和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦652年~653年

第1話 役の業者 小角登場
第2話 大海人の皇子イリ 和国上陸
第3話 和国 難波王朝を離脱する王室
第4話 中臣鎌足 大海人王子に随身する
第5話 和国孝徳王 難波置き去り事件


第10章 和国【大海人皇子 イリ】登場

【修験者 役の行者・小角登場】

 

652年、和国

 

上宮法王以後、和国でのゾロアスター教(拝火教)の修法は宝皇妃が行なっていた。宝皇妃による密厳な修法は、それまでの仏教には見られない王統のみに許される厳粛な儀式の様に見られていた。

 

時を遡り634年、和国王家の地・葛城地方(奈良県御所市)で秘伝の修法を感得する「小角」という者が生まれた。

 

小角は、生まれてきたとき手に花びらを握っていたという。長じて元興寺で修行し、651年に、小角は孔雀明王の修法を感得した。

 

この時代の仏教は、三蔵法師玄奘により唐国内に仏典がもたらされ、新たに漢訳された仏教が旧訳と入れ替り流行していたが、「阿頼耶識」「解深密経」「唯識」など、所謂、大衆向けの大乗仏教的な人の意識や森羅万象の有り様を説く仏法が主流であり、和国で小角が感得した修法などは仏教寺院の修行としては全く異質のものであった。

 

密教と同様に、ゾロアスター教の様相が見られるが、この頃はまだ密教は完成してはいない。

 

天竺(インド)で、「大日経」や「金剛頂経」など密教の経典が編纂され始める時代であり、唐国に漢訳がもたらされるのは半世紀以上先のこととなる。そうした意味では和国の仏教は、同時代の唐や天竺より先進的であり、仏教であり仏教でなかったとも言える。

 

後に小角は仏教から離脱し、

 

和国で初めて【修験道】を開き和国独自の山岳信仰の開祖となった。

 

唐や天竺より早く、和国で、このような先進的な宗派が誕生したのは、ひとえに上宮法王や宝皇妃のもたらした、源流であるペルシアのゾロアスター教からの影響が大きかったのだろう。

 

 

652年に班田収授の法による戸籍が完成されると、人々は国民の義務である役務に徴用される事になった。役務に就く民を役民と言い小角はこの役民を使役する業務についた為、役小角と言われた。

 

役小角は班田収受の法の酷吏として名を知られ、その修法で人々を恐れさせた。

 

鬼の子孫であるとか、神の子孫であるとかの伝承があり、和国で一目置かれていた土着の古部族らに対しても、なんら躊躇することなく使役していった法の執行人である。

 

人々は皆、そのさまを見て大人しく従った。

 

役小角には、大化の改新後の階級が全てであり、過去の部族社会の貴賎などに全く容赦がなかった。

 

やがて、数々の修法を感得し役民を私益することから役の行者とも呼ばれ、修験道と山岳信仰の始祖となると、日本列島にくまなく山岳霊場を開いていくことになる。

 

まだ王化に馴染まない民衆を惑わし、恐れさせ、従わせる役の行者の呪術は、三令五申する法の番人として、充分役立つものであったのかもしれない。

 

人々は、国民の義務にしたがって働きはじめた。

 

後世の封建社会の誕生と繋がる出来事だった。

 

 

 

 

【大海人の皇子イリ 和国上陸】

 

あけて653年、

 

唐の高宗皇帝が、周辺国との和平政策を進めてきたことにより、この年は、吐谷渾、新羅、高句麗、百済など、唐と敵対関係にあった国々からの入貢で平穏無事といった雰囲気が唐の宮廷には流れていた。 

 

和国からの遣唐使は、まだない。

 

しかし、対外的には平穏に見えても唐の宮廷内訌は続いていた。

 

長孫無忌の権勢が強まり、これを倒さんとした高陽公主と夫の房遺愛らは李元景を擁立しようと叛乱を企んだが露見してしまい誅殺された。

 

長孫無忌はこの事件に、高宗皇帝の兄李格(母は隋の煬帝の娘)に嫌疑をかけ無理やり連座させて自殺に追い込んでしまった。

 

長孫無忌は邪魔者を次々と左遷していき、朝政だけに留まらず軍部にも影響力を持ちはじめていた。

 

これを憂う高宗皇帝は2月に、引退していた元宰相の李勣を三度召しだし司空という高官に任命した。

 

 

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李勣

 

司空は唐の名誉職で兵権は持たない。しかし、李勣はまだ軍部に対して隠然たる力をもっていたと思われる。

だが、長孫無忌の警戒を避ける為に、帰還するなり李勣は病気と称して誰とも会わず、自宅に引きこもってしまった。

 

 

