和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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661~662年
第1話 ヨン・ナムセンの完膚なき敗北
第2話 高句麗から和国へ
第3話 唐軍蘇定方の出征は敗北に
第4話 唐軍撤退と和国【那珂津皇】



第18章 唐高句麗戦【首都平壌決戦】

【ヨン・ナムセンの完膚なき敗北】

661年4月、

 

百済復興に援軍派兵させようと、イリが斉明女王を説得しに和国へ渡っていった頃、

 

唐軍35万が高句麗への出撃を開始した。

 

 

 

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総大将蘇定方が黄海を渡り海路で平壌へ向かい、

 

鉄勒族(突厥)から帰順してきた『鉄勒王子』(契必何力将軍)が陸路より遼東に向かった。

 

 

 

唐軍は、遼東側と首都平壌方面の軍を六軍に分けていたが唐軍主力は30万であり、対する平壌城は5万の守備兵で是を守らなけれければならなかった。

 

 

「吾が戻るまで城門を閉じ決して開けてはならぬ。討って出るな!固く籠城せよ。堅壁清野の構えで唐軍を迎える。5万の兵でも固く守りぬけさえすれば、唐軍は直ぐに食糧難に陥り寒さと飢えで自ら滅んでいくだろう。」

 

と、イリは守将の高将軍らにきつく言い渡していた。

 

屋敷に影役を一人置き、公には

 

「病気の為、伏せている」とし、まだ平壌城内にいることにして和国へ行っていた。

 

唐軍主力を率いる総大将の蘇定方は、黄海を渡りきると高句麗の貝江に上陸し、待ち受けていた高句麗軍と激突した。

 

唐の任雅相将軍の水軍と、上陸した蘇定方の偽兵により前衛の高句麗軍は突破されてしまった。

 

高句麗でのいくさは

 

「武力戦」の衝突というより、

 

「補給戦」の戦いである。

 

唐軍は大軍で攻め込む以上、滞陣する為の食糧と物質を補給し続けなければならず、

 

高句麗軍は食糧補給さえ断てば、唐軍は飢えに陥り退却せざるを得ない。

 

補給戦である事は、過去の対高句麗戦の失敗から充分それを学び得ていて、その上での戦術を用いる。

 

唐軍は、偽の食糧倉庫と偽の補給部隊を駆使した罠をしかけて高句麗軍を誘引し攻撃した。

 

 

唐水軍はそのまま大洞江より遡上し、蘇定方は首都平壌城に進撃していった。

 

途中、何度か局地的な戦闘があったが全て蘇定方が勝ち、高句麗軍は唐軍の進行を止めることは出来なかった。

 

 

「兵糧は持たすな」

 

というのがイリの下知であった。

 

唐軍に破れ食糧を渡す訳にはいかない。

 

進路を阻み時間を稼ぎ、敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦であり、いくさは、

 

「唐軍の鼻面を薙ぎ払う如く」

 

正面から当たらず予め撤退路に陣取りをした短期決戦で、側面からの波状攻撃をしかけた。

 

しかし、唐軍の押し出しは強い。

 

その上、逆に高句麗軍を誘引してから側面より奇襲をかけ高句麗軍を殲滅した。

 

兵力の多さだけでなく戦術・戦闘ともに蘇定方将軍は、高句麗軍を凌駕した。

 

(唐軍は早いくさをする)

 

と、高句麗の武将らは蘇定方の得意とする電光石火の進軍の速さに危機感を感じた。

 

「兵糧などあっても食べる間さえなかろう」

 

と呆れる者までいた。

 

しかし、高句麗の戦略は戦闘に勝つことではなく、進路を阻み時間を稼ぐことである。真っ向から勝負はせず時間を稼ぎ、糧道を断ち飢えと寒さで唐軍を弱らせる作戦である。

 

籠城一途に城を守り続ければ勝機は摑める。

 

 

 

661年8月、

 

遂に唐軍は首都平壌城に到達した。

 

 

一方、

 

遼東方面から攻め込んでくる唐陸軍に対して迎え討つのは、イリの長子ヨン・ナムセンが精兵約三万を率いりアムノッカン河(鴨緑江)を守っていた。

 

