たちはようやく力を盛り返してきていた。

 

 

この状況に対し、任那を領有していたウィジャ王は、伽耶部族に向け、

 

「新羅王室につき我らに攻められるのが良いか、我ら側につき任那へ返り咲くのが良いか選べ」、

 

と高向玄里を通して、強気な働きかけをしてきた。

 

新羅は、百済、高句麗が当面の敵だったが、百済のウィジャ王が和国王となってしまったことで、新たな挟撃の脅威にさらされている。

 

ウィジャ王は、更に伽耶部族に対して、

 

「80年間、伽耶部族達は新羅王室に不遇に扱われてきた。差別され、不当な税を新羅王室に搾取されてきた。それを新羅王室に代わって伽耶部族たちに還すので、いま任那地方を望むのなら和国に参向するように。」

 

と、任那を餌に促す。

 

任那出身の部族らは、もはや任那の地を失った新羅の部族ではなく、任那のある百済・和国側の部族となれということである。

 

ウィジャ王は任那地方を領有したことで高向を使って任那出身の伽耶部族らを押さえ、新羅へ匕首をつきつけるつもりでいた。

 

 

ところが、高向玄里は既に金一族側につき、内心ウィジャ王を裏切っていた。

 

金春秋も、ウィジャ王の強気な要求に更に憎しみは増し、イリの息子・法敏を跡取りとしてでもイリとつながりを強めて、ウィジャ王に復讐する気になっている。

 

(任那地方はウィジャ王に与えて貰わずとも、新羅を制し唐の後方支援を受け奪い取る)

 

と、高向は思っていたが、

 

表面的にはウィジャ王には逆らわずに、言われるままに動いてみせた。

 

 

高向は、ウィジャ王の思惑どおり、さらに混乱を激化させるための工作を双方へ次々と行っていく。

 

新羅は百済・高句麗と交戦中で、常に国境に兵を配備し続けなければならず、とても大きな内乱を起せる様な状態ではなかったが、ウィジャ王は百済との国境地帯を切り取るのはここぞとばかりに、内戦を煽って国境の兵を首都ソラボルに集めようと躍起になって矢継ぎ早に高向に指令を送っていた。

 

ピダムも、金春秋ら女王派が真徳妃を皇太子にしようとしていることに怒り、女王側金春秋らとピダムとはもはや抜き差しならない不和となってしまった。

 

ピダムに対し、力づくでの王位簒奪を勧める部族長らも増え、ウイジャ王の望む大乱が内部で起きつつあった。

 

高向の企みは、百済和国・両国の王となったウィジャ王からの圧力を利用し、新羅の部族らに反発させて一気にピダムと部族どもを叩いてしまおうというところにある。

 

ピダム側の部族の反発は、危険なことではあるが、

 

高向は、

 

(弱体化した部族どもに勝ち目はない)と、

 

思っていた。そして、

 

「勝てる」と思わせ、ピダム側の部族らが挙兵を考えるまで煽動を続けてきた。

 

ピダムは容易に反乱など起こすような者ではなかったが、行き詰まった部族達を煽動することでようやく火の手が上がりつつあった。

 

国際人の高向には、母国と呼べるほどの国がなく、他国への工作には容赦がない。

 

漢王室の末裔といえば漢が祖国と呼べるかもしれないが、いずれにしても高向にとっては、新羅も高句麗も他国の一つでしかなく、企んだ動乱が失敗し国がどうなろうとも、結果的に自分の命さえ助かっていればよいのである。

 

 

そして、いよいよ百済からはウィジャ王の内臣・中臣鎌足総督が王命を受け新羅入りしてきた。

 

鎌足は

 

「ピダムを裏から支援する」と

 

反女王派の朝廷部族側にもちかけ接近する。

 

ここで、高向は下がり、金春秋側へと身を引き真徳妃の立太子に動いた。

 

鎌足の内政干渉によって、新羅王都ソラボルは混乱し沸騰しはじめた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

百済総督【中臣鎌足】

 

 

 

647年正月、

 

宮廷にて真徳妃の立太子礼が行われた。

 

 

これを認めない反女王派のピダム側部族らは、とうとう挙兵し実力行使に出る。

 

私兵廃止により、憤っていた部族達はあらたに兵を集めて立ち上がり、

 

「女王に任せていては新羅は守れない!」と、

 