同じ頃、

 

653年2月和国、

 

難波は騒然としていた。

 

済州島のイリは、和国入りに先駆けて大海の里へと使いを送っていた。

 

イリを「出迎えるように」と、

 

先触れが伝わると、

大海の里、金一族の里、越の国から和国中のイリの手下や縁者達が続々と難波へと押し寄せてきて、難波の港は人で溢れかえり響動めいていた。

 

額田文姫も、イリとの間に生まれた娘・十市姫を連れ金一族を率いて駆けつけてきた。

 

 

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額田文姫

 

 

イリは、長槍を担ぎ船の舳先に立っていた。

 

頭上で鳶が風を受け、優雅に舞っている。

 

船が港に入ると着岸するよりも早く、津に響き渡るほどの大声で叫んだ。

 

 

「吾は皇太子弟、王室の者!大海を渡り今、和国へと戻った!大海人の皇子である!」

 

何年ぶりかのイリの大喝に、難波の港の者達は歓喜で出迎えた。

 

 

イリの妻、額田文姫は無事を信じ抜き燦然とした態度で帰国を待ち続けてきたが、この瞬間は思わず懐かしすぎる声に涙が溢れた。

 

とも綱が投げられ艀がかかる前に、イリは長槍を担いだままふわりと飛び、和国の大地に飛び降りた。

 

和国には槍の使い手は少なく、長槍を持てば和国一強い男であることに間違いない。

 

仁王立ちに長槍をひとふりし、槍柄を足元に突き立て、叫ぶ。

 

 

「吾は皇太子弟 大海人の皇子である!」と

 

改めて名乗りをあげた。

 

 

阿部比羅夫、安曇比羅夫、宰相の中臣鎌足ら和国の高官達までもが出迎えに連なり、その上、高句麗の客ではなく「王室の者である」と宣言されてしまい、港の難波王朝の諸官らは入国を差し止めることも、どうすることもできなかった。

 

真っ先に、中臣鎌足らとイリは手を取り合い、再会を喜んだ。

 

 

数年の旅を経て、一回りも二回りも大きくなって戻ってきたイリの姿に、和国の者は驚いていた。

 

雄々しく逞しい風貌に威厳は群を抜き、真っ黒に陽焼けした顔に光る眼は、今まで以上に眼力を放っている。

 

 

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額田文姫の方もすっかり大人になり、凛とした居ずまいは皇太子弟の妻に相応しい。

 

大海人王子はそのまま出迎えの者共も引き連れ、上陸した足で難波王宮に向かった。

 

「和国も変わったものだな」

 

と、辺りを見渡し傍らにいた中臣鎌足に言った。

 

 

突然、和国に上陸してきたイリに、

 

難波王朝は追い詰められる。

 

 

「皇太子弟!まかり通るぞ!」と、大喝し

 

宮殿の孝徳王のもとへ向かう。

 

皆、その行動力に打たれた様に黙り、一歩二歩と後退りした。

 

いきなり登場した大海人皇子に、孝徳王は

 

「ぶ、無礼ではないか!」

 

と、驚き声を張り上げる。

 

孝徳王を睨みつけ大海人皇子は、

 

「そこの玉座に座っているのは、ウィジャ王ではないな。如何なる者だ?亡き上宮法王の嫡流であるか?」

 

と、問いただすかの様に言い放った。

 

「何を言うか!わが父ウィジャ王様より、和国の王座を継承した難波王朝の孝徳王なるぞ!高句麗宰相でなく、和国王室の皇太子弟を名乗るならそれなりの礼節をもって遵え!」

 

如何に言われようにも、孝徳王も引き下がる訳にはいかない。

 

巨勢徳太はいきり立つたが、中臣鎌足が制止し、固唾を飲み、二人のやり取りを注視する。

 

「上宮法王の嫡流でないならば、その者は和国王ではないだろう。即ち、そこの玉座も和国王の玉座などでなく、さしずめ『難波の里』の長の座であろうか。其れともここは、百済王の宮か?」

 

イリの声には、逆らい難い強さがある。大喝せずとも皆気圧されて、一瞬に黙してしまう。

 

 

(なんという奴だ、)

 

孝徳王は中臣鎌足の方を睨み、内心の怒りをぶつける。

 

「何より、和国の王都は難波でなく大和ではないか!?ここは和国王の宮ではない!吾ら和国の者は大和へ行くべきである!」

 

豪奢な宮殿にも目もくれず、大海人王子は不遜な言葉を吐き捨て、背をひるがえすと足早に去っていった。

 

 

(このままでは済むまい)と、

 

誰もが思った。

 

孝徳王に対して全否定の宣戦布告である。

 

