和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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660年

第1話 壮絶ケベク将軍! 黄山伐の決戦
第2話 唐軍を震わす金ユシン
第3話 百済皇紀700年の終焉
第4話 名将 黒歯将軍の抵抗
第5話 ウィジャ王の最後

 


第16章 西暦660年【百済滅亡】Ⅱ

【壮絶ケベク将軍! 黄山伐の決戦】

 

金ユシン率いる新羅陸軍五万は、炭硯峠から黄山を抜け、唐軍と合流する予定だった。

 

蘇定方より

 

「7月10日に百済の南で新羅軍と合流し首都サビ城を攻めたい」との、提案があり

 

陸路を進軍する金ユシン将軍は、7月9日には炭硯峠を抜け黄山に出て、百済軍と対峙した。

 

 

向かえ討つ百済軍は、ケベクが将軍に復帰し五千の兵を率いていた。

 

新羅軍の金ユシンに太刀打ちできるほどの将軍がおらず、そのうえ百済兵の多くを孝徳皇子が率いていってしまった為、新羅軍五万に対し五千の兵で戦わなければならなかったので、ケベクを除いて誰も出征しようとする者がいなかったのだ。

 

 

出陣が決まった時、ケベク将軍は妻に今生の別れを告げる為、一度自分の屋敷に戻った。

 

流石のケベク将軍も、五千対五万の戦いに無事に勝利して生還できるとは思えず、死を覚悟していた。

 

 

それを聞くと、妻は静かに話しだした、

 

 

「ケベク将軍の死の覚悟を、どうかここだけのものにしないで下さい。

 

ケベク将軍の覚悟は、百済兵全員の覚悟、百済の覚悟でなければなりません。

 

ケベク将軍がいなければ、その時はもう百済も私たちもないのです、

 

戦場で戦わずとも、私たちにとっても命がかかった戦いなのです。

 

私は、将軍の妻としていつでも死ぬ覚悟は出来ています。

 

運命を共にする。その決死の覚悟で、

 

ケベク将軍が出兵することを

 

将軍と共に戦う兵士たち全てに、

 

どうかお伝え下さいませ、、」

 

ケベク将軍は、その言葉の意味が分からずにふと考えてしまったが、

 

その刹那、

 

妻は言い終わるやいなや後ろを向き、短刀で自分の胸を突いていた。

 

 

 

ケベク将軍が止める間もないほどの早さで、

 

鮮血が吹き

 

その一瞬で、ケベク将軍は全てを解した。

 

そして、

 

倒れこんだ妻の首に、涙を堪えて剣を振り下ろした。

 

 

 

言葉にならぬ叫び声を上げた、、

 

 

妻が命をとし

 

ケベク将軍の決死の覚悟は、更に天をつくほどに高められていた。

 

 

『壮士一度行けば、二度帰らず』

 

 

 

一人で戦支度を済ませ、閲兵場にいった

 

ケベク将軍は、全軍を整列させ、

 

天に響き渡るほどの大声で叫んだ。

 

その昔、越の勾せんが五千の兵で70万を撃退した古事をひき、

 

「吾らが正にそれを世に示す時がきた!」

 

と、兵らを鼓舞した。

 

そして、血のりが着いた剣を空に突き立て、叫ぶ。

 

 

「吾らが勝利しなければ百済もない!

 

吾は決死の覚悟で出陣する!

 

皆もそのつもりで共に参れ!

 

百済のために、愛する家族のために!

 

吾と共に死ぬまで戦い抜け!

 

出陣すれば二度と戻らぬ覚悟ぞ!

 

吾は、、既に妻を切ってきた!!

 

帰る家などない!」

 

 

静寂の中、すすり泣く声があちこちで漏れる。

 

暫しの哀悼の後、

 

ケベク将軍の覚悟は伝わり、

 

五千の兵は決死隊となって、一斉に鬨の声をあげた。

 

 

勢い天を衝く百済軍の前に、新羅軍は初戦で敗れ、その後も本陣が後方から奇襲を受け、緒戦から散々な目にあっていた。

 

 

しかし、新羅軍もなんとしてもサビ城攻めに遅れる訳にはいかない。遅れをとれば陥落後に唐軍は百済から新羅を伺うであろうことは目に見えている。

 

