和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦663年
和国水軍と唐軍水軍は遭遇し戦になり、四度戦った。圧倒的な戦力差の中、和国水軍は唐軍水軍を足止めする。しかし、和国水軍の奮戦を他所に百済扶余豐章王は既に高句麗へ逃亡していた。
和国水軍は和国へ戻るため、唐船団の重厚な包囲に立ち向う。個々に1隻づつ撃破されぬ様、全軍で一斉に突撃する『敵中突破』による撤退を敢行した。

第1話 白村江の戦い 潮待ち刻
第2話 白村江の戦い 扶余豐章王の逃亡
第3話 那珂津女王即位の難
第4話 白村江の戦い 和国軍玉砕戦


第21章 【白村江の戦い】Ⅱ 百済編

【白村江の戦い 潮待ち刻】

 

和国水軍は唐軍に敗れ一度船を引き、白村江の入江に船を並べていた。

 

唐水軍はさすがに巨大船団だけあり、喫水線の低い和国船団を迂闊に追いかけたりはしない。

 

下手に、岩根(岩礁)に船底を当てたり、浅瀬に座礁したりすれば取り返しがつかない事になる。

湾内へ入れば、海底の丘陵も高低差があり浅堆もある。

潮の干満水量も河川の水量も激しく、水底の地形に表情を削り、安易に進むには危険な水域だ。

 

水軍を率いてる劉仁軌は、先の戦で船を沈没させてしまい罰せられた為、この度は白衣を着て出征したほど命をかけてきている。

船は何があっても守らなければならず、慎重に慎重を重ねていた。

 

和国水軍は、蘇定方が百済を陥落させた時にギポルポから上陸したことを考え、上陸を阻む為の兵船配置をすることになっていた。

唐水軍が潮待ち風待ちをしている間に、喫水線の深い大船が接岸できない浅い入江に船を並べて編隊を整えていた。

 

 

海将【安曇比羅夫】は、百五十人が乗組む遣唐使船級の大型旗艦に指揮官として乗船していた。

 

安曇の船は、蝦夷族ら粛真が多い。

 

安曇氏は海神族である安曇磯良を祖神とする海の部族で、駐百済大使を務めていた安曇比羅夫は玄界灘を超え対馬海峡を何度も渡ってきた。

 

この為、大将軍ではないが大船の指揮を担っている。(灘=とは航海の難所のこと)

 

百済式の造船の粋を集め、樹齢二千年もあろうかという大木を竜骨にし組上げた堅固な甲板がある構造船だ。

 

安曇比羅夫の「比羅」=ヒラとは境界線のことで、日本神話に出てくる黄泉国とこの世の境にある『黄泉ヒラ坂』のヒラも同じ意味である。

 

『比羅夫』という官名は、境界線を守る男という意味合いで外交と外征を行なう。

 

外征を阿部比羅夫が行い、

 

安曇比羅夫は主に外交を行っていて、他民族の言葉にも通じていた為、乗込んでいる蝦夷族の酋長らともよく話しをしていた。

 

大和朝廷は200人もの酋長に官位を与え帰属させていたが、安曇比羅夫は彼らの事をもっと良く知りえようとして

 

頭を撫でてやるくらいのつもりで、、と軽い気持ちで酋長達と話しはじめたが、

 

彼らの伝統や独自の文化の話を聞くうちに安曇自身も一族の祖神のことを思い出してきた、、。

 

安曇比羅夫は語った。

 

「130年前、エフタル族の時代に吾ら海神族は大和との戦に敗れ、散り散りになった。今は大和朝廷の世となり仕えているが、、かつて吾らにも王がいて伝統があり、民がいた。

 

山の部族の蝦夷族にカムイへの言祝ぎがあるように、吾ら海の部族にも伝統的な言祝ぎがあったのだ。」

 

両手を鷹の羽ばたきの様にバサリと広げたかと思うと、パン!と拍手し、

 

『チヨにヤチヨにサザレ石の』、、と海神族に伝わる言祝ぎを唱え穂フリを見せた。

 

鳥の鳴き声にも似た覇気とした唱声が船室一杯に響きわたった。

 

詠唱するにつれ室内の氣がガラリと変わり、言祝を終えると

 

風に祓われたかの様に、『凛』とした静寂が一気に降りてきた。

 

その場にいた蝦夷族の酋長らは、思わず畏み膝をついてしまい、皆、頭を下げていた。

 

 

 

言霊に感じいっていた酋長らの一人が、

 

頭を上げ言う

 

「安曇様、、吾らは戦に来て唐国の巨大さを知りました。唐軍は吾らの仲間、靺鞨族に酷いことをします。徴兵し家族を人質に取り、死ぬまで戦をさせられます。負ければ家族も殺されるので、死にもの狂いで戦います。

 

何れにしても皆、死んでいきます。

 

大和朝廷は、吾らに官位まで授け朝廷の臣として迎えて下さいました。出来れば吾らも、大和に味方をし唐を除きたいですが、戦いは望みません。大和までもこの様に唐軍と戦わなければならない世界。

 

戦いの無い世界を望む以上、もはや大八洲(日本列島)は吾らの住むべき地ではありません、、」

 

