第1話 ウィジャ王の誤算
第2話 大和朝廷 斉明女王
第3話 遣唐使 高向玄里
第4話 大海人皇子と新羅皇太子法敏
【ウィジャ王の誤算】
那珂大兄皇子は母妹と共に、大和に入った。
那珂大兄皇子
10年前、三人で百済から耽羅(済州島)へ島流しになり、和国へ落ち延びて大和入りした頃とは比べ様もないほど優越感に満ちていた。
飛鳥で仮宮を置き、宝皇妃の女王即位が着々と進められている。諸官はこれに従い、難波の孝徳王に従おうとする者は居ない。
難波では朝夕に奉ず官吏の姿は消えていき、難波の都は日々姿を変えていった。諸官は皆、屋敷を解体し大和へと運び出していく。
置き去りにされてしまった孝徳王は、もはや難波の新宮を維持する事ができなくなってしまった。
大海人皇子らは孝徳王の意に反し、政庁の解体もはじめた。庁舎の木材は切り込みを入れ組み立てられていて、全て解体して運んだ後に再び組み立てられる構造になっていて、解体されると直ぐに大和に運ばれていった。
孝徳王は、仕方なく山崎に宮を造りそちらに遷ることになっていった。
653年6月、
百済、新羅からの使いが来和する。
難波は既に王都としては機能しておらず、使者らは突然の変わり様に驚きつつも、難波から大和へ向かっていった。
百済からの使者らは、大和への遷都と孝徳王が置き去りにされた事態をウィジャ王に報告しに戻った。
先年、難波朝廷には追い返されてしまった新羅の使者だが、新たな大和朝廷には受け入れられた。
仮宮に案内され、宝皇妃に拝謁する。
新羅の使者より、亡くなった僧旻の弔問に仏像が献じられ、飛鳥の川原寺には仏像多数が安置された。
表向きは僧旻の弔問使だが、和国の政変を確認しにきたであろうことは明らかである。新羅の使者は何故かその後、大海人皇子に呼び出され密談をし帰国していった。
翌月、
大和朝廷より命を受けた中臣鎌足が、百済僧と共に百済へと向かった。
和国での政変に百済のウィジャ王は激怒している。怒り心頭のウィジャ王は和国へ出兵しようとしていた。中臣鎌足は、改めて事の次第を説明し申し開きしなければならなかったが、同時にウィジャ王を止め百済と和国の激突を回避させる目的を持っていた。
ウィジャ王
中臣鎌足
久しぶりの百済は騒然としていて、物々しい雰囲気の中、拝謁に向かった。
ウィジャ王は、中臣鎌足を前にし殺気立つ。
「鎌足!なんの面目があってやってきた。此度のことで首を差し出しに来たか!吾の寵妃まで与えたというのに、、この裏切り者め!!」
「申し訳御座いません、ウィジャ王様。申し開き様もありません。」
中臣鎌足は平身低頭しているが、ウィジャ王を怖れてはおらず何故か落ち着きはらっている。
「その首を叩き折ってやる!潔く首を差し出せ!」
「今、私を殺したとて、ウィジャ王様の利になることは御座いません。」
「何だと、、!それは、どういう意味だ?」
中臣鎌足の態度は、居直りにしては自信ありげである。怪訝に思ったウィジャ王は、鎌足の言い訳を聞くことにした。
「ウィジャ王様は今、和国出兵の準備をされていることかと思います。」
「当たり前だ!難波朝廷をないがしろにし、大和に遷宮して宝皇妃を即位させるなど捨てておけるか!直ぐにでも乗り込んで、反逆者どもを成敗してやる。」
ウィジャ王は顔を赤くたぎらせていきり立つ。
「しかし、ウィジャ王様。それは得策ではありません。和国のみならず百済をも失ってしまいます。」
「何故だ?」
「此度の、孝徳王置き去り事件は和国の政変ですが、それは同時にウィジャ王様を怒らせて誘きだす為の罠です。今、怒りに任せ和国へ兵を出せば、ここぞとばかりに新羅は百済に攻め込んでくることは間違いありません。