百済陥落は、新羅軍が優位で進め、戦後処理を有利にすることが重要だった。

 

百済兵五千に対し、新羅兵は五万、10倍の兵でありながらも新羅軍は百済軍に勝利することができなかった。

 

妻子を切り捨てて戦場に臨んだケベク大将軍の下、五千の兵は決死隊となり士気は天を抜くほど高く、10倍の新羅軍と四度戦い、四度退けた。

 

新羅軍は多勢を頼みに士気は高くなく、10倍の兵力でもってしても勝てぬことに士気は下がる一方だった。

 

 

金ユシンは苦肉の策で、ファランを出征させた。

 

 

「殺生は時を選べ!我が身を惜しむな!忠義を惜しめ!」

 

 

 

両軍に響き渡るほどの大声を上げ、馬腹を蹴る!

 

全身ハリ鼠の様に矢を受けながらも、敵陣まで一直線に馬を駆り、突撃し鮮血を吹いて散っていく。

 

命を惜しまず、国に忠誠を尽くし、壮烈に散っていく少年兵たちの憂国烈士ぶりに心を打たれた新羅兵達は、

 

 

「命を惜しみ遅れをとるな!」と、

 

決死の覚悟で全軍が突撃した。

 

 

両軍とも決死隊同士の壮絶な戦いが始まった。

 

新羅兵も百済兵も勝利も敗北もなく、ただ死があるのみである。

 

心臓が血を流すのを止めるまで戦う。

 

 

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文字通り、大地が血で染まる

 

凄惨な戦いの中、

 

ケベク将軍は戦死した。

 

 

ケベク将軍が戦死すると、残った百済兵は撤退していき、サビ城の先の江景山の手前まで引き返していった。

 

新羅軍も剣を収め金ユシンは彼らを追撃することはせず、黄山で戦士した兵士らを丁重に慰霊してから、唐軍との合流地点へ向かっていった。

 

 

 

【唐軍を震わす金ユシン】

 

10日早朝、唐軍は新羅との合流地点に到着したが、既に百済軍は陣を敷き待ち構えていた。

 

戦術的な定石では、目の前にある江景山を先に取った方が戦に有利である。

 

(こごが戦の別れ目、、)と、両軍は激突した。

 

 

唐軍は新羅軍と合流してから江景山奪取の戦いに望みたかったが、到着が遅れているため単独で挑まなければならなかった。

 

やがて、唐の水軍が上陸してきて陸軍と共に百済軍を挟撃した。

 

新羅軍が黄山を抜けた頃には、江景山の戦いは終わり、陣を敷いた唐軍が新羅遅しと待ち構えていた。

 

 

壮絶な戦を終えてきた新羅軍に対し、

 

「皇帝軍に遅れて来るとは無礼千万!

 

10倍の兵力でありながら突破できぬとは、

 

なんと新羅軍は弱いのだ!」

 

と、

 

蘇定方は、唐高宗皇帝の権威を振りかざし新羅軍を呑んでかかってきた。

 

 

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蘇定方将軍

 

 

新羅軍を旗下に置き、軍の統帥権を握ろうとする蘇定方は、皇帝の威光をかさに高圧的な態度で新羅の落ち度を責めて新羅軍を従えようとしている。

 

 

到着が遅れた責任を追及し、新羅軍の行軍総督の処刑を要求してきた。

 

 

一方、金ユシンも黙ってはない、

 

ケベク将軍の強さに比べれば、目の前の唐軍など恐るに足りず、百済攻めの前に唐との決戦も辞さないほどの覚悟で臨む。

 

金ユシンは

 

 

「ボラッ!」と、怒鳴りつけ

 

 

蘇定方と劉仁願を眼光鋭く見据えた。

 

 

蘇定方は唐軍きっての常勝将軍であり、劉仁願も猛獣と素手で戦うほどの豪の者である。この二人を怒鳴りつけられる者など唐国内にはいない。

 

 

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劉仁願

 

合流した新羅軍と唐軍はあっという間に一触即発の状態になってしまった。

 

更に、金ユシンらは猛反発する。新羅軍はあくまでも同盟軍であり、金ユシンが軍を率いる以上、断じて唐軍の旗下に入ることはない。

 

 

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金ユシン将軍

 

