和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦622~632年、中国では、隋が滅び大国唐が建国されアジア天下四方へ覇を唱えつつあった。周辺国は皆、唐に帰服し東アジアの高句麗・新羅・百済の三国も王が親唐派となり唐の臣国となっていく中、和国では上宮法王、推古女王、蘇我馬子、三頭が没してしまい後継者争いが起きていた。百済から和国の王位を狙う武王とウィジャ王子に対し、和国では親唐派の蘇我蝦夷が擁立した蘇我馬子の血をひく「山背王」が即位してしまい、和国に蘇我王朝が誕生した。

1話 上宮法王の最後
2話 天武【イリ・ガスミ】誕生
3話 唐の中国平定
4話 蘇我馬子没する
5話 蘇我氏の内紛
6話 山背王即位
7話 宝皇女とイリ
8話 百済の三つの星



第1章 和 国「蘇我王朝」山背王

【上宮法王の最後】

 

和国の蘇我氏は上宮法王の暗殺の準備を進めていく。

 

上宮法王の舎人を一人一人調査し、高向が持ち込んだ和韓諸国では検出することができない唐の毒を用い、毒殺の知識も豊富な上宮法王に対しいかに服毒させるかを様々な方法で試みていた。

 

そして、

 

上宮法王の周辺者にも変化がおきていた。

 

上宮法王は以前、隋との戦で敗走し高句麗に落ちのびた時に、擁護を受けた高句麗の嬰陽王へ妻の宝妃と娘を差し出してきていた。

 

嬰陽王は、彫が深く美しい西アジアの特徴的な顔立ちをしたサマルカンド系の宝妃を寵愛し、宝妃との間には王子が生まれた。

 

軽王子と言う。

 

 

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618年9月に嬰陽王が崩御し、唐の初代皇帝・李淵が、嬰陽王の弟の栄留王を擁立し冊命すると、反唐派だった嬰陽王の皇子・軽王子は追放されてしまった。

 

上宮法王と宝妃の間に生まれた娘は、(なかば人質の様に)母と共に高句麗に残っていたがその母もすぐに亡くなってしまい、娘は母の名を継いで「宝姫」と名乗った。

 

追放された軽王子は、母・宝妃の縁を頼って和国の上宮法王の元へと亡命してきたが、上宮法王は、反唐派である軽王子をむかえ入れ、

 

元伴侶の産んだその軽王子を、

 

「ただ一人の自分の後継者である」

 

と跡継ぎに指命した。

 

 

軽王子は和国風の呼び名で、本名は「ウィジャ」という

 

後に、孝徳の王と呼ばれ百済・和国の両国の王となる。

 

 

618年、高句麗の嬰陽王は和国の上宮法王と共闘して、唐に対抗しようとしていた。

 

上宮法王もこれを受け大陸への回帰を目指して軍船の造船を始めていたが、嬰陽王は戦を前に突然亡くなってしまった。

 

翌619年、隋に反乱を起こし、その後は唐にも反抗をしていた突厥のシビル・カーンが亡くなり、620年には同じく突厥のショラ・カーン(上宮法王の孫)が亡くなった。

 

相次いで、反唐の王たちが亡くなってしまったことで、和国からの対唐戦参加は不可能となった。

 

上宮法王は王達の不可解な死に暗殺の疑念を抱き、土地の整備のために和国各地を行幸して諸寺を巡検していた。

 

旅の途中に近江で異聞に出逢うと

 

「禍い、これより始まる」と、

 

周囲にもらした。

 

暗殺の予感を自ら察知したのかもしれない。

 

唐に抗おうとした自分の運命を悟ったかの様に、

 

「聖人の国を月氏国といい、聖人でない者が顕れれば国の禍いとなる」と、

 

預言した。

 

そして、自分の死後、帝王の出現や自分の生まれ変わりを次々と預言していき、やがて病に倒れてしまった。

 

20年以上前、「逹頭カーン」と呼ばれ、隋を相手に大陸で大暴れしていた昔日の覇気は失われていた。

 

上宮法王は、日本列島の裏玄関である近江へなんとか宮を移そうとしたが、それも叶わなかった。

 

上宮法王が病臥すると、継承者に争点が集まっていく。

 

蘇我馬子の直系ではない蘇我蝦夷という者は、東和の蝦夷族の妾の子か養子と云われていて蘇我氏の中では傍系の出自だった為、逆に生存欲求と執着が激しく、蘇我馬子の長男善徳や、蘇我氏の血を引く皇太子達に強い敵愾心を持っていた。

 

「吾の意に沿わぬ王族など必要ない」と、

 

強気で、とくに上宮法王に嫁いでいた蘇我刀持子と蘇我刀持子の産んだ皇子たちに対しての反発は強かった。

 

 

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唐は高向を通じて蘇我氏に暗殺の密命を下し、ともかく上宮法王さえ暗殺すれば蘇我系の王を認めるとした。

 

 

 

上宮法王は、暗殺を警戒して出された薬は一切飲まず、食事や水を摂ることも憚った。

 

日に日に、上宮法王の体は痩せ細っていく。

 

大国隋も一目置くほどだった頃の日の出の勢いは既になく、援助をしていた秦氏との距離もかわり始めた。

 

隋が滅んだ後、隋を滅ぼした唐に疎まれる存在となった今では、和国の有力部族にとっても利用価値はなくなり、むしろ上宮法王の暗殺は唐とのつながりを安全に保つ為には避けがたいこととなってしまっていた。

 

 

 

ある日、上宮法王は瞑目した。

 

 

周囲の者は皆おおいに悲しみ、涙を流した。痩せこけた上宮法王の亡きがらを抱き上げると、その体は衣服よりも軽くなっていた。

   

上宮法王妃の橘大郎女は上宮法王の死を悼み、すぐさま推古王女に願い出て、死後に行ったとされる『天寿国』の様子を描かせた天寿国繍帳を采女に作らせたが、その橘大郎女も次の日に亡くなってしまった。慈愛深い女性であり、上宮法王に嫁ぐときに秦氏の養女になる前も、孤児だったので、ずっと血縁の無い世界で生きてきて、人を分け隔て慈しむというようなことがなく一切を愛した。