唐陸軍を率いるのは、李勣大将軍である。

 

「遂に高句麗を滅ぼす時がきた。」と

 

この度の平壌城攻めには、

 

唐軍の主だった名将は全て参戦していた。

 

(アムノッカン=鴨緑江、現在の北朝鮮と中国の国境の川。白頭山に源を発し黄海へ注ぐ)

 

 

息子ヨンナムセンに対するイリの信頼と期待は大きい。

 

イリは、和国皇太子弟の太海人皇子として和国でも権力の座を守らなければならず、この頃はヨンナムセンを大臣から高句麗の宰相に据え自分の後継者にし、高句麗を任せようとしていた。

 

かつてイリの父・高向玄里がイリを高句麗の大臣に据えて、自身は和国百済と唐の工作の為に渡り回っていた様に、今のイリは高句麗防衛の為にも息子に高句麗を任せ和国と百済を巡り介入しなければならない。

 

 

一方、弟のヨンナムゴンはこれを嫉んで兄の失脚を虎視眈々と狙っていた為、ヨンナムセンはなんとしても負けられない重圧を二重三重にも感じていた。

 

イリの長子ヨン・ナムセンは、遼東の靺鞨系の姫が母であり五大部族らは毛嫌いしていて、中央の王族の姫が母である弟のヨン・ナムゴンを支持していた為に、ヨン・ナムセンを蹴落とそうと戦の前から早くも躍起になっていた。

 

「ヨン・ナムセン様では、鴨緑江の唐軍を抑えるのは無理です。敗北は必至でしょう。熟練の将軍に交代させるべきです!」

 

「戦線より奥へ引いた所で陣を築いたそうではないですか!何とい情けない!こんな逃げ腰ではとても唐軍を迎え撃つことなど出来るはずがありません。腰抜けは軍に無用です!大臣も辞めさせるべきです。」

 

と、まだ戦いも始まらぬうちに口々に宝蔵王に詰めよっていた。

 

奥地への陣取りは、大軍と戦う為に遠路・隘路で迎え撃つという慎重な戦略だったが、本人不在をいいことに部族らは言いたい放題である。

 

これが前に出れば「戦略を知らぬ猪武者」と詰り後方に下がれば「臆病者」と罵り、悪評を立てる為の喧伝である為どうとでも言えた。

 

宮廷の群臣らで、ヨン・ナムセンを弁護する者は居なくなり王女(養女)だけが一人、

 

「戦さが始まらぬうちから敗戦を言い騒ぐとは、利敵行為ではないか。まずはそなたらの唐を恐れる心を捨てよ!」

 

と、炎上する批判に水を浴びせた。

 

ヨンナムセンは決して凡庸な人物ではないが、類い稀な英雄ヨンゲソムン(イリ)の後継者として、弟との権力闘争に身をさらしたまま唐と戦わなければならない状況はあまりに荷が勝ち過ぎていた。

 

 

イリの長子ナムセンに対し、弟のナムゴンを焚き付けて対立を策動している輩に、

 

方衛という者がいた。

 

イリの側近だったが奸臣である。

 

方衛は元は小役人であり、陰謀と讒言によって人を陥れて出世してきただけの男で、部族の利権を守るとか唐の手先となり工作を担うとか、そうしたことには一切関心がなくまた才覚もない。

 

只、目先の己れの利得と保身で動く。

 

忠誠心も信頼もなく私欲が全てであり、部族の結束や国の団結などは寧ろ毛嫌いし、愚かなことと蔑んでいる。

 

部族や国が潰れるまで平気で食い物にし続ける輩であり、乱世では得てしてこの方衛の様な者の貪欲さが旧体制を崩壊させるほどの影響を与える。

獅子心中の虫を抱えたまま、戦に臨まなければならない高句麗の内憂外患は次第に酷くなっていった。

 

鴨緑江(アムノッカン)に布陣するヨンナムセンは、重圧を負いながらも軍を率いて、唐軍の渡河を阻止する為、河岸の要所に堅固な陣を築き待ち構えた。

 

 

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鴨緑江は、朝鮮半島を囲む堀の様な国境の大河である。

 

