和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦654年~656年

第1話 ペルシアの終焉と 高句麗の風雲
第2話 斉明女王の和国と 唐の高句麗出兵
第3話 翳りゆく百済 ウィジャ王の廃退
第4話 シュメールの系譜と和国小部族連合
第5話 戦慄! 残酷な武媚娘


第12章 【武媚娘皇后】と臨戦態勢に入る東アジア

【ペルシアの終焉と 高句麗の風雲】

 

天竺(インド)

 

イリ達が、和国へと旅立った後のこと。

 

ペルシアのぺーローズ王子は、インドからの軍事援助をなんとか取りつけ、父ヤズゲルト王を助ける為に亡命先の吐火羅(トカラ)に援軍に向かっていった。

 

吐火羅はアラブの侵攻の前に立たされていたが、ペルシアの同盟国だった西突厥の後押を受けなんとか国を保っていた。

 

(※吐火羅=ウズベキスタン・アフガニスタン・トルクメニスタン辺り)

 

ぺーローズ王子は、インド兵を率いて大急ぎで吐火羅に駆けつけたが間に合わず、ヤズゲルト王は逃亡先で裏切りにより暗殺されてしまっていた。

 

ペルシアという国が無くなった事に続き、

王が亡くなったことによって、

 

ペルシアはここで滅亡した。

 

 

ペルシアはアーリア人の宗教『ゾロアスター教』を国教として栄えてきた国だった。

 

吐火羅がある中央アジア、バクトリア地方はゾロアスター教の発祥の地で、古代ペルシアの配下であったが、アラブの侵攻に堪えるため今は突厥の配下になっている。

 

 

東のサマルカンドより天山山脈を越えれば唐である。中国とペルシアは、二百年以上の往来がある通商国で、ここに逃げこんでいたヤズゲルト王は唐に使者を送りしきりに救援を求めていた。

 

ペルシアの国教、ゾロアスター教の歴史は古く、

紀元前より1000年以上続いてきた。

 

古代アーリア人から発し北インド、中央アジア、西アジアで広く信仰されている。

 

仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に影響を与え、後世のヨーロッパ哲学やナチス、アジア人の世界観にまで、この後もその影響は続いていくが、このゾロアスター(=ツァラッツストラ)の教えの宗主国としてのペルシア国の繁栄は、アラブのイスラム教徒の侵攻によって今、ヤズゲルト王が暗殺され終焉を迎えた。

 

ペルシア滅亡後もイラン高原南部で、神官らによって『ゾロアスター教』は残ったが、300年もの年月をかけてゾロアスター教徒らはイスラム教へ改宗していった。

 

開祖が灯した火を千年絶えることなく燃やし続ける様な『火』を崇める信仰も、東アジアに伝わり残滓を残す。

 

開祖ゾロアスター(ツァラッツストラ)が誕生した時は、笑って生まれてきた。

赤ん坊は泣いて生まれてくるもので、人の世に生まれると悪神に攻められやがて死んでいくのを知り泣いて生まれてくるという。

 

人の世の苦しみを終え、浄土にある極楽の世界にいき(=後生)笑顔になるはずのものが、人の世での学びを終えて既に昇天したかの様な笑顔で生まれてきたゾロアスター(ツァラッツストラ)には、様々な奇瑞と試練があったがやがて、彼の教えは王やアーリア人を通じアジア世界に広がって行った。

 

500年、1000年と経ち、やがてブッタやイエス・キリストが誕生すると彼らの教えの中にも、

『弥勒信仰』『最後の審判』などの末法思想で影響を残していった。

 

 

ペルシアの遺民も含め、ゾロアスター教徒の王族への忠誠心はもう失われかけていた。

 

元々、

 

人々の忠誠心などではなく

人々の信仰心によって存在していた王である。

 

則ち、現人神である王とは=神に選ばれし者ではない。「神その者が王である」という不変の信仰心による王位がゾロアスター教徒にとっての王だったが、

半世紀ちかく前、ホスロー2世の後継が途絶えてしまい、王不在のまま内紛が起き傍系の王族や将軍らが次々と「王」を名乗り出した。

 

それが、現在のヤズゲルト王である。

 

神である王が負けるはずはなく、負けて逃げているヤズゲルト王に対する求心力はもはや消滅していて、ペルシア人は四散している。

 

ヤズゲルト王のペルシア軍がアラブ軍のサッド将軍に壊滅されてからは、ヤズゲルト王の親衛隊までアラブに降りペルシアの攻撃に加わった。

 

当初は、イスラム教への改宗はそれほど求められなかった為、将軍らは次々と部隊を率いてアラブに降り、アラブ・ペルシア連合軍というほどの混成軍となり、ペルシアとヤズゲルト王を攻め立てた。

 

ペルシアは支配階級がアーリア人だったが、これがアラブ人の支配に変わるとペルシア支配時代よりも税が安かったのでに民衆にも歓迎されている。

 

徹底的にイスラム教への改宗を迫ったわけではなく、「改宗するか」「貢ぐか」「玉砕するか」、三つの選択支を与えた為、人々は税を払ってゾロアスター教の信仰を続けた。

 

 

ヤズゲルト王の亡命先の総督はゾロアスター教徒だったが、アラブとの戦いを前に気持ちは揺らぎ、王の衛兵ら数人に不安をはなった。

 

「王は現人神だろうか、、神ならば何故、悪神に勝てなかったか、、」

 

総督の問いかけに衛兵らは堰を切ったように、

 

「神でなく人です!神の子ですらなく、何の力も聖術も無くただ逃げ周っているだけの人間ではないでしょうか」

 

衛兵らは、焦りを露わにした。

 

「ペルシアの戦士らは皆ちりぢりになり、アラブへ投降するか、他の者は唐へ行き傭兵になりました。吾らは衛兵であればこそ、此処に留まっていますが、出来ることなら彼らの様に出奔したいです!