新羅から来た使者は大海人皇子と密会していきました。
孝徳王を置き去りにし、大和へ遷宮を扇動したのは那珂大兄皇子ですが、裏では大海人皇子と新羅の金ユシンが示し合わせての事変とみて間違いありません。ウィジャ王様を怒らせ、出兵してくるのを今かと待ち望んでいるのです。
大海人皇子は耽羅(斉州島)ともつながっている様ですので、おそらくウィジャ王様が和国へ出兵すれば、百済は新羅と耽羅から攻められ、高句麗からは大海人皇子の息子が攻め込む事になっているのかもしれません。」
「、、なんだと!」
「百済が、和国、耽羅、新羅、高句麗と戦になれば唐とて黙ってはいないでしょう。当に『四面楚歌』です。東アジアから百済は殲滅される危機にあります。ましてや、今は大干魃で百済の民は飢えてます。ひとたまりもありません。どうか、無謀な事は為さりません様に。」
「、、、」ウィジャ王は暫し言葉を失った。
「私をはじめ、巨勢大臣や大伴大臣ら反唐派は皆、大海人皇子様に乗り換えました。唐に侵されない国を造ることはウィジャ王様にはできないと判断したからです。そして諸官も、那珂大兄皇子様に従い、既に宝皇妃様を時期王と認めています。もはや面目に拘っている場合ではないのです。
今さら私を殺したとて、和国と反唐派の怒りを買い、唯一の繋がりを失うだけです。私は反唐の味方ですが、ウィジャ王様と戦いを起こしたくはありません。ですから、こうして戦を止めに来たのです。」
「よく抜けぬけと言うわ!裏切りを、開き直るか!」
「裏切ったのはウィジャ王様の方で御座います。私は阿部小足姫様を賜りましたが、姫の父の阿部大臣は誅殺され、蘇我石川倉麻呂様も自殺に追い込まれました。
和国の者は皆、ウィジャ王様に従ってはいましたが、阿部大臣らの様に『拘兎尽きて猟狗煮られる』粛清を怖れ、今やウィジャ王様に与する者などおりません。
そして、武王の皇妃であった宝皇妃が和国女王となり、武王の王子である那珂大兄皇子が皇太子となり、皇太子弟の大海人皇子と謀り、和国に大和朝廷を戻し、諸臣は皆、従いました。
乱世とはかように転変極まり無いものです。
今はどうか私を和平の使者だと思って下りますように。そして、和国との戦いは諦め鉾を収めて下さい。」
悔しかった、、
ウィジャ王は拳を振り回し、周りに飾ってあった調度品を叩き割り、何度も言葉にならない叫び声を上げ悔しがっていた。
冷静に局面を分析すれば戦は不利であることは理解できたが、抑えることができないほど憤りが噴出してくる。
剣を抜き、目の前にいる中臣鎌足の首に振り下ろす光景が何度もウィジャ王の頭の中に浮かんでくる。
が、剣の柄を握りしめたまま、遂にそれをしなかった。
暫しの慟哭の後に動きを止め、その場に座り込んだ。
中臣鎌足にとって、この場での生死をかけた口上こそが、反唐の戦いなのだろう。
生死厳頭に立って、怖れることのない鎌足の志魂に触れ、ウィジャ王はその向こう側にある和国の者共の不断の覚悟を感じとった。
まだ中央集権が道半ばのこの時代は、王に対する忠義など薄い。忠誠心よりも血統と力動とがものを言う時代であり、海を隔てた和国の者共のウィジャ王に対する評価は、がらりと変わってしまった事がうかがえた。
新羅の金ユシンとイリこと大海人皇子がどこまで共謀していたかは分からない。イリは済州島から和韓諸国の様子を探り、方々に使者を飛ばしていたであろうし、満を持して和国へ戻ったのだ。何事も起こらない方がおかしい。
中臣鎌足は続けて、和国の女王即位はもはやくつがえせないこと、唐にも冊方を願いでる遣唐使船の造営が開始しており、来春には派遣され冊方されるであろうことを懇々と説いていった。
