和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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663年−665年
白村江の戦い後、暫く大戦はなくなり諜報活動と工作戦に突入する。イリは和国で那珂津女王を擁立し『甲子の宣』を発布。女王即位を認めない那珂大兄皇子との対立は東西で激化する。朝鮮半島では百済を滅ぼした唐が熊津都督府を置いたが、鎮将の劉仁軌と劉仁願の間で対立が起きる。和国の那珂大兄皇子と大海人皇子の対立も飛び火し、劉仁願と劉仁軌を巻き込み睨み合いが続く。

第1話 白村江の戦い後
第2話 那珂津女王【甲子の宣】
第3話 那珂津女王即位祝賀団 郭ムソウ
第4話 劉仁軌と強気な那珂大兄皇子
第5話 劉仁軌の奏上




第23章 和国【那珂津女王】即位 甲子の宣

 

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劉仁願

 

キビ政策(キ=馬の轡、ビ=牛の鼻輪)

唐が辺境の国々を従わせるのに用いた政策。完全同化支配するのではなく、存在を持たせながらも馬の轡をとり牛の鼻輪をつけて操る様な制御方法。

 

 

 

【白村江の戦い後】

 

663年10月 

 

白村江の戦いの敗北後も、九州に駐屯していた那珂大兄皇子はそのまま筑紫に留まり唐新羅軍の侵攻に備えていた。

 

那珂大兄皇子は唐軍よりも、寧ろ新羅文武王と金ユシンの侵攻を恐れた。

 

 

 

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那珂大兄皇子

 

唐軍の援軍・孫仁師将軍らは帰還命令を受け撤退し、劉仁軌は百済の復興と護民政策を行っていた為、

 

「唐軍が白村江の戦いの報復で、和国へ攻め入ることは無いだろう」とみていたが、

 

新羅軍は別の意図がある事を充分に感じていた。

 

新羅文武王とイリは裏で繋がり、和国へ報復するという名分で、那珂大兄皇子を攻める懸念があった。

 

それでも尚、那珂大兄皇子が筑紫に留まっていたのは、百済から亡命してくる敗残兵達を直接取り込む為である。

 

一方、

 

イリもまだ高句麗に留まったまま工作を行っていた。唐軍の郭ムソウと劉仁願を抱き込んでいる最中である。

 

平壌からの方が新羅軍内の密偵を自由に使えた為、和国にいるよりは比較的容易にやり取りができた。

 

劉仁願、郭ムソウどちらも、地方官で中央に仕えずとも地方利権には詳しく、在地のまま唐に仕えた将軍である為に知己の繋がりは多い。

 

 

劉仁願には予めイリは賄賂を渡し、白村江の戦いではもっぱら水軍を率いた劉仁軌が戦い、劉仁願の動きは意図的な怠軍を疑われたほどである。

 

イリもまた白村江の戦い後、唐軍が報復で和国に攻め入ることはないだろうと判断し、この間に劉仁軌を如何に取り除くかの細作を図っていた。

 

今後、数年はこうした工作戦が間断なく続くことになっていく。

 

和国の白村江派兵は許し難い反唐行為だが、唐の目標は高句麗を滅亡させる事一点に絞られており、今は和国になど出兵している場合ではない。

 

ましてや今の唐が、隋の時代の煬帝の様に、怒りだけで軽々しく軍事遠征させることはあり得ない。唐は高宗皇帝の一強支配ではない為、軍事遠征には常に複雑な利権と謀略が絡み合う。

 

古来より、

 

中国では最高の戦略とは謀略で勝つ事とされていた。

 

大軍で攻め入るのは最後の詰めだが、唐は対高句麗戦略では二度もその詰めの機会を誤った。

 

一度目は太宗皇帝の安市城での敗北で、

二度目は、662年、唐軍は平壌まで攻め入りながらも、城を包むように流れる蛇水でイリに敗北を喫してしまった。

 

以来、高句麗攻めは暫く中止して、唐は高句麗を内部から崩壊させていく戦略へと方針を転換していた。

 

 

イリもまた、唐側の切り崩しにかかっている。

 

 

 

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劉仁願

 

イリは唐へ帰還命令が出ていた劉仁願に対して、存念を伝えていた。

 

「唐へ帰還なされば、上へは劉仁軌の手柄も包み隠すことなく上奏なされた方がよい。されば、高宗皇帝はは劉仁軌を賞する為に王都に呼び戻し、交代で劉仁願殿を再び百済へ赴かせるに違いない。」

 

劉仁願にしても中央で出世をする為に、王都に戻る訳ではない。

 

在地の任官として、東アジアの利権や陰で築き上げてきた既得権を今になって放棄することなど出来ず、忠義心に篤く知勇を兼ね備えた忠臣、即ち融通の効かない真面目で一本気な劉仁軌が正道を行うことで、百済がどう変わるかが気が気でならない。

 

また、正道を推し進めることで自分の贈賄も明らかにされるやもしれず、劉仁軌を王都に追い返すということは利害が一致していた。

 

「無論のこと承知」と、

 

高宗皇帝には劉仁軌の手柄を握りつぶすことなく、全てを報告したところ、

イリと劉仁願の思惑どおり劉仁軌を賞する為に王都へ呼び戻すことになった。

 

 

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唐・高宗皇帝

 

 

この年、

 

唐の宰相の李義府という者が失墜した。

 

賄賂を好み、官職を売るなど贈賄が明るみに出て、宰相の位を剥奪され左遷された。

 

李義府は、長孫無忌と対立していた事で武媚娘側につき皇后に擁立し、武媚娘皇后と共に長孫無忌を失脚させた権勢家だ。

 

しかし、やがて武媚娘皇后とも対立する様になり高宗皇帝側に寝返って、皇后派の宿老・李勣大将軍と勢力を二分していた。

 

 

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皇后派・李勣大将軍

 

武眉娘皇后は、立后当初は高宗皇帝に代わって政務を摂る日の出の勢いだったが、李義府が皇帝派になると勢いを失い、門閥(関隴集団)は皇帝側につき息を吹き返した。

 

李義府は賄賂を好み人当たりが良く、

 

『笑いの下に刀を隠す』と言われ、李猫と呼ばれ恐れられていた。

 

 

 

李義府はあろうことか、劉仁軌を暗殺するよう暗に劉仁願にせまっていた。

 

劉仁軌は皇后派の将軍であり、極東の利権を狙う皇帝派の李義府一味にとって、融通の効かない一本気な劉仁軌は目の上の瘤でしかない。

 

 

 

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皇后派・劉仁軌

 

李義府は劉仁軌を嫌悪し、劉仁願に暗殺を仄めかしていた。

 

 

劉仁願、郭ムソウどちらも、東アジア土着の臣で、中央へ賄賂を渡して唐の官職を手に入れた臣である。

 