 

斎宮(王家の為に王族の女性が宮に入り神に仕えること)になっていたスカテ姫は伊勢より戻った。

 

 

生前、推古王女と橘妃はいまわの際に立ち会った時、

 

上宮法王との別れが悲しく、味わったほどの無いほどの痛みをも語り、

 

「この世のことは全て仮のものであり、仏だけが真実である」と、言った上宮法王だからこそ、

 

仏の世界である天寿国にゆくべきだと涙を流した。

 

上宮法王は天寿国のことにはふれず、

 

 

凄然として、

 

「ただ一人の我が子のことを頼む」と、一言だけいった。

 

 

 

 

和国は、上宮法王の死後、古来の慣習に従って推古王女が女王として跡を継ぐ。

 

しかし女王ではあっても、蘇我氏を超える力もなく、和国の権力は蘇我氏が握っていた。

 

 

 

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(突厥(とっけつ)=トルコ系遊牧民族 ※現在のトルコ共和国も突厥族が帝国を建国した552年を建国記念としている)

 

 

 

【天武イリ・ガスミ誕生】

上宮法王が亡くなった翌年、623年に上宮法王の師であった法興寺の高句麗僧・恵慈も後を追うように亡くなった。

 

唐は、上宮法王が没すると、新羅を使って和国への介入を始めた。新羅および任那の使節らは、和国から隋に留学しその後も唐にいた恵日、福因らと僧の恵斉、恵光らを伴って上宮法王の弔問に来和する。

 

仏像一体および金塔、仏舎利、観頂用の大小の旗を献上した。仏像は蜂岡寺(広隆寺)に、金塔や仏舎利は四天王寺にへとそれぞれ収められた。そして使節らは留学生と共に、和国に対して唐との通交を求めた。

 

同時にこの年新羅は、以前上宮法王と講和した隋からの圧力によって、和国に割譲させられていた任那地方へ侵攻して、これを奪いかえしてしまった。

 

新羅の侵攻に対し、蘇我馬子は詰問の使者、吉士磐金・吉士倉下を遣わして糾弾し、そして和国からは征伐軍を派兵したが、入れ違いに新羅の使者が来和し調停となる。

 

「無駄な出兵をした、、」と、

 

誰もが思った。

 

 

高句麗に大臣として赴任していた高向玄理は、唐の密命を受け、今度は新羅の使節一行に紛れて和国へ帰国してきていた。

 

帰国の道中で生まれたであろう、生まれたばかりの赤子を連れていて、母とも乳母ともつかない、1人の貴婦人が赤子を抱いていた。

 

高向玄理は帰国すると、まず丹後の国にある大海の里に向かい、族長の大海宿禰に連れていた赤子を託して、貴婦人と共に都へと向かった。

 

 

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大海の里の翁 大海宿禰

 

 

高向の連れていた赤子は高向の息子であり、高向が漢の王族の出自であることから「漢王子」と呼ばれ、大海の里で大切に養育されていった。

 

 

(上宮法王の生まれかわりでは)

 

というほどの時系点に生を受けた

 

漢王子の名は「イリ・ガスミ」、

 

この物語の主人公で、後に天武天皇となる。

 

 

 

 

貴婦人の正体は、上宮法王の娘の宝皇女であり、高句麗で大臣となった高向と出合い、結ばれた。

 

上宮法王が隋との戦いに敗れて同盟国の高句麗に逃げ込み、高句麗の嬰陽王の擁護を受けた時、突厥民族の風習に従って、妻宝妃とその娘を嬰陽王へ差し出してきた。

 

その後、上宮法王は百済・和国に渡って王となったが、宝妃と娘はそのまま高句麗に居て、宝妃は嬰陽王との間に軽王子(ウィジャ皇子)を産んだ。

 

軽王子(ウィジャ皇子)が追放され和国へ逃げ、嬰陽王が没し母宝妃が亡くなった後も、娘は1人高句麗に残り、母宝妃の名を継いで人質の様にひっそりと生きていた。

 

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そこへ、高向玄里が降ってきた様に登場する。

 

 

高句麗の栄留王の元に、唐からやってきた高向玄里は大臣として着任すると、宝皇女の存在を知ることとなり、宝皇女を孤独から救った。

 

上宮法王の忘れ形見でありながら、全く上宮法王の縁が無くなってしまった高句麗に1人残り暮らしていたところへ、

 

突然、宝皇女の前に現れ、

 

「自分は元上宮法王の臣下であり、上宮法王によって隋に遣わされていた」

 

ということを語った。

 

宝皇女にとっては「上宮法王」という名前を聞くだけで、ただただ懐かしく、高句麗でそのような縁者に出逢えることなど無いと思っていた為に、それだけで、高向玄里に心がなびいていった。お互いに上宮法王によって異国に身を置くこととなり、今はその上宮法王もなく、隋も無くなってしまい、何のつながりも無くなってしまった孤立無縁な世界に生きてきて、ただ運命としか言い様がないような数奇な身の上に二人は心を重ね合って、やがて結ばれていった。

 

 

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高向は、先代が没し後ろ盾のなくなってしまった宝皇女に対し、

 

「唐の力が後ろ盾になり安全を擁護するから」と

 

持ちかけて、上宮法王の血統である宝皇女を親唐工作に利用しようとした。

 

宝皇女は命の安全を守ることだけを条件に、高向の提案を受け入れた。

 

それは、政治的な駆け引きというよりも、唯一心を開いた大好きな高向のいう事だからとききいれた、、

 

高向への一途な想いから、受け入れたことだった。

 

一方、

 

非情にも、高向は宝皇女との想いとはうらはらに、親唐工作の為に百済武王との政略結婚を図っていた。

 

宝皇女が、高向の政治工作の為に生きるということは、1人の女性として生きるのではなく、自分が「上宮法王の血統である」という事を受け入れて生きるということだった。

 

それは、この先に続くであろう王との結婚や政権交代の中を、亡き母の様に生き抜いていくという悲恋の覚悟だった。

 

 

 

【唐の中国平定】

唐の高祖の次男・李世民率いる唐軍は進撃を続け、王が乱立する中国全土を跋渉していた。

 