「海流に乗り北の海を超えると、広大な大地があるといいます。皆、戦の無い土地を望むものらは北海を超えていき、戻った者たちはいません。

 

この度の戦、もしも生きて戻れ許さることなら、吾ら大和朝廷の官位を辞してこの大八洲を離れ、彼の地を目指したいと思います。」

 

安曇比羅夫は、

 

大和朝廷から逃げるという事よりも

 

(なんと、、『アジア天下の果て』といわれた列島よりもその先に、まだ大地があるのか、、)

 

と、渡航先の方に驚いた。

 

 

驚き静けさの中で、暫し行く末を考えていた。

 

 

(大和との戦いに敗れ、吾らの曽祖父母達は散り散りになり信濃、香取と東へ遷り住んでいった。

 

しかし、大八洲(日本列島)が大和の世となりても、戦乱が無くなるどころか戦火は燎原の野火の如く今も吾らの前に広がっている。

 

かくなる上は、彼らの言う海の向こうにある広大な大地へと渡らなければ、吾らとていつかは戦火に焼かれる日がくるかもしれない、、)

 

 

『海神族』安曇氏は大和土着の部族ではない。

 

 

元々、西から海を超えてきた部族であり、土地にしがみつくのは海の部族の生き方ではなく、広大な海こそが海神族の天下だ。

 

今、安曇比羅夫はご先祖様らがそうして来た如く海神族の血が騒ぎ、海の彼方にあるという広大な大地を目指し船を出してみたいという衝動に駆りたてられていた。

 

 

 

 

【白村江の戦い 扶余豐章王の逃亡】

 

「百済でも蝉がないている、、」

 

 

至極当たり前の事だが、日本列島の遠国より徴兵された者達は、

 

海を渡った異国で同じ蝉の鳴き声を聞いただけで、言葉さえ知らぬ国も幾かは身近に感じられ、安堵の息を漏らしていた。

 

強い日差しは、海面を銀盤の様に輝かせ、

 

船縁は、涼しげな波音をたてている。

 

戦とは程遠い晴れやかな日

 

南風月(台風の月)で無事に航海ができたことに、感謝する心のゆとりさえなかったが、

 

唐軍が姿を見せる前、束の間のおだやかな時間、

 

これから起こる殺戮とは無縁の情景に、

 

兵士らは暫し旅の景色に視線をまわし、

緊張を緩めさせていた。

 

 

別動して出会い頭に戦った先発隊と本隊、

 

二度唐水軍と戦い火蓋は既に切られている。

 

この束の間の静けさはすぐに終わり、

 

喫水線へ潮の満ちるのを待ち終えた唐軍の巨大船団が、ドラを響かせ和国水軍の前に威容を見せた。

 

 

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唐軍の巨大戦艦を目の当たりにして、和軍は怖じ気づいてしまったが、この後も二度戦うことになる。

 

和国の船団は、1000隻に27000人を乗せる船で、大将艦を除けば1隻あたり20人程度から乗り組む小船である。

 

大きい旗艦で長さ三十三間(約18 M)80人を乗せ、大将艦艇がこの二倍程度の遣唐使船級の規模で最大の戦艦となる。

 

 

対する唐軍は170隻の巨大戦艦が40万人を乗せて黄海を渡ってきた。ニ千人以上が乗船できる巨大な龍船だ。隋の時代、煬帝の空前の船遊びによってこの様な巨大船の造船技術が生まれていた。

 

和船と比べ乗船規模は百倍。乗組員二千人のうち1/3近くは漕手となる。

 

 

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船体規模は、それほど迄に大きくはないが、

 

船室の階層が幾重にも上へ重なり、甲板位置が高い。その分上陸戦は不利になるが海戦は有利だ。

 

孫仁師総監率いる唐軍はまず手前で先発の陸軍を上陸させた。

 

その後、劉仁軌将軍と百済王子隆が兵糧輸送と後発部隊を乗せて牙斬湾に周り込み陸軍の支援を受けながら、こちらから水軍部隊を上陸させる手筈となっていたが、

 

早くも上陸を阻む和国水軍と遭遇してしまった為、戦になり、これが三度目の戦いとなる。

 

 

和国水軍は小型で、唐軍の巨大戦艦より船足は早かったが、早いだけで行く手を阻むことは出来てもまともに戦う事は俄然不利だった。

 

怖じ気づき士気の低下した和国軍に、

 

突撃命令が下った。

 

「吾らが怯まず唐軍へと立ち向かえば、唐軍は驚き船を引く!吾らが兵の多寡や船の規模の違いに怖じ気づけば唐軍に利するだけだ!怯まず進め!」

 

急編成の和国軍に軍旗という程のものはなかったが、旗艦には八咫烏(三足烏)などの旗が目印として掲げられ小船を率いた。

 

戦闘の火力は、『火矢』であり柴玉、油、凧、火薬など火力を増加させる為の燃焼剤を用い、加えて投擲による破壊をする。

 

敵艦を沈める戦闘であれば高い甲板から、下へ向けて攻撃する唐軍が有利であり、下から射上げる和国水軍は俄然不利であった。

 

唐兵を倒したくば唐船まで接舷し、甲板までよじ登り兵を乗り入れ、白兵戦で直に戦うしかなかった。例え戦えたとしても、兵は少なくまともに戦えば勝ち目の無い事は明らかである。