結局、ウィジャ王は、
中臣鎌足は殺さず、和国への出兵も諦めた。
ウィジャ王は頭の回転が早い。
今の大和朝廷の和国を認め、
「和国とは改めて通交する、、」と、
呟く様に一言、吐き捨てた。
只、和国と戦をしないというだけではない。
自ら、和国の領有を諦めた言葉である。
もはや、百済・和国の二か国を領有する統治者ではなく、和国は既にウィジャ王の手から離れてしまった『外国』であるということを認めた上で、改めて百済と国交を結ぶという意味だ。
これで、和国の孝徳王ことウィジャ王の息子の孝は、完全に孤立してしまい山崎の宮に引きこもるしかなかった。
【大和朝廷 斉明女王】
大和朝廷と中臣鎌足に対するウィジャ王の怒りは、
(どうしてこうなった、、)
という、自責の感情へと変わっていった。
ウィジャ王は、百済、和国の二か国を領し、高句麗にいる息子の宝蔵王と共に三国連合国を樹立し、新羅を従わせ、東アジアに覇をとなえるはずだったのだ。
それが、何時の間に崩れ、砂上の夢の様にウィジャ王のもとから去ったのか、、
己の大望が砕け散ったことの顛末をはかるには時間がかかった。
「大化の改新は上手くいったはずだ!」
しかし、和国の群臣は難波朝廷に従わず、難波長柄豊碕宮を去った。
左右両大臣を殺したのがまずかったのか、性急すぎる班田収受の法が反感をかったのだろうか。
いきなり和国を任された孝徳王だが、実直な孝徳王は父ウィジャ王に任されたとおりに、粛々と和国の政務を実行していった。
しかし、孝徳王は和国の諸官や有力者の繋がりは薄く、和国古来からの宗臣に対しても何の遠慮もせず超然とした態度で望んでいた。
その上、一部の百済系渡来人を贔屓したりもした。
一度はウィジャ王の改新の詔りに従った和国諸臣も、突然やって来たウィジャ王の威を借る見知らぬ百済人がおもしろくなかったのかもしれない。
那珂大兄皇子に求心力があった訳でないが、孝徳王に不満を感じていた和国諸臣らは、那珂大兄皇子の
『吾の即位の暁には改新前の和国の状態に戻す』という
公約に飛びついたのだろう。
また不満の無い孝徳王派の高官に対し那珂大兄皇子は、
「吾が即位したら姫をめとらせ大臣に、、」
などと、出世欲を煽って切り崩していった。
元々、王に対する忠誠心は薄く、代々臣下の関係が続いてきた訳でもなく、後世の武士の様な主従関係の美徳なども一切存在していない。
孝徳王派の者が那珂大兄皇子に切り崩しに合い、一人減り二人減りという事が続き、残された者らは不安になったのだろう。後は雪崩をうったように皆、孝徳王のもとを逃げ出した。
上宮法王家の宝皇妃の存在や、高向玄里の暗躍も影響したと思われる。
何より、イリが大海人皇子と名乗り、睨みを利かせている事が大きい。
イリが、大海人皇子などと名乗っているのもウィジャ王は許せなかったが、
突然和国に登場したことに
(唐に監禁されていたはずではなかったのか、)
と、イリの動きを甘くみていた自分を悔いた。
ウィジャ王が粛清した先の両大臣が那珂大兄皇子を擁立しようとした時は、これをウィジャ王が断固阻止したが、
今は孝徳王だけで、女王擁立の主力である大海人皇子イリを抑えなければならない。
力の差は歴然としている上、ウィジャ王についていた反唐派の者も大海人皇子側についてしまった為、新参者の孝徳王の難波朝廷に従おうという者は居なくなったのだ。
ウィジャ王は自分が思っているほどには、戦が強いとは評価されていない。新羅に連勝し領土を切り取っていた頃は、国境の部族との戦だった。しかし、ピダムの乱以降の新羅は挙国一致し一枚岩の国軍になると、百済は以前の様に新羅に勝てなくなってしまっていた。