秦帝太子・薛仁杲、宋王・金剛を討伐して以来、次々と抵抗勢力を駆逐し、621年には、隋を簒奪し洛陽で「鄭帝王」として即位していた王世充が唐軍に降り、山東・河北一帯で「夏」を建国した竇建徳も敗れ、622年には関東王を称していた劉黒闥も李世民に敗れた。

 

その後も、楚王、杜伏威、輔公祏を滅ぼし、624年には、中国の群雄割拠は掃討されて、中国全土はほぼ唐の支配下に置かれた。

 

 

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中国の趨勢が唐になり、朝鮮半島の高句麗、新羅、百済は次々に唐に朝貢し、和国の情勢も急激に変化した。

 

高句麗は既に自国の暦を捨て唐の暦を使うほど唐に靡いていたが、唐が中国を平定した624年には、高句麗、新羅、百済、の三国が、唐の冊封体制下(唐の臣国として唐が王を任命する制度)へと入り、高句麗は「遼東郡」の高句麗王となり、新羅は「楽浪郡」の新羅王、百済は「帯方郡」の百済王として唐の高祖より冊封を受けた。

 

隋が中国を統一していた頃も「琉球国」(沖縄)へも出兵していたほどだったので、海を隔てた和国も決して安全地帯とは言えなかったが、元突厥カーンであった上宮法王の外交によって隋に臣従することなく均衡が保たれていた。

 

しかし、その上宮法王も今はなく、日の出の勢いの唐の勢力の前で和国が安全ということはなかった。

 

それにも関わらず、推古女王は、唐に帰服する朝鮮半島の三国などとは別に、独立性の強かったかつての和国を貫こうとしている。百済の大臣でしかなかった蘇我氏が、和国の権力をにぎり唐に阿ることも許せなかったが、何よりも亡き上宮法王が打ち立てた「和国」という新国家に対する和国女王としての自負心が強かった。唐へ、未だに朝貢をしないのは和国だけであり、親唐派の蘇我馬子は、推古女王の姿勢に強い焦りを感じていた。朝鮮半島の三国が唐の冊封下に入った今、一刻も早く唐に朝貢しなければ、推古もろとも唐の手にかかり殺されてしまう可能性さえあった。

 

蘇我馬子は、推古女王の皇太子に山背皇子を立てることを推してきたが、これに対しても推古女王は抵抗し、最初の夫である威徳王敏達との間に生まれた竹田皇子の立太子を主張し、双方の対立は深まっていった。

 

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推古女王は、蘇我馬子のことを内心

 

(大陰謀家すぎて、四海を治めるに足りぬ者)

 

と思っていた。

 

「上宮法王と共に打ち立てた新しい和国を、決して蘇我馬子の思いどおりにはさせない、、」

 

と、余命をかけて争うつもりでいる。

 

推古女王が、上宮法王を和国の王=夫として迎えた頃は、既に子供を産める年代でもなかったが、上宮法王は推古を立て、女王の権威を高めた。

そこに為政者としての企みや側近の秦河勝の意図があったにしても、決して尊厳を損なうものではなかった。

 

しかし、蘇我馬子は、

 

「和国の女王でなく、蘇我家の女と言え!」と、

 

横暴に迫り、推古女王の尊厳を傷つけてきた。

 

蘇我馬子から受けた屈辱は忘れようにない。

 

 

蘇我氏は、エフタル政権の権勢に乗じて和国に進出してきた新興勢力であり、領有する民と土地は決して多くはなかった為、女王の名の下に直轄領(屯倉)として、他部族から土地を奪ったりもした。

 

エフタル王家の嫡流である自分を利用し続けてきた蘇我馬子には、自尊心を傷つけられてきた。

 

もはや蘇我馬子の勢いは今や抗い難いものとなって実質、推古女王を凌ぎ、誰もが認める強権の臣であったが、それでも尚、推古女王は頑なに、最後の最後で蘇我馬子を拒み続けた。

 

 

 

上宮法王によって後継者とされていた反唐派の軽王子(ウィジャ)は、和国での立場は微妙になっていき、蘇我馬子に暗殺されてしまう懸念もあった。

 

推古女王は、蘇我馬子とはあまり仲の良くなかった蘇我石川倉麻呂と相談して、軽王子(ウィジャ)を百済へと逃がすことにした。

 

 

 

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蘇我石川倉麻呂

 

 

蘇我石川倉麻呂は、

 

「今は時節を待ち、身をかわして隠忍自重するべきです。」

 

と、軽王子(ウィジャ)に百済へ行くよう提案する。

 

「吾は上宮法王の跡を継ぐ『唯一の後継者』として認められた者だぞ!蘇我馬子ごとき者から逃げよというのか!」

 

と、王子は反発したが、

 

蘇我石川倉麻呂は、

「だからこそ危険なのです!上宮法王様、、妃様、と次々と暗殺されてしまいましたが、次の標的は王子様であることは疑うべくもありません。そして、誠に申し訳ないのですが今は、蘇我馬子に対抗し、確実に王子様をお守りすると約束することができません、、 」

 

、、

 

「上宮法王様の皇女宝妃様も百済に行くそうです。百済の武王は、上宮法王様の義弟分で、上宮法王様の任命により百済の王位についた者ですし和国より安全であることは間違いありません。」

 

と、百済行きを続けて諭した。そして、

 

「今、和国に蘇我馬子に逆らえる部族長は他にいません、が、しかし、和国の者は皆、軽(ウィジャ)王子様が先代の反唐の志を継ぐ士であることは知っていて、その考徳を讃えています。唐にへつらう蘇我馬子の天下など続くはずがありません。和国の帰皺は王子様にあります。」

 

 

「王子様の父・嬰陽王様、突厥のシビル・カーン、ショラ・カーン、そして上宮法王様と、次々に反唐の王は暗殺されてしまいました。王子様は今は反唐派の最後の希望なのです。なんとしても失う訳にはいきません。生き延びる為にどうか安全な百済へと渡って、兵気を養って下さい。」と、

 

切に懇願した。

 

 

ウィジャ王子は、蘇我石川麻呂の説得を受け、

 

天を仰ぎ、

 

「百済に行く」と、

 

