和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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665~666年
【天下最果ての暗雲】
【大友皇子】
【封禅の儀】
【イリの葬儀】

前代未聞の27000人の新羅弔問使による上陸戦の後、
瀬戸内海を越えられ本州での戦いとなった事に衝撃を受けた天智天皇側は、大急ぎで長門と筑紫に城を築き始めた。この城は翌665年8月に完成し、和国の防御力増強を待っていた唐は、和国の天智天皇へ使臣を送る。

イリとイリの息子である新羅文武王の絆は固く、極東に残る反唐の主軸であり、唐はイリ親子の抵抗を阻む為にも、天智天皇を承認し親唐国としての和国を安定させる必要があった。



第26章 唐の高宗皇帝『封禅の儀』とイリの国葬

【天下最果ての暗雲】

 

唐軍百済総督の劉仁軌は朝鮮半島と和国の政情に精通していた。

 

昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵となる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

表向きは、百済に駐屯する唐軍と同盟国の新羅軍は、唐軍が高句麗を攻める時の援軍として、後方から高句麗を挟撃する構えである。

 

天智天皇の和国が唐軍側であれば、高句麗勢は劣勢の様に見えている。

しかし、実情は虎視眈々と和国を狙っているイリや新羅軍が天智天皇を倒し、和国を取れば、

たちまち新羅は反旗を翻し新羅と和国から攻められ、百済にいる唐軍と自分の命脈も危うくなることは分かっている。また今度、瀬戸内海を突破される様な事にでもなれば次はどうなるか分からない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

もしもその様な事態になれば、本国の高宗皇帝の高句麗出征の機会も戦機を逸する事になるだろう。

「かくなる上は、命が尽きるまで剣を振るうしかない…」

 

劉仁軌は、死を覚悟していた。

 

そして、和国の天智天皇には、親唐国としての和国をなんとしても死守させねばならず、筑紫と長門で築城している瀬戸内海の防衛拠点の完成は必至だった。

 

もしも是を破られれば天智天皇らよる親唐の和国は、イリの支配する反唐国となってしまう。

 

新羅軍27000人が瀬戸内海を通過し大阪湾から上陸した事は、和国の者などよりも百済を総督している劉仁軌が最も心胆寒からしめられた。

 

これにより「白村江の戦い」の戦後処理も、早く進めねばならなくなっている。

 

勿論、封禅の儀と、高句麗戦を控えている唐国としては、アジア天下の果てにある辺境の島国にまでわざわざ海を越えて報復している場合ではない。

しかし、報復しなければ「白村江の報復である」として新羅からの侵攻の口実を与えてしまう事になる。27000人の兵を弔問使として送り出した事により和国の軍事力を把握した新羅側は既に次の手を考えているかもしれない。

 

劉仁軌は、唐に亡命していた元百済王子・隆王子が、百済の総督を劉仁軌と交代する為にやってくる事になっていたので、その到着を待っていた。

 

—「交代の儀、命を奉じまかりこしました。」

 

緊張しながら当たりを気にするような所作で、唐国より隆王子が百済総督府へ入城してきた。先年、城を捨て唐軍へ亡命して以来の百済であり、百済が唐の支配下となった今、元百済王子である隆王子は人々の目が恐ろしかった。

 

(未だ残っている元武官らは、唐にいち早く降った吾を何と思うか…)

 

劉仁軌の心配の種は、交代で百済総督となる隆王子の事よりも、

目先の天智天皇の和国の「内憂外患」の状態だった。

 

今、即位して間もない天智天皇の和国と公式に講和してしまえば、和国内の反唐の者や亡命百済人達がこれを許さず、今までの親唐派の王たちの様にイリに国内で廃されてしまうだろう。そしてもしもイリが和国の天智天皇を除けば、すかさず娶っていた天智天皇の娘を女王に擁立し、自分は女王の夫・王として和国を動かすことは目に見えている。

 

唐にとっては和国の戦後処理ごときは枝葉の問題とは言え、イリが虎視眈々と和国を狙っている以上、放置しておく訳にもいかなかった。新羅には圧をかけつつ、天智天皇には和国王の承認をエサに現在築城中の瀬戸内海の二城の強化を急がせていた。

