第1話 斉明女王の土木工事と武皇后の睡蓮政治
第2話 倒行逆至 ウィジャ王
第3話 斉明女王とペルシア王家ぺーローズ王子
第4話 海東の征 前哨戦
【斉明女王の土木工事と武皇后の睡蓮政治】
大和朝廷は、東北の蝦夷族194人の部族長らに冠位を授け、彼ら蝦夷族を『和国』に帰属させた。
勿論、大海人皇子(イリ)は彼らをそのまま和国に留め置く気などなく、唐との戦に駆り出すつもりでいる。
大海人皇子(イリ)
656年8月、
大海人皇子は81人の将校を高句麗から来和させた。
和国兵の編成につく為の指揮官であり、全員百人将以上の将校で、一人につき100人から500人の兵を率いらせた。蝦夷族を中心に、和国民と合わせ1万人から1万5千人の軍を編成したと思われる。
全て、唐高句麗戦に備えた援軍である。
当然、これは和国の斉明女王や大和朝廷にとっては面白くはなかったが、しかし、当たらざる勢いの大海人皇子を押さえつける者もなく、着々と軍の増強と調練は実施されていった。
そして高句麗へは、和国配下の者らを遣高句麗使として送り込み調整にあたらせた。和国からの援軍派兵は決して正式なものではなく、あくまでも大海人皇子こと高句麗宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)が、遠隔地より徴兵した私兵なのである。
和国高句麗【反唐同盟】など存在せず、和国に帰服した蝦夷族を強引にイリが駆り出したにすぎない。
遣唐使・高向玄里を唐に送り、
「新羅危急存亡の時は和国が助けよ」と、
高宗皇帝に詔勅されたばかりであり、
援軍の派兵元は和国であることは伏せねばならず、まだ大海人皇子だけでは、和国を反唐国として堂々と旗上げさせるには力が及ばなかった。
先年の唐と高句麗の衝突に呼応して、西アジアでは上宮法王の子孫ガロ(芦名氏)が唐に対して反乱を起こしていたが、大海人皇子は更にそれに呼応するつもりでいる。
(東西で火の手を上げてなければ、他の反唐国は蜂起せぬ、、)
アジア天下で唐の大勢を覆す為にはここぞと、大海人皇子には起死回生の思いが強い。
一方、大和朝廷は国民を大動員して都の土木工事も行っていた。
工事は大海人皇子の介入だったが、王都の工事を優先し飛鳥岡本宮の工事に民を集めて、高句麗と唐との戦には民を徴兵させたくないという斉明女王の思いも感じられた。
戦を知らない和国の者が駆り出されたところでまともに戦えるかも分からず、また今、唐国にいる和国遣唐使・高向玄里の身を案じて、和国が唐との戦に巻き込まれる事だけは避けようと必死に抗っていたのかもしれない。
粛々と都の造営は勧められていった。
石上山から飛鳥岡本宮まで水路(カハス)を掘る為に三万人の民が動員された。水路を使い舟200艘でもって石上山から石を運びこみ、延べ七万人の民を動員して都の東に石垣が築かれた。
人々は、この水路のことを「狂心の渠」と呼び、重労働の象徴として斉明女王のことを非難していた。
表向き大海人皇子が槍玉に上がることはなかったが、
「全ての民、国民は王室のものである」
と言う自負心が強い那珂大兄皇子とは対立することがしばしばあった。
唐は、武媚娘の天下になっていた。
武皇后
先の皇后らを殺し、武媚娘はついに高宗皇后【武皇后】となり、その権を振るい始めている。
武媚娘を皇后とすることに反対した褚遂良ら重臣達を左遷し、他の妃が産んだ王子は軟禁した。そして、皇太子は廃太子にし、自分の産んだ李弘王子を皇太子に立てた。
高宗皇帝の伯父で権勢を欲しいままにしてきた実力者・長孫無忌氏もやがて左遷され死に追いやられていく。
周辺国からは皇太子冊立の祝賀使節が朝貢し、新羅だけでなく高句麗からも祝賀の使節が訪れた。
高宗皇帝より、実権を握っているのは武皇后である。
高句麗使節はその様子を伺っていた。