 

ここの戦いで例え勝ったにしろ『ペルシア軍』の再生はもはや不可能ですから、、」

 

 

「ヤズゲルト王が救援を頼みとした唐は、助けようともしない。これ以上匿まったところでアラブに殲滅されるだけだ、、」

 

 

「まさしく、、そうであるな。攻められるよりは、投降するしかない。しかし、今の吾らは軽々しく動けぬ立場。動く為には…」

 

 

王の側近と、衛兵らは暗殺を決めた。

 

 

 

インド兵達は、ヤズゲルト王救援の要望で従ってきてただけなので、目的のヤズゲルト王が亡くなったと聞き、アラブを恐れてあっという間に兆散してしまった。

 

ぺーローズ王子は仕方なく、単独で吐火羅に入っていった。

 

ペーローズ王子は父ヤズゲルト王同様、吐火羅から唐に窮状を訴えて、アラブと戦う為の援軍の出兵を強く求めた。

 

しかし唐はこれを拒み、アラブに対して和解の使者を送っただけだった。

 

もしここで援軍兵を送れば唐とアラブは直接ぶつからなければならない。

 

唐はこれ以上介入するつもりは全くなかったし、この頃の吐火羅は、西突厥の勢力下にあり、何れにしても助ける訳にはいかなかったのだろう。

 

また、アラブも唐から和解勧告を受けたとしても鉾を納めるはずもなく、ペルシア王家をそのままにしておく訳にはゆかない。

 

ましてや、吐火羅へ侵攻し勢力を拡大させる機会である。

 

結局ペーローズ王子らは、吐火羅の兵だけでアラブと戦うことになってしまった。

 

 

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しかし衆寡敵せず、ペーローズ王子らは敵わず大敗してしまい逃れて行った。

 

と言っても、

 

落ち延びる先など無い。

 

吐火羅はやがてイスラムに支配されてしまうが、唐も是を助けず、アジア天下にいよいよ居場所がなくなってしまったぺーローズ王子ら生き残ったペルシア王族達は、

 

654年4月、意を決して

 

インドを抜けて南海航路より東を目指すことに決めた。

 

「もしもの時は、東方へ」と、

 

イリの使者らに伝えられたとおり、ぺーローズ王子は弟のダーラーイ王子と王女二人を伴い、和国へ亡命しようとしていた。

 

唐国がアラブとの衝突を恐れペルシア王家を助け様としない限り、今は唐国でさえ決して安全とは言えない。

 

北アジアの突厥も中央アジアの吐蕃(チベット)、南アジアの天竺(インド)さえも唐の影響下にあり、アジア天下で最も安全な場所は東アジアしかないだろうと思えた。

 

「兄上、まだ唐にもアラブにも属してない国があるのは東アジアだ。しかも最果ての和国という国は、吾がペルシア王家の血を引く女王の国だとというではないか、、」

 

広いアジアの中で居場所を失い、再起をはかる為には落ち延びる先は今は和国しかない。

 

「しかしダーラーイ、、如何にして和国へ行けばよい?」

 

ペーローズは、それほどに東方に詳しくなく聞きかじった程度の事しか分からない。

 

「天竺の南の国のマーマッラプラムに、ペルシアと広州(香港)と交易していた商人がいて広州にも拠点がある。そこまで行けばおそらく航路は分かると思う。できればそこで船を雇って東に向かおう。」

 

ペーローズは、弟の提案に深く頷き決心した。

 

ペルシア王族らはイリ達と同様にインダス河を抜け、ダウ船に乗りアジア北東へ向かい出航することになった。

 

※マーマッラプラム(=マドラス)パラッバ朝の首都があり東西交易の国際港として栄えた。中国交易船の寄港地。千年後には東インド会社も置かれたインドの国際交易都市。

 

 

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アーリア人の宗教であるゾロアスター教は『天獄と地獄』と言う善悪二元を説いた世界初の宗教である。やがて末法思想『世界の終末』や『救世主』の存在も生まれた。

 

こうして人々は、罪悪感や恐れの意識、つまり心理的な負債を植え付けられたことによって、求心力は高まり

 

更に信仰心を強めた。

 

 

 

政治が宗教に求めるのは、一体性である。

 

国教による強い神の存在によって、強い信仰心が生まれ、人々は一致団結し強い国となる。

 

アーリア人の『負の植付け型宗教』は更に信仰心を強めるものだ。

 

挙国一致して、強国に立ち向かう時には必要なことだが、強国が弱小国を吸収する時は逆に北アジアの突厥がそうした様に、それぞれの宗教や信仰を認める場合もあった。

 

政治的中央集権・文化的地方分権の和合策に近いが、しかし、やはり一体性には欠け強い結びつきは生まれず綻びやすい。

 

 

アーリア人の宗教は元々「身分制度」が宗教の中にある。

 

 

上位から『神官階級』『戦士階級』『庶民階級』に厳しく分けられ、中央アジアでゾロアスター教を開いたアーリア人はこれを保持し、

 

インドに渡ったアーリア人たちはバラモン教(ヒンズー教)を開き、この下に『階級外』シュードラが加えられてインドのカースト制度・四階級制が生まれた。

 

 

各、階級には対応する神がいて

 

神官階級は、最高神である太陽神を崇め

戦士階級は、軍神のインドラ(帝釈天)を崇め

庶民階級は、河の神、火の神を崇めるという様に

 

庶民の土俗的な信仰の神々の上に、軍神や最高神をいだき天界の神々の序列がそのまま、人間界の身分制度になっているという支配階級にとって都合よく作られた宗教だ。

 

このアーリア人の負の植付け型宗教と宗教による身分制度は、時代が変わり、支配階級や国が変わっても尚、千年二千年、三千年と残り続けた。

 

もはや、国や王を超える存在である。

 

 

アラブに投降した後も300年もイスラム教に改宗しなかったペルシア人達が、ヤズゲルト王を裏切ったのは王との主従関係の裏切りというより、王が宗教に見捨てられたという事なのかもしれない。

 

しかし、ペルシアは滅ぼうともイリはゾロアスター教を知りペルシアの王族と出会ったことで、この宗教の支配制を学んだ。

 

天武天皇として即位した後には、

伊勢神宮の内宮を造営し社格を高め、太陽神を最高神として祭り、古事記と日本書紀の編纂を命じ神々の序列を明確にし、『真人』という最高位の身分をつくるなど、道教などと合わせそれなりに影響は取りいれてたのかもしれない。

 

