第1話 高句麗亡国の奸臣ヨクサル
第2話 高句麗五大部族の反発
第3話 遠すぎた白村江
第4話 遅受信将軍 任存城一人
【高句麗亡国の奸臣ヨクサル】
陰謀と策謀の乱世。
いつ果てるとも先が見えない戦乱に、人々の心は病み疲れ果てていた。
その様な時、たとえそれが嘘言であったとしても、
目の前の現実から目をそらし、
例えば、あり得るはずの無い
『和平』という言葉に飛びついて、妄信する。
三年前、唐新羅連合軍が百済サビ城を陥落させた時、唐は同盟国の新羅までも百済同様に敗戦国扱いし、新羅を占領しようとした事があったが、
当時、金春秋はこの事から目を反らした。
金ユシンらの手によって唐の使臣は暗殺されたが、この様なことがあっも尚、唐の言うとおりにしていれば唐新羅同盟の中で自分の地位が守られ続けると妄信していた。
少し時を戻し、
白村江の戦い直前の高句麗。
高句麗の五大部族を率いる灌奴部族のヨクサルも、唐が高句麗を攻撃してることからは目を逸らし唐との和平を頑なに信じていて、何を言っても対話が開けぬほど「和平」一点張りの人物だった。
戦を仕掛けてくると唐と戦い、高句麗を守っている将軍らに対しても、
「凶刃を振るい戦を止めぬ和平の逆賊。文治を知らぬ野蛮な輩。」と、
卑しみ常に敵対し反唐を滅する事に動いていた。
ヨクサル
ヨクサルにとっては、
唐が攻めてくるのは高句麗に主戦派がいるからであり、唐軍は悪くない。
高句麗に反唐派さえいなければ、
自分が親唐派筆頭として唐と和平を結び
『唐と交流しながら高句麗の民は幸せに暮らすことになる』という、
妄言に何の疑いも持っていなかった。
ヨクサルが唐との間に密約を交わしたのは暫く前のことで、今はもはや引き返すことが出来ない状態になっている。
しかし、
敵と内通しているとは自分ではこればかりも思ってなく、正義の為に、おのれの文徳で唐と交渉しているという思い上がりが強く、逆に自分の思い通りならぬ者共を全て高句麗の敵と裁いていた。
一方、
唐側は、高句麗を滅ぼすという事しか考えになく、『和平』など毛ほども考えた事はない。
『狡兎尽きて良狗烹られる』
兎を捕り尽くし狩りが終わってしまえば、猟犬は獲物の兎と一緒に煮られてしまうというのが、中国人の常識である。
猟犬と同様に仲間だと思わせておき、最後に用が無くなれば殺す。
和平とは油断させる為の方便でしかなく、もとより実行される訳が無いので、どんな約束でも空手形でも幾らでも投げかけることが出来た。
その上、賄賂、脅迫、色仕掛、流布、捏造、冤罪、内間、扇動、暗殺、善玉と悪役に分かれての演出と偽装工作、内部から切り崩すために唐はありとあらゆる細作を弄していた。
まず、ヨクサルに狙いをつけた唐は、商人や民間人を装い腰を低くして、近づく。
貢ものをし諂い、儲け度外視で必要なものを届けた。表向きは商取引でも事実上の賄賂に等しい。
臨戦体制で流通が滞る中、最も必要で利益が出る品々を流した。いかなる状況でも交易だけは止めることはできない。商人は国々を行来するのを業いとする為、非公式の仲介をしばしば取り持つこともあった。
交易権は全て部族の商団がにぎっているから直接取引はできなかったが、取引してる商団と取引するところから入り込むと、一枚挟んだだけで寧ろとすんなりと受け入れられた。
「商いは唐国と取引をしない訳にもゆかず、、、」工作員は
商談の中で、唐と高句麗の関係について、流通が止まる「交易上の相談」として話しを切り出す。
臨戦体制がいつまで続くのか、、唐と和平を交渉できるお方さえいてくだされば全てが解決されますのに、、と嘆き、唐は和平の望みを持っていて、遼東の高句麗軍が戦を止めぬ為に、戦は無くならないと説く。
