和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦632~640年、百済のウィジャ皇子は和国へと渡った。高向玄里の息子イリは、養育されていた大海の里を出て河内にある金一族の里・鵜野村へ修行に行く。その頃、ウィジャ皇子は和国で東の蝦夷兵を率い山背王に対して反乱を起こしていた。イリは父・高向玄理に連れられウィジャ皇子に会いに行った。その後、新羅の金一族のもとへ向かい、そこで出会った金ユシンの妹と結ばれ息子を授かる。
しかし、その幸せも束の間で終わり、また父によって連れ出され、今度は高句麗へ行かされ、イリは高句麗の大臣につかされてしまった。少年から大人へと育つ数年で、イリの世界は激しく変わり、若くして反唐勢力の渦に巻き込まれやがてイリは三国動乱へと加わっていく。

1話 和国の二つの花
2話 金一族
3話 母系国家
4話 ウィジャ皇子と高向玄里
5話 新羅・金一族
6話 高句麗大臣イリ


第2章 高句麗「イリ・ガスミ」大臣

632年11月に遣唐使「犬上御田鍬」が和国に帰国し、共に唐からの初めての公式使節「高表仁」が来和した。

 

「高表仁」は難波に上陸し、江口にて大伴馬養が饗応し客館に安置したが、山背王は使節の饗応を隋の時代の上宮法王と同じように手配してしまった為、使節高表仁はその無礼に対して怒り言い争いになった。

 

そして怒った高表仁は唐皇帝からの言葉を和王に伝えないまま、633年早々に帰国してしまった。

 

唐皇帝からの言葉を伝えずに、唐へ帰国してしまった高表仁は、唐の太宗皇帝から

 

「使いの役に立たない」と詰られ、

 

「綏遠の才無し!」と激怒された。

 

唐は、これにより和国を冊封する機会を逸っしてしまい、一方、和国の山背王は唐の後ろ盾を受ける絶好の機会を逃したことになってしまった。

 

なんといっても和国は、アジア最果ての国である。唐にとって和国を冊封することは、皇帝の威光が隅々に行渡ったことを示す絶好の機会だった。

 

和国はその後、仕方なく親唐国の新羅を通じて唐との国交回復を必死に模索していった。

 

 

【和国の二つの花】

635年、唐の太宗に幽閉されていた初代皇帝高祖が没した。

 

また、吐蕃、石国、亀茲など唐の周辺国が次々と服属し唐へと朝貢してきた。

 

そしてこの年、最後まで唐に抵抗していた慕容氏の国「吐谷渾」を唐の李靖将軍が滅ぼし、唐の天下平定は、残すは東方となった。

 

 

唐の太宗は、極東の攻略へ全力を向けることが可能となり、翌636年には、新羅へ持節使を派遣して、善徳女王を「柱国楽浪郡公」新羅王に冊封し、父王の封爵を承襲させて正式に新羅を臣国とした。

 

唐の趨勢が強まってくると百済にいたウィジャ皇子は、636年7月、新たな兵力確保のため朝鮮半島から和国へと渡っていった。

 

当然、(隙あらば山背王を倒す)と、

 

闘いを心しての和国入りである。

 

 

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ウィジャ皇子

 

和国の東の蝦夷地にはまだ独立した小さい部族が多く、この者たちを切り従わせて、和国での援軍兵力を確保することがウィジャ皇子の目的のひとつだった。

 

(和国は西にしか目がいかない)と、

 

ウィジャ皇子はみている。

 

もともと軍事部族ではなく政治家だった蘇我氏には、膨張政策がなく、飛鳥から難波、九州、任那、百済と、もっぱらの関心ごとは西側の既存の勢力をいかに自分たちのものにするか政治的な介入だけを考え、エフタル族や突厥のように兵を率いて国を広げようという発想がまったくと言えるほどない。

 

蘇我氏の中での武闘派の境部摩理勢や石川倉麿呂でさえ、武力を政治的駆引きに使うだけで、勝利より賄賂を好んだ。

 

そのため、日本列島の東には、まだ手付かずの領地が広がっていて、地縁血縁の集団を持たないウィジャ皇子にとっては、かっこうの徴兵地であった。

 

和国以東の蝦夷族は、狩猟民族である。

 

農耕民族のように地面に縛られず獲物と共に移動するので領地権の主張もさほどない上、小部族が多かったために従え易い。

 

和韓諸国の農耕社会で蔓延る有力部族らの「私有民」よりも、比較的、移動性柔軟性に長けていて、一個旅団(500人)程度の編成に最適であり、100人将程度の指揮官が5人いれば良かった。

 

狩猟民族だけに農耕民族の兵より武器の扱いも上手い。

 

小部族達は「私有民」や「律令」が発生する隙間もないほど、長老から語り継がれる伝統を大切に守り、自然に生き、自然の恵みを糧として生きている単純明快な共同体である。

 

王の玉座はなく、神の坐す岩座があり、朝廷で政りごとを行わず、皆、天地の神をまつっていた。

 

素直に自然という不変の価値を敬い、自然の一部として生きている。人のあるがままの大道であり、仁義の害などが無い。

 

このような小部族は、アイヌ、粛慎、と呼ばれる狩猟民族であり、日本海沿岸から東日本、東北・北海道から海を渡った沿海州まで、広く分布し、しばしば農耕民族や騎馬民族の大部族の戦に駆り出されることが多かった。

 

狩猟民族には多数の部族があり、総称して粛慎と言い

 

アジア大陸北東から沿海州にいる【粛慎】を靺鞨族(マルガル)と言い、

 

日本列島の東北から北海道にいる【粛慎】を蝦夷族と呼んでいた。

 

和国へ渡ったウィジャ皇子は武王皇后の宝妃の御所である岡本宮へ入り、すぐに蘇我王朝の王である山背を挑発しはじめた。しかし逆に山背側の報復を受けて、岡本宮を放火によって焼かれてしまった。

 

ウィジャ皇子は蘇我蝦夷にも挑発を始めたが蘇我蝦夷は無視し続けた。

 

 

百済では武王がさっそくウィジャ皇子の排除に動き始めた。

 

ウィジャ皇子のようには武威が無いが外交の回転は早い。

 

和国の山背王といちはやく連絡を取り、

 

「隆王子を百済皇太子として正式に唐の承認をとり、ウィジャを廃太子にするので和国でも留保するように」と、言ってきた。

 

山背王はこれを了承し、それに怒ったウィジャ皇子は東国の蝦夷兵を率いて挙兵に踏み切ってしまった。

 

粛々と、募兵をしていた蝦夷の兵を組織し、東国にウィジャの旗をひるがえす。

 

 

蘇我蝦夷にとっても穏やかではなかったが、山背王とウィジャ皇子の争いを傍観し、

 

(どちらも好きなだけ争って疲弊すればいい)

 

と、望んでいた。

 

百済の武王も、ウィジャの挙兵が長期化することを望み、煩いウィジャ皇子がいなくなったことをこれ幸いと、新羅の善徳女王とも講和し、親唐派としての旗幟をふるって新羅、唐との関係を更に強化する。

 

 