武力だけでは国の統治が出来ないことを知っていたイリは、宗教の文治の研究には螢雪の労を重ねてきた。

 

但し、イリの宗教政策では那珂大兄皇子の祖父・上宮法王の仏教の様に『天獄と地獄』の負の植付けは行わなかった様である。

 

和国は小国ながら多部族国家だった為、部族の数だけ祖神を祭っていて八百万の神々が存在していた。

 

イリは、現状どおりに八百万の神へのそれぞれの信仰を認め、現状に寄り添いながらも、古事記・日本書紀により神々の序列を明確にしようとしたに留まった。

 

 

 

その頃、

 

イリこと大海人皇子は新羅を後にし、ようやく高句麗へと戻っていた。

 

新羅で、皇太子の法敏と親子名乗りを終えたことで、新羅との距離感はぐんと近くなったが、高句麗にとっては敵国である。

 

新羅からの帰路は、一人こっそりと間道を抜けて入国した。

 

大海人皇子は和国名乗りであり、高句麗での正式の名は王家の養子第二王子『高 任武』

 

またの名をイリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)、

 

唐に行ったきり、高句麗の者達には暫く行方が分からなくなっていたが、宰相である事に変わりは無い。なんの先触れもなく、長槍を担いだまま、突然ぶらりと当然の様に宮廷に現れた。

 

イリの息子達を取り込み撹乱しようとしていた高句麗の部族長らは、突然の現れたイリの姿に、腰をぬかさんばかりに驚いた。まるで亡霊でも見たかの様に、悲鳴をあげる者までいた。

 

 

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一同が息をのみ注視する中、イリは頭上で大きく長槍を旋回させた後、膝をついて慇懃な所作でコトリと槍を置いた。

 

そして玉座に座る宝蔵王の前にゆっくりと歩み出て、無事の帰国を報告した。

 

宝蔵王は、懐かしいイリの目を見て満面の笑みを浮かべ喜ぶ。

 

 

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イリから、アジア天下を巡りアジアの国と反唐同盟を結んできたきという報告を受けると、宝蔵王は信じて待った甲斐があったと、大いに喜び

 

「誠に大義であった。」と労う。

 

高句麗の宝蔵王が健在である限り、宰相イリの立場も不動のままである。以前と同様に宰相の権をふるった。

 

 

「これより、沿海州から和国北方まで粛真の靺羯族を徴兵し、来るべき戦に備える!」と

 

宣言した。

 

イリの大喝一声の前に、面と向かって逆らえる者はいなかったが、宮廷はざわついた。

 

部族長らは度重なる戦に疲弊している。

 

彼らは次々と、

 

「王様、宰相は和国で大海人皇子と名乗りを上げてます。もはや他国の皇子となった者に高句麗の宰相を任せておいて良いものでしょうか。」

 

「吾ら部族の私兵は高句麗の為に差し出しているのですぞ。和国の為に戦いに駆り出される事にでもなったらなんとします!」

 

「唐との軍備えより、貢納と和平に力を入れるべきです。吐蕃(チベット)の様に唐の皇女との婚姻を願いでるべきでは」

 

不満を口々にし、どよめきが宮廷に広がった。

 

「黙れ!和国の大海人皇子の名乗りは、吾の縁組みの一つでしかない!和地での徴兵なくして、高句麗の兵だけで唐と戦う事ができるのか?その為の縁組みぞ!」

 

「吾は、高句麗の宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)である!」

 

ドンッと床板を踏みつけ、イリは再び大喝した。

 

宮廷は一瞬で静まりかえった。

 

 

「たとえ部族長どもが裏切り、唐についたとて、唐は高句麗部族の味方などせぬぞ!門閥大国の唐が、高句麗に巣食う家門など喜ぶ訳がない。そして、唐の権門勢家に高句麗の家門が敵うはずがない!!吾の父を見よ!唐から送られて来た者に乗っとられるなど造作もない事であろう!」

 

居直りとも思えるイリの言いざまに皆、言葉を失った、

 

「吾はアジア天下を周り、唐に支配された国々をこの目で見てきたが皆、蹂躙されていた。和平案など油断させる為の罠でしかないのだ。」

 

「お主らはまだ、解らぬのか!唐国は、吐蕃よりも突厥よりも、吾らが高句麗を最も恐れてるのだ。唐との和平などあり得るはずがない!戦かいに勝つしか高句麗が生き残る道はないのだ!」

 

「唐と結ぼうとする者、和平を口にする者は誰ぜ!高句麗の敵、裏切り者としてこの場で斬って捨てる」

 

入口に置いてあった長槍を鷲掴みに掬い上げると、切っ先を回し、一人ひとりの喉元へすかしながら、殺気をこめて言った。

 

宮廷で、反論しようとする者はいなくなった。

 

「この国はまだ危機にある。講和も冊方も方便にすぎない。唐は攻めてくるぞ。吾はこの目でアジア天下を見てきたのだ。クチャも高昌国も無く、吐谷渾も東突厥も唐のものになった。皆、国事を真剣に考えよ!宴や遊興は停止せよ!武芸を磨け!」

 

イリが戻ってきたことにより、高句麗は臨戦体制に入っていく。

 

高句麗の五大部族らは表向きは沈黙し、宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)に従っていた。

 

 

帰国が伝わると、国境を守っていた息子達がイリ・ガスミのもとに集まってきた。

 

しかし、新羅との国境警備に就いていた次男のナムゴン(ヨン・ナムゴン)と三男のナムサンが、前線を離れて首都平壌に戻ってきたことに対し、イリは激しく咎めた。

 

彼ら二人の母は、高句麗の王族である。一方、長子ナムセンの母は靺鞨族の姫である。

 

イリは長子ナムセンを自分の後継者としていたが、彼らはこれが気に食わず、

 

「兄としては認めるが、王族でも無い者を上に仰ぎたくはない!」

 

と、叛心を露にしていた。

 

イリは高句麗に来た当初、靺鞨族の姫をめとり靺鞨族を味方につけていた。反唐の同志である仲象将軍(テ・ジュンサン)ら、靺鞨族から高句麗に帰化した者達も皆、イリを支援していた。

 

 

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仲象将軍(テ・ジュンサン)

 