「もしも、遼東の高句麗軍を下がらせ唐と和平を結ぶ英雄が現れれば、今より豊かで幸せに暮らせる、、」
理想を語った。
やがて大人の某が現れ
「高句麗の国策は戦争であり、吾らは貴方様に平和を頼るしかないのです。どうか両国の平和をお助け下さい。」と、
五大部族のヨクサルに助けを求めた。
「戦を止め和平を結べば、唐と交流して民は幸せに暮らすことができます。」
「貴公が、宰相となり唐と和平を結んで下されば誰もが讃えます。是を天の声と思い平和の為にお引き受け下さい。」
と、人々の平和実現へ向けての逸物にしたてあげる。
しかし、権勢欲に取り憑かれている者はその様に「意気に感じる」だけで簡単に動いたりはしない、
一方で「不安を煽る」工作も行われる。
ヨクサルは、西側の武闘派の将軍達が嫌いだった。
五大部族は中央勢力であり、辺境の彼らは勢力圏外にある。
唐との国境を守っているのだが、彼らが力をつけて跳躍してくるのが気に入らない。
唐国でも、中央の既得権勢力が異民族の力のある武将らと対立していたが、権門勢家にとって「強力な異民族の味方」は、自国内の敵だった。
唐の武媚娘皇后も、イリと同様に中央に支持されなかったが故に異民族系の地方勢力と結ぶしかなかった。二律背信は何処にでもある。
ウルチムンドク将軍以来、高句麗に帰化した靺鞨族の力ある将軍らが辺境の守りについてるが、彼らが軍功をあげる度に、ヨクサルは不快を感じている。
仲象将軍(テジュンサン)
今や要となった『安市城』の守将・楊万春将軍と、イリの隠し子テジョヨンを預かり自分の息子として育てている仲象将軍(テジュンサン)らを目の仇にし、
「卑しい靺鞨族の分際で、思い上がりも甚だしい」と蔑み
常々に中央の既得権を脅かす「敵」と見なしていた為、そこに唐がつけ込まない訳がない。
「新羅は、百済や高句麗と戦い続けた為に、金ユシン将軍が力をつけてしまい、、そして、ついには金一族が政権を奪ってしまった。」
と、新羅を引き合いに出し
「唐高句麗戦争は軍部に力を与えるだけで、新羅の金ユシンがそうした様に、ヨン・ゲソムンが創りだす軍事政権が高句麗となってはもう、部族の時代は終わるだろう、、」
という噂を部族間に流布し続けた。
部族長らは不安になり、
(どうする御つもりか?このままでは新羅の様に部族解体になりはしないか、、)と、
次々とヨクサルに不安解消を求め、言い騒いでくる。
「これは、いよいよ捨てては置けぬ」
となったところで、もう一芝居うった。
高句麗との境に配置されている唐軍に攻めいる素振りをさせた。
唐軍といっても正規軍ではなく元々国境地帯にいた契丹族だ。
版図を拡張し続ける唐は、自国の正規軍だけでは征服域の配置に不足が出る為、藩将制といい異民族を将軍として取立てる制度があった。
そして、辺境は異民族に守らせ、異民族に立ち向かわせるという
「夷を以て夷を制す」
が、対外政策の基本だった。
李将軍(イ・ヘゴ)
契丹族は30万を擁し、唐皇帝から「李」姓を拝受し唐の先鋒となっている。
あくまで
攻める素振りだけであり、契丹族の李将軍を動かし国境近くに兵を集結させた。李将軍にとってはただの国境巡察に過ぎない。
そして、
「どうか和平案を高句麗朝廷へ奏上して下さいませ。さすれば唐軍は兵を引くと申しております。」
と、働きかける。
ヨクサルは、部族長達からも突き動かされ、ついに口利きに動いた。
朝廷内で、ヨクサルが
「何卒、和平を」と請願をすれば、
李将軍の兵を引かせた。