 

しかし、

 

和船出兵の本当の目的は戦うことではなく

『唐軍の兵糧船を焼く事』だった。

 

天候は和国軍に有利ではなかった。

カッと晴れた後には水蒸気を吸い上げた大気は不安定になる。しかし、何としても和国軍は、唐兵の上陸を阻み、兵糧の上陸をも阻まなければならない。

 

兵糧を焼くことができれば、唐軍はたちまちの内に食料難になりいつもの遠征の様に退却する。

 

木皮草木を噛じったところで、40万人が飢えればイナゴの大軍の様にあっという間に食べ尽くすだろう。食糧難は大軍であるほど不利となるのだ。

 

先の高句麗戦の時も、唐軍が飢えて戦えなくなってから新羅は兵糧を運ぶ援軍を出した為、唐軍は撤退せざるを得なかった。

 

 

少数の兵で大軍と戦うには奇正の変に応じ

 

偽兵、奇襲、火計、水計など、奇策を用いるしかない。

 

大軍の息の根を止めるには、食糧庫を焼き、高句麗が隋軍100万を壊滅させた時の焦土作戦のように、領土内でも食料の調達ができないように全て焼き尽くすしかない。

 

しかし、上陸して40万大軍の陣営の中に食糧庫を置かれてしまっては、和国兵で奇襲などできるものではない。

 

27000人の兵で、唐軍の食糧を燃やすことが出来る唯一の機会が、上陸前の兵糧を積んただ唐船を焼く事だった。海上であれば唐陸軍本隊の援護も届かない。

 

したがって、和国軍にとって天候が不利であろうと、ここで戦うしかなかった。

 

 

もしも、

 

和船が、唐の兵糧船を焼くことができ、

 

周留城で百済軍が堅固に粘っていれば、

 

唐軍が50万でも100万でも兵の多寡に関わらず、

 

唐軍は撤退するしかないのだ。

 

 

だが、、

 

逆に和国の船は唐船に近づく前に炎上してしまい、

 

海の藻屑と消えていった。

 

 

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焼け落ちなかった船も、連弩の雨を浴びて兵士の血は水面を紅く染めた。

 

もうもうと黒煙を上げ炎上している和船で、唐の巨大船の船腹に体当たりをし延焼させた船もあった。

 

 

突撃後、和軍兵はすぐ海に飛び込んだが、味方の船まで泳ぐ前に矢の雨を受け江を紅く染め、

 

或いは泳げぬ者らは溺れて、ほぼ全員が命を落とした。

 

突撃する和船の後ろには何隻かの中型船が、海に飛び込ん和国軍を救助するために後についていたが、こちらは連弩の格好の餌食となった。

 

 

一時は炎を上げた唐船も、

 

船縁から何百人もの兵士らが釣瓶を下ろし一斉に海水をくみ上げ、必死に船腹に浴びせ掛け消火した。

 

半刻もこれを続けると鎮火された。

 

唐船の外壁は堅固であり、少しの焦げ目を残しただけで船体に穴を開けるには至らない。

 

甲板から直接水をかけることができない、舳先が唐船の弱点とみて、

和国水軍は正面から同じ所へニ艘三艘と突撃し、舳先の下から火矢を浴びせ大炎上させた。

 

何隻かの唐船を沈没せしめたが、

 

四十万の唐軍の腹を満たすだけの兵糧を積んでいる船を焼くには、千隻の和船では限界があった。

火矢を防ぐ為、要所要所に鉄板が貼らてる部分もあった。

 

何より

 

唐軍水軍を率いるは海将・劉仁軌であり、先の高句麗戦で船を沈没させてしまい罪を問われた後、復帰した為に白衣を着て死の覚悟を示して出陣した将軍である。

 

 

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何があっても、率いる唐水軍を沈没させることはは出来ない。

 

舳先にひとたび和船が入りこめば、すぐさま船を廻して横腹で受ける。

 

旋回船体が長いほど有利であり、いとも簡単に和国軍の導線を回避してしまう。

 

唐船が右舷左舷と旋回しただけで、和船は大きな横波をうけ操縦力を失い、沈む船もあった。

 

 

あまりの劣勢に、

 

和国水軍は船を引きばらばらに逃げ出して、体制の立て直しをせざるをえなかった。

 

「唐の軍艦には、敵わない」と、

 

誰もが感じていたが、

 

援軍に来た和国軍としては、唐の兵糧船を焼けずとも、周留城にいる扶余豊章王を助ける為に唐水軍の上陸を何とか阻もうとしていた。

 

 

しかし、

 

扶余豊章王はあろうことか戦いが始まらぬうちに

 

「和国水軍と合流する!」と言って、

 

城を抜け出し既に逃げてしまっていた。

 

和国水軍と合流するというのは城を出る為の口実で、激戦地である和国水軍の方へは行かず、一目散に高句麗を目指して逃げていた。

 

戦うという気が全くなく、兵を見捨てて逃げる。

 

兵士や民を見捨てるだけでなく、自分の息子・王子二人も置き去りにしたまま、扶余豊章王はただひたすら高句麗に向かって走って逃げた。

 

王というより、匹夫にも劣る。

 

 

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扶余豊章

 