しかし、既得権を握る頑迷固陋な高句麗の部族長らは、遼東で靺鞨系の勢力が伸びてくるのが面白くなく、靺鞨系の長子ナムセンではなく、王族系の次男ナムゴンらを支持した為、イリの息子達の対立は、新興の靺鞨系勢力と中央の有力部族勢力との対立になりつつあった。

 

イリは、長子ナムセンの軋轢を回避する為、次男ナムゴンと三男ナムサンは中央には置かず新羅国境の辺境へと追いやっていた。

 

唐は、突厥や契丹、薛延它や吐谷渾を臣属させ、北アジアには逆らう国は、もう無い。北東アジアに残された、反唐の靺鞨と高句麗で仲間割れなど起こしている場合ではないのだが、高句麗国内の靺鞨派と旧部族派の対立は、この後、唐の離間策の格好の餌食となっていった。

 

新羅は、イリと金ユシンの秘密裏の会盟により高句麗に攻め込むという事もなく、イリも「積極的に攻めてはならない」と厳命していた為、戦闘の起こらない膠着した戦線である。

 

次男ナムゴンと三男ナムサンは手柄を立てる機会もなく、中央から遠ざけられていることに強い苛立ちを感じ功を焦っていた。

 

 

イリは高句麗周辺の国を持たない小部族らの支配と、高句麗国内の部族長らの統制の為に、息子らにも統制の指示を出し、諜義府にも命を下した。

 

手始めに、イリは高句麗の西あって唐の配下についた契丹族に対し、高句麗に味方するよう内応を迫ったが、もしも高句麗の味方をしないならば「此れを攻めよ」と安固将軍に命じ、イリ自身は徴兵の為に和国に向かって行った。

 

高句麗と和国を往き来し、東奔西走する日々がまた始まった。

 

和国にあっては皇太子弟 大海人皇子として、

 

高句麗にあっては第二王子 宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)として、

 

その地位の権を存分にふるい勢力を蓄え、唐との決戦に備えた。

 

二国を跨ぐ二重生活を続け、権力を維持し続けるのはイリの非凡さに他ならない。常住に縛られることのないその存在の大きさは計り難い。

 

常人には考えられない『英雄』たる所以だ。

 

今や、和国、高句麗、新羅の王室ともつながり、三つの名を持ち、三国に隠然たる力を持ったイリだが、

 

『イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)』

 

という名を捨てた訳ではない。

 

 

『イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)』

『高 任武』

『大海人皇子』

 

それぞれの名乗りをあげる必要もあったが、唐のお尋ね者のイリよりも、その方が都合が良かったという事情もある。

新羅も唐の手前、皇太子金法敏がイリの実子であるという事はひた隠しにしていたし、どれほど力を持とうが、おおっぴらにその名を天下に馳せるということはなかった。

 

三国を動かすほどの影響力があっても、歴史の闇に隠された、当に闇の帝王と言えた。

 

 

高句麗に反旗を挙げる契丹族は、高句麗の味方をする様にとの勧告に対して、頑として反高句麗の姿勢を曲げず、唐を裏切ろうとはしなかった。

 

命令を受けていた高句麗の安固将軍は、

 

654年10月、靺鞨の兵を率いて契丹族を攻撃した。

 

契丹族は648年に唐の配下となり、高句麗の西に盤倨していた遊牧民族である。

 

アジア最大の唐帝国と、その唐と戦い負けぬ高句麗と、二つの強国に挟まれた契丹族には日和見は許されず、生き延びる為には、必ず勝つ方に与さなければならなかった。小部族は、唐の敵であれば唐に徹底的に攻撃され、唐の味方となれば今度は唐の手先として他国と戦わされ、何れにしても戦いから逃れられぬのが宿命である。

 

ならば、唐に味方し手柄を立てた方がよい。

 

高句麗にしてみれば、高句麗に味方をせずに唐についた契丹族を捨てて置く訳にはいかなかった。

 

高句麗の西に、高句麗に反旗を挙げる部族をのめのめと生かしておいては面目が立たない。

 

靺羯族など他の部族らに対しての見せしめの意味でも是を攻めなければ、高句麗を侮り唐に与する部族らも出かねない。安固将軍は、容赦なく契丹族を攻めたてた。

 

ところが、太宗皇帝より李姓を与えられていた契丹族の李窟哥カーンは、必死で高句麗の攻撃を防ぎきり、新城の戦いで高句麗軍は大敗してしまった。

 

 

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李窟哥カーンは、唐に戦勝を報告した。

 

これにより、唐は高句麗征伐を検討しはじめる。

 

その後、高句麗軍は周辺の靺鞨族と合流し自軍に組入れていったが、これに参軍していたイリの次男ナムゴンと三男ナムサンは、功を立てる機会であると、浮き足だってしまった。

 

宰相イリは、

 

「無駄な戦は避けよ」と指示していたが、

 

先の契丹族との敗戦により必要以上に功を焦っていた高句麗軍は、勢いあまって新羅国境を犯したため、新羅の武烈王金春秋は驚いた。

 

この頃、新羅では武烈王金春秋が、金ユシン大将軍に軍部の力が集まり過ぎることを恐れ軍から遠ざけていた。

 

もともと金春秋は、反唐派ではない。

 

金春秋にとっては親唐派も反唐派もなく、己の王位と娘を殺したウィジャ王への復讐の為だけに生きてきた。

 

金ユシンが強ければ金ユシンを頼り、高句麗が強ければ高句麗を頼み、唐が強ければ唐に髄身する。

 

金ユシンあっての武烈王金春秋だったが、それでも反唐派の金ユシンを警戒し、なんとか軍事力を外そうとしていた。

 

しかしこの後、百済と高句麗と靺鞨族が連合し、新羅北境を侵す事態となった。

 

もはや、金ユシンもイリもいないところで戦局は動き始めてしまっている。

 

武烈王金春秋はこれには堪らず、金ユシンを戻し、そして金仁門を唐に遣わせて派兵を願い出た。

 

虚実は知れないが、唐の臣国である新羅に高句麗が攻め入ったことは

「金ユシン大将軍を復帰させ、高句麗部族長らに開戦を促す目的の為に、仕組まれたのでは?」

と、懐疑的に見るむきもあった。

 