 

金ユシンは、

 

「黄山伐の戦いがどのようなものであったかも知らず新羅を軽んじるとは許せない!その罪を誅す!」

 

 

一声と共に鉞を振り、蘇定方に刃先を向けた。

 

「今、蘇定方を斬り百済との戦の前に、唐軍と戦い決着をつけてやる!」と、

 

逆に蘇定方を脅した。

 

唐を怖れる様子など微塵もない。

 

新羅は弱い国と侮っていた蘇定方らは狼狽する。

 

当然、金ユシンは許しを請うてくるものとたかをくくっていた。

 

しかし、表向き新羅は親唐であるが、金ユシンはもともと反唐であり、唐の将軍を殺すことに抵抗などない。

 

その場に居た誰もが、蘇定方の首が力一杯切り落される光景が浮かぶほど、

 

凄まじい殺気を一気に放った!

 

本来、殺人狂でない限り集団生活をする人間は、人間を殺すようには出来ていない。集団を守る摂理に従う時にのみ人を殺す。そして、

 

戦で強い者ほど、人を殺してきた経験を重ね、命の奪い合いに、人外の魔性とも言える氣を纏うようになる。

 

蘇定方ら唐将は、

 

一瞬で、金ユシンがただ者ではないことを理解し、

 

凍りついた。

 

 

金ユシンは尚も、

 

「皇帝の名を語り、新羅を侮辱することは唐新羅同盟を侮辱するも同じ!

 

蘇定方は唐新羅同盟の敵だ!蘇定方により唐新羅同盟が破れるならばその罪を問う!」

 

 

と、火の玉の如く激しく蘇定方を恫喝した。

 

 

怒髪天をつく勢いである。

 

 

 

ここまで来て、百済と戦いもせず同盟を破綻させてしまう訳にはゆかない。

 

もし、ここで唐の将軍らが応戦すれば唐新羅同盟は一気に崩れてしまうだろう。

 

蘇定方が皇帝軍を率いているのは百済と戦う為であり、唐の同盟国の新羅と戦う為ではなく、万が一その様なことになれば罪に問われかねない。

 

 

、、蘇定方は折れた。

 

 

その後も、何度も蘇定方は新羅を下に置こうとするが、金ユシンは一歩も引き下がることはなかった。

 

蘇定方が、皇帝の命令をかさにきれば、金ユシンは唐新羅同盟を盾にとり、その度に唐との戦も辞さない程の強腰で臨み、新羅軍を唐軍と対等な立場から落とすことはなかった。

 

遂に、新羅軍は唐軍の傘下に入ることなく首都サビ城に向けて進撃を開始した。

 

 

660年7月12日、

 

唐新羅連合軍は百済の首都サビ城を包囲した。

 

 

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百済軍は、籠城せずに討ってでてきた。

 

百済軍の最後の抵抗に金ユシンらは、唐軍に新羅軍の強さを見せつけよとばかりに奮戦した。

 

金ユシンの勇名は既に唐国にも聞こえていたが、

 

これほどの猛将であったかと唐軍は恐れおののいた。

 

 

あまりの金ユシンの凄まじさに

 

 

百戦錬磨の蘇定方までも、

 

 

「アジア天下に並ぶ者無し!」

 

と驚愕の声をあげた。

 

 

 

金一族の製鉄の粋を結集した円月刃を、目にも止まらぬような早さで振り回し、二人三人と一気に敵を切り裂く。百済兵達は皆、刃を合わせる間もなく次々と倒れていく。

 

金ユシンだけではない、金法敏皇太子をはじめ新羅全将軍が一騎当千の強者であり、あたらざる勢いで敵を屠っていく。

 

兵はよく調練され、隊伍の散開も手足の如く動く。

 

 

蘇定方は、

 

「百済を討った後は新羅も討ち、百済と同様に新羅も唐の属州にせよ」と、

 

高宗皇帝の命を受けていた。しかし、

 

新羅軍の強さを目の当たりにし、

 

 

「果たして今の唐軍だけで新羅軍に勝てるだろうか、」と思った。

 

李勣将軍やソル・イングイでさえ勝てぬやもしれぬ、、

 

兵数は唐軍が勝るが、士気は低く、勢いは新羅軍に呑まれている。もしも新羅軍と戦うとなれば楽な戦いではなく相当の覚悟をしなければならない。

 