陸路から高句麗に攻め入る場合は、必ずこの河を越え侵攻しなければならないが、唐軍は対岸に到着し布陣したものの渡河はせず、両軍は川を挟んで対峙し膠着状態となっていた。

 

李勣大将軍は、海路から上陸した陸軍を率いる契必何力将軍をここで待っていた。

 

かつて中国側から攻め入った軍は、ここを容易に渡河することは出来なかったが、かといってここで足留めされていれば寒さと食糧難で、戦闘不能に陥ってしまう。

 

今回の唐軍の遠征は海軍を増強し、兵糧船から陸軍の食糧も密かに運び込まれていた為、長対峙が可能となっていた。

 

武媚娘皇后派の諸将の活躍である。

 

渡河戦を仕掛けた方が背水の陣となり不利である為、兵数に劣る高句麗のヨンナムセンから戦を仕掛ける事はなかった。

 

唐軍に玉砕覚悟で戦を仕掛けるよりも、ここで唐陸軍の平壌進撃を足留めし兵は温存する構えだ。

 

やがて唐軍の本隊を率いる鉄勒王子(契必何力将軍)が軍船で到着したが、鉄勒王子も強引な渡河戦を敢行することはなく、引き続きアムノッカンを挟んだだまま対峙を続けた。

 

 

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契必何力将軍は、高車部族『ティエルカーン』(王)の孫であり遊牧民族の王族出身であった為『鉄勒王子』と呼ばれていた。

 

(鉄勒チュルチョク=突厥トッケツ=トルコのこと)

 

鉄勒王子の部族は突厥配下に属していたが、南の吐谷渾に攻めたてられて北アジアのイシククル湖周辺に移り住んでいた。

 

イシククル湖は、山に囲まれ(標高1680m)中国では熱海と呼ばれ湖底から温泉が湧き出るせいか冬でも凍らない、琵琶湖の九倍の面積を持つ巨大な古代湖である。

 

 

トカラの北東(キルギス)、天山山脈の西北部に位置しアジアの遊牧民族の拠点であり、ここから多くの遊牧民族の英傑らが輩出された。

 

湖底には、歴代王朝の遺跡が沈んでいるという。

 

契必何力は、早くに父親を失くし、630年に東突厥が唐の太宗皇帝により滅ぼされた時に、進軍してきた唐軍に母親を連れ亡命してきて唐軍で頭角を現した。

 

唐軍の将軍となり、

宿敵であった吐谷渾を滅ぼし、

高昌国を攻め、

亀慈国戦では王を捕らえた唐軍きっての中央アジアの制覇の英傑である。

 

東突厥が滅んだ後、薛延陀部族が20万の兵でモンゴル高原に盤踞していて、これに捕らえられた事があったが、

 

太宗皇帝は、薛延陀に王女を降下することと引き換えに契必何力を取り戻そうとした事があったほど、唐軍にはなくてはならない強力な将軍だった。

 

唐は西アジア、中央アジアの掃討が終わり、遂に極東アジア戦線にこの英傑を投入してきた。

 

 

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しかし、百戦錬磨の英傑は颯爽と唐陣営に到着したきり、軍を動かさず鴨緑江(アムノッカン)を渡って高句麗のヨン・ナムセン軍を攻めようとはしない。

 

武将達はあまりの長対陣にざわつき初めた、

 

 

「将軍!吾ら『攻めに出るな』との命令どおり陣を堅く守り対峙してきました。今、鴨緑江を渡り吾らに手柄を立てる機会をどうか与えて下さい!」

 

 

「討って出ることはせず守りを堅めていれば良い。よもや無勢の高句麗軍が渡河してくるとは思えぬが警戒は怠らず見張りは増やしておけ。」

 

「攻めずに、攻めてくるのを待てということですか?もう百日以上睨みあったままです。

 

このまま動かずにいては、吾らは王都『平壌城』攻めに参戦できません。

 

たった3万の奴らです。直ぐにでも川を渡り蹴散らしましょう!」

 

武将らは、契必何力将軍の態度に煮え切らず、唇を反して言い騒いでくる。

 

 

「ならぬ!!鴨緑江(アムノッカンt川)の渡河戦では、上流の堰を切って敵を押し流すのは高句麗防衛の常套手段である事は知ってるのか!?