百済の武王妃の1人に、新羅の金ユシンの兄妹の鏡姫が嫁いでいて、今度はその鏡妃と武王との間に生まれた8歳になる娘「額田文姫」を、新羅の王族「金春秋」の元へと嫁がせて、百済と新羅の国交をつないだ。

 

 

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額田文姫

 

そして、唐へは隆王子を遣わし、百済の皇太子として正式に唐の承認を得て、隆王子はそのまま人質として唐に留まった。

 

これで表面的に受けていた冊封でなく、名実ともに百済は唐に臣属したことになる。

 

 

百済・新羅・高句麗の三国とも唐の擁護を受けた政権となってしまい、反唐を貫くウィジャ皇子にはいよいよ世界に居場所が無く、孤軍奮闘となってしまった。

 

それでも尚、先代の志を継ぎ、決して屈しない、

 

孤高のウィジャ皇子の「孝徳」を讃えて、

 

人々は「東海の曾子」と呼んだ。

 

 

唐に阿り、王は地位と保身の為に国を売り、

 

極東の国々が皆、唐の臣国になっていくざまに憂いを感じた者達は、

 

「こんなことがあっていいのか」と、

 

義憤にかられ

 

反唐を貫き三国をめぐるウィジャ皇子の姿に、感銘を受ける者が出はじめていた。

 

上宮法王を見殺しにした世代を厭い、

 

大国唐を敵に回そうとも決して怯まず、

 

新羅を攻めとり、和国まで渡り兵をあげるウィジャ皇子の壮志に影響された者達が、

 

戦国には不向きな旧態依然とした部族社会から、こぼれ出るようにあらわれてきて、志道同合し反唐を誓って結びついていった。

 

百済国内でも、若い世代には血統を超えた愛国心が生まれ、武王の王子達や、ウィジャ皇子の息子「考王子」、共に戦ったケベク将軍や駐百済大使の安曇比羅夫など血気盛んな若者は皆、ウィジャ皇子を軸にした反唐で団結していく。

 

ともかく、ウィジャ皇子は、反唐の同志と、手兵を必死で集め続けてきた。

 

身ひとつで百済に渡って以来、徒手空拳で奔走し、新羅を切り取り領地とし、和国に乗り込み配下をつくり、既存の有力部族だけを頼り味方につけるというのではなく、新たな自分の軍団を持つ為に、駆け続けていた。

 

 

そのようにして、集めた反唐の志を持った壮士らは、ウィジャ皇子の旗のもとへ今、結集してきて小部族の統率にあたった。皆、壮漢な男ばかりである。

 

大陸側の沿海州の小部族と比べ、日本列島の小部族は戦に駆り出される経験は少なく、新たな臣従関係が形成される先駆けとなった。

 

しかし、山背側と比べ兵数は軍とは称しがたいほど少なく、

ウィジャの旗と軍装は美々しくはなかったが、

 

それでもなお、東国の兵を従えたウィジャ軍団の士気はともかく高かった。

 

「有力部族らの私兵ではない」という一点において、

 

それが、比類のない強みとなっていた。

 

まるで今にも和国に、二人目の王が立つかのような勢いであった為、

 

山背王とウィジャ皇子をさして

 

「和国の二つの花」と云われていた。

 

 

また、ウィジャ皇子を慕い百済国内で団結した反唐の壮士達を指してウィジャ団と呼ぶものもいた。

 

基本的に、地縁血縁でかたちづくられていた「有力部族」達とは違う、反唐という志でかたちづくられていく新しい勢力の流れが誕生しつつあった。

 

そして、唐打倒に燃える者達は、高句麗、和国、百済3国の国境を越えて、密かに会盟をかさねていく。

 

やがて、それぞれの国の主流派となってしまった親唐派を排除する計画をすすめていった。

 

 

 

【金一族】

大海の里で養育されていたイリは、少年になると大海の里から離れ、他の部族の里へ修行にでていた。大海の里からそれほど遠くはない河内の讃良郡(シルラ郡)の鵜野村という所に、古い部族である金一族の里があり、そこで他の部族の少年達と共に製鉄術や剣術、暗殺術などを学んでいた。

 

 

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 イリ

 

暗殺術を学ぶことは、自分を暗殺から守るために必要なことであり、武術を身に着けなけなければ自分の身を守ることはできないので必ず習得するようにと、父・高向玄里から厳命されていた為、イリは必死に修行をしていた。

 

 

                    

金一族は、「金スロ」王を始祖とする朝鮮半島から日本列島にかけて活躍していた製鉄の民である。

 

金スロは、製鉄の民を統べて【鉄の国】伽耶国を建国した。

 

 

 

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金スロ王(金=アルタイ)

 

朝鮮半島南部から九州北部までを勢力下に置き独自の海峡文化を形成していて、昔から、金一族の造る高度な鉄器は周辺諸国の垂涎の的だった。

 

遠くインドからも南洋航路(海のシルクロード)を渡り、伽耶国の鉄を求めて商人がやってきた。

 

製鉄には原料となる鉄鉱や砂鉄もさることながら、鉄の60倍もの薪を必要とする為、自然と森林地帯が続く日本列島深くへと進出していき、任那地方~九州、山陰地方~近畿にまでタタラ場を造って、良質の鉄を造り出して栄えていた。

 

高向玄理の名乗りと同名の「高向」の地もまた(福井県)、古くは鉄の産地である。

 

製鉄の民は、遊牧民族が、牧草や獲物を摂りつくしてしまう前に他の場所に移動しなければならないのと同様に、森林の再生力を残して別の森林へと移っていかなければならない。

鉄と薪を求め山から山へと渡り歩く山の民であり、古くは「海人」部族と比して「山人」(ヤマト)などとも呼ばれていた。

 

金一族は、日本列島各地に製鉄文化を根づかせると共に、「前方後円墳」という伽耶国式の古墳文化を残していった部族でもある。

 

本拠地は任那の伽耶国だったが、任那は常に和国や百済、新羅に攻められ併合され宗主国が変わってきた。

 

かつて欽明聖王が百済・和国の2国を領有し、任那もその傘下だった時代に、任那が新羅に攻め滅ぼされ、完全に新羅の領土となってしまうと、伽耶の王族らは新羅に吸収されて任那地方の領主(安羅地方、高霊伽耶地方)となった。

 

その時、王族として来和し、たまたま和国に滞在していた金氏(金庭興)は、そのことを恥じた。かつて金庭興は百済軍と戦い百済兵一万を討ったこともある豪の者で自尊心も強く、そのまま任那には戻るのは潔しとせず和国へ残留し、十代目鏡王を名乗って定住した。

 

その地が金一族の里「鵜野村」だった。

 

 

 

 

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  第10代目 金庭興

 

金一族の製鉄は、優れた剣を生む。強くあるためにはより優れた製鉄が必要であり、常に製鉄技術の進歩と共に剣術は進歩していた。

逆に、振る、払う、突く、受ける等の剣技の発達と共に、それらの動作に合わせた剣の製鉄も進歩しなければならず、製鉄と剣術が両裏一体の時代を金一族は生き抜いてきた。

 

また鏡とは、剣と同様に、製鉄技術の粋を集めた製品であり、製鉄の民にとっての象徴であった。

 

剣も、鉄の強度だけでなく研磨技術によって完成される鋭さが伴って強くなるものだ。

 

