和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦589~622年、和国を統一し新羅を領有し百済を帰服させ、和・新・百の三国に君臨するかとみえたエフタル族だったが、西アジアからやってきた突厥族の追い込みと内紛により、その勢いは短命に消え、エフタル王家が残るのは新羅一国だけとなった。代わって、百済・和国を制したのは突厥族であり、隋との戦に敗れた突厥最大の実力者が和国へ亡命してきたことで、和国は新たな国家へと進化していく。

1話 突厥最大の実力者
2話 日出る処の天子
3話 遣隋使の帰国
4話 上宮法王と百済
5話 上宮法王と和国
6話 蘇我馬子
7話 隋の滅亡と唐の建国



プロローグ和 国「突厥王朝」日出処天子

エフタル族同士の二匹の狼の争いは一方が生き残ってしまった為、それを倒す為に更に『突厥族』という強力な虎を和国に招きいれてしまった。

 

丁未の乱では、和国に残ってしまった「物部守屋」という突厥族の虎を、旧勢力である和国の有力部族たちと他の突厥族が結集し、全勢力で倒した結果となった。

 

「危うく、物部守谷の支配となるところだった」

 

と、誰しもが逆転勝利に胸を撫で降ろした。

 

突厥勢力にとっては、物部守屋が亡命先で勢力を盛り返すなどは度し難く、和国の権力を手に入れる前に討ち果たし阻止することができたのだ。

 

突厥の覇権争いの内紛に和国が巻き込まれた戦ともとれる。

 

 

しかし、物部守屋は倒したものの、突厥勢の和国渡来は止むことは無く、西突厥勢力の渡来が続いていた。

 

東突厥の出身の物部守屋が倒されたことで西突厥勢の勢力が代わって和国を席捲するようになり、旧物部領も西突厥勢の領地となっていった。

 

物部氏を掃討した後、蘇我氏は飛鳥に法興寺を建立し、支配力が物部氏になく、新たに崇物派が根を下したことを誇示した。

 

そして、高句麗僧の恵慈や百済僧の恵聰、仏師のトリなどが来和し、和国で初めての大仏を建立するなど、物部守屋がいた頃にはできなかった仏教興隆の国策を実現した。

 

 

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突厥の四天王・四将軍たちは、連合軍を勝利に導くとそのまま大陸へと去っていったが、和国の突厥勢らは突厥の四将軍の戦勝を記念して、難波の旧物部領に四天王寺を建立し突厥の戦功を示した。

 

突厥勢の建立した四天王寺は和国最大級の建築物であり、独特の一塔三金堂式の飛鳥寺型伽藍で、高句麗の首都平壌にある金剛寺と同様の伽藍配置だった。

 

これが和国仏教の先魁となり、和国の玄関口 難波で偉容を誇って、和国を威圧する突厥勢の力の象徴となった。

 

和国の部族達は皆、突厥の四天王たちの強さを目の当たりにして、その四天王を派遣した背後にいる西突厥の王(カーン)の存在を畏怖していた。

 

 

【突厥最大の実力者】

581年、中国北朝の北周の静帝より禅譲(国権を譲ること)を受けて楊堅(文帝)が「隋」を建国した。そして、589年に隋は中国南朝の陳を滅ぼして中国統一をなした。

 

陳遠征軍の総指揮官は文帝の次男楊広(後の煬帝)で、51万8000という大軍の前に陳の都建康はあっけなく陥落してしまい、これにより三国志の時代より400年にわたって続いていた中国の分裂王朝の時代が終結した。

 

その後、アジア大陸で勢力を二分していた隋と突厥の間では決戦が始まっていく。

 

突厥は、ペルシアと共にエフタルを掃討した後は、ペルシアの内政にまで干渉するようになっていたため、ペルシアの隣国のローマ帝国のマリウス皇帝にも使者を送るようになっていった。

 

突厥最大の実力者は、元々はペルシア王子であり『突厥・ペルシア同盟』の婚姻の為、入婿となった後に義父の跡を継いで突厥王(カーン)となった。ローマ皇帝に使者を送った時は、七か国の王を名乗っている。

 

西はペルシアを実効支配しローマのコンスタンチノーブルまで遣いして、東は高句麗を通じ百済・和国にまで出征するほど長大な勢力でアジア大陸を貫抜いていた大国(イル)が突厥連合国だった。

 

しかし、隋の度重なる巧妙な離間策によって、やがて東西に分裂させられてしまった。 

 

598年、西突厥は巻き返しを図り、高句麗と連合して、東西から隋を挟み撃ちにした。

 

 

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高句麗は隋の北東から遼西へ侵攻し、これに対し隋は東突厥側と手を組んで30万の兵で陸海両面から反撃したが、伝染病が軍内に流行り敗退してしまう。

 

しかし、隋北方から侵攻した西突厥軍は逆に、白道で楊義臣の率いる兵に遭遇し撃破されてしまった。

 

突厥軍を率いていた「突厥最大の実力者」である西突厥カーンは、敦煌で行方不明となってしまい、突厥軍は涙を流し撤退していった。

 

『西突厥カーン(王)』

 

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すかさず隋は西突厥カーンがいなくなった隙に、東突厥カーン(王)として擁立していた突利を啓民カーンとして冊封し直し、全突厥のカーンにしてしまった。

 

 

和国から百済に戻っていた威徳王敏達は、隋と高句麗が戦になると、隋に阿って高句麗攻めに協力することを申し出た。

 

元は高句麗王家であった威徳王敏達には、高句麗での王位継承争いで敗れて、一族郎党2千人が皆殺しにされてしまい、和国へ亡命した苦い過去があった。

 

和国では、蘇我氏の擁護を受けたおかげで和国・百済両国の王位へとつくことができたが、一族皆殺しにされた恨みと、高句麗の王位は諦めておらず、隋の力を利用して高句麗王家への復讐と復権を企んでいた。

 

しかし、隋は高句麗との戦さに敗れてしまい、威徳王敏達の企みは高句麗に露見してしまって、逆に百済は高句麗からの侵攻を受けることとなった。

 

和国の蘇我氏からも、高句麗王家からも憎まれて、百済を窮地に追い込んでしまった悲運の威徳王敏達は、この年12月に没してしまった。

 

 

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翌年599年、「突厥最大の実力者」は再び姿を現わして蜂起し、突厥連合軍を率いて隋の雁門・馬邑に侵攻したが、隋一の猛将・楊義臣に攻撃を受け塞外に退却してしまった。そして隋の楊広(後の煬帝)と史万歳に大斤山に追い詰められ、またも撃破される。その後、隋軍は突厥の川に毒を流し、これにより突厥軍は完全に壊滅してしまった。

 

突厥軍の「突厥最大の実力者」は消息不明となり、突厥部族達は皆離散していきチベット(吐蕃)と東突厥に亡命するか降伏した。

 

チベット(吐蕃)は、隋、突厥と並ぶアジアの列強国である。

 