 

その後は、天下の最果てにある島国の者を「封禅の儀」に参列さえさせれば、天下の果てまで威光は届いたことになり、和国ごときに報復や講和などせずとも天下泰平は成就する。

※封禅=天下が泰平に治まったことを中国の霊峰・泰山で奉じる儀式

 

唐軍の遠征が遠路になるほど、自軍のみでの遠征は不可能であり、出征先の勢力に味方させるのは必定であるが、

 

「それにしても、皮肉なものだ・・・」

 

と、劉仁軌は深くため息を吐いた。そして、

 

「水を持て」と、近習の者に命じ、酒をあおるかの様に飲み干した。

劉仁軌は、百済総督として熊津城の執務室にいる時でさえ、戦線の幕舎にいる時と同じ様に酒も茶も飲まない。常に臨戦態勢である事を忘れずにいる。

 

「それにしてもだ。つい先年まで刃を向けていた和国に対し報復するどころか、和国の防衛強化まで心配せねばならぬとはな…。」

 

しかも、唐皇帝の「封禅の儀」を遅らせて、和国の体制が整うのを待っているのだ。笑わずにはいられない。

水を飲み干した劉仁軌は、あまりの滑稽さに大声で笑い出した。

 

唐の承認が欲しい天智天皇は、築城を急いでいた。

 

 

 

【王者の相 大友皇子】

瀬戸内海防備の城は完成した。劉仁軌は、新羅軍に終戦を認めさせ下手な動きをさせぬ様にと、唐本国から唐に亡命していた元百済王子・隆王子がやってくると、

 

直ぐに新羅の文武王と引き合わせ、無理やり百済と新羅の講和をさせた。

 

この結着は双方納得のゆくものではなかったが、新羅の文武王は「唐・新羅連合」の手前、

「否」と、断り切ることが出来ずに仕方なく講和の儀に参列した。

 

公式ではないが、和国の者も儀式には参列し、非公式に天智天皇側とも講和した形にはなった。

 

儀式では、領土へ侵入しない事を誓わされたが、新羅が和国へ侵入することも封じる為である。瀬戸内海の防備と同様に「封禅の儀」を執り行う前に、どうしても決めておかなければならない講和条件だった。

 

劉仁軌は、百済と新羅の講和の儀式の後、「封禅の儀」に参加する為に和国の使者を連れて帰国し、新羅と百済の使節は回路より封禅の儀に向かった。

 

半島で講和が済んだ後、翌9月になると唐国からの使者・劉徳高が和国入りしてきて、那珂大兄王子を和国王(天智天皇)として認める唐の意向を伝えてきた。

そして、西日本の新羅防衛線を視察しつつ各地を周り、劉徳高が大和入りして歓待を受けたのは11月に入ってからだった。前年に、追い返された郭ムソウも含む総勢254名の大使節団であり、以前、遣唐使として唐へ逃がされていた僧・定恵も伴っていて、唐本国からの使節団であることは、誰の目にも明らかだった。

 

歓待を受けた劉徳高は、天智天皇の息子の大友皇子の顔をみて、

 

「なんと! 王者の相をしている」

 

と言った。

 

唐の使者が、居並ぶ群臣の中であえて声を大にして言うとは、唐国が皇太子として認めると宣言したのも同然の物言いである。直言ではなく間接的であったが、この一言により天智天皇も和国王として扱われ、自称和王ではなくアジア天下で国際的にも認められた形にもなった。唐に認められると言うことは、アジア世界に和王として認めれられたに等しい。

 

 

【挿絵表示】

 

※アジアにおける唐国と唐の勢力圏

 

唐軍としては、イリが万が一天智天皇を廃した場合に備え、他の者の擁立を抑える為にも、未然に親唐派の皇太子を決めさせておかなければならなかったのだ。

 

 

 

【封禅の儀】

唐の使者が和国入りした事を重くみた高句麗は、高句麗からも「封禅の儀」に参列する為の使者を送使する事にし、福男が唐へと向かった。

この年、イリは死去した事にして高句麗を去り、本格的に和国へ拠点を変えていた。

 