8月になり、正式に和国はウィジャ王の支配から独立した別の国となり、改めて百済と修交を結ぶことになった。
宝皇妃の和王即位をウィジャ王は認めたのである。
斉明女王と名乗った。
ペルシア王子で西突厥の王であった、父・上宮法王と共に西アジアから高句麗まで逃げ、夫・高向玄里に連れられ和国へいき、百済の武王の皇后となり、耽羅(済州島)に子供らと共に島流しになり、再び和国の大和の地を踏むという、長久な流浪の果ての女王即位であった。
ウィジャ王は、まだ暫くは腹の虫が治まらず、酒を飲んでは杯を床に叩きつけ悔しがっていた。この頃よりウィジャ王は次第に飲酒が酷くなっていった。
和国への出兵を諦め斉明女王の即位を認めてはいたが、和国にまだ未練のあるウィジャ王は、孝徳王に対して百済に帰国せよとの命は出さずに、
「死んでも百済に戻ろうなどと思うな!」と、
和国に留めさせた。
孝徳王の撤退は和国の完全な放棄となるが、今はなんとしても、次の一手を考え巻き返しを謀るしかないと考えている。
また孝徳王にしても今、百済に戻ったところでウィジャ王の怒りに触れ、和国を失った罪を糾弾されれば無事ではいられないと思い、引くに引けない状況であった。
「大和朝廷の思いどおりにはさせない!」と、
ウィジャ王の命を受け不退転の覚悟で臨むとした。そして、大和に細作を送り込み斉明側の宮に放火し是を焼いた。しかし、孝徳王側がどんなに妨害したとしても、再び大和朝廷から政権を奪取して和国を支配できるだけの力はもうなかった。
大和朝廷は、巨勢大臣を新羅に遣わし、和国がウィジャ王の領有から独立し、別の国となった事を伝えた。
【遣唐使 高向玄里】
中臣鎌足はウィジャ王と決別した今、改めて大海人皇子側に立つことを決心した。
そして、大海人皇子に王位を狙うなら和王になるべきと進言する。
「五大部族の影響の残る高句麗で、王にとって変わることなど到底許されることでなく、例え王位についたとしても部族らの統制は容易でないでしょう。その上で、唐と戦い続けなければならないという、内憂外患の状態にさらされ、王位の維持にも相当な困難がつきまといます。私も、元は高句麗王家に仕えてましたが、今更あの複雑化した国に戻ろうという気は全くございません。
和国は、部族長らの影響も薄くなり御しやすい国で、唐からも遠く海を隔て守るに易い国です。
その上、何よりも、推古女王のように女王を立てる習慣が和国にはまだいくらか残っていますので、まず、女王を立て、その夫となれば容易く王となることができます。そうすれば簒奪することなく王位につけるのです。その様に和王におなり下さい。そして、どうか唐に侵されることの無い強い国を造って下さい。」
中国の様な大国では、一強による一元支配が原則であり、権力を望む者は王に姫を嫁がせ皇子を擁立し外戚として実権を握るか、王朝ごと倒して自分が王になるしかない。
和国の様な小さな部族連合だった国では、まず女王を擁立し、自分がその夫となることで王となることが常であった。中臣鎌足は、和国のそのやり方に従って王位につくべきであるという事を進言したのだ。
大海人皇子は、中臣鎌足の進言を容れた。というよりも、中臣鎌足が全く自分と同じ考えであったことに確かな手応えを感じた。
大海人皇子、すなわち高句麗宰相であったイリは、高句麗宝蔵王の養女婿となり「高 任武」と名乗り高句麗第二王子の立場を得ていたが、唐に向かい高句麗を留守にした途端、高句麗では部族長らの暗躍が始まっていた。
唐への謝罪を期に高句麗を親唐へ転換しようと謀っていた。