後に仏教が深く浸透していき真逆の民族に変わってしまうが、まだこの時代のチベット人は獰猛な民族で、戦いの時に戦い方が勇ましくない者がいれば、その味方に向けて矢を射るほどの過激で好戦的な民族だった。

 

突厥最大の実力者は、北東へ逃げた後、同盟国であった高句麗に逃げ込み、高句麗王の擁護を受けて、王が不在だった百済を制圧した。

 

その後、逃亡してきた敗残兵と部族民(ペドウン)43万を二年かけてまとめて、まだ隋の手の届いていない和国へと向かっていった。

 

高句麗は逃げてきた部族を助けるが、決して自国内に帰化させることはせず、そのまま後押しをして半島や列島南部に送り込み「威をもって威を制する」のが基本政策であり、壮強な部族であるほどその傾向は強い。

 

突厥最大の実力者は、高句麗の助けを受けると遊牧民族の風習にしたがい自分の妻と娘を高句麗王へ差し出していった。

 

エフタルの真興王の孫にあたる新羅の真平王は、突厥最大の実力者を阻む為に新羅から任那方面へ侵攻していき牽制を図ったが、蘇我境部大将軍の救援により五城を落とす大敗をしてしまい、新羅は更に六城を和国へ割譲した。

 

しかし、蘇我境部大将軍が和国へ引き上げると再び任那へ侵攻した。

 

和国は再び新羅を攻めようとするが、出征しようとする者が、次々と毒殺されてしまい、新羅への出征は中止になった。

 

新羅の割譲とその後の侵攻は不自然であり、

 

蘇我境部大将軍が新羅侵攻に際して、新羅から賄賂を送られていた為、示し合わせの戦だったのではないかと噂されていた。

 

隋の後ろ盾があった新羅は、隋からの要請にこたえた出兵であり、蘇我境部大将軍は突厥からの要請に応え、突厥最大の実力者を逃がすため隋側の勢力を牽制する為の出兵であり、突厥最大の実力者が無事に和国へ入国したことによって、新羅・和国の戦は決着をつけずに休戦となった。

 

 

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和国は、泊瀬部王が暗殺された後、王不在のまま推古王女と蘇我氏の二頭体制で統治されていた。

 

生き延びた突厥最大の実力者は、そこへ大部族(ペドウン)を率いて、突厥王旗を掲げ和国へ上陸してきた。

 

その旗には、ペルシアの生命の木が配され四人の騎士が馬上から振り返り弓を射てる、安息式射法が描かれていた。(法隆寺錦伝)

 

安息式射法(パルティアンショット)とは、馬術に優れてるスキタイ民族の特徴でもある。

 

突厥最大の実力者は、上陸後はまず播磨の斑鳩を拠点とし、耳梨の宮に入って推古王女を和国女王に推戴し自分はその入り婿となった。

 

そして、強引に蘇我氏を押さえて、瞬く間に和国の権力を握っていった。

 

大和で勢力を奮っていた蘇我氏の首長の蘇我馬子は、推古王女との間に子をなして自分が推古王女の夫として今にも和王となるはずであったが、渡来した「突厥最大の実力者」と突厥勢の前では、戦が苦手な蘇我馬子は王位への野心を一時おさめるしかなかった。

 

しかし突厥が敗れた翌年、突厥と連合し隋と戦っていた高句麗や契丹が遣隋使を遣わすと、蘇我馬子・蘇我摩理勢の兄弟も既に和王と名乗って遣隋使を送っていた。

 

豊後の秦王国に居住していた中国人らを使者にして「アメノタラシヒコ」という伝説の和王(慕容氏)の名を語って、大王(オオキミ)と号し、

 

初めて隋の皇帝に和国を知らせることとなった。

 

「和国では兄弟で交代し政り事をして治めています」と、隋の皇帝に説明すると

 

「何故わざわざそのようなことをするのか」と大いに笑われてしまった。

 

 

 

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一方、渡来してきた突厥最大の実力者は、そのような隋への外交をよそに、大和小墾田宮へと入って王位に就き、推古女帝と共に蘇我氏を押さえたまま、着々と王権を行使して足元を固めていった。

 

百済系の蘇我氏から、アジア世界の雄であった突厥王へ和国の覇権が移ったことで、急激に和国の進化が始まった。

 

高句麗王からは大仏建立の為、黄金三百両がおくられてきた。

 

突厥最大の実力者は17条憲法を制定し、冠位一二階を定め、陰陽五行と修法を駆使して、和国の王権は今までになく強固なものへと変えられていった。

 

和国では王号を号していても、全くと言っていいほど王権は成熟していない。

王は『君主』というよりは部族らを統べる

『盟主』といった程度の存在でしかなかった。

 

突厥最大の実力者の渡来により、和国の改革が成されていった。が、しかし和国の王が「王号」だけの所謂、名ばかりの王ではなく、専制君主の様な実際の『王』となるには、まだ幾つもの時代を越てゆかなければならない。

 

 

突厥最大の実力者は、和国では「上宮法王」と呼ばれた。

 

新羅がエフタル族政権最後の国となり、和国・百済・高句麗の三国がそれぞれ対立していたが、上宮法王は反新羅三国同盟を結ぶ為に、高句麗へ大伴咋将軍を交渉使節として派遣した。

 

高句麗は陽原王が没し、その跡を継いだ平原王も没し、嬰陽王の代となっていたが、百済の威徳王敏達が、隋に阿って高句麗攻めに参戦しようとしたことを恨んでいて、百済を同盟に入れることは難航した。

 

嬰陽王は、

 

「高句麗と和国が同盟を結ぶことは良いが、百済という国はいったい何なのだ!」と

 

不信感をあらわにし、和国と百済の関係にも言及した。

 

和国使節の大伴咋将軍は、

 

「百済は和国の内宮です」と説明し、

 

大伴咋将軍の必死の説得の末に、和国・百済・高句麗の三国の反新羅同盟の盟約が結ばれた。

 

また、隋に対しては高句麗が既に遣隋使を遣わしていたことで、突厥最大の実力者「上宮法王」も同じ様に遣隋使をおくり、講和することを考えはじめていた。

 

 

 

(※内宮【ウチツミヤケ】→ ミヤケ=屯倉、弥移居、任那などと書き、和国への食料を供給する穀倉地という意味。以前は和国への賄い為の穀倉地・任那に「日本府」を設置して管理していた。しかし、新羅に滅ぼされて以来、和国は、百済にその管理を任せていた)

 

 

 

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605年、突厥最大の実力者は和国の有力部族である秦一族の本拠地であった斑鳩に拠点を遷し、旧和国有力部族の葛城氏、額田部氏、平群氏を味方に配し蘇我氏を威圧した。

そして、斑鳩の斑鳩寺、飛鳥の橘寺、葛城の葛城寺、太秦の蜂岡寺等、次々と突厥勢力系の寺院を建立し、飛鳥の蘇我氏の包囲を着々と固めていき、難波から都に至るまで東西南北に正確に合わせた官道の整備をすすめていった。