ゆっくり呟いた。

 

和国は、今、蘇我氏に趨勢が傾いたとしても、

 

(まだひと波乱あるだろう)、、と思った。

 

 

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ウィジャ王子

 

 

百済の武王は唐の冊封を受けてはいたが、もともと上宮法王に忠心を誓っていたので心情的には反唐派を受け入れている。亡くなったウィジャ王子の父・高句麗の榮陽王が、上宮法王と共に唐を攻めようとしていた事もよく知っていて、時勢に靡き唐の冊封を受けたとはいえ、ウィジャ王子の立たされた境遇には同情もしていた。

 

 

ウィジャ王子(軽王子)は捲土重来を期して、蘇我石川倉麻呂の手引きによって百済へと渡っていった。

 

 

 

和国にいた突厥勢力らも、上宮法王という求心力を失って瓦解していく。

 

和国に落ち延び、いずれは大陸への再起を図ろうとしていた上宮法王と共に和国でやってきたが、戻る手段もかつての西突厥国も無く、王(カーン)を失い、各部族長らは進むべき未来を決めかねていた。

 

 

上宮法王の打ち立てた国を守る為、和国に留まる、という者、

 

上宮法王の「血」を引く宝皇妃を守る為、百済に渡るという者、

 

上宮法王の「跡」を継ぐウィジャ王子に従い百済に渡るという者、

 

やがて、三者三様に分かれていった。

 

 

 

推古女王は、威徳王敏達との間に生まれた竹田皇子を皇太子にしようとしていた為、ウィジャ王子を逃がしたというよりは、対立候補であるウィジャ王子を百済へ追いだしたかたちとなった。

 

 

 

【蘇我馬子没する】

唐が中国内を掃討した624年、和国では一人の僧が斧で祖父を打つ事件が起きた。これにより、和国内の僧尼を統括すべく僧位を設けて、僧・観勒を僧正に、鞍部徳積を僧都にし、安曇連を法頭とした。

 

蘇我馬子はいよいよ野心をむき出しにし、推古女王に対し、この安曇連を筆頭に和国の有力部族らを使って王家の屯倉である葛城県を割譲するように迫った。

 

推古女王は、

 

「王家の領地を明け渡すことは、王家の力を譲るも同然で、私の代でそれを明け渡してしまうことだけは忍びなくてできない」

 

と、蘇我氏の要求を断固断り、命がけで抵抗していた。

 

 

 

翌625年、

 

高向は百済へと渡り、連れてきた上宮法王の娘宝皇女と百済の武王との婚姻を進め始めた。

 

 

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まず宝皇女を、百済の八大部族筆頭である沙宅一族の長「沙宅積徳」の養女にし、その沙宅一族の力を後ろ盾に武王に圧力をかけて、強引に百済武王の妃にした。 

 

宝妃はまだ高向玄里のことが好きで、政略結婚の相手の武王に対して全く心はなかったが、最初の王妃であった田眼妃はすでになく、新羅の真平王の娘ソンファ姫が武王妃となっていた為、二人は対立した。

 

そして、

 

「百済王室に新羅の血は入れない」と、

 

養父の沙宅大臣と共に、ソンファ妃を追い落としてしまった。

 

百済の武王は、唐の冊封を受け唐に臣属している親唐派の王である。

 

そこへ、先代の和国王であった上宮法王の娘・宝皇女を嫁がせるということは、高向玄里の親唐工作としては重要な意味を持つ。

 

上宮法王皇女の宝皇女を娶ることで、和国の継承権を持たせ跡を継がせさえすれば、そのまま武王を通じて和国を唐に臣属させてしまうことも可能となった。

 

高向にとって和国の親唐政権は、

 

蘇我馬子によるものでなく、自分が打ち立てた手柄でなければならず、そして自分の手中になれければ意味がない。

 

しかしそれは同時に唐にとっても、蘇我馬子を和国の親唐工作に利用する必要性が無くなっていくことでもあった。

 

 

 

626年6月19日、蘇我馬子は亡くなった。

 

飛鳥川のほとりに住み、小さな池を作りその中に島を作っていたので「嶋大臣」と呼ばれたが、その権勢は大臣などではなく王を凌ぐほどの勢いだった。

 

(嶋=済州島)

 

蘇我氏は欽明聖王、威徳王敏達、用明王、泊瀬部王と、次々と和王を擁立し、蘇我馬子は50年以上権力の座にあり上宮法王の渡来さえなければ、和王にとってかわり「蘇我王朝」を建国するほどの人物だったが、王権を目の前にして大臣のままその生涯を終えた。

 

 

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蘇我馬子が亡くなり、高向玄里は再び和国へと戻っていった。

 

 

 

 

その頃、唐では政変が起きていた。

 

 

皇帝の次男の季世民が、唐の初代皇帝・高祖を幽閉し、皇太子だった兄の建成と、弟の元吉を殺し(玄武門の変)太宗皇帝として即位した。

 

隋の煬帝の暴政とその後の戦乱により、5000万人近くいた中国の人口は激減し、太宗が即位する頃には三分の一にまで減少してしまってた。

 

太宗皇帝は、必然的に国内の充実が優先になり、半島や列島への内政干渉の方針も変化していった。

唐の高祖は朱子奢を高句麗に遣わし、百済と高句麗の和平関係にも積極的に介入していたが、太宗皇帝の極東介入は暫し止まった。

 

太宗はこれより「貞観の治」といわれる模範的な政治を行い、中国史上でも稀な安定した内政の充実を施していく。

 

 

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玄武門

 

 

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唐「太宗皇帝」

 

周辺国は、新しい皇帝へ祝の朝貢をし、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅も三国の軋轢を唐へ上奏していたりしたが、相変わらず和国だけは沈黙し、遣唐使を派遣せず、朝貢しないでいた。

 

唐は、高句麗を通じても和国へ介入する様になり、高句麗王から和国へ僧恵灌がおくられてきた。僧恵灌は和国へ三論宗を伝え、和国の僧正となった。

 

 

 

【蘇我氏の内紛】

蘇我馬子は桃原墓に葬られた。

 

蘇我馬子の葬儀が行われるとすぐに、次期和王の座をめぐり継承者争いが起きた。

 