 

 

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蘇定方将軍

 

 

「それにしても、、」

 

その新羅軍でさえ10倍の兵力でありながら、4度戦い4度勝てなかったという、百済のケベク将軍とはどれ程の強者であったろうかと、蘇定方は身のすくむ思いだった。

 

「吾が思うよりも、まだまだ天下は広い。」

 

新羅は唐に援軍を求めてくる弱い国ではなく、

 

 

それだけ百済が強かったということだ。

 

 

 

 

【百済皇紀700年の終焉】

 

翌、7月13日にはウィジャ王と孝徳皇子は熊津城へと逃がれていた。

 

サビ城では残った泰王子が、勝手に玉座につき百済王を名乗り、唐新羅連合軍と対峙した。

 

 

サビ城内にいた隆王子はこれに驚き、

 

「まだウィジャ王様が、熊津城に健在なのに王を名のるとは、国家存亡の危機にどさくさに紛れ王位を簒奪するつもりか!」と、

 

と泰王子を激しく責めたてた。

 

が、逆に殺されそうになり危険を察知した為、仕方なく隆王子は城から逃げ出し唐軍に投降した。

 

すると、城内では

 

「王子たちが結束して唐車と戦うならまだしも、

 

危急存亡の時にどさくさに紛れ勝手に王を名乗る様な泰王子では、唐車とは戦えない。」と、

 

隆王子に続こうとする者が後を経たなかった。

 

隆王子は、先代の武王の王子で唐が皇太子として承認していた親唐派の王子である。

 

名乗り王と運命を共にすることは出来ないと考える者たちは、隆王子と共にあれば助かるはずと是を追う人々が次々と続き、泰王子は「王」を自称したもののこれを止める事が出来なかった。

 

投降者を止められなかった泰王子の指揮下で、城内の百済軍の士気は落ちてしまった。

 

翌日、百済軍は唐軍に攻められ、蘇定方が登城して幟を立てるよう軍士へ命じると、百済王を自称した泰王子は、あっさりとサビ城を開城して降伏してきた。

 

 

唐軍は、泰王子を捕らえサビ城を受け取ったが、

 

 

サビ城に雪崩れ込んだ兵士らは暴行と掠奪の限りを尽くし、財宝を奪いサビ城を内側から破壊しはじめた。唐軍の蹂躙、凌辱から逃れようとする女性達は皆、サビ城の裏の扶余山から身投げをした。

 

エフタル族の欽明聖王が、サビ城を都として以来、

 

123年の王都の歴史が終わった。

 

熊津城に逃げた、ウィジャ王と孝徳皇子は、

 

18日に降伏し、百済700年の歴史を閉じた。

 

 

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サビ城が唐軍に落ち、熊津城のウィジャ王が降伏すると、周辺の諸城主は皆、次々と降伏しはじめた。

 

 

同盟国の高句麗は西北から唐軍に攻められていた為動きがとれず、蘇定方の速攻により百済へ援軍を送る間もないままに戦は終わってしまった。

 

この頃になり、イリの配下で和国に駐屯していた高句麗の乙将軍が百済へ向かったが時既に遅かった。

 

百済陥落の報が唐に届くと

 

高宗皇帝は熊津等五都督府を設置するよう詔を降す。

 

そして、百済三十七郡を部族長らに分け、部族長をそのまま都督や刺史に任じ統治するとした。

 

これでは、王や国が変わったところで、在郷の有力部族にとっての既得権は移動しない。和国の大化の改新のときに【国造】だった地方部族を【国司】に任じ直したときと同様である。

 

有力部族らの中には、国や王は部族の為になる方を選ぶべきであると考える者もいたので、ウィジャ王よりも、唐の大きな加護を望む者が出てきても不思議はなかった。

 

ウィジャ王を奉じ唐に下った祢将軍という者などはその後、百済熊津総督となり、唐の宮廷警備兵の最高責任者にまで登る破格の大出世をした。

 

 

 

【名将黒歯将軍の抵抗】

8月、

 

新羅の武烈王・金春秋もサビ城に入城し、

 

蘇定方は祝宴を開いた。

 

 

