和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

6 / 28
西暦644年~646年
山背王が殺害された後、王位を狙っていた蘇我入鹿の思惑に反して、蘇我蝦夷によって和王に擁立されたのは古人王子だった。反蘇我勢力は、古人を王位につかせておき、裏では蘇我入鹿の暗殺準備をすすめていく。そして唐は、東アジア諸国の親唐派の王が除かれたことは看過できず、いよいよ兵を挙げ高句麗に侵攻した。緒戦は唐が勝利し、唐の太宗皇帝自ら出征したがその後の勝利を得ることができなかった。戦争中にも関わらず高句麗宰相イリと百済国王ウィジャは、密かに和国へ渡り、蘇我入鹿暗殺を実行する。蘇我親子を滅ぼし和国を取り戻したウィジャ王は百済・和国の両国の王となり、分断されていた王位を再び統一した。

1話 古人王
2話 那珂の大兄王子
3話 唐・高句麗進攻
4話 イリ・ガスミの出生
5話 乙巳の変
6話 和国・ウィジャ王即位
7話 改新の詔



第4章 和国 ウィジャ王即位【大化の改新】

【古人王】

山背王らが殺害された後、王位を狙っていた蘇我入鹿の思惑に反して、蘇我蝦夷によって和王に擁立されたのは古人王子だった。

 

 

【挿絵表示】

古人王子

 

反蘇我勢力にとってこれは渡りに船で、まだ実力者である、蘇我蝦夷・蘇我入鹿らを倒さなければならず、古人に即位させておき、その間に暗殺の準備を進める必要があった為、反蘇我勢力からも反対する者はいなかった。

 

和国王位を狙っているウィジャ王までも、

 

「年長である古人王子が先に即位すべき」と、

 

譲って次期和王との意味をこめて、古人王子を「大兄王子」と呼んだ。

 

即位することになった古人は、自分も山背王と同様に「蘇我蝦夷・蘇我入鹿」親子の身代わりであり、次に犠牲になり殺されるのは自分であろうということは容易に予測がついた為、なんとか即位を辞退しようと出家を望んだりして抵抗していたが、叶わず、蘇我蝦夷の擁立によって強引に和王に即位させられてしまった。

 

即位後は、暗殺を恐れること甚だしく、即位の喜びなどより恐怖にとらわれていた。

 

古人王は、反蘇我派の筆頭である中臣鎌足を神祇長官に任命し、懐柔を再三図ろうとしたが、中臣鎌足はこれを一切受けず辞退した。

 

また、古人王は同じ武王の血を引くキョギ王子にも腐心し、娘の大和姫を差し出すので、キョギ王子との婚姻の仲介をできないかと鎌足に頼んでいたが、鎌足はそれも差し控えたまま、摂津三島に引きあげていった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

狼狽える古人王とは対象的に、蘇我入鹿だけは、古人を傀儡として和王に即位させた父・蘇我蝦夷の意図をよく理解できずにいた。

 

古人王子は、先代の上宮法王の継承候補であった百済の武王と、蘇我氏の姫の間に生まれた蘇我系の王子で、今の蘇我氏は古人王の影に回るしかなく、ウィジャやイリの圧力を跳ねのけ蘇我蝦夷や入鹿が王にとって代わることなど、とてもできる状況ではなかった。

 

蘇我蝦夷は、山背王が除かれたことによって、蘇我氏の命運が尽きかけている未来に気が付きはじめていた。

 

しかし、父・蝦夷のもとで、最初から大した苦労もせずに権勢を欲しいままにしてきた入鹿には、そうしたことが全く分からず、父蝦夷のやり方をもどかしく感じていた。

 

蘇我蝦夷は息子・入鹿の愚かな行いに怒って大臣を辞めて隠居してしまい、入鹿が跡を継ぎ大臣に就くことになっていたので、父・蝦夷の懸念とは裏腹に入鹿はますます増長してしまった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

蝦夷は自ら、大臣の証しである紫冠を息子・入鹿に授 与したが、その行為自体もまた大臣ではなく、王にのみ許される振る舞いであった為、蘇我入鹿は更に尊大になっていく。

 

蘇我入鹿の傍らで宝妃は、蘇我蝦夷が気にしていたように逆賊の汚名を受けない為には順序があり、

 

「いずれ上宮法王の娘である自分を皇妃として即位すれば、簒奪王朝でなく、堂々と和国王として君臨することが間違いなくできるので焦ることはない」と

 

説得した。

 

蘇我入鹿も、上宮法王の血をひく宝妃も手中にあり、いつでも和王に立てるものと慢心していたので、

 

(今更焦ることもない。父が反対するのなら、もう少しだけ待つか)と、

 

単純すぎるほど、先々に堂々と即位することを全く疑わなかった。

 

武王の王子である古人やキョギなど王族のことなど歯牙にもかけておらず、その様に蘇我入鹿を慢心させ油断させることこそが、宝妃の任務であり、蘇我入鹿は、ただ父の意向が添わないことだけを気にかけていて、反蘇我勢力の思惑どおりになっていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

【那珂の大兄王子】

キョギ王子は、和国に亡命して来てすぐに息子が殺されてしまって以来、あまり表には出ずひっそりと身を潜めていたが、武王と蘇我氏の子である古人大兄王子が和王に即位したことには黙ってはいられなかった。

 

武王の王子が和国王に即位するならば、当然同じ武王の王子である自分にも和国の王位につく資格はあるものと考え、むしろ

 

「武王と上宮法王の血を引く吾の方が正当性は強く、王位にふさわしいはずではないか!」と、

 

激しい憤りを感じていた。

 

そもそも、皇太子を大兄王子と言うのも百済の言い方であり、古人大兄王子と呼ばれていたこと自体、語意に「百済の武王の皇太子である」という含みが強く感じさせられた。

 

武王を父に持ち上宮法王を祖父にもち、百済と和国、両国の王家の血を引くキョギ王子にとっては、古人の下風に立つことだけで自尊心が許さず、耐え難いことだった。

 

 

すぐる年、和国での饗応を受け相撲を堪能し、キョギ王子の家の門の前で立ち止まって一礼をした沙宅鎌足こと中臣鎌足は、この時キョギ王子の家を訪問した。

 

鎌足は、百済ウィジャ王の密命どおり、キョギ王子を蘇我打倒に協力させ味方に引き込む為、説得しに来ていた。

 

二人の関係は、まだ和国では不明であり、同じ百済からの渡来人としてみられていたが、それ以上のものではなかった。実際、父の仇であるウィジャ王の側近・鎌足を前にしてキョギ王子は殺気が漲っていた。

 

 

【挿絵表示】

中臣鎌足

 

鎌足はまず、首を差し出すほどの決死の覚悟で、百済でウィジャ王の暴挙を止められなかったことを詫び、武王の命を守れなかった自分自身の至らなさを陳謝した。

 

到底その様なことで、キョギ王子の気持ちがおさまるものではなく、罵声を浴びせられ続けてしまい会話は遅々として進まなかったが、しかし、キョギ王子は感情的になる自分を嫌う一面があり、和国まで落ち延びてきた目的を問われ、怒りを堪えて冷静に考えはじめたことで交渉の突破口が開けた。

 

キョギ王子にしても、和国まで来て蘇我蝦夷・入鹿親子を倒さなければ憂き目はなく、蘇我氏の支配する国にただ落ち延びただけで終わってしまうことと、蘇我親子を倒すことは共通の目的であるということを鎌足はゆっくりと諭しはじめた。

 

そしてまた、武王は隆王子を皇太子にして唐も承認していた為、いずれにしてもキョギ王子が百済で王として生きる道はなく、和国へ来たことはむしろ道が開ける機会であり、我々と共に蘇我親子を打倒すべきであると説得した。

 

キョギ王子は、手兵もなく、身内さえ殺されてしまう和国の中で、百済の者と諍いを起すのは危険であり、兵を挙げるにも、和王につくのにも、まずは目の前の敵、蘇我親子を倒すべきであると得心し、怨念を抑えて協力しあうことを約束する。

 

キョギ王子は、怒りを百済ウィジャ王に向けるのではなく、今は目の前の敵に全力を向けて倒す覚悟を決めた。

 

そして、キョギ王子という百済王子の呼び名も捨て、正式に和国での名を名乗ることにした。キョギ王子の母方の上宮法王ではなく、父方の先祖の故郷である九州地方の縁から【那珂】(福岡県 )という地名をとって【那珂王子】と和国名を名乗った。

 

(後世に母方の王統性を表して「葛城王子」とも呼ばれる※この頃はまだ王家の地・葛城地方は蘇我勢力に専横されていた)

 

 

【挿絵表示】

キョギ王子=那珂大兄王子

 

 

キョギ王子こと、那珂王子は和国での有力な後ろ楯がまだなかった。

 

中臣鎌足は蘇我石川倉麻呂から賄賂も受けとっていた為、蘇我石川倉麻呂の娘・遠智娘と那珂王子との婚姻を勧め

 

「何の後ろ盾もないまま王に即位したとしても、その王位は虚しいまま。まずは古人王の即位を認めその間に和国の有力部族の味方をつくり、即位に向けての足場を着実に固めるべき」

 

と、説得した。

 

那珂王子(キョギ王子)はこれを受け入れ、中臣鎌足の勧める婚姻により、蘇我石川倉麻呂や中臣鎌足の擁護を受けられると考えることで心理的にも自己効力感が上がり、いくらか古人王の和王即位を受け入れる心持ちになれた。

 

そしてまた、中臣鎌足は、捨ておいていた古人王の娘の大和姫と那珂王子との婚姻にも動き出し、那珂王子は着々と和国での足場固めを行っていった。

 

 

【挿絵表示】

大和姫

 

その上、中臣鎌足は、那珂王子らが法興寺で蹴鞠をしているところにあらわれて、那珂王子の靴が脱げると、うやうやしくその靴を拾い那珂王子にへつらう姿を周囲に見せた。

 

