和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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662年
大海人皇子は、間人皇女を次期「那珂津女王」として称制を敷き(王に即位しないまま政務を摂る)勅を取り百済の那珂津へ渡って、扶余豊章を百済王に冊立した。百済の熊津城に取り残されていた唐軍には撤退命令が届いたが守将の劉仁軌将軍は是を受けず、逆に百済側が油断しきっているのを見てとり急襲して鬼室福信軍を破った。

第1話 壮士は三箭で天山を定め漢関に入る
第2話 百済王【扶余豊章】冊立
第3話 鬼室福信将軍の敗北
第4話 暗愚の百済王豊章



第19章【百済王】扶余豊章冊立

【壮士は三箭で天山を定め漢関に入る】

 

662年2月、アジア北西

 

 

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西突厥の突厥九部族が唐に反旗を翻し十余万の兵で唐に迫ってきた。

 

西突厥は、最後まで唐に抵抗していたガロが征圧さればらばらになり表むきは唐に帰順していた。

 

九部族が連合して蜂起したのは、アジア北東の唐高句麗戦に呼応してのことである。

 

唐軍を叩くのは今こそと、西突厥勢の気焔は激しい。

 

唐のソル・イングイ将軍が軍を率いて是に対峙したところ、突厥の軍最強の豪傑ら精鋭兵士らが陣営より出で、唐軍に対し腕試しを挑んできた。

 

「誰でも良い!吾らが恐ろしくなければ唐軍最強の壮士を出してみよ!!」と脅し、

 

唐軍の勇者が出てくるのを待っている。

 

 

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当然、弓矢の届く距離ではなかったが、ソル・イングイ将軍は、猛る彼らに対し無言で三矢を放って、立て続けに三人を射殺してみせた。

 

突厥軍九部族らは驚き息をのみ、一気に静まりかえる。

 

軍きっての猛者達が刃を交える間もなく瞬殺されたことにより、突厥軍の気焔は急速に萎えた。先ほどの強気が嘘のようである。

 

ソル・イングイ将軍は、すかさず戦意喪失した機を見ると、突厥軍に対し降伏するよう説得を始めた。

 

 

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ソル・イングイ将軍

 

「突厥軍は唐と高句麗の戦に呼応し兵を起こしたのだろうが、無謀な戦いは止め戟を納めよ!唐軍には吾の如き強弓の射手は山の如くいる。」

 

「唐国は、もはや遼東と平壌を分断し黄海を制し、戦艦で直に王都平壌城を攻め込む様になったのだ。同盟国が是ほど引き負けているのに、汝らは何故出ようとする!?今迄どおり皇帝陛下に従っておれば射殺された将軍らのように命を無駄にすることはない!」

 

西突厥の突厥九部族らはソル・イングイ将軍に利非を説かれるうちに、唐軍に逆らう非を受け入れて降伏した。

 

しかし、ソル・イングイ将軍は彼らを降伏させながらも尚、考えた。

 

「西の突厥は、またいつ叛くか分からぬ、、、」

 

後の患いとなることを憂慮して、突厥の降兵をことごとく穴埋めにしてしまった。

 

ソル・イングイ将軍は漢民族ではなく元は同じ遊牧民族の出自であった為、西突厥の突厥九部族らもソル・イングイ将軍にその後の身の処し方を見い出して従った者もいたが、彼らを全て騙し討ちしたかたちとなった。

 

結果的には、ソル・イングイ将軍が矢を三回射っただけで十余万の軍を全滅させたのだ。

 

唐に凱旋帰国するの軍中では、

 

「ソル・イングイ将軍は矢三箭で天山を定め、壮士は長歌して漢関に入る」

 

と、戦功が歌われていた。

 

 

【百済王 扶余豊章冊立】

西方での争乱はソル・イングイ将軍によって鎮められたが、高句麗戦で蘇定方らが完敗し撤退した後、百済の劉仁願、劉仁軌らは拠点を熊津城へ移して屯営したまま孤軍奮闘していた。

 

 

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唐軍守将「劉仁願」

 

 

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援軍指揮官「劉仁軌」

 

屯営、というより城に封じ込められている状況に変わりはなく、援軍を率いてきた劉仁軌により城周辺だけは蹴散らされたが、もはや敵国の百済の中に取り残されたような唐軍である。

 

 

662年5月、

 

唐軍を熊津城に封じ込めたまま、百済で王が立った。

 

 

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百済王 扶余豊章

 

 

 