武皇后は病弱な高宗皇帝に代わって、簾の奥から諸臣に次々と命令を下していた。
高宗皇帝の代になり、唐は周辺国と講和政策を進めてきたが、武皇后は慎重な長孫無忌よりも好戦的であり、長孫無忌に冷偶されていた門閥以外の諸将らを小飼とし、自分に忠誠を誓った武将達に手柄を立てさせ出世させる機会を狙っていた。
この頃、東方を目指すペルシアのぺーローズ王子らは、弟のダーラーイ王子らと共に船で南海航路を進んでいた。
ぺーローズ王子は妻も共にしていて、インド洋に抜けインド洋岸から北上しようとインダス河を下っていったが、烏仗那国(パキスタン)へきた辺りで、娘が産まれた。
この姫は後に、和国に帰化して山辺姫と呼ばれる。
産まれたばかりの姫を連れての旅であり、極力安全な南海航路を選択し、ゆっくりと慎重に進んでいた。万が一にも自分たちが死ぬようなことがあれば、即ペルシア王家の滅亡ということになってしまう。
ぺーローズ王子は、父・ヤズゲルト王が亡命先で殺されたことも重く受け止めていた。
結局は、アラブや唐の力が及ばない国に逃げこまなけば、そして唐やアラブを恐れない者のもとに逃げこまなけば、父・ヤズゲルト王の様に暗殺される危険は常にあると考えた。
唐国がアラブとの衝突を恐れペルシア王家を助け様としない為、唐国でさえ決して安全とは言えないのだ。
北アジアの突厥も南アジアの天竺(インド)も唐の影響下にある今、アジア天下で最も安全な場所は東アジアしかないだろうと思われた。
まずは東方に落ち延び身の安全を確保してから、唐へ支援要請の使者を送ることを考え、海の彼方、アラブも唐も及ばないアジア世界最東端の島国、和国をひたむきに目指していった。
【倒行逆至 ウィジャ王】
百済のウィジャ王は、子作りに励んできた。
既に王子だけでも50人を越えていたが、尚も入念に子作りをする。
先代の武王は主要な外戚勢力を後ろ立てに王位を守ってきたが、ウィジャ王はもっと大胆なやり方をした。
上古の時代、和国の大国主命は諸国を流転し、周辺の部族長の娘らと婚姻を結んで180人以上の子をつくり、また自身にも80人の兄弟がいたが、その大国主命さながらの様である。
ウィジャ王は百済の古部族をはじめ、新羅から切り取った国境の小部族にいたるまで、百済中の部族らから姫を貰い後宮でせっせと子作りをした。
外戚勢力の権力が集中する隙もないほどの夥しい数である。
数人の王子であれば、世嗣ぎを擁立することも容易だが政敵が多すぎれば、次世代の予想が難しい上にに、誰もが王子を奉戴しているので与力もままならない。
極端な分散により、権力の集中を抑えているようだった。
和国の大化の改新で、冠位を細分化して大臣の力を削ごうとした様な、謂わば
外戚勢力の細分化である。
それでも尚、宝皇妃を養女に持ちキョギ皇子(那珂大兄皇子)がいる沙宅一族や、孝徳のいる木氏(百済蘇我氏)の様に外戚力を持つ半ば貴族化した様な宮廷部族もいたが、これらの王子は和国に行かせるなどして擁立を先延ばししてきた。
ウィジャ王は、先代の武王の様に外戚勢力と結んでいても、王子を奉戴し勢力を伸ばそうとする彼らの野心は巧妙にかわしていた。
何しろ『酒乱』なのである。
まともな政治向きの話しなど一切せず、色事や遊興に高じ酒色に狂った王が女漁りをしているようだった。
そうしながらも、一方でウィジャ王は部族らの行う政事巌会議を廃止し、
『外戚勢力の細分化』に詰めの一手を打った。
あろうことか、41人の皇子を全員宰相にしてしまい、百済37郡の土地を全て与えてしまった。
元々、有力部族らが領有していた土地に、王子と宰相の地位が下賜されたと言えなくもないが、和国の大化の改新の様に冠位を与えることと比べれば強引すぎる手段だった。
部族が王の外戚になり力をふるうのではなく、王が部族長の外戚となり、王子らを使い部族を乗っとっていく。