その後も、道教の南淵先生のもとへ仰々しく共に往復し那珂王子を目立たせ、那珂王子との関係を喧伝してみせた。

 

中臣鎌足は、百済ウィジャ王の側近中の側近で、和国一の実力者の蘇我入鹿でさえも一目置くほどの人物であり、百済ウィジャ王の片腕的な存在ということだけでなくとも、あまり政治的表面には出ない策謀官僚型の人物であり、権力志向というより徹底した反唐志向の人物だった為、和国でもその存在には重厚で深沈な不気味さがあった。

 

その中臣鎌足が、和国で那珂王子に肩入れしはじめた様に喧伝されはじめると、那珂王子も周囲から一目置かれるようになっていった。暗殺に怯えた百済の亡命王子でしかなかった那珂王子の弱かった立場はぐんと上がり、あらためて引立ててくれた中臣鎌足の強力な存在感を那珂王子はひしひしと感じていた。

 

山背王を倒し、和国で気勢があがる反唐派は、すなわち反蘇我勢力でもあったが、その中で蘇我石川倉麻呂は蘇我氏でありながらもずっとウィジャ王側について、蘇我蝦夷・入鹿に対抗してきた人物で、中臣鎌足とも鎌足が和国へ亡命しまだ「智積」と名乗っていた頃からの昵懇の仲であり、蘇我蝦夷・入鹿打倒の中心的な立場だった。

 

 

【挿絵表示】

 

蘇我石川倉麻呂

 

中臣鎌足はこの勢力の中にも、那珂王子を引き入れて蘇我入鹿暗殺の実行部隊へと加えた。那珂王子に嫁いだ蘇我石川倉麻呂の娘・遠智娘も懐妊し、両家の結束はより強く結ばれていく。

 

蘇我入鹿の暗殺は宮中内で計画されていたため、宮中での身分のあるものが同志に多かったので、宮中の知己も広がり、すっかり調子づいた那珂王子は、次に古人王の娘・大和姫を娶った後は、皇太子という意味である「大兄王子」=那珂の大兄王子と自ら名乗って、古人王の後継者であるかの様にふるまいはじめた。

 

元々、百済から共に亡命してきた者達は大兄とよんでいたが、この頃より周囲の者から段々と那珂大兄王子という呼ばれ方をするようになっていった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

【唐・高句麗進攻】

唐の太宗皇帝は、山背王殺害の実行部隊を率いたのはイリであることと断定し、高句麗の栄留王に続き、和国の山背王までも倒したイリをもはや看過することはできず、イリを殺す方針を決めた。

 

東方の辺境の事とはいえ、

 

唐の冊命した王を二人も殺すとは、

 

(高句麗のイリとは如何なる者か)と、

 

噂は四方に広まっていった。

 

唐の体面にかけて、これを捨てたままにして置くことはできない。

 

高句麗攻めを強く反対していた諌臣・義徴もこの時にはすでになく、唐の太宗皇帝は高句麗遠征の検討をはじめた。

 

644年、唐は再度、新羅との和解勧告の使者を高句麗に使わしたが、血気盛んなイリは唐からの和解勧告を拒否し、唐の使者を捕えて土牢に拘留してしまった。

 

その強気なイリの態度に激怒した太宗は「弑君虐民」の罪を問い、11月、唐はとうとう兵を挙げた。

 

唐の太宗皇帝は、唐一の猛将泣く子も黙る李勣将軍に6万の陸軍とその配下の張亮将軍に4万3千の水軍を与え高句麗へ侵攻させる。

 

 

【挿絵表示】

李勣将軍

 

新羅、百済、契丹にも出兵を命じた。

 

翌645年、唐軍の進攻に対し、高句麗の各城は城門を固く閉ざし攻撃をしのぎ、唐軍は大きな犠牲を払いながら僅かに幾つかの城を陥落させただけであった。

 

張亮将軍率いる水軍は、遼東半島の最南端から進攻し、遼東半島にある高句麗の卑沙城を落したが、その後、救援にやってきた高句麗水軍に大敗する。

 

 

【挿絵表示】

 

 

営州に集結した唐・陸軍の主力軍は、李勣将軍が率いて遼東城へと向かった。

 

高句麗の遼東城は、隋軍100万の攻撃にも耐え、何度攻撃されても未だに落とされたことが無い難攻不落の城であり、遼東城を攻めた唐軍・陸軍の先鋒はあっという間に壊滅させられてしまった。

 

これに対し、李勣将軍は陽動作戦を行い、さらに南風の強い日に火計を用いて奇襲を行い、遼東城の食糧倉庫を焼きはらい兵糧攻めを始めた。

 

そして、6月になると、唐の太宗皇帝が自らが70万の軍を率い、物資補給の兵站部隊を併せ、号して100万の大軍で高句麗に親征してきた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

唐軍は、均田制を基盤とした徴兵による「府兵制度」によって編成され、隋の時代の府兵制に手を加え軍編成をより完成されたものにしていた。

 

(均田制=国民全てに田畑を与え税と兵役を課す)

 

 

軍の「統制権」、「監督権」、「徴兵権」、をそれぞれ分けて設置することで、将軍の独断による暴走や軍閥化を防ぎ、国としての兵権を確固たるものに築きあげた。軍律は厳しく、10人隊を最小単位として50人に編成し、それをさらに200人旅団にまとめ1000人程度の府に編成とした。軍を動かすときは、10人隊単位からでも皇帝の割符が必要だった。

 

また太宗皇帝も、自ら閑農期には兵の調練に当たり、農民達を精鋭へと鍛えあげていった。

 

まさに、和韓諸国の「部族連合軍」や「部族連合の王」とは、天と地ほどの差があった。

 

しかし、外征時にはこうした徴兵による常備軍だけでなく、募兵を行い傭兵による大軍を編成する。

 

太宗皇帝は

 

「天下の壮士を募兵せよ」と命じ

 

高句麗遠征の為の軍編成をすすめてきた。

 

突厥族、鉄勅族、靺鞨族、チベット族、そして、元ササン朝ペルシアの職業軍人、アジア中の壮強な兵士達を傭兵として集めた「アジア最強軍」を編成し、兵気は高く、太宗皇帝も高句麗を制圧するべく意気込みは強かった。また、鉄勒族の(突厥系)部族長らにも莫大な賜物をした上カーンに冊命し「高句麗の味方をしないように」と誓約させるほどの念の入れようだった。

 

 

【挿絵表示】

 

唐 太宗皇帝

 

太宗皇帝率いる唐の大軍の前に、飢えによって士気の落ちてしまっていた遼東城は、落城した。

 

太宗皇帝はそのまま遼東城南へ進攻し、遼東方面の要である安市城を囲んだ。大地が黒雲で覆われたかの如く、安市城の周辺は全て唐軍に覆われてしまった。

 

安市城は、満州平野を流れる大河遼河へ水路を結び、切り立つ山に囲まれた天剣の要害で、大軍でも容易に攻めることができない難攻不落の城である。

 

 

 

【挿絵表示】

安市城

 

城主の楊万春将軍(ヤン・マンチュ)は、隋・高句麗の大戦で、ウルチムンドク将軍につき従い隋軍100万を攻め滅ぼした歴戦の猛者であり、安市城で見事に唐軍を阻止し、60余日間の防戦の後に唐軍を撃退した。

 

 

この時、唐軍に従軍していた契丹族の薛仁貴(ソル・イングイ)は、唐軍の危機を救い目覚ましい活躍をした為、太宗皇帝より将軍に引き立てられた。

 

薛仁貴(ソル・イングイ)は、唐軍が窮地に陥ると、両軍が目を見張るほどの奇抜な鬼神の装束で現れ、

単騎で切り込み、凄まじい速さで高句麗兵を引き裂いた。

 

 

【挿絵表示】

 

薛仁貴(ソル・イングイ)

 

 

ソルイングイの動きは華麗で素早い。

 

剣を舞わせるように矢を払い、槍を振り回し敵を突いて、

 

もの凄い勢いで戦場を駆けぬけた。

 

一斉に矢の雨が、背中にとどく刹那、

 

走っている馬の背中から、飛び上がって空で体をかわし、

 

みごとに鞍に舞い戻り、再び手綱をとり何ごとも

なかったかのように走り出す。

 

曲芸のような体術をみせながら、

 

誰も見たこともないような強さで、高句麗兵をなぎ倒していった。

 

剣戟を打ち合わせようと進みでてくる勇者達を、次々と両断し、まるで無人の野を走り抜けるように戦場を駆け続け、陣を混乱させた。

 

暫く戦場は固まり、薛仁貴(ソル・イングイ)の動きに両軍とも釘づけになってしまった。

 

この隙に、危機に陥っていた唐軍はなんとか死地を脱した。

 

 

太宗皇帝は

 

「遼東を得たことより卿を得たことを喜ぶ」

 

と感激し、薛仁貴(ソル・イングイ)将軍を讃えた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

再び唐軍は反撃し安市城の攻撃の手を強めると、高句麗の高延寿(コヨンス)将軍と高慧真(コヘジン)将軍らが15万の大軍を率いて安市城の救援に向かった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

駐蹕山で両軍は衝突したが、唐軍の計略に落ちいって夥しい死傷者を出して将軍らは降伏してしまった。

 

唐の太宗皇帝は、この勝利に高句麗攻略の手応えを得た。

 

この駐蹕山の戦いの時、命がけで敵陣に深く斬り込み、雄壮に散っていった唐軍の兵士がいた。

 

太宗皇帝はこの亡くなった兵士は

 

「一等の功である」として、

 

何者なのか?