そして、商団取引という名の
莫大な賄賂を献じた。
国難にさらされ皆が憂慮してるにも関わらず、ヨクサルは自分だけは利益が上がり潤っているので、全くその様な危機感がなく笑いの止まらない毎日を過ごしている。
自分の態度ひとつで唐軍が動きを変え、
部族長達や唐の大人(大物)から感謝されるうちに、親唐の使命と利得が天命であるかの様に思い上がり、ヨクサルの親唐は信仰に近い意識にまで上昇した。
その為、反唐派が兵を動かそうと発議する度に、五大部族を動かし猛烈な反対運動を起こすようになった。
しかし、この頃はもう唐軍水軍が大船団で黄海を渡ってる時である。
徳物島に駐留し、百済へ攻めると見せかけて北上し高句麗に攻め込む可能性もないとは言えない。
本来ならそれに備えて国境の守備兵を増やさなければならない状況だが、ヨクサルはそれにさえ反対した。もはや、
『味方と言えど敵である』
唐国内では、出世や利得の為に味方を陥れ蹴落とし、細作をするのは当たり前のことだった。
表向き味方を装わなければならぬ為、唐では、賄賂と捏造、味方の足もとを掬う裏工作が異常なほどに発達していたが、高句麗のヨクサルも、既にこうした策謀の渦の中心に巻き込まれていた。
やがて、ヨクサルは
(唐と吾が肚は一つ)と完全に思い込み、
後に、国を裏切り唐軍を率こんで高句麗を滅亡させる大逆臣となり、滅亡後も唐に取り入って、高句麗遺民に悪行の限りを尽くした。
【高句麗 五大部族の反発】
イリが和国から百済への援軍を派兵し、新羅軍を引かせ、ようやく高句麗へ戻ってきた頃、
折りしもヨクサルが朝廷を親唐にまとめあげている真最中だった。
和国からの百済派兵、和国の那珂津女王の擁立と甲子の宣へ向けての采配など、和国での大海人皇子としての政りごとは山積し、長らく高句麗を留守にしていた。
イリは高句麗宰相ヨン・ゲソムンとして、久しぶりに朝廷に立ったが、群臣らの様子はがらりと変わってしまっていた。
高句麗からも百済和国連合と唐との戦に向け唐軍を攻めるべく出撃の号令を下したが、
ヨクサルらはこれに対し、かつてなかったほどの反論をし、イリを驚かせた。
「今が戦機だということが分からんのか!!
唐が百済と戦っている今をおいて、高句麗が唐を攻める機会は無いのだ!!」
朝廷内のどよめきを吹き飛ばす勢いで、
イリは叫ぶ。
イリが朝庭に推参する時は、山から降りてきたばかりの虎の様な目で辺りを睥睨し、居並ぶ群臣はすくみ上がるのだが、
それでもこの時ばかりは、反論を止めない
「ヨンゲソムン閣下、今は守りを固めるべき時で撃って出る時ではありません。唐が百済を攻めている間に高句麗は守りを固めるのです!」
「吾ら部族の兵は、高句麗を守るための兵です。和兵や百済兵を助ける為の兵ではございません!」
と、口々に五大部族や文官らは反対する。
先年の戦さの様に高句麗の王都平壌城に直接攻められたことは今までなかった。
中央の群臣らは、唐軍に包囲され「いよいよ…」と敗北を覚悟したほどの恐怖を覚えており、その後イリが唐軍を撃退させたとはいえ、唐軍をこちらから攻めることなど思いも寄らない。
唐と境を接し戦い続けている遼東と違い、彼らが守る平和の内にいて戦争を知らず、平和呆けに眠っていた者達であり、もとより戦意はない。
部族らの中では、高句麗の勝ち目はないとみて
「もはや唐に帰順し、部民と本領安堵を願いでるしかない、、」
と言い出す者まで出始めていた。
貴族化し巨大権門になったとはいえ、元来は部族である。いよいよとなれば、国より部族を優先するという部族らしい思考が湧いてくる。
