和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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658年~659年

第1話 陰謀家 蘇我赤兄
第2話 狂人の如き 有馬王子
第3話 有馬王子 処刑
第4話 イリ隠し子・藤原不比等の誕生
第5話 斉明女王 遣唐使を再び送る
第6話 【海東の征】開戦前夜 遣唐使幽閉


第14章 【海東の征】和国遣唐使の勾留

【陰謀家 蘇我赤兄】

658年、

 

大海人皇子は、蝦夷族からの徴兵を続けていた。

 

 

渟代の蝦夷族の酋長200人を入朝させ、鎧、蛸旗、弓矢などを下賜し、渟代郡の戸口調査を行っていた。

 

 

 

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高句麗への援軍・阿部比羅夫(豆方婁)は赤烽鎮でソルイングイらと程名振将軍とに挟撃され敗退し、和国へ撤退する時に唐側の粛慎(靺羯族)の追撃を受けたが、なんとか無事に逃げきり日本海を渡って和国へと戻ってきた。

 

しかし、唐軍側に与する粛慎の靺羯兵らは、尚も執拗に追撃をかけてきて海を渡り日本海沿岸にまで襲来してきた。

 

阿部比羅夫らは是を迎え撃つ。

 

赤烽鎮の戦で、阿部比羅夫が負けてしまい高句麗北方の要である新城(中国撫順)を奪還できなかったことは大きな打撃となっていた。

 

楊万春将軍(ヤン・マンチュ)らが持ちこたえていた南の安市城は敵の中に孤立してしまい、高句麗の元の首都があった国内城(中国吉林)も唐軍の脅威に曝されてしまう。

 

北方路を確保した唐軍は、粛慎の靺羯兵らを使い北方から季節風に乗って日本海を渡らせ追撃させた。

 

唐軍は版図が広がれば広がるほど、動かせる正規軍が不足し、遠征は現地徴用した兵に頼らざるを得ない。

 

駆り出された粛慎の小部族達は、唐軍に妻子を人質に取られ必死であった。日本海を背にした背水の陣であり、全滅か勝利しかない。

 

迎え討つ阿部比羅夫軍も殆どの兵は粛真の蝦夷族であるが、敵の軍監の旗は唐軍の軍旗であり、和国の者どもは唐軍の旗が和国にまで上陸した事自体に恐れおののいていた。

 

高句麗北東~和国北方までは全てイリの徴兵圏であったが、赤烽鎮の敗戦によってその徴兵圏にまで唐軍に侵入されてしまった事の方が、イリにとっては衝撃が大きかった。

 

これからは、北方に居る粛真の靺羯族をどれだけ自軍に取り入るかの戦いになることを覚悟しなければならなかった。

 

 

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粛真の靺羯族たちは大部族(ペドウン)という程の部族ではなく、一族(ウル)といった程度の小集団の集まりである。

 

唐に味方しなければ、唐の大軍に殲滅され、

 

唐に味方をすれば、妻子を質に取られ死ぬまで戦わされる。

 

 

唐と戦うか、唐の為に戦うかの選択しかなく、いずれにしろ決着がつかぬ限り、小部族達は決して戦から逃れることは出来ない運命にあった。

 

激しい戦いの末、なんとか阿部比羅夫は粛慎の兵を殲滅したが、和国にまでこのような局地戦が飛び火し始めたことは、憂うべき出来事だった。

 

阿部比羅夫は、大陸より持ち帰ったヒグマ二頭、熊皮70枚以上を朝廷に献上した。

 

 

 

 

この年658年、5月、大和では事件が起きていた。

 

那珂大兄皇子の息子・建王子が8歳にして亡くなったのである。

 

建王子は、先の右大臣・蘇我石川倉麻呂の越智娘との間に生まれた子で、もともと体も弱く口がきけない子供だった。

 

建王子を生んだ越智娘は、蘇我石川倉麻呂が追い詰められ自殺した後、あまりの衝撃に狂死してしまい、蘇我一族はすっかり落ちぶれた。

 

 

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蘇我石川倉麻呂

 

残った蘇我系の姫や王子らは後ろ盾を得るほどのこともなく、那珂大兄皇子にとってはさして重きをおくほどでなかったが、逆に蘇我の残党で蘇我石川倉麻呂の弟の

『蘇我赤兄』という者を庇護していた。

 

蘇我の残党にとっては、例え体が弱く口がきけずとも、次期王となるであろう那珂大兄皇子の子で蘇我の血を引く王子がいることが一縷の希望となっていた。

 