側近に尋ねると、

 

「彼の者は、新羅人で佐武衞士の『薛刑頭』です。」

 

と上奏した。

 

それを聞くと太宗皇帝は涙を流し、

 

「吾が国の兵士でさえ、なお死を怖れ後ろを振り返り、前に進むことを望もうとはしないのに、外国人でありながら吾が国の為に死んだとは。

真の志士や義を守る者は忠節を尽くし、あえて死を惜しまず。何をもってその功に応えたら良いだろう。」

 

と、尋ねた。

 

薛の従者は、

 

「薛は、『新羅の血統を重視する骨品制度では、人を登用するのにも出自を論じ、いかなる才能や功績があろうとも、決してそれを越えることはできない。

吾は脱国し、西に向かい中華に遊学し、非常の功を立て、自ら栄達の路を開いて、天子の側に仕えることが出来れば満足である。』と、志しをたてて、商船に紛れて入唐し、この度の戦にも進んで参軍してきました。」

 

と、語った。

 

彼の平生の願いを聞くと、太宗皇帝はひた垂れを脱ぎ、ひざをつき、そっと、屍の上にかけた。

 

そして、大将軍の官を授け礼を尽くして葬った。

 

 

唐の太宗は高句麗の二将を降伏させ、意気揚々と駐蹕山から安市城に降伏勧告を促したが一向に応じないため、総攻撃をしかけた。

 

が、相変わらず城内の結束は固く、金城湯池の堅固さで楊万春将軍はその攻撃に耐えていた。

 

隋軍100万を壊滅させた猛将・楊万春将軍は決して兵力の多寡に怯むことはなく、機をつかみ俊敏に兵を動かしていく。弓勢をたわめ間断なく殺到する敵に、熱湯や油を浴びせ火矢をかけ、凄まじい攻防戦を続けていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

この時、唐に降伏した高延寿が

 

「安市城をそのままにして他の城から攻撃をしてはどうか」と助言したが、

 

唐の智将・長孫無忌(チャンソン・ムギ)が安市城を落とさずにこのまま進めば、後方から挟撃を受ける危険があるとして、引き続き安市城を攻撃した。

 

(後方の敵を置きすてては大害がある)

 

ということは誰しもが危惧した。高句麗攻めで、奥深くへ侵攻すれば、兵站が伸びきり食料補給が困難になり、随軍のように全滅する恐れさえある。攻めあぐねる唐軍は次々と計を図るが、高句麗の守りは強くいっこうに打開はなかった。

 

 

激しい攻防の末、唐軍は正攻法ではもはや安市城を落とすことは不可能と判断し、延50万人の兵力を使い二ヶ月間かけて土を盛って、安市城のすぐ横に安市城より高い人工の丘を造営し、そこから侵攻するという奇策を試みた。

 

だが、高句麗軍も、全民衆を動員し、安市城内より丘の地下深くへ土窟を掘り進めていき空洞を造っておき、丘の上へ唐軍が登りきったところで、丘ごと崩落させて、唐軍数万を一気に生き埋めにし壊滅させてしまった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

この土木戦の後も、高句麗と唐の戦闘は日々熾烈を極めていたが、高句麗軍の士気は益々上がる一方であり、唐の太宗はどうする事も出来ずにいた。

 

 

 

 

一方、

 

唐水軍500隻は、海路より首都・平壌城を目指したが、和国より一時帰国してきていたイリが率いる高句麗水軍と長海群島沖で激突し、西海に沈められてしまっていた。

 

『海の一族』の聖地 大海の里で育ったイリは、海将としても優れていた。

 

幼い頃より船に乗り、日本海の荒波に揉まれ、風と潮の利は知り尽くしている。

 

風向きが変わるのを待ち帆を上げ、島陰から北風に乗り奇襲をしかけ、風上から吹く風と同時に火矢を射て、唐の戦船を次々と沈めていった。

 

 

イリは、唐水軍を全滅させると、返す刀で再び和国へと渡っていった。

 

 

この頃よりイリは、休む間もなく東奔西走を続けていく。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

秋になると北方から突厥勢が唐に侵入して、唐軍の食料も不足がちとなり暴風と降雪が止まず兵が倒れていき、太宗はやむなく撤退を命じた。

 

これより、唐に帰順した周辺国達も高句麗に呼応して反唐の兵を挙げるようになっていく。

 

 

 

安市城周辺は唐軍側に降り捕虜は七万人に及んだ。

 

撤退時には、満州平野を別つ大河遼河の周辺が沼地になってしまっていて、唐軍が渡るのには困難を極めた。

 

太宗皇帝も自ら草を敷きながら道を作って必死に撤退したが、高句麗軍の追撃を受けてしまい李勣将軍を始め唐軍は完膚なきほどに敲きのめされてしまった。

 

30年前、隋軍100万が高句麗に全滅させられた時もこの様であったかと、高句麗からの引き上げが骨隋に染みた。

 

太宗皇帝は、戦の最中に弓で左目に負傷を負ってしまい、九死に一生を得た命がけの生還となった。

 

千載の遺恨事といえた。

 

 

 

帰国後、太宗皇帝は、唐軍を苦戦させた敵将・安市城主である楊万春(ヤン・マンチュ)将軍の武を称えて安市城へ絹を送った。

 

 

 

【挿絵表示】

楊万春将軍

 

 

 

隋のみならず、太宗皇帝率いる唐軍までも高句麗が撃退したことは、アジア世界を震撼させた。

 

 

 

【イリ・ガスミの出生】

645年5月、高句麗と唐が攻防戦に入った頃、百済のウィジャ王は牽制の為、新羅に攻め入り金ユシンと戦い7城を落としていた。そして6月になり太宗が遼河を越えると、ウィジャ王は兵を引き和国へ向かい、イリも高句麗の居城・平壌城から脱出し急ぎ和国へと向かった。

 

唐の太宗による安市城総攻撃が始まった頃には、イリは既に高句麗にはおらず和国へと渡っていて、和国から兵を高句麗に送りこむことと、蘇我王朝打倒に奔走していた。

 

安市城の楊万春将軍に高句麗の防衛を任せたまま、イリは、新城と安市城の間にある蓋牟城へ向けて和国兵わずか700名を救援に派遣しただけだった。

 

しかし、蓋牟城が唐軍に包囲されると、和国兵は戦わずに進んで唐軍の捕虜になっていき、唐軍に加わることを願い出た。

 

唐の太宗皇帝は

 

「お前たちが我が唐軍に加わると、(イリ)・ガスミは、お前たちの裏切りを赦さずに家族を殺してしまうだろう。私の為に、お前たちの一家が滅ぼされてしまうのは忍び難い」と言って、

 

食料を持たせて放免した。

 

 

【挿絵表示】

 

唐 太宗皇帝

 

イリは唐での呼名は、苗字で呼ばれることがなく、ガソムン(=ガスミ)と名前を呼び捨てにされることが多かった。イリ・ガスミの名前は、父・高向玄里が高句麗大臣だった頃、「ヨン・テジョ」と名乗っていた事に由来する。ヨン・テジョの苗字は「ヨン=淵」と書き、淵は発音が「イリ」とも発音された為、イリと呼ばれていた。

 

しかし、この「淵」という字が、唐の高祖・李淵の「淵」と同じであることから、これを呼ぶことが不敬であるとして、唐では決して「イリ=淵」と呼ばず(避諱)、名前だけを呼び捨てにし、或はまた「セン・ガスミン」などと別の綽名で呼ばれていた。

 

唐・高句麗戦の最中でありながらも、和国にいたイリは、1人で密かに母・宝妃のもとを訪ねていた。

 

宝妃は、立派に成長したイリを見て涙を流し

 

「幼い頃、抱いていたことを覚えています」と

 

再会を喜んだ。

 

イリの心中には、劣等感を抱えている問題があり、複雑な心境だった。武王が倒され、百済の王宮を追われたことによって、初めてイリは、母・宝妃と会うことができたが、しかし、再会を喜んでよいのか、それとも会えずにいたことを恨むのか、その気持ちの落としどころもないままに、宝妃と向かいあっていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

イリは、父・高向玄里の「高向」という姓すら名乗らせて貰えず、高向のもう一つの呼名である「イリ=淵」という苗字で、もの心ついた頃から呼ばれてきた。

 

今はその、「イリ=淵」という苗字さえ、唐からは呼ばれなくなってしまっていた為、「イリ=淵」という名を呼ばれることも、逆に呼ばれないことにも、イリは不快を感じ、存在に対する否定の様に受け止め憤慨していた。

 

そして、自分の存在もさることながら、氏姓、血統や出自に重きを置く世界の中で、氏・姓がしっくりとこなかったイリには、そうした自覚を持てなかったことが劣等感となっていた。本当に、父・高向玄理の言うとおり、出自が漢王室の末裔ならば、姓は劉氏であるはずだ。

 

古来和国には「妻問い」という習慣もあり(通婚制)、夫婦で同居はせずに子供は、母方に引き取られるか母方の里で育てられることも多かった。しかし、大海の里で養育されたイリは、周囲に血縁者もいなかったので、そうした感覚さえなかった。

 

【通婚制=母方の部族と同盟関係になる為の通い婚制度。他部族に対し武力破壊をせずに、部族を残したまま支配する為、部族長の娘との間に男子をもうけ、その子を王子としてその部族内で育て、部族長の跡継ぎとする平和的な支配法】

 

 

 

また、イリは近頃、武王と宝妃の子で亡命王子のキョギ王子が和国での存在感を増し、【那珂の大兄王子】などと名乗り、調子づいていることも気に入らなかった。

 

イリからみれば弟にあたる存在だが、那珂王子との出自を確かめた訳ではない。

 

イリは、血筋だけで実力の伴わない者を嫌悪していた。

 

特に那珂王子の存在は、めざわりでゆるせない。

 

 

イリは、ずっと胸につかえてた確かめたかったことを訊いた。

 

「自分は本当に父と母の子供なのか」と。

 

宝妃は

 

「あなたを我が子の様に大切に思います」

 

とだけ言った。

 

自分の子ではない、、と言う意味であり、即ち、「那珂大兄王子」とやらもイリの兄弟ではない。

 

「あなたは父・高向玄里の妻ではないのか? 高向玄里は本当に私の父なのか? 」という、

 

イリの問いに、、

 