女王の廃位をを訴え、大徳山に陣を起し王都ソラボルの女王の居る月城へ兵を向けた。

 

緒戦は陽動作戦で、反女王派のピダム側が勝ったが、女王側の金春秋・金ユシンらは夜襲をかけ、翌朝には決着がついていた。

 

所詮、千軍万馬の勇将・金ユシンの敵ではなく、ピダムは処刑され善徳女王もこの戦の中、命を落とした。

長期化せずに決着がついた為、ウィジャ王が望んだほどの内戦もなく国力を大きく削がれるには至らず、反女王派の部族側が負けたことによって、新羅の古い部族体質は瓦解した。

 

 

ピダムは何に絡めとられたのかも分からず、部族達に担がれるままに反乱を起こしたが、結果的には高向の企みどおりピダムらを排除する陰謀は成功した。

 

新羅の趨勢は金一族に傾き、金ユシン金春秋らは傀儡となる皇太子の真徳妃を王位につけた。

 

 

 

 

【新羅滅亡の危機】

647年ピダムの乱の後、

新羅は唐に善徳女王が崩御し、真徳女王が即位したことを伝える使節を唐に送らねばならなかった。

 

真徳女王の新政権は、ピダム派(旧ミシル派)の部族らが一掃され、金春秋宰相、金ユシン大将軍、そして古くからの女王派の中核であったアルチョン大臣らの新体制となっていた。

 

真徳女王は彼らの傀儡であり、女王が即位したばかりの新羅政権は、目の前の危機の対応に追われている。

 

「今は、二面外交しかありません。金春秋様が和国のウィジャ王のもとへ上洛し帰順の姿勢を見せるべきです。」と、

 

高向玄理が、結論から述べた。

 

金春秋、金ユシン、そして女王派のアルチョン大臣も卓を囲みその場に座っている。

 

アルチョンは高向の存在は面白くはなかったが、金春秋の独断も癪にさわるので、高向の意見も入れる為に真剣に話しをきいている。高向との密議は、高向が唐から和国への使者を伴い新羅に立ち寄り和国蘇我政権と唐との仲介を担った時以来である。

 

唐に身限られた高向玄里が、今も果たして親唐なのかは分からないが、少なくとも唐の臣国である新羅の方が唐の手先として動いていた高向には馴染みがあり、唐の出方が分かる高向にとってくみしやすかった。

 

 

先年、新羅は太宗皇帝に命じられ唐の高句麗攻めに参戦したがその際に百済からの攻撃を受けて城を奪われてしまっていた。

しかし唐は、高句麗を滅ぼしたいのであって、新羅を助ける為に百済を攻めるということはない。

 

救援を求めたところでまた

 

「唐の皇族をおくるので女王でなく男王をたてよ」と、介入の機会を狙ってくるだけである。

 

しかし、今これ以上、領土を切り取られたら新羅は消滅してしまう。唐と高句麗の戦よりも、なんとしても百済と和国の侵攻を防がなければならない逼迫した局面であった。

 

和国のウィジャ王は間もなく大化の改新を終えて、和軍を動かしてくるかもしれない。もしも今、両国からの挟撃を受ければ、唐が高句麗を滅ぼすより前に、新羅は跡形もなく無くなってしまうであろう。唐の後ろ盾は必要だが、今は百済と和国からの挟撃だけは回避しなければならず、例え二面外交であろうとも、和国のウィジャ王のもとへの参向もやむを得ないだろうと、皆、内心では思っている。

 

何れにせよ面従腹背である。

 

「唐の高句麗攻めに協力させられ、その隙に百済に城を奪われてしまった。唐は吾らを利用するだけで、助けようとはしない」、、

 

「そもそも、唐へ救援を求めようにも交通路は押さえられ使節の派遣さえままならないではないか・・・」

 

アルチョン大臣は嘆く。

 

新羅の北西の党項城は、唐と結ぶ航路の要所だったが、新羅を攻めない事と引き換えに通交の制限がされていた。南の任那地方も海路で唐へ向かうための要所だったが、既に奪われてしまっていて、唐との通交は分断され、新羅は百済・高句麗・和国に封じ込まれてしまっているような有様だった。

 

「それに、、和国への参向も安全ということでもないだろう・・・」

 

参向するべきといわれている金春秋は、頭では状況はわかっていても、不安が勝っている。

 