そもそも、蘇我の血を引く王を擁立することで代々栄えてきた外戚部族である。むしろ、言葉が不自由な者の方が傀儡として操りやすい。

 

戦よりも政治的暗躍を得意とする部族であり、蘇我馬子という求心力を失って以来ばらばらになってしまった蘇我氏の中では、最も蘇我氏らしい陰謀家だったのがこの蘇我赤兄だった。

 

先の右大臣蘇我石川倉麻呂が誅滅された事件でも、蘇我赤兄が、兄の石川倉麻呂を蹴落として自分が蘇我家宗主となる為に関わっていたのではないかと噂されるほどだった。

 

蘇我石川倉麻呂らがウィジャ王を廃し那珂大兄皇子を擁立しようとしていた事を、密告したのが蘇我赤兄だという。噂でないならばまことに陰険な謀ごとである。

 

権を求めるにも、正々堂々とした大望ではなく、嫉妬による陰湿な目論見は、計算違いをし我が身を滅ぼしかねないことも多いが、結局、蘇我赤兄は次期大臣になど成れず事件後には那珂大兄皇子の側近となって蘇我の立場をかろうじて繋いでいるだけである。

 

 

その、蘇我赤兄が密やかな希望としていた建王子が亡くなったのである。表には出さずとも衝撃は大きい。

 

蘇我赤兄は、たちまち動きはじめた。

 

 

【狂人の如き 有馬王子】

一方、先の左大臣の阿部内麻呂の血を引く有馬王子である。

 

 

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阿部内麻呂

 

有馬王子は、父ウィジャ王、そして孝徳王らが和国を去った後でも1人和国に留まっていた。

 

弟の定恵は(表向きは中臣鎌足の子)、中臣鎌足が遣唐使にして国外へ逃がしたため、有馬王子はウィジャ王の血筋の残留者として目立つ。

 

阿部氏は百済の部族ではなく、有馬王子が百済に行ったところで依りどころはなく、和国に残るしかなかったのだが、1人身の危険を感じていた有馬王子はずっと狂人になったふりをしていた。

 

「狂人の如く」

 

生かしておいても阿部氏の残党に担ぎだされることなどないだろうと捨て置かれていた。

 

それが近頃、『紀の湯温泉』にある牟婁の湯(和歌山県白浜町 崎の湯)に湯治に行き、効き著しく気狂いが回復したという。

 

そして都に戻り、斉明女王に回復を報告した。

 

回復した有馬王子は、急激に斉明女王に接近し始めている。そして、斉明女王の下には蘇我系の大田姫らが集っていた。

 

既に大田姫は、大海人皇子(イリ)のもとへ嫁いでいる。

 

那珂大兄皇子が大海人皇子(イリ)と手を組み、共に孝徳王を難波朝廷に置き去りにして、大和朝廷に移った頃に縁が結ばれた。

 

那珂大兄皇子にとって、蘇我の越智娘が産んだ建王子や大田姫は、蘇我の力が失われた今となってはたいした利はなく、大海人皇子(イリ)に娶らせるには妥当だったのだろう。

 

有馬王子はその蘇我系の姫、大田姫の妹を娶りたいのだ。

 

狂人のふりをし続けることにも限界がある。

 

都では人の目につきやすい為、人目を忍んで暫く『紀の湯温泉』に身を潜めていたが、大海人皇子(イリ)が大田姫を娶ったのを見て次第に考えが変わった。

 

なんとか那珂大兄皇子の娘を娶り、那珂大兄皇子の一族となって生き延びようと思った。

 

蘇我石川倉麻呂が亡くなり、越智娘が狂い死にした後は、残された建王子ら子供達は祖母の斉明女王を頼っていた。

 

幸い、有馬王子は斉明女王とは百済にいた頃よりの旧知の間柄である。ウィジャ王によって和国へ送り込まれたのも同じ時期であり、有馬王子にとっては伯母にあたる。

 

壮気盛んな那珂大兄皇子は不可能だが、斉明女王の情けにすがり、なんとか蘇我系の姫を娶らせて貰えぬものかと、回復した自分を売りこみに足しげく宮へ通っていた。

 

有馬王子はこの大和朝廷の王室一家に溶け込もうと懸命であり、他の兄妹、建王子とも接触があった。

 

しかし、その後に建王子が亡くなったことから、

 

「毒を盛ったか、、」

 

と、蘇我赤兄は勝手に有馬王子への疑念を抱いた。

 

いずれにしても、王室に取り入ろうとする阿部氏系の有馬王子の存在は面白くはなく、やがて

 

「取り除かねばなるまい、」と

 