後世、硝子製の鏡が発明されるまで、人々は胴を磨き上げたものを鏡として使っていたが、金一族は乱反射が全くない研磨技術の証として鏡を使っていた。

 

薄く硬い均質な肉厚で精巧に磨き上げた鏡は、水面に光を映すだけですぐに金一族の鏡と分かるほど群を抜いていた。

 

この為、金一族を統べる者は『鏡の王』という。

 

※王家の神器は、後に『勾玉』が加わり三種の神器となるが、この時代までの王家の神器は『鏡』と『剣』が主流であった。

 

 

 

金一族の里で修行中、

 

イリは他の部族から修行に来ていた少年達より思わぬ虐めにあっていた。

 

中国人は野蛮な民族で、イリが漢王朝の末裔であるというだけで、野蛮人として扱われ差別されていた。イリを仲間の輪には入れず、周囲からは軽蔑と中傷が向けられた。

 

和国は伝統的な多民族国家であり、アジア大陸から日本列島まで逃げてきた亡命者や流民を大勢受け入れてきた歴史があった。

 

アジアからの移民は部族を率いて渡ってくる者が多く、それぞれ部族ごとに入植地に定住をしていたが、北アジアの遊牧民族や西アジアのユダヤ人、中国人に圧迫され逃げてきた東南アジア、東北アジアの民族が多く、中国人(漢民族)はどちらかというと和国では少数派の民族だった。

 

養育されていた大海の里では、

 

「自分が中国を統一し400年も続いた漢王室の血統である誇りを忘れるな」と、

 

教えられていたイリには、何故、漢民族がその様な差別的扱いを受けなければならないのかが分からず、修行の場は尚更苦しい場所となったが、孤独だったイリはことさら懸命に修行に打ち込み続け、父が訪ねてくる日を待っていた。

 

 

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父、高向玄里が金一族の里にやってくると、イリは真剣な面持ちで

 

「何故、漢民族は差別されるのか」と

 

問いただすように尋ねた。

 

高向は、少し驚きつつも、漢民族と遊牧民族の違いを語りはじめた。

 

 

【母系国家】

アジアの中心の国「中国」は中国人である漢民族が王朝を建国した。

 

漢民族は、農耕民族であり、昔から中国に流れる大河、揚子江や黄河流域に住み農耕を続け、文明を築いてきた。

 

中国の周辺は皆、遊牧民族であり、常に中国は遊牧民族からの侵攻を受け戦い続けてきた。

 

先祖が切り開いてきた田畑を耕し、土地に定住する漢民族と違い、狩猟や牧畜を続ける遊牧民族達は土地に縛られることなく、常に移動している。牧草や獲物を摂りつくしてしまう前に、他の場所に移動しなければ食糧を確保することができないので、広大な範囲を土地から土地へと渡り歩いている民族だ。

 

漢民族と正反対の様な遊牧民族は、文化や習慣も、ものの考え方も全てが違うことを、高向玄里はイリにゆっくりと説明した。

 

イリは、漢民族と習俗が違うというだけでは

「野蛮人」とまで言われる理由が分からないと更にたたみかける。

 

高向玄里は覚悟を決め、成長する息子のために古事の逸話をいくつか語り始めた。

 

 

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高村玄里

 

まず大きな違いは、漢民族は男系社会(ウル)で、王の世襲も男性の血統が代々継いでいくのに対し、遊牧民族やユダヤ民族、和国など血統を神聖視する民族は母系社会(ハラ)で、代々女性の血統を大切に守っていく習慣があることを説明した。

 

「その昔、漢の使者が遊牧民族の元へ遣わされその風習にふれたとき、遊牧民族の高官に向かって『父と子が同じゲル(テント)で生活し、父が死ぬとその継母を息子が妻とし、兄弟が死ぬと弟がその妻を娶って妻とする遊牧民の風習が野蛮である。』と非難したところ、その高官は『我々は家系を大切にしているだけだ。漢のように家族や親族で殺し合うような野蛮ことはしない』と皮肉まじりに反論したことがあった。このことが史書に書かれて以来、彼らは漢民族を指して親子兄弟で殺し合う野蛮な行為の代名詞であるかのように語るのだ。

 

遊牧民族の場合、母系の血統を神聖なものとして重視している為、王が亡くなっても王妃はそのままであり、次々と新たな王を婿にしていく。父が死ぬと、義理の息子が母を妻にしその者が死ぬと弟が娶るこの習慣のことは、西アジアの民族が信仰する景教(キリスト教)の聖書にも救世主の言葉に書かれていて、中国の漢民族以外の多くの民族にとっては当然の常識で、決して野蛮なものではない。(レビラト婚制)

 

そして、遊牧民族はどんなに乱れようとも必ず同族の者を王に立てる。

 

一方、漢民族は男王を権力の象徴として重視し、男王は幾人もの妃を娶る。中国を初めて統一した秦王朝の時代に、『嫪毐(ろうあい)の乱』という事件があった。宰相の呂不韋という者は長年、王妃との不倫を続けその後は嫪毐という者が王の後宮へと入り込み太后との不倫を続けた。密通により息子が生まれ、嫪毐は反乱を謀ったが失敗に終わった。宦官制でも守れなかった失敗であり、王妃は、必ずしも男王の子を宿すとは限らないのだが、密通が露呈しない限り、王妃が産んだ子は王子であり、王になってしまうのが男系社会の特徴なのだ。

 

たとえ王妃の意思でなくとも、意に反し力づくで犯されてしまうこともある。その様なとき、誰ひとりとして『父親が誰であるか』を知る手立てはないのだ。複数のものと密通すれば産んだ母でさえ誰の子か分からない。人はみな、生んでくれた母を知ることはできても、父を知ることはできない。だから漢王朝のような男系の王が世襲する中国では、皇子といっても本当に王の血をひいているかどうかなど分からないのだ。

 

王の血統という純粋な血統を守るためには、常に女性の血統を継いでいくしかない。

 

何故ならば人は必ず、母から生まれるものだからだ。

 

母が王統であれば、父親が誰であったとしても、必ずその子供は王の血統を継いでいる。

 

人間が女性から産まれてくる限り、女性の血統でなければ万世一系などはありえないのが現実だ。

 

恐らくそのありようは正しく、それが女系の血統を重んじる意味であり、そうした習慣がない漢民族を野蛮だということの根には深く、代々受け継いできた血統とそうではない血統があり、遊牧民ほど血統を神聖なものとして受け継いでいない漢民族への皮肉でしかない。

 

確かに、中国では血統よりも力が全てであり、それは野蛮なことかもしれない。もし本当に血統が大切に守られるならば、我々のように漢王室の血統である父子が、和国にまで落ち延びる必要もなかったであろう。」

 

イリは、血統を大切に守り継いでいこうとする民族と、血統よりも力が全てである民族がいることはおぼろげに理解できた。

 

 

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イリ

 

 

「和国は、元々母系を大切にする小国が多かったのだ。力のある者が前王を退け王位につく時も、必ず先代の王の姫を王妃にすることで王となる。

 