このまま、唐と高句麗の戦闘に狩り出されていたら部族民を失うだけである。部族民が失われることで家門の力が削がれるのを嫌がり、出兵を拒み続けた。
イリの長男で大臣のヨン・ナムセンが3万の兵を率いてアムノッカンで全滅させられたのは、出兵反対のかっこうの標的となった。
この敗北により、ヨン・ナムセンは失脚し下手をすればイリにも糾弾が飛び火しかねない勢いだった。
『戦うは愚か守るが勝ち』と、ヨン・ナムセンの敗戦と、イリの攻城戦の勝利を引き合いに出し、
イリが和国に行っている間に、専守防衛に国論がまとまめられている。
「遼東とは何でありましょう。異民族の国ではござるぬか?」
と言う者までいた。
遼東という、唐と戦を止めぬ輩が高句麗と同じと思われているせいで、吾らが平壌まで攻められている。唐と戦をするなど、野蛮な異民族の奴らは不要であると、本気で思っている始末だ。
なので部族長らが
『遼東』という言葉を使う時は、敵国であるかの様な語感を込めて吐いた。
中央の部族らは、一味神水し強く親唐を盟い、ヨクサルのもと一枚岩になりつつある。皆、部族の権威に固執し、部族の権威で国は動かすものと思っていた。
部族とはもはや名ばかりで、実際は統合を繰り返し肥大化していくうちに半ば貴族化してしまった元部族の様でもあるが、
「吾が部族こそ、高句麗の血であり、肉であり、骨である」などと、
本来、高句麗とは部族が連合して出来た国であることを持ち出す。
親唐か反唐かの国論は、部族を以って判じなければならないとする。
もともとはイリの父ヨン・テジョ(高向玄里)も、唐の手先として五大部族の東部家門に入り込み、親唐派の王を擁立する事で【高句麗宰相】の地位に就いたのだ。
部族長らはその様な親唐派の成功を実際目の当りに見てきたので、
「親唐になれば宰相になる」、
「長いものには巻かれよ」と
かつてのヨン・テジョ(高向玄里)を羨み、唐の和平工作(実際は陰謀だが)に乗れば吾らも家門が栄えると信じていた。
【遠すぎた白村江】
平壌城を守る軍部からも、イリの出兵号令に反対の声が上がった。
「飢饉により兵糧も乏しく、民は飢饉で飢え徴兵もままなりません。度重なる戦で兵も皆疲れています。今は兵を休める時です!」
(吾が和国へ行ってるうち知らぬところで、勝手に国論を曲げるとは許せぬ、、!諸臣らに高句麗の主宰を預けたつもりはない!)
イリは言葉にはせず、ただ押黙り重たい眼つきでヨクサルを見据えていた。
ヨクサルは自分が唐軍と五大部族の代表であるかの様に権威者の意識を纏い、内心イリの眼力に怯みながらも姿勢を崩さずにいた。
ヨクサル
五大部族を率いるヨクサルは、唐軍の思惑どおり
高句麗からの派兵を抑える役割を完全にこなしていた。
「全ては平和の為」と言えば
耳触りが良く、本人はその語感の中にいて利敵行為とは微塵も感じていない。「和平」という言葉さえ使えば、一段上から軍部の者をいくらでも叩くことができたので
激しく「今すぐ兵を出せ!」と唾を吐くイリ(ヨン・ゲソムン)に対しても
「ヨン・ゲソムン閣下は、思い違いをされてます。兵は不肖の器。今、何もかも刃で解決され様とするのは国を滅ぼすほど無謀なことです。百済戦にまで火中の栗を拾いに行くべきでは無いのです。文徳を持って吾らが唐と和平を結べば、民も死なず、いたずらに兵を死なせる事もありません。」
、、などと、口から虹でも吐くような聖人君子のもの言いをしてくる。
クッ!
イリはその場で殴りつけたい程の怒りがカッと沸いたが、
「今、唐賊を駆逐せねば百済の次は高句麗だと言うことが分からぬか!今!今!今!今なのだ!