大海人皇子は和国の王位は狙うが、和国だけでなく、高句麗の息子達や新羅の息子法敏とも連携を密にし、来るべき動乱に備えなければならないと考えていた。
「先ずは、和国の斉明女王で唐の冊方を受けておかねばなるまい。鎌足、、かなうと思うか?」
「出来ると思います。唐は、和国の随身を待っています。高宗皇帝の代になり和平講策に転じましたが、高句麗攻略は決して諦めてはいません。高句麗を背後から脅かすのは新羅で、新羅を挟む百済と和国の存在は捨てて置けません。和国という布石を置くことは重要であり、決して征当たり等で和国へ逃がさない為にもぞんざいには扱えないでしょう。」
「で、あるか。唐にとっては利となるな、、」
「その様に存じます。一時的に敵国に利となる事ですが、それよりも和国で『斉明女王』の皇統を確かなものにする事の方が遥かに利があります。唐の冊方はなんとして受けておかなければなりません。」
「、、斉明女王の皇統を不動のものにしてから斉明女王の娘・間人皇女に跡を継がせ、吾が入り婿して間人の夫になり『和王』となるか。」
「左様に。そして今、斉明女王の側近として権を振るおうとしている高向玄里は、遣唐使にして唐に送り出してしまいましょう。これ以上の適役はなく、高向玄里は拒むことはできないはずです。唐が斉明女王の冊方を認めないほどであれば、高向玄里とて無事ではいらないでしょうし、認めたとしても監禁くらいはされるかもしれません。どちらにせよ邪魔者は片付きます。」
「はっ、はっ、、!遣唐使船は和国に帰し、唐が殺しも監禁もせぬ時は、迎えの船は出さぬ。邪魔者どもは皆、唐に置き去りにする!父は漢人なのだ。思う存分故国に滞在し、長孫無忌らとねんごろに過ごすがよいだろう。」
この年、唐では皇宮入りした武媚娘が高宗皇帝の王子を産んだが、まだ長孫無忌の権勢は衰えてはいなかった。
高宗皇帝は、武媚娘との間に王子が生まれことを大層喜び
「老子は李弘として生まれ変わる」
との言い伝えにならい、李弘と名付けた。
これによりやがて貪攬な武媚娘の台頭が始まり、高宗皇帝の伯父で権力を握ってきた長孫無忌には、陰りが忍び寄っていく。
明けて654年1月
中臣鎌足は大和朝廷より錦紫冠と封戸を授かった。
百済のウィジャ王に、和国の斉明王権を認めさせた事の報奨であり、斉明女王からの初の賜授となる。
大和朝廷の始動が、中臣鎌足からであったことは和国諸臣に時代が変わった事を知らしめる目的もあった。
古人王の時は、官位を与えられようが固辞して決して受け入れなかった中臣鎌足であり、ウィジャ王には大錦冠を与えられ、百済総督まで任されていたほどの側近中の側近であった。
その中臣鎌足が、斉明女王から
「有り難く賜わった」というだけで、十分な効果がある。
そして、中臣鎌足が上奏した
「この度の遣唐使は高向玄里に」
という案には誰もが賛成した。
高向玄里自身も失った唐との関係を回復する為に、新羅の遣唐使に紛れて入唐しようと頼んだ事があったほどであり、
(斉明女王の冊方となれば吾が動くしかあるまい)と
考えていた。
しかし、自分が再び斉明女王の夫となり和国を支配したいという野心が無い訳ではない。
出国後の和国の行く末は気がかかりであり、まして極東政策の失敗を問われれば、無事では済まされないかもしれない。
高向玄里は最後の最後まで、唐への出航を躊躇っていた。
斉明女王も気が気ではなかったが、もはや女王として即位した以上、唐の冊方は受けなければならない。
高向玄里
大海人皇子は、高向玄里に詰めよった。
父と子でありながら、同じ国で共に暮らした事も殆どなく、今更ながら親子らしい会話などない。