 

吾らが、地の利には及ばぬ限り高句麗の奴らの有利に動くことなど出来ぬ。」

 

 

「では、どうしろと…!水も冷たくなり、これ以上待てば凍えて渡れなくなります。」

 

「ならば更に待てば良い!」

 

 

「なんと…!」

 

 

 

 

唐軍は、アムノッカンが凍るのを待っていた。

 

 

そして9月になりアムノッカン(鴨緑水)の水が凍りはじめると、

 

鉄勒王子は全軍に総攻撃を命じる。

 

 

唐軍は軍鼓を盛大に鳴らして一斉に氷の上を渡って攻撃を開始した。

 

数に劣る高句麗軍は徹底的に叩かれ、ヨン・ナムセンは命からがらに撤退するが、唐軍は数十里に渡り執拗に追撃を続けた。

 

唐軍が一斉に鴨緑江を渡り攻められれば、

 

数に劣る高句麗軍は勝負にならない。

 

ヨン・ナムセンは直ぐに山間部まで退却したが、追ってくる唐軍を山間の峡谷に誘い込み、峡谷の出口と入口に予め仕掛けておいた大木を落とし閉じ込めた。

 

一斉に火矢を射掛け、峡谷で逃げ場を失った唐軍を死に至らしめ返り討ちにした。

 

最初に奥地に陣取りした時に、仕掛けていた罠が功を奏した。ヨン・ナムセンの戦略どおりの勝利である。

 

この殿戦では勝利したものの、 

 

ヨン・ナムセンは

 

「これで暫くは追って来れぬであろうな、、」

 

と、唐軍を軽く観ていた為、この後

 

度肝を抜かれる事になった。

 

唐軍は決して追撃を緩めず、味方の屍を乗り超え山間部奥深くまで執拗に追い続けてきた。

 

鉄勅王子は、高句麗軍を徹底的に殲滅するつもりでいる。

 

「皆殺しにせよ!一兵たりとも生かしておくな!」

 

と、叫び続けていた。

 

数を頼みに少しでも開けた場所では、高句麗兵一人に五人で襲いかかる。

 

高句麗軍は、自然と山間の狭き道へと退路を取り逃げていた。

 

やっと一人が通れる程度の狭い道が続く。

 

この地形ならば例え大軍で攻め入ってきたとしても、刃を振るえるのは一兵だけだ。

 

しかし、これこそが鉄勅王子が仕掛けた周到な罠であり、高句麗軍が逃げた山間の先の、更に奥地に、密かにソル・イングイ将軍に契丹兵を率いらせ伏兵として潜り込ませていた。

 

山間を抜け、峰を越え、

 

唐軍の追撃を振り切った高句麗軍らは

 

「ここまで来れば、唐軍も追っては来ぬだろう。奴らをこちらに充分引きつけたし、平壌への侵攻を足留めする時間稼ぎにはなった。」

 

と、安堵し暫し休んでいた。

 

ヒュン!!

 

と矢が飛び込み、それが宣戦布告の合図の様に

 

一斉に唐軍の攻撃が始まった。

 

仕掛けれてい丸太が落とされ、高句麗軍の進路が塞がれた。

 

「何事か!」

 

この様な奥深くにまで伏兵を配してるとは夢にも思わない。長対陣の間、時間をかけて山間を移動し周到に埋伏させていた伏兵だった。

 

身を潜め敵地へ深く侵入し、危険を侵しただけの戦果は強く求められた。伏兵らは容赦なく高句麗軍を追い詰めり。

 

高句麗軍は最初は何が起きたか分からず狼狽したが、次々と飛んでくる火矢を受けあっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図になった。

 

「唐軍の攻撃だ!皆逃げよ!」

 

と、武将らは叫んだが

 

今度は逆に、高句麗軍が峡谷へと引き込まれたまま出口も塞がれ遂に皆殺しにされてしまった。

 

 

高句麗軍は三万人の死者を出す壊滅状態となり僅かに生き延びた者達も皆、唐軍に降伏した。

 

ヨン・ナムセンだけが体一つで逃げ出した。

 