大海人王子は居並ぶ諸臣たちに一瞥もくれなかったが、諸臣らは顔をふせ皆、大海人王子を直視することができなかった

 

『大海人皇子』と和国名乗りを上げ、その上堂々と皇子と名乗っている。

 

大海人皇子は孝徳王に凄まじい威嚇をした後、次に向かったのは義母・宝皇妃の宮で、無事の帰国を報告した。

 

「義母さま。只今戻りましてございます!」

 

宝皇妃は、より逞しくなったイリの風貌を染々と眺め、 頷き静かに話しだす。

 

「無事の帰還を嬉しく思います。相当な苦労をされたことでしょうに、本当によく無事に戻られました。大海人と和国名乗りを上げたそうですね。」

 

「はい。改めて言上申し上げます。皇太子弟・大海人皇子と名乗り申し上げます。子供時代を過ごした大海の里にあやかり大海人(オオアマシ)を和国名乗りとしました。」

 

大海人と名乗り、しっかり和国での覚悟を決めたようで、堂々たる威丈夫に宝皇妃は頼もしさを感じていた。以前、会った時にはイリと呼ばれることにも、呼ばれないことにも腹を立てていたが、その頃とは別人の様に落ちつき自信に満ち溢れている。

 

 

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「、、義母さま」

 

「玉座が大和に無く、諸官らは難波に移ってしまったようです。義母様は今一度大和に戻り、どうか都を築いて頂きたいと願います。」

 

「大和に?都を、、!」

 

「はい。西アジアではイスラム教のアラブが東漸し、ペルシアの王子らはインドに逃げ、ペルシア軍人は唐に亡命しヤズゲルト王は他国に逃げ込みましたが、西アジアの国はもはやアラブに敵いません。」

 

「ペルシア国の危うき今、どうかペルシアのゾロアスター教の火を消さないで下さい。大和に、須弥山を造営しカナート(水路)を引き水の女神アナーヒーターを祭るゾロアスター教の都を造って下さい。」

 

 

「なんと、!そのようなことが、、」

 

宝皇妃は、驚く。

 

大海人王子から、ペルシアのゾロアスター教が語られることも意外であった。

 

「今、上宮法王の子孫ガロは唐と戦っていますが、他の国々はアラブを恐れ、もう戦どころではありません」

 

大海人王子は、目にしてきた西アジアから中央アジアの国々の有り様を事細かに話し続けた。

 

宝皇妃は、故郷のアジア世界を偲びながら、一言一言しみいる様に聞いていた。だんだん話しを聞いているうちに、和国にゾロアスター教(拝火教)の王都を築ければという気持ちになっていった。

 

宝皇妃はこの後、和国女王として即位すると、大和にカナート(水路)と須弥山を造営し、ソーマを調合する為の、酒船石というゾロアスター教の調合台を作った。

 

中央に須弥山を置き水路で囲い呉橋で是を渡るという独特の世界感は、南アジアのインドに伝わりヒンズー教や仏教も取り入れたが、元々は西アジアのゾロアスター教が起源である。これにより中国仏教から伝わるよりも早く、和国で須弥山が創られたことになる。

 

「義母様、、難波は和国の都ではありません。どうか大和を都とし和国の女王として即位して下さい。一度、王室の方々を集め詮議願います。」

 

大海人王子は静かな表情たが、

 

何時になく強い語気を込めて念を押していった。

 

 

(皇子などと、名乗らせて良いものか、、)

 

宝皇妃は、まず義理の息子を正式に王室の一員として認めるべきかを悩み、高向玄里に相談することにした。

 

そもそも、大海人王子の妻・額田文姫は自分が産んだ娘でない故に追いやったのである。

 

高向玄里はこのとき東国にいて、和国突厥族の残党を含む辺境にいた民らを統べるべく常陸の国行方郡を設置し経営にあたっていたが、イリの帰還を聞き及び急遽早舟で上京してきた。

 

 

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イリとはまだ顔を合わせていない。

 

高向玄里にとっては、宝皇妃を和国女王に即位させることは積年の野望である。

 

以前、宝皇妃を皇極女王として擁立しようとした時は隙がなかった。ウィジャ王を百済に追い払えればなんとかなると思っていたが、その後、蘇我石川倉麻呂らが粛清され孝徳王が即位してしまい、高向玄里の野望は破れ和国の僻地に追いやられてしまった。

 

それが、今になりイリが大海人皇子と名乗り、ウィジャ王を裏切って宝皇妃側に立場を変えてきたのだ。

 

(時節を待った甲斐があったか、、)

 

高向は息子の意趣変えに一先ず安堵していた。

 

大海人の「皇子」との名乗りは、

 

即ち「王室側につく」という表現で、イリの意志表明でもあると高向玄里は理解した。

 