イリは、那珂大兄皇子の妹の間人皇女を次期『那珂津女王』と呼び和国に称制を敷き、その間人皇女の称制(即位せず政務を執る)によって扶余豊章を百済王に冊立する『勅書』を出させた。

 

 

 

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間人皇女(後の『那珂津女王』)

 

 

※王に即位しないまま政務を執ること

 

 

 

イリは代理となってその勅を携え、阿曇比羅夫ら側近を伴い170隻の船を率いて和国から百済周留城へ戻ってきた。

 

 

 

実は扶余豊章は一度は百済に渡ったものの、武王派の鬼室福信将軍と相容れずに再び和国へと逆戻りしていたのだが、今度はイリと勅による強力な後ろ盾で鬼室福信将軍を捻じ伏せる為に渡ってきた。

 

 

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鬼室福信

 

 

百済側にしてみれば、和国からの援軍は必要である。

 

しかし、和国が援軍を送り後ろ盾となる以上は和国が上国であり百済側は服属国であるという立場関係は鮮明にしておかなければならない。

 

その為の和国による百済王冊立であり、和国に馴染みの深い扶余豊章の擁立である。

 

 

イリと阿曇比羅夫ら和国の将は、扶余豊章を囲み威風堂々と宮中を渡り、大錦を纏い殿上する姿はいささかたりとも王の威厳を損なうものではない。

 

イリの怪偉な容貌から放たれる豪壮な気が辺りを包み、

 

 

その中心を行く扶余豊章でさえ

 

「昔日のウィジャ王か、、」と見粉うほどであり

 

百済側は皆、その偉容に圧倒された。

 

百済の王都サビ城を唐百済に奪われてかられて、約2年が経つ。

 

和国から携えてきた、眩いばかりの王家の調度品や神器、財宝のひとつひとつが、

 

「かつての王宮はこうだった」と、

 

 

忘れかけていた昔日の百済王家を思い出させられ、

 

ずっと戦いに明けくれていた百済人達の心を揺さぶった。

 

王都を奪われ疲弊している百済復興軍の出立ちの中では、こうした王宮の綺羅びやかさは無縁となっていた為、和国からの一行はより一層輝かしく映っていた。

 

イリが手にしている勅は純金製の札である。

 

 

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居並ぶ百済の諸士らをイリは眼光鋭い目で睥睨し、和国からの勅を読み上げた。

 

「、、此のこと、、扶余豊章に勅し、、

 

百済王たり、、、」

 

深く力のあるイリの声で、朗々と読み上げられる勅が響き渡るにつれ、居並ぶ諸士たちは皆、落涙しはじめた。

 

イリは読み終えると大きく眼を見開き

 

「慎んで受け賜れい!!」

 

と、大喝した。

 

もはや、ここに至って鬼室福信をはじめ百済側で異を唱える者はなく、

 

和国からの援軍と共にその冊立を皆喜んで受け入れた。

 

イリは次期「那珂津女王」の代理として、

 

ここで正式に扶余豊璋を

 

「百済王」に冊命した。

 

 

鬼室福信将軍には詔勅の書かれた金の札を賜り、その背中を撫ぜる。

 

百済の残党達は、百済に王が立ったことを喜び

 

皆この光景に、涙を流していた。

 

百済復興軍ではなく、王が立った以上百済軍である。

 

「今こそ劉仁軌、劉仁願ら唐賊を驅逐する時ぞ!」

 

百済王豊章は和国軍、百済軍の前で宣した。

 

 

今、扶余豊章を百済王に冊立し、そして和国には王を置かないまま間人皇女の称制で実権を握ったイリは那珂大兄王子の即位を徹底的なほど阻止していたが、那珂大兄皇子側である百済の鬼室福信将軍は表面上は扶余豊章と和合していたが、内心では王位から取り除く機会をまだ狙っていた。

 

一方、百済王となった豊章もまた、戦で鬼室福信が勝手に兵を動かしたことに怒り、これを咎めた為に二人の間には大きな亀裂が入っていて早くも百済は分裂の兆しが見えていた。

 

 

 

【鬼室福信将軍の敗北】

 

7月になり唐の高宗皇帝は、

 

成す術もなく取り残されたまま、百済の熊津城でずっと籠城している唐軍の劉仁願、劉仁軌らに対し撤退を下した。

 

 

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高宗皇帝

 

 

「平壌の唐軍は撤退した。百済の一城では弱い。将軍らは宜しく百済から撤退して新羅へ行け。もしも金法敏が卿等の力を借り留まって鎮守できるとゆうのなら、彼の元へ留まれ。だが、もしもそれができなければ海路から唐へ帰国せよ。」 と、