殺意を持つに至った。

 

 

 

斉明女王は、孫の建王子の死を嘆き、深い悲しみに沈んでいた。将来一緒に埋葬して欲しいとまで言い、繰り返し涙を流した。

 

気の晴れぬことのない斉明女王に、

 

「紀の湯温泉に行かれては?」と、

 

有馬王子が提案したところ、斉明女王はその気になり、都を離れて行幸する事になった。

 

朝廷の朝務を離れての行幸ではなく、大臣らも連れて政庁ごと移動し、暫く湯治をしながら滞在するという。

 

かくして、大和朝廷の大行幸となり、那珂大兄皇子らも斉明女王に伴われ紀の湯温泉に向かった。

 

 

都が空になった。

 

大海人皇子(イリ)は北の蝦夷族の徴兵であり、阿部比羅夫は粛慎と戦をしている最中で、都には主だった者が誰もいなかった。

 

額田文姫と金一族、海女姫と高市王子や耽羅の者までこぞって「紀の湯温泉」に向かい、長蛇の列が延々と大和から伸びていった。

 

それはまるで、大和朝廷が

 

日本海沿岸に唐軍の軍旗を立てた粛慎の襲来を恐れ、政庁ごと避難しているかのようにもみえた。

 

 

 

 

【有馬王子 処刑される】

斉明女王と共に大和朝廷が「紀の湯温泉」に行幸し、大和の都は閑散としている。

 

大和朝廷と繋がりがない有馬王子は、取り残された様にひっそり大和に残っていた。

 

先代の難波朝廷ウィジャ王の息子である有馬王子には、大和朝廷では味方が居なく、母方の阿部内麻呂が殺されて以来、阿部氏さえも恐れて有馬王子に関わろとはしなかった。

 

阿部氏には、高向の阿部一族である阿部比羅夫やその義兄・大海人皇子らもいるが、戦の最中であり、ウィジャ王と切れた今、有馬王子にかまってる場合ではない。

 

有馬王子は、孤独だった。

 

 

そこへ突然、

 

蘇我赤兄が有馬王子のもとを訪ねてきた。

 

 

那珂大兄皇子の伴で紀の湯温泉にも行かず、

 

 

「何事か?」と、問えば

 

斉明女王への苦言を並べ立てる。

 

「都と水路の工事は重労働に次ぐ重労働。

延べ七万人の民を動員し、役務に命を落とす者らも多く、民達は水路を『狂気の渠』と呼び 、斉明女王への怨嗟の声は国中にあふれています。

 

今こそ斉明女王様を取り除く時です。このようなことを許してはなりません。」

 

「なんということを、、女王様が一人で行ってる工事ではないでないか! そのぐらい誰でも分かっていることだ。何故、斉明女王様が取り除かれねばならんのだ。」

 

有馬王子は、即座に吐きすてた。

 

 

「もはや、斉明女王様から那珂大兄皇子様の世に代わるべきです。しかし、那珂大兄皇子様自ら実母を除く事など出来ようはずがありません。

 

幸い有馬王子様は斉明女王様に気に入られ、孫姫を嫁にと請うほど、近づくことができます。

 

那珂大兄皇子様に代わりどうか斉明女王様を取り除いてください、、」

 

 

「なんと、っ!毒殺せよということか、、!

 

ならぬぞ!私がいくら気狂いしたとてその様なことできる訳がない!」

 

蘇我赤兄は重たく澱んだ目つきで擬っと、有馬王子を見据えた。

 

(もしや、、建王子の毒殺の疑いをかけられているのか)

 

と、はたと感じ有馬王子の顔色が曇った。

 

その表情を見逃さぬように、喰い入るように蘇我赤兄は有馬王子を凝視する。

 

剣を振るうより毒殺を得意とする蘇我氏は、また他者もそうであるという事を信じて疑わない。

 

「那珂大兄皇子様は、お父上である武王様が崩御された後、16年間未だに王子のままです。

 

那珂大兄皇子様に王になって頂き、共にこの大和の世を生きようではありませんか。

 

有馬王子様はご自分がそこまでせねば、この世で生きる場所など無いということがわかりませぬか?

 

父を殺し、王統を奪った義慈王の王子に那珂大兄皇子様が自分の娘を嫁がせると思いますか?」

 

 

「だからと言って、出来ぬことは出来ぬ!」

 

有馬王子は振り払う様に声を放つ。

 

 

「有馬王子様、、

 

命が惜しくないのですか?