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百済の王族や群臣を眼下に引き出し、ウィジャ王に酒の酌をさせて罵るという、屈辱的な在り様に旧百済の臣は涙を流さないものはいなかった。

 

この頃になり、百済軍の名将

 

黒歯将軍が部隊を率いて投降してきた。

 

黒歯将軍は百済軍ではあるが突厥人で、後に唐の将軍になると頭角を表し、燕国公を賜り、蘇定方に続く唐国を代表する大将軍となる。

 

しかし、この時は一旦唐軍に降伏したものの、唐軍の軍紀は乱れ兵士らが百済の民を殺戮し、婦女子が凌辱されるのを黙って見てられなくなってきた。

 

義憤に駆られた黒歯将軍は、城を出て自分が指揮していた元部下達を呼び寄せ部隊を組織し、任存山城で唐軍に叛旗を翻した。

 

黒歯将軍が挙兵すると、任存山城に百済の兵士たちが続々と集まり出し、あっという間に3万を越えてしまった。

 

驚いた蘇定方は兵を出し、急遽任存城を包囲する。

 

黒歯将軍は兵士達の中から精鋭を募って唐軍への奇襲攻撃を繰り返して、ついに唐の攻囲を打ち破って追い払ってしまった。 更に黒歯将軍は唐軍を追撃し、徹底的に打ちのめした。

 

蘇定方は自ら出陣し、黒歯将軍と対峙した。

 

 

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蘇定方将軍

 

 

蘇定方は唐軍きっての常勝将軍であったが、蘇定方の巧みな用兵を持ってしても黒歯将軍を打ち破ることができなかった。

 

 

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しかし、唐の軍紀は回復し、黒歯将軍に奪回された城は次第に取り返し始めた。

 

その後も黒歯将軍はサテク将軍とともに抵抗を続けていたが、段々押され要害の地に立て籠った。

 

 

9月3日、

 

蘇定方は一万の兵と劉仁願を残して、ウィジャ王ら捕虜一万余を連行し唐へと帰還していった。

 

百済王族と群臣は全て連行されていき、

 

百済王家は消滅した。

 

蘇定方と入れ替わりに唐は、王文度を百済総督に送り込んできた。

 

唐に降っていた百済の隆王子が総督にくるかと思われたが、直ぐに百済王族を総督に立てることは控えたのか、文人である行政官の王文度が着任した。

 

或いは別の次元で、唐が伐り従えた新たな領国に対する利権と地位は、皇后派、皇帝派の均衡によって決められていたのかもしれない。

 

王文度は権勢家であるが壮気盛んな人物でわなく、好戦的な蘇定方とは対象的な臆病な人物だった。

 

蘇定方の様な強さや自信はなく力で民を抑えることはないが、皇帝の権威をかさに着た高圧的態度がははなはだ強い。

 

百済領民を安んじるという目的を持って東アジアへとやって来たが、その前に新羅の武烈王・金春秋に謁し、新羅が唐の支配下にあることを示そうと勅令を伝え賜り物を下そうとした。

 

9月22日

 

王文度は武烈王・金春秋と間見える。

 

その態度は、共に戦った同盟国に対する様な対等なものではなく、百済と同様に唐の支配下にある敗戦国に対する扱いだった。

 

 

『拘兎尽きて猟狗煮られる』という諺どおり、

 

中国では、猟が終われば用済みなった猟犬は獲物と一緒に煮られ食べられてしまう。

 

唐国の基本的な方針も変わらず、

 

百済を滅ぼせば、新羅はもはや同盟国ではなく百済同様に敗戦国として扱うべきであり、王文度は新羅を唐の支配下に置くつもりで来ている。

 

 

王文度は蘇定方と違い、新羅の恐ろしさが分からない。

 

勿論、蘇定方が金ユシンに斬り殺されそうになったことも知らない。

 

新羅は唐に援軍を求めたが、黒歯将軍やケベク将軍の様な百済の名将と戦っても引けを取らなかった新羅軍は決して弱くはなかった。

 

百済の黒歯将軍は、後に唐に降り蘇定方とならぶ唐を代表する大将軍となるが、彼らでさえ敵わぬほど強いケベク将軍や金ユシンら英雄が凌ぎ合った極東の武力の高さは、百済に駐屯している唐軍などあっという間に殲滅してしまうほどの強さが潜在していた。