家族を死なせたくなかったら、今すぐ兵を出せ!」
怒髪天を突くほどの、咆哮を上げた。
その場にいた者は、目の前に突如として巨大な龍が現れたかの様に感じ、皆、燃えさかる灼熱の火焔を浴びせられた。
恐怖に凍りつく者、恐ろしくて瞼を閉じる者、腰を抜かし、動けなくなる者も何人かいた。
イリの過激さはヨクサルの聖人ぶりをより際立たせたが、その怒りを真っ向から受けとめられる程の気概は誰にもない。
ヨクサルは親唐の姿勢は崩さず、さすが五大部族筆頭だけあって肉が厚かった。が、結局は恐れをなした部族長らと話し合い五千人ほど部族の私兵を、「高句麗防衛の為に」と、、出してきた。
しかし、部族らが動員できる兵は五万人である。
(いざ決戦の刻にたった五千とは!)、、
「皆、平時は農民です。今、戦に民を取られてしまっては作物を収穫することが出来なくなります。吾らが出せる兵はこれで精一杯なのです。」
と、部族長らはしれと語る。
1/10の兵しか出してこない五大部族らに尚もイリは怒りがおさまらない。
(おのれ、吾が高句麗を離れ和国へ行ってる間に、是ほどまでに、是ほどまでに、部族を増長させたのか…!唐の細作か、、)
如何に、残りの兵を出させるか、、
長子ヨン・ナムセンに、高句麗を任せたままイリは暫く和国へと留まっていたが、3万の兵を全滅させてしまい力を失ったヨン・ナムセンが大臣として一人で事をなすには、五大部族の圧力は強すぎた。
イリは、唐軍の援軍が百済に来る前に高句麗から何が何でも出兵させるつもりでいたが、
この思わぬ平壌の抵抗に焦りを感じた、、
(ここでヨクサルらと衝突してる間に、百済の和国軍と唐軍の戦は始まってしまう、、時が惜しい、、
我身が二つあれば、、、)
180人の親唐派を取り除いた若壮の頃のイリなら間違いなくヨクサルを許さなかっただろうが、
今、唐軍への一斉攻撃を前にしてその様な騒ぎを起こしている刻ではない。
五大部族の五千の兵の配置だけでは足りず、イリは楊万春将軍ら遼東からも兵を動かそうと急いだ。
三万の兵を集めれば漢城を抜き唐軍の背後から攻めよせるつもりでいる。
しかし、唐百済戦への出兵に反対したのは平壌の中央勢力だけではなかった。
イリの両壁であり、遼東の要となっている安市城の楊万春将軍と仲象将軍(テジュンサン)からも反対の声が上がった。
安市城は難攻不落の名城であり、籠城戦で生き延びてはいるが、北の活路は全て唐軍に取られた城に塞がれてしまっていて、遼東地方の局面では死に体に近い城である。
城から出て一手でも着手すれば、全てを失いかねない。
「いま、安市城の兵を百済まで動かせば、唐軍は遼東を攻め安市城まで失う可能性がある」
難色を示した。
しかし、イリは尚も出兵要請をする。
「安市城だけを守り、高句麗を失ってはならない。高句麗という国が無くなれば、安市城もないのだ。この度の戦は高句麗が生き延びる為の重要な戦いであると心得よ!肉を斬らせて骨を断つ程の覚悟で兵を動かすのだ!」
楊万春将軍
楊万春将軍らも、派兵の検討をせざるを得なかった。
楊万春将軍は、隋軍百万を撃退した頃から、未だ敗北を知らぬ名将だった。もはや老将と言える程に歳を重ねていたが、眼光だけは齢をとらず壮年の頃と変わらぬ冷厳さを放っている。
唐軍の船が徳物島に到着してから、熊津城の唐軍と新羅軍と共に一斉攻撃に出るまで3ヶ月を要した。
その間に、扶余豊章王と鬼室福信将軍が瓦解するのを待ち慎重に準備を進めたが、唐が是ほどまでに長逗留できるたは、巨大戦艦に大量の兵糧を積みこんで来たからである。
逆に高句麗から百済へ出兵となると兵站が伸び、兵糧補給が問題となる。ましてや高句麗は飢饉で食糧難であり、高句麗軍は例え出兵したとしても短期決戦しかなかった。
下手をすれば玉砕する。
安市城内の軍議では、暫く沈黙が続いていた。
仲象将軍(テジュンサン)が口を切った、、
「安市城には最小限の兵を残し国境近くまでなんとか兵を出し、もしも安市城が危機になれば直ぐ戻るしかない。ただし、、間に合うかも分らず何時もの攻城戦よりも困難な戦いとなるやもしれぬ、、!」
仲象将軍(テジュンサン)
楊万春将軍は、是に対し戦略を図る
「吾らが、、、安市城を捨てて全軍で突撃しようが、新羅の文武王が反唐に転じようが、40万唐軍に撃ち勝つは今の状況では難しいだろう、、
だが!!