唐の官職を賄賂で売っていた皇帝派の李義府の存在が無ければ、要職には就けぬ身分だった。

 

将軍というよりは戦争商人の様であり、李義府も官職につける以上は、利益を要求してくるので、劉仁願らは李義府の要求は拒めない立場にある。

 

 

劉仁願はさすがに暗殺まではできぬとこれを躱していたが、劉仁軌はその気配を察知してか劉仁願に対して気を抜くことはなかった。

 

李義府の宰相罷免により、虎口は脱した。

 

 

しかし、この後も極東における皇后派・劉仁軌と皇帝派・劉仁願の対立は続き、対和国の那珂大兄皇子と大海人皇子の対立にまで影響を与えていく。

 

 

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皇帝派・劉仁願

 

 

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皇后派・劉仁軌

 

 

663年暮れ

 

 

イリことヨン・ゲソムンは、息子達を平壌に集め戒めの言葉を言い聞かせた。

 

 

「お前達は争ってはならない。争えば唐軍がつけいる隙となり高句麗は虚しくなるだろう、、何があっても決して争うな!」

 

そして、急ぎ和国へと渡っていった。

 

 

 

(高句麗は一体どうなるのか、、)

 

イリも暗雲の中に立たされつつあった。

 

今、息子らの間でイリの跡の高句麗宰相の座を狙って後継争いが起きていることは知っていた。

 

「戦意を低下させる」という唐側の細作による特務工作は極めて深刻な状況となっているところで、後継者争いなど起こしている場合では無い。

離間策の恰好の餌食となるだけである。

 

イリは、長男のヨン・ナムセンを大臣にして、やがては宰相を継がせようとしていたところだが、先の鴨緑江戦でのヨン・ナムセンが敗北したことにより反対の声があがり、五大部族らは弟のヨン・ナムゴンらを担ぎ出している。

 

イリが和国で権力の座につけば、高句麗の宰相の座はどちらかに受け継がれるとみて、

 

(この度の和国行きこそは、)

 

と、高句麗はその交代の機会にざわめいている。

 

「もう、長く高句麗を離れる事は無理であろうな、、」

 

半島から列島を奔走し続けるイリにも疲れが出てきていた。

 

 

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イリは高句麗の内訌の懸念を残しつつも、和国でするべき事はしなければならなかった。

 

 

 

【那珂津女王即位と甲子の宣】

 

664年2月和国

 

イリは間人皇女の那珂津女王即位を執り行った。

 

ついに先代の斉明女王直系の女王が、和国で立った。

 

間人は上宮法王の孫で、百済武王と和国斉明女の皇女だった。父・武王が殺された後、百済・耽羅・和国と流転し、ウィジャ王・考徳王親子の皇后となり、永きに渡り運命に翻弄され続けてきた末にようやく今、イリの擁立によって和国の女王となった。

 

 

那珂津女王は母・斉明女王と同様に

 

【皇】を号し、那珂津皇

 

『ナカツスメラミコト』と呼ばれた。

 

 

(諡号※中宮天皇)

 

那珂津女王を擁立したイリこと大海人皇子は、これで那珂大兄皇子を抑えて、政局の前面に立ち政務を執る。

 

イリは、女王を即位させると女王の名で

「甲子の宣」という詔勅を出させた。

 

 

 

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那珂津女王

 

 

『甲子の宣』大化の改新以来の改革となる。

 

触れるのは、大海人皇子である。

 

大化の改新以来、有力部族に属する部族民を王に属する国民とする『公民化』が進められてきた。

 

国が国民に対し徴兵権を持ったことによって『国軍』の編成が可能となり白村江の戦いには約3万人もの軍勢を派兵することが出来た。

 

しかしその敗戦により、多くの民を失ってしまった。

 

だからといって、以前の部族連合社会に逆戻り出来る訳でもないが、朝廷に官位を以て仕える「元有力部族」らは動揺した。

 

「是ほど民を失ってしまうとは、、もう朝庭の役務に就かせる事などできぬ。」

 

地方によってはまだ旧態然とした部族支配が色濃く残り、二重構造を引きずっている者らもいて「吾が民である」として抗う国司も多かった。徴兵権、徴税権が国に移ろうとも、元来同族の血縁集団であり同朋なのだ。

 

 

しかし、

 

ここへきて国、則ち王朝は更なる国民確保=公民化に取り組みだした。

 

まず、

 

大海人皇子が『甲子の宣』で冠位の改正に取り組んできたのは亡命百済人らの扱いであった。

 

「百済人の知識や技術は必要だが、彼らの勢力に朝廷を乗っ取らせる訳にはいかない」

 

というのが第一の懸念であり、

 

(ましてや、那珂大兄皇子の後ろ盾になる力など持たせぬ、、)

 

と、細心の注意を払った。

 

 

 

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大戦さを前にしてイリは半島に渡らず、ぎりぎりまで和国で準備を進めてきたのもその為である。

 

 

冠位を十九階から二十六階にまで増やし、多くの亡命百済人らを大和王朝に取り込むことが可能になった。

 

しかし、政府の三人に一人が百済人という状態になり朝廷最大の勢力となってしまう為、主に百済人に就かせる為に下級官位を厚くして細分化を広げていった結果、位が二十六階にまでなっていた。

 

百済人達の知識と技術だけを利用し、朝廷内では出来る限り力を持たせないやり方だった。

 

冠位で朝廷に帰属させるまでは良いとしても、問題は百済人らがそれぞれ民を率いてきている事である。

 

これを国民として帰化させず、私有民として認める訳にはいかない。

 

百済人の民の身分を明らかにし、元々その家に代々仕えてきた奴婢(奴隷)のみ

「家部」という身分で隷属させることを認め、低い身分の民とし

 

それ以外は「民部」といい国民=則ち王の民である国民として高い身分の民にした。

 

しかし、実際そのまま彼らに帰属させたので、まるで部族社会時代の部民の様であったが、民部=部族の民ではなく、王の民が集まる部であるといういい含みを残し「タミベ」とよんだ。

 

多くは難波の百済人村に集められたが、決して和国から独立した存在ではなかった。

 

 

地方各地で二重構造を残していた元部族長らに対しても、朝廷に帰属する

【氏族】として身分を大氏・小氏と定め上氏を明確にし、旧態然とした昔しとさほど変わらない部族体質を残してる者共に対しては【伴造】といい、その下の下級官僚の身分とした。

 

全て、現状を認めつつ朝廷身分の法制化だけを明確にしたかたちであった。

 

上宮法王以前、和国が部族連合国だった時代は部族民ばかりで国民が殆どいないという状態が続いてきた。

数十年前の和国ではまだ大王と部族長らが同列的であった事を考えれば、部族的な支配体質を残している者らを国の制度の中で、最も低い身分に位置づけたのは中央集権の律令化へのゆるやかな進歩と言えよう。