 

明日の朝、もう1度お返事をお伺いさせてもらいに参ります。

 

今夜一晩、よくお考えください。」

 

蘇我赤兄は含みのある言い方を残し、立ち去って行った。

 

 

(何れにせよ、もはや生き延びられぬのでは、、)

 

有馬王子は、茫然としていた。

 

暫く経ち

 

まだ夜も明けぬ深夜、馬の嘶きが有馬王子の屋敷を囲んだ。

 

「有馬王子よ!大和朝廷の転覆を謀った謀叛の罪で捕らえに来た!もはや大人しく縄につけ。」

 

なんと、蘇我赤兄が兵を引き連れ有馬王子を捕らえにきた。

 

「謀ったのはそちらではないかっ!」

 

有馬王子の叫びは、押し寄せる兵達の怒号に掻き消された。

 

十重二十重に有馬王子の屋敷は取り囲まれ、這い出る隙もない。

 

有馬王子は膝をつき、観念した。

 

「有馬王子 謀叛」

 

の報は、すぐさま紀の湯温泉(和歌山県白浜町)に伝えられ、斉明女王は突然のことに驚き狼狽したが、那珂大兄皇子は全く驚きもしなかった。

 

那珂大兄皇子は、斉明女王が何とかしようとする前に処刑したいらしい。大海人皇子(イリ)と阿部比羅夫が居ない今をおいては機会がない。

 

 

658年11月14日、

 

有馬王子は紀の湯温泉に連行された。

 

 

紀の湯温泉の手前の岩代(和歌山県南部町)まで護送されると、一度縄を外され食を採った。

 

有馬王子の味方は居ない。それでも、大海人皇子らがなんとか助けてくれぬものかと運を頼み、岩代の浜の松の枝を結んで願いを込め、歌を詠んだ。

 

逆に那珂大兄皇子は、万が一にも大海人皇子が有馬王子側につくことを厭い、その存在自体が不穏である為、有馬王子を直ぐにでも処刑したい。

 

イリは大海人皇子という皇太子弟の立場となり、那珂大兄皇子側についてる為に、大和朝廷は盤石であったが、

政敵が生まれるとすれば、イリが有馬王子を擁立し反旗を翻すことしかない。

 

それだけ、阿部比羅夫とイリのきずなは堅いのだ。

 

今、二人は唐との戦で高句麗の為に必死で動いているが、もしも阿部一族の有馬王子の擁立に阿部比羅夫が本気で動き出せばひとたまりもない。

 

内戦となれば、戦の経験がない那珂大兄皇子では、唐国相手に大陸で戦う彼ら二人の敵ではないだろう。

 

 

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那珂大兄皇子

 

 

 

有馬王子は、真っ直ぐ『紀の湯温泉』にある牟婁の湯の那珂大兄皇子のもとに連行され裁かれたという。

 

翌11月15日、飛鳥へ護送される予定だったが、途中の藤白坂(和歌山県海南市)で木に吊るされ絞首刑に処された。

 

戦を終え、北方から阿部比羅夫や大海人皇子が引き上げて来る前にと刑の執行を急いだのだろうか。僅か、二日間の出来事だった。

 

 

今回の斉明女王のような大行幸は、過去に前例がなく、群臣を引き連れての湯治というよりも、裏日本に靺羯族が上陸し唐軍の軍旗を立てたことによる避難とみる向きが強い。

 

戦っているのは粛真(狩猟民族)の靺羯族と蝦夷族だが、靺羯族は唐軍の軍旗を立て蝦夷族はイリが与えた高句麗の軍旗を立て、旗色だけを見れば和国で唐と高句麗が戦っているようにも見える。

 

大戦から和国へ逃れてきた者らにとっては衝撃的な光景だった。

 

民を動員して都に築いてる高句麗式の城塞もまだ完成しておらず、

 

万が一、阿部比羅夫や大海人皇子が敗れ裏日本をから中央に突破されても、山に囲まれた飛鳥と違いここからなら海路で逃れることができる。

 

阿部比羅夫らは戦に血まなこであり、未曾有の混乱の中、有馬王子を助ける者は誰もいなかった。

 

 

 

【イリ隠し子・藤原不比等の誕生】

 

「鎌足は以前、ウィジャ王より密命を受けた時に寵姫である阿部小足姫を下賜されたそうだな」

 

阿部小足姫とは有馬王子の母であり、定恵を妊娠している時、ウィジャ王から中臣鎌足に下賜された。

 

 

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大海人皇子は、自分も「寵姫を下賜する」と言ったが、それだけ中臣鎌足が信頼に足りる者だからである。

 