今まで、扶余豊章王を王足らしめていたのは、王族らしい典雅な所作と、涼やかな品の良い身ごなしだけだった。

 

その優雅さの中に保身の鎧を纏い、中には何もない。

 

百済ウィジャ王の王子として生まれたが母方の一族には力がなく、早くに政争に敗れて和国へ人質に送られてしまった非力な王子だった。

 

何の野心も持たず、ただひたすらに身を低くして、息をころす様に生きてきた。

 

 

いかに天下大乱といえど、百済の王族が全て唐に連行されてしまうという事態が起こらなければ、乱世の方で相手にしないぐらいの凡庸な人物である。

 

その『野心の無さ』が大海人皇子に利用され王位に着いたが、その凡庸さは大海人皇子も思いもよらぬ程の凡夫だったのだ。

 

 

 

 

【那珂津女王即位の難】

 

那珂大兄皇子は怒り心頭で、

 

妹・間人皇女の元へ怒鳴り込みこむ。

 

 

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「お前がいるせいで、吾が王になれぬではないか!!」

 

百済で、鬼室福信が扶余豐章王に討たれて以来、那珂大兄皇子はずっと苛立ちが続いていた。

 

百済王になる機会を失した上、和国では大海人皇子が着々と間人皇女の和国女王即位を進めていた。

 

唐百済戦の様子も気になるが、その様な中でも百済亡命者達への冠位の整備が検討され、イリ(大海人皇子)が高句麗に行った今でもその作業が続けられている。

 

翌年、即位と共に発布するという。

 

 

「お前がイリの傀儡として女王に即位するとはな!年明けには甲子の宣だと!巫山戯るな!イリの傀儡など認めぬぞ!」

 

 

逆上がおさまらない。

 

「、、、」

 

 

無言で顔をそむける間人に向かって、更に叫ぶ、

 

「イリはお前を女王に即位させ、お前の夫として『王』になるつもりだろう!吾は断じて認めぬ」

 

 

「いっそお前は、吾の妻となれ!さすれば誰もお前を利用できぬ。」

 

 

間人は、驚き目を見開く、、

 

 

「何ということを!実の兄妹ではないですか、、」

 

 

「だから何だというのだ!吾を夫にするか、吾に殺されるかだ。」

 

 

「血をわけた兄妹で、それはなりませぬ」

 

 

「だからこそだ!吾ら上宮王家の血をイリなどに分けてなるものか!蘇我氏さえ、推古王女と用明王の同母婚を進めた。和国の権力とはかように手中にするもの!」

 

 

「イリと逢瀬をかわすなど許さぬ!絶対に上宮王家とイリの血をひく子など生ませぬ!懐妊など決して許さぬぞ!金ユシンは、イリの子を宿した妹を焼き殺そうとしてとどまったが、吾は本当にそなたを生かしてはおかぬ!」

 

 

「私しを脅すのですか、、」

 

 

「脅しなどではない。そうでもせねば、吾は和国王になれぬ!断じてイリの思いどおりにはさせぬ。唐の太宗皇帝であろうと、兄弟で王位を争うことなど当たり前ではないか、、

吾はお前の命を助けたくて、夫にせよと言ってるのだ、それがわからぬのか、」

 

 

「分かりませぬ」、、

 

 

間人女王は泣き崩れる

 

 

「確かに、私も上宮法王の血統の象徴で最後の王女です。しかし、私を妻とした者がこの国の支配者になれるということではありません。

この国の支配者になった者だけが私を手に入れることができるのです。」

 

 

名目的な女帝を立て皇統ではない者が夫になり実権を握る、、

 

那珂大兄王子は、これがどうしても許せず、間人皇女がいるせいでその様に利用され、自分の即位の邪魔になるくらいなら、いっそ間人皇女を自分の妻にしてしまうか、できぬのなら殺してしまおうと本気で考えていた。

 

 

那珂大兄皇子自身、父武王と上宮法王の皇統である宝妃との政略結婚で生まれた存在だったが、

 

それだけに、そのようなやり方が逆に許せない。

 

この乱世では、名目的な王でなければ除かれるものであったが、蘇我入鹿と母の醜聞以来、傀儡となる「女王」という存在自体を取り分け憎むようになっていた。

 

那珂大兄皇子のその様な憎しみを余所に

 

 

、、翌年、

 

間人は即位し【那珂津女王】となる。

 

最も在位が短い王である。

 

 

 

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那珂大兄皇子が去った後、間人は

 

一人、物思いにふけっていた。

 

宮の外に目をやり、庭地に輝く木漏れ日をのんびりと眺めていた。

 

庭地を包む曲水の水面が、陽の光を映しキラキラと輝いている。

 

間人皇女は『中宮』と呼ばれるこの宮の眺めを気にいっていて、時おり風が揺らす木漏れ日を刻の忘れるほどに眺めていると、心が静まり

 

心深くで落ち着いて物を考えることができた。

 

 

(実の兄妹で妻になれとは、、、例え大兄の王位を守る為に妻になったとて、それで血統を残す事など出来るだろうか、、)

 

兄の妻にならずとも王女である以上は、誰と結ぶかに自由が許されている訳ではなく慎重にいかねばならない。

 

 