 

「世の移り変わりに目を逸らす者もいるな、、」

 

イリは顔を顰めて言うが、だからといってその者達を力づくでどうにかしようとはしない。

 

在地における既得権と現状を認めつつ、甲子の宣に基づいた身分の上下に応じて大刀(たち)、小刀(かたな)、を賜り、

 

その者たちには干楯弓矢(たてゆみや)を賜った。

 

例え和国、古来からの部族であっても

「干楯弓矢」を賜るのは、新たに帰属した蝦夷族の酋長らと同じ扱いである。

 

もしも朝庭で高い身分を望むのならば、自ら旧態然とした部族体質から脱却して、中央の加護を得た方が得策であるという構造をより鮮明にしてきている。

 

地方細部に至り、この様に脱部族化が遅かったのは律令化の目的が単に王権強化が目的で、何が何でも従わせる事が目的だったからでなく、徴用と徴兵による国軍強化が目下の的であったからに他ならない。

 

しかし、この『甲子の宣』より後は中央集権の為の律令化は加速していき、庚午年籍、壬申の乱を経て八色の姓、和国の消滅と日本国の成立、大宝律令の制定と大変革の時代へと突入する。

 

和国はまだこれからも戦に備えなければならず、家の奴隷(奴婢)私有民である家部か、または民部かという民に対する戸口調査は綿密に続けられた。

 

特に亡命百済人は、唐軍の間諜も紛れて送り込まれてるとみて慎重を期した。

 

また、百済の皇子である那珂大兄皇子側にとっては後ろ盾になり得る存在である。那珂大兄皇子は彼らの私有民を少しでも多く認め、大海人皇子と那珂津女王に対抗できる力にしたかった。

 

亡命百済人らは元々、和国に領地も領民も持たない。和国の旧有力部族達のような既得権も無く、技術や知識と引き換えに新たに国から与えられるものしかないのである。

 

亡命百済人らの知識は政治や仏教に留まらず、兵学、薬学、医学、典礼、陰陽など幅広く、

彼らの存在により、和国の官僚制は拡充したため、律令国家として進化の一助となったと思われる。

 

民部は『タミベ』と言い、当初は百済遺民へ対するキビ政策的なイリらの発想だったが、後に那珂大兄皇子が天智天皇として即位すると強力に推し進められ、私有民を認める大化の改新の後退となる政策となった為、部族社会時代の言い方である『カキベ』と言われる様になった。

 

 

「おのれ!!イリの奴がいる限り吾の即位が立ちゆかぬではないか!!」

 

 

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那珂大兄皇子

 

那珂大兄皇子は、妹・那珂津女王の即位に悔しがり剣を振り回し、力の限り叫んだ。

 

が、これに直接当たることはせず今は

 

政治の前面には大海人皇子を立たせておいて、

自分は九州を実効支配しようと目論んでいた。

 

百済の遺民を直接九州で吸収し自分の勢力にするつもりであり、実際に、

大和を大海人皇子が、九州を那珂大兄皇子が勢力を二分するかたちとなっていた。

 

 

その頃、

 

百済に置かれた唐の熊津都督府には皇帝派の劉仁願が戻ってきて、劉仁軌に交代で唐に帰還する様にと命令が下された。

 

しかし、劉仁願を危ぶんでいた劉仁軌は直ぐに帰国する事はなかった。

 

 

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皇帝派・劉仁願

 

 

劉仁願は唐に降った百済の隆王子を伴ってきていて、やはり唐の官吏となっていた新羅武烈王の王子・金仁問との間で、無理矢理に『百済・新羅』の和睦を結ばせた。

 

新羅の存在を無視したこのやり方に、新羅文武王(イリ実子金法敏)と金ユシンは怒り猛反発したが、劉仁願は強引に是を行ない以て戦国処理とした。

 

「金仁問は、もはや唐国に帰化した唐人!唐の官吏となり、吾が新羅とは何の関係もない!新羅には王がいて国があるのを蔑ろにし、和睦するとは度し難い行為だ!」

 

この劉仁願の振る舞いによって、唐新羅連合は更に亀裂が入った。

 

金ユシンは、文武王に対して隠棲するとまで言い出した。

 

「今!唐賊の輩を討たぬなら、吾が軍にいても無用の長物!吾は大将軍を辞して引退する!」

 

、、これには文武王も驚く。

 

「伯父上!何故に今、新羅を見捨てる様なこと言い出すのですか!?どうか思い留まって下さい。」

 

「黙れ!新羅の王たる者は、吾がいようが居まいが唐賊を駆逐する気概は常に持ち続けよ!新羅の王が唐軍を攻めぬのなら、それこそ新羅を見捨ててる様なもの、、今、攻めぬというならば、何時攻められますか!?」

 

文武王は、金ユシンの言わんとしてることを理解した。

 

金ユシンが、常に軍馬を揃え兵士を調練し、唐軍へ介入する隙を見極め、反唐に転じる機会を伺っていたことは知っていた。

 

何時でも、唐軍を倒す戦は起こるものとして、匕首を切り、戦機を見極めなければならないという事を、老い先の短い金ユシンが、甥の自分へと伝えようとしてくれてるのだと思った。

 

「伯父上!新羅の王として、この様な唐賊の振る舞い決して捨て置けず、直ぐにも劉仁願を討ちにいきこの和睦を撤回させたいです、、

 

されど、

 

この劉仁願のやり様は、百済鎮将の劉仁軌にとっても顔を潰され面白くはないはずです。

今暫く奴らが分裂し瓦解するまで劉仁願は討たずに機をみて、兵機を伺うことにします、、」

 

と、言った。

 

金ユシンは、無言のまま深く頷いた。

 

 

一方、和国にいたイリは、劉仁願に使いを出し

 

「和国で那珂津女王が即位した。早速、即位を祝う唐の承認の使者を送るように」と

 

請願した。

 

那珂津女王即位を認めさせる為のものであり、劉仁願に郭ムソウをその使者として和国へ行かせる様に図った。

 

 

イリはその後、高句麗へと渡り、

 

和国の那珂津女王の即位を祝し、

 

高句麗から黄金を贈るなどして、

 

那珂津女王の即位を祝う外交を着々と進めていった。

 

 

 

 

【那珂津女王祝賀使節 郭ムソウ】

3月、百済王扶余豊章の弟善光らが難波に居住させられた。ここで百済人らを統括させる為である。

冠位二十六階にて任命された元々百済の官人らがそれぞれ着任し、暫く落ち着くまでイリは和国からは離れずにいた。

 

イリが高句麗に去った後も、亡命百済人の扱いに対する大海人皇子側と那珂大兄皇子側の対立は九州と近畿で続いていた。

 

後に、善光は大和朝廷より『百済王』を賜り

百済人村は「小百済」と言われる様になる。

 