 

いつ牙を剥かれるか分からない緊迫した状況が、宮廷からフラリと渡ってきただけの王文度には全く理解出来なかった。

 

兵数の多寡は別にして恐らく戦闘力だけなら、イリ、金ユシン、楊万春将軍に敵う者は唐軍にはいなかっただろう。

 

 

唐は、百済と同様に新羅を従わせようといたが、まだこの時点では高宗皇帝も事態を重くみておらず、

 

「百済を落としたら新羅も攻めよ」

 

と命じていたにも関わらず、蘇定方が新羅を攻めずに帰国の途についていることを訝しく思っていた。

 

蘇定方は帰国後、皇帝に問いつめられると、

 

「新羅は容易く落とせる様な国ではございませぬ」

 

と上奏した。

 

 

しかしこの時の王文度は、金春秋が唐に来て唐服で皇帝にへつらい

 

「暦と官制を唐国のものに改めます」

 

と請願した姿が新羅の真の姿であり、唐の下に庇護されている弱小国だと思っている。

 

百済にいる劉仁願からは、

 

「新羅は牙を隠してます。侮ってはなりません。新羅に怒りをかい牙を剥かれぬよう、慎重に接しなければ命は危うくなります」と、

 

諌められていた。

 

しかし王文度は、百済の鎮護を奪われた僻みの物言いと思い是を相手にせず、劉仁願を臆病者と罵っていた。

 

何ら新羅を恐れることもなく、唐皇帝の権威をかさに着て新羅は唐の支配下にあると思い知らせ様とする態度をとった。

 

王文度の不遜な態度に、新羅の者は怒る。

 

王文度が、

 

武烈王金春秋に賜り物を渡そうとした瞬間、

 

突然倒れこみ、そのまま絶命してしまった。

 

唐が新羅に対して上位に立ち、賜り物を下賜するという場面だけは完結することはなかった。

 

死因は何故かは分からない。

 

 

『王文度暗殺』

 

黙していたがその場の誰もがそう思っていた。

 

 

百済総督が王文度が亡くなった翌日、

 

9月23日に、再び百済の反乱軍は一斉に蜂起して攻撃を開始し、劉仁願と唐軍兵を熊津城に追い閉じ込めてしまった。

 

 

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劉仁願

 

幾重にも柵を作り厳重な包囲陣を作り、百済余城を奪回せんと動きだした。

 

唐は、劉仁願が百済反乱軍に攻囲されていると聞き、新羅に救援の兵を出す様に要請した。

 

唐からの要請を受け、新羅は出兵し劉仁願を攻囲している柵を撃ち破り20の陣を奪った。

 

 

翌10月、

 

百済の鬼室福信将軍が、百済僧のドウタンと相談し、和国に援軍の要請をした。

 

特に和国には百済の王子がいたので、

 

「百済には王族が居なくなってしまった。援軍ではなく百済復興軍として和国から出兵して頂き、旗頭には那珂大兄皇子様を百済王としてえ迎えしたい。」

 

と、願い出た。

 

 

 

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鬼室福信

 

 

鬼室福信将軍は、百済先代の王である武王に繋がる一族である。

 

当然、武王の皇子である那珂大兄皇子を百済王にしたかった。

 

ここでまた、武王派とウィジャ王派の分裂が起きる。

 

僧のドウタンは、百済の実力者であり発言力は大きい、

 

彼は当然の如くウィジャ王の息子、豊章を王として迎えるべきだ、と考えていた。

 

なんといっても武王は、親唐派の王であり唐の加護によって王位を保っていた者である。

親唐派の武王の子・那珂大兄皇子など旗頭としては不服である。

 

「これから唐と戦おうというのに、親唐派の王を戴くなどあり得ない。もし那珂大兄皇子が、父武王の様に唐に髄親すれば、吾らは王に裏切られることになる。誰が命がけで戦えと言えるのだ。」

 

と、武王の王子を王とする非を、声高に主張し続けていた。

 

これに対して、鬼室福信将軍は殺意を懐くようになった。

 

和国の那珂大兄皇子にしてみれば、和国から出兵し百済の王に成れるというならば、是が非でもそうしたかった。

 

 

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那珂大兄皇子

 