「なんとしても唐に行って貰おう。」
大海人皇子は、静かな表情で言う。
「唐の都を見てきたのか?」
「見たとも、、唐だけでなく天下の隅々までな、、」
「唐に監禁されていた訳ではないのか?」
「当たり前だ!吾は、遁甲術は達者な方でな。此度は、そっちが入唐する番であろう、、監禁されるやもしれぬがな。」
高向玄里の表情が曇る。
「ゲソムン、高句麗へは戻らぬか、、」
イリ・ガスミは、高句麗風の発音ではヨン・ゲソムンとなる。大海人皇子とは呼ばず、高向が高句麗から和国へ向かう途中、自らが名付けたその名前で敢えて呼んだ。
「その名を呼ぶな!未だに父親のつもりでおるか!」
目を剥いて、剣の柄に手をかけ怒鳴り返す。
「だが、高句麗ではまだお前のことを『ヨン・ゲソムン閣下』と呼び帰国を待っている者もいよう。早く戻らねば、唐の攻撃でなく部族長らに切り崩されるぞ。東部家門の淵(イリ)家はもはや押さえが効かぬ。」
高向の言うことは最もだったが、と言って引く訳がない。
「今は、高句麗より和国だろう。高句麗の息子らには既に伝書を送っている。和国のことは吾と義母、斉明女王に任せて、高宗皇帝の冊方を受けてこい。でなければ、和国の地に立つことなど許さん。」
遂に抜刀し、言い放った。
結局、大海人皇子らによって高向玄里は半ば追放の様に強引に遣唐使船に乗せられてしまった。
これが、この父子の今生の別れとなる。
【大海人皇子と法敏】
2月、斉明女王即位の冊方を上奏しに遣唐使船は出航した。
新羅路を進み、新羅に一時寄港した後、唐へ向かった。
3月、新羅の真徳女王が没し、皇太子の金春秋が新羅王に即位した。
金春秋は王号を『武烈王』と号し、法敏が皇太子となった。
『武烈』とは100年以上前、和国から新羅に逃げた大和の王の王号である。後に法興王となったが、エフタル族の宣化将軍こと真興王に倒され王位を奪われてしまった。
このエフタル政権以前の『武烈王』という王号を敢えて名乗ることで、エフタルの真興王統から王権を取り戻したことを主張していたのだろうか。
新羅も唐へ冊方を願う使者を派遣し、高宗皇帝は武烈王の冊封をし開府儀同三司新羅王とする。
新羅と和国が、ほぼ同時期に王位交代がなされた事は偶然ではなく、裏では大海人皇子や金ユシンの謀略があったのかもしれない。
和国からの遣唐使船が新羅に寄港した時に、1人の壮士が新羅に降り立った。
長槍を担いだまま、金ユシンのもとへぶらりと向かう大海人皇子である。まるでその辺を散歩でもするかの様な出で立ちであり、とても海を渡ってきたとは思えぬほどの気楽さで金ユシンに合いにやってきた。
金ユシンは、少年の頃剣の手解きをしたイリが、天下を巡り今、大海人皇子となり新羅にやってきた事に、時の流れをしみじみと感じていた。
入唐を促す前に、高句麗と新羅の国境で会盟して以来の再会となる。
「兄貴!とうとう法敏が皇太子となる時がきたな。」
大海人皇子は再会の挨拶もせず、二人の計画を喜ぶ。
「義弟よ!よくぞ、唐より無事に戻った。流石だ、、その威丈夫、頼もしいぞ。」
金ユシンは、一回りも二回りも勇壮になったイリの漢ぶりを喜んだ。
「大海人皇子と呼ばせて貰おう。誠に立派になった。腕の方も相当上げたろう。どうだ、久しぶりに手合わせせぬか?」
将に壮(おとこざかり)となった大海人皇子が、少年の頃よりどれ程の成長を遂げたのか、金ユシンは剣でそれを感じてみたくなった。
「おう!それは面妖。久しぶりにやるか。もう昔の様には勝つことはできぬぞ兄貴。」
「はっ、楽しみだ。こちらも思い切りでいくぞ。」
二人は、剣技場に行き立ちあった。