和船が、、唐軍の兵糧船を焼けば勝機はある。
唐軍が食糧に窮すれば、周留城の包囲を解き兵を引く。奴らの動きを注視せよ!
吾らはまず兵を二軍に分け前軍は平壌から百済へ進撃し、撤退する唐軍の背後を襲う。後軍は兵を伏せ遼東半島の唐軍の動きを見張り遼東からの兵糧補給を阻む!後は戦況次第だ!
しかし、
和国の阿部比羅夫将軍が兵糧輸送を焼くのに失敗すればこの作戦は意味を成さない。
もしも阿部比羅夫が、失敗すれば吾らは遼東方面の唐軍の動きに備えて、直ぐに安市城の守りに戻る。」
仲象将軍は深く頷いた。
「まずは和国の阿部比羅夫、、次第か、、
吾らが遠い安市城からわざわざ兵を出すのもそこに勝機があればこそだ。
以前、高句麗へ援軍を率いてに来た時には阿部比羅夫将軍は誠によく戦ってくれた。かの時は、礼品の熊の毛皮を贈るため吾らも調達した。
今の安市城には、贈る様なものなどもう何も残っていないな、、あるとすれば吾らの士魂だけだ。」
その場にいた諸将らも、和国の阿部比羅夫将軍に願いをかける。
「百済の次は、高句麗だ、、。1隻でも多く、阿部比羅夫将軍が唐の巨大船を焼いてくれればいいが、、。残った船は唐軍が高句麗に攻め入る時、兵糧船に使われる。もう、今までの様に唐軍を兵糧攻めをする事など出来ぬだろうな、、」
「さればこそ!吾らは阿部比羅夫将軍の二の矢、三の矢となるべく城を出るのだ!!」
楊万春将軍が大喝すると、
その場にいた諸将らは一斉に立ち上がり
「吾ら掲げる旗こそ違えど、いざ唐賊を討ち払わん!」
と盟い、環頭大刀を打ち合わせた。
彼らはイリの要請通り、安市城に最低限の守りを残し、出撃した。
無事に国境近くまで征くことさえ難しい作戦だが、正念場である。
予定どおり直ぐ攻め入ることはせず、楊万春将軍と仲象将軍(テジュンサン)が分かれ、背後から何時でも攻め入れる体制に入った。
遼東方面の唐軍もまた、一斉に攻め込む刻を伺っている。遼東半島は、龍虎が睨み合いを続けてる様な重たい緊張に支配されていた。
楊万春将軍らは南を睨み、
「和船が唐の兵糧船を焼けば勝機はこちらにある。周留城が堅く守れば、唐軍はいつもの様に食糧難となり兵を引く。されば、その時こそ兵を出し追い打ちをかけるのだ!」
と、号令し白村江の和国軍の戦況を固唾を飲んで見守っていた。
(そして吾らが勝機を掴めば、新羅の文武王も反唐に転じるやもしれぬ、、さすれば四十万唐軍など一兵たりとも生きて唐土に帰る事はできないだろう)
この時代、
部族社会が飽和し部族の掟は律令制へと移り
貴族社会、武家社会と変性していく時代のまっただ中だったが、
いまだ国より部族を優先する思想が色濃く残り、国事を優先する事さえ難しい中で、
『反唐』という攘夷の為に国までも超えて共闘しようという者たちは、例外中の例外の存在だった。
高句麗の楊万春将軍と仲象将軍、
新羅の金ユシン将軍と文武王、
和国の阿部比羅夫将軍、
イリと共に戦う壮達は刻を待っていた。
しかし、
和国の阿部比羅夫将軍は唐船を焼くことが出来ず、例外の壮漢らは刻を同じくして立ち上がることなく白村江の戦より、一人、一人と次第に姿を消していった。
【遅受信将軍 任存城一人】
9月に唐軍が周留城を陥落させ、復興した百済の崩壊後のこと。
『遅受信』という将軍だけは百済崩壊後も戦いを止めず、任存城へ立て籠もって唐軍に一人で抵抗を続けていた。