父・武王も母・斉明天皇も二人とも親唐派であり、反唐派との政争によって命をおとしている。

 

間人皇女は、両親ほどに親唐に命をかける気もなく、

 

かといって反唐を貫き通すという気概がある訳でもない。

 

しかし、

 

王の血統を継ぐ者として、

 

その血を子々孫々に繋いでいく事、

 

ただその一点において、どちら側と結ぶかは考えなければならなかった。

 

「ただ、王位を望んでばかりの大兄さまでは、、、」

 

歌でも詠みたくなる様な刹那さで、

 

言葉を切って、また考えていた。

 

 

生まれ育ちが百済である間人皇女は、子供の頃からずっと那珂大兄皇子のことを『大兄』と呼んでいた。

 

大兄(おおえ)の王子とは、百済で言う皇太子の事であり和国古来の言い様ではない。

 

百済皇太子として育ってきた那珂大兄皇子は、 

王位を継ぐという自負心が強く執着が無くならない。

 

那珂大兄皇子の如く野心を持たない間人皇女は、

 

より冷静に時勢をみている。

 

間人には怨みも怒りも野望もなく、

慈悲にも似た、悲しみの向こうの果てにまで心が漂いついていた。

 

ウィジャ王に父・武王が殺されてしまい、一夜にして百済の王宮暮らしから追われ、母子共々島流しになり、

 

島抜けして和国に逃げれば、和国もウィジャ王の国となってしまい、

父を殺したそのウィジャ王の妻となり、その後はウィジャ王の息子・孝徳王の妻となったのだ。

 

王女として数奇な運命を生きる間人の前を、父・武王、山背王、古人王、ウィジャ王、孝徳王、母・斉明女王、

数々の王達は過ぎていった。

 

『反唐』という時勢の前では王位は儚いものということを充分知っている。

 

虚空にいる仏のように、

淡々と、覚めた心でこの後を考えていた。

 

 

王位につくというよりも、

 

「王統を残すにはどうしたら良いか?」だけをただ淡々と考え、呟いている。

 

(大海人の子を産むか、、)

 

(大兄の子を産むか、、)

 

 

「遠い唐国が、吾らが王統の助けとなるとも思えず、新羅の様に利用されるだけか、廃絶される。

 

反唐派の大海人は私の血統を利用しようとしてるほどの、稀代の実力者である。

吾が妻(夫)となりて和王を名乗るのならば、何が何でも私と生まれてくる子も奉戴し続けなければならない。そして、大海人が鏡に産ませた子・金法敏は現に新羅王になっている。

 

大兄、那珂大兄皇子は、血統で傅かれることはあっても実力は伴わない。

 

非常の手段で、山背王、古人王、を取り除き、有馬王子を処刑し、孝徳王を廃したにも関わらず、名ばかりの皇太子のままで結局一度も王になったことがない。

 

今、和国や百済で那珂大兄皇子を祭り上げている者達は、亡命百済人と空手形に飛びついてる者が多く、利用価値が無くなれば離散するか、悪くすれば廃位される可能性もある、、」

 

那珂大兄皇子は、ただただ自分が王位につくことだけを望んでいるが、

 

間人は、自分が女帝となることよりもその先に自分が産んだ子が王位につくことを望んでいる。

 

権力志向はなく、血統保存の為に権力者と結ぶのが王女達の在り様だ。

 

 

 

 

(生まれながらの皇太子で王位しか眼中にない大兄さまには分からぬであろうが、、

 

時勢の前では、私の血統を残そうとの思いが強い反唐の実力者の大海人こそが、

最適な相手なのだ、、

 

そもそも和国の王女達は代々その様にして実力者を入婿として迎えて血統を継いできたのだし、

新羅の血統聖母たちも皆そうして神統を次世代に繋いできたからこそ、今でも『神国』を名乗っているのだろう、、いつの時代どこの国でも王の血統を強く残そうとするのは、王の血統がない実力者と王女達なのだ)

 

大海人には那珂大兄皇子の義妹・額田文姫が

いたからこそ、皇太子弟『大海人皇子』を名乗っていた。

 

間人が女王になり、その夫『王』を名乗るならば、第一夫人にせねばならない。

 

 

 

 

 

 

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あかねさす

 

「叶わねばこそ、、」

 

間人は、歌にもならぬ言葉を呟き、

 

共に育ってきた兄への思いを断ち切り、

 

大海人皇子を夫としその子を産む覚悟をした。

 

子宮で感じること、頭で考えることが

胸中で重なり胸の奥で一致し、

 

それが塊となってストンと胸から腹に下がって、

 

文字通り『腑に落ちこみ』迷いはなくなった。

 

 

(大海人の子を産もう)

 

那珂大兄皇子の脅しの言葉も今は響かない。

 

 

 

王女に生まれた以上、自由な恋愛は許される事ではなかったが、

 

幸いな事に間人皇女はイリのことが好きだった。

 

 

 

「君が代もわが代も知るや、磐しろの

 岡の草根を、いざ結びてな」

 

(万葉集Ⅰ 間人皇女)

 

※わが代=私が王になっても

※草根をいざ結び=イリとの関係を結ぶ

 

歌は、人の心、特に恋心を謳い、自然の美しきを纏い、世上を表す。短い言葉に全てをこめて歌うほど、想いの深さが伝わった。

 