実際、鎌足は阿部小足姫が生産んだ子供は自分の子供として育て、政変後は遣唐使として送り出して難から逃れさせた。

 

大海人皇子も、幼い頃から親元を離れ諸国を生き抜いてきたし、中臣鎌足もウィジャ王と共に、高句麗、和国、百済と渡り歩き生き抜いて来た猛者である。

 

旅が人を育てるということも分かっているし、生き延びる為には一所に縛られず、時に「離れる」という機会があるということを知っている。

 

宮の中で安穏と育て、天下の広さも、世の厳しさも分からぬままの大人になるよりも、自分の手から世に送り出すことで天下の壮のような逞しい壮(おとこ)が育つ。

 

下賜ではないが、大海人皇子は愛する妻と生まれてくる子供を中臣鎌足に託した。

 

絆を深める為に、妊娠中の妻を差し出すことはこの時代の常識であり、中国的な「仁義の害」にまだ毒されていないアジア諸国では頻繁に行われていた。

 

中国人の常識では「貞婦二夫にまみえず」などと言い他の男のもとへいくことは悪しき事と蔑まれた。

 

「義」というならば、妊娠した寵姫を託すことがアジア諸国にとっての義なのかもしれない。

 

信頼され託された方も信頼で応え、例え何があっても自分の子として育て、その血統を生かそうとする。

 

 

大海人皇子が、唐との決戦の前に妊娠している妻を信頼の置ける者に託すのは当然のことであった。

 

そして再嫁する姫も自ら使命を全うし、例え敵味方になり王家が滅んでも、他家でその血脈を無事に残そうとする。

 

斑鳩の上宮法王の子孫は全滅させられたが、宝皇妃だけは蘇我入鹿のもとにあって生き延び、上宮法王家の王統を残している。

 

 

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「血統を絶やさず、子を産む。」

 

姫たちの使命は、金一族でも他の王族でも皆同じであり、自分に流れる血が貴種であることの誇りは、どんなに権力者や時勢が移り変わっても、血脈を繋ぐことだけに全てをかける。

 

 

 

明けて659年、

 

大海人皇子の妻、額田文姫は懐妊して直ぐに中臣氏のもとへ預けられていたがやがて男児を産んだ。

 

そして、中臣鎌足の次男として密かに育てられた。

 

中臣 史(フヒト)という。

 

後に、藤原不比等と名乗り、

 

 

貴族時代の繁栄の先駆けとなった。

 

 

イリには、藤原不比等とは別に

 

「イリの子が託されてるのではないか、」

 

 

との風聞がある。

 

 

イリにとって東西の両翼の一人、高句麗の遼東を守るテジュンサン将軍にも子を託していたという。

 

 

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仲象将軍(テ・ジュンサン)

 

 

「男であれば息子として育てよ」と託し

 

やはり男子が産まれ、テ・ジュンサン将軍の子として、

 

「テ・ジョヨン」と名付けられ育てられた。

 

テ・ジョヨンの方は人の噂となり、風聞が広まってしまって難をさけるため、一時は名を変え奴婢にまで身をやつした。

 

後に、渤海国の初代国王となる。

 

 

 

【斉明女王は遣唐使を再び送る】

 

親唐派の新羅武烈王こと金春秋と、反唐派の金ユシンの対立は激化し、

 

「共に天を戴かぬ者」

 

同士になっていた。

 

唐に逆らい高句麗と組もうとする金ユシンは遠ざけられ、武烈王は金ユシンの手を借りずに新羅王の座を守り続けようと固執している。

 

これに対し、百済、靺羯、高句麗の三者は呼応して新羅に攻め入り三十三城を奪いとった。

 

唐との大戦に備えなければならなくなった今、隣国の親唐国をそのままにして置ける訳がなく徹底的に叩いた。

 

新羅には金ユシン以上に新羅軍を指揮せる者はなく、とうとう新羅は滅亡の危機に陥ってしまった。

 

武烈王は急使の金仁門を唐に送りこみ救援を要請すると共に、金ユシンに頭を下げ再び大将軍にして同時に百済に反撃に出る気配を見せていた。

 

 

新羅から和国に根を下ろしてる金一族のもとには、互いに情報のやり取りが行われている。

このときは、新羅は三十三城を奪われ危機に瀕してること、唐へ急使を送ることと、百済に攻め入ることなど半島の情勢が伝えられてきた。

 

そして、和国の金一族を率いてる額田文姫は、これらのことをそっと斉明女王に伝えた。

 