百済サビ城では、和国の那珂大兄皇子の元へ渡ろうとする百済軍の残兵との間で争いが勃発した。

 

那珂大兄皇子は、百済軍残兵らに対し筑紫より

 

『百済武王皇子キョギ』の名で密使を送り、

 

「唐賊に仕え百済を諦めてはならない。士魂あれば今こそ対馬海峡を渡り筑紫へ来られよ。ここに結集し兵機を待て!」と、

 

再起を募った。

 

 

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那珂大兄皇子(キョギ皇子)

 

 

 

百済軍残兵は

 

「百済奪回」を諦めない那珂大兄皇子と同合し、

 

那珂大兄皇子は彼らを直に筑紫でを引き込めば強力な勢力となる。

 

新羅文武王は新羅軍でサビ城を攻めこれを鎮圧したが、新羅軍はそのまま返す刀で対馬の向こう筑紫に睨みをきかせ、筑紫にいる那珂大兄皇子を威圧した。

 

 

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これに対し、

 

那珂大兄皇子は大急ぎで、筑紫、壱岐、対馬に兵を配置し侵攻に備えた。

 

対馬、壱岐、筑紫に防塞を築き烽火台が置かれ、筑紫では水城の築城に着手し、新羅軍との間で睨み合いが始まった。

 

 

イリは、那珂大兄皇子に対する牽制は実子である新羅文武王に任せ工作を進めている。

 

劉仁願に高句麗からも黄金を送り、和国那珂津女王の即位を祝う使節団送使を交渉していた。

 

 

「唐国の後ろ盾がみてとれる様な大々的な祝賀団でなければならない」と、

 

賂に使う黄金を出来る限り集め、劉仁願のもとへ用意した。

 

もはや血気盛んだった頃の弱壮のイリと違い、目先の反唐に拘りはせず

 

権謀術数は長けてきている。

 

劉仁願を通じ、高宗皇帝にも那珂津女王の即位冊封の請願を働きかけていた。

 

政治的に利用出来るものを使わずに只、戦い続けるということは無く、老練になったというより状況がそうさせていた。

 

少なくとも唐では李義府が宰相であった頃には白村江の戦いの時点で、百済から和国に至るまでの贈賄利権をみていたはずである。

 

拝金主義者にとって金脈を通じることは、

気脈を通じることと等しい、、

 

劉仁願と郭ムソウらは贈賄で唐の官職を買った東アジア土着の臣であり、李義府が雇った他の将軍と同様に敵からも味方からも賄賂を徴収する。

 

この者らは金で動き、状況と条件さえ揃えば唐を裏切るとみて、イリは『気脈を通じ』切り崩しにかかっている。

 

中国人の常識では、将軍が敵地で金品や物資を調達することは自国から戦費や兵糧を持ち出すより10倍価値があるとされ、清廉潔白な生粋の武人でない限り将軍が敵地で財に触れるのは珍しいことではない。

 

これが、掠奪か、貢ぎ物なのか、或いは賄賂となるかは、収める態度により演出次第である。

 

 

先の唐高句麗戦の平壌決戦においても総大将の蘇定方にも賄賂を渡したが、その後イリは唐の王都洛陽で、

「蘇定方は賄賂を受け取っていた」と実しやかに噂を流した為、蘇定方が東方の戦場に起用されることは無くなった。

 

唐軍に対しては、黄金の使い方もそれぞれあるということをイリは知っている。

 

 

4月になり、

 

ようやくイリの要請に応えた劉仁願は、郭ムソウらに牒書と献物とを携えさせ那珂津女王即位の祝賀団を対馬へと向かわせた。

 

 

唐の大夫30人、唐の熊津都督府の官となった元百済の高級官僚ら100余人を伴い、総勢130余人の女王即位を祝う祝賀団を組織した。

 

中央へは「仮に祝賀を送使」と、

承認が得られぬままの出向である。

 

中央でも、皇后派と皇帝派が真っ二つに割れてしまい是非はつけがたい。

 

 

5月17日になり、郭ムソウの祝賀団一行130人は、遂に九州の筑紫に至った。

 

これに驚いた那珂大兄皇子は、大山中采女通信侶・僧智弁らに急ぎ饗応させたが、唐側を巻き込んだイリの事大主義に言葉を失った。

 

「何としても那珂津女王の存在を認めさせる訳にはゆかない!祝賀団は筑紫で饗応し、決して大和にゆかせてはならぬ!」

 

と、「白村江の戦い」で唐軍に敗れた敗戦国の皇子とは思えぬほど、唐の使者に対して強気な対外姿勢をとった。

 

唐の熊津都督府に劉仁願が着任してきたが、劉仁軌は交代して唐へ帰還しようとせず、睨み合いが続いている事は、既に那珂大兄皇子も知るところであった。もはや大戦は終わり諜報戦の時期に突入している。

 

那珂大兄皇子は、直ぐに劉仁願と対立する劉仁軌に密使を送り窮状を訴えていた。

 

 

「今、和国で即位しようとしている那珂津女王は高句麗宰相のヨン・ゲソムンまたの名を高任武が擁立した反唐の傀儡となる女王であり、決してこれを承認してはなりません。吾が即位を承認して下さるのなら、和国は親唐を誓い皇帝陛下の恩徳を賜り服します。」

 

と、親唐を誓い自分の和王擁立を請願していた。

 

那珂大兄皇子は、百済敗戦兵に百済復興を呼びかけることを二枚舌だとは思っていない。

 

唐に対する面従腹背でもない。

 

もはや反唐であろうが、親唐であろうが、自分の力として政敵を除き、『王』にさえなれればただそれで良かった。

 

 

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那珂大兄皇子

 

文字どおり「不世出」の王であり、百済と和国の王族でありながら、皇太子のまま王になれずにいること甚だしい。

 

山背王、古人王、有馬王子、考徳王など政敵を排除しながらも、遂に王にはなれなかった。

 

高句麗宰相ヨン・ゲソムンでありながら、和国の大海人皇子と名乗り妹・間人皇女を那珂津女王として即位させたイリを抑えて、自分が即位するには百済の残兵だけでは及ばず、イリを苦しめる唐を後ろ盾とする機会がやっと巡ってきたのだ。

 

反唐だの親唐に拘っている場合ではない。

 

 

那珂大兄皇子にはイリを抑える起死回生の、最後の機会と思えていた。

 

 

 

 

「和国の大海人皇子とは、高句麗のヨン・ゲソムンのことか、、、」

 

そうなのだろうと、劉仁軌は思った。

 

しかしそうだとすれば、このまま皇太子弟などと実権を握らせる訳にはいかない。那珂大兄皇子が和国王に立つにしても、まずはイリを王族から外す為、額田文姫とイリを完全に離別させる様に那珂大兄皇子に要求した。