 

 

【白村江の戦い 玉砕戦】

 

和国水軍は、

 

まだ周留城に扶余豐章王がいるものと信じていて、周留城に対峙している唐軍陸軍と合流させぬ為にも唐水軍の上陸を食い止め様としていた。

 

唐軍と和国軍で戦っている者の多くは、中国人でも和人でもなく、両軍ともに徴兵された他民族の粛真(ミツハセ)がいた。

 

粛真は狩猟民族で、アジア大陸北東に住む粛真を靺鞨族といい、日本列島の東北に住む粛真は蝦夷族と呼ばれた。

 

高句麗は、唐の度重なる侵攻により北部を切り崩されてしまい、アジア北東にいた粛真・靺鞨族に対する徴兵圏を奪われてしまっていた。

180以上あった城も、三分の一近く失っている。

 

唐軍は、多国の傭兵らと共に多くの靺鞨族を引き連れてきている。

 

和国水軍も、和人だけでなはく、

 

高句麗兵

粛真(靺鞨族・蝦夷族)

和人からなる混成軍だった。

 

基本編成は、

 

最も戦慣れしている高句麗の将校が指揮官となり、

 

狩猟民族で弓矢の扱いに慣れている粛真が弓兵となり、

 

操船、特に対馬海峡の航行に慣れている和国の海神族安曇氏や航海の大族壱岐氏などが船頭となって、

 

弓矢も操船にも慣れていない和人達は漕ぎ手となり、

 

一隻に約二十人が乗り込んだ。

 

 

小さいながらも百済の造船技術を取り入れた半構造船で、船足は早い。

 

しかし、言葉の違う乗り組み員同士であり、通訳の通訳、重訳を必要とする船も数々あった。

 

粛真(ミツハセ)の言葉を少し聞いただけでは、鳥が鳴くようで何を話してるかが分からないし、

 

将の指令を理解しているのかも分からない。

 

通訳を介する言葉の伝達の遅さは、唯一の利点である和国船の船足の速さを相殺した。

 

船足の早い船もあったが、逃げ場の無い入江で和国の船隊は徹底的に破壊され、江は和兵の血で赤く染まり辺り一帯は炎上している和船の煙でもうもうとしていた。

 

1000隻の和船のうち半数近くは海に沈み、

 

黒煙が煙幕の様に辺りの視界を遮ってしまい、唐軍船も航行不能となった為、

 

一時戦は止んでいた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

唐水軍は本格的な上陸戦の準備の為、船団の配置換えをはじめ、

 

和国軍は絶望的な状況の中、4度目の戦の軍議をしていた。

 

「周留城を囲んでいた唐陸軍も、やがて駆けつけるであろう。吾らは上陸を阻むどころか挟撃され全滅してしまう、、。」

 

前軍の将軍は絶望的な戦況を呟き、

 

「絶対絶命ではないか、、」

 

と、中軍の将軍が続けた

 

「、、、」

 

後軍の阿部比羅夫将軍は、目を閉じたまま眉間にしわを寄せ暫く押し黙っていたが、

 

風で少し船が揺れ、何かがコトリと倒れた瞬間

 

カッと、目を見開き沈黙を割った。

 

「もう船もあまり残っておらぬ、、おそらくこれが最後の戦になるだろう

吾らが後軍は、上陸し唐陸軍を敵中突破し周留城に立て籠もる扶余豐章王のもとに向かう!

 

そして船が残ってるうちに

 

前軍中軍は、唐水軍を突破し和国へ逃げよ、、

何れにしろこのままでは絶対絶命。

 

ならば僅かでも可能性の残る方にかけるべきだ。」

 

 

「吾らが水軍を突破して和国へ逃げてしまえば、上陸した阿部将軍の陸軍は難儀で御座らぬか?」

 

逃げるという言葉に『生き残る』という希望を感じてしまった将軍が、気まずそうに尋ねる。

 

「うむ。玉砕戦に近い!しかし、行軍を共にしたとて焼け石に水、目の前の唐軍本隊を突破するのは至難の技だ。吾は以前にも高句麗に兵を率いて唐軍陸軍とは何度か鉾を交えてるので、お主らより幾ばくかは戦い方も分かっている。

 

それよりも、水軍へ向かい突破して貰えればそれだけでも唐軍水軍を足止めする時間稼ぎになり、吾らもその隙に上陸できる。」

 

「なるほどのう、、」

 

二人の将軍は合点した。

 

「ただし!進退両難の地獄だ。恐らく唐軍船は船を廻して一列に並び、吾らが抜けられぬ様に包囲するであろう。それが幾重にも覆われこちらを殲滅せんと待ち構えている中を突破するのだ、、

 

個々に向かえば、一隻づつ徹底的に破壊される。

 

必ず全軍で一斉に向かうのだ!