 

 

 

【日出る処の天子】

隋では、604年に政変があり皇帝が代わっていた。皇帝の次男の楊広は、初代皇帝を暗殺し、廃太子にされて都をおわれていた長男も探しだして殺害し、二代皇帝・煬帝として即位していた。

 

煬帝は首都大興城の建設と、大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がる大土木工事を行い、また、今のところは従っている突厥に対しても備え、100万余の男女を徴発して万里の長城の大工事を行なっていた。

 

 

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朝鮮半島では、高句麗と百済が共に新羅を攻め続けていたが、百済が隋へ遣隋使を送ると、高句麗は百済の松山城を攻め、また石頭城に侵攻して男女3千人を捕虜とした。

 

和国・百済・高句麗三国の反新羅同盟を結んだばかりですぐにも亀裂が入ってしまい、これより和国との関係も変化した。

 

 

 

607年7月、

 

 

斑鳩の宮で基盤を固めた突厥最大の実力者は、

 

「日出るところの天子」と名乗りいよいよ初めて自ら遣隋使を遣わす。

 

『日出ル処の天子』

 

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和国突厥勢の裏玄関にあたる近江大津を守っていた守将「蘇因高」を隋への使者大礼として任命し、通訳の鞍作福利と伴に

 

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつがなき)なきや」

 

で始まる国書を隋に届けさせた。

 

 

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使者「蘇因高」は隋の王都大興城の宮殿に参殿し、皇帝の前で堂々と国書を読み上げた。

 

自ら「日出処の天子」と名乗り、随の皇帝を

 

「日没する処の天子」と呼び

 

まるで隋の天子と対等であるかの様なその国書に、隋皇帝・煬帝は激しく怒った。

 

中国を統一した隋に対して、そのような強気な言い方をする周辺国などあるはずもなく、宮廷中が度胆を抜かれ驚く。

 

思わず玉座から立ち上がり、使者「蘇因高」を殺せ!と叫ぶ煬帝に対して、

 

使者「蘇因高」は全く怯む様子もなく

 

「私を殺せる者がここにいるのか!!」と、

 

逆に宮廷中に響き渡る程の大声で叫んだ。

 

 

命を奪われそうになっているにも関わらず、なおも強気な言葉を吐く使者「蘇因高」に宮廷は驚愕し凍りついた。

 

蘇因高は、

 

「そこにいる楊将軍は、私を殺せるのか!」と、

 

群臣の中にいた隋一の将軍を見据えて、今度は突厥語で更に叫んだ。

 

殺気を放ち睨み返す楊儀臣は括目し、

 

使者「蘇因高」の顏をよく見て驚く。

 

「恐れながら申上げます!この使者は和族の者などではありません。突厥の将軍です。西突厥の達頭カーン(=王)の配下の武将です。確かに先の戦で私はこの者と戦い、何度も追詰めながらも殺すことができませんでした。」と、

 

楊儀臣が奏上すると、煬帝もあっという間に顔色が変わった。

 

自分が将軍であった頃、何度倒しても屈しない執念深い突厥勢と戦い、手を焼いていたことを思い出した。

 

 

「貴国が、川に毒を流した為、我々は敗れてしまいました。そして今は和国にいて、隋と親交しようとする西突厥の達頭カーン(=王)は、私を遣わしてこうして国書を届けました。もし貴国が毒を流さなければ、カーンと共に剣を携えてこの地にきたかもしれません。」

 

と「蘇因高」は続けて語った。

 

隋との戦いに敗れて逃亡した突厥最大の実力者=西突厥の王・達頭カーンが、今は和国にいて国書を送ってきたのだという事態を、隋の宮廷はようやく理解した。

 

随の煬帝は、極東政策をよく確認しないうちに先代の初代皇帝を殺してしまっていた為、極東に逃げて行った突厥最大の実力者のその後をまだ把握しきれていなかった。

 

「日出ずる処=オリエント」という東方を意味する表現は、ローマ帝国がローマの東側を日出る処「オリエント」と呼んでいたもので、通常はヨーロッパ大陸の東にあるペルシアを指して言う。

 

ペルシア王子でもある達頭カーンは敢えてこの含みのある表現をしてきたとも思われ、強気な心理戦は怒りが恐れに傾くだけの効きをそうし、

 

煬帝は、ペルシア・突厥・高句麗・和国にまで、

 

「西アジア~北アジア~東アジアにかけて、隋を囲む様な包囲網が出来上がりつつあるのではないか?」

 

という妄執に、一瞬とらわれてしまった。

 

元西突厥の王・達頭カーンは、西突厥にいる孫のシャキ・カーンや高句麗とも連絡をとり合って隋を牽制していた気配も伺えていた為、目の前にいる「蘇因高」がその使者だとわかると、先ほどの火筒の様な強気な発言もより一層不気味に感じられた。

 

隋は、西突厥を破り東突厥と連盟したとはいえ、突厥自体の勢力はまだまだ侮りがたく、突厥に備えて100万人を動員して行っていた万里の長城の工事もまだ終わっておらず、更に高句麗との戦にも備えていた為、突厥が高句麗の味方につく事態だけは回避しなければならなかった。

 

ここで怒りに任せて和国の使者を斬ってしまって、和国にいる突厥最大の実力者「達頭カーン」を刺激するには躊躇があった。

  

悩んだ末に隋は、元西突厥の王・達頭カーンがいる和国との親交を結ぶことにして、使者「蘇因高」は許され、返書と共に返された。

 

しかし、使者「蘇因高」とのやりとりは一切を伏せる事とし、西突厥の達頭カーンではなくあくまでも和王「阿毎多利思比孤(アメノタラシヒコ)」の使者として扱った。

 

 

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(蘇因高)後の小野妹子

 

隋よりも広い領土を支配し、隋と戦っていた突厥最大の実力者=「達頭カーン」が、今は和国にいるという存在感は隋にも充分伝わり、和国でのその王位はより鮮明になりつつあった。

 

しかし、隋からの返書が帰国のさい百済を通過中に賊に襲撃され奪われてしまった為、隋の皇帝からの和国への無礼に対する叱責と

 

「高句麗とは手を組むな」という要求が

 

和国へ伝わるには至らなかった。

 

隋は、和王の無礼な国書を叱責しつつも許し、高句麗に味方しないのは勿論のこと、隋が兵を起すと共に和軍を率いて高句麗を牽制しろという要求もあったが、それを知った百済の権力者が反発して返礼使一行を襲って国書を奪ったとも、或は、あくまでも隋と対等に立とうとする強気な蘇因高が、襲われたふりをして返書を喪失し、和国が隋の冊封(王位の許可は隋が与える制度)などを受けて下風に立たない様に、天子に知らせる前に握り潰したのではないかと噂された。

 

蘇因高は、帰路の道中で隋の返礼使である裴世清と昵懇となったうえで、

 

「国書喪失により返礼使の死罪は免れないから」と、

 

裴世清に迫り、新たに国書を捏造するよう画策した。

 