イリと金ユシンの謀略による所謂「事変」であり、朝鮮半島に戦雲を発生させる事によって軍事の機運を高めた。

 

東アジアの戦乱は、百済のウィジャ王が野心の為に新羅を攻め続けたことにある。特に最近は日照りによる飢饉を受け、食料を奪わなければならないという事情もあったが、唐に詰問されても二枚舌を使い、ウィジャ王はいっこうに新羅攻めを止めようとはしてこなかった。もはや反唐派というより、徹底的な反新羅派である。

 

百済以外の三国は、唐が東アジア征服の野望があるが為に、反唐か親唐で戦いが起きている。

 

反唐派は、唐の冊方下にあっても、例え敵味方であっても常に唐国を攘夷することを考え戦う為、虚実は常に存在していた。

 

反唐派の金ユシンは、武烈王金春秋に対し

 

「百済と戦う為の唐との連合ならば、いっそのこと唐ではなく、高句麗と連合し百済を攻めるべき」と、

 

高句麗との連係を勧めるようになった。特にイリと金法敏が会盟してからは殊更強く提言した。

 

しかし、武烈王金春秋は、皇帝より唐服を賜って以来、すっかりに唐に髄身している。過去には、高句麗に百済攻めを求めた時には軟禁されてしまったこともある。

 

今さら金ユシンの提言は容れられるはずもなく、武烈王金春秋はこれを拒み続け、二人の間には亀裂が深まっていった。

 

やがて時がすすむと、高句麗と結んで唐と戦おうとする金ユシンと、唐と結んで高句麗と戦おうとする金春秋と、二人の立場は真っ向から対立した状態になっていく。

 

 

 

 

【斉明女王国 和国と 唐の高句麗出兵】

和国へ戻った大海人皇子は、まず先に山崎の宮でひっそくしていた孝徳王を詰めにかかっていた。

 

大和の岡本宮で斉明女王が和国に君臨して以来、孝徳王の存在は全く体を成さなくなっていたが、それでも尚、大和王朝側が難波王朝の孝徳王を最後まで徹底的に潰せなかったのは、慎重に引き継ぎをしなければならない物があったからであろう。

 

班田収受を行い難波王朝が歳月をかけ作り上げてきた『戸籍』であり、国民を全て掌握してこその和国王である。これが孝徳王の手元にある限り、大和朝廷の王権も実効が無く画竜点睛を欠く。

 

孝徳王は宮に幽閉されているに等しい状態で、それを求められていた。

 

大海人皇子は、斉明女王、那珂大兄皇子、間人皇女らと共に孝徳王の宮に詰め寄り、孝徳王に迫った。そして、無事に百済へ送還する事と引き換えに全てを差しださせ、遂に孝徳王を百済へ送り出した。

 

 

654年10月、

 

孝徳は百済に戻った。

 

孝徳の心理状態では解放されたと言った方が良いかもしれない。和国の孝徳王という存在は消滅したのだ。

 

うらぶれて百済に帰国してきた孝徳とは逆に、孝徳の母モク妃を中心にまとまっていた残存勢力は俄然勢いづいていた。孝徳は和国で王を任されていたほどであり、百済にあっては皇太子となるのが当然であると考え、モク妃様を皇后にすべきであると喧伝していた。

この孝徳の帰国により、和国はウィジャ王の入り込む余地はなくなってしまい、完全に斉明女王の国となった。

 

 

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斉明女王

 

 

12月には、無事に入唐した遣唐使が唐の高宗皇帝に拝謁し、斉明女王の冊方を願いでた。

 

 

高宗はこれを承認し、斉明女王を冊立すると共に、

 

「唐の臣国である新羅がいざ危急存亡の時は、和国が出兵してこれを助よ」と、

 

詔勅を下した。

 

唐に認められたということは、アジア天下で認められたと言っても過言ではない。これで、内外ともに和国に置ける斉明女王の地位は確かなものとなった。

 

 

(女王とは、、如何なるものか)

 

 

高宗皇帝の側室となった武媚娘は、東の果ての名も知らぬ国から来た女王の使者を見て関心を抱く。

 

3月に新羅の真徳女王が没し、他には女王なる者は存在しなかった為、和国がアジア唯一の女王国となるだろうか。

 

その東方の彼方から来た遣唐使高向玄里は、唐の絢爛な文化に臆することもなく、礼節を知り、自然な振る舞いなのである。とても東の僻地の蛮族とは思えず、宮廷に知己すら居ることにも驚き、その様な使者を遣わす和国にいる女王とは、どの様な存在なのかと少なからず興味を持った。

 

武媚娘の知る世界では、女性が王になる事など有り得ない。

 

女性は皆、王に仕え、王の寵愛を奪い合い、皇后となり王子を産んで、王位に近い存在になることは出来ても王そのものになる事など決して出来ないのだ。

 

一方、和国や遊牧民族の国々では『皇后』の存在は全く異なり、単なる妻ではない。王にもしものことがあれば、女王となり王の代行をする同様の権限を有する存在である。

 

上宮法王と共に高句麗入りした宝妃の様に、或は上古、日本武尊と軍事行動を共にした橘姫のように、夫と共に戦にも出征し、王が戦死した場合は王に代わって軍を指揮することもある。

 

 

東方の女王国『和国』の名と、女王という存在は宮廷を生きる武媚娘の心の中に驚きと共に深く残り、耳目に焼き付いた。

 

 

後に、自分が中国史上唯一の『女王』となり、

 

和国が消滅し、日本国が建国されることに重要な役割を果たすことになるとは夢にも思っていない。

 

 

 

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則天武皇

 

 

 

 

明けて、655年正月

 

新羅から救援の請願に遣わされた金仁問が、入唐した。

 

金仁問が、高句麗、百済、靺鞨に北境を攻め取られてしまったことを上奏し救援を要請すると、唐はこれを受け、遼東への出兵を決めた。

 

この後、金仁門は一年間唐にとどまった。

 

 

655年2月、唐の高宗皇帝は、

 

常勝将軍 蘇定方と程名振を高句麗へ出兵させる。

 

 

【挿絵表示】

 

蘇定方将軍

 