 

唐軍の撤退の敕書を送ってきた。

 

先行きがしれない封じ込めに疲れた唐軍の兵たちは、この撤退命令に

 

「やっと西へ帰れる」、、

 

と、誰もが安堵した。

 

だが、

 

劉仁軌は安堵する将校らに向かってこう言った。

 

 

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「臣が公家の利益の為に働くのだ。死ぬことはあっても二心を持って生きることはない!どうして帰りたいなどという私欲を先に持つことができようか!」

 

、、、

 

「皇帝陛下は高句麗を滅ぼしたがっておられるのだ。

 

だからこそ先に百済を誅し、吾らがここを守っている。

 

熊津城は敵兵に囲まれ敵の守りは固いが、

 

今は、兵を練り馬へ馬草をたっぷり与えておき、

 

不意討ちを掛ければ必ず勝てる。

 

勝った後にこそ士卒の心を安堵させるもので、西へ撤退するということではない!

 

今は、不意討ちをかけ反唐軍を突破して援軍を求めるのだ。

 

朝廷がこちらの突破の成功を知れば、必ず呼応して将へ援軍出陣を命じる。

 

そして、吾らは百済側が自ら瓦解する時を待つのだ。

 

是は、吾らの手柄とか成功の為だけのことではない!

 

久しく東アジアの海表を鎮めることなのだ。」

 

 

劉仁軌の大声に皆、鎮まりかえっている。

 

 

「平壌の唐軍は既に撤退した。今、吾らがいる百済の熊津まで撤退したら奴らはすぐにでも再興する。

 

そうならば、いつになったら高句麗を滅ぼせるのだ!

 

ましてや、吾らは一城で敵地のまっただ中に居る。

 

全軍撤退などできる状態ではない。下手に動いたらすぐに捕らえられてしまうぞ。

 

城をでてからそれを悔いても及ばないぞ。」

 

 

将校らに安堵の表情は失せ顔色を変えていた。

 

 

「しかし、! 百済の鬼室福信将軍は凶悖して残虐な将軍だ。百済王は鬼室福信将軍を猜疑し警戒している。必ずや両者はぶつかり近いうちに内乱は起こる。吾らはその時までここを堅守してその隙をつくのだ。

今は決して城から動いてはならない!!」

 

 

唐軍の将兵達は、西へ帰る私心を捨て覚悟を決めた。

 

丁度この後、

 

百済王豊章と鬼室福信将軍らは、撤退命令が来ても動けぬまま孤城無援でいる唐軍をからかい、熊津城にいる劉仁願に使者を派遣してきた。

 

 

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唐軍守将 劉仁願

 

百済王に立ち、和国援軍への期待もあり、二人共に勝気に傲っていた。

 

百済側の使者の口上は

 

「さて、大使等はいつ西へお帰りになられるのでしょうか?西へ帰る元気がないのなら、吾らがお送りして差し上げましょう。」

 

という、唐軍を嘲け笑ったものだった。

 

この嘲笑に、熊津城の将、劉仁願、劉仁軌らは怒りよりも喜びを見出だした。

 

「吾らは百済復興軍に包囲されて久しく新羅からの援軍も及ばぬ。是ほどまで奴らが蔑むのは、吾らにはもう戦意がないと油断しているからであろうな、、」と、

 

百済軍側が油断しきっていて大した備えがないことを見てとり、

 

劉仁軌らは突如出撃した。

 

熊津城の東に出て、鬼室福信軍を破り

 

支羅城、尹城を落とし、大山柵、沙井柵などを一気に抜いて百済軍を叩きのめした。

 

 

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鬼室福信将軍は突然の唐軍の反撃に驚き、右往左往しながらろくに刃も合わせぬまま敗走した。

 

そして要害である眞見城に落ちのびて、そこを拠点として兵を増員して立て籠もった。

 

 

 

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鬼室福信

 

しかし、劉仁軌は迂闊に兵を動かすことはせずこれには固く対峙し、決して真正面から攻めようとはしなかった。

 

敵の志気が緩むのを待って、密かに新羅側から来た援兵を率いて深夜、城下へ潜入し城壁をよじ登り、明け方には城内に潜入して800人を斬首し眞見城を落とした。

 

これによって、遂に新羅から熊津への糧道が確保された。 

 

そして、唐本国へ援軍を求める急使が錦江より海を渡った。

 

劉仁軌の言葉どおり、この戦勝を唐国へ報告し援軍を奏願したところ、高宗皇帝は歓喜した。

 