 

一斉に向かえば何隻かは生き延びるかもしれぬ、、

逃げると言っても敵中突破できなければ、玉砕戦ともなる戦。心して征かれよ。」

 

「うむ」

 

 

(和国軍は全滅するやもしれぬ。だがお主らだけは生きて和地へ戻られよ、、和国兵の大勢の命が散り、屍となり、率いた大将として吾だけ生き延びようなどと思わぬ。吾はこの地で和国兵らと共に逝く)

阿部比羅夫将軍は、唇を噛み締め自分に言い聞かせ叫んだ、

 

 

「突破さえできれは水軍は追撃はしてこないだろう。奴らも上陸して周留城へ向かうのが目的だからな、、生きていれば再びまみえようぞ!」

 

「オウ!」

 

三人は立ち上がり、剣を鞘ごと抜き目の前に翳すと、環頭大刀の柄の環の部分を

 

カキンッ

 

と、打ち合わせそれぞれの旗艦へと戻っていった。

 

水軍陸軍とも絶望的な敵中突破が始まる。

 

刻を置かず直ぐに

 

唐水軍は船団の配置換えを終え、上陸戦は開始された。

 

唐軍水軍は横一線に並び、和国水軍が突破する空きもない程の重配置の威容で臨んできた。

 

和国水軍から見ると、水上に浮かぶ巨大な要塞の様に見える。

 

この要塞に向かい和国水軍は船を漕ぎ出した。

 

皆この要塞を前にして、

 

怯む、、という程の正気の内の意識は一気に失われてしまった。

 

既に命が散り散りとなり、この場に溶けてしまった様に、悟りにも似た狂気の意識が、集団意識になって、一瞬で日常的に感じていた意識はどこかに消えてしまった。

 

もはや正気の者はいない。

 

この異常者集団の意識につき動かされる様に

 

無意識に

 

指揮官は舳先に立って剣を唐船団に向けて

 

「突破ー!生きて和国へ戻れ!!」

 

と、大声で叫んだ。

 

指揮官の声も虚しくそう叫び終えた刹那、

 

連弩の矢の雨を浴びてしまい、血しぶきを上げながら指揮官は海中へと消えていった。

 

高い甲板から打ち降ろしてくる連弩の矢は、和国水軍の矢の射程より遙か遠くから飛んでくる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

夏の午後、熱せられた海上の空気は緩やかに陸地へ向かい吹きはじめる。

 

風向きに合わせ高い甲板から打ち降ろされる連弩の矢は、追い風に乗ると更に射程距離を伸ばし、和国水軍が近づく前に船上の兵士をばたばたと倒した。

 

連弩の雨を突破し、近づいた和国水軍を待ち受けるのは火矢である。

 

ここで、多くの和国船は炎上し沈んでいった。

 

 

 

和船が燃え、もうもうと吹き上げる黒煙によって視界が遮られ一刻、また上陸船団は足止めされた。

 

暫し和国水軍に立て直しの刻が与えられた。

 

しかし、前回の様に引き返して体制を立て直しすることはない。海に飛びこんだ味方の兵士を救出しながら、煙に隠れて唐軍船団への距離を詰めた。

 

和国水軍はこの距離を突破すれば、唐軍船団にも延焼の恐れがある為、火矢は使われなくなる。

 

火矢の後は、連弩の雨の様に横に広がる矢ぶすまではななく、正確に弓矢の矢で兵士1人ひとりを次々と唐軍兵の射手達が狙い撃ちしてくる。

 

突破するには、この縦一線の連続射撃をかわし続けなければならない。

 

この縦一線の弓矢を躱し、唐船と唐船の間を抜け突破する。

 

船のほとんどは帆も舵も既に焼け落ち、修理する暇もなく、残された櫂だけで操舵も行わなければならず皆、心臓が破裂するほどに必死に漕いだ。

 

唐船は船内の漕手の狙い撃ちもしてくるので、

 

舷側に座る漕手を射殺されると、

 

矢を受け倒れた仲間やまだ蠢いている仲間をそのまま足蹴に、奥の漕手から順に舷側につき直し、血のりですべる櫂を握りしめまた必死に漕ぐ。

 

血と汗の蒸気で船底は滾っていて、その中で意識は朦朧としながらも、身体だけは何かの一部となった様に全身全力で漕ぎ続けている。

 

 

左右の漕ぎ違えは生死を分ける、、

 

御頭の合図に右左前後と、仲間を足元から運び出す間もない為、倒れた仲間が重なり合う中を這う様に急ぎ櫂座を移り漕いでいく。

 

唐船の間を抜ける時は左右の唐船から次々と矢を受ける事になり、加えて岩石の投擲が間断なく船板を襲い、少しでも船足が落ちればあっという間に沈めれてしまう。

 

隣の唐船との距離が広く離れている隙間を見つけ、その間を抜け様と周りこんだ船は、逆に唐船からも周りこまれ加速の乗った体当たりを受けて、一瞬で木端微塵になった船もあった。

 

そして、

 

なんとか無事にこれを抜ければ、抜けたところに次の包囲が同じ様に待ち構えていて、またこれを突破しなければならない。。

 

次の包囲に向かう間中、突破した後の船団から連弩の矢の雨を受け、これから突破する前の船団からも連弩の矢を浴びる。

 

唐船団は見事な距離に配置され、編隊を保っている。

 

 

この包囲が延々と、幾重にも続き、

 

 

和国水軍はついに壊滅してしまった。

 

沈没を免れた大将艦や旗艦の何艘かは、将軍と僅かな兵士を乗せ和国に帰国した。

 

上陸した和国陸軍は、

 