程名振は、先の太宗皇帝の高句麗遠征の時、卑沙城攻めで小数の兵で多数の兵を破った名将である。

 

李勣大将軍をはじめ、先代の太宗皇帝の時代に名を知られた名将でも、高宗皇帝の代になると宰相 長孫無忌の力が強まり、門閥ではない将軍は遠ざけられてしまっていた。

 

武媚娘は、長孫無忌の専横を抑える為にも、門閥ではない蘇定方やソル・イングイらを起用すべきであると高宗皇帝にうったえ、遂に彼らの陽の目をみる機会を得ていた。

 

唐軍は5月には遼河を越えて、高句麗国内に進撃したが、高句麗軍は敵兵が少ないのを見てなめてかかり、討ってでた。

 

貴端河で、両軍は激突したが、小数兵で多数を破ることを得意とする程名振都督は、大いに奮戦しついに高句麗軍を破り、千人を殺して村々を焼きはらって帰還していった。

 

小規模戦だったが、蘇定方と程名振は戦勝を報告し、高宗皇帝の治世で、ついに講和政策から攻撃に転じる出来ごとになった。

 

イリの留守中、高句麗軍は百済のケベク大将軍に乗せられて共に金ユシンの居ない弱い新羅軍を攻めてしまい、今度はそのしっぺ返しに唐軍に攻め込まれ負けてしまうという、愚かな顛末になってしまった。

 

 

 

 

【翳りゆく百済 ウィジャ王政権】

 

655年百済

 

孝徳が百済に戻ると、失速していた残存勢力らは孝徳の母モク妃を中心に結束しだして勢いを増し、彼らは孝徳王が入る宮の建造を急いだ。

 

ウィジャ王は、酒浸りになる事が多くなっていた。

 

エフタル族の大渡王や、突厥族の上宮法王の時代と違い、百済と和国の二か国を領有することは更に困難になってきている。むしろ、一瞬でも二か国の王権を手中にしたウィジャ王は英傑といえたかもしれない。

 

和国が、斉明女王の国となり、以後、百済と和国に君臨する王は現れなくなり、歴史上、ウィジャ王が百済と和国、二か国を領有した最後の王となった。

 

それだけに、大望を失ったウィジャ王の喪失感は大きい。

二か国に君臨した王のみが感じる計り知れない喪失感は、とても素面で感じるには居られないものだったのだろうか。酒乱という訳ではないが酒を飲んでは荒れ、疑心暗鬼と苛立ちで暴言が多くなっていた。

 

ウィジャ王は何もかもが面白くなかった。

 

和国に行き不在にしている間、中臣鎌足に百済を総督させ、その改革をフンス、ソンチュン、ケベクら、ウィジャ王の三忠臣と云われた三人に任せていた。

 

しかし、ウィジャ王の目には留守中の彼らの行いは、和国の大化の改新に比べ全くお粗末なものに映った。

 

彼らは忠臣ではあったが、英臣ではなく、高向玄里ほどの政治知識や政治手腕がない。

 

高向玄里は漢王室の末裔だけあり、もともと中国(魏)の制度には詳しかったが、更に遣隋使として隋に留学し学び、隋滅亡後は唐に抑留され高祖皇帝、太宗皇帝と 2代にわたり唐の政治改革を見続けてきた。そして、唐の極東工作を任されるほどになったのである。

 

その高向玄里の政治手腕と、フンスやソンチュンを比べること自体無理があった。

 

フンス、ソンチュンはもともと百済の重臣という訳ではない。百済に彗星の如く現れたウィジャ王という風雲児に出合い、共に進んできた事で、たまたま今日の地位を得ただけだ。

 

高向玄里の様に、最初から部族連合国を変えようと言う目的意識があった訳ではなく、知識も後づけだった。

 

彼らは、和国の改新の様な部族らから土地を収公する為の制度改革に、古代中国の井田法を用いようとした。井田法は、猛子という学者が「古代中国の理想的な富国策である」と語り継いだもので、田畑を「井」の字の如く九区画に分け、一区画を公田にし耕作させ年貢を国に納めさせ、八区画を民に与える。 

しかしこれは、富国策の理想論であって、ウィジャ王の望む『富国強兵策』ではない。しかも、富むのは民であり、残りの八区画の領民を所有している部族長が富むだけである。

 

(有力部族の力を削げなければ改革の意味がないではないか、なんという腰くだけな策だ、、)と

 

ウィジャ王は呆れたが、フンス、ソンチュンらにしてみれば

 

「部族長らから一区画の土地を取り上げる」

 

ということだけで相当な抵抗があり、これでも精一杯だったのだろう。

 

しかも、それを進めるにあたって停止していた政事巌会議を開き、あまつさえ部族長だけでなく村長や里長までも参加させたのである。

 

フンス、ソンチュンは細心の注意を払い慎重に懐柔したつもりだったのだろうが、ウィジャ王には彼らのその丁寧さは、

 

「なんという腰抜け!、、情けない!」と、

 

低姿勢に感じ、大いに憤慨した。

 

和国で、大化の改新という大改革を行ってきた後であった為、ウィジャ王にとっては「生ぬるい」やり方に思えるのだ。

 

「そもそも、吾と部族らの間に立って物事を諮ろうというのが気にくわぬ!間に立つのでなく、何故吾の側に立たないのだ。」

 

百済の有力部族らは和国の有力部族よりも頑強であり、既得権も完成されている。和国の様に冠位の制定と同時進行で、土地を差し出した者には、それに応じて位を与えるという事もままならず、フンス、ソンチュンなりに苦心してやろうとしたのかもしれない。

 

しかし、彼らの努力も虚しく、

 

「国家の大事に、意識が低くすぎる」

 

とウィジャ王に裁かれ、

 

ウィジャ王とフンス、ソンチュンの主従関係に大きな亀裂が生じてしまった。

 

ウィジャ王は、三忠臣の中で最初はケベク大将軍だけを警戒し戦線から距離をおき中央においていた。

 

唐の李勣大将軍しかり、新羅の金ユシン大将軍の様に、例え有力部族達の私兵といえども生死を共にし戦い続けるうちに将軍と兵の間には強い絆が生まれてしまい、結果として将軍は軍部に隠然たる力を持つことになる。

 