すぐさま撤退命令を取り消し、シ、青、莱、海軍兵七千人を百済の熊津へ向け出兵させた。

 

 

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【暗愚の百済王豊章】

百済王となったものの、扶余豊章は賢明な主君ではなく王としての資質に欠けていた。

 

 

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百済王 扶余豊章

 

 

 

何事もなく和国で安穏とした平和な日々をおくってきたため戦というものを全く知らない。

 

扶余豊章は、兵士と共に前線に立つ事など思いもよらず、王として傅かれ宮殿で勅令を下すだけの王制を思い浮かべてきていた。

 

それだけに篭城戦という緊迫した戦場での暮らしは到底耐えられるものではなかった。

 

 

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『戦』に恐怖を感じていた。

 

また、和国に人質として送られたこと自体がそもそも百済国内での政争に敗れた結果であると、百済軍の将軍たちのなかにも扶余豊章に対する侮りもあり、扶余豊章自身にも引け目意識があった為に虚勢を張っていて、王位についた後の百済は巧く機能しなかった。

 

 

12月、

 

(ここは王都ではない、、)

 

扶余豊章は百済の王になれると思い和国から来たものの、待っていたのはいつ終わるとも分からない籠城暮らしだった。

 

百済王豊章は険峻な周留城を嫌って、あろう事か平坦で景色の良い避城への移動を望んだ。

 

「周留城は土地がやせているため、兵糧が尽きてしまう心配がある。避城は西北に川あり、東南には堤があり、田畑に囲まれ作物に恵まれている。三韓の中でも素晴らしい所だ。衣食の源があれば天地に近いところである。地形が低かろうが都を遷す。」

 

勝敗や戦局よりも、自分が周留城を離脱する事しか頭にない。

 

戦になれば、田畑は荒らされ衣食の源どころか焦土にもなりかねない。

 

戦時とは思えない非常識さに、黒歯常之や鬼室福信将軍は不快感をあらわにし、和国から援軍に来ていた軍事顧問の秦田来津将軍(秦河勝の子)は、

 

「避城は敵に近く、防ぐ城壁とてない平城。兵数に劣る百済軍には勝ち目がないことは明らか!今、百済軍の防衛拠点である周留城を離れ新羅に近い避城に遷るなど考えられません!」

 

と、猛反対した。

 

秦田来津は父・秦河勝が上宮法王に仕えた如く、上宮法王の血筋である那珂大兄皇子に仕えていた生粋の那珂大兄皇子派であった。

 

黒歯常之ら百済の将軍も反対したが、

 

鬼室福信将軍だけは、那珂大兄皇子派であったにも関わらず何故かそれらに同調しなかった。

 

鬼室福信将軍は自尊心が強い。

 

百済王豊章に

 

「勝手に兵を動かさざること」等と、

 

咎められた事が許せなかった。

 

自らが大将軍として統帥権を振るうため、百済王豊章に口出しなどさせぬか、いっそ口を封じるかというほど程の怒りを持っていた。

 

この男も勝敗よりも、兵権に対する自負心が強く我欲で動く。

 

その為、皆が反対するのを見てとり

 

(これは、扶余豊章が王として失脚する機会を得た)と、ほくそ笑み

 

わざと王を慮る態度をとって避城への移動を容認させたのだ。

 

気忙しく直情的ないかにも鬼室福信らしい浅慮だが、

 

それにより百済王豊章も俄然勢いづいてしまい、

 

避城への移動を強行してしまった。

 

防衛的な構造を持たせる思想の薄い避城へ遷った

結果、翌年早々に新羅側からの侵略を受けることとなり、百済王豊章は戦えずに慌てて周留城へ撤退したため、少なからぬ貴重な兵を失ってしまい王としての信頼は失墜することになる。

 

「短才浅慮、とうてい天下の兵権を握り四海を治るに堪えられぬ」と、

 

百済王への侮蔑は炎上した。

 

 

その頃、

 

唐では高句麗・百済討伐の詔が降りていた。

 

唐の高宗皇帝は、泰山で封禅の儀を行うことになっていたが、河北の民は軍役で疲れきっていたので、泰山への東都御幸は共に中止とした。

 

民の兵役も

 

「次の戦こそ終結する時」と、

 

一気に攻め落とし東方の騒乱を平定るすつもりでいる。

 

 

 




あとがき、、

662年の1年分を書くのに1年近くかかってしまいました、、
後、40年以上書く予定なのに、このペースでいくと寿命が尽きるまでに書き終えるだろうか(*_*)

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