大海人皇子の意図するところは判らぬが、協力させるのなら、むしろ積極的にこちらから大海人皇子の名乗りを認めて、

 

「是を王室の力とするべきである」と、歓迎した。

 

高向玄里にとって、宝皇妃を和国女王に擁立する最後の機会と思えたのだろう。宝皇妃に得心させ、大海人皇子を正式に王室の者として推し進めていくことになった。

 

 

 

 

【和国 難波王朝を離脱する王室】

大海人皇子は大海の里にも足を運び、大海の翁に無事の帰国を報告した。

 

翁はてらいもなく顔をくしゃくしゃにして帰還を喜んだが、大海人皇子(オオアマシ)との和国名乗りを聞き更に喜んだ。

 

 

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大海の里の翁 大海宿禰

 

そして大海の翁は、

 

「もう、高句麗には固執しない方がよい」と、

 

繰り返し言い聞かせる様に語りかけた。

 

幼き頃、「大器の器」と見込み手塩にかけ育てたイリが、苦難の歳月を経て更に磨きをかけ立派になって、大海人皇子と名乗り戻ってきたことに感激はひとしおである。

 

大海の翁には、イリの帰るべき里が、大海の里であることが嬉しい。

 

 

大海人皇子は額田文姫と娘・十市姫も伴っていて、懐かしい故郷で親子水入らずの時を暫し過ごした。

 

 

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額田文姫

 

 

六歳になったばかりの十市姫は、はじめて父の存在を知る。両手をいっぱいに広げても尚も父の背中は大きく、母とは違う温かさがある。

 

鬼をひしぐほどの壮漢が、小さな娘の手をとり、ここで心ゆくまで遊んでいた。

 

 

翌月、大海人皇子は大和に戻り義母宝皇妃の宮にて、武王の王室の者だけで会合をした。

 

間人皇后と額田文姫、

 

そして逼塞していた那珂大兄皇子も参上した。

 

 

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亡き武王の妃と武王の子と、そして娘婿の大海人皇子、五人である。

 

 

 

中臣鎌足、阿部比羅夫らも招かれていた。

 

後世の名家名流を重んじる『武家社会』や『貴族社会』とは性質が違うが、部族社会の意識でも王統血統に対するこだわりはまだ強く、如何なる王族でも、必ず前王の養子や入り婿になることで跡継ぎとして王位に着くという先代の流れをくむ習慣が残っている。

 

大化の改新を経てもこれは変わらなかった。

 

小国の部族社会では、圧倒的な力の差がない為、中国の様な易姓革命(全くつながりのない別の王朝になる)は起きにくい。

 

たとえ武力で前王朝を倒すことはできても、他部族に対し武力支配でその後も政権を維持できるほどの兵力はないので、徹底的に前王朝を破壊するよりも平和的な政権合体策で前王朝と和合する方が多かったようだ。

 

一強による一元支配でなく、二元的な統治が部族の連合社会を生み出してきたのである。

 

そして和国には、王女(女王)に入婿するかたちで王位につくという不文律がある。先代の王女が皇后となり、また王が不在となれば代わって女王となる。

 

威徳王敏達、蘇我馬子、上宮法王も時の権力者として推古王女と結び、

 

蘇我王朝の山背王は上宮法王の娘と結び、

 

今度は難波王朝のウィジャ王と孝徳王親子が、二人とも上宮法王の孫娘である間人を皇妃としたのも、そうした女性血統主義を尊重したからであろう。

 

 

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和国には古い女系中心主義の習慣が、多少残っている。

 

女系中心主義では女性が首長となり、女性首長は『戸主』(刀自)という尊称で呼ばれ敬われていた。

 

特に上古の和国では、女性が家や里をかまえ、男は通い婚するのが常識であった。

 

家にあっては家長を女性とし『家戸主』(=家刀自)または母戸主と言う尊称で呼ばれ、里にあっては里長を『里戸主』といい一族にあっては『族戸主』と言い、集団の首長は必ず女性がなった。

 

母は子を産む存在であり敬われていることから、国を指しては『母国』という言い方をし「父国」などとは決して言わない。

 

和国で女性を敬い首長に立てる習慣は、そう古色蒼然とした遠い昔話しではなく、女王が即位しやすい土壌がある。

 

上宮法王の女系ということならば、間人の母・宝皇妃がまだ健在であり、大海人皇子は孝徳王を廃して宝皇妃を女王に擁立するつもりでいた。

 

「ウィジャ王の権勢の下に、今だに甘んじるべきでない。」

 

ウィジャ王即位の時は擁立したが、今の二代目孝徳王は認められないということである。皆、大海人皇子の言葉に意志の変化をくみとった。

 