漢民族が考えるような武力破壊で完全に相手を倒す中国的な王朝交代(易姓革命)などはせず、前政権の母系を和合する緩やかな王権交代なのだ。エフタル族の大渡王が和国を統一してからは男系の王権が強くなったが、母系を継ぐことに変わりはない。前王朝の血統は必ず根絶やしにしようとする中国では絶対にあり得ないことだ。

 

母系血統をついできた和国では、おそらく只の前王朝の血統の姫ということではない。前王朝もその前の前々王朝の姫を王妃とし、その前の王もその様に母系血統を受け継ぎ、権力者達が交代する度に代々受け続いてきたことなのだろう。」

 

「だが、中国は北と南で文化がまるで違う。

 

黄河流域と長江(揚子江)の南、江南地方の国々は今でも異なる。

 

もしかすると、南北が統一される前の遥か古代では、江南地方の国々などは女系国家だったのかもしれない。

 

女性が戸主となり代々母方の姓を継ぎ、今の様な結婚制度はなく通い婚で

、子供は皆、里で育てられた。

 

そもそも、「姓」という漢字も、

 

どの女性から生まれてきたかを示すものだ、、」

 

、、、

 

「しかし、胡族(胡族=遊牧民族らをさしていう総称)の奴らもおかしい。

 

中国の外側で暴れているうちは自分たち胡族の習俗を誇っているくせに、中国に乗込んできて中国の支配者になると、とたんに中国人の真似をする。今の唐も隋も、皆もとはといえば鮮卑という胡族出身なのだが、それが中国人の様に中国を治めているのも滑稽に思える。

 

漢王朝が滅んでしまった後も、ずっと匈奴や鮮卑のような胡族が中国を支配してきたが、もともと、中国で中国人が開いた王朝は漢王朝だけで、昔の周や秦王朝でさえも胡族の王朝だと云う史家もいる。中国は、ずっと胡族の連中が力で支配してきた国で、胡族の奴らといえど力を選んでしまえば、伝統を捨てることになってしまうのだろう。遊牧をやめた遊牧民は、胡族の血統を放棄し漢民族の様に農耕社会にいきているのだ。」

 

 

 

 

イリは、理解が及ばずとも黙って父の話しを聞いていた。

 

 

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母がいなくなってしまったイリには

 

「人は皆、母から生まれる」という至極当たり前の言葉だけが、

 

心に深くしみこんでいった。

 

 

(その説明だと、本当に自分が漢王室の血を引いてるかどうかなど分からないことになる。)

 

イリは父や母と一度も一緒に暮らしたことがなく、本当の両親か確かめるということさえも分からなかった。

 

「本当に父さんと母さんの子供なのか?」と不安になるイリに、

 

「間違いなく私の子である。例え確かめる手立てがなくとも父になれば自分の子供のことは必ず分かる」と、高向は力強く念を押した。

 

しかし、結局のところ生れがどうであれ血筋が何であれ人は、力を持たなければ生き抜くことはできないので、しっかりと強さを身に着けるようにとも念を押した。

 

 

【ウィジャ皇子と高向玄里】

この年に起きた、ウィジャ皇子が山背王に対して、蝦夷兵を率いて挙兵するという事件は、修行中のイリに大きな衝撃を与えた。

 

新羅や唐の戦の話しを聴くのみで、和国内での兵乱などというものは体験したことがなく、それも王に対して兵をあげるということは想定の範囲を超えた事件だった。

 

イリは、実際に自分が剣を振るい修行をしていることも何の役に立つかと、実感がわいたことはなかった。戦というものがよく分からないままに武術の修行をしていた。しかし、大海の里の宿祢から何度も聞かされていた「東海の曾子」反唐のウィジャ皇子の存在は知っていた。そのウィジャ皇子による兵乱が修行中に起き、イリには現実として武力を身近に体感する出来事となった。

 

イリの父高向玄里は、遣唐使の返礼使節・高表仁が怒って帰国してしまった時、共に唐に渡ってしばらく唐と和国の国交回復の為に奔走し続けていたが、新羅を通じて間接的に唐と和国を通交させようと図り、まず和国と新羅を結ぶ為、一旦和国へと戻っていた。

 

そして、金一族の里に寄立ち寄ったところである。

 

その後、息子のイリを連れ出して、高向は挙兵したウィジャ皇子の幕舎を訪ねていった。

 

高向玄里は、ウィジャ皇子を高句麗から追放した親唐派の栄留王の大臣である。

 

ウィジャ皇子にとっては憎き仇の片割れ高向玄里が突然、しかも堂々とやってきたことに

 

「吾を訪ねて来るとはいい度胸をしている」

 

と驚いたが、ともかく引見することにした。

 

 

 

【挿絵表示】

 

ウィジャ皇子    高向玄理      イリ

 

蘇我氏などの外戚勢力の様に娘を嫁がせることなく、身一本で、王族と渡り合い、結びつくことのできる政治家は、ここ和国では、高向玄里しかいなかった。高向は唐に帰順し、唐の力で高句麗の大臣となり、上宮法王の娘宝皇女と出合うと武王との結婚を取り持ったことで百済王室と結びつき、そしてまた今度は和国と唐の国交回復の為に、新羅王室とも結びつく強か者だった。

 

高向玄里は、百済武王を和国王に擁立しようと武王に接近したものの、親唐派か反唐派かと言う以前に、武王は想定以上に弱腰であった為、見切りをつけ、ウィジャ皇子へと接近を始めた。

 

高向が企むのは、百済・和国の両国の王位に立てるほどの器がある人物と結ぶことで、ウィジャ皇子との接見では、腰を低くし

 

「親唐派か反唐派ということではなく、互いにまず倒すべき蘇我王朝と山背王という共通の敵がいることを確認し協力してこれを討つためにまかりこしました。」と

 

そのための策略を提案した。

 

ウィジャ皇子は高向玄里の言に耳を傾け、幾つかの献策を受けたが、

 

(本当に唐の手先なのだろうか)と思えぬもの言いに、

 

(こいつはくえない奴だ、、)と

 

まず解釈したが、かといって警戒することもなく、策士を得たとほくそえんだ。

 

大望を成すためには、虎狼とでも手を結ばなければならない。ウィジャ皇子は、

 

「反唐派」などと言っても、親唐派が父の仇であり、自分を高句麗から追いやった敵であることを知っているだけで、その実、大国「唐帝国」そのものについては何も見えてなかった。

 

高向を通じて唐という国の有り様を知り、唐との二重工作であることを織り込み済みとしても、高向玄里から唐の情報を得て、唐の出方を伺うことは、戦略上必要なことであると知り、高向ともつながる政治的配慮への自覚をウィジャ皇子は持ちはじめた。

 

そして改めて、

 

「そのほうは、吾の味方か?唐の手先ではないのか?」

 

と、高向の言葉の奥の動機を問う。

 

「私は唐の手先であることは間違いありません。ですが、武王の味方ではありません。山背王と蘇我氏を除くという点では敵の敵は味方という事で、ウィジャ皇子様の味方でございます。」

 

ウィジャ皇子はこの高向の返答に呆れた。

 

「ともかく、山背王などいつでも討てます、徴兵まで行い集めた兵を一兵たりとも山背王との戦などに使うべきではなく、今は百済の親唐化で、武王が強力になりすぎているので、まず武王を止めるべきです」と、

 