隋の返書が奪われるという有るまじき失態に和国の群臣からは、

 

「蘇因高を流刑にするべき」との奏聞があったが、

 

罰すれば返礼使のためにもよからずと、修好善隣の功によって蘇因高は赦された。

 

 

【遣隋使の帰国】

今までの百済の力を後ろ盾にしていた和国ではなく、大国・隋の力を和国の後ろ盾にしようとする新たな流れは、百済の大臣だった蘇我氏にとっても脅威だった。来和した隋の返礼使である裴世清の饗応には額田部比羅夫(比羅夫=外交・外征を行う者)があたった。

 

隋の返礼使は12人の使徒と使者蘇因高と共に608年4月に筑紫に到着し、豊後秦王国に立ち寄った。6月に難波津に上陸して、8月に椿市にて額田部比羅夫が饗応し、飛鳥へと向かい小墾田宮の朝庭で、隋の煬帝の返書として創作した国書を読み上げた。   

 

使者の裴世清は四拝し、

 

「皇帝から和皇に挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れ、よく意を伝えてくれた。朕は天命を受けて天下に臨み徳化を弘めて万物に及ぼそうとしている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。和王は海の彼方にあって国民を慈しみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。丁寧誠心を喜ぶ。時節はようやく暖かで朕は無事である。鴻臚寺の掌客・裴世清を遣わし送使の意を述べ、併せて送り物を届ける」

 

 

「日出るところの天子より」で始まる隋に対して挑発的な国書への返礼が、拍子抜けするほど穏やかだったことに皆、驚き逆に緊張がはしった。

 

王の玉座には蘇我馬子を座らせ、あえて達頭カーンは玉座には着かずに、群臣の中に紛れて密かにそれを聴いてほくそ笑んでいた。

 

通常、大国からの使者は上席に着き、その国の君主は謹んで口上を聴くものであり、玉座から見下ろして使者の口上をきくなどという振る舞いは、その国と対等以上の振る舞いでしかなかった為、隋の返礼使の使徒たちは憤慨し殺気が漲っていた。 

 

玉座の蘇我馬子は、

 

「私は東方の一隅にいる野蛮人で礼儀を知らない。今日はじめて隋の人の姿をみることができ喜んでいる。ぜひ大隋帝国の新たな教えをきかせてほしい。すぐにまた、返礼の使者を送ります」と返答した。

 

 

翌9月に隋の返礼使・裴世清は帰国した。

 

和国は、すぐに遣隋使・蘇因高と共に高向玄理、恵日、倭漢直福因ら留学生を派遣し、隋とのつながりに努めた。

 

しかし、

 

「東の天皇敬みて、西の皇帝に曰す」で始まる

 

隋と対等であるかの様な強気な返書を再び送り、その上、隋の返礼使である裴世清にも和国へ最敬礼の四拝をさせていたと知った隋皇帝・煬帝は、とうとう激怒し

 

「大いに義理なし!」と叫び声をあげた。

 

遣隋使・蘇因高はいよいよ斬られるかと思われたが、隋は高句麗戦を間近に控え、高句麗も東突厥に使者を送るなど反隋とも思われる不穏な動きをしていた為、隋もまた「突厥最大の実力者」と高句麗の連盟を阻止する為に、和国の留学生と蘇因高を再び許して、返礼をすぐにおくった。   

 

それでもなお、隋の煬帝は怒りがおさまらず

 

「二度と見たくない!」と罵声を吐き捨てた。

 

隋の煬帝は暴君として知られ、殺戮を好み天下に恐れるものなどなかったが、唯一、隋に抵抗していた高句麗と突厥が手を結ぶことを恐れていた。

 

突厥最大の実力者は、西突厥の王として、君臨していた頃は「達頭カーン」と名乗り、高句麗と連合し隋と戦っていた。もともと突厥の勢力は隋よりも広大であったため、突厥を東西に分断化する離間策を成功させたことで、隋は初めて優位に立つことができた。

 

そして西突厥の王「達頭カーン」は、隋が擁立した東突厥の王・沙鉢略カーンよりその勢いは強く、突厥最大の実力者として広くアジア大陸にその勇名が知られていた存在だった。

 

隋に敗れた後、和国にまで逃げて落ちぶれたとはいえ、突厥全体に及ぼす影響力はまだまだはかり知れなく、隋は高句麗戦の為に怒りを抑えて西突厥の「達頭カーン」のいる和国との国交を優先せざるを得なかった。

 

突厥最大の実力者も、敗戦後は以前ほどの兵力はなく再起する必要があったため、隋の遠交近攻策に乗って、先年の敵であった隋と講和して、外交的に和王としての地位を確立した。和国内でも、大国隋と対等に渡り合う突厥最大の実力者の王権はゆるぎないものとなっていった。

 

隋は、新羅軍に加え、全突厥の王に突利啓民カーンを擁立して味方につけ、更に和国・百済も味方につけたことで高句麗を完全に威圧した。和国の天子が送った国書を許したことによって、隋の高句麗の包囲網が完成し、高句麗の周辺の国々は、全て表面的には隋に恭順して皇帝からの後認を得た。

 

翌年、百済使節の道斤らが来和すると高句麗は僧曇徴・法定をおくり、新羅・任那からも外交使節の来和が続き、額田部比羅夫は対応に追われた。

高句麗もまた、表面上は恭順していたが、隋に屈する気はなく戦いに備え、和国や突厥に反隋の使者を送っていた。

 

 

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隋と突厥最大の実力者の講和によって、隋の臣国であった新羅は、隋からの要請を受け和国に対して任那地方の一部を割譲させられた。

 

遣隋使の蘇因高は、遣隋使の後、最高位の大徳を賜り、和国で居住していた近江大津の小野の里の名をとって「小野妹子」と名乗った。遣隋使として隋滞在中に観た、隋の寺院の献花の美しさに感銘を受け、帰国後に和国で初めて華道を開き「池の坊」の開祖となった。

 

 

【上宮法王と百済】

隋に対して「日出る処の天子」と名乗った突厥最大の実力者・達頭カーンは、百済では法王と名乗り、和国では上宮法王と呼ばれていた。高句麗王の後押しで百済を制圧し、2年ほど百済の王位につき百済を統治した。

 

法王は隋との戦いに敗れ逃亡中で、和国に渡って再起を図ることを優先していた為、隋に近い百済にまで勢力範囲を広げて和国・百済の両国の王として君臨することができる状態ではなかった。

 

百済では、飛鳥寺型の王興寺(忠清南道扶余郡)の建立を開始し、仏教の教化政策による統治を進めた後、逃げてきた突厥兵と部族をまとめ、和国へと渡った。

 

 

そして、蘇我氏系の武王に威徳敏達王の娘を娶らせ即位させて、百済王の跡目を任せた。

 

法王の勇名に惚れ込んでいた武王は義兄弟の契りを結んで貰い、自分を引き立ててくれた上宮法王に対して忠誠を誓っていた。

 