鉄勒王子はその後、平壌城を包囲している蘇定方と合流する為に急ぎ平壌に向かったが途中、高句麗の楊将軍やテジュンサン将軍に裏をかかれ手痛い打撃を受けてしまった。

 

唐軍、高句麗軍共に『補給戦』であることは充分承知していた。

 

その上で、唐軍は平壌に一刻も早く着陣する為に、高句麗軍の注意を他に向けさせる擬兵の計を用いた。

 

「平壌城攻めの蘇定方将軍らが戦果を上げている。

 

吾らも長対陣の遅れを一気に取り戻す為、行く手を阻む高句麗軍を引き離す『擬兵の計』を仕掛け、

 

偽の食糧倉庫と囮の補給部隊で罠に嵌める。」

 

 

と、唐軍の常套手段となった囮の補給部隊で高句麗軍を引き付ける作戦に出た。

 

 

しかし、楊万春将軍らは食糧倉庫の護衛兵は疑兵であり罠であることを見抜き

 

テジュンサン将軍と隊を二つに分けて進軍、

 

一隊は、囮の補給部隊に向かうと見せかけ

 

もう一隊をテジュンサンが率いて本隊を攻める伏兵となり、唐軍が油断しているところへ隘路より奇襲攻撃を仕掛け戦果を上げた。

 

 

丁度その頃、唐・高句麗戦に呼応するように鉄勒族が唐に反乱を起こした為、鉄勒王子は彼らを制するために呼び戻され戦線を離脱した。

 

「ヨン・ゲソムンを前にしてまたも西アジアへ出征せねばならぬとは…!」

 

と、鉄勒王子は高句麗掃討戦に参戦できぬことを嘆いた。

 

 

是によって遼東方面の戦局は高句麗有利のまま膠着し、

 

主戦場は首都平壌城方面になった。

 

 

 

 

【高句麗から和国へ】

唐高句麗の戦闘が始まった時は、イリが大海人皇子として朝倉宮に入り、百済の鬼室福信からの

 

「那珂大兄皇子様を百済王に」

 

という請願を退け、

 

援軍を出ししぶる斉明女王を暗殺した後、援軍を派兵し百済には豊章を王として送るとして5千人の兵を送り出していた頃である。

 

鬼室福信も是に大人しく従った。

 

 

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イリは唐軍との決戦もさることながら、那珂大兄皇子の和国王即位と百済王だけはなんとしても阻止しなければならずまだ和国に留まっていた。

 

那珂大兄皇子では、国王の器でないというよりも斉明女王や武王の様に親唐派の王となることが予想され、保身の為に万が一にもその様なことになれば、今まで非常の手段で親唐派の王を取り除いてきたことが全て無駄になってしまう。

 

しかし、力を持たない血統だけの那珂大兄皇子にとっては混乱の中、めぐりめぐってきた唯一の国王即位の機会であり、イリが高句麗に釘付けになり隙が出来るのを今か今かと伺っている。

 

勿論、イリは隙など与えない。

 

那珂大兄皇子が震え上がるほど睨みをきかせている。

 

那珂大兄皇子が

 

「百済で殯りを行う」と言って

 

母・斉明女王の亡き骸を船に乗せ出航して行ったのも百済王や和国王に野心があるからというだけではなく、大海人皇子イリからの暗殺を恐れ和国から逃れたのかもしれない。

 

いずれにしろ那珂大兄皇子にとって苦肉の選択だったのだろう。先王の殯を行う者こそが次の王であるということに則り、なんとしても斉明女王の亡骸を渡したくはなかった。

 

那珂大兄皇子には、高句麗本国が唐と戦になっているのに和国に居続ける大海人皇子イリの心中が理解できず、

 

「本国を戦火に曝してまでも吾の即位を阻むのか」と、

 

不気味に感じていた。

 

大海人皇子イリにとっての本国とは和国高句麗のことであり、もはやどちらかが「本国」という感覚はない。

 

イリの心中では、

【前軍】高句麗、【中軍】新羅、【後軍】和国の

三段構えが対唐戦線の布陣なのだ。

 