鉾を納めて百済に戻るよう説得し、これから自分が和国の使いとして唐に向かうので、その後の出方で兵を動かすべきだと諭し、ウィジャ皇子もこれを受け入れた。

 

武王に見切りをつけた高向は、次は、百済・和国の両国の王にウィジャ皇子を擁立する為の工作に動き出していた。不遜な高向は、その目的のためにはウィジャ皇子の手兵さえも自分の持ち駒の様に捉えている。

 

百済を武王にいいようにされて、ウィジャが和国の王になれば良いという事ではなく、ウィジャ皇子が百済を制し、和国の王とならなければ高向の大望にとって不足なのである。

 

高向が望みは、まずは百済・和国の両国の王座を再び統一することだ。

 

上宮法王が和国を治めて以来、和国の兵には大戦経験がなかったが、例えどんなに士気が高かろうが、東国の兵だけで本気で今の蘇我氏に勝てるとは思ってなかった。

 

陣地取りは進めていたが、幸い、まだ大きな衝突は起きてない。

 

高向は、

 

「へたをすれば、物部守屋の二の舞となる」、

 

とまでは、言わなかったが、

 

内心、

 

(ウィジャ皇子の和国内戦は何としても止めなければ)と、思っていた。

 

ウィジャ皇子が、兵を撤退させ、

 

「百済に戻る」と、

 

すぐに決心したことに安堵した。

 

 

ウィジャ皇子は、同伴されてきた、高向玄里の息子イリの存在を知ると、近くに呼び修行を誉める言葉をかけた。

 

そして「父のようにはなるなよ」と

 

笑いながら背中を撫でた。

 

イリにしてみれば、軍中に足を踏み入れたことだけでも驚きだったが、超人的な遠い存在に思えていた「東海の曾子」「孝徳の皇子」と呼ばれたウィジャ皇子から直接誉れの言葉を貰った栄誉に感激していた。

 

そして、ウィジャ皇子と高向玄里の会食に同席し様々な話しを聴かされ、高句麗とウィジャ皇子が生きてきた世界を知ることになり、イリは蒙が開かれた。

 

ウィジャ皇子の帷幕も、不断の戦を続けるウィジャ皇子には日常的な風景だったが、イリには戦そのものを体験したかのような衝撃を受けた光景だった。

 

ウィジャ皇子の帷幕はよく管理され、衛士も厳選されている。かがり火に照らし出される凄然とした立ち姿は、イリがいつも金一族の里で武を競い合っている者共とは違い、遥かに凌ぐ武威を感じさせた。

 

(上には上がいる)と、

 

少年のイリからみれば、大人である、皇子の護衛につくほどの実力のある兵士を、イリが武を競う相手の延長線上にみていた。

 

 

この会食以後、ウィジャ皇子は高向玄里を策士として受け入れる。そして高向の提案どおり早々に陣払いをし、他日を期して百済へと戻った。

 

後に、ウィジャ皇子が和王に即位すると、高向玄里は国博士の地位を与えられることになる。

 

 

ほどなく、

 

金一族の里で修業をし終えたイリは、再び父高向に連れられて、和国を離れて次の目的地である新羅の金氏のもとへ行くことになった。

 

イリが養育されていた丹後半島の大海の里は新羅に近く、文字通り大海を渡ってやってくる新羅人が多かったが、イリ自身が海を渡って新羅へ行くのは初めてのことだった。

 

小雨の降る中、船に乗り、イリは少年時代までを過ごした故郷を離れて海を渡った。

 

 

 

【新羅・金一族】

新羅へゆくと、イリを待っていたのは、金ユシンと伽耶系の新羅・金一族だった。

 

イリは、父高向の計らいでファランの風月主(青年軍将校)の金ユシンに武術の訓練を受けることとなった。

 

金ユシンとその妹の鏡宝姫と出逢ったことで、イリの世界観は大きく変わってしまった。

 

唐の臣国となった新羅の家臣でありながらも、唐に屈することを厭い、反骨精神に滾る金ユシンの話をきかせられているうちに、イリ自身も反唐思想に目覚めていった。

 

高向の一族と新羅の金一族の縁は古くから続いている。

 

400年前、漢が滅んで高向の祖先らが東方へ落ち延びていき、朝鮮半島にたどりついた阿智王が高向の祖先であり、その頃より金一族との縁を結んだとしていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

金ユシン

 

イリは、ハワ(母)と慕っていた、宝皇妃が上宮法王の娘であることから、政略結婚をさせられ武王の皇后となったことも金ユシンから聞かされてしまい、父高向に対しての不信感を強めていく。

 

また宝皇妃とウィジャ皇子が義姉弟であることも知らされて、イリは驚き、つい最近会ったウィジャ皇子と過去のできごとが、イリの中でひとつに繋がった。

 

そして幼かった頃、大海の里で父高向から、

 

「もう母と呼んではいけない」と言われ、

 

突然引き離されてしまった時の悲しみが思い出され、その悲しみは全て父高向への怒りに変わった。

 

新羅の中では金ユシンらの一族は傍系であり、差別を受けていたが、それでも尚怯むこともなく、高い志を決して諦めずに持ち続ける金ユシンの心の強さと、その武術の強さに憧れ、父への反抗と自我の目覚めの時期と相まって、イリは金ユシンに心酔していった。

 

金ユシンとその妹達は、新羅に滅ぼされてしまった加耶の王族・金庭興の子孫であり、もともとはイリが修行をしていた和国の金一族の里「河内国ささら郡(シルラ郡)の鵜野村」の生まれで、イリと同じように和国から新羅に渡ってきた。新羅の金一族の中でも新参者なのである。

 

そのことも、新羅に初めてきたイリにとっては、金ユシンの存在がより身近に感じられる理由の一つとなっていた。

 

14才になるイリは、金ユシンの生きざまに触れるほど血が滾った。

 

和国では出会うことのなかった類いの人物で、

 

金ユシンは「士」である。

 

 

士の心を持って天下に望むことを志という。

 

まだこの時代には、『壮士』という言葉はあっても「武士」という言葉は存在しない。

 

和国には物部(もののふ)という独自の訓みが存在していたが、物とは刃物や兵器のことを言い、軍事部族の物部氏や軍団を差して言う総称であり、後世の武士(もののふ)の様に個人の士道を差して言う言葉ではなかった。

 

イリは、勇壮な「士」で在りたいと望んだ。

 

親唐派の新羅にありながら、臆することもなく反唐の志を持ち、誰にもてらうことなく畏怖堂々とした金ユシンの姿に感銘を受けたイリは、

たまらず

 

「天下に剣を振るい共に唐を両断する」

 

と反唐を誓った。

 

 

地縁血縁の無い世界で、父に言われるままに生きてきたイリには、自分の存在に対しての肯定感がうすく「自分の身を守る」ということさえも、実感があまりわかない。

 

実際、自分の身を守らなければならないほど、「自分が大切な存在である」といった肯定的な経験をしたことがなく、子供時代はただ無為に茫漠とした日々を過ごしていた。

 

自分を守るなどという自己肯定よりも、唐と戦うという様な攻めの効力感の方こそが、イリにとっては血が騒ぎ自己が高みに登る感覚が強く、陶酔感さえ感じた。

 