 

唐軍にとって高句麗を降すことは命題である。和国で誰が王になろうとも、決して高句麗のヨン・ゲソムンを権力に近づけてはならないのだ。那珂大兄皇子にとって、唐から和国王の承認を受ける為には、何としても額田文姫をイリから奪わなければならなくなった。

 

この年、

 

中臣鎌足のもとへ預けていた額田文姫をイリは正式に離縁して、額田文姫は中臣鎌足によって中臣宗家へと移されてやがて

「中臣大島」の妻となった。

 

イリが額田文姫を遠ざけたのは、那珂大兄皇子のそれとはさほど関係ない。

 

額田文姫とその子供の安全を守るためでもあり、那珂津女王の即位により、正式に女王の夫となる為の準備だった。

 

「那珂津女王に、吾が子を産ませる」

 

イリが政治の前面に立ち、次なる目標はその一点に絞られていた。

 

そして、高句麗へ戻る前、

 

イリは密かに中臣鎌足の屋敷に行き額田文姫とも会っていた。

 

 

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額田文姫

 

「もうこれで、会うことも出来ぬかもしれぬ。史のことは宜しく頼む。よくぞ男児を産んでくれた。嬉しく思うぞ。」

 

後に藤原姓を賜り、不比等(フヒト=他に並ぶ者がいない)と名乗りを変えるが、この頃はまだ史(フヒト)といった。イリと額田文姫の子であるが、密かに中臣鎌足の子として育てている。

 

 

「はい。必ず貴方様の如く、他に並びなき立派な壮に育てます。私は貴方様の様な強き壮の子を産み、育てられれば王族の姫としての世を全うできます。」

 

額田文姫は、笑みを浮かべ静かに応えた。

 

「貴方様のことは、十市皇女の時と同じ様に、史がお腹にいる頃から語り聴かせましたほどに、」

 

和国ではまだ通い婚の習慣が残っている時代である。

 

もう会えぬ、

もう通わぬ、、と言われ、

 

寂しく思わない妻はいない。

 

イリが那珂津女王と逢瀬を交していたことも知っている。

 

しかし、その寂しさはおくびにも出さず、凛として母としての語りをした。

 

が、柔らかい言気とは裏腹に何とも言えない強がりを纏っていた。

 

額田文姫の心根は実はイリが思う以上に深い。

 

「史を頼もしく育ててくれ。長ずればいつか父子の対面もする。それまでは吾らの子であることは決して誰にも悟られてはならぬぞ。」

 

イリも、父としての語りをした。

 

 

額田文姫は既に熟れていて盛りはすぎ、子を産むには不相応な歳になりつつあったが、通うイリとは逢瀬を交わしていた。

 

夫婦の会話を終えると、

 

闇の中でイリに抱き寄せられ、イリの匂いと息づかいに包まれていった。

 

(これが最後、、)

 

と、

 

思うほどに情感は滾ったが、涙は見せない。

 

 

 

間人皇女(那珂津女王)、額田文姫、二人とも那珂大兄皇子の妹であり、どちらを第一夫人にしてもイリの皇太子弟の立場は変わらない。

 

そして今度は、那珂大兄皇子が那珂津女王の第一皇太子となる訳だ。

 

古人王、ウィジャ王、考徳王、斉明女王、那珂津女王と、、王は次々と代わりながらも那珂大兄皇子は常にその王の皇太子としてあり続けてきた。

 

力を持たぬ名ばかり皇太子である。

 

 

 

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那珂大兄皇子

 

 

やがて、那珂津女王がイリの子を身籠ればまたその子に王を継がせる事は容易に予測された。

 

 

 

 

【劉仁軌と強気な那珂大兄皇子】

那珂大兄皇子は、劉仁願と対立する劉仁軌との繋がりを取りつけたことで、劉仁願の送使した祝賀団に対しては強気な姿勢を崩さず、筑紫で足止めし入朝を阻止した。

 

もちろん劉仁軌自身は、那珂大兄皇子に対する敵視の姿勢は崩さず警戒している。

只、和国での内争につけ入る隙を窺がっているにすぎない。

 

劉仁軌には、劉仁願による和国祝賀団の送使は奇異に映っていた。

 

「東海を鎮めるキビ政策にすぎない。口出しは無用!劉仁軌どのは百済を鎮める護民政策をなされてばよい。」

 

と嘘ぶく劉仁願に対し

 

(劉仁願は対高句麗戦に於いて最も危険人物である)

 

と判断した劉仁軌は、唐へ追い返しにかかった。

 

 

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劉仁願

 

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劉仁軌

 

 

「那珂津女王を擁立した和国の大海人皇子とは、聞けば高句麗のヨン・ゲソムン宰相のことではないか!」

 

「祝賀団まで派遣し敵国の傀儡政権を認めるとは!なんたる不義!貴様の様に危険な者は熊津都督府には無用!直ぐに出てけ!」

 

と、怒鳴り散らした。

 

 

劉仁願も黙ってはいない

 

 

「不義とは無礼であろう!言いがかりにも程がある!許せぬ讒言!

 

対立候補の那珂大兄皇子は白村江の戦いで唐軍に刃向いし凶者、是をおさえ即位した那珂津女王を祝うだけの事ではないか!

 

劉仁軌の方こそ、唐軍の敵那珂大兄皇子の肩を持つとは何事だ!それこそが利敵行為ではないか!」

 

那珂大兄皇子と大海人皇子の対立は、そのまま劉仁軌と劉仁願の対立に飛び火し過熱した。

 

 

那珂津女王祝賀団の足留めは、両陣営一歩も引かぬという緊張状態となった。

 

 

 

「皇帝派の首魁、李義府は唐国の官僚の地位を金で売り、あろうことか、かつて朝庭を操り思いのままにしていた佞臣・長孫無忌の身内にまで地位を売っていた。

 

著しく唐国を貶めたことにより裁かれ、宰相の地位は剥奪され地方に飛ばされたが、やがて彼の地で命を落すであろう、、

 

そなたは皇帝派の劉仁願などに何ら臆することはない。躊躇せず強気で押し返せ。そなたらの戦いは吾ら王宮での戦いでもある。決して引き負けてはならぬ。帰国など許さぬぞ!」

 

(皇后様は、李儀府の暗殺を決意されたか、、)

 

劉仁軌は武媚娘皇后から送られてきた過激な密書を読み、空を見上げた。視線の先に、宮廷の様子を思い浮かべている。

 

武媚娘皇后の響き渡る覇気とした声に、李義府を失った皇帝派の貴族らは、圧倒されているだろう

 

されば、、

 

「吾も劉仁願を圧す!」

 

と、劉仁軌は強力な追出しにかかった。

 

劉仁願の身辺を伺う様になり、時に兵も動かした。

 

「如何にして、李義府や李義府に繋がるお前らが、唐国の国事を腐敗させてきたか!明らかになりつつある、、李義府の復権などもう有り得ぬ、欲目で物事を見誤ればお前はもう終わりだ!