法王もまた武王を強く信頼し、対隋の前衛となる百済を任せたが、武王は本来は王位継承ができる身分ではなかった。

 

エフタル族と蘇我氏の血をひいていたが王族ではなく、法王の擁立によって王位につくことができたため、その出自を隠す為に武王は

 

「竜から生まれた」と

 

逸話を語っていた。

 

武王の母は、エフタル族の父と蘇我氏の母の間に生まれた大伴姫といい、百済からエフタル王朝が駆逐され、扶余族の威徳敏達王の時代になってからは、寡婦となり親子二人で池のほとりに住み、平民のようにひっそりと暮らしていた。

 

元臣下だった和国の者からの擁護を陰から受けつつも、薯を掘って売り歩くことでささやかに生計をたて生きていた。しかし、身は窶しても志は捨てず母大伴姫は大望の為、先夫の残した軍資金を隠し守り続けていた。

 

武王がまだ子供だった頃は、芋掘りをしていた為、薯童子と呼ばれていた。

 

法王が百済に乗込んでくる前の事、

 

薯童子は新羅の真平王の娘ソンファ姫が美しいとの噂を聞きおよび、新羅で、薯を子供達に与えては

 

「ソンファは夜になると薯童と抱き合ってる」

 

という童謡を歌わせた。

 

まだソンファ姫は薯童のことを知らなかった。しかし、それよりも早くあっという間に歌による醜聞が広まってしまい、それが真平王の怒りに触れて、とうとうソンファ姫は百済との国境に近くに流罪になってしまった。

 

 

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そして、薯童は国境のソンファ姫に近づき想いを告げる。その強引さに心を惹かれたソンファ姫はやがて薯童と結ばれた。

 

身分の違う恋であり、若い二人は、思い切って百済に駆落ちすることにした。

そして薯童が百済に戻ったところ、薯童にも世に出る機会が巡ってきた。

 

威徳王敏達は没して、突厥最大の実力者である法王が高句麗から百済へ乗込んできてからは、王権が扶余族から突厥へと移ったために政情がかわって、実力主義の法王の下では以前ほど身を隠して生きている必要がなくなっていた。

 

薯童は法王の統治下で母が密に蓄えていた軍資金を使って一気に世に出て、頭角を顕していき、やがては法王に認められて、百済王を任せられるまでに登りつめた。

 

武王は法王の義弟分となり跡目を継ぎ百済王についていた。法王が和国へ行き、上宮法王として王位についてからは、百済の統治を武王に全託した為、エフタル族政権の支配以来続いていた両国にまたがる王位は一応は分かれて、和国・百済にそれぞれ王座が成立するかたちとなった。

 

武王はめとった威徳王敏達の娘・田眼姫を王妃とすることで、百済の王位の座を更に固めていった。

 

百済を武王に任せて和国に法王が乗込むとすぐに、和国有力部族で蘇我氏に経済的援助をしていた秦一族が、娘の高橘姫(膳部菩岐々美)を嫁がせて上宮法王側についてしまった。

 

と、言うよりも、

 

蘇我氏に嫌気がさしてきた秦一族が、上宮法王を和国に招き入れたとみる向きもあった。

 

この為、蘇我氏も表向きは野心を抑えて従っていた。

 

百済の支配階級であった扶余族からも王族を人質に出させ、和国はひとまずは上宮法王と推古王女のゆるやかな統治下に置かれた。そして、新羅からも使節が来朝し秦氏が対応にあたり、半島諸国は皆、新たな上宮法王の権勢へと向きあいはじめた。

 

西突厥の王(カーン)であった上宮法王は、もともとは突厥と同盟していたササン朝ペルシアの皇子であり、突厥の入り婿になって王(カーン)を継いでいた。ペルシアのホスロー一世の時代に、突厥と同盟を結び共にエフタルを滅ぼした。この同盟によって両国は互いに婚姻を結ぶようになり、ペルシア王家の皇子であった上宮法王は突厥の王家の入婿となっていった。

 

出自のペルシアだけでなく隣国のローマ帝国の西方文化や中央アジアの影響を多分に受けていて、キリスト教やゾロアスター教(拝火教)など、宗教のもつ支配力にも廣い造詣があり、和国の部族達がまだ見たことも聞いたこともない様な豊富な知識と修法を体得していた。仏教においても倶舎論(仏教の宇宙観)にまで理解がおよび、弥勒信仰(ミトラ信仰)を東アジアに広めた。

新羅の青年武士団「花朗」に於いても弥勒信仰は取り入れられていき、憂国烈士として戦いに殉じる後の武士道精神の礎となっていった。

 

  

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上宮法王

 

【上宮法王と和国】

上宮法王は、エフタル族が武力で統一した和国に、武力による支配だけでなく、17条憲法と冠位の制定によって、和国の有力部族達の新たな帰属を生み出した。

 

そして、原始的な職能集団の部族連合国だった和国をなんとか先進的な国家へと変貌させる為、宗教を利用した精神性の支配を進めた。

 

もともと、突厥民族は、異文化や宗教を排除するという習慣がなく、逆に取り入れることによって宗教は支配に活かしていく傾向があった。

 

上宮法王はまず、大乗仏教の信者であった波斯匿王女の勝鬘妃が説いたという『勝鬘経』を最初に講じて、勝鬘妃を推古王女になぞらせることで王女の権威を高め、今まで和国になかったような荘厳な寺院や仏像などで、権威を目に見える形にした。

 

 

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藁葺き屋根の簡素な建築物と巨大古墳しかなかった和国に、上宮法王や突厥勢が渡来したことで、建造物や建築様式は飛躍的な変化を遂げた。

 

 

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和国の寺院建立の為に、仏像師や僧だけでなく、上宮法王の故郷である遠くペルシアからも、イスカンダルの城壁を手掛けた職人らも呼び寄せ、和国の者達が見たこともない様な建造物が建てられていった。

 

上宮法王の下で、その後も和国は開明的な進化を遂げていき、何もかもが新しい「上宮法王の国」へと変貌していった。

 

次々と建立されていく荘厳華麗な仏教建造物は、藁葺き屋根と巨大古墳しか知らなかった和国の衆目を愕かせ、和国の部族たちに畏敬の念を懐かせた。

 

そして、上宮法王は自らの出生の逸話をイエス・キリストになぞらせるなどして、天の子孫などではなく、上宮法王そのものが救世主であるかのように人物像を描いていた。

 

とりわけ、朝鮮半島からの渡来部族よりも、中国系や中央アジア、ペルシア(波斯国)から渡来した移民や部族に強く支持され、出自が中央アジアに深い縁があるユダヤ系移民の秦一族や鞍作は上宮法王につきしたがって共に地盤を強化していった。

 

秦一族の地盤強化は、仏教興隆に始まったわけではない。

 

元々、秦氏は景教徒(キリスト教)の古い部族だったが、渡来後、早い段階で和国の古神道に融和していった。

 