「反唐」という言葉は、

 

自我の目覚めの時期に出合った、新たなその感情を鷲づかみにし、武威を張る自分自身にイリはあらためて存在価値を感じた。

 

やがて、金ユシンのもとで過ごすうちに、

 

イリは、金ユシンの妹の鏡宝姫と結ばれて、義兄弟となる。

 

「結ばれた」

 

というよりは、半ば強引に、

 

イリは深い関係になろうとした。

 

周囲に認められるためには善悪の区別の考えよりも、まず動くことで経験値を高める年頃である。

 

イリは、和国では感じることのなかった「帰属感」を求め、新羅・金一族と憧れの金ユシンにもっと近づきたかった。

 

金ユシンは、妹の鏡宝姫は金春秋に嫁がせるつもりでいた。

この為、妹がイリの子を宿したのではないかと衝撃を受けると刹那、なんと妹を焼き殺そうとした。

 

イリの子を宿した妹を焼き殺すとは、なんと残酷な考えだろう。

 

妹というよりも、金庭興の子孫であり、加耶王家の血を引く「王女」としての鏡宝姫に対する仕打ちである。

 

そもそも、女性血統を重んじる世界では、王女に自由恋愛など許されない。

 

誰と結び、誰の子供を生むかによって、一族の未来がかかっている。

 

金一族は、今や国を持たない王位を持たない血統だけの王族であり、

 

王位に返り咲くか、

 

王の血統を庶民に埋没させてしまうかは、

 

今、誰と結ばれるかに掛かっている。

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

金製鉄の民を統べ【鉄の国】伽耶国を建国した初代金スロ王

 

一族の全てを背負い血統を統べる立場にいる以上、身勝手なことは許されないのだ。

 

イリの子供が生まれてくることも許せなかった。

 

鏡宝姫は、突然の兄の仕打ちに泣き叫んだ。

 

磔にされ、足元には薪が並べられていく間中、涙ながらに許しを請うていた。

 

どれほど命乞いされても金ユシンの決心は揺らがなかったが、

 

薪に火がくべられた刹那、

 

母となる鏡宝姫は命の限り叫んだ!

 

「私は、王となる子を産む!この子は必ずや国のためになる子、決して誕生を阻んではならぬ!凶雲に光を照らす明星の子を殺めてはならぬ!!」

 

と、宿った子を守るため全身全霊をかけて叫んだ。

 

 

母となった妹の叫びは言霊となって金ユシンの心に響いた。

 

金ユシンは過激な一面を見せるも、結局は妹を焼き殺すという愚かな行いは出来なかった。

 

感情と思考を巧妙に切りかえていき、金ユシンはイリとの子を受け入れた。

 

高句麗の大臣・高向玄里の息子であり、金一族と旧知の間柄としてイリを請けた以上、そこから派生する出来事にも金ユシンは将来を見据えている。

 

金一族を率いようとする金ユシンの志操は、時に格上のはかりしれなさがあった。

 

しかし、この金ユシンの過激な振舞いによって金一族の王女達は、王の血を引く自分達の生きる道の厳しさを知った。

 

鏡宝姫は、腹の子を守りぬきやがて新羅、和国の王となる子を産む。

 

イリは初めて父になった。

 

637年、無事に元気な男の子を授かり、その子に

 

「法敏」(ボムミン)と名付けた。

 

 

後に法敏は朝鮮半島に君臨し新羅・和国の文武王となる。

 

 

(家族とはこんなものか)

 

という実感が、イリの胸に溢れた。

 

父は唐から和国まで奔走する政治家であり、血の繋がった家族と共に過ごしたことがなかったイリにとって、新羅でできた家族・鏡宝姫と法敏、親子3人で過ごす時間は味わったことの無いほどの幸せな時だった。

 

幼い頃から、和国の大海の里で体術の基礎を身に着けていたイリは、武術の上達も群を抜いて伸びていき、新羅のファランの間でも

 

「和国から凄い奴が来た」と、

 

名が知られていき、敵うものがいなくなった。

 

イリは、強くありさえすれば誰かに自我を侵害されることもなく、周囲からは認められることを理解し、敵うものがないほどの武勇を身に付けていった。

 

 

【挿絵表示】

     イリと鏡宝姫

 

イリにとって生まれて初めて味わうような、満ち足りた自己肯定感を感じていた。

 

ただ、身が強いだけで心が漂っていた様なイリに、芯が整いつつあった。

 

 

しかしその充実した時間も束の間で、その後イリはまた父に連れられ今度は高句麗に向かうことになった。   

 

高向は新羅を離れる前に、唐と和国の国交回復の為まず新羅と和国を結びつける協力を、金一族の金春秋(後の新羅武烈王)に求めて、金ユシンらと共に和国使節の訪問を画策していた。この高向の動きにより、和国と新羅の国交は一時的に回復することとなっていく。

 

高向は、イリの妻の鏡宝姫と息子は高句麗には伴っていくことを許さず、高句麗へはイリ1人で向かうことになり、暫く新羅の金一族の元で息子の法敏は養育されることになった。

 

高向が高句麗の大臣に着いて最初の仕事は、反唐派の排除であった為、幼いイリだけでなく高向さえも抵抗勢力から暗殺される危険があった為、高向はイリを和国の大海の里に置いて養育することで暗殺から守っていた。それは、高句麗大臣の高向が、息子イリが大人になって高句麗で生きていくときの為の父なりの配慮だった。

 

そして今度は、イリを高句麗の大臣にするために連れ出したが、同じように息子を新羅に置いてゆくこととなり、イリはまたしても家族が離ればなれになる痛みを味わうこととなった。

 

粉雪の舞う中、イリは高向に伴われ高句麗の王宮へと向かっていった。

 

 

 

幼くして新羅の金春秋に嫁がされていた額田文姫は、金一族の鏡宝姫のもとをよく訪ねてきていた。

 

百済武王と新羅との講和が結ばれたことによる政略結婚の為とはいえ、百済のウィジャ皇子が先年まで戦い続けていた新羅に1人嫁ぐということは、心細くもあり、

額田文姫の叔母にあたる鏡宝姫は歳が近かった為に非常に懐いて、姉のように慕っていった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

額田文姫の母・鏡姫と、鏡宝妃は姉妹であり、金ユシンと同様に和国(金一族の里)育ちである。

 

和国から姉・鏡妃が武王に嫁いだ後、鏡宝妃は新羅の金一族の里へ移ったが、多感な年頃に

 

「異国の同族の里へ移る」、という

 

奇妙な体験を経てきた為、

 

同様に、異国の同族の里へやってきた額田文姫の境遇にも心を寄せて共感し、百済から1人嫁いできていた姪の額田文姫をとても可愛がり、二人は姉妹のように仲が良かった。

 

 

額田文姫は、この後に続く激しい政変の後、イリに再嫁することになっていく。

 

 

 

     

 

その頃、和国の王位を簒奪した蘇我政権は、絶頂期をむかえていた。

 

東西の民を大動員し、百済川のほとりの熊凝村の百済大官寺に百済の宮と、九重の塔を完成させた。

(※奈良県桜井市吉備池付近)

 

基壇10丈高さ27丈(90m)にも及ぶ和国最大の建築物であり、蘇我氏の権力の象徴となった。

 