大海人皇子は続ける、

 

「ウィジャ王は時勢を知らず、その二代目になどに王位を預けては和国に未来はない。孝徳王など無視して大和に都を遷し、和国王座には、義母様に女王として即位して頂こう。」

 

宝皇妃はゆっくりと頷き、

 

「女王となり、大和に都を造ります」

 

と宣言した。

 

既に覚悟を決めてる様であり、留める余地は無さそうである。

 

大海人皇子は、那珂大兄皇子の目を擬っと見た。

 

「ウィジャ親子は義兄にとっては父・武王の敵であろう、奴らにそのまま王座を預けておくというのか?母、宝皇妃に和国女王となって頂き、息子である義兄上が正式な皇太子となってこの国の未来をつくるべきであろう」

 

大海人皇子の説得に、那珂大兄皇子は驚きを隠せない。

 

何しろ義兄と呼ばれたのも初めてのことである。

 

もともと、ウィジャ王を擁立したのは高句麗宰相イリ=大海人皇子であり、

 

(何を今更、、!)と、腹も立つ。

 

しかし、蘇我石川倉麻呂ら味方を失ってしまい、ウィジャ王の天下で為す術もなくひっそりとしていた那珂大兄皇子にとっては、突然のイリの与力は捲土重来となる出来事だった。唐と高句麗が戦を止めた以上、その強力な戦力を和国に向けることも可能かと思われた。

 

和国で味方がなかった那珂大兄皇子に突如として、

「高句麗」という援軍が現れたのである。

 

天地が開闢したかの様に、那珂大兄皇子の前に和国は一変した。しかし、それも高句麗の軍王イリではなく、王室の義弟・大海人皇子であってこその後ろ立てである。

 

母宝皇妃の口から「大海人皇子」という言葉が出ると、王室の一員としてしっかりと認め、その権勢に乗ろうという態度が伺えた。

 

那珂大兄皇子もこれに従い、イリとは呼ばず、

 

「大海人皇子」と和国名乗りを認め、

 

大海人皇子も

 

「義兄上」と呼び、

 

二人の関係も一変した。

 

必ず周囲に対立する相剋関係を作り上げ、団結して刃向かえ無い様にするのがウィジャ王のやり方であるということは、那珂大兄皇子ももはや気がついている。

 

ここは、貴種としての顕示欲は捨てて、大いに団結し難波王朝を共に倒そうという気持ちになった。

 

あとは孝徳王の妻となっている間人である。

 

黙していた、間人は

 

「是非もありません、思し召しのままに。」と、

 

静かに小さな口を開いた。

 

 

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間人皇后

 

父・武王が殺されると、斉州島(耽羅)に島流しになり、そして和国へ渡り、父・武王の敵であるウィジャ王の妻となり、今度はその息子に嫁いだのだ。数奇な運命に逆らいもせず、貴種の女性血統としての運命に殉じてきたのである。

 

孝徳王に対しては、全く心はなかった。

 

権力者が変われば、

 

また、夫が変わるというだけのことである。

 

母の方を見て、目で頷いた。

 

王女に自由恋愛など許されるべくもないが、間人はもしも権力者に嫁ぐなら、大海人皇子の様な頼もしい漢に嫁いでみたいと思っていた。端から見ると、額田文姫と大海人皇子は気脈が通じ仲むつまじい夫婦に見えた。

間人も離別の意志を強く固め、王室は大海人皇子の提案どおりに一致団結した。

 

「汝らは、如何するか?どちらの王に従うか?」

 

ずっと傍らに控えて、王室会議を見守っていた中臣鎌足と阿部比羅夫に、大海人皇子はあえて問いかける。

 

反対であれば最初からこの場にはおれない。

 

「女王様に忠誠を誓います」と、

 

二人は宣誓し、ひざまづいた。

 

中臣鎌足はこの場ではそう誓ったものの迷いがあった。何しろウィジャ王の忠臣である。その一方で、鎌足は強烈な反唐派であり、反唐派の実力者である大海人皇子とはずっと気脈を通じてきた。

乙巳の変で、共に蘇我氏を倒したのも反唐政権樹立の為である。ウィジャ王と大海人皇子の間で、折衝を行ってきた立場だが、いよいよ身の振り方を鮮明に決めなければならない時がやってきた。

 

「この先、反唐を貫くならば大海人皇子につくしかない」と、

 

感じてはいる。

 

アジア天下は皆、唐の講和政策に乗っていき、唐と戦おうという機運は萎えかけてきていた。

何より反唐心か忠誠心かということよりも、現実問題として和国での局面は孝徳王には分が悪い。

 