商売に長けていた秦氏は渡来以来、和国の経済の発展を担い続け、日本列島各地に広がる流通網があった。

 

そして、和国全土の旧部族の神社をまるで乗っとるかの様に、八幡宮、稲荷神社、など秦一族ゆかりの神社を新たに祭っていき、日本列島各地にくまなく広げていった。

この習合により、古来からの岩上祭祀など古神道のかたちは消えていき、建築様式の変化と共にヘブライの特色を残した神道へとかたちを変えていった。

 

西突厥の王であった上宮法王は、ローマやペルシアの宗教だけでなく、仏教についても造詣があり、中国からもたらされた仏教とはまた趣旨が違っていた。隋の仏教界は諸氏百派が乱立し混乱を極めた時代で、後にインドへ仏典を取りに行くこととなる「三蔵法師 玄奘」もまだ生まれたばかりだった。

 

仏教の教える利他心が、人々の和合のための教化政策に必要であることを、上宮法王は理解していた。国民が少なく有力部族の私有民が多かった和国では、利得のみで動く有力部族長たちの和合と教化から進めていった。

 

 

 

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上宮法王は、四天王寺の講堂に人々を集め

 

「法華経」を説いた。

 

今まで和国になかった新しい簡明な教えを説いて、ひとびとの心を捉え感銘をよび起こし、「勝鬘経」「法華経」「維摩経」を講じた後、その注釈書『勝鬘経義疏』『法華義疏』などが著された。

 

また、上宮法王の前世を達磨大師とする逸話も流した。

 

そして、道端で行き倒れになっている飢人に会うと、上宮法王は馬を降りて、みずから食べ物と衣服を与えるなどして利他的な振る舞いを行動で示した。

 

突厥民族は、アジア大陸で最も広大な支配圏を持った国(イル)であり、その版図は隋よりも大きくありながらも、和国と同様に、部族(ペドウン)連合国家であった為、隋の離間策に容易く陥り東西に分裂させられ撃破されてしまった。

 

西突厥の王であった上宮法王は、連合国家の脆さと人々が離散する辛さを身を持って体験し、和合することの大切さを敗戦によって痛いほど学んでいた。

 

国威のため人々の和合は、上宮法王には悲願であり、仏教の利他的な教えだけではなく、仏教にはない「和」という道徳的な教えを人々に広め和国をかためていった。

 

和国はまだ国家としての体制がようやく整えられ始めたばかりで、「国」とは土地の範囲を表す言葉でしかなかった。

 

和国の人々の意識は、部族や民族に帰属していて首長や個人に対する忠誠心しかなく、国というものに対する忠誠心や国粋主義などはまだどこにも存在していなかった。

 

アジア大陸からの移民や渡来人が多かったため、郷土意識もなく、また民衆の殆どは有力部族たちが所有する「私有民」だったので、国民さえもろくに存在していなかった和国だが、上宮法王によって、部族同士の利得と「武力統治」のみだけだった旧連合国家に、憲法による「法治」と宗教と道徳による「徳治」が初めて齎されたことで、おぼろげながらも日本という国家への胎動が始まりつつあった。

 

 

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上宮法王

 

 

上宮法王の行いや出生の逸話や仏教政策は、実は全て上宮法王を援助していた秦一族が演出と創作を行っていた。

 

もともと上宮法王は、冷酷で支配と自己顕示欲が強く、利己的な王であったが、側近である秦一族の御曹司・秦河勝が智恵と寛容さに溢れた存在だったため、上手く上宮法王の支配欲に融和していき

 

「和国を支配し国威を高めるために」と、

 

上宮法王を聖人の様に演出し続けて、演じている上宮法王本人も次第にその感化をうけていった。

 

上宮法王が渡来するまでの秦氏は、蘇我氏を援助していて、聖人化の演出はもとは蘇我氏に対して行われていた。

 

ユダヤ系移民の秦氏は、常に表には出ずに裏から時の権力者を支えてきた部族である。

 

蘇我馬子という名乗りも「我、蘇る、馬小屋の子」という、イエスキリストの誕生の逸話になぞらせた名前であり、教化政策の実践も実際は蘇我氏によるところが大きかった。

 

上宮法王は、むしろ好戦的であり、どちらかといえば慈愛や利他心とは遠い存在であったが、秦氏と出会ったことでその影響が大きく働き、上宮法王自身も和国の精神性の変化の渦に巻き込まれていた。

 

 

和国の有力部族の私有民に対する扱いは一様ではなく、上宮法王は有力部族らに人々を慈しむことを諭した。

 

「もし奴婢(奴隷)に酷い扱いをするようならば、それは仏法を破ることであり、仏法を破れば国も滅亡する」

 

と説き、そして、

 

「本願に背けば仏法破滅の咎で官位を失い、怨敵となり子子孫孫まで病で倒れ夭死する」と戒めた。

 

本来の上宮法王の冷酷さだけでなく、側近の秦河勝の作意が融和し、次第に有力部族達の意識も少しずつ感化されていった。

 

 

しかし、和国の国家としての建国と意識改革は始まったばかりであり、部族連合国(イル)であった和国の民衆は、有力部族らが所有する「私有民」ばかりで、まだ国民が殆どいないという状態は続いていた。

 

民の方も、自分が所属する部族の中でずっと生きていたので、国という感覚は分からず自分が国民であるという意識も全くない。

 

国民ではなく、

 

ずっと部族に所属する「部民」なのである。

 

所属する有力部族から独立した別個の存在であるということなど夢にも思うことなく、ただそれが当たり前であるかの様に隷属していた。寧ろ、所属する部族が無ければ浮浪民であり奴隷にされてしまう事もあっただろう。

 

勿論、「私有民」を有力部族から開放し、国に所属する国民を増やし、国軍をつくろうとしている者達の存在など知らない。

 

そもそも部族(ペドウン)の民たちを私有民ということ自体、国王側からの勝手な言い方にすぎない。

 

もともと職能集団による部族連合であった和国は、各部族ごとの職域に応じた、領地と領民をそれぞれ所有していた。

 

開拓時代の和国には、部族を率いて亡命してくる支配階級たちや流民達の流入が続き、多くを受け入れても、まだ受け入れ可能な入植地があり、順を追って渡来した族(ウル)たちは、それぞれの特徴を活かした職業集団として和国内での役割を開拓し定着してきた経緯があった。

 

和国はこうした原始的な(疎開的な)部族社会から、

秦氏らの協力によって上宮法王の打ち立てた「国家」へと生まれ変わりつつあったが、

 

部族達の古い意識を変えていき、新たに「国」の官職を与えることと引き換えに、私有民と領地を解放させて、

 

「人民と土地の国有化を進めなければならない」

 

という国の課題は先に山積していた。

 

 

 