「間違いなく高向の息子です、私は高向を慕って一度は嫁し、あなたの義母となりました。』

 

と宝妃はきっぱりと答えた。

 

 

「では、私の母親はいったい誰なんだ!本当にあなたは、母ではないのか!! 」と、

 

たたみかける様にイリは訊き返す。

 

 

宝妃は何も言わず、沈黙したままだった、、

 

 

 

一方的にずっと、宝妃を母と慕っていた自分の気持ちを断ち切るように、イリは、

 

「那珂王子に頭を下げ、王とか王子とか傅くことなど自尊心がゆるさない。いつかは倒して、自分が王位についてやる!」と、宝妃に叫ぶ。

 

宝妃は、慈しむ様な目つきでイリを見返して

 

「王族はみな、イリの武力を認めて、そして恐れています。王にならなくとも、国は動かせます。その方がむしろ賢いやり方です。王家ほど不自由で不幸なものはありません。自分を大事にして欲しいからこそ、どうか王位など望まず、その実力を活かしていきなさい。」、、と

 

静かに答えた。

 

 

宝妃は高向の妻となった後、高向の大望のために、上宮法王の血統として、権力者と結び生きていくことを自ら選んだ。それ以来、心を閉ざし、誰と結ばれても決して心をゆるすことなく生きてきた。

 

宝妃の心は、閉ざした時から時間が止まっていて今も昔も、心は高向の妻のままなのである。

 

心にも無い権力者に嫁がなければならないという王女としての生き方の中では、むしろ心の中の高向の存在は、宝妃にとっての心の支えとなっていたのかもしれない。

 

宝妃が、「我が子のように大切に思う」と言った言葉にも偽りなく、高向の息子イリのことも心から親身に考えている。

 

 

 

イリは、

 

「蘇我氏のような者でさえ王位を狙うのに何故王位を望んではいけない。隋や唐の様に力のある者が王になれる国は他にはないのか!血筋や生まれだけで王位につく者の為に、命がけで戦っているのではない。」と、返し、

 

「王侯將相寧有種乎」と吐き捨てた・・・

 

(中国の故事⇒王・諸侯・将軍・大臣は血筋でなく誰でも実力次第でなれる)

 

 

弱肉強食が乱世の常の様だが、まだ血統や名目に縛られている時代であり武力による王権簒奪が容易に受け入れられる世界ではなかった。

 

大国唐でさえ、「禅譲」という国権を譲り受ける手続きを経て建国されている。

 

ペルシア王子で突厥の王(カーン)であった上宮法王や、高句麗の亡命王子・扶余昌こと威徳王敏達やウィジャ王など「王族」達は、何処の国に渡っても「王族」なのだが、特に今の和国では上宮法王の血統を入れずに王位につくことは難しかった。

 

和国の国としての体裁は上宮法王が打ち立てたものであり、上宮法王の血統でなければ簒奪者としてみられ、突厥の残党だけでなくとも、和国の部族長らには、認められない。

 

部族連合国内で「吾が部族こそ、、」などと一族一門の大小を語ったところでどの部族も地豪の一族でしかなく、それが勝手に王位につくことなど他の部族が認めないのが部族連合国の有り様だった。

 

そして何よりも、王族でない者が王位についた国は他国からも侮りを受ける。

 

だからこそ、百済の武王や新羅の真興王ことエフタル族の宣化将軍、和国の蘇我氏など王位継承の血統ではない権力者達は、できるだけ王位継承権のある皇女と婚姻し嫡流の子をもうけ、

 

そして、積極的に唐の臣下となって

 

『王位の承認をして貰い』唐の後ろ楯でその地位を守って貰うしかなかった。

 

 

イリの様に反唐を貫きながら、王位に野心を抱くことは難しい。

 

しかしイリは、血統主義も嫌いだが、血統でも無い者が唐に臣属する事で王座にいる事はそれ以上に許せなかった。

 

イリが強くなり「大将軍」「宰相」となって、「閣下」と呼ばれることになろうとも、

 

決して「王」と呼ばれることがない自分の出自とこの世界を恨み、

 

(なんとしても、実力で王座についてやる、、)

 

と、心に強く誓った。

 

 

 

 

イリは、引き続き和国での徴兵を続け、支配下を増やしていった。

 

 

 

 

 

 

※高向玄理の系図

漢【霊帝】→【石秋王】*【阿智王】→【高貴王】阿多部王→【高向王】=玄里→【イリ】

 

 

【乙巳の変】

和国へやってきたウィジャ王とイリ、そして中臣鎌足、那珂大兄王子と蘇我石川倉麻呂らは多武峰(奈良県桜井市)に集まって、蘇我入鹿を暗殺する計画を密議していた。

 

 

那珂大兄王子は、この頃には一人前の壮士を気取っている。王室育ちの御曹司の様な典雅な身ごなしはなく、鼻息を荒くしていた。

 

他の者達と違いイリには大した面識もない

 

(くだらない奴だ)と、

 

イリは最初は思ったが、

 

はしはしに那珂大兄王子が武王と上宮法王の血筋であることを鼻にかける態度をとり、

 

イリは腹の底から敵愾心を持つようになっていった。

 

那珂大兄王子は、イリの放つ凄みを身近で感じ、

 

(イリとは評判どおり凄い男だ)、

 

と思った。しかし、

 

脅威を感じるほど逆に態度は虚勢をはって、自分が王族という貴種である権威をことさら強調しようとし、イリのことは高句麗の王家に仕えている臣下の者という認識を変えようとはしなかった。

 

このような那珂大兄王子の態度は、

 

宝妃に、(母ではない)

 

という事実を知らされたばかりのイリの自尊心を

 

屈辱的なほどに、刺激した。

 

このとき以降、心中に生じたイリと那珂大兄皇子の溝は埋まることがなく、

次第に深まっていき、やがては不倶戴天の敵となっていく。

 

 

密議の結果は、

 

入鹿を誘き出す為に、蘇我王朝に対して三韓からの貢物を献上する調使いをさせて、その場で入鹿を切ることになった。

 

三韓の貢の使者と言っても、実際の新羅・百済・高句麗の貢の使者ではなく、入鹿を誘い出す為の偽りの使者であり、高句麗のイリと百済ウィジャ王からの使者が貢ぎの使者として立った。

 

それでも、慢心していた蘇我入鹿は、高向玄里や中臣鎌足らと共謀し、山背王の殺害に加わったばかりだったので、まさか自分が狙われるとはまだ夢にも思ってなかった。

 

むしろ反蘇我派にとって、敵の蘇我入鹿を山背王殺害の実行に加えたことの本当の目的は、その様に蘇我入鹿を自分は暗殺者側の立場にあると油断させることだった。

 

或は、更に油断させる為に中臣鎌足は

 

「次の標的は古人王」と、

 

蘇我入鹿に伝えていたかもしれない。

 

 

 

645年6月12日、

 

その日、古人王が大極殿に出御し、入鹿も通例どおり参殿した。

 

 

【挿絵表示】

蘇我入鹿

 

入鹿は用心深く、上殿するときでも剣を帯びていたが、俳優(使者を歓待する芸人)にふざけかからせ入鹿を笑わせて、入鹿から剣をなんとか外させた。

 

予定どおり蘇我石川倉麻呂が天皇の前で、三韓からの調進の文を読みあげた。同時に、那珂大兄王子は蘇我氏の兵の侵入を防ぐため、宮の12の門を全て閉じる。

 

そして、守衛の阿曇連が予め運びこんで宮内に隠してあった武器を手にして、那珂大兄王子は槍を持ち、中臣鎌足は弓矢を持ち、物陰に身を隠した。

 

蘇我石川倉麻呂が表文を読み上げる間に佐伯子麻呂らが、蘇我入鹿を襲う手筈となっていたが、彼らは恐ろしくなり、震えて動けなくなっていた。

 

 

【挿絵表示】

蘇我石川倉麻呂

 

蘇我石川倉麻呂が表文を読み終えようとしているのに、佐伯子麻呂らがあらわれないので、蘇我石川倉麻呂は気が気でなくなり、読み上げる声が乱れて手が震えだしてしまった。

 

入鹿は何も気がつかず、

 

「どうしてそう震えるのだ」と

 

問い出したところ、

 

「王の前で恐れ多くて緊張している」

 

と蘇我石川倉麻呂は答えた。

 

徐々に怪訝に思い始めた蘇我入鹿に対し、

 

佐伯子麻呂はもはや役に立たないと判断した那珂大兄王子が飛び込み、

 

剣光一閃!!