しかし、蘇我王朝は決して安泰ではなく、すぐにでも崩壊する危険をはらんでいたが、山背王の現実認識はあまく、全く危機感がなかった。蘇我蝦夷は、山背王を擁立したことで権力の座についていたが、権力を手にすると、山背王の事を相手にもせず思いのままに振る舞うようになった。

 

蘇我蝦夷と息子の蘇我入鹿が実権を握り、その勢いは山背王を凌いでいて、蘇我蝦夷・入鹿親子二人を阻むものは誰もいなかった。増長した蘇我蝦夷は、全人民を徴発したうえ王家の民まで動員し、自分と息子入鹿のための巨大円墳墓の造営をはじめてしまった。

 

山背王にこれを抑える力はなく、

 

斑鳩の宮では、

 

「天に二つの陽はなく、国に王は二人いないはずなのに、蘇我蝦夷はまるで王のようにふるまう」と、

 

上宮法王家の者から嘆きの声が溢れていた。

 

そして、自分達の子供のことをミコ(王子)と呼び、自分の家のことを宮門「ミカド」などと言い、王の祖先を祀る祖廟を葛城に造り、王家にしか許されない神事を勝手に行い、本当に和国・蘇我王朝の王家であるかのように振る舞っていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

山背王を立てて、和国の実権を握った蘇我蝦夷だったが、蝦夷族勢力の蘇我蝦夷が大和朝廷を牛耳ることを快く思わぬ者は多く、その権力の座を虎視眈々と狙っているものが二人いた。

 

和国王の跡目争いでウィジャ皇子や百済武王を擁立して山背側に敗れた、蘇我石川倉麻呂と高向玄理だった。一旦は身を引いて伏竜しているかにみえたが、表面下では着々と山背王打倒の準備を進めていた。

 

二人は、山背王を倒して、蘇我蝦夷にとって代わり、自分が和国を支配しようと目論んでいた。

 

百済・和国の両国の王として君臨できる王を擁立して百済の玉座につけ、自分は王に代わって和国を総督しようとしている。

 

蘇我石川倉麻呂は、百済と和国の両国に王が君臨していた頃、蘇我氏宗本家が百済の欽明聖王や威徳王敏達に代わって和国を総督していた様に、今度は自分が王に代わって和国を任されて総督する自信があった。

 

百済の武王に見切りをつけてウィジャ皇子へと乗り換えた高向玄里にもまた思惑があり、その企みにも歩調を合わせていた。

 

 

【高句麗大臣イリ】

高句麗に渡った高向玄里は、即座にイリを大臣に据えて自分の後を任せると、すぐに唐へと向かった。

 

強い男に成長したイリは、周囲をものとも思わず不遜な態度で見下し、暴力的な態度だったために群臣はイリの大臣就任に難色をしめしたが、高向玄理は強引にイリに頭を下げさせ、高句麗でのイリの大臣就任を周囲に認めさせた。

 

 

和国でのウィジャ皇子との謀議により、秘策をおびた高向は、放たれた矢のように動きはじめる。

 

新羅と和国の国交を金一族を通じてつなぎ直し、息子を高句麗の大臣に着けた高向の次なる目的は、唐に行き、今度は新羅を通じて唐と和国の国交をつなぐことだった。

 

高向は、まず唐へ着くと極東工作の献案の為、太宗の即位を助けた功臣で太宗皇后の兄である唐の実力者「長孫無忌」氏を訪ねた。そして、太宗皇帝への働きかけの後援を願い、唐より和国へむけて通交のための使節を派遣することを願い出た。

 

唐はさっそく、高向の働きかけを受け入れ使節の派遣を決定し、まず新羅を通じて非公式の僧を派遣し、その後、正式に僧・清安を高向玄里と共に和国へ向かわせることになった。

 

新羅では、高向との打ち合わせどおり、金ユシンらが唐からやってくる使いを待っていた。

 

高向が無事に唐へとたどり着き、功を奏して、唐から遣わされた僧がやってくると、金ユシンらは、唐僧と共に使節を和国へと向かわせた。新羅を通じての唐と和国の国交も回復しつつあり、蘇我政権は内外ともに栄華を誇っているかにみえた。

 

一方で、反唐派のウィジャ皇子や高向の息子のイリなど反唐の志で会盟していた同志らは、全く違う動きをしていた。

 

和国で挙兵したウィジャ皇子は、高向との密議の後、唐がすぐに攻めてくることはないと判断し、返す刀で百済へと戻り、百済の掌握に望んでいた。

 

反唐勢力と密につながりを持ち組織的に、現政権の打倒へと動き始めた。

 

ウィジャ皇子は唐の承認を得た、隆皇太子のことなどなかったことように、百済皇子として振る舞い、百済の武王とウィジャ皇子の関係はもはや抜き差しならないものとなっていた。

 

 

若くして高句麗の大臣となったイリは、強く逞しい男へと成長していた。

 

イリ・ガスミという呼名も、「ガスミ」ではなく高句麗風に「ガソムン」と改め、ヨン・ガスムンと名乗った。

 

高句麗に来て、まず最初に驚いたのは反唐派の者が排除され、唐に阿る佞臣ばかりが目につくことだった。金ユシンやウィジャ皇子と出合い、反唐の志をもつ壮士となっていたイリには、高句麗という国の態度に幻滅し、そして、それが全て父高向玄里の仕業だと知り、言いようのない怒りが沸々と湧いてきて、高向玄里が父だと思うことが呪わしく、たまらなく自分自身が嫌いになった。

 

 

【挿絵表示】

 

イリ大臣

 

イリは、父に代わって大臣として高句麗を掌握することなどはせず、もっぱら反唐のための軍の掌握に望んだ。そして、新羅の義兄金ユシンらとつながりを保ちつつも、和国、百済の反唐勢力と結びつき、三国間で謀議を重ねていた。百済のウィジャ皇子は高句麗のイリに、高句麗に残してきているウィジャ皇子の息子・宝蔵王子にまず会いに行くように指示した。

 

イリはさっそく、ウィジャ皇子の息子・宝蔵王子を訪ねた。

 

父、ウィジャ皇子が高句麗を追われて和国、百済へと渡り続け、残された宝蔵王子は、高句麗でひっそりと生き忍んでいた。寂寞とした宝蔵王子は、イリ大臣の来訪を喜び、自分と同様に、父高向が和国から高句麗や唐まで渡り歩き、ずっと父と暮らすことができなかったイリの似たような境遇に同情して、お互いにその孤独を分かち合うこととなった。そして、イリは宝蔵王子から高句麗の政情や親唐派勢力たちの情報を得て、共に高句麗の親唐勢力の打倒の謀議を重ねていった。

 

 

唐は、640年に西方の高昌国を服属させ、アジア周辺に反唐国はなくなり、唐の天下となると、他の周辺国と同様に、百済武王と高句麗・栄留王は唐へと朝貢し、栄留王は息子桓権を唐へ送った。

 

唐は、学問と文化の粋を集めた国学院を開き周辺国から皇子を留学させたが、親唐教育が目的であり実質的な人質であった。百済武王の息子隆王子に続き、高句麗・栄留王の息子桓権が唐の人質となったことは、高句麗と百済の反唐派が決起する引き金となり、政権打倒へ向けて、親唐派の王の排除の機運が高まっていく。