斉明女王は、西アジアから亡命してきたペルシアの親戚ぺーローズ王子らの救援を訴える為に、新羅の遣唐使に和国からの使者を同行させたいと願ったことがあった。

 

半島の情勢が許さず断られたが、今回もまた新羅が送る遣唐使に使者を同行させられぬものかと、3月にはぺーローズペーローズらを伴い近江の比良宮までやってきていた。

 

表向きはペルシアの亡命者の為であるが、斉明女王の内心は唐に逗留している元夫である高向玄里の無事を慮ってのことである。

 

なんとしても、唐から帰国できずにいる高向玄里のもとへ使者を送りたい。

 

高向玄里は最初の夫で、斉明女王が宝皇女と呼ばれた時代のことであり、女王となった現在は夫はいない。

 

所謂、政略結婚の相手としての夫ではなく、斉明女王の心の奥の中だけで慕い続けている夫という存在だ。

 

 

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「秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の都の仮廬し思ほゆ」(万葉集)と、

 

近江方面が気にかかるという警鐘を吏読に託した額田文姫の歌に触発され、斉明女王は動いた。

 

阿部比羅夫の粛慎戦は終わったが、次なる戦に備え斉明女王が日本海側の防衛の要である近江比良宮に入ったのではと衆目には映っていた。もはや臨戦体制である。

 

結局、新羅は斉明女王の使者など同行させること等なく、唐へ使者をおくった。

 

新羅の遣唐使に同行が認められたのは、三蔵法師玄奘に師持する為の仏僧界の者だけである。

 

阿部比羅夫の唐軍側の粛慎との戦いの詳細が、唐の高宗皇帝に知られてしまえば、和国からの反唐行為に気づかれ遣唐使の高向玄里らは無事でいられないかもしれない。

 

 

ならば、

 

「和国から遣唐使を送ります」

 

斉明女王は詔した。

 

高向玄里を守りたい斉明女王は、あくまでも北方の少数部族らの平定の為の戦をしている事を唐に報告し、皇帝の威光に服したという蝦夷族の者を伴わせた。

 

前回の遣唐使は半ば追放の側面もあり、高向玄里の様に唐に置き去りにされるか、孝徳派の者らは一隻にまとめられ船ごと沈められた。

 

高向玄里をはじめ唐に滞在している者達の迎えの船を出したいというのが、斉明女王の願いであるが、那珂大兄皇子は、別の思惑で乗ってきた。

 

唐の高宗皇帝から、和国皇太子としての承認を得たいのである。

 

那珂大兄皇子は、腹心の津守を往かせることにした。

 

大海人皇子派の者からは、驚いた事に中臣鎌足自身が乗り出した。

 

那珂大兄皇子の意のままに動く津守も、これで下手に動くことは出来なくなってしまった。

 

大和に朝廷を戻してからの和国は、斉明女王、那珂大兄皇子、大海人皇子の三頭体制だったが最も影響力が強かったのは大海人皇子であり、誰も是を拒むことはなかった。

 

中臣鎌足は、大海人皇子(イリ)からアジア天下の話しを聞かされ、実際に自分もアジア天下を見てみたいという思いが日増しに強くなっていた。

 

反唐派と言っても、唐国については何も知らないという点に於いては、出世の為に反唐を唱える輩と何ら変わりはない。

 

唐軍に与する粛真の靺羯族は、日本海沿岸に迄攻め寄せて来ている今、敵国の唐国を知らぬままでは是以上は進めないと判断し、

 

天下の広さを知るにはこの期を逃す訳にはいかないと遣唐使への意気込みは強かった。

 

 

中臣鎌足は、遣唐使「智興』と名乗りを変えて、

 

遣唐使船の準備が急速に進められていった。

 

7月、遣唐使の坂合部石布・津守らが2船に便乗し難波の津から筑紫へ向かい8月に和国を経った。中臣鎌足こと智興は津守の船に乗り込み、一挙一動を監視している。

 

 

この頃、日本海の二匹の龍、

 

即ち阿倍比羅夫と大海人皇子は休むことなく全艦隊を率いて日本海を航行していた。

 

180隻だった軍船は 200隻にまで増やし、徴兵した海援部隊を次々と高句麗に送り出した。

 

大海人皇子の名に恥じぬ「海の壮(おとこ)」として最も活躍したのは、イリの生涯でこの時だったかもしれない。

 

軍王と呼ばれるイリが、海の皇でもあることはあまり知られていない。

 

 

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海皇イリ

 

 

家族も安穏とした生活も知らず只ひたすら修行と学びに打ち込んできたイリは、あらゆる事に貪欲となり操舵に於いてもそれを極めていた。

 