蘇我氏の中で山背皇子の擁立派と反対派との間で対立が始まった。蘇我蝦夷が、蘇我馬子の推していた山背皇子を推し、馬子に代わって権力の座につこうとする態度があまりにもあからさまだったため、怒った蘇我境部摩理勢や蘇我石川倉麻呂が反発し、蘇我一族は割れてしまった。

 

蘇我馬子の弟で蘇我宗本家の蘇我境部摩理勢は、推古女王に側ついてしまい、推古女王の推す竹田皇子を後見した。蘇我石川倉麻呂は、上宮法王が後継者にと望んだただ一人の子・軽皇子(ウィジャ)についてしまった。

 

唐に帰順し、唐の手先となっていた高向玄理は百済の武王を次期和王に推した。

 

山背皇子、百済の武王どちらも蘇我氏の血を引いていたが、山背皇子が即位してしまえば、百済王・和王に分裂したままの王位を継承することになってしまい、そのまま和国に蘇我王朝が誕生する可能性があった。

しかし、高向はなんとしてもそれを阻止して、唐の力と武王を背景に自分が裏から和国を動かしたいという企みがある。

 

これに対して、武王反対派は、

 

「百済の武王は王族ではなく、上宮法王の任命により王位につくことができたが、本来は王位継承ができる身分ではない!」と、主張した。

 

そして百済の武王にも蘇我氏を退けて、百済・和国の両国の王位につくほどの勢いはなく、また蘇我一族も割れてしまっていた為、亡き蘇我馬子と蘇我蝦夷の推す山背皇子が、竹田皇子・武王・軽皇子を退けて王となるには至らなかった。

 

唐に帰順し和国へ政治工作に来ていた高向玄理が、百済の王である武王を和国王に推していたので、多数派である親唐派の者は百済の武王を次期和王に推していた。

 

しかし、唐の政変後の二代目皇帝・太宗皇帝にはまだ初代皇帝・高祖ほど和国へ対しての内政干渉の方針がなかった為、決定的な擁立にはならず、和国の次期王位をめぐっての混乱は続いた。

 

 

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                           4人の和国王 継承候補たち

 

軽皇子(ウィジャ)を推していた蘇我石川倉麻呂は味方が少なく、阿部内麻呂だけが共に軽皇子(ウィジャ)を強く推していた。

 

蘇我石川倉麻呂は、百済の武王の元へ逃げていた軽皇子(ウィジャ)を上宮法王の後継者として推すのではなく、なんとか百済の武王の養子にしたて、親唐派の百済王族の皇子として推すことで、和国親唐派の勢力も取り込もうと画策した。

 

百済の武王は、唐の手先として介入してくる高向に真っ向から反発することはしなかったが、自分を和国の王へと推すことで蘇我氏を抑えようとする高向の態度には辟易としていた。和国の蘇我氏の内紛に巻き込まれるのも嫌だったが、武王は蘇我石川倉麻呂の意図を容認し、しかたなく軽皇子を養子(元子)にして蘇我石川倉麻呂の動きを和国への一矢とすることにした。

 

既に和国から百済に渡ってきていた軽皇子は、百済武王の養子になると、軽皇子という和国での呼名を捨てて本名の「ウィジャ」王子と名乗った。

 

ウィジャ王子は、百済から蘇我馬子の死後の和国の内紛の隙を虎視眈々と狙っていて、高句麗から反唐派の手兵を密かに上陸させ陸奥の国に駐屯させるなど、和国に戦雲がたちこめてきた。

 

そして、百済でも兵を動かした。

 

蘇我境部摩理勢が新羅よりだった為、先制攻撃をかけ新羅を攻めて、ウィジャ王子は新羅との戦いに勝利した。

 

蘇我境部摩理勢は、蘇我蝦夷に反発し竹田皇子の館に立て籠もっていたが、後ろ盾として頼りにしていた新羅が敗北すると、

 

「もはや竹田皇子は諦め、こちら側について吾らと共闘せよ」と、

 

蘇我蝦夷が使者を送り説得してきたために、

それに応じあきらめて館を出た。

蘇我摩利勢は蘇我一族で共に結束して、山背皇子を立てて、ウィジャや武王など百済側の介入を阻むつもりでいた。

 

しかし、蘇我蝦夷は降参してきた蘇我摩理勢をだまし討ちし、蘇我摩理勢は直ぐに殺されてしまった。

 

また蘇我境部摩理勢が後見していた推古女王の子、竹田皇子も何者かによって殺されてしまい、推古女王は失意のうちに628年、崩御した。

 

推古女王と竹田皇子は、遺言により推古陵に合装された。

 

 

 

 

【山背王即位】

 

629年、

 

蘇我氏の一雄であった蘇我境部摩理勢を倒した蘇我蝦夷が優位となり、擁立する山背皇子が即位し和王となった。

 

唐はむしろ和国や百済が分裂することを望みこれを認め、蘇我馬子の血を引く王が初めて即位し、

 

和国に「蘇我王朝」が誕生した。

 

 

上宮法王の打ち立てた和国をなんとか簒奪した蘇我氏だが、和国で上宮法王の血統を入れずに王家を擁立することは難しい。

 

山背王は上宮法王家に婿入りし、上宮法王の娘を女王にするというかたちで王位についた。

 

求心力を失い勢いが落ちたとはいえ、武闘派である和国突厥勢らは、これによって黙らせた。

 

蘇我氏が擁立してきた歴代の王達の中で最も力の無い王である。

 

山背王は、上宮王家で最も障害の重かった姫と結婚し、入婿として上宮王家のある斑鳩の宮へと移っていった。山背王は淫蕩な吉備姫と交わり王家は乱れたという。

 

そしてことあるごとに「上宮法王家である」ことを謳って、王家の正当性を主張していた。

 

蘇我蝦夷は山背皇子を和王に推した功績によって大臣となり、和国の権力の座についた。

 

飛鳥で権力を振るう蘇我蝦夷にとって、山背王が、斑鳩にいるのは都合が良かったが、山背王にはそれこそが和国の王であるとの思いこみが強く、上宮王家の地「斑鳩の宮」に居続け、上宮法王無き後の上宮王家の中に深く入りこんでいった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