周留城を守っていた黒歯将軍は、百済復興が潰えたを悟り、唐からの降伏勧告に応じ下った。
(王が真っ先に逃げ出し居なくなるとは、、もはや百済には守るべきものがない、武将とは守るべきものが有り戦う。ただ悪戯に剣を振るうものではない、)
有心已になく、、
黒歯将軍は、身長七尺余、勇猛で知略を備えた武将だった。
唐軍の降伏の使者には最初、降るとも降らぬとも言わず
「安堵」とだけ応えた。
660年に、唐の蘇定方将軍が百済サビ城を陥落させた時、黒歯将軍は手勢を率いて降伏したが、蘇定方ら唐軍が略奪と暴行の悪虐の限りを尽くし、百済人が殺されていくのをみるに堪らず、百済の民に手をかける唐軍兵らをその場で斬り捨て、直ぐに唐陣営を離れて再び剣を振るった。
そして、敗残兵をかき集めて任存山に立て籠もった。
黒歯将軍が反唐の旗を掲げると1か月で反唐軍は三万人に増え、これが百済復興運動のはじまりとなった。
その後、
黒歯常之将軍は唐軍一の将軍蘇定方を撃退し、
二百余城を奪い返した猛将であり、唐軍でその名を知らぬ者はいない。敵味方に鳴り響いたこの黒歯将軍が、再び、この度の敗北で部下を率いて、沙託将軍と共に降伏してきたのだ。
劉仁軌は喜んで黒歯将軍らを迎えた。
劉仁軌
投降後の黒歯将軍は、同じ位の将軍として唐軍に迎えられた。さっそく劉仁軌は、黒歯将軍とその部下に任存城へ向かわせ様として、兵糧と武器を与えた。
すると、孫仁師総大将は、
「こいつらは獣心だ!この様なことをしたらまた裏切るに決まっている。信じられる訳がないだろう!絶対に征かせてはならない!」
と、頭ごなしに吐く。
だが、劉仁軌は是をかき消す様に高々と語った。
「この二人は忠勇で謀略もあり、信に厚く、義を重んじる人物だ。前回は託した者が、悪人だっただけだ。今こそ黒歯常之将軍は戦功を建てる時である。疑いは無用!!ご覧あれ!」
劉仁軌は、孫仁師総統の反対を押し切って、武器・兵糧と兵を与え任存城へと出征させた。
任存城の遅受信将軍は堅く守っていたが、
相手は百済きっての反唐の猛将・黒歯将軍であり、
(反唐の筆頭、黒歯将軍までも唐軍になったのか、、)
皆、心を冷やしてしまい戦う兵らの士気は振るわず、心理戦に於いて既に負けていた。
程なく、黒歯将軍が率いた唐軍は見事に任存城を抜き、百済最後の将軍・遅受信将軍は妻子を棄てて高句麗へ逃亡していった。
これで、全てが終わった。
劉仁軌は兵を率いて百済国内を鎮守し、
援軍の総大将の孫仁師と、百済総督の劉仁願は唐へ還るように詔が降りた。
百済は戦乱の後、
家は焼け落ち屍は野に満ちていた。
百済に残った劉仁軌は、兵を動員して屍すべてを埋葬し敵味方なく彼らを弔った。
戸籍を作り、村へ人々を呼びなおし、官長に命じて村々を復旧させ、道路を切り開き、橋をかけ、堤防を補強し、百済復興と開発に努めた。
陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧しい人々には配給をして、そして、兵に徴用された息子を戦争で亡くし、養い手を失ってしまった孤独な老人を探しだしては養い、百済の民も驚くほどに民に慈しみ深い心を配り尽くした。
「唐に殺される」
生かされたとしても、奴隷にする為に唐へ連行されると恐れていた百済の民たちは、劉仁軌のこの領撫政策に大いに悦び、皆、心を安んじて、生業につき働きはじめた。
まずそのように人心を安堵させてから、