大海人皇子の帰還は早くも百済に伝わっているが、誰にも大海人皇子の行動は止められず、突然の造反場面に為す術がなかった。

 

 

 

 

【中臣鎌足 大海人王子に随身する】

大海人皇子は、改めて中臣鎌足だけを呼び出した。

 

いきなり前置きもなく、問う。

 

「吾が高句麗と、ウィジャ王の百済、どちらが多く唐と鉾を交えているか。」

 

大海人皇子と違ってウィジャ王は唐に剣をふるったことはない。同じ反唐派と言っても、実際に唐と戦うのと親唐派を誅殺するだけの剣とは全く次元が違う。

 

「、、、」

 

 

【挿絵表示】

中臣鎌足

 

真の反唐派に与力するか、ウィジャ王に忠とするか、選べと言うことであろうか。

 

「ウィジャ王は反唐と言っても今は新羅を切り取ることしか考えてない。新羅取りの為の反唐なのだ。その様なことでは、もはや時勢に敵うまい。新反唐派として吾らは共に歩もうぞ。そもそも、今の様に新羅が唐に走ってしまったのは、百済が新羅を切り取りすぎたからだ、全てウィジャ王の野心が成せるがことよ!」

 

「そ、そんな!新羅の党項城攻めは高句麗との共同作戦ではないですか!」

 

「勿論!そのとおりだ。だが、その後の大耶城攻めは良くなかった。金春秋の娘を殺し新羅に怨恨を根差した。その後も新羅を攻めては唐にいなされ、唐には二枚舌を使ってまた新羅を攻め続けてきた結果、新羅はやむを得ず唐に随身したのだ。」

 

「乱世とは、かようなものかと」

 

「笑止千万!何が、乱世だと?!

アジア天下を見て回ってつくづく唐の勢力を思い知らされたが、唐は真に強大だ。それでも、尚、唐に侵されない国を造ろうという志しは変わらぬがな。新羅の金ユシンもそうだ。しかし、ウィジャ王はどうだ!新羅攻めしか目に入らず、天下というものが全く見えていない。乱世というものをまるで舐めているのだ。

 

だいたいウィジャ王は気がつきもせぬが、今の百済と新羅の争いなど唐にとっては介入の機会をつくる恰好の餌食なのだ。高句麗が命がけで唐軍の侵入を止めたところで、先に半島に唐に侵入させてしまっては意味をなさなくなる。それが、分からずに目前の欲望で動いてるにすぎない。当然、和国の兵はウィジャ王の欲望の為の新羅戦などに一兵たりとも使うべきではないのだ。」

 

確かにウィジャ王は慢心し、唐を軽く見ていることを鎌足は知っている。

 

高句麗王子だった少年時代に隋との戦があったが、ウィジャが剣を取ったことはなく、父・嬰陽王からウルチムンドク将軍など英雄の話しを聞かされていただけだった。

唐と隋では唐の方が遥かに強いが、実戦を知らないだけにその違いが分からない。高句麗の王族としての誇りもあったのだろう。

 

唐に勝ちながらも唐に謝罪した高句麗のことを陰では、

 

「腰抜け」と、ことあるごとに馬鹿にしていた。

 

東アジア三国を回っただけで天下の広さも知らずに反唐を唱えるウィジャ王と、アジア世界を巡って太宗皇帝が夢見た『アジア帝国』の奥行きを知り尚、反唐の志しを捨てぬ大海人皇子との違いに

 

中臣鎌足は考えこむ。

 

鎌足は、ウィジャ王の忠臣であり誰よりも功があったとして大錦冠を与えられていた。

 

が、反唐ということであれば、大海人皇子の話しを聞けば聞くほど、ウィジャ王より大海人皇子の方が志操が上であると思えた。

 

忠誠心より反唐心を上位に置くべきか悩む那珂大鎌足に対し、

 

「吾れの反唐とは、大錦冠を被る為のものか?」

 

大海人皇子は問いかけ、中臣鎌足の心が挫けた。

 

もとより地位が望みならば、反唐を貫いて高句麗から亡命することもなかったのだ、

 

「反唐の為なら名も地位も要らぬ!とはゆかぬだろうが、節を曲げぬのなら節を貫け。反唐の為に、今は吾に従え」

 

中臣鎌足は迷いを捨て、大海人皇子に従うことを決めた。

 

ここでウィジャ王に忠義だてして大海人皇子に逆らい、反唐派の実力者と仲間割れしてしまう訳にはいかないという配慮からである。

 

 

「鎌足は以前、ウィジャ王に寵妃を授けられたな。吾もな、同じに妻と子を鎌足に託そうと思う。いずれ、そのようにさせてくれ。」

 

「なんと、、!そのような過分なことを、、」

 