 

下手な事をすれば、首と胴が離れると知れ、、謀反としていつでも誅してやるぞ、」

 

劉仁軌は、王宮での李義府の失脚と共に劉仁願も排除してやると高圧的なもの言いをした。

 

 

「黙れ!皇帝陛下の帰国せよとの勅命に服さず、未だに留まるお前の方こそ叛心ではないか!」

 

劉仁願は反論するも、気圧されていた。

 

 

「その事なら既に、上申している。将、軍中にある時君命と言えど是を受けずだ。」

 

(李義府様が復権されれば、、)

 

と劉仁願は希望を持ちつつ、

 

「吾を殺めてから『謀反の兆しあり誅殺』となど上申することも有り得るやもしれず、、」と

 

警戒していた。

 

劉仁願は次第に居続けることが苦しくなってきた。

 

 

 

 

那珂大兄皇子は元遣唐使の博徳を筑紫に送りこみ、9月まで彼らの足止めを続けさせた。

 

 

博徳は5年前に和国初の遣唐使として、唐国の王都に向かった者である。

 

折りしも百済攻めの前、和国の遣唐使は全員幽閉され中臣鎌足は流罪が決まっていたが、博徳は助命嘆願を訴え出て高宗皇帝を説得し、鎌足を救ったほどの縦横家だ。

 

(縦横家=弁舌をもって国を動かす者)

 

唐国の高宗皇帝を説得したその気概と誇りで

 

「在官の劉仁願の使者如きに一歩も引かぬ」と、

 

既に対面していた元遣唐使の津守と共に強気な姿勢で望んだ。

 

来客を別館に呼び、僧智弁が

 

「表書ならびに献物はお持ちか」と、問うと

 

 

「将軍からの牒書1箱と献物がある」と、

 

 

郭ムソウは牒書1箱を智弁に授け奏上したが、3ヶ月以上経っても大和朝庭からは何の沙汰もなかった。

 

しかも、献物の調べも行わずそのまま放置された。

 

(牒=文字を書く札)

 

 

 

「宴はもうよい。何の意趣があって唐の使者をこの地に押し止めるのか!白村江の戦いで唐に刃向かい惨敗した敗戦国にしては有るまじき尊大な振る舞い!度し難し!」

 

9月にもなり、郭ムソウは、あまりに長い足留めに怒りをあらわにした。

 

 

博得らは(筑紫太宰の言葉であるが)勅旨であると偽り、郭ムソウらに告げた。

 

「今、客らの来状を見ると、客らは唐の天子の正式な使人ではない。百済の鎮将劉仁願の私使である。また頂戴した文牒は執事に送上する私辞でしかない。」

 

「これをもって使人は入国することを得ず、書も朝廷に上げることはできない。故に客らの任務は、概略を言葉で奏上し、お耳に入れることとする。」

 

と、続けそれで一切を打ち切ってしまった。

 

唐の高宗皇帝からの正式な使者でない限り、入朝させることは出来ないと言う断りであり、必ずしも唐の高宗皇帝の威光を損なうものではない。

 

寧ろ、元遣唐使達は唐の高宗皇帝の威光を語り、かつて皇帝陛下の怒りに触れ長安で幽閉された事を持ち出し、

 

「私的な文書を皇帝陛下をさしおき、大和朝廷で受け取れば吾らはまたも皇帝陛下への礼を失することになる!断じて受け入れる訳にはいかない!」などと、口々にたたみかけた。

 

かつて、遣唐使として唐の王都洛陽に行き皇帝陛下と直にやりとりをした国際人が和国にいるとは思いもよらず、

 

(所詮は王化も知らぬ辺境の菲民ども)と、

 

舐めてかかっていた郭ムソウは、突然の彼らの出現に冷や汗をかかされる。

 

彼らほどには皇帝陛下にお目見えしたことがない郭ムソウとは格が違い、郭ムソウが皇帝陛下の威光を嵩にきて元遣唐使らとやり合うのは役不足と言えた。

 

中臣鎌足ら大海人皇子派は贈り物と使者を筑紫へと送り、郭ムソウら祝賀団を歓待した。

 

「大海人皇子さまが居られぬ時に、、」

 

中臣鎌足は吾が力の及ば無さに臍を噛んだ。那珂大兄皇子派は強気である。

 

 

イリはこの頃、高句麗に戻っていたが離れることが出来なくなっていた。

 

親唐に寝返ろうとする城主らを統制する為に謀殺されていた。

 

唐も直ぐに高句麗を攻めるのでなく、百済を鎮し高句麗を瓦解させてから勝負をつけようと追い込みをかけてきている。

 

百済が完全に敗北した今、契丹、唐、新羅、唐帯方郡(百済)熊津都督府と高句麗は四面楚歌の状態となり、

 

唐の工作員の吹聴と喧伝によって不安に駆られた者らは

 

「もはや絶対絶命、命のあるうちに唐に降るしかない」

 

と、隠れて集まり密議する様になっていた。

 

「唐に寝返ったとて、唐軍は城主を生かしておかぬぞ!それが分からぬのか!」と、

 

いくら言ったところで、恐怖に取り憑かれた者達は何を言っても分からない。

 

イリは高句麗に留まり、強い高句麗を示さなければならなかった。

 

唐に落とされた城に近い城主は唐に降ることをことを考えていたが、イリはここに兵を増やし唐軍と対峙することが出来なかった。

 

飢饉により人々は飢え徴兵もままならない。

 

 

20年前、

 

日の出の勢いの大宗皇帝の唐軍を討ち払い「高句麗を攻めてはならぬ」とまで言わしめ

和韓諸国をも恐れさせていた、大化の改新の頃の強い高句麗軍はもういない。

 

20年間の度重なる戦さで、負けないながらも少しづつ国力を削がれ、国全体が疲弊していた。

 

今は、兵の多寡をものともせず唐国と対峙する遼東の猛将、テジュンサン将軍や楊万春将軍らの頑強な抵抗によって均衡を保っているにすぎない。

 

一介の城主には彼らの様な戦意はなく、もし例え兵士を増強したとしても、城主が寝返ればもともこも無い。

 

イリは苦肉の策で、実子である新羅の文武王に計り、新羅軍に攻めさせ新羅の城とした。

 

「唐軍の城になるよりは、せめて新羅側の城としてあった方が戦略的にはましだ、、」

 

 

 

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味方といえど敵である。

 

信頼出来ぬ味方より、信頼する敵に預けた。

 

 

12月、

 

博得は郭ムソウらに牒書1箱を授けた。

 

箱の表面には鎮西将軍と著してあった。

 