蘇我政権の頃の和国は、新羅と協力関係にあったが、百済のウィジャ王が和国王となった今では、はっきりと事情が違う。和国は新羅の敵国なのだ。

 

「ここは軍王とまで言われる強者のイリに協力を頼むしかないでしょう」と、高向は言い切る。

 

実力者イリは、ウィジャ王に野心を利用され協力してきたが、和国では不遇な扱いを受けて不満が鬱積している。那珂大兄王子の義妹・額田文姫を嫁にしたが、まだまだイリの立場は弱い。法敏を呼び水にして、和国から新羅側に乗り換えさせる余地はある。

 

「イリの実子・法敏を新羅の皇太子にしてでも、こちら側にイリを引き込み金春秋様に協力させるべきです。法敏が新羅にいることを好機ととらえた、最後の手段です。」

 

高向のあからさまなこの言い様に、

 

「法敏は、お前の孫でもあるな。それが最後の手段か」と、アルチョン大臣は不機嫌に口を挟む。

 

「しかし、イリと結ぶのは今しかありません。イリは、幸い高句麗にいます。法敏を後継者とすることでイリを味方にし、和国での金春秋様の安全を図ることと、唐に使節を送る時に高句麗からも安全を図って貰うよう協力を頼むべきです。」

 

高向の説得に、

 

(そんな話しができる訳がない)、と、金春秋とアルチョン大臣は思っていた、

 

それではイリに新羅を差し出すようなものである。

 

 

「吾が話しにゆく」、

 

金ユシンが口を開いた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「和国には上洛するにしても、まず唐へ使節を送らなければならない。真徳女王の即位の報告と共に、極東の窮状を伝えてなんとか唐に出兵して貰い、唐の出兵と同時進行で和国へ向かってウィジャ王を牽制してみてはどうであろう。」

 

ウィジャ王が強気なのは、百済・和国だけでなくイリや宝蔵王ら高句麗勢力が背後に控えているからであり、イリをこちら側に引き込めば高句麗を押さえるだけでなく、力動均衡は逆転して、ウィジャ王の強気も押さえられるかもしれない。その上、唐の出兵を背後にして来和すれば、強気なウィジャ王も目の前の金春秋の扱いを無碍にはできないであろうということである。

 

皆、固唾を飲み金ユシンの言葉に耳を傾ける。

 

「吾らは、イリに助けを求めようとも、唐に助けを求めようとも、引きかえに新羅を奪われてしまうようなことは絶対に避けねばなるまい。」

 

「高句麗の様に今の新羅が、唐の侵攻を跳ね返すことが出来るか?」

 

「否だ。だが、高句麗のイリの侵攻を跳ね返すことはできる。イリの戦闘力は強いが吾が、勝てないということはない。三国同時に攻められれば吾にもどうにもできないが、個々に兵を率いて討てれば必ず勝つ。イリに協力を求めようとも、吾の目の黒いうちは決して新羅をイリの好きな様にはさせない。」

 

イリが新羅で修業していた頃も、ファランの中では敵う者はいなかったが、金ユシンだけには絶対に勝つことができなかった。金ユシンの言葉は誇張された大口だけではなく、イリと立ち合った中での見切りが感じられた。

 

法敏を餌にイリと結ぶことで、イリだけでなく高向の影響力も増すであろうことは懸念されたが、新羅は進退両難の局面であり、結局、唐に使臣を送り出兵を請うと共に、和国のウィジャ王にも表向きは従い、二面外交を続けながら、その間に唐や高句麗のイリとの関係を強化するという方針が決定した。

 

 

高向玄里は、新羅を通じ、

 

「朝鮮半島から日本列島までがウィジャ王の体制下に置かれつつあり、和韓統一の危機的状況にある」

 

ということを唐国に訴え出て、なんとかウィジャ王を百済へ追い返したいと思っていた。

 

高向は、新羅の唐使節団への同行を頼んだが、それは新羅とっても高向にとっても危険なことでありできないと断られてしまう。唐は、高向に親唐工作を任せていたが、高向の失敗は到底許されることではなく、高向の存在自体に危険が及ぶと共に、高向を同行させた新羅に対しても不快感を持たれることになる。

 

使節団は、なんとしても唐の援護をとりつけ、善徳女王崩御と真徳女王の即位を伝えると共に、窮状を訴えて百済出兵の援軍を請うという使命をもって出立することになった。

 