 

 

高句麗は栄留王が唐の冊封を受けていたものの、多くの民や兵達の間には大国隋と三度戦い負けなかったという誇りと戦い抜いた強い心が根付いていて、唐に臣属する現政権には不満が鬱積していた。

 

(今にみていろ)と、

 

直情的なイリが怒りを堪え、高句麗をみすみす貶める親唐派の部族たちへの殺意を消し、工作を急いだ。

 

栄留王と高向玄里、群臣の殆どの者は親唐派の連中で地位のために唐に阿っているものが多かったが、イリのように親が親唐派でも、若い世代は反唐の者が多かった。イリはその者らとつながり反唐勢力を拡大していった。

 

唐からは、高句麗の内情を探るため、慰労と称して陳大徳が遣わされてきていた為、宝蔵王子の存在は表に出さず、秘密裏にイリ・ガスムン大臣を中心にして反唐派を結集し、イリの心中では殺生簿と作戦の実行部隊が練り上げられていく。

 

百済や和国と比べ、高句麗の反唐派は逼迫している。

 

唐からやってきた使節・陳大徳は慰労が目的ではなく、高句麗侵攻の為の偵察であることはあきらかであり、すぐにでも唐の攻撃に備え軍備を整えなければならない状況だった。

 

しかし、そのような状況にかかわらず唐の言いなりなっている今の政権では戦わずして降伏し国を明け渡すことも予想され、高句麗が唐と戦うためにはまず現政権から倒す必要があり、国力を削がずに政権交代を行うことが必至だった。

 

イリは、親唐派の政権打倒の計画を綿密にすすめた。

 

 

そして、百済のウィジャ皇子は、武王を討つ計画を実行にうつしていき、

 

やがて親唐派の王たちが全て倒されると、三国は反唐となり、大唐国との決戦が近づいていく。

 

 

 




【余談】

「鉄の王キム・スロ」という韓国の歴史ドラマについて。↓

長文ですが、興味のある方はご覧ください。

伽耶国の製鉄の民のお話しです。


この小説の舞台、

7世紀頃より、更に遡り紀元1世紀~3世紀頃のこと。

『魏志倭人伝』や『後漢書』に和国のことが書かれている。

この小説の前書きでは『朝鮮半島と日本列島の間にまだ国境はなかった』という書き出しで始めていますが、

少なくとも1世紀~3世紀頃までは、

朝鮮半島南端はまだ日本側だったと思われます。と言うよりも対馬海峡を挟んで同一の海峡文化圏が存在してました。

朝鮮半島南部にあった任那地方は、何度も宗主国が変わり割譲されたりしてきて、

この小説に書かれているとおり7世紀頃に、

和国から百済へ、

百済から新羅へ領有権がうつったところで、

朝鮮半島と日本列島の間に明確な国境が出来上がり、以後ほぼ変わらずに現在に至っている。(と、思われます)

『魏志倭人伝』によれば、和国側には100ヵ国以上の国があり大乱をへて卑弥呼女王が立ち大乱は収まったとのこと。

この頃まではまだ、朝鮮半島南端から九州にかけて和人の国々が幾つか存在していました。



朝鮮半島南部がまだ日本側だった頃、紀元1世紀頃の朝鮮半島南部を舞台にした製鉄の民の建国のお話しで、この小説に登場している金一族の始祖、金スロが描かれています。

舞台となる鉄の国【伽耶】は狗耶韓国(巨斉島)だと思われますが、(九邪)

九州から朝鮮半島南にかけて、

狗奴国、狗耶国、狗耶韓国、

同じような名前の国々があって、しばしば混同され韓国側か日本側かはぼやけがちになっています。


△▲△▲△▲

紀元一世紀前後、

製鉄の民である小部族たちは、部族連合を作り国を名乗り共存していた。

しかしまだ、国号はその土地の範囲を表す言葉でしかなく、王権や政治制度を反映したものではない。

『天祭金人』と名乗るその言葉どおり、祭政一致の文化であり、祀りごとと政りごとがまだ未分化の世界だった。

しかしこの時代以降、王も宮廷もなく国軍もない只の小部族連合のままでは、新たに建国されていく国々の脅威に太刀打ちすることはできなかった。

高句麗、百済、新羅と朝鮮半島に建国ラッシュが続く中で、任那地方の少数部族【製鉄の民】たちも共同して王を立てて国を作ることとなった。

祭政一致の時代から、祭政分離の時代へ。

祭政一致の世界では神殿の天君が長だったが、国の王を立てるのであれば祭りごととは分離し、天君ではなく部族長の代表が王になるべきであると両者の間では勢力争いが起きた。

自分たちが共同して国として纏まるか、個々に他の国に吸収されていくかの瀬戸際である。

金スロは、両者の間に立つ『鍛冶長』だった。

溶鉱炉の造り方を知るは鍛冶長だけであり、製鉄技術という無形財産の要である。

人が持ち得る無形財産であるからこそ、力で奪い支配することもままならず、殺すこともできない。

例え支配をしても鍛冶長を失えば廉面と伝えられてきた溶鉱炉の造り直しが出来ず、

もしも失えばその瞬間に、製鉄の国ではなくなり、
只の石ころだらけの地と草深い森を支配しただけに帰してしまう。

この為、この後も任那地方(半島南端の国)は何度となく宗主国が変わっても完全に支配されるまでには至らなかった。

そして鍛冶長である金スロは見事に部族長らを懐柔し、

部族連合から脱却して

部族連合国を建国した。

単なる連合と連合国の違い。

同列的な首長が国王にまでなるには、一筋縄ではいかなかったろう。


金スロは力任せに統べようとはせず、製鉄技術という唯一無二の無形財産をたくみに駆け引きに使い、製鉄技術の国の繁栄の中に、部族長らを組み入れていった。

神殿の長、天君は姿をくらましたが死んではいない。恐らく日本列島へ渡ったと思われる。

海を渡り山々が続く日本列島の砂鉄や薪の取れるどこかの山で、
たたら場を造り勢力争いを避け安全に暮らしていたに違いない。

その後、日本列島にも【もののけ姫】の時代がやってくる。もののけ姫では時代が交差させられ構成されてるので、いつの時代かはっきりとは分からない。

それまで、たたら場を作ってる製鉄の民と、アシタカがいた東の蝦夷族らはそれなりに山で暮らしていたが、

とうとう日本列島にまで、天地の神でなくて朝廷を奉る大軍が進出してきたことにより、和国の製鉄の民も天朝の支配下に入ってしまった。

製鉄の民の中でも、鉄を求めて争いを避け転々流浪し、ひっそりと山暮らしをしていた小部族の世界観と、時代にのみ込まれていく姿がなんとなく伺える。

歴史というと、私達は武士の戦国モノの圧倒的パワーが、漫画やゲームによってかなり強烈に刷り込まれてしまってますが、

まだそれ程の人口もなく、兵力もなく、
支配する側もされる側も平和的な和合を選択せざるを得なかった時代の感覚を伺うには、【鉄の王キム・スロ】は大変参考になったお話しでした。

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