 

「ヤァ!」

 

と、かけ声とともに蘇我入鹿の頭と肩に斬りかかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

掛け声で我にかえった佐伯子麻呂は、驚いて立ち上がろうとする蘇我入鹿の足を切り落とした。

 

山背王攻めの時は前面に出る機会さえなかった那珂大兄王子だが、こと蘇我入鹿に対しては、恐ろしさなどより母・宝皇妃と入鹿の関係への憎悪が強く、入鹿への殺意が那珂大兄王子を激しく駆り立ていた。

 

入鹿は古人王の前に転げ寄って頭を叩きつけ

 

「王!何故このようなことをするのですか!正して下さい!!」

 

と助けを求めた。

 

古人王はおおいに驚いたが、

 

すかさず那珂大兄王子が

 

「鞍作りの蘇我入鹿は、王家を滅ぼそうとしています!どうしてその様なことを赦すことができましょうか!」

 

と、割って入り、古人王に向かって叫んだ。

 

古人王は震えながら

 

「私は、何も知らない」と言いはなって座をたち、その場から逃げてしまった。

 

古人王は私宮に走り込んで、

 

「韓人が鞍作を殺した。心が痛む」と言って

 

門を閉ざし、それきり部屋から出られなくなった。

 

佐伯子麻呂は蘇我入鹿にとどめを刺し、雨の降っていた庭に入鹿の死体を放り出した。

 

 

蘇我氏は「鞍作」という装飾技巧を行う技能集団を統治していたので、鞍作とも呼ばれていた。この時代は馬の鞍ではなく、もっぱら仏具や仏像の装飾を主に行なっていた先進技術者集団だった為、蘇我氏が統治していた。

 

那珂大兄の王子らは、諸臣らと共に法興寺に立て籠もり、蘇我入鹿の死体を蘇我蝦夷の元へとおくった。

 

蘇我蝦夷は、入鹿の死体をみて嘆き

 

「だからお前は危ういと言っていたのに」と、

 

何度も顔を歪めて、悲しんだ。

 

入鹿が死に、蘇我派の東漢直ら兵士達は蘇我蝦夷の元で陣を構えていたが、那珂大兄皇子の命令で巨勢徳太が武装解除の説得に遣わされた。

 

「既に事は決した。皆、これ以上逆らえば反逆者だが、今投降すれば家族も氏族も許されるのだ!諦めて武器を置け。それとも皆、蘇我親子に殉じて家族氏族もろとも全滅させたいのか?!」

 

巨勢徳太の大喝に、兵たちは逆らう理非を悟り諦めてすぐに解散していった。

 

 

【挿絵表示】

 

巨勢徳太将軍

 

間もなく館に雪崩れ込んだイリ達によって、蘇我蝦夷は殺され館は燃やされてしまい、珍宝など貴重なものも全て灰になってしまったが、国記だけは船史という官吏が火中より持ち出し、密かに那珂大兄王子に献上された。

 

万が一にも撃ち漏らした場合に備え、イリは、飛鳥の宮から甘樫丘にある蘇我蝦夷の邸宅周辺を伏兵で囲み、飛鳥川周辺の山中にまでも兵を隠していたが、事が終わっると「長槍」を担いだまますぐに去っていき、対唐戦に備えた徴兵に向かった。

 

蘇我入鹿暗殺の折、中臣鎌足は物陰で弓矢を構えていたが、その弓がはたして蘇我入鹿を狙っていたのか、あるいは入鹿に襲いかかる那珂大兄王子の方に狙いをつけていたのかは不明である。

 

蘇我入鹿が暗殺された後、恐ろしくなった古人王は、

 

「大業は娘に、私は出家する」と言い出して、

 

那珂大兄王子に差しだした大和姫に後を託し、自分は吉野へ逃げて身を隠してしまった。

 

蘇我入鹿暗殺の実行犯となった那珂大兄王子は、その事件により更に和国で名を知らしめて、気勢を上げていた。

 

蘇我入鹿を殺してからの那珂大兄王子は昂ぶった興奮がおさまらず、

 

(古人さえ殺せば、正式に和国王につける)と、

 

勝手に思いこんで息巻く。

 

那珂大兄王子は、たとえ王位を辞退し出家しようとも政敵の古人を生かしておく気はない。

 

お互い百済の武王の子だが、それだけに武王と蘇我氏の血をひく古人の存在がどうしても許せなかった。

 

執拗に古人を追いつめた。

 

 

 

【挿絵表示】

古人 元和国王

 

9月になり、古人は拠点があった信濃の善光寺(長野県長野市)に逃げ込もうとした。

 

善光寺は先年、誉田善光という者に建立させたばかりである。

 

古人は、そのまま奥信濃から日本海側へ抜け、親唐国の新羅の助けを借りて海を渡り、高句麗へ攻め込んでいた唐軍の中にまで亡命しようと思っていた。が、早くも追っ手は及び善光寺は既に包囲されていた。

 

ひとまず信州に潜伏したものの、古人はここで身動きできなくなってしまい、もはや独力で海岸線を突破して半島に脱出することなど不可能になった。

 

下手に動かずに、親唐派の新羅からの迎えを待つしかない。

 

古人につき従っていた蘇我派の残党達は、なんとか古人を擁立し再起を図ろうと望んでいたものだが、多くはもう希望を失っていて

 

(もはやこれまでか、、)と、

 

 

その中の一人・吉備笠垂という者が裏切った。

 

 

「新羅からの船と海岸線の様子を探りに行きます」

 

と言い残し、

 

古人のもとを抜け出して追っ手の中に飛びこみ

 

 

「古人は謀反を企んでいる!」と 訴え、

 

その潜伏先を告発した。

 

すかさず那珂大兄王子は皆神山(長野市松代)に潜伏していた古人を攻め殺してしまった。

 

古人が一縷の希望をつなぎ期待していた唐軍は、その頃既に高句麗攻めを諦めて撤退してしまっていたので、那珂大兄王子も後顧の憂いなく古人を殺すことができた。

 

一方、日本海側では越国守の阿倍比羅夫が古志を制圧し新羅からの救援を阻み、丹後国には新羅の襲来があり表米宿禰命が討伐するなどの騒乱も起きていた。

 

親唐国の新羅にとって、和国の親唐派・蘇我政権を助けぬ訳にはゆかず、和国の政変を知った新羅は古人の亡命をなんとか手引きしたかったが、イリが手配した裏日本の布陣は固く賊の侵入をゆるさなかった。

 

 

これで蘇我系の親唐派残党は全て駆逐されたことになり、これより和国も反唐の道を進み始める。

 

 

 

古人の亡骸は、信州の小丸山古墳に埋葬され、

 

吉備笠垂は密告の功により功田20町を賜った。 

 

 

 

 

 

【和国・ウィジヤ王即位】

那珂大兄王子の期待も虚しく、古人王の後は、百済から乗込んできていたウィジャ王が和国王に即位した。

 

 

【挿絵表示】

和王ウィジャ王

 

古人王が逃げて王不在の状態になり、上宮法王の娘である宝妃が習慣どおり女王としてひとまず和王を代行し、

 

束の間、和国は宝妃を裏で操る高向玄里の支配になるかとも思われた。

 

 

勿論、高向玄里はそのような企みも持ち陰謀に加わってきたし、あわよくば、

 

武王皇后の宝妃という名を和国名に変え、

 

「皇極女王」と、名乗りを改めさせて、

 

和王代行ではなく、正式に

 

和国女王に擁立するつもりでいた。

 

しかし、ウィジャ王は、唐が兵を引き、古人王も殺されると、予定どおりあっという間に和王の即位を進め、元号を大化と改めた。

 

『捲土重来』

 

 

上宮法王に、

 

「唯一の後継者である」と、

 

次期和国王に指名されながらも、

 

当時は唐の加護を受けた蘇我馬子に暗殺される恐れがあった為、ウィジャは和国から百済に逃げざるを得なかった。

 

それが20年以上の歳月を経て、ようやく今、和国の王座へと返り咲き捲土重来を果たした。

 

 

高句麗の宰相イリもウィジャ王側についていた為、ウィジャ王は百済・高句麗の武力を後盾にして和国の有力部族達を威圧し、中臣鎌足をはじめ多くの群臣達と、那珂大兄王子が頼りとしていた舅の蘇我石川倉麻呂もウィジャ王側についてしまったので、ウィジャ王の即位に逆らえる者は和国にはいなかった。

 

高向玄里も大人しく、ウィジャ王に従った。

 

高句麗の宰相イリがウィジャ王を擁立した影響は絶大である。

 

高句麗軍が、唐の軍勢を撃退した直後であった為、高句麗とイリの武力は和国の群臣のみならず、味方のウィジャ王さえも恐れた。

 

那珂大兄王子は憤ったものの、まだ力不足であり、百済や高句麗を敵にまわしてまで、ウィジャ王を強引に退けるほどの力などなく、王位につくには不可能であることは明らかだった。

 

中臣鎌足はまた、気持ちのおさまりがつかない那珂大兄王子の抑えにあたる。

 

中臣鎌足は今度は、なんとか那珂大兄王子をあらためて正式な和国皇太子として承認することで、溜飲を下げようとした。

 

「まずは、那珂大兄王子の叔父であり年長者、ウィジャ王を和国王として立てるべきである」と

 

那珂大兄王子を諭し、

 

そして、先の古人王の皇太子だった那珂大兄王子を、改めて今の和国皇太子として正式に立太する様に、ウィジャ王に働きかけることを約束した。

 

那珂大兄王子は、目の前で父の仇であるウィジャ王が和王として君臨していることに歯を軋ませ悔しがったが、苛立ちを中臣鎌足に向けたところで、どうにかなる訳でもなく、臥薪嘗胆の思いでまた耐え忍んでいくしかなかった。

 

ウィジャ王は、高句麗の嬰陽王の皇太子でありながらも和国へ逃げ、和国上宮法王の後継者でありながらも百済へと逃げた過去があった為、

 

「皇太子」の名乗りなどよりも、

 

(実力が伴わなければ、王でも皇太子でも殺されるときは殺されるものだ)

 

と感じていた。

 

唐で人質になっている、百済皇太子の「隆皇子」さえ相手にしていないウィジャ王にとって、那珂大兄王子の皇太子名乗りなどより、むしろ百済内の武王派の旧臣や残党を抑える為に、武王の子・那珂大兄王子を和国皇太子にしておく均衡が妥当かと考えはじめた。

 

しかし、ウィジャ王は、那珂大兄の王子の祖父・上宮法王が和国で無事に王位についたことも、ウィジャ王の父・嬰陽王の助けがあったならばこそであり、内心、上宮法王の擁護をした嬰陽王の子としての自負心があり、頼りない那珂大兄王子など皇太子にしたところで実際に王位を継承させる気にはなれなかった。

 

また、確かめようがないことだが、上宮法王が嬰陽王に助けられ妻を差し出した時、すでに懐妊していたとしたら、ウィジャ王も上宮法王の血を引いている可能性もある。

 

上宮法王がウィジャ王子(軽王子)を「唯一の後継者」と指名したことからもそう推察することはできる。

 

 

「我が子のことを頼む」という

 

上宮法王最後の言葉は、誰をさしていたのか、、

 

上宮法王と推古女王の間に子供はいない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

確かなものではないが、ウィジャ王の心の底には

 

「上宮法王がこそが実父である」という感覚が流れていたのかもしれない。

 