唐に帰国した劉仁軌に代わって百済総督となった隆王子は、かつての側近だった者を百済熊津に配置し体制固めを始めた。しかし、新羅側は王子の近辺に

 

「百済総督が隆王子になった為、唐軍の指揮弱しとみて連合を破棄して攻めて来る」

という噂を流した為、新羅の攻撃を恐れて隆王子は唐本国に帰国してしまった。

 

翌666年正月、

 

唐の高宗皇帝による国を挙げての祭禮『泰山封禅の儀』式典が遂に行われた。

 

封禅とは、古代中国で行われた天と地に天下泰平を封じる儀式であり、霊峰『泰山』で行われる。唐の高宗皇帝の封禅は、西アジア、中央アジア、南アジアは勿論のこと、和国も含めた東方からの参列で、中国史上かつてない規模で行われた。

 

 

秦の始皇帝、漢の武帝、魏の明帝など歴代中国王朝の帝王たちが行ってきた莫大な国費を投じて、山東省の泰山で行う国際的儀式であり、皇后、文武百官を引き連れて向かい行列は何百里にも及んだ。

天下泰平の為に、インドやペルシア、高句麗の太子福男も侍祠し、百済、耽羅、新羅ら東アジアの国々と、天下最果ての島国・和国からも使者・大石、岩積らも参列させた事で、唐皇帝の威光は天下のすみずみまで行き渡った事を示していた。

 

 

 

【イリの葬儀】

 

イリの葬儀は、国葬並みの大規模で行われた。

 

封禅の儀には、高句麗からは福男も参列し、天下は泰平となり表面的には、高句麗とも戦争状態では無い。しかし、実際はかつてないほどの緊張状態だったが、そうした中での葬儀の開催であり、唐国からも老将・李蹟将軍が弔問に遣わされてきた。弔問使として堂々と敵情視察の為に、高句麗に入国してきた訳であり、平和的な関係ではなく、次の戦争に向けての視察であることは明らかだった。

互いに出方を窺う探り小手の様な葬儀となったが、これで恐らく次の高句麗攻めの総大将は、李蹟将軍で来るであろうことは予測された。

 

葬儀本来の目的は高句麗宰相だったイリを亡くなった事にして、和国亡命を隠す為の葬儀だったが、国葬並みにしてわざわざ大体的に行うのは他にも理由があった。

一つは高句麗側もまた唐との決戦を前に、周辺国からやってくる弔問使の反応をみて敵味方の戦意を探る目的があった。イリ亡き後の高句麗に対し、周辺国にどれほどの戦意があるのかを見定める為に案内状を送っていた。

もう一つは、葬儀をナムセンに取り仕切らせてイリの後継者、次代の宰相である事を示す目的があった。

 

イリの長子ヨン・ナムセンは、665年に跡を継ぎ高句麗の宰相の地位に着いたが、弟の男健らの激しい反発に合っていた為だ。

 

男建は葬儀の間中、主催者である宝蔵王の態度にも苛立っていた。国葬級ともなれば、もはや淵(イリ)家の葬式ではなく、国王の宝蔵王が主催となるのは当然であるが、その淵家の前に身をかがめていた宝蔵王が、国賓を前に堂々としているのが気にいらない。そして、その傍らで張り切っているナムセンに対しての怒りは尋常ではなく、宰相の如く振舞う態度には殺意さえ抱いていた。

 

唐に密通し手先となって動いていた方衛は、これを利用し男建の兵を動かそうとしたほどだった。方衛から目を離さずに警戒していた者達によって未然に防がれ事無きを得たが、男建のナムセンに対する怒りは、宰相と言う「権力の座」を前にしてもはや一食触発の状態にまで沸騰していた。

 

ナムセンは、部族基盤を持たない。

 

母は靺鞨族の姫であり、下の弟の男建らは高句麗王族のソヨン妃の子である。

 

親唐派の五大部族らも、外来の他部族である靺鞨族の姫の血をひくナムセンを認めず、ナムセンを退け、扱いやすい弟の男建を高句麗の宰相に就け様としていた。

 


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