「吾も託された子であるような気がして仕方がない。吾と父とはあまりにも似ておらぬしな。母なる者が、親子名乗りを上げない限り、吾は自分の出自を確認しようがないのだ。

 

実はな、吾は宝皇妃の子ではないかとの噂がある。父高向玄里が宝皇妃を引き取った時、彼女の腹には無き嬰陽王との子が宿っていた。それが吾だというのだ、」

 

 

「か、、!かようなことは、ございませぬ!」

 

「分かっている。その頃お前は高句麗にいたから、その様なことも当然知っていたはずだろう。それに当の昔に宝皇妃本人にも確認し否と言われている。

 

噂ではな、上宮法王が高句麗の嬰陽王に妻と娘を差し出した時に妻は既に身ごもっていた。生まれた子は嬰陽王との間に出来た子供として育てた。それが今のウィジャ王だ。嬰陽王は娘との間にも子をなしていて、それが、吾だとの話しだ。

 

嬰陽王が暗殺され、栄留王が唐の擁立で王座に着いた時に、高向玄里が高句麗に送り込まれてきた。 高向玄里は嬰陽王の子を宿した宝皇妃を見いだし身柄を引き受けた。そして生まれた子供を自分の息子として育てたというのだ。宝皇妃は高向の妻となり、高向に協力することと引き換えに、子の安全の保障を求めた。高向玄里の子として育て、絶対に秘密は明かさぬ様に、と。そして、今でも秘密は守られているのだ。」

 

「、、、」

 

「しかし、もしも噂が本当であったら、おぬしはどちらの味方をする?上宮法王の隠し子ウィジャ王か?それとも嬰陽王の隠し子の吾につくか?」

 

「さ、そ、それは、高句麗王家に仕えた者であれば、その嫡流の皇子様を奉戴するのが当然でしょう。噂が事実であればですが、、」

 

全くの噂話しであるが、何とも出来過ぎている話である。噂話しとわかっていても尚、考えさせられる。

 

 

「亡命したウィジャ王子ならいざ知らず、高句麗に残っていた反唐派の嬰陽王の子種を生かすなど、親唐派にあっては絶対に許せない裏切りであり、死んでもそのような事実は明かさぬであろうし、露ほどの懸念も抱かせぬであろうな、、何事にも虚と実はあるものだ。」

 

中臣鎌足は、返す言葉がなかった。

 

 

「しかし、人間の運命とはおかしなもので 父や母が誰であろうとその家の子として育てられれば、皆そのように生きるのだな。決して本来の血統の出自を明かすことなく、家を活かしていく。吾がもしも妻と子をそなたに託したならば、そのように育て上げてくれ。吾の子であることは誰にも明かさずにな、、」

 

 

「恐れ大いことです。」

 

中臣鎌足は膝をついた。

 

 

後に、鎌足は大海人皇子に寵妃を託され子が産まれると、約束どおり自分の子として育てた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

藤原不比等といい、藤原貴族の繁栄を築く初代となる。

 

 

左右両大臣の説得には中臣鎌足があたった。

 

左大臣巨勢徳太と右大臣大伴馬合、宰相の中臣鎌足は和国きっての強烈な反唐派である。

 

鎌足に時勢を熱心に説かれ、反唐色の強い大海人皇子に皆、鞍替えをすることにした。

 

これで反孝徳派には反唐派が加わって、中臣鎌足、左大臣巨勢徳太、右大臣大伴馬合、那珂大兄皇子、大海人皇子、阿部比羅夫、高向玄里のそうそうたる面子が揃った。

蘇我石川倉麻呂を除いた、乙巳の変の実行部隊の面々でもある。

 

蘇我入鹿を倒した団結力の前には、孝徳王一人で、とても太刀打ちできるものではなかった。

 

 

 

 

【和国孝徳王 難波置き去り事件】

折しも難波王朝では、遣唐使を送る準備を進めていた。

 

和国での百済船の造船は、戦船ではなく遣唐使船だったのだ。

 

アジア諸国の朝貢に遅れながらも、これでようやく和国からも唐に使節を送れるまでになった。

 

孝徳朝にとっては唐の冊方を受ける為だったが、随行者の選定には大海人皇子からの圧力がかかり、孝徳王の味方を削ぎ落とすかの様に腹心の者達が多く加えられてしまった。

 

中臣鎌足は、かつてウィジャ王から寵姫である阿部小足姫をかしされた。その時、姫はウィジャ王の子を既に身籠っていて、生まれた子は「定恵」と名付け、密かに自分の子供として育てていた。

 