ウィジャ王の本心は、甥の那珂大兄の王子より、百済のモク妃(百済蘇我氏)との間に生まれた自分の子・考王子に和国を任せたかった。

百済の王子を和国に行かせてしまうことによって、同時に百済での外戚勢力の台頭も抑えようとしていた。

 

中臣鎌足は、ウィジャ王の命令どおり那珂大兄王子を抑え、蘇我政権を打倒し、見事に和王に即位させることができたので、今さら那珂大兄王子の機嫌を取る必要もない様に思われたが、那珂大兄王子をウィジャ王へ服従させておくための鎌足なりの配慮がある。

 

鎌足が、那珂大兄王子を盛り立ててきたことによって、新政権の中にも、後継者とみて那珂大兄王子に寄ってくる者達も出始め、ひとつの勢力になりつつあったので、予め那珂大兄王子を押さえておく必要もあった。

 

しかし、反唐色の強い中臣鎌足は那珂大兄王子に肩入れしているふりをしていたが、王位と復讐しか望んでいない那珂大兄王子は既に見限っていて、裏では強烈な反唐派の高句麗の宰相イリへ肩入れしようとしていた。

 

ウィジャ王を天下人にしようとする志を持つ者達は、その前に権勢にあやかろうとする何かしらの権力欲があったが、中臣鎌足は、権力というよりもまず根っからの唐嫌いである。

 

イリと高句麗の武力を恐れない者はいない。

 

「三韓」などと呼んではいたが、百済・新羅などとは一線を画し、大国隋と三度戦っても負けず、隋軍100万を全滅させ、今また唐と戦うほどの高句麗の軍事力は、大戦経験をあまり持たない和国にとっては次元の違う存在であり、海を越えて攻めてくる可能性だけならば、遠い唐よりも、むしろ近い高句麗の方が煩慮された為、高句麗のイリの反応に、中臣鎌足は心を砕いている。

 

イリは内心、

 

(和国への野心がある)

 

那珂大兄王子が王位につくことなど絶対に許せず、今、那珂大兄王子などが即位すれば、山背王の様にすぐ殺されてしまう可能性さえあった。

 

それをあからさまに出来ないことがまたイリの態度を婉曲させ、無言の威圧が不気味な雰囲気を漂わせていた。

 

ウィジャ王は、イリの野心を刺激し後ろ盾に利用していたが、イリにも和国を任せる気も全くない。ただでさえ、ウィジャ王の息子である高句麗の宝蔵王を操り人形の様に扱い、高句麗で権力を握っていることが気にいらないのである。

 

一方、

 

それでもイリは、上宮法王が武王を認め百済王に任命したように、やがては自分もウィジャ王に立てられ和国を任されぬものかとウィジャ王に協力している。

 

しかし、ウィジャ王は、武王と宝妃の娘で那珂大兄王子の妹である間人皇女を和国皇后にたてた。

 

 

【挿絵表示】

間人皇女

 

山背王が上宮法王の娘を皇妃として入婿の様に斑鳩に入っていった様に、和国で上宮法王の血統を入れずに王位につくということは難しく、当然のことではあったが、そのことも宝妃の血を引いてないイリにはいっそう疎外感を感じ、感情は屈折していった。

 

(また、血統主義か)

 

と、不満をくすぶらせるイリに対して、

 

那珂大兄王子の妹・額田文姫が嫁ぐことになった。

 

額田文姫は、金ユシンの姪で、百済・武王を父にもつ、那珂大兄王子の義理の妹である。

 

新羅にいるイリの実子・法敏とは従姉弟どうしだ。

 

武王により、百済と新羅の国交が回復した時に、百済から新羅の金春秋に嫁ぎ、新羅・金一族のもとではイリとも出会っている。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

額田文姫は、ウィジャ王の新羅侵攻よって百済と新羅が交戦状態になってしまうと、金春秋と離縁されてしまい耽羅へ島流しになっていた義兄のキョギ王子(那珂大兄王子)のもとへ身を寄せ、共に和国へと落ち延びてきていた。

 

 

しかし、那珂大兄王子や和国皇后の間人皇女の様に宝妃が母でなく「上宮法王」の血筋ではない庶子であり、額田文姫は、王室の余所者の様に扱われていた為に、王室から追い出されるように、イリのもとへ嫁がされてしまった。

 

幼かった額田文姫も、子供が産めるくらいに成長していた。

 

 

 

【挿絵表示】

額田文姫

 

幼いころから王室の都合で三国をめぐってきた額田文姫は、本当に三国でどこにも居場所が無い様な心細さを感じていた為、むしろ積極的にイリに繋がりを求めイリの妻であろうとした。

 

額田文姫の母・鏡姫は、百済と新羅の通好が途絶えていて接近が難しかった頃、金ユシンらの手配によって、和国・金一族の鏡の里より上殿し、武王が和国に滞在していた際に近づき寵愛を受けるようになったが、新羅の金一族の姫として嫁いでいる。

 

額田文姫は、百済武王の娘でありながら、

 

和国・百済の敵国である新羅の金一族の娘であり、

 

王室の中では、敵国の縁者なのである。

 

宝妃は、しっかりと線を引き、額田文姫のことを王室の者ではなく、女官の様に扱っていたが、額田文姫の母、鏡妃が亡くなってからは、より一層顕著になっていった。

 

しかし、その一方で、血統こそ違うが宝妃は、自分と同じように、政治的な都合で三国をめぐってきた額田文姫に同情して、強いイリのもとへたくそうとしたのかもしれない。

 

ウィジャ王の和王即位は、イリの協力と高句麗の後ろ盾がなければなし得なかったことだが、その見返りが額田文姫との婚姻だけであるということに、イリの不満感はつのった。

 

イリが、唐と高句麗が交戦中でありながらも、汗馬の労を厭わず和国と高句麗を行ったり来たりしていたのは、何も東国の蝦夷族(粛慎)からの徴兵だけが目的だったという訳ではない。

 

ウィジャ王の和王即位のもと、和国の要職の地位に就くことを望んでのことである。

 

(ウィジャ王が和国と百済、二国の王となるならば、吾は、和国と高句麗、二国の宰相となる)

 

というくらいの野心は、当然持ち得ていた。

 

 

イリには、新羅の金一族との縁が増えていくことはやぶさかではなかったが、

 

(これではまるで上宮法王の娘「宝妃」の血統と、そうでない者共を隔てられている様ではないか)と、

 

イリは面白くなかったが、

 

しかし、それでもイリは額田文姫をこよなく寵愛した。

 

額田文姫は上宮法王の血統ではないが、武王の姫で那珂大兄王子の義妹であり、この婚姻によって、イリが王室とつながったことは望外の栄誉である。

 

那珂大兄王子とは改めて義兄弟になった。

 

大化の改新で、何の地位も与えられなかったイリに与えられた和国での唯一の立場、

 

那珂大兄王子の義弟、イリが誕生した。

 

イリは、王室の兄弟と名乗ることで、次第に朝威をはるようになっていく。

 

 

【挿絵表示】

 

 

額田文姫は、

 

戦乱さえなければ、新羅と和国・百済との平和の象徴となった姫であるが、

 

百済・和国と新羅が敵対している以上、三国どこへ行っても

 

「敵国の血が流れている姫」と、

 

侮蔑されてきた。

 

 

しかし、島流しになった兄のキョギ王子と共に耽羅(済州島)に滞在していた一年ほどの間だけは、母・鏡妃とも再会し額田文姫にとって心をくつろげた時間だった。

 

 

【挿絵表示】

済州島

 

 

耽羅(済州島)は、朝鮮半島の様な敵対関係が薄く、貢納による独自性を保っていたため、額田文姫のことを

 

「敵国の姫」

 

などと言うものは一人もいなかった。

 

 

特に、島の有力部族・高氏の海女姫は年も近く温かく額田文姫を迎えてくれたので、

 

額田文姫にとって、何の遠慮もなく心を開ける親友となった。

 

額田文姫は、子供の頃から人前では決して涙を見せず、ことさら明るく振舞い、笑顔を絶やすことはなかったが、

 

この時だけはずっと張り続けてきた緊張が解け、

 

どこに行っても否定されてきた自分の身の上に

 

心の底から、思い切り泣いた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

生まれて初めて、自分自身のために思いきり涙を流した。

 

そして、少女時代の悲しみを全て島においていき、和国へと向かっていった。

 

イリと額田文姫は、居場所を感じられないまま三国をめぐってきたという点では、同じような境遇であった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

【挿絵表示】

 

幼い頃の イリと額田文姫

 

若くして三国を巡ってきた二人は、和韓諸国の言語に精通していた為、万葉仮名と吏読を、まるで「二人の暗号」の様に使いこなした。

 

万葉仮名と呼ばる和国語を漢字で表記(あて字)したものと、吏読(古朝鮮語の漢字表記)を重ね合わせて、一つの漢字文に、二つの意味を持たせる。

 

どちらの言語で訳しても、意味が通じ、その意味合いが真逆になったりするのが面白い。

 

面白半分で始めたが、イリには、当意即妙な額田文姫の才女ぶりが痛快であり、時折、額田文姫の宮へいきこの漢字遊びを楽しんだ。

 

遊び心にそうしている二人は、夫婦というより、

まるで同志のようだった。

 

 

 

 

 

古人王の娘で那珂大兄王子に嫁いでいた大和姫は、夫に父を殺されてしまい、あまりの衝撃に欝になってしまった。後ろ盾となる蘇我氏もなくなり、復讐する気力もないどころか、一人残され、

 

(この先、どうして生きられるのか)、

 

と、途方にくれる。

 

那珂大兄王子は、古人王の皇太子であるという『大兄王子』の称号を手放す訳にはゆかず、その為、古人王の娘大和姫を離縁することも殺すこともしないが、大和姫にとっては生きる屍の様に敗者の人生が続いていく。

 

 

 

【挿絵表示】

大和姫

 