劉仁軌は唐の社稷を立て、正朔と廟諱を頒布した。
駐屯している唐軍には、屯田制をしいて兵らに田畑を耕かせ、兵糧を蓄えつつ兵の調練を続け、次の高句麗戦に備えていた。
この上ない、占領体制を見事なまでに実行していった。
三年前、唐軍が百済サビ城を陥落させた時には、
降伏した百済に対し、蘇定方将軍らは悪逆無道を尽くした。掠奪、暴行、血気盛んな蘇定方は、東夷の野蛮人どもは、踏みにじり、押さえつけ、恐怖を与え、力づくで脅せば、皆従うと思い込み弾圧に容赦がない。
しかし、
この暴走が返って百済遺民の反発を生み、黑齒将軍が立ち上がった事で軍民一体の強い抵抗となり、蘇定方は黒歯将軍に敗れ、城を奪われ、唐軍は百済復興軍に熊津城に閉じ込められるという事態にまでなった。
結果、敵味方の多くの命が失われた。
劉仁軌は全くその逆を行い、人心を安定させた後も領民の為の徳政を徹底的に施し続けた。
中国の最先端の農業技術を農民に教え、特に養蚕は田畑だけで食べるのが精一杯だった人々には喜ばれた。
貨幣はあっても、まだ貨幣による経済が民衆に流通している時代ではなく、鉄や布の物々交換や税は金ではなく絹で納める様な時代であり、養蚕を知らぬ農民にとっては金の成る木の様だった。
黒歯将軍に任存城を落とさせたのも、「安堵」を願う黒歯将軍に応えた劉仁軌の憎いばかりの心配りである。
下手に唐軍の将軍に攻めさせれば、数を頼みに力押しした上、攻め落とせば勢いに乗り百済の民を凌辱したり略奪しかねない。
黒歯将軍であればこそ、百済の民は安堵され無事にあると知り唐軍を率いさせたのである。
劉仁願が都に帰国し、
高宗皇帝に戦果を報告すると、
「卿が海東で前後して上奏した事は、皆、機宜に合っており民を領撫するための文理も備わっている。本来は武人であるはずなのに、どうしてそんな事ができたのだ?」
と、訊ねた。
高宗皇帝
総督の劉仁願が、高宗皇帝に上奏せずに是らを行うことが許されていたとしたら、もはや
『幕府』
と言って良いほどの武人による文治である。
劉仁願は、全て正直に奏上した。
「これは全て、援軍の将軍劉仁軌のやったことです。とても私の及ぶところではありません。」
高宗皇帝は驚き劉仁軌を称えた。帯方州(百済)の正式な長官として昇進させ、長安に屋敷も築き、劉仁願の妻子へも厚く賜った。
「劉仁軌は白衣を着て従軍したのですが、よく忠義を尽くされた。劉仁願は節制を持ちこの賢人を推挙しました。どちらも、君子と言うべきです!」
と、奏上する者がいて、劉仁軌と劉仁願どちらもが称された。
高宗皇帝は大いに喜び、劉仁願の功も同様に認めた。そして、劉仁軌を一度帰国させ、交代で劉仁願を再び百済へ往かせる事になった。
しかし、これは劉仁願の思惑どおりだった。
一方、
百済の劉仁軌は、この後につづく対高句麗戦を憂慮していた。
細作(工作)を行うのは、唐軍だけではない。
白村江の戦いの前後、イリは唐軍の劉仁願将軍と、郭ムソウに密使を送り、大量の金銀を渡していた。
劉仁軌は、白村江の戦いにおいて劉仁願が怠軍していたと疑い
(劉仁願は、敵と内通している)と、
味方であるはずの劉仁願の兵の動きに警戒している。劉仁軌にとっては劉仁願は功があるどころか、危険極まりない将軍である。
この土着の将軍、劉仁願は太宗皇帝時代より卑列道行軍総官として卑列道に駐留していたが、卑列道を拠点に『私兵』を集めていた。
肚に含むところがある。
劉仁願