山背王は即位するとすぐに、

 

蘇我王朝最初の官寺「百済大寺建立」を宣言した。

 

蘇我馬子と推古女王を弔う一大国家事業で約10年の歳月をかけて行われた。

 

和国初の官寺にあえて、百済大寺(現・大安寺)という名称を用いるのは、百済の武王に対する牽制であり、

 

暗に「和王すなわち百済王である」という

 

挑戦的な表現ともとれた。

 

上宮法王没後の和国の体制が決着して、留学僧と共に唐から来ていた恵日は唐へともどっていった。

そして、山背王は、和国からは初めてとなる遣唐使「犬上御田鍬」を唐へ同行させる。

 

唐の太宗皇帝は、その遠い道のりをあわれんで和国の歳貢を免じ、高表仁をつけて遣唐使「犬上御田鍬」を送りかえした。

 

高句麗、百済からも使節が来和し、迎賓館を改修するなど、誕生したばかりの和国の蘇我王朝は、饗応が続いていた。

 

 

 

高向玄里は、山背王の態勢が決すると、百済武王を和王に即位させることはひとまず諦めて、宝皇女と武王の関係工作を優先することにして、百済へと渡っていった。

 

 

高向の企みでは、百済武王は唐の冊封を受けていたため、もし百済武王が和国の王として即位すれば、そのまま和国は唐の冊封体制下に入ることが可能だったはずだ。

 

蘇我氏が昔、扶余昌を欽明聖王の入り婿にして、和国王に擁立したことを高向は真似たようだが、

武王に上宮法王の娘・宝皇妃をめとらせ上宮法王の婿の立場にしたところで、高向が武王を和国王に擁立することなど容易に出来ることではなかった。

 

高向は、才気はあっても大局をつかむ心がなく、またそれを欠点として認めて補おうという気もない。

 

 

上宮法王の娘である宝皇女は、即ち和国王の継承権であり、やがて後にそのことが百済王家側の火種となっていった。

 

 

【宝皇女とイリ】

高向玄理は時折、宝皇女と二人で和国の丹後国に立ち寄り、大海の里に預けていた漢王子「イリ・ガスミ」の様子を見に行っていた。イリは、丹後国大海の里の長老・大海宿祢の館で暮らしながら、読書きや体術の基礎を習っていた。

 

 

【挿絵表示】

大海の里の翁 大海宿禰

 

丹後は、587年に蘇我氏連合と物部氏が戦った丁未の乱で、推古王女が難を避けて避難して、数年間滞在していた場所であり、和国の中では比較的安全な地域だった。朝鮮半島に近く、海を渡ってくる新羅人も多く、イリは和国の言葉や漢字だけでなく新羅の言葉も習っていた。

 

(京丹後市間人=タイザ。推古王女が滞在し「間人」の地名を与えたことでタイザと読む)

 

物心がついて以来、季節ごとに時おり父高向がやってくることを、イリはいつも心待ちにしていた。父と共にやってくる宝皇女にとても良く懐いていて、ハワさま(母)と呼んでいた。そして、宝皇女が本当に自分の母親だと思っていた。西アジア系の宝皇女は、和人や韓人よりも彫が深く、美しい顔立ちをしていて、大海の里の者も誰もが羨望し、母と二人で過ごす時間は、イリにはとても気分が良く心が躍る思いだった。

 

しかし、ある日突然、父高向から

 

「もう、母と呼んではいけない」

 

と、言われてしまい、その上もう二度とここ大海の里に会いに来ることは無いと告げられた。

まだ幼かったイリにとっては、母を慕う気持ちが強かった為、それは強烈な喪失体験として、引き離した父への恨みを含み心の深くに残っていった。

 

季節が巡る度に、イリは

 

「父がなんと言おうとも今度こそ母は来てくれるはず」

 

と期待し、心待ちにしていたが、百済の武王妃となった宝皇女は二度と、イリの前に姿を見せることはなかった。

 

イリに会いに大海の里へやってくるのは父高向だけで、「期待しても叶わない」ということが何度か繰りかえされていき、年を追うごとにイリには「母に捨てられた」という喪失体験となって、心に寂しさが深く沁みついていった。

 

 

「何故、もう会えないのか」

 

その訳もイリは一切教えて貰えず、何度イリが尋ねても父高向は沈黙し続けた。

 

幼いイリの心は、もうそのことに心を閉ざすことでしか前に進むことができなくなっていた。

 

イリの閉ざされた心は開くことはなく、イリ自身もそうと気づかぬうちに心の底に得も言われぬ「虚無感」を内包したまま人生を生きていくことになっていく。

 

 

【挿絵表示】

 

  高向玄理  と イリ

 

 

高向は、イリの気持ちを他所に宝皇女を思惑どおり、百済武王の妃にしたが、武王の胸の中には大望などなく、王位継承権の無い自らの出自を補うため、「上宮法王の血統」という貴種にただ高向の勧めるままに飛びついただけのようにおもわれた。

 

高向は、武王に対し

 

「宝皇女を娶った後は、百済の大臣であった蘇我氏から和国を取り戻すために、和国王の継承を」と説得して、

 

武王はその提案を仕方なく受け入れた。

 

しかし、高向の野心に反して、武王は全く乗り気ではなく、現在の百済政権を維持するための消極的な対応でしかなかった。

 

そもそも、エフタルの血も引いている武王が、百済王につけたことだけでも奇跡であり、上宮法王が血統より実力主義をと用いたことで可能になったが、武王だけの力で血統主義を排除して王になるなど到底不可能なことである。

 

武王には、和国に進出し和国と百済の両国の王になるという力も野心もなく、また唐の力を後ろ盾にして画策する高向にも、武王を擁立して蘇我王朝を倒すほど勢いはなく、和国で即位すること等はできなかった為に、

 

百済で

 

「舒明和王」と、

 

名乗るだけに留まり、百済・和国の両国の王を継承するという姿勢だけをしめした。

 

(あせることはない)

 

と、高向は思っていたが、

 

彼の仕込んだ武王と宝皇女の婚姻は、いたずらに策を弄しただけで和国の蘇我王朝には全く影響はなく、ただ無意味に幼いイリの心を傷つけただけだった。

 