その箱には牒書があり、

 

「日本鎮西筑紫大将軍は百済国に在する大唐行軍摠管に牒す。

 

使人朝散大夫郭務悰らが到着した。牒書を開いて来意をしらべたところ、天子の使いでもなく、天子の書でもない。単なる摠管の使人であり、執事の牒書である。

 

牒書は公のものではないので、口頭で奏上するにとどめた。使人は公使ではないため入京させることはできない」

 

とあった。

 

郭ムソウらは百済へと帰還した。

 

熊津都督府では既に劉仁軌が劉仁願を唐国に追い返していた。

 

 

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皇后派・劉仁軌

 

後ろ盾である劉仁願が百済支配の政争に破れてしまい、郭ムソウらの使いは虚しく和国を後にした。

 

 

那珂大兄皇子は劉仁願と対立する劉仁軌に、

 

「那珂津女王即位祝賀は、劉仁願の私者であり、唐の正式な使者ではないので、入朝は認められない」

 

と密使を送り入朝を拒むのは、双方織り込み済みであった。

 

劉仁軌にしてもイリの傀儡政権を認める訳にはいかず、百済を鎮制している今、唐軍兵士を和国になど出兵させることなど出来ない。

 

しかし、大和で那珂津女王が既に擁立されてしまってる以上、迂闊に那珂大兄皇子が『大和』を名乗ることも『王』を名乗ることも出来なかった。

 

唐の擁立を取り付ける前であり偽りは礼を失するし、下手をすれば大海人皇子側に誅殺される名分となる場合もある。

 

慎重な那珂大兄皇子は仕方なく仮に

 

『日本鎮西筑紫大将軍』の名で代表し対応した。

 

熊津都督府での鎮将・劉仁軌と劉仁願の対立は、

 

つまりは皇后派と皇帝派の対立である。

 

 

その唐本国における皇后派、皇帝派の対立が、百済の熊津都督府を通じて、和国の那珂大兄皇子と大海人皇子の対立にまで影響を及ぼし、那珂津女王即位祝賀を阻む睨み合いとなった。

 

代理戦の様相となった睨み合いは

 

8ヶ月も続いた冷戦の結果、

 

皇帝派・劉仁願・大海人皇子側が、

 

皇后派・劉仁軌・那珂大兄皇子側に

 

抑えられ決着がついたかたちとなった。

 

 

【挿絵表示】

武媚娘皇后

 

 

「日本鎮西大将軍」とは、何処にもない官名である。もしも唐が、西日本の鎮将を那珂大兄皇子に任せた場合に授けられる様な称号である。

 

或いは、その様な動きが劉仁軌・那珂大兄皇子の間であったのかもしれない。

 

この使者に対する強引な拒絶は、和国に大海人皇子が不在とはいえ那珂大兄皇子にしてはあまりにも強気だった。

 

劉仁願が九州に足止めされている間も、彼らの目前で那珂大兄皇子側による壱岐・対馬・大宰府の兵の増強と築城は進められ、瀬戸内海側の長門にも城を築き岡山の鬼ヶ城の改築工事も行なわれた。

 

足止めというより、封じ込めに等しい。

 

白村江の戦いの敗戦国の皇子とは思われぬほどの、強気さである。

 

劉仁軌と劉仁願の対立により、劉仁願が兵を動かすことは出来ぬであろうと知っていた那珂大兄皇子は、唐軍の劉仁願よりも新羅軍の侵攻を恐れていた。

 

一方、劉仁願も背後にいる唐新羅連合軍の存在を誇示し一歩も引かない。

 

尚も劉仁願は、

攻めると見せかけて威圧し、容易には

攻めさせぬと那珂大兄皇子側は防備を固めた一触触発の戦気をはらんだ冷戦となった。

 

翌年、現実のものとなる。

 

しかし、

 

大和にいた大海人皇子側の那珂津女王は、

 

イリが不在であろとも那珂大兄皇子の要求は強く拒んだとみえ、勅は決して下さなかった為、

 

那珂大兄皇子側は、

『日本鎮西筑紫大将軍』と名乗るしかなかったのだろう。

 

 

 

 

 

【劉仁軌の死をかけた上奏】

劉仁軌と劉仁願、唐では高宗皇帝に百済征服について賞された二人である。しかし、

 

 

(劉仁願は対高句麗戦において極めて危険な人物である)

 

 

と判断した劉仁軌は、無理やり劉仁願を唐へと追い返していた。

 

 

 

 

10月、

 

劉仁願を唐へ追い返した後、劉仁軌は死を覚悟して高宗皇帝へ上申をした。

 

 

【挿絵表示】

皇后派・劉仁軌

 

百済熊津都督府の惨状をありのままに伝え、助けを請う奏上である。一切包み隠さず、現地の声をそのまま伝えた。

 

臣、

 

伏して見ますに唐軍の現地守備兵は疲弊し負傷者が多く、勇健な兵は少く衣服は皆貧しくくたびれてて、ただ帰国することばかり考えていて戦意が全くありません 、、

 

 

『吾がかつて海西にいた頃は、百姓らが自ら募兵して争うように従軍していたのを覚えてる。

 

自らも威服兵糧を携えて「義征」と言って従軍する者達もいたものだ。

 

それなのに、今の唐軍兵士はどうしてこんなに士気が無くなったのか?』

 

と、尋ねてみました。

 

『今日とかつてでは官府が変わってしまったからです、、人心もまた変わりました、、。

 

かつて東西の征役戦では軍事に没しますと、

勅使の弔祭を蒙り官爵を追贈され、あるいは命を落とした者の官爵は子弟へ授けられました。

 

おおよそ遼海を渡る者は、皆、勲一轉を賜ったものです。

 

ですが顕慶五年以来、征人は屡々海を渡るのに、官がそれを記録しないのです!

 

戦死しても、誰が死んだのか聞かれもしません!