己を天下に押し出す為に体得すべき事には、労を惜しまず己を差し出し続けてきた。

 

日本海沿岸を知り尽くし日本海を航行できる者こそが、半島から列島を統べる大望を持ちうるのであり、玄海灘の対馬航路しか分からない百済部族であった蘇我氏などは到底望み得るものではなく、那珂大兄皇子のように海を知らぬ者には論外である。

 

高句麗出身のウィジャ王と違い、百済の部族らには日本海側の制海権がない為、西にばかり目がいき東国にまで支配が及びにくいのもそのためであった。

 

 

日本海航行は半島西岸の技術であり、高句麗の者か、金一族の者しか分からない。

 

 

概ね北東または南西、季節をかえして北西または南東を進むと潮を渡り目指す上陸地点に着くようだが、操舵技術によっても、また船の大小による櫓の深さでも微妙な違いがあったのかもしれない。

 

大海人皇子は、存分に極めた航海技術を発揮し、艦を率いて徴兵の輸送に努めた。

 

 

 

 

659年9月、

 

遣唐使船は百済の伊志奈利島を経由し、唐国の越州・会稽県に至った。

 

無事だったのは津守が率いる船だけで、坂合部石布の船は遭難し漂着した先の島民に多くの者が殺されてしまった。

 

津守らは10月に唐の首都洛陽に入った。

 

「天下」というに相応しい巨大な都に、一堂は驚愕した。

 

 

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城塞も宮殿も飛び抜けて大きく荘厳であり、天下の忰を集めた欄城都市を見上げたまま、皆、暫し言葉を失っていた。

 

不思議な服装の民族たち、

 

逞しい黒人、

 

金髪の青い目をした白人女性が男の袖をひき、

 

駱駝が往来をゆく、世界都市洛陽。

 

次々と飛び込んでくる東アジアで見たこともない様な光景に、遣唐使らは驚き感嘆が止まない。

 

世界中の文化がここに集約され、アジア天下の方々の民族達が、この唐の都を訪れている。

 

 

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「高句麗は、なんと巨大な国と戦をしていたのだ、」

 

あらためて唐という国の大きさを目の当たりにし、皆身が摘まされる思いだった。

 

同時に、和国を唐との戦に引きずり込もうとしている大海人皇子に対する疑念は大きくなり動揺し始めた。

 

 

10月30日、

 

遣唐使は、連れてきた東北の蝦夷族の酋長と共に高宗皇帝に拝謁する。

 

見上げるほどの回廊を渡り、皇帝の宮殿へと案内された。

 

和国の建築様式も斉明女王や半島を通じて、大陸の文化を取り入れたものがそれなりに完成しつつあるが、和国の構造物にはまだ色がなかった。

 

金箔は勿論のこと、紺碧の空の様な藍から、済んだ青空の様なみずみずしい青や、目の眩むほどの朱色、若葉の様な鮮やかな緑、和国では決して見ることのない顔料に彩られた、中華文明の粋を凝らした豪華絢爛な宮殿は、和国の者にとって異世界とも言える空間であり、あまりのその目映さに威圧されてしまっていた。

 

『中国』とは、世界の中心の国であるという意味で、四方を東夷、西戎、南蛮、北狄、と劣った野蛮な国々であるとして見下し、これを『中華思想』というが、異空間の様な唐の宮殿は

 

まさしく

「世界の中心の華やかさがここにある、、」

 

と、息をするのも忘れるほど見惚れていた。

 

 

津守は、智興こと中臣鎌足と蝦夷族を伴い高宗皇帝の前に立ち蝦夷族は白鹿の皮・弓・箭などを献上した。

 

高宗皇帝は、和国の国情や蝦夷族の様子を尋ねると、

 

「正しく唐の威光がアジアの最果てまで行き渡った」と

 

喜び、機嫌が良かった。

 

 

 

【海東の征開戦前夜 遣唐使幽閉】

 

11月1日、

 

遣唐使らは冬至の会に参列することになり、再び高宗皇帝に謁見する。

 

和国と蝦夷族ら東アジアの最果ての者どもを侍らす事は、唐の高宗皇帝にとって天下人としての威光が隅々まで行き渡った標しであり、誇らしい事であった。

 

アジア天下の人々と共に夢の様な壮大な式典に列した後、遣唐使達は宿舎へと戻る途中不思議な感覚にとらわれていた。

 

足を進めるにつれ、次第に現実へと戻り

 

鎌足の心にも変化が起き始めていた。

 