突然の王位継承の機会に、心が騒いだ。

 

和国の斉明女王は、唐にいる高向玄里を助けたい一心で遣唐使を送ったほどである。

 

当然、和国から出兵し唐軍と戦うとなれば、唐で幽閉されてる高向玄里も危うくなるであろうし、

斉明女王は、なんとしても出兵はしたくはない。

 

斉明女王を頼ってきたペルシア王家は、ずっと和国に逃れたままでいる訳にはいかず、いつかは唐の加護を受けてアラブを駆逐しなければペルシア再興はあり得ず、再三要請もしてきた。

 

もしも今、和国が唐と戦うことにでもなれば和国に居続けることも出来なくなってしまう。

 

皆、それぞれに思惑があり百済からの援軍要請にざわつき始めた。

 

 

【ウィジャ王の最後】

 

11月、

 

ウィジャ王、王族と臣下達90余人と百済人捕虜12807人が蘇定方に連行され唐の都に入った。

 

高宗皇帝は大層喜びわざわざ則天門楼まで出向いていって、蘇定方を遠路長征を労い百済の捕虜を受けとった。

 

東アジアの平定は太宗皇帝でさえなし得なかった積年の課題であり、遂に百済のウィジャ王を捕らえてきたことは喜ばしいことである。

 

蘇定方は百済だけでなく、前後して三国を滅ぼし、三国の王を生捕りにしたので、

 

高宗皇帝は天下平定を祝し、天下の赦を施した。

 

蘇定方の大将軍の地位も確固たるものになった。

 

高宗皇帝を操る武皇后は、小飼の武将らが次々と出世をし軍部で力をつけていくことを大いに喜んだ。

 

門閥ではない為に、日の目を見ることがない実力のある武将を探し出しては、出世の機会を与え続けている。

 

 

 

ウィジャ王ら百済人もこのときの恩赦によって皆赦されたが、

 

ウィジャ王は直ぐに病気で亡くなってしまった。

 

 

 

【挿絵表示】

ウィジャ王

 

 

或いは百済を滅ぼした恨みによって、誰かに暗殺されたのかもしれない。

 

元々は高句麗の王族であり、親唐勢力に追われ和国、百済に亡命し、ついには両国に股がる王となったが、晩年は酒浸りとなり大望を果たすことなくここで潰えた。

 

高句麗の宝蔵王はウィジャ王の息子であり、

 

和国の斉明女王は姉である。

 

しかし、部族連合国の王とは儚い存在であり、

 

家族とはなんと危うい存在であろうか、

 

血縁であるからといって良縁であるとは限らないし、王族であるからこそままならないことの方が多い。

 

ウィジャ王の野心によって家族には亀裂が入ったままであり、イリの様な野心家や、部族長らの存在も王家にとって重い足枷となっていた。

 

和国、高句麗、百済三国のそれぞれ王である家族が、結束して唐軍と戦うということはなく、

 

ウィジャ王の姉の和国斉明女王と、

 

ウィジャ王の息子の高句麗宝蔵王は、

 

ウィジャ王の死を静かに見送った。

 

 

この頃になり、

 

高句麗は百済北部へ出兵し唐軍の城を攻めはじめた。

 

12月、

 

これに憂慮した高宗皇帝は、帰国したばかりの蘇定方を総大将に任じ高句麗へ出兵を命じ、

 

契必何力将軍、劉伯英将軍、程名振将軍らを軍を分けて各々別道から、水軍は貝江から、高句麗へ攻め入ることになった。

 

 

冬将軍の到来中にも関わらず、唐軍は間断なく高句麗攻めを続けている。

 

そして、この前の高句麗攻めを行った劉仁軌は兵糧輸送で軍事上のしくじりがあり左遷させられていたが、

百済へはこの劉仁軌に七千の水軍を率いらせ、劉仁願の救出に向かわせた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

劉仁軌は、

 

「天は、この老人に富貴になる機会を再び与えてくれたか!」と、

 

汚名挽回の戦に喜び勇んで出征した。

 

和国からは、イリこと大海人皇子が、那珂大兄皇子と斉明女王と共に瀬戸内海の熟田津へ兵を進めた。

 

いよいよ、攻め込んできた唐軍と和国が直接刃を交えるためである。

 

 


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