優れた将軍であるほど兵との絆は固くなり、

 

「戦場にあっては王命といえど是を受けず、将軍に従う」

 

という傾向が強くなる。逆にそうした強い信頼関係がなければ強兵とはなり得ない。

 

ケベク大将軍は、それだけの人望がある優れた将であった。

 

ウィジャ王は、ケベク大将軍に軍の力が偏り過ぎることを懸念し、新羅との戦いには義直将軍を起用してきた。それが百済軍の大敗という結果になってしまい、今は、ケベク大将軍を使わざるを得ない局面になってきている。

 

ウィジャ王は、今度はフンス、ソンチュンとの距離をとり遠ざける様になっていった。

 

ソンチュンは、百済の柱石であるとの自負心が強くウィジャ王に諫言を続けてきた。まずその口うるさいソンチュンを罷免し、留守中に政事巌会議を開き自分の王子を皇太子にしてしまった燕妃を廃后した。政事巌会議も廃止した。

 

そして、孝徳の母であるモク妃を正式に后妃にした。

 

2月には、百済に帰国した孝徳の宮が完成し、まるで王宮の様な豪華な宮であった。ウィジャ王は孝徳を百済皇太子にし、泰王子ら他の王子を支持する勢力を沈黙させた。

 

王宮の南には、望海楼という宮殿を建て、ウィジャ王はここで、酒宴を開き遊蕩に興じる。ウンゴ妃という美女を側に侍らせ、日々酒色に弄落されていった。

 

 

これが、和国を失った後に出来上がった、新しい百済の体制である。

 

かつて、反唐の志を掲げ、「孝徳の王」「東海の曾子」と呼ばれていたウィジャ王とは別人の様な変わり様だった。

 

長年の流転と戦暮らしに疲れが出始める歳であり、金殿玉楼に住み豪奢な遊びと美女に溺れてしまい、昔日の才気縦横さは失ってきていた。

 

「王は自暴自棄になり、正常な判断ができなくなったのでは、、」と、

 

噂されるほどの、強引な独裁者となっていった。

 

「じ、尋常ではない。」

 

フンスも罷免を覚悟で、ウィジャ王に必死で諫言した。

 

 

655年9月、

 

新羅の金ユシンは百済のウィジャ王の退廃ぶりを知ると、

 

「ウィジャ王の暴政をゆるさず」と、号し

 

百済に攻めこみ、刀比川城を攻め落とした。

 

 

 

【シュメールの系譜と 和国小部族連合】

 

655年 和国

 

唐からも冊方を受け、国際的にも正式に和国女王として認められた斉明女王は、即位式典を行った。

 

高句麗、百済、新羅からも祝賀の使いが来和した。

 

斉明女王は、ペルシアのゾロアスター教(拝火教)の影響を和国にもたらしたが、水の女神を崇め、火を拝むそれらの儀式は全て『仏教』の一部として受け入れられ、お水取りや火祭りなどの儀式という形で和国に根付いていった。

 

ペルシアは、古代ペルシアの水の女神アナヒーターの神官に起源をもつが、古代ペルシアは更に遡ればアジア最古の文明『シュメール』につながる。

 

シュメールミガドとは「シュメールから降臨した」という意味である。

 

斉明女王はそれを王号とし『皇』の字を用いた。

 

その皇命(シュメールミガド)という文字に込められた思いを仰ぎ、人々は王号を呼び

 

和国風の発音で

 

『スメラミコト』と言われるようになった。

 

『皇』という字をスメラと発音するのは、中国にも他の国にも無く、和国独自の読みがここに誕生した。

 

古来より、渡来人によって漢字が和国に持ち込まれて以来、和国風の発音には訓読みの工夫がされ続けてきたが、皇『スメラミコト』は他に類をみない。

 

アジアに生まれた世界最古の文明『シュメール』を最も現した王であり、アジア人である以上、最も伝統の古い起源に遡ればシュメールにいきあたるのは当然である。

 

(十六紋はイスラエル王家の紋章だが元々はシュメール王家の紋章であり、後世400年後の安徳天皇の後から日本の王家紋章に十六紋が使われる様になる)

 

 

 

斉明(サイメー)という名自体、シュメールの写音であったのかもしれない。

 

 

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斉明女王は、和国戸籍をもとに国民を大動員し、大規模な工事を始めた。

 

和国も大海人皇子の奔走により、臨戦体制に入ってきている。飛鳥岡本宮の造営と共に、多武峰から高句麗式の石垣を廻らせた堅固な山城を構え、周囲を固めた。

 

ペルシアのカナートを模し水路を巡らせる工事も行った。

 

大海人皇子の提言どおり、アラブに滅ぼされてしまったペルシアのゾロアスター教(拝火教)の文化を、自分の命あるうちに残そうと躍起になっていたが、これは後に「狂気の渠」と非難されるほどの大工事となった。

 

 

 

 

大海人皇子は、義弟の阿部比羅夫と共に、越から陸奥にかけての粛慎(蝦夷族)の招集を行っていた。

 

 

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彼ら小部族は、国を持たない。

 

彼らには政庁も宮廷もなく、都もなく、連合し国に帰属するという事もない。天地を祀り、自然を敬い、自然と共に生きてきた狩猟民族である。

 

後世に、唐の詩人杜甫が

 

「国破れて山河あり」と、歌った有名な詩があるが、

 

もとより国など無く、ただ山河に自然のままに生きている民族だった。

 

山河を惜しむ心こそ、人間が地上に棲息する基底文化とも言える。

 

 

 

大海人皇子と阿部比羅夫は、沿海州の靺鞨族と同様に戦に狩りだす為、彼らを懐柔し、従わぬ時は脅し、和国に連合する様に説いた。

 

 

小部族らは、数において国の敵ではない。したがって敵対すれば、徹底的に攻撃され、味方になれば国の為に戦に駆り出され、何れにしても、戦から逃れることができない運命だ。

 

大陸の粛慎 靺鞨族も、日本列島の粛慎 蝦夷族も、何れかの国に連合する部族として、所属しなければならなかったが、繰り返し大戦が続く高句麗より、和国に所属した方がまだ少しはましである。

 

もしも高句麗が唐に負けても、和国へ逃げられれば生き延びることができるかもしれない。

 