数十合、打ち合ったが、実力は拮抗している。
金ユシンは既に初老と呼べる歳になっていたが、まるで衰えを感じさせない。常に百済からの侵略と戦い続けてきた金ユシンは、剣を振るった実戦経験では東アジアでは他にならぶ者がいない大将軍である。
「金ユシン大将軍の実力は、泣く子もだまる唐の李勣将軍を凌ぐ」と、
新羅のファラン達に噂されていたほどだったが、或いはその通りかもしれない。むしろ、その金ユシンと互角に打ち合う大海人皇子の方が凄い。
ファランでの修行時代はかなわなかった少年イリとは、全くの別人の様である。
暫し、打ち合ったが、決着はつけぬまま終わった。
ほどなく、真徳女王が没し金春秋が武烈王になると、法敏も正式に新羅皇太子となり、大海人皇子と法敏は親子の対面をした。
金ユシンは、
「法敏を新羅の皇太子にし共に進もうぞ」と、
誓った日より、徹底的な英才教育を行ってきた。
そして、高句麗の宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)が、血のつながった実父であるという事も伝えた。
法敏は幼い頃から、母鏡宝姫より実父の存在はそれとなく漏れ聞いて育ってきた。
養父である金春秋と、伯父の金ユシン、母鏡宝姫に大切に育てられ、過分なほどの家族に恵まれた法敏は、実父に会えぬことが寂しいと感じたことはなかった。
しかし、アジア天下に反唐の名を馳せた高句麗の宰相イリ・ガスミが父であるということを知ると、
「できるならば、お会いしたい」と
憧憬を抱く様になっていた。
もとより法敏は、反唐精神を金ユシンから受け継いでいたが、金ユシンの強さへの憧れと同様に、アジアの大国唐と戦う高句麗宰相イリ・ガスミの武威への畏敬は、強いものだった。
高句麗の英雄、
ウルチムンドク将軍
楊万春(ヤンマンチュ)将軍
そして、
宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)の名は、
東アジアで剣を持つ者なら知らぬ者はいない。
いざ、その実父と対面すると法敏は肩が震えた。
今は和国の大海人皇子として、法敏の前にいる。
大海人皇子、鏡宝姫、法敏、十数年ぶりとなる家族の対面の時が来た。
「会いたかった。」
開口一番、大海人皇子の言葉は、息子法敏の心に届き親子をつないだ。
「吾は義兄金ユシンと共に、唐に侵されぬ強い国をつくる誓いを立て、互いに大業の為に動いている。しかし、高句麗にあっては例え親子であろうとも敵味方の立場。今、和国の皇太子弟としての地位を固め、こうして対面がかなった事が嬉しい。吾身は何処にあろうとも新羅にいる息子の事は心から忘れた事はなかったぞ。」
法敏も鏡宝姫も、大海人皇子のその言葉を嬉しく思った。
和国の額田文姫が大海人皇子の子を産んだ時に羨み、
「私には風も吹かない、、」と歌ったことがあるほど、
鏡宝姫も、最初の夫であるイリ・大海人皇子の存在は忘れた事はなかった。
鏡宝姫
大海人皇子はしばらく家族との時を過ごした。
この場にあってのみ、新羅で金一族を率いる伽揶王室の姫・鏡宝姫こと鏡王の入り婿の立場である。
大海人皇子は義兄の金ユシンと鏡宝姫と息子法敏との暮らしを望んで捨てた訳ではない。父高向玄里に無理やり引き離され高句麗の大臣にさせられたが、今、改めて新羅で再会する機会を得、金一族との絆を更に深めた。
とは言え、高句麗と新羅は敵国である事に変わりはない。高句麗の部族長らも、何かを勘づいてか、イリ・大海人皇子の息子らの対立を、しきりに画策している。
今回は身分を忍んでの新羅入りであり、
長居することは出来ず、大海人皇子は新羅を後にした。