和国は王不在のまま、暫し大海人皇子イリの専横下におかれていた。しかし、いつまでも王不在のままにしておくわけにもいかない。

 

大海人皇子イリは、斉明女王の次の和国王に那珂大兄皇子の妹・間人皇女を即位させるつもりでいるらしい。

大海人皇子イリの傀儡となる和王である。

 

高句麗には傀儡であるイリの義父・宝蔵王がいて、新羅王にはイリの実子法敏が文武王として即位し、今百済には政治的野心の乏しい扶余豊章を王に送り、後は和国に傀儡となる王を冊立さえすれば、

 

四国の王を統べて国を動かす、巨大な反唐勢力となる。

 

以前、宝皇妃(斉明女王)に言われた

 

「王位につかなくとも国は動かせます。」

 

という言をそのまま具現化した形である。

 

反唐の志のある者にとっては、イリの存在は強力であるが、親唐派にとっては脅威でしかない。

 

裏から各国の元首を動かし実効支配する、イリの存在そのものが所謂「影の政府」である。

 

和国王に傀儡となる間人皇女を擁立することは、東アジアで反唐の炎を燃やし続けるイリにとって重要な意味を持っていた。

 

間人皇女は、那珂大兄皇子と同様に百済武王と和国上宮法王の血を引いていて、更に先々代の孝徳王、ウィジャ王の皇妃でもあり、母・斉明女王の跡を継ぐ女王には申し分ない。

 

その後は蘇我馬子ら歴代の和国の権力者の様に、

 

女王の夫(即ち王)となり、皇子を産ませ王位継承させればイリの支配体制は磐石となる。

 

新羅王、高句麗の宰相、そして和国の王も全てイリの息子達で固め、三国連合軍でもって唐軍を駆逐する未来をイリはしっかりと見据えていた。

 

 

大海人皇子イリは、間人皇女を説得して、

 

「那珂津女王」として和王に即位させる準備を進めていた。

 

しかし、百済への援軍派兵や百済王の冊立など外交課題が山積している中、殯が終るのを待ってから即位させたのでは時間がかかりすぎる。

 

那珂大兄皇子が殯(喪主)の権をふるい百済に渡り殯の開始を長引かせている為、イリはそれを逆手に取って、和国の【称制】を間人皇女に用いて勅を発布した。

 

(称制※次期王が即位しないまま王に代わる政務をとること)

 

那珂大兄皇子は驚いた。

 

かつてはイリと共に孝徳王が難波王朝にありながら王を置き去りにして、大和で斉明女王を即位させたことがあったが、今度は自分が百済に置き去りにされた皇太子となっていることを悟った。

 

間人皇女の称制によって和王代行として勅まで発している以上、もはや実質的な時期和王は間人皇女である。

 

イリの前では『皇太子』の名分で殯を行う事だけで抗うのは愚かと思い直し、

 

10月になって、

 

「和国で殯を行う」と、

 

母の亡骸を持ち出していた那珂大兄皇子が百済での殯を諦めて和国へ戻ったため、

 

翌月より斉明女王の殯が行われた。

 

『殯』の期間は三年であり、三年後には間人の称制は終わり正式に女王となれば、イリはその夫、和国『王』の座につく。

 

 

 

イリは和国兵を連れて急ぎ高句麗へと向かった。

 

 

 

【唐軍蘇定方の出征は敗北に】

平壌城を包囲する唐軍に対し、高句麗軍は城門を固く閉じたまま討って出ようとはしなかった。

 

予め民を避難させたうえ唐軍が食糧調達が出来ぬ様に全て焼きつくす焦土作戦を展開して

 

「堅壁清野」の構えでこれを迎えていた。

 

 

 

しかし、戦を知らぬ部族長らは城の前に迫りくる唐軍をみて怯えてしまい、宝蔵王の養女スギョン姫と唐の皇族との婚姻を結んで、なんとか生き延びることは出来ぬかと和議の画策を始めた。

 

蘇定方率いる唐軍は平壌城の西南マウプ山に本陣をかまえ、1ヶ月間平壌を包囲したままである。

 

 

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イリの命令は行き届いていて平壌城の守りは固く容易に落とすことができなかった為、唐軍にはたちまち食糧難が襲ってきた。