前代未聞のこの政策に緒臣らは驚き反対したが、ウィジャ王はこれを退け強引に敢行した。
一族の首長にとっては、
『自分の血を引く王子が、百済の宰相となる』と
言うことは是である。
しかし、宰相が41人もいることは非である。
吉兆の是非を判断し難いこの「ねじれ政策」現象に、皆、困惑した。
これは酒色に狂った王が政治を見失ってのことか、或はうつけ者のふりをして敢えて尋常でない手段にうって出たのかは、評価が分かれた。
他に並ぶ者がないほどの「非凡な王」であることは確かである。
王子を有力部族らに入婿させ、家門を乗っとろうというのは、逆に外戚としての影響が強まる両刃の刃であり、外戚が三家三強ていどであれば、必ず派閥争いが起きる。
しかし、41王子、41家門となれば話しは違う
国中の部族長らが、宰相の地位を持つ皇子を奉戴したことになり、前代未聞のウィジャ王の仕様に緒臣は度肝を抜かれていた。
気が触れたのではないかと思った。
臣下の権力の集中を防ぐ策にしても、度が過ぎている。
百済の土地を41人の宰相が分けるには、百済の国土は狭すぎるのだ。
もともと、和国の広大な土地を分け与えるつもりでいたのかもしれないし、孝徳王の様に百済に巣食う有力者は和国へ追い払うつもりだったのだろうか。
この事が、他国に伝わると
「気狂いしたか、!」と、
誰もが、思った。
【斉明女王とペルシア王家ぺーローズ王子】
657年、
唐に反乱を起こしていた西突厥のガロ(上宮法王の子孫)が、とうとう唐軍の蘇定方に捕らわれてしまい、西突厥の抵抗勢力は壊滅してしまった。
インドより出港し南海航路で和国を目指していたペーローズ王子らは、台風に遇い奄美大島に漂着していた。
インドの貿易拠点(マドラス)より、ペルシアと中国の交易を営んできた商人の船に乗船しマラッカ海峡を抜け、
南海航路(海のシルクロード)の東の貿易拠点である広州(香港)に寄港した。
ここで商人の船を降り、南海航路に明るい船を雇って沿岸づたいに中国江南地方を経て、南西諸島(台湾・沖縄・奄美)を目指してきた。
中国江南地方から日本列島に至る、紀元前から続く航路である。
弥生時代にはジャポニカ米という南方原産の稲が伝わり、越の国に滅ぼされた呉の王が、大物主や卑弥呼の祖先達が、この東シナ海を渡る南海航路で日本列島へと逃亡してきた。
後に海のシルクロードと呼ばれたこの南海航路は、航路術が卓越した海洋民族(オーストロネシアン)によって広がり、紀元前には黒潮・対馬海流に乗り日本列島にまで達していた。
ペーローズ王子らの一行は吐火羅(トカラ)でアラブ軍に破れ逃亡して以来、三年3月の歳月が経過していた。
今、奄美大島の目の前に続くトカラ列島を渡れば、トカラからの旅は終わり、ようやく和国の九州に着く。
ペーローズ王子は慎重に水先案内をたて、7月に九州の日向へと上陸した。
大和朝廷の斉明女王は先触れを聞き、須弥山を造営し、歓迎の準備を急いだ。
「ペルシアの王族にあいたい」、、
ペルシア王子であった上宮法王を父にもつ斉明女王にとって、同じ一族、遠縁だが親戚であることに変わりはない。遠い和国に、兵火を逃れて落ち延びてくる同族に精一杯の準備をしようとしていた。
須弥山とは世界の中心にあるという山を模したもので、ペルシアのゾロアスター教(拝火教)では、周りに水路を巡らせ呉橋でこれを渡る。
仏教に伝えり、倶舎論ともいう。
円盤(蓮)の宇宙の中心には【須弥山】(バルジ)があるとされ、麓には黒龍(ブラックホール)がいて、その世界の外側には「金輪際」(イベントホライゾン)があり、そこから先には決して進むことは出来ない。
そして内側には虚空(ボイド)と呼ばれる空間が広がっているという。
非常に抽象的ではあるが、斉明女王はこのペルシアの聖殿である宇宙観を模した小世界を造営しようとしたのである。