 

そして、高向も到底、予想だにできないことだが、百済王室に上宮法王の血統を入れてしまったことは、未来に「乱世への火種」を蒔いてしまったことになり、この火種はやがて、百済から和国へと燃えうつり、やがては「壬申の乱」という大戦へと至り和国を焼き尽くすことになっていく。

 

 

唐は、高向の弄した一連の策には沈黙していた。

 

 

唐の標的はまず高句麗であり、今しばらく百済や和国へは力をいれず離間策をとっていて、親唐派と反唐派を争わせて国力を低下させることを目的としていたので、どちら側に味方しても対立を深めて、結果的に国内の争いを長引かせられればそれでよかった。

 

630年、

唐の李靖将軍は東突厥を滅ぼし、いよいよ唐は高句麗に迫ってきた。翌年、高句麗の栄留王は、隋に勝利したことを記した戦勝記念碑である「京観」を唐の命令に従って破壊してしまった。

 

唐と隋で国は違っても、高句麗が中国に勝利したという記念碑が国境よりに建てられていること自体が目障りであり、この破壊命令に栄留王が従ったことによって高句麗国内で燻っていた反唐派は激しく抵抗をはじめた。

 

高句麗栄留王は、唐に対して従いつつも、いよいよ唐が侵攻してくることに恐れをなし、反唐派のつきあげもあり、大急ぎで扶余城からの防衛線に「千里の長城」の築城を開始する。

 

 

 

 

【百済の三つの星】

 

 

【挿絵表示】

 

 

高句麗は唐の傀儡となってしまい、新羅はエフタル王家が残り、和国は蘇我氏のものになってしまい、半島から列島にかけては突厥と上宮法王の残滓が残る国は百済のみになってしまっていた。百済は和国と違い、蘇我氏の勢力は弱く、百済・八大部族の筆頭の「沙宅一族」が百済王家の外戚として権勢を振るっていた。

 

そこへ、高句麗の嬰陽王の皇子ウィジャが和国から渡ってきて、武王の養子(元子)となり、新羅への猛攻を加え勝利し快進撃を続けるようになった。高句麗、新羅、百済が唐の冊封体制下に入り、和国も親唐になってゆく中で、先代である高句麗の嬰陽王の志を継いで反唐を貫き戦い続けるウィジャ王子は、「高句麗の彗星」と呼ばれた。

 

宝皇女は百済武王に嫁ぐとすぐに懐妊し、皇子が生まれて630年には正式に武王の皇后となった。

百済の武王は、威徳王敏達の皇女を娶っていたが、武王自身は王族ではなかったので、ここで上宮法王の娘である宝妃との間に皇子をもうけることは、百済・和国の支配階級の血統として申分がないことだった。武王皇后となった宝妃は、武王に願いでて金馬渚の弥勒寺に仏塔を建て父上宮法王の菩提を弔った。

 

宝皇后の産んだ皇子の名は「キョギ」といい、後に和国に渡って天智天皇として即位し、和国・上宮法王の王統を継ぐ。

 

ウィジャ王子にとっては義姉にあたる宝皇妃が皇后になり、百済王室での存在感を強める一方、ウィジャ王子もその勢いを増す。

 

蘇我氏に簒奪された和国奪回への野心は捨てず、631年にウィジャ王子の息子の「豊璋」を和国へと送り、そして、和国の安曇比羅夫(比羅夫=外交・外征を行う者)を、百済の「駐百済大使」に迎え、百済・和国の手綱として確保した。

 

豊璋は、ウィジャ王子の間者であり、豊璋の使徒たちは和国の情報収集と探索を行っていた。

豊璋は、和国で初となる養蜂をはじめた。和国の者はハチミツを食べたことはあっても誰もその作り方を知らなかった為、蜂の群れを嫌がり豊璋のもとに積極的に近づこうとする者もなく、諜報活動の良い隠れ蓑になっていた。

 

また、養蜂を嫌って豊璋のもとを離れた豊璋の弟分の塞上という者がおり、この者が手の付けようのない不良であちこちで悪さばかりしていた為に非常に目立ち、逆に兄の豊璋がそれを恥じて身を慎み密やかでいることも不自然ではなく、むしろ塞上は乱行によって和国の者の注目を集めていた。

 

ウィジャ王子には、もっと手兵が必要だった。

 

「先代の志を継ぐ!」と、呼号し、

 

志を共にする朋輩を率い疾風のように、親唐派の新羅を攻めたてて、

 

戦えば勝利し、新羅の領土と民を切り取り、次々と自軍に取り入れていった。

 

 

632年に新羅の真平王が没すると、エフタル王家の継承権のある直系(聖骨)の男子がいなかった為、真平王の娘の善徳女王が即位したが、ウィジャ王子はこの隙を逃さずすぐに新羅を攻め大勝する。

 

 

【挿絵表示】

善徳女王

 

そして、その軍事力と和国の蘇我石川倉麻呂の武力を背景に武王に圧力をかけて、百済武王と真平王の娘ソンファ妃との間に生まれた隆王子を退けて、強引に百済武王の皇太子となってしまった。

 

唐になびく和国、新羅、百済の三国の中で、反唐の志しを貫いて戦うウィジャ皇子は、翌年には新羅の西谷城を攻め陥落させた。

 

新羅よりであった武王にとっては苦々しいことだったが、百済では新参者のウィジャ皇子は、百済の既存の勢力に対抗する為にも、新羅攻めによって領地を攻め取り、反唐の為の兵力確保を着々と進めていくしかなかった。

 

武王は、百済に介入してくる蘇我石川倉麻呂や唐の手先となった高向などの意図をもとより汲む気もなかったが、上宮法王が残した体制の上で存在していた王位であり、また自分を王に引き立ててくれた亡き上宮法王への忠心もあった為、上宮法王の後継者のウィジャ王子を養子とし、上宮法王の娘を皇妃として娶り、蘇我氏に奪われた和国で、身の置きにくくなった上宮法王の身内を仕方なく引き受けるかたちになってしまった。

 