今や難波王朝の未来は危うく、ウィジャ王に繋がりのある者らは皆、排除されつつあり、これからの和国でウィジャ王の血を引く子が生き延びることは難しいであろうと哀れんだ中臣鎌足は、大急ぎで定恵を遣唐使に加え僧として唐に留学させることにした。

 

5月、2隻の遣唐使船は出航した。

 

しかし、2隻のうちの一隻は鹿児島沖で沈んでしまい120名中5名が生き残った。孝徳王の味方の多くは命を落とし、生き残った5名は、報奨と位階を授かった。

 

一隻は無事に唐にたどり着き、僧道照は三蔵法師玄奨に師事することができた。

 

遣唐使を送ったばかりであるにも関わらず、難波王朝では朝参せぬ者が出始めて、孝徳王は迫りくる孤独をひしひしと感じていた。

 

孝徳王は既に、間人皇妃からは、

 

「武王王家の者として、王室に従う」と、

 

意趣を伝えらるている。

 

唯一頼りにした味方であった僧旻は病に倒れてしまい、

 

孝徳王は僧旻を見舞った。

 

「もしも僧旻法師がいなくなったら私はどうして生きていけばいいでしょうか、明日、もしも法師が亡くなったならば、私も生きていられません」と、

 

涙を流しその枕元に立っていた。

 

 

翌月、

 

僧旻はこの世を去り、孝徳の頼りとする者はいなくなった。

 

ウィジャ王が和国を孝徳王に継がせた頃、那珂大兄皇子は味方を失い絶望していたが、今はまるで那珂大兄皇子と立場が逆転したようである。

 

大海人皇子の登場で、難波王朝は一気に冷えた。

 

孝徳王の味方は減り、那珂大兄皇子に野合して従っていた者や、高向玄里についた旧親唐派の者らは命を吹きかえしてきた。大海人皇子が「反唐」であることに変わりはないが、擁立するのが宝皇妃ということであれば話しは別である。

宝皇妃はもともと親唐派の武王の皇后だったのだ。

 

高向玄里と那珂大兄皇子は、がぜん朝廷工作にやっきになり、自分の勢力に取り込みながら反孝徳派を広げていった。

 

特に「名ばかり皇太子」となっていた那珂大兄皇子は、

 

「母・宝皇妃が女王となれば、次期和国王は吾に間違いない。吾を推せば即位の暁には汝らの意見は重く用いよう。」

 

等と、早くも即位後の約束をし、冠位昇進の空手形で派閥を拡大していった。

 

 

【挿絵表示】

 

那珂大兄皇子

 

 

6月、

 

那珂大兄皇子らは、母・宝皇妃をかしずき難波王朝に乗り込んだ。

 

 

「これより吾らは大和に遷宮し、上宮法王の嫡流である宝皇妃様に和国女王となって頂く!皆、従え!!」と、

 

大号令を下した。

 

那珂大兄皇子の態度は悠々たるもので、皆、気を抜かれた。

 

「都を大和に遷します!」

 

宝皇妃は両手を広げ諸官に命じた。

 

是を合図に、気脈を通じていた那珂大兄皇子派の者らは一斉に宮廷を去っていく。

 

 

 

「そ、そんな事は、させぬ!」

 

孝徳王だけは、これに抗うが、

 

「黙れ!王室の決定に従わぬ者は成敗するぞ!」

 

大海人皇子は大渇し、孝徳王を一蹴した。

 

「動かぬは誰ぞ!」と、

 

睨みをきかせ、皆すごすごと宮廷を去りだす。

 

 

「大和に行きます」

 

間人皇后も、静かに宣し孝徳王に背を翻した。

 

あろうことか、大海人皇子に手を引かれ間人皇后はしずしずと宮を去っていった。

 

呆然と立ちすくみ、まだその場に残っていた臣らも是を見て慌てて退出していく。

 

あまりに突然の出来事に、孝徳王は震えた。

 

「もはやどうにもなりませぬ。私も定恵様を唐へ逃がしました。この上は、孝徳王様も百済に引かれるのが賢明かと、、」

 

中臣鎌足が気落ちした孝徳王に最後に語りかけ、立ち去った。

 

 

宮廷の者は全て去り、孝徳王だけがただ一人取り残された。

 

茫然自失

 

 

(この様なことが、あって良いのか、、)

 

誰も居なくなった荘厳な宮を見渡し、悔し涙を流す。

 

 

どうする事もできなかった。ただ、ただ己の無力さを噛み締めていた。

 

父ウィジャ王に難波を任された以上、孝徳王は例え一人になっても大和に引くことは出来ない。

 

大和に向かった宝皇妃、那珂大兄皇子、間人皇后、大海人皇子ら王族は飛鳥河辺行宮に入り、大夫百官は皆これにつき従って行った。

 

 


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