ペルシア王都のそれと比べ、小さな世界だったが的確に再現し、そして、盂蘭盆会でペルシア王家の者達を歓迎した。
最も喜び歓迎していたのは大海人皇子である。
イリがインドでは学び得なかった、ペルシアの「現人神」の思想を、知りえる機会を得ることが可能となった。
『王とは現人神=則ち神が人の姿となって現れたのが王である』といった思想は、王権を強化するのに必要だった。
ペルシアのぺーローズ王子らは、和国の精一杯の歓待に心を緩めた。
彼らが見た和国は、山だらけの島で、この都の一部を除けば誠に草深い国であった。
(ここまで来れば、、)と皆、
山河を望み長閑な風景にも安堵したことであろう。
亡命者のペルシア王族にとっては、豪奢さや栄華が望みでやってきた訳ではなく、安全を求めて和国にやってきたのである。
ペルシア王家の血を引くという女王の国『和国』にやってきただけで、既にその目的は叶えられていた。
三年以上に渡る危険な旅は、終わったのだ。
驚いたことに、吐火羅(トカラ)からやってきたペーローズ王子達を、水先案内人として和国まで無事送りとどけたのは、なんと済州島の市王子だった。
かつてのイリとの約束どおり、和国へ渡る機会を待ち続けていた市王子は、ペルシア王族の亡命を助けるというこの上ない機会によって、来和したのだ。
済州島の高氏は、トカラからの亡命者がトカラ列島まで来てることを知ると、海の一族をあげて全力でこれを行った。
済州島から幾つもの同伴船を出し、吐火羅(トカラ)からの客人を乗せトカラ列島を島伝いに渡り、日向まで安全に航海をしてきた。
斉明女王の前に、ペーローズ王子と弟のダーラーイ王子、その妃と姫らの後ろに、市王子とその母・海女姫、高氏の群臣達が居並んでいた。
斉明女王
斉明女王は老いはじめていたが、瞳には凛とした輝きがあり年波を感じさせない。覇気とした声で、語る。
「よくぞ遠路を越え和国へ参られた。吾が父はペルシア王子にして西突厥の王逹頭カーンであった。貴殿方と同様、西アジアから経った。北の草原を抜け海を渡り、この和国へやってきたのだ。」
斉明女王とペーローズ王子は無事を喜び、
「こうして、まみえることが出来たのは天の加護」と、
感謝していた。
斉明女王は、済州島に居た頃に世話をしてくれた高一族の者達や海人姫にも賜を垂れ感謝をする。
市王子は深く頭を下げている。
「こちらは」、
高一族の者が頭を垂れて手をさし、
「海女姫とキョギ様(那珂大兄皇子)の間に生まれた、市王子でございます。今日まで、一族で大切に育てて参りました。どうかお声をかけて下さいませ」
と、上奏した。
「なんと、あの時に海女姫が身ごもっていた子か。私の孫ではないか、、」
「顔をもっとよく見せておくれ、」
斉明女王は、驚く、
「吾が一族が栄えるのは嬉しい、耽羅と和国の子じゃな、これより和国と耽羅はより親交を結ぶ。今後は和国で宮を用意するので和国に住まえ。」
突然の孫との出合いに喜び、斉明女王は詔する。
市王子は、是を謹んで拝受し、母・海女姫と共に和国に住まうことになった。
これで、那珂大兄王子は
高氏の市王子の存在を受入れざるを得なくなり、
大海人皇子(イリ)にとっては、
気脈を通じた者が周囲に増えていく。
また市王子の母・海女姫は、後に海女子と名乗りイリの妻となる。
【海東の征 前哨戦】
658年、
唐の程名振将軍、薛仁貴(ソル・イングイ)将軍に高句麗出征の勅が下った。
ソル将軍
薛仁貴(ソル・イングイ)が総大将となり、副将・程名振将軍と共に陸路より遼東へと向かった。
風雲急を告げ和国では、阿部比羅夫が蝦夷征伐に船180艘でもって出征し、顎田の蝦夷族らを帰服させた。
4月、
大海人皇子は更に東北の蝦夷を徴兵し、渡島の蝦夷と和兵を加え、30000人の援軍を組織した。
大海人皇子(イリ)