 

新羅には、唐軍の行軍監督をしていた金仁問王子が帰国し、新羅軍に高句麗攻めに参戦せよとの高宗皇帝の命を伝え新羅軍を出兵させた。

 

「金仁問はもはや唐の走狗だ。金仁問に反唐を疑われない程度に出兵するしかない」と、

 

仕方なく新羅王金法敏は出兵はしたが、父イリの城・平壌城と本気でぶつかる気はなかった。

 

金法敏は遅速行軍の計を用い、百済の残党と賊軍にも阻まれ思う様に進撃出来ずにいたが、唐軍の行軍監督となった金仁問の手前戦っただけで、全て自作自演の謀ごとであった。

 

 

百済にいる劉仁願、劉仁軌も、高句麗の唐軍へ兵糧と援軍を送るよう命じられている。

 

しかし、百済から唐軍を率いて援軍に向かった劉仁願は反唐軍の鬼室福信将軍によって撃破されてしまい、高句麗の唐軍への援軍は不可能になっていた。

 

 

高宗皇帝は百済の唐軍の不甲斐なさに

 

「劉仁顔が、百済から高句麗への兵糧輸送が出来ぬのなら、新羅に命じ百済サビ城の都督を交代させる」

とまで、言った。

 

10月、

 

高宗皇帝の使者が新羅に到着し高句麗へ兵糧を輸送するよう命令を伝えられると、ここへきてようやく金ユシンが挙兵し12月に高句麗国内へと入った。

 

しかし、まだ唐の高宗皇帝による新羅王・金法敏の正式な冊命を受けていた訳でもなく、命令だけを伝えてくる唐の使者に対し、当然新羅軍の動きは鈍い。

 

翌月になり、遂に高宗皇帝の使者は金法敏の新羅王を正式に冊命し兵糧輸送を命じた。

 

これで新羅王金法敏こと文武王の即位は国際的に認められたことになり、王位を簒奪をした暫定政権ではなくなった。イリの息子であり金一族の血をひく王がようやく表舞台に立ったのだ。

 

 

 

662年1月、

 

金ユシンらが蘇定方らに食糧を渡した時には、唐軍は飢で全滅しかけていた。

 

唐軍は新羅からの食糧援助を得て、飢えて全滅を免れたが彼らは戦うどころではなかった。

 

金ユシンは蘇定方と会談し、退却を促す。

 

実際、唐軍も食糧が届いた頃には飢え死にを待つほど疲弊していたのでかろうじて撤退する余力しかなかった。

 

 

この時、金ユシンは絹や金品を蘇定方に贈った。

 

「吾れらも無駄な戦いはしたくない。唐軍と共に戦うなど不可能であろう、、兵士は皆屍同然ではないか、、

その上、百済からの唐軍も鬼室福信に撃退され来れぬ」

 

「これでは吾ら新羅軍だけで高句麗と戦う様なもの、吾らは同盟国として唐と高句麗の戦いに援軍にきたのだ。新羅軍だけで高句麗と戦はせぬ!」

 

と、金ユシンは言い捨て帰国していった。

 

さすがに蘇定方も百済戦の時の様に、権威を振りかざし金ユシンを押さえつけようとはせず、

 

「まずは兵士らを回復させる。戦どころではない、、」

 

と、言い放った。

 

この時、支援物資だけでなく蘇定方が絹や金品を受け取ったことは、金ユシンからイリに伝えられ、イリは間諜を使って唐国内の「皇帝派」に知れるようにした。

 

この為、この戦いの後は蘇定方は極東の戦に用いられることはなくなった。

 

 

 

 

【唐軍撤退と和国 那珂津女王】

662年2月、

 

和国兵を連れ高句麗に戻ったイリは、唐軍との決戦に出る。

 

イリが「病気」と称して人々の前に姿を現さなかった間、平壌城の兵達は固く城門を閉ざし懸命に城を守り続けていたが、

 

忽然と現れたイリの姿に、誰もが驚き安堵した。

 

部族長達の中には、唐の王族との婚姻による和議の声を上げる者もいたが、百済陥落の時、降伏後に民や王族がどうなったかを考えれば、なんとしても守らなければならないとの思いを全兵士が強く持っていた。