【蘇我馬子】

半島から列島の諸国が親隋となり隋・高句麗戦が始まると、和国では蘇我氏の巻き返しが始まっていた。蘇我氏は本来、軍略家ではなく政治家で、戦いは得意ではなく、戦局よりも政局を読んで暗躍する傾向があった。武力衝突よりも暗殺を得意として、大臣であった蘇我氏は、次々と自分の娘を王に嫁がせ、蘇我一族の血を引かない皇子や蘇我氏に従わない王を暗殺していき、裏から外戚としての権勢をかためていった部族だった。

 

 

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エフタル族に領有されるまでの和国はゆるやかな母系社会であり、王女と結婚した有力者が王として立っていて、外戚権力の集中はまだそれほどなかった。

しかし、エフタル族の様な強力な男達が王位に立ったことで中心軸が男系寄りとなり、蘇我氏の様に次々と娘を嫁がせ、沢山の皇子を産ませ権勢をふるうという外戚勢力が伸びる隙が生まれた。

 

蘇我氏は、元は百済の大臣だったが、エフタル王家の権勢にあやかり、エフタル王家の外戚として百済・和国の権力者となっていった。か

和国内でのエフタル族の強者どもの争いは無くなったが、蘇我氏の外戚勢力は隠然として残り、今度は突厥最大の実力者・上宮法王のもとへも娘の蘇我刀持子を嫁がせ、上宮法王の外戚となりその地位を保った。

 

蘇我氏の首長の蘇我馬子は、上宮法王の渡来さえなければ推古王女との間に子をなして和国の王になっていた程の実力者である。表向きは上宮法王を立てながらも、野心は萎えることはなく、次第に野望を露出し圧力を推古王女へとむけていく。

 

612年の正月には、

 

「蘇我氏と組んでもっと世に出るべきでは」との慶祝の歌をうたった。

 

推古王女は、

 

「実力者の蘇我氏ならば最もなことで法王はそうするべきだ」と、

 

臍を噛む様に返した。

 

蘇我馬子は、上宮法王の渡来がなければ推古女王の夫、即ち王となって和国を牛耳っていたはずだった。

 

推古王女を利用した権勢は王そのものであったが、蘇我馬子自体に独力で上宮法王を凌ぐほどの力はなく、推古王女を動かすしかなかった為、結果として上宮法王と蘇我馬子の板挟みとなり苦しめられた推古王女は、少なからずとも蘇我馬子の野心に心を砕いた。

 

蘇我馬子は上宮法王へは篭絡を企み、この年に百済より味摩之(みまし)が渡来し中国の呉の伎楽(仮面舞踊)を上宮法王へ披露したが、このとき蘇我馬子は秦河勝らを共に舞わせて上宮法王を魅了させしめた。

 

(後に秦河勝は猿楽の開祖となった)

 

秦河勝が蘇我氏と上宮法王の双方に資することで和国の民のためとなることを考えていなければ、蘇我氏の為だけに上宮法王を動かすことが可能だったかもしれない。

 

しかし秦河勝は、蘇我氏の味方という訳ではなかった。蘇我氏に与していても上宮法王に与していても、常に心根は民の味方なのである。

その美少年の容貌からは想像もつかないほどの志操の高い精神家であり、心中には政治に協力するのにも和国を豊かにする目的があるということが、野心家の蘇我馬子はまったく理解ができなかった。

 

 

その後、蘇我氏の首長の蘇我馬子は病に倒れてしまい、病気平癒のため男女一千人を出家させ回復した。

 

病気平癒のために、男女一千人も出家させる等ということは、王を凌ぐほどの権勢であり、推古王女の威光はまだ蘇我馬子に射していたと見え、必ずしも上宮法王の天下という訳ではなく拮抗していた様だ。

 

しかし、表だって上宮法王とぶつかるということはなく、回復後の蘇我馬子は上宮法王と共に帝王紀・国記など国書の編纂を始め、蘇我氏の意向を国の起源に組み入れていった。

 

蘇我馬子の圧力はしだいに強まっていき、やがては推古王女に屯倉(王家直轄の領地)である葛城地方を要求するようになっていく。

 

 

 

【隋の滅亡と唐の建国】

610年、隋の煬帝は洛陽で各国の朝貢使節を招き莫大な費用をかけ大饗宴を催した。

 

更に、多くの民衆が強勢労働で命を落とした隋の大運河が完成し、煬帝は運河に四階建ての龍船を浮かべ進水し完成を祝う大饗宴も行った。

 

諸王、百官女官ら10万人を乗せた舟が、前後に数千隻200里も続き、舟の引き手だけで8万人の農民がかり出されるという史上空前の規模の水上の宴だった。

 

翌611年には高句麗遠征の兵士113万人を徴兵し、いよいよ兵を起す。

 

612年に高句麗へ侵攻、煬帝みずから遼東へ親征し、鴨緑江(アムノッカン)を超え、高句麗内部へ進んだ。

 

迎え撃つ、高句麗の乙支文徳将軍(ウルチムンドク)は、降伏の使者のふりをして隋軍の陣に入り、隋軍の弱点が食料補給にあることを見抜いた。乙支文徳将軍は、敗戦と逃亡を繰り返して隋軍に追わせ、隋軍を深く引き入れ食糧補給の兵站を伸びきらせる作戦に出た。

 

 

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数の上で、圧倒的優位であった隋軍は勝気に追い続けた結果、戦線が伸びきり、乙支文徳将軍の焦土作戦(敵に食糧補給させない為、国土を全て燃やす)によって兵糧不足に陥ったところを包囲され殲滅された。飢えに陥った100万の大軍はほぼ壊滅させられてしまった。高句麗兵の十倍の軍容でありながら、無事に隋に帰国することができたのはわずか2千人程度だった。

 

613年、隋の煬帝は再び高句麗攻めの軍を起すが、煬帝による度重なる負担に民衆は耐えかねて、ついに楊玄感が黎陽で反乱を起こし、洛陽を攻撃したため撤退する。楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして中国全土で隋への反乱が次々と勃発した。

 

 

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翌614年、煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが、戦うことができずに和議を結び停戦とする。しかし、高句麗の嬰陽王は約束を反故にして朝貢しなかった。隋の煬帝は怒るが反撃できず、隋国内各地で起こった反乱から逃げだし、南方の江都へ遷都してしまった。和国は615年6月に犬上御田鋤を隋に派遣し政情を伺ったが翌年、隋の各地の反乱は絶頂となり、遣隋使の犬上御田鋤は帰国し、和国へは百済や高句麗の使節の往来が続いた。

 

煬帝が南方の江都へ逃げた後は、北方の反乱はますます激しくなり、李密、王世充、竇建徳らの反乱が拡大していき、一時は従属していた突厥も隋の衰退を見て再び北方で暴れだした。和国の上宮法王も、船を造り大陸へ渡ろうとしたが、蘇我馬子ら和国群臣の猛反対により、大陸進出へは至らなかった。

 

617年11月、太原で起兵した留守・李淵によって隋の首都長安の大興城は落とされてしまった。李淵は煬帝の孫「楊侑」を隋皇帝・恭帝として即位させた後、618年5月に「恭帝」から禅譲(国権を譲ること)を受けて唐を建国した。南方の江都にいた煬帝は側近の宇文化及により切られ隋は滅んだ。隋が滅ぶと、各地で反乱を起こしていた武将達は、国号を名乗るようになり皇帝や王を自称し、中国全土は戦国時代の様相となった。