武王、宝皇妃、そして養子のウィジャ皇子、皆、上宮法王の縁者でありながら、それぞれに立場が違い、不思議な対立と力動を形成しながら百済王室は存在していた。

 

武王は、百済王家の直系ではなく上宮法王の後押しで即位した王だった為、立場は弱かったが、有力部族と外戚の勢力や外交によって支えられ均衡を保っていた。そして、武王は上宮法王の反唐の志を継ぐべき立場でありながらも、新羅の姫を娶り唐の冊封を受けていた為、親唐派の立場になっていた。

 

法王の娘である宝皇女の方がむしろ突厥勢には正統であり、沙宅一族の力を背景に王を凌ぐ勢いがあった。ウィジャ皇子は、上宮法王の後継者とされつつも高句麗嬰陽王の皇子でもあり、嬰陽王の反唐を継承して、高句麗、和国、百済へと渡ってきているだけに孤独で慎重だったが、保身の為に唐になびく武王に対しては反発していた。  

 

沙宅一族が宝皇妃を擁護していたため、ウィジャ皇子は、当初は沙宅氏とは派閥の違う有力部族である、燕氏や蘇我氏と結びつき立場をかためていった。

 

しかし、皇太子となり兵を動かし新羅の領地を奪うようになって、益々勢いづいたウィジャ皇子は、義姉の宝皇妃の養父であった沙宅大臣を強引に追い払ってしまい、代わりに自分の片腕である鎌足に沙宅家を継がせて大臣にしてしまった。

 

 

【挿絵表示】

 

大臣 沙宅智積(鎌足)

 

 

ウィジャ皇子の圧力によって沙宅家を継ぎ沙宅大臣となった「沙宅鎌足」は、もともとは「智積」と言い、ウィジャ皇子がまだ高句麗に居た頃からの側近で、反唐を誓いウィジャ皇子について和国、百済とめぐって苦労を共にしてきた側近中の側近である。

 

後に、和国に帰化し中臣氏と縁を結び中臣鎌足と名乗る。

 

宝皇妃の後ろ盾であった沙宅家を乗っ取り、ウィジャ皇子の権勢は更に勢いを増した。

 

 

百済で反唐勢力として台頭したウィジャ皇子は、強烈な存在感で、次第に若い世代からは支持されるようになり、特に百済武王とソンファ妃との間に生まれた、隆王子やケベク将軍など武王側の者でも、血気盛んな若者達は、反唐を貫くウィジャ皇子の影響を受けていった。

 

武王や百済の有力部族達など、どこ吹く風であるかの様に目もくれず、新羅と戦い勝利するウィジャ皇子は百済の武闘派の羨望の的となった。

 

(百済の有力部族などは相手ではない)と、

 

ウィジャ皇子は思っていた。

 

それなりに力のある百済の部族と関わり、その鬩ぎ合いの中に我が身を置いたところで、ウィジャにとっては足枷にしかならず、それよりも百済の外に力を向けて、自軍に引き入れられる領地や兵を確保していった方がはるかに実となった。

 

そして、勢い天をつくウィジャ皇子は、いよいよその矛先を和国へ向けていく。

 

 

 




後書きその②この小説を書こうと思った訳、、続き

古い歴史モノがあまりに少ないので、ならば自分で書いてみようと思い至って、


最も自分で読みたい時代を書くことにしました。

断然、650~700年頃

所謂、チョンマゲ武士など日本独特の文化が始まったのは紀元1000年を過ぎてから。六波羅ファッションブームからと云われてます(諸説あるかもしれません)が、

武士が登場する時代から遡ること500年前、聖徳太子の時代~

そして大化の改新・大宝律令の制定の律令化の時代で

古い部族社会の時代が終わり、
新たな中央集権と貴族社会へと急速に移りゆく時代、

和国が消滅し日本国が生まれる。


大国唐が興り、東アジアまでその野望は向けられ、白村江の戦いでは和国軍と唐軍は直接激突します。
                                 
この時代以外、史上、中国と直接刃を交えた戦いで、日本から朝鮮半島にまで出兵したこの様な大戦は過去にも未来にも日清戦争くらいしかない。

(秀吉の朝鮮出兵では加藤清正公が深く切込みましたが届かず、1300年を経て、日清戦争では奇しくも同じ場所で日本軍と中国軍は激突し、今度は日本側が勝利します)


なんとエキサイティングな時代だろうか、、

日本の歴史書『日本書記』の編纂が始まった頃でもあり、

この時代より~

『和国書記』ではなく、既に

『日本書記』なのです。

巷説の世界の中で、この時代で最も興味を惹かれる人物は、

天武天皇こと大海人皇子=ヨンゲソムン

そしてその息子の文武天皇、

新羅での名は金法敏=文武文武王です。

天武天皇は、唯一の正史となる『日本書記』の編纂を命じ、伊勢神宮の造営、現人神の思想、 律令化、肉食の禁止など日本の原型となる文化的影響を与え数々の偉業を成し遂げ、そして恐れられた人物。

元々、部族連合国であった和国に現人神の思想を持ち込み専制君主的な王権を確立した王たる王。

持統天皇や文武天皇は天武天皇の偉業を継ぎ、

遂には『日本国』の名で遣唐使を送り、

時の皇帝即天武皇(武媚娘皇后)に

『和国という国は無いのでもうその名で呼んではいけない。日本国と呼ぶように』

と、言わしめた。

日本建国の時代の立役たちです。

巷説の世界では天武天皇は東アジアの代表的な人物で、高句麗での名は宰相ヨンゲソムンとして偉業が知られ、日本海狭しと東アジアを暴れ回っていた人物だが、歴史の上では闇に封印されてしまっている為、

天武天皇とヨンゲソムンが同一人物として描かれた作品は存在しない。


日本が朝鮮半島との繋がりを歴史上封印したのは桓武天皇の時代以降と云われています。

巷説の世界の中でしか語られてない英雄

ヨンゲソムン=天武天皇

幼い頃より高句麗、新羅、和国、大陸を巡り、高句麗の大臣から宰相にまで登りつめ、遂には和国に渡り王にまでなった反唐の風雲児のストーリーを

どうしても読んでみたい。


無いならば、自分で書こう、、


と思い書き始めました。とさ


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