 

百済のサビ城は唐軍に略奪され放題で、民は殺され女達は凌辱を逃れようと皆、身投げし、1万人を超える政府や王族は唐へ連行された。

 

首都陥落後の百済の話しを聞き、民の一人一人までもが必死に籠城戦に協力した。

 

そのいつ終わるとも分からない籠城に疲れていた城内の者達は、イリの元気な姿に希望を感じた。

 

イリは、平壌城を包囲していた唐軍を蛇水に誘き寄せ水計を図る作戦に出た。

 

平壌の蛇水の河口で、任雅相将軍率いる唐軍と戦い放水地点にまで唐軍を引き寄せて、

蛇水上流の農水道の堰を一斉に切り、唐軍を押し流して見事に壊滅させた。

 

 

蛇水の唐軍を率いていた任雅相将軍は生きのびたが、やがて軍中で卒した。

 

任雅相は将軍となってからは、

 

「官は大小となく、皆、国家の公器だ。どうして私意で使って良いものか」

 

と言って、親戚や昔の部下を従軍させるように上奏したことがなく、自分の知己のある者は皆、他へ移して代わりを授っていた。

 

これによって軍中は賞罰が公平であった為、皆服従し一丸となって運命を共にしていた。

 

任雅相将軍の必勝の意気込みも強く、13人の息子と決死の覚悟で戦闘に臨んだが全員戦死した。

 

貝水に布陣していた蘇定方は無事だったが、任雅相軍の壊滅により更に戦う余力は失われていた。

3月になり大雪が降った後、休戦の詔が下された為、蘇定方は疲弊した兵士たちを連れて撤退していった。

 

 

休戦というよりは、明らかな唐軍の敗北である。

 

 

イリの平壌の蛇水での唐軍撃退は、

 

ウルチムンドク将軍の隋軍壊滅、

 

ヤンマンチュン将軍の安市城戦

 

と並び高句麗の三大大勝利と称された。

 

イリは10年以上前、大化の改新の頃の唐高句麗戦に和国から援軍を送ったことがあったが、その時の和国軍捕虜をこの勝利で唐軍から取り戻した。

 

見事に高句麗を防衛をしたイリは、休む間もなく百済に駐留している唐軍を駆逐するため返す刀で南に向かった。

 

そしてイリは、和国と百済を結ぶ拠点となる周留城を押さえた。

 

これよって、新羅から百済内の唐軍へ援兵する道は断たれ、新羅からの唐軍への助けは絶望的となった。

しかし、これは唐新羅同盟に向けて表向きの戦わない理由であり、実際はイリと金ユシンの密約によって和国から百済に援軍を送り物資輸送する際には、逆に新羅から百済の周留城に抜ける糧道が確保された為、陸からの百済復興軍の援助が可能となった。

 

今やイリの権力は極大である。

 

新羅の文武王はイリの息子であり、イリ自身は高句麗の宰相であり、和国の大海人皇子として和国で権力を振るい三国を掌握している。

 

三国同盟というより、もはやイリの存在そのものが反唐同盟の様なものであった。

 

イリの実子法敏が新羅文武王として即位してからは、表面上は敵対国であっても裏では協力し、和国から新羅を通過して朝鮮半島に入ることも出来るようになった為、和国との往復がかなり楽になった。

 

古今東西、偉人と伝えられる者の多くは凡人には思いも寄らないほどの非凡な動きをしたが、イリの動きは群を抜いている。

 

 

イリは一度和国へ戻り、【扶余豊章】を百済王にするため百済に送り出した。

 

百済への帰国に際して扶余豊章は、イリ側の氏族である美濃尾張の多氏の姫を妻としてから百済へ向かった。

 

権力者イリの存在は唐国の野望が東アジアに向けられている限り、もはや和韓諸国の反唐にはなくてはならない存在となっていた。

 

しかし、高句麗でのイリの息子ヨンナムセンとヨンナムゴンの対立、百済では扶余豊璋と鬼室福信の対立、和国での那珂大兄皇子との対立があり、まだ磐石な体制とは言えない危うい状態だった。

 


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