阿部比羅夫将軍に率いられ、

 

雲霞の如く覆う唐軍陸軍の中に消えていった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

扶余豐章王に置きざりにされながらも、

 

周留城の将軍らは残された王子らを守り必死で抵抗を続けていたが、

 

衆寡敵せず

 

9月7日、

 

ついに周留城は陥落した。

 

 

戦争は終わり、百済は滅亡した。

 

和国軍はほぼ全滅状態だったが、唐軍の捕虜となり唐に連行された者もいた。

 

この時、新羅軍に捕らわれた捕虜たちと周留城にいた和国兵らだけが、新羅文武王により

 

 

「忍びない」と、釈放され生き帰ることが出来た。

 

阿部比羅夫将軍は、最後まで戦い帰らぬ人となった。

 

扶余豊章王が周留城にいると信じ、矢が尽き剣が折れるまで戦った。

 

 

阿部比羅夫は、流石にイリ(大海人皇子)と共に戦い続けてきただけあり、

その意図を聞かずとも自然と通じるものがあった。

 

和国軍を一斉突撃させ唐軍を撹乱させた先に、

 

高句麗軍と反旗を飜えした新羅軍に唐軍が挟撃され、逃げまどう唐軍兵を周留城の百済軍が殲滅する、、!その四国一斉攻撃の完全なる勝利を瞼の奥にしっかりと見て、

 

剣戟と叫びの中で大地に倒れ瞑目した。

 

 

阿部比羅夫という壮(おとこ)は、

 

野心家・高向玄里という父を同じくするイリの義兄弟として生まれ、和国におけるイリの片腕となって共に戦い続けたてきた。

 

身ひとつしかないイリも、朝鮮半島と日本列島を行き来する不便を補う為に、阿部比羅夫をまるで自分の分身の如く使っていた。

 

イリに仕え、二人目のイリとなり、和韓の土着の者共が見ることもできぬ壮大な世界を共に夢見て乱世を生きた『阿部比羅夫』は、

 

最後まで、イリが描いた一斉攻撃の中に生きて剣を振るったのだ。

 

イリに命令された訳ではないが、

『二人目のイリ』である阿部比羅夫は充分すぎるほどイリの心のうちが分かっていた。

 

阿部比羅夫が【和国軍】を率い

イリが【高句麗軍】を出兵させ

文武王が【新羅軍】を反唐に転じさせ

扶余豊章の【百済軍】が討って出る

 

この反唐の一斉攻撃を始動させるには、先陣たる自分の戦い方に全てがかかっている事を知っていて、

 

無謀とも思える戦いを

 

文字通り『全身全霊』で戦い、

 

散っていった。

 

 

 

 

安曇比羅夫の船もこの阿鼻叫喚の敵中突破を生き延びたが、和国へは帰国せず行方がしれなくなってしまった。

 

蝦夷族ならずとも、この様な『戦』の世界から離れようとするのは至極なことである。

 

安曇比羅夫も、

 

この無意味で壮絶な戦についに根が尽き

 

(海神様の加護を受け、よもや北の海原を渡るしかない、、)

 

と、蝦夷族らと志を同じにした。

 

和地を離れたいと望む酋長らの懇願を聞き入れ、

蝦夷族を率いてこっそりと裏日本の陸奥に向かっていた。

 

そして、家族を乗せ、残りたい者、行く者達に別れ、海流に乗ってアリューシャン列島を超えアラスカを目指すことになっていた。

 

安曇比羅夫は流石に海神族の末裔だけあった。

 

彼らの航海は成功し、やがて大陸の大地を踏んだ。

 

そして更にアメリカ大陸を南下し、

 

ネイティブアメリカンの

 

『ズニ族』の祖になったという、、

 

 

【挿絵表示】

 

ズニ族 紋章

 

 

 




【後書き】

ズニ族とは

【挿絵表示】


ズニ族はアメリカ大陸のネイティブアメリカン。
ニューメキシコの部族で、日本人との共通点が多いため
巷では、「ズニ族の起源は日本人では?」と
云われていて日本人説の書籍も沢山出てます。

北米アメリカンに無い血液型B 型が多く、他のネイティブアメリカンの部族とは習俗や文化が異なっていて言葉も日本に似ています。


〜アジア最古の文明シュメール

シュメール語とヘブライ語は日本語と共通する特徴が多く、日本語の起源とも考えられている。
日本語はアルタイ語系のアジア言語属性で、何れにしろ【アジア】の由緒正しい言葉の様だ。

しかし、ズニ族はアメリカ大陸の部族であるにも関わらず、日本語との共通点が多い、、

(漢字がないのに漢字読み )


日本語→ズニ語

皿=サラ
葉=ハ
背=シ
烏=カラシ
雨=アミ
怒=イカティ
雀=スズア


日本の先住者縄文人と蝦夷族に関わりのある、
東北や沖縄の発音にやや通じるものがあります。

(蝦夷族は安曇=アズミと発音する時に「ア」を短く発音し「ズミ」と吐き出すのでアズミ→ズニへ転訛したと思われます)

学説だと室町時代に日本から大陸に渡ったという説らしいですが、、 

この小説では、安曇氏がズニ族の祖というマイノリティ説で書いています。





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