古人王の婿となり「大兄王子」という皇太子の名乗りが欲しかっただけの政略結婚であるということは、大和姫も重々分かってはいたが、まさか父が夫に殺されてしまうとは思いもよらないことだった。

 

大和姫は父を殺した、那珂大兄の王子を憎みつつ夫婦の関係のままであり、その大和姫に父殺しと憎まれている那珂大兄の王子は、父を殺したウィジャ王を憎みつつ王と皇太子の関係となりつつあり、業の深い宿縁を背追って生きていた。

 

那珂大兄王子は、和国皇太子として唐の承認をとりつけたかったが、蘇我石川倉麻呂をはじめ、和国の有力部族達は皆、ウィジャ王に従ってしまったので、那珂大兄王子には後押ししてくれる味方も少なく、ウィジャ王を動かし和国から唐に皇太子承認を働きかけることは難しい状況だった。

 

旧親唐派の者達は、唐の手先である高向玄里からの加護を期待したが、高向玄里はウィジャ王より「国博士」の地位を与えられ、何の政治力もない名誉職であった為、求心力は弱く、次第に霧散して派閥は瓦解していき、那珂大兄王子には、蘇我赤兄ら蘇我系の者達がウィジャ王に反目していた為、新たな身の置き所として野合し従っていた。

 

 

事変後まだウィジャ王政権が始まったばかりの和国で、イリは唐との戦いに備えて暫く奔走していた。

 

 

和国にいた突厥の残存勢力のもとに行き、

 

「生前の上宮法王は、高句麗の嬰陽王と連携して唐と戦う為、戦船を造船し大陸に渡ろうとしていた!今こそ上宮法王の志を継ぐ時!」と大号令し、

 

大陸への回帰を望む者らは皆、イリに従い唐と戦うことを誓って高句麗の船に乗っていった。

 

この中には上宮法王に付き従ってきていたペルシア人達もいた。ペルシア人は技術者が多かったが、上宮法王の祖国ペルシアは636年にイスラム教のアラブに侵略され首都バグダッドは陥落し、ペルシア王も逃亡してしまい、彼らは既に帰る術がなくなってしまっていた為、兵達と共に高句麗へと渡った。

 

イリは彼らを重用し、西アジアの文化とペルシアの事を詳しく学んだ。

 

古代ペルシアは遥か昔にアレキサンダー大王に滅ぼされてしまっていたが、その後「パルティア(安息国)」が起こった。そのパルティアを討ち再興した新たなササン朝ペルシアが上宮法王の故郷である。

そのササン朝ペルシアもエフタルに圧迫され、突厥の介入や東ローマ(ビザンツ)と争ううちに次第に弱体化し、イスラム教のアラブに制圧されてしまったが、歴史は古く独特な文化があった。

 

ササン朝ペルシアの王統は古代ペルシアの神官に発し、ペルシア人は王を『現人神』として神聖視していること、ゾロアスター教という火を崇める信仰があることなど、イリは和国や半島三国ではあまり馴染みのなかったペルシアの情報にふれていった。

 

ペルシアの人々は、水の女神アナーヒターを篤く崇拝している。

 

現人神「王とはこの世に人間の姿で現れた神である」という人々の想いはまだ東アジアにはそれほど強く根づいてなはなく、これは王権を被うには重要な思想であろうかとイリには思われた。

 

そして、幼い頃に母と慕っていた宝妃が、大海の里にやってくると、時折、『火』の前で何か修法をしていた事を思い出した。ペルシア人たちによると、亡き上宮法王も、『火』を崇め秘伝のマントラを唱え修法を行っていたという。

 

唐より「道教」の博士を招聘し、陰陽五行・気学風水と遁こう術を学んだイリは、この西アジアのゾロアスター教(拝火教)にある密厳な修法にもまた強く心を惹かれた。

 

詳しく学べば学ぶほど、イリは東アジアとは異なる基底文化を持つ西アジアの世界観に憧れていった。

 

 

 

イリは和国から兵を連れて高句麗に向かっていったが、イリの妃・額田文姫は早くもイリの子を宿していて身重のまま和国に一人残っていた。

 

 

額田文姫は、翌年無事に姫を産んで、

 

十市姫と名付けた。

 

 

十市姫が生まれるとすぐに額田文姫は、

 

「金一族は、伽耶国の王族、私たちはその王の血をひいているのです。私たちの役目は、力のある者と結び、王の子を産み、いつか、伽耶国王家の血をひく者を王の座につけることです。」

 

と、まだ言葉の分からぬ姫に語り聞かせをした。

 

 

「いつかどこかに嫁いでも、決して伽耶国の王統であることを忘れぬように。」と、

 

十市姫が物心つく前より語り続け、娘を育てていった。

 

同じ、金一族で姉の様に慕っていた「鏡宝姫」は今は金春秋に嫁しているが、イリの最初の妻である。

 

額田文姫がイリの子を産んだことを風の噂に聞き喜びもしたが、

 

(私には風も吹かない、、)と、羨み

 

長い間、イリに会えずにいることを歌った。

 

 

 

 

645年12月、

 

 

ウィジャ王は和王即位後すぐに、河内の難波宮へと遷り、ただちに政務をとった。大和から都を移すのは始めてのこととなる。

 

大和から離れ、和国の表玄関でありかつて突厥勢が四天王寺で偉容を誇った地であり、蘇我石川倉麻呂の本拠地からも近い難波を新政府の都に選び、新たな世がきたことを人々に示していた。

 

山深い大和よりも百済に近く海路でつながる。

 

ウィジャ王が和国へ亡命してきた頃からずっと援護をしていた蘇我石川倉麻呂は右大臣になり、阿部内麻呂が左大臣、高向玄里は国博士、中臣鎌足が内臣、安曇連は東国の国司に任じられた。

 

阿部内麻呂は、蘇我蝦夷の側近だった者で、旧蘇我派を抑えるための政治的配慮もあった。

 

ウィジャ王やイリにとって、敵は和国ではなく唐であり、和国打倒は目的ではなく、唐に備えた軍事力の確保が目的だったので、邪魔者だけを取り除いて、和兵1人でも無駄にしたくないというのが実際のところだった。

 

 

ウィジャ王は側近の中臣鎌足を内臣としたものの、直ぐに百済へ向かわせ百済総督を任せたので、改新当初わずかしか国政に参与しなかった。

 

和国の新たな支配体制は、国博士の高向玄里によるところが大きく、唐にならった制度の智恵を出させた。

 

ウィジャ王が以前、高句麗を追われ和国に亡命していた頃、先代の志を継ぎ反唐を貫こうとする孝徳を讃えられて「東海の曾子」と呼ばれていたことを和国の者は覚えていて、「孝徳の王」であることから、和国ではそのまま孝徳王と呼ばれる様になっていった。

 

(曾子=考経の編者)

 

この年、那珂大兄王子に嫁ぎ懐妊していた蘇我石川倉麻呂の娘・遠智娘は、無事女の子を出産し、大田姫と名付けた。

 

 

 

 

【改新の詔】

ウィジャ王は、国博士の高向玄里に

 

「和国の支配を強固なものにし強国へと改革する為、唐にも負けぬ制度を直ちに献案せよ」と命じていた。

 

蘇我を打倒した後の和国を支配する為、高向玄里は百済でウィジャ王と会談した頃より既にその準備を進めてきていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

高向玄里は、順を追って述べていく、

 

「和国は、有力部族らの所有している私有民と私兵による連合でしたが、これは根底から変えていかなければなりません。今の和国には時勢につながるようなものは何もないです。」

 

第一に、

 

「有力部族らが、所有する私兵を出して参軍する和国の部族連合軍とは、国軍とは言い難いものです。」

 

『公地公民』、、

 

「まず、有力部族達の所有している領地と私有民を召しあげて、国民と国民の田畑となる土地を国が所有するものとして確保しなければなりません」

 

ウィジャ王は真剣な目で聞きいる、

 

 

「国民とは、国が直接的に徴税権と徴兵権を有する民衆のことであり、部族長らが有するものではありません。そうした意味では唐の軍は、均田制によって徴兵された国の直属の兵。国軍です。 和国も、唐の均田制に習った法制を施くべきです。」

 

「その法制とは?」

 

『班田収受の法』と言います。

 

「部族民を国民に変える制度です。有力部族らの土地と民を召しあげた後で、民の一人一人にあまねく土地を分け与えるのです。田と民が生きていく為の畑を与えます。唐の太宗皇帝は、これを徹底的に行い、奴婢(奴隷)の一人一人にまで田畑を与え国民の義務を課しました。三年に一度、三人に一人など国民から徴兵し国軍として防衛や侵攻に当たらせているのです。和国もこれを行うべきです。」

 

「有力部族らから民と領地を召しあげるなど、そのようなことが出来るものか、、!かようなことは、百済で散々フンスやソンチュンがやろうとしたが出来なかった。有力部族どもが大人しく従う訳がないだろう。」

 

ウィジャ王はいまさら何を、、と呆れ顔になってしまった、、

 

「必ず出来ます。私有民と私有地をただ取り上げるだけでは彼らも納得するはずがありません。なので、一旦国に差出した後、今度は国から改めてその土地と民を全て有力部族らに与えるのです。実質的には土地も民も変わりませんが、国に従って一度は土地と民を収めることによって、正式に国からその土地と民に対する領有を認めることとにします。」

 

「それでは今までと何ら変わりはないではないか。」

 

ウィジャ王は、不信感を顕にする。

 

「はい。その通りです、ウィジャ王様もその様にお考えになるということは、彼らもそう考えると思います。しかし、徴税権と徴兵権は国が有します。今までは、部族らがそれを握り、国の権利は逆に間接的なものでした。これを転回し、部族らの権利を間接的なものとして、国の官僚体制の中に部族長を組み込んでいきます。」

 

、、

 

「召し上げた土地を再び部族に与える時は、部族長を『国司』として任命し、民を『食封』として国が与えて、徴税(田租)を任せ半分を国司に給付します。」

 