阿部比羅夫は越をめぐり、大海人皇子は陸奥をまわり、多くの部族長らに贈り物をし説得し、和国の冠位を与えることを約束し、和国の傘下に入る様に合意させた。

 

7月には、

 

越の蝦夷族の部族長ら99人、

 

陸奥の蝦夷族の部族長ら95人を都に招待し、

 

難波宮の迎賓館におおいて歓待して、その194人の部族長らに和国の冠位を授けた。

 

いざ参戦という時には、それぞれ部族を率いて隊長の任に就くようにも命じた。

 

また、百済人150名も同時に歓待し、難波は空前の大宴となった。

 

ウィジャ王と孝徳王が、和国に数年滞在したことにより多くの百済人が往き来し、政庁をはじめ難波周辺には多数の百済人がまだ残っていた。

 

大和朝廷は、

 

「百済に帰るか和国に残るかそなたらが決めよ。」と、

 

意志を問うた。孝徳王と共に百済に戻った者もいたが、多くの百済人が和国に残り、彼らを改めて斉明女王の大和朝廷に帰化させる為の歓迎の宴である。

 

斉明女王の大和政権が難波で此の宴を行ったことにより、難波からウィジャ王や孝徳王の残しは跡形もなく消えていった。

 

新たに、蝦夷族長194人と百済人150人を迎え入れ、大和政権は大いに栄えた。

 

上宮法王の時代より半世紀を経て、和国の冠位制度は精練されてきたことで容易に彼らを内包したが、ひと昔前の古式ゆかしい「連」「臣」「造」などの部族氏姓制度では、是ほど多くの立場の違うものたちを一気に、政治的に帰属させることは出来なかったかもしれない。

 

 

 

【戦慄! 残酷な武媚娘】

 

「娘が死んでいる!」と、

 

武媚娘は叫んだ。

 

高宗皇帝と武媚娘の間に生まれた赤子が、亡くなった。

 

この日、

 

武媚娘は「生まれた娘を見にきて下さいませ」と、王皇后に願い出た。

 

人の良い王皇后はなんの警戒もせずに足を運んだ。王皇后にしとみれば、自分が武媚娘を救いだし皇宮に戻してやったという自負もあり、武媚娘に感謝こそされても敵対心を持たれているとは夢にも思ってない。

 

王皇后が、赤ん坊のいる部屋にやってくると武媚娘は身を隠して、王皇后と娘だけになる様に仕組んだ。

 

ほどなく、王皇后は部屋を出て戻ったが、その後、武媚娘が戻ると、布団を娘の顔に息がとまるまで押し当てた。

 

そして、

 

「娘が死んでいる!」

 

叫んだ。

 

何ごとかと訪ねた、高宗皇帝に

 

「王皇后が部屋を出ていった後、娘が亡くなってました、、」

 

武媚娘は、高宗皇帝にすがりつき涙ながらに訴え出る。

 

 

高宗皇帝は娘の死を悲しみ、

 

 

「王皇后を捕らえよ!」と、命じた。

 

武媚娘と高宗皇帝の間に娘が生まれ、皇帝の子を生めなかった王皇后が妬み殺したという武媚娘の訴えを信じて、高宗皇帝は、王皇后の申し開きには一切耳をかさなかった。

 

655年の6月に、高宗皇帝は新たに準皇后の位を設けて、武媚娘を準皇后にしようとしたが、その時は宰相らの反対で実現しなかった。

 

しかし、王皇后はこの武媚娘の娘の冤罪事件を発端に皇后の地位を追われることになってしまう。

 

高宗皇帝の武媚娘を皇后にしたいという意図を忖択した大臣達が、高宗皇帝の姫を殺害した王皇后を廃止し、武媚娘を皇后にすべきとの上奏文を提出した。

 

高宗皇帝はこれを受け、王皇后を廃して武媚娘を皇后に立てることの是非を長孫無忌ら重臣に下問した。

 

が、長孫無忌と褚遂良が猛反対をした。

 

これに対し、長孫無忌の政敵である李勣将軍は、

 

「是、陛下の家事なり。国事に非ず。そもそも臣下が口出しすることではありません。」

 

と発言した。

 

 

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李勣将軍

 

この一言によって高宗皇帝は武媚娘を皇后にすることを決した。

 

武媚娘は、投獄中の王皇后に更なる冤罪をしかける、王皇后には暗殺計画があったことを捏造し、それにもう一人の政敵である淑妃も巻きこんだ。

 

655年10月13日、

 

高宗皇帝は王皇后と淑妃の暗殺の罪を断定し、二人を庶民に落として罪人として投獄した。

 

親族らは官位剥奪の流罪にした。

 

 

11月、武媚娘は投獄されていた前王皇后と淑妃を百叩きにした上、手足を切り落として殺した。

 

 

656年、

 

高宗皇后となった武媚娘は、立后に反対した者達を地方へ左遷した。

 

唐は、高宗皇帝を独り占めにし、反対勢力を駆逐した武媚娘の天下が始まった。

 

高宗皇帝は持病を発し皇后に代理を任せた為、もはや武媚娘の言いなりである。

 

武媚娘は、長孫無忌の権勢下で冷遇されていた寒門(門閥でない者達)を積極的に登用し自分の派閥に組入れていった。

 

この年、西突厥の芦名ガロ(上宮法王の子孫)が、唐が高句麗攻めを行った事に呼応し、唐に反乱を起した。イリが遊説中に結んできた反唐同盟による挙兵であった。

 

武媚娘はこの反乱軍に対しても、蘇定方ら子飼の武将を鎮圧に向かわせた。

 

そして、唐の皇太子であった李忠(前王皇后の養子)を廃し、自分の産んだ李弘を皇太子にした。

 

皇后となり、息子を皇太子とした、武媚娘の権勢はゆるぎないものとなり、唐の周辺国は、武媚娘皇后の皇太子冊立の祝いの使者を送った。

 

 

 

これより、唐の国政は病弱な高宗皇帝に代わって、武媚娘皇后が取り仕切る執政(垂簾政治)となり、武媚娘皇后の独裁時代に突入していく。

 

 

【挿絵表示】

武媚娘皇后

 


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