 

洛陽の王世充(鄭王)、竇建徳(夏王)、劉黒闥(関東王)、劉武周(定揚カーン)、薛挙・薛仁杲(秦帝)、梁師都(梁帝・大度毘伽カーン)、をはじめ、李軌(涼帝)、蕭銑(梁王)、宋金剛(宋王)、 朱粲(迦楼羅王)、李子通(呉皇帝)、 林士弘(楚帝)、 徐円朗(魯王)、高開道(燕王)、輔公祏(宋帝)、阿史那社爾(都布カーン)、郭子和(永楽王)、など、王や皇帝を自称する群雄が中国全土に割拠していた。

 

隋の禅譲を受けまだ「唐」を建国したばかりの李淵は息子らと共に、各地に乱立した他の国々の討伐に追われた。

 

李淵の次男・李世民は、特に活躍が目覚ましく、

 

隋の頃より名が鳴り響いていた【李靖】【屈突通】【殷開山】【秦叔宝】【宇文士及】【羅士信】【尉遅敬徳】【長孫無忌】【程名振】【丘行恭】【程知節】ら多数の名立たる武将たちを次々と従え、最大級の勢力だった洛陽の王世充(鄭王)、竇建徳(夏王)、劉武周(定揚カーン)、劉黒闥(関東王)、宋金剛(宋王)、薛仁杲(秦帝)を破る武功を挙げた。

 

兄の李健成は嫉妬し、反乱を企んだほどだった。

 

 

 

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唐は、中国内の平定に追われ、高句麗や和国への直接的な干渉をするほどの余裕はなかったが、外敵の突厥と高句麗の侵入だけはなんとしても防がなければならなかった。まず国内の平定を優先し、国外に向ける兵力は抑え、武力を用いずに内政干渉による親唐工作を行っていた。

 

618年に高句麗の嬰陽王が没すると唐の李淵は、嬰陽王の弟で親唐派の栄留王を擁立し、高句麗の大臣にヨン・テジョ(高向玄里)という者を送り込んだ。

 

 

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ヨン・テジョは和国名を【高向玄里】といい、和国から隋への留学生として派遣されていた者だが、もともとは中国人だった。

 

400年前に滅んだ中国の漢王朝の皇帝の子孫を自称していて、祖先が和国に亡命して来て以来、和国では漢王とか高向王と呼ばれていた。

 

高向玄里は策謀型の野心家である。

 

留学中に隋が滅亡すると遣隋使らは唐に拘留されてしまうが、高向玄里は和国の情報を唐に提供するようになり、やがて唐へと帰順していった。 

 

唐は、高向玄里から和国や東アジアの情報を得るなどしていき、上宮法王の暗殺を企みはじめた。

 

そして、高向玄里の政治力の才能を認めると、まず高句麗へと送りこみ、大臣に就かせて親唐工作を命じた。

 

高向は、高句麗の五大部族の中で没落してしまっていた東部家門の「淵家」に入婿し、淵(ヨン)・テジョと名乗って、唐に擁立された栄留王の後押しを受けて高句麗の大臣に就いた。

 

高句麗は部族社会としては既に成熟期を過ぎていた。五大部族らは多部族を吸収し肥大化し、半ば貴族化した既得権集団の様な存在となっていた。

 

五大部族は消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部からなり、高向がヨン・テジョと名乗った東部家門は順奴部である。

 

高向玄里は高句麗栄留王の下、内政干渉をすすめていき、隋の高句麗遠征時に捕虜となっていた中国人を全て解放した。

 

もとは和国の遣隋使でしかなかった高向だが、高句麗の親唐工作をやってのけたことで、この後の唐の極東政策を担うことになっていく。

 

隋が滅亡した後は、和国の親隋派は勢いを失いひっそりとしていた。親隋は即ち反唐ということではなかったが、和国はまだ出方を伺っていて、唐への使節は派遣していなかった。

 

しかし唐は、和国にいる上宮法王の存在だけは看過することはできず、高向玄里に工作を命じた。そして高向玄理は和国の上宮法王を暗殺する為に、蘇我馬子と秘密裏に交渉を始める。

 

高向は和国へと向かうことになるが、高句麗から和国へ渡るにあたって、高向が入婿となった淵家が心配の種だった。

 

没落していた淵家は、高向玄里を淵家に迎えたことで唐の加護を受け家門を立て直し、高向は大臣の就任権のある淵家に入ることで大臣に就くことはできたが、高向こと淵(ヨン)・テジョは夫人を伴ってきていた為、淵家のヨン・テスという者が将来、夫人の存在が淵家の跡継ぎの邪魔になると考えて敵愾心を抱き、暗殺を企み始めていた。

 

 

高向は淵家の暗殺を恐れて、仕方なく夫人らを伴ったまま和国へと向かっていった。

 

 

【挿絵表示】

ヨン・テジョ【高向玄里】

 

 

唐は、親唐派である栄留王を高句麗王に冊立し、高句麗は押さえていたが、隣国の突厥の部族達はそれぞれ唐に対立しまだ戦をしかけていた。

 

もと西突厥王で和国にいる上宮法王「達頭カーン」も唐に帰服せず、唐にとっては突厥に影響力のある上宮法王の存在自体が目障りだった。

 

たとえ和国から帰順をしめしてきたとしても、生かしておくわけにはいかず、唐は和国に渡った高向玄理を通じて、和国の実力者である蘇我氏に対しても、

 

 

「上宮法王が、反唐であろうが、親唐であろうが、必ず殺せ」と、厳命して、

 

上宮法王暗殺の準備を進めさせていく。

 

 

 




後書きその①
この小説を書こうと思った訳、、

私はただのB級歴史ヲタクで、本でも漫画でも史跡巡りでも、特に古いものが好きでした。

日本の場合、歴史モノと言っても幕末とか戦国とか何百年前の新しいものが圧倒的に多くて、せいぜい古くても千年くらい前の平安時代や鎌倉時代 

隣の韓国では、2000年前の歴史ドラマや紀元前の歴史モノとかがザラにあるのに、日本には殆どない。


何千年も前から日本列島には人々が住んでいたにも関わらず、

歴史モノとゆ〜と何百年前のチョンマゲものばかりで、、日本の歴史は

なんて薄っぺらいんだろう…と、ずっと物足りなさを感じていました。


ならばいっそ自分が読みたい時代のものを、自分で書いてみようと思ったのがきっかけです。

文才もなく、小説など書いたこともなかったですが、ともかくチョンマゲ時代よりも古い時代を書いてみようかと、

小説サイトを探し、こちらハーメルンのサイトに辿りつきました。

挿し絵の上げ方も簡単で加筆修正もしやすいので、これならばチャレンジできるかな、、と思い。


つづく、、


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