 

唐への使節団の出立前に、金ユシンと高向は、新羅との国境地帯に密かに酒宴の場を設け、イリを呼び出すことにした。

 

イリの息子・法敏を正式に金春秋の跡継ぎにして金一族の筆頭としていくことと引きかえに、協力を求めるための交渉の場である。これによりイリは、高句麗の宝蔵王や和国王室の額田文姫だけでなく、新羅王室ともつながりを持つことになる。

 

背景となる血族集団がいないイリにとっては、決して悪い話しではない。

当然、イリが強力になりすぎる恐れもあったが、金ユシンの心中にはイリに対する恐れは一切なかった。

 

 

国境地帯へは、金ユシン一人で向かうことにした。

 

唐の太宗皇帝の言葉すら平然と撥ねてのけてしまうイリに対して、物言いができるのは、広大なアジア天下に金ユシンしかいない。

 

乱世に裏切りはつきものとは言え、反唐の血が濃いイリをウィジャ王側から切り離し、新羅と密約をかわすなど不可能なことのようにも思えた。

 

しかし、今の新羅の置かれた状況では、何もせずに守勢を保っているだけでは危険だった。

 

金ユシンは、新羅と高句麗の国境地帯で会盟しようという密使を、高句麗のイリの元へと送った。

 

 




後書き

主なこれまでの参考資料
【文献】
※古代天皇家と日本正史/中丸薫
失われた日本古代皇帝の謎/斎藤忠
消された日本建国の謎/斎藤忠
盗まれた日本建国の謎/斎藤忠
西域から来た皇女/小林惠子
白村江の戦いと壬申の乱/小林惠子
興亡古代史/小林惠子
本当は恐ろしい万葉集/小林惠子
騎馬民族国家/江上波夫
遊牧騎馬民族国家/護雅夫
古代朝鮮と日本文化/金達寿
高句麗五族五部考/今西、龍
聖徳太子/梅原猛
隠された十字架/梅原猛
清張通史古代天皇と豪族
清張通史空白の世紀
項羽と劉邦/司馬遼太郎
日本人のルーツ和韓/柴田文明
人口から読む日本の歴史/鬼頭宏
古代日本ユダヤ人渡来伝説/坂東誠
言霊ホツマ/鳥居礼
ミシル/キムビョラ
高麗王若光物語/高麗文康
天皇家誕生の謎/関裕二
古代史封印された謎を解く/関裕二
古代史が解き明かす日本人の正体/関裕二

三国史記
三国史記倭人伝
旧唐書
新唐書
中国帝王図
古事記と日本の神々
図解古事記日本書紀
聖徳太子伝暦
上宮聖徳法王帝説
先代旧事本紀
神皇正統記
伽耶と古代東アジア
封印された闇の日本史
宝島別冊天智と天武

【漫画】
天智と天武/中村真理子
日本の歴史/石ノ森章太郎
天上の虹/里中満智子
日出処の天子/山岸凉子
聖徳太子/池田理代子
葦の原幻想/長岡涼子
玉響/長岡涼子

【Web】
百済人将軍てい軍の墓誌に記された日本という国名
草原から来た天皇
古代東アジア世界史年表

【韓流時代劇ドラマ】
チュモン
ケベク
淵蓋蘇文
薯童謡
風の国
鉄の王キムスロ
善得女王
剣と花
大祚榮
大王の夢
大王四神記

見るだけでも1000時間以上はかかりますが、新潟県まで行ってみて日本海に入り、高句麗からの上陸を考えてみるとかマニアックな現地考証を全国でしていますので更に時間が掛かります。

※【古代天皇家と日本正史/中丸薫】は最初に巷説の世界観に出あった本です。

中丸薫さんという方は、なんと明治天皇のお孫さんで古代天皇家について書かれてるのですが、

「日本書記が明したくなかった真実を」から始まり
「天智天皇は百済のキョギ皇子だった」など、
当時は、衝撃的な内容はがりでびっくりしました。

「明治天皇のお孫さんがこんな事を書いてしまっていいの?!」と驚きつつ、教科書では教えてくれない巷説の世界にグッと引き込まれました。


今後も歳月を掛けてゆっくり書き進めていきたいと思ってます。長い話しをお読み頂きましてありがとうございます。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。