そして大宴会を催し、阿部比羅夫(豆方婁将軍)に援軍の総大将を命じ、蝦夷族の顎田の大酋長・小乙上を率いさせ、急ぎ高句麗防衛線へと送りだした。180艘の船も和国を発し休む間もなく航行している。
大海人皇子が、和国をも巻き込み蝦夷族まで駆り出さなければならないのには事情がある。
先の唐との戦で、高句麗は遼東の民7万人を連れさられ徴兵すらままならない上、高句麗の部族長らは「親唐」を掲げ、私兵を出すのを渋っていた。
「高句麗への執着を捨てよ」
久しぶりにイリが和国へ戻った時に、大海の里の翁に言われた言葉だが、
高句麗で再燃し始めた反唐派と親唐派の分裂は、イリ(ヨン・ゲソムン)の息子達をも巻き込みどうにも抑え難くなっていた。
唐に送り込まれた細作の離間策によって、
唐と国境を接して戦い続けている遼東地方と、
中央の平壌の有力部族との溝は深まり続けていた。
父母を殺され息子を拐われてる遼東地方の「反唐」は骨髄に沁み、
実際に鉾を交えぬ平壌の部族長は、唐よりもイリの権力を厭う「親唐派」が芽をふきだしている。
あからさまな反発はしないが、イリの持つ統帥権をイリの息子へ移そうと暗躍していた。
5月、
唐軍は遼河を超え、いよいよ高句麗の北方の要である新城を落とすべく決戦に臨んでいた。
是に対し高句麗軍は、敵の数が少ないと見て出撃する。
南西の貴端河から対岸に渡り唐軍を急襲したが、唐の名将程名振の激しい反撃を受けて大敗してしまう。
そして唐軍に落ちた、三千人が斬首された。
この頃になり、ようやく和国から援軍として出征してきた阿部比羅夫が、前線に達した。
阿部比羅夫は、蝦夷兵らを率いて猛反撃に出る。
突然に現われた援軍の急襲に、勝戦気分に酔っていた唐軍は度肝を抜かれた。
高句麗北方の要である新城を唐軍に落とされれば、楊万春将軍(ヤン・マンチュ)らが奮闘して持ちこたえてる南の安市城は敵の中に孤立してしまう。
戦局を覆すには、何としてもここで負ける訳にはいかなかった。
阿部比羅夫の用兵は、唐軍が今まで戦ってきた高句麗兵よりも格段に強かった。川を渡り刃を交える前に弓矢で攻撃を仕掛ける。山河で猟をする蝦夷族は平地戦や騎馬戦は得意ではないが、野戦なら得意である。そして、弓矢の腕は優れ、正確に唐軍の兜の下を射ぬいた。
果敢な勢いに驚いた唐軍は、契丹兵を動かして当たらせることにした。
李窟哥率いる契丹族は、前年高句麗と戦ったばかりであり疲弊していた為、唐軍の度重なる出兵要請に対して躊躇していた。
「まず、戦の勝敗を見極める」
契丹族がどちらに味方するかで戦の軍配は変わるかもしれず、陣中では改めて唐軍に与力するべきかどうか、族長は軍議を開いていた。
どちらの勝利が契丹族にとって有利か検討しなければならない。
煮え切らない契丹族に対し、唐軍総大将の薛仁貴(ソル・イングイ)将軍は、いきなり契丹族の陣営に自ら乗り込み、族長らの説得にあたった。
ソル将軍
「味方をするなら徹底的に味方となれ!日より見は赦さぬ。」
「唐が高句麗を滅ばさぬ限り、東アジアに戦禍は無くならぬのだ。高句麗が勝ったとて、唐を滅ぼすには及ばない。戦は続くぞ!その度に、どちらかにつくしかして戦い続けていけば、やがて部族など跡形もなくなるだろう。」
「唐軍に徹底的に味方をし、高句麗を滅ぼす事以外に戦を無くすことはできないのだ!契丹族が東アジアで生き延びるにはそうするしかない。」
薛仁貴(ソル・イングイ)の説得により、契丹族は動かされた。
契丹族 李将軍
そのまま彼らを率いて進撃してきた薛仁貴(ソル・イングイ)と、赤烽鎮
で和国軍と戦っていた程名振将軍とに挟撃され、援軍・阿部比羅夫(豆方婁)はついに敗退した。
和国軍は二千五百人が斬首となった。
大海人皇子によって、とうとう和国まで巻き込んだ前哨戦が始まってしまった。
やがて、
和国が堂々と反唐に転じると、遣唐使として唐に滞在中の大海人皇子の父・高向玄里は処刑されてしまうことになる。