「なるほど、では今までの国造は国司という官に代わり、私有民(部族民)は食封ということになるのだな。」

 

「はい。そして、国の収公に従わずに旧体制を維持しようとする部族などは朝敵として国を挙げて成敗します。」

 

「緩急をつけるということか、、」

 

「さようでございます。従う者には土地と民を与え、そして冠位と地位を与えます。従わない者は 朝敵として成敗します。」

 

、、

 

 

「必ずや成功させましょう、和国は蘇我の独裁体制でしたから、連合して逆らえる様な部族はもういません。阿部氏、大伴氏、佐伯氏、、ほぼこちら側についている部族達から高官に就かせ、ウィジャ王様に従わせますように、、」

 

 

「念を押して言いますが、和国は長いこと部族連合国家でした。これは『国』はあっても『国民』のいない国です。和国の民衆は国民ではなく、全て部族長らが所有する『私有民』です。部族連合国家から、王様が統べる『中央集権国家』へと生まれ変わり、初めて和国の民衆は国民となるのです。その為には律令の領布は避けて通ることはできないのです。」

 

 

 

ウィジャ王は高向の案を容れ、ただちに改新の草稿を進めさせた。

 

 

646年1月、

 

ウィジャ王は「改新の詔」を発布する。

 

上宮法王以来、和国の課題であった、有力部族達の所有する私有地・私有民を解放させ、国有地と国民を確保するための改革が始まった。

 

土地と人民は全て国家へと収公し、唐の土地制度【均田制】にならった班田収授の法を整備し、農民に田畑として耕す土地を与え、新たな租税制度・田調も策定した。

 

有力部族達にはそれぞれに応じ位階や官位が与えられ、貴族としての地位をつくり上げていく。群制を施し官名を評とした。

 

そして、職能集団(曲部品部)を形成していた部族の世襲を廃止し、有力部族の職能独占による権力集中の無力化をはかった。

 

また、有力部族の巨大墳墓の造営を禁じた「薄葬令」も定めた。

 

エフタル族の大渡王以来、和国は統一されたとは言え、有力部族の首長らが連合したに過ぎず、首長らは土地と民を有するままで、それぞれが小国王の様なものである。古墳の造営も当然のように連面と続けられてきたのだ。

 

そして、巨大墳墓の禁止とともに、蘇我氏の墳墓は徹底的に破壊し、ただの石舞台にしてしまった。

 

これにより、旧態然とした有力部族達の巨大古墳の誇示は姿を消し、古墳時代は終焉を迎える。

 

古墳を造営していた部族らの中には、それぞれの出自とする王家や国があり独自の元号を使っている者もいたが、和国の元号は『大化」と定めて勅した。

 

 

土地と人民を国に収公するとしたが、決して有力部族達の力を根こそぎ削ぐものではなく、国家という体制に組み替え、古い有力部族や地方部族の存在を新たに合法化したもので、地方の国造は郡司に、私有地民は、食封といい換え、国があらためて給付するという温存政策であり、形を変え実質的に有力部族達に還元した。

 

しかしこれにより、私有民・私兵を用いた各部族たちの連合軍というものはなくなった。

 

私有民=私兵が減少した分、国家の徴兵力は確実に上がり、有力部族達の派閥化・軍閥化した機動力の無さからは解放され、旧部族連合軍体制から脱却する「国軍化」が初めて可能になった。

 

逆に、今まではそのように有力部族たちの連合軍であったが故に、部族を超えた強大な軍隊を起こすことが容易にできなかった事が、和国最大の弱点でもあった。

 

エフタル族や突厥勢の大軍の渡来に対し抗うことができなかったように、求心力のある存在がいない和国の有力部族達では、百済や高句麗の武力を背景とするイリやウィジャ王にも逆らうことができない。

 

度重なる大陸や半島からの大勢力の渡来が続き、この頃には蘇我氏のような一部の有力部族をのぞいて、みな疲弊し、力を削がれてしまった有力部族が殆どだった。

 

私有地・私有民を国に差出し、実質的に勢力を削がれる部族も多かったが、それでも尚、地方部族や小部族の中には自力で既得権を維持し続けることに限界を感じて、積極的に「改新の詔」に従うものが続いた。

 

和国135諸族の反応は一様ではなく、既得権を自力で維持するか、国に維持して貰うかを考えなければならなかった。

 

力の無い小部族は、戦うため、生き延びる為に、縁組によって他の部族と連携をする度に、乗っ取られてしまう危険をはらんできたが、その様な危険な方法を継続をするよりは、まだ勢力が残存しているうちに民と土地を自ら国に納め、国から改めて地位と領地を保障して貰って、国の統治により他部族間との脅威を払って貰う方が遙かに得策と判断された。

 

従来、和国の部族達は他部族の興亡よりも自分達の存続のみを考えて存在してきた。

しかし、過去の有力部族達が、平群氏や葛城氏が攻め滅ぼされるのを傍観していたような、和国の原始的な部族体質を維持することはもはや時代に能わず、改新の詔に従わないで抵抗していた一部の部族達は、存続のため、

 

「国と結ぶか、残った他の部族と結ぶか」の

 

選択を迫られるようになった。

 

百済・高句麗の武力を背景に和国を制するウィジャ王に対し、各部族たちをまとめ連合軍を組織するなどして、逆らえる力量のある統率者が和国にはもういなかった。

 

まして、アジア最強と云われた唐軍の軍勢をも撃退した高句麗軍とイリを向うにその武力を恐れぬ者はなく、あるいはそのような力量があるとすれば、蘇我石川倉麻呂や阿部内麻呂がそうだったかもしれないが、既に大臣の地位と充分な所領を与えられていた為、あえてそれを捨ててまでもウィジャ王に逆らう理由もなかった。

 

しかし、ウィジャ王に逆らうことはなかったが、蘇我石川倉麻呂は一方で強い不満が鬱積していた。

 

ウィジャ王は、和王即位までウィジャを推し続け、尽力してきた蘇我石川倉麻呂を大臣にはした。

 

今のウィジャ王があるのは間違いなく蘇我石川倉麻呂のおかげであったが、それ故に蘇我石川倉麻呂は尊大になり、第二の蘇我蝦夷になる危険性をはらんでいた。

 

ウィジャ王は、蘇我石川倉麻呂の専横を抑える為に、もともと1人であった大臣を二人にし、蘇我石川倉麻呂とは反対勢力であった蘇我蝦夷の腹心・阿部内麻呂をもう一人の大臣に据えた。

 

諸管の位づけをする制度であった「冠位十二階」も変えた。もともと大臣は、冠位十二階より上であるとされ、大臣だけが紫色の冠が与えられていたが、冠位十二階の上に一階級増やし、6段階に分けて全ての冠を同じ紫色にしてしまった。

 

そして、功臣・中臣鎌足を忠誠のゆえの宰臣として、

全ての官の上であるとし大錦冠を授け

 

「その功は武内宿禰にも匹敵する」

 

とまで讃えた。

 

(武内宿禰=和国の伝説的な功臣で、全国の八幡宮等に祭られている)

 

また、有力部族らの職能世襲の廃止も、中臣氏は例外とした。

 

中臣鎌足は大いに喜び、ウィジャ王に代わって百済を総督するために、和国から百済へ渡っていったが、中臣鎌足がウィジャ王の代理を任されたことは、ウィジャ王に代わって和国の権力の座に就こうとしていた蘇我石川倉麻呂にとっては看過できない出来事だった。

 

 

あからさまな大臣の地位の空洞化による、蘇我石川倉麻呂への牽制は不承だったが、蘇我石川倉麻呂は、辛抱強く堅実な人物で、蘇我馬子・摩理勢兄弟や、蘇我蝦夷・入鹿親子のもとでも、強腰でありながらも表だって戦うことはせず、隠忍自重して、権勢を保ち続けてきた遍歴の持ち主であり、反抗的な態度をとりつつも、ここで怒りに任せてウィジャ王に刃向かうことまではしなかった。

 

那珂大兄王子も、蘇我石川倉麻呂とともに隠忍自重し、蘇我氏によって収奪されていた上宮王家の屯倉の一部を母・宝妃から譲り受けたばかりだったが、自ら率先してその土地と民を国に献上した。

 

上宮法王がもたらした意識改革は、時を越えて、とろ火のように有力部族達の意識を煮崩していき、ようやく大化の改新の詔を発布できる程となり、和国の国としての体裁がかなった。

 

しかし体裁だけであり、和国が律令国家として実質的に機能するのはもう少し先のことになる。

 

一枚岩の国家などというものは、遠い幻想のようなものかもしれないが、一枚岩の「軍隊」の編成は目の前の課題である。

 

だが、和国軍兵は、新羅の花朗兵の様に早くから調練し「憂国教育」をしてるわけでもなかった為、ただの烏合の衆にすぎなかった。

 

しかしこの「大化の改新」によって、地縁血縁と職能が拠りどころだった原始的な部族社会の時代は終わり、律令と官位に帰属する貴族社会の時代へ移行する下地ができた。

 

和国はこれより中央集権国家への道を進み始めるが、皮肉にもその叩き台を作った高向玄里はこの後、和国を離れることになる。

 

しかし、その思想は高向の息子イリ(天武天皇)に引き継がれ、その後はイリの息子・法敏(文武天皇)が引き継ぎ、親子三代に渡り半世紀におよぶ律令化を経て、大宝律令の制定により完成されていく。

 

 

中央集権が完成され、

 

部族国家「和国」が消滅し、

 

律令国家『日本国』が建国されるまでは、

 

まだ少し時を待たなければならない。

 

 

 

 

今、和国・百済、両国の王となったウィジャ王は、

 

和国の支配を整えた後、高句麗の王である息子・宝蔵王と共に、和国・百済・高句麗の『三国連合国』の大望を描こうとしていく。

 

そして、三国からの包囲を強め、いよいよ新羅を帰服させようと動きはじめた。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。