 

大唐国の為に戦い、皇帝陛下に命を捧げた壮士達の勲功は全て官に握り潰され

 

皆、犬死にすることになるのです、、

 

この有様で、誰が往時の様に命がけで戦うことができましょうか?」

 

「州県が百姓を徴発するたびに、壮にして富める者は賄賂を渡して免れて、貧しい者は老人でも連行されてしまいます。

 

貧しく賄賂を渡すことが出来ない者達だけが戦場に出てるのです。

 

 

先頃は、百済を破り高句麗と苦戦しました。

 

当時の将帥の号令は勲賞を許し、至らぬ事はありませんでしたが、西岸へいくと、

 

ただ、枷や鎖で強制されると聞きます。

 

賜を奪い勲を破り、州県から追いかけられて、生きる事さえままなりません。

 

公私共に困弊していて、言い尽くすことすらできません。

 

そうゆう訳で、この度の戦へ出発する時、

 

既に逃亡する者達もいましたが、これは何も海外出征に限ったことではないのです。

 

又、もとは征役の勲級によって栄寵したものですが、近年の出征は、勲官でもお構いなしに引っぱり出しており、白丁と変わりなくこき使われています。

 

今まで武功や勲功を立ててきた者でも、足軽扱いされ、今後、いかなる武功や勲功を立てようとも賞されず犬死にしていくのが、今の唐軍なのです。

 

この様な訳で百姓は皆、従軍を願わず、貧しく戦場に駆り出された者達に士気がないのは、、この様な訳です。』   

 

と、言います。臣は

 

かさねて又、尋ねてみました。

 

『往年の士卒は鎮に五年留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、何故そんなにくたびれた有様なのだ?』

 

 

『家を出発する時に、ただ一年分の装備のみを支給されたのです。ですが既に二年経ちました。まだ帰して貰えません。』

 

臣は、

 

軍士達が持っている衣を検分しました。

 

何とか身を覆うことができるのは、今季だけでしょう。ほつれ擦り切れ来秋には裸軍という状態でした。

 

「陛下がこうして兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼすためです。

 

百済と高句麗は昔からの同盟国で、和人も遠方とはいえ共に影響し合っています。

 

もし守備兵を配置しなければ、ここは元の敵国に戻ってしまいます。

 

今、既に戍守を造り屯田を置きました。士卒と心を一つにしなければならないのに、、

 

士卒からはこのような意見が出ています。

 

これでどうして成功しましょうか!

 

増援を求めるのではありません。

 

厚く慰労を加え、明賞重罰で士卒の心を奮起させるのです。

 

もしも現状のままならば、士卒達は疲れ果てて功績などとても立てられないでしょう。

 

耳に逆らうことは、あるいは陛下へ言葉を尽くす者がいないからかも知れません。

 

ですから臣が肝胆を披露し、死を覚悟で今、奏陳します。」

 

 

高宗皇帝は、その言葉を深く納めた。

 

 

戦果の報告だけでは伝わらない遠征軍の惨状は、唐宮廷にも充分伝わった。

 

州県の知事から、兵服の支給の賄い方まで、民から取れるものは搾り摂り、その金でより高い官職を買い更に搾り摂るという中国特有の腐敗構造は変わらないが、大宗皇帝から高宗皇帝の代になり李義府の台頭によりその影響で唐軍が更に劣化したことは否めない。

 

 

中央では、劉仁軌の上奏に応え守備兵を交代させることになった。

 

 

また、

 

「白村江の戦いで、反唐軍を率いた扶余豊章は高句麗に、那珂大兄王子は和国にいるためまだ唐軍を引き上げるべきでない。高句麗戦は老いた自分では不安がある」

 

と劉仁軌は合わせて奏上したが、

 

なんと

 

高宗皇帝は再び劉仁願を百済総督におくりだす。

 

 

劉仁軌は驚く、、

 

帰国したばかりの劉仁願がまたも、交代の兵を率いて唐を出立した。

 

 

 

 

665年

 

李義府宰相が失脚したとはいえ、皇帝派と皇后派の臣の覇権争いは続いていた。

 

武媚娘皇后は中国の既得権勢力(関隴貴族集団)から支持を得られず、常に圧力に曝されていた。

 

 

【挿絵表示】

武媚娘皇后

 

これに対抗し、武媚娘皇后は自分の権力を支える人材を関隴貴族集団以外から積極的に登用した。

 

例え能力の高い者であっても身分の低い者の登用は関隴集団にとっては受け入れざることであり、更なる抵抗を生んだ。

 

唐が拡張していく以上、辺境の異民族や新たな人材を取りこまなければならなかったが、彼らにとっては既得権を脅かす存在でしかない。

 

かつて、唐の膨張期の大宗皇帝と長孫無忌は彼らを抑え積極的に新しい有用な人材を取り込もうとしてきたが、高宗皇帝の時代になると既得権勢力=関隴集団は高宗皇帝に取り入り、皇后と対立し続けていた。

 

皇后派の、李勣大将軍・ソル・イングイ将軍や劉仁軌将軍は常に彼らに足元を掬われる脅威に曝されていた。

 

 

歴代中国王朝で生き延びてきた「関隴集団」の根は深い、、

 

西魏・北周・隋・唐国と100年以上、王室と結びつき王朝を支えてきた「八柱国」という権門を誇る貴族集団である。隋や唐の王朝建国が早かったのも、国の支配層である「関隴集団」が味方についた為と云われていた。李義府の様な権勢家がいなくとも中央に権力の根を深く下している。

 

665年、

 

 

劉仁願は着任すると、

 

「疲弊した兵卒達と共に将軍も帰国するように」と、劉仁軌に敕した。

 

 

劉仁軌は、対高句麗戦において最も危険な人物は劉仁願だとみている。

 

 

またもやってきた劉仁願に対し、断りをいれた。

 

 

「国家が海外へ派兵したのは、高句麗攻略の為だが、これは簡単には行かない。

 

今、収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し軍将も去るなど、夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。これでは必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。まだ帰国することは出来ない。」

 

 

 

「なんと言うことを!吾が前回海西へ還った時、大いに讒言されたのだ。大軍を抱えて留まれば、海東へ割拠することを謀っていると言われ、きっと禍は免れない。今日はただ敕の通りにやるだけだ。どうして勝手に変更できようか!」

 

劉仁願は怒りを露わにした。

 

 

「いやしくも!御国の利益になることを知っていながら、臣として実行しない訳がない!

収穫が終わるまで留まるのは、唐軍も民らも安定し騒乱を無くす事なのだ!これは国益に適っている事だ!断じて今、帰国する訳にはいかない!」

 

劉仁軌は、

 

服さずに軍の逗留を上奏すると言った。

 

そして、これを上表して便宜を陳述し、自ら海東へ留まって鎮守する事を高宗皇帝へ請願した。

 

結果、

 

高宗皇帝はこれを認めた。

 

劉仁軌はまたもや残留することになった。

 

劉仁軌の劉仁願に対する警戒は一筋縄ではいかないが、後ろ盾である武媚娘皇后の力が高宗皇帝に是を認めさせ、皇帝派の権力集団『関隴集団』が武媚娘皇后に抑えこまれた結果である。

 

 

 

 

665年2月

 

和国では、大事件が起きていた。

 

 

イリが擁立した那珂津女王が暗殺された。

 

那珂大兄皇子が和国王に即位するという急報を聞いたイリは、怒り狂い急遽和国の大和宮廷へ向かう、、

 

お腹にはイリの子もいたという。

 

在位一年にしてイリの子と共に儚く散ってしまった。

 

「おのれ!那珂大兄!!己の即位の為、実の兄妹にまで手をかけたか!決してこのままでは済まさぬぞ!許さぬ!」

 


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