遣唐使となる前は強烈な反唐派であったが、実際に入唐して大唐国を目の当たりし、己の身のほど知らずを思い知らされ、

 

「唐国と戦うとは、なんと無謀な戦いを挑もうとしていたのか、、」と、

 

ようやくその愚かさに気づき始めた。そして、

 

次第に、反唐を唱える大海人皇子の方が狂人の様に思えてきた。

 

 

中臣鎌足だけでなく、鎌足の従者にも動揺が始まり遣唐使の宿舎は、深夜までどよめいていた。

 

「中臣鎌足(智興)は反唐派の急先鋒だ。もしも和国の反唐行為が露見すれば従者もろとも皆殺されるやもしれぬ。」

 

津守が、ふと呟いた小言が、たまたま中臣鎌足(智興)の従者の耳に入ってしまった。

 

従者は、大人物では務まらない。

 

錐の様に才能が突き出ることがない、小人でなけれはならない。

 

大局を見極めることもなく、只、

 

「私は反唐派ではありません」と

 

訴える為、あろうことか中臣鎌足が反唐派であり和国の親唐派を倒したと、

 

高宗皇帝に密告した。

 

従者は、唐の接待役を通じて和国遣唐使の中に反唐派がいることを訴えでたのである。

 

中臣鎌足が反唐派であること、大海人皇子によって高句麗に兵が送られていることなど、従者は知り得る限りの事を話した。

 

決して気性は荒くはない温厚な高宗皇帝が、 この時は烈火のごとく怒った。

 

前回、高向玄里らが斉明女王の冊方を願い、初めての遣唐使がやってきた時、高宗皇帝はアジア世界の果てにあるという和国の遠い道のりを憐れみ、特別に貢納を免除し、新羅が戦となれば和国が兵を出して新羅を助けよと命じた。

 

そして、今回の遣唐使は蝦夷族まで伴い唐皇帝に服し恭順の姿勢を見せたのだ。

 

それが、裏では高句麗に兵を送っていたという。

 

東アジアで孤立している親唐国新羅を助けるどころか、敵国である高句麗に援軍を派兵するなど、度しがたい反唐行為である。

 

高宗皇帝は、

 

和国の遣唐使を全員幽閉した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

和国が反唐であるという裏切りについて許せるはずもなかったが、何よりも唐の皇帝に拝謁しながらも、今までそれを秘していたということ自体、許し難いことであり和国の遣唐使には全員に罪があるとして、裁かれた。

 

中臣鎌足は三千里離れたところへ流罪が決定したが、

 

遣唐使の博徳が懸命に助命嘆願した為、

 

高宗皇帝は、耳を傾けるにいたった。

 

「和国を親唐国にするには中臣鎌足は不可欠な存在であり、命を助けて頂ければ必ず新羅の味方をします。」と説得し、

 

遣唐使一人斬ったところで態勢に大した変わりはなく、それよりも内政干渉の持ち駒として使うがよいと

 

是が容れられ中臣鎌足は刑を免れた。

 

しかし、中臣鎌足は、命と引き換えに新羅の味方をすることを約束させられる。

 

鎌足も、もはや井の中の蛙ではなく、反唐を貫いて命を今ここで落とすことはなかった。

 

鎌足はこの時の誓約どおり新羅の味方をして、後に有事の際、戦船を新羅に送ったが、結果的にそれが鎌足の身を危うくすることとなる。

 

唐は、

 

もはや、和国が反唐国であるという事がわかった以上、新羅の救援も東アジアの情勢も捨てておくことは出来なかった。

 

『来年は、海東の征があろう。戦が終わるまで和国の者どもは長安にて勾留する!』

 

前回の遣唐使 高向玄里らも含め、和国遣唐使は全員囚われの人となった。

 

海東の征とは

 

前哨戦といった探り小手の様な戦ではない。

 

 

折しも、蘇定方がガロの残存勢力を掃討し西方の乱を鎮定してきて東征への憂いが除かれた時である。

 

そして薛仁貴(ソルイングイ)将軍は、契丹の黒山を攻め阿ト固を虜にし、659年12月には高句麗の横山にて温沙門軍を破った。 

 

 

【挿絵表示】

ソル将軍

 

 

高宗皇帝はついに、

 

東アジア征服の大戦を決意した。

 

 

遣唐使を送ったことが、かえって唐との決戦を早めることになってしまった。

 

 

那珂大兄皇子が、百済・和国の両国の王となる為、唐に擁立して貰うつもりで津守は行動を起こしたが、それが結果的に百済滅亡にまでつながるとは、全く思いもよらなかった。

 


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