和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦650年~652年
ウィジャ王が百済へ帰国した後、和国を任された孝徳王は難波王朝を開きその威光を行渡らせていた。
イリはアジア諸国での遊説を終え、帰国する為インドから南海航路へ出航した。
 
第1話 持衰を乗せ 済州島へ出航するイリ
第2話 和国 難波王朝 孝徳王
第3話 イリと市王子
第4話 新時代の新羅 和国を威圧する
 



第9章 和国【難波王朝】孝徳王

【持衰を乗せ 済州島へ出航するイリ】

イリ達は南海航路を順調に進んでいた。

 

天竺(インド)のベンガル湾から沿岸航法をとりマレーシアを抜けて、一路北東へ船を走らせる。南砂諸島を抜ければ台湾が見えてくる。そして、東シナ海へと進み南西諸島を目指していく。

 

イリは、この様な南洋航海は初めてであった。

 

高句麗ー和国の航海のように、船をこぎ出せば、必ず日本海沿岸のどこかしらには漂着するということが分かっている訳ではない。

 

気の遠くなるほどの長い海路に不安もあったが、進路はただただ北東へ一路、季節風に乗り進むだけであった為、台風にさえ当たらなければ比較的安全な航海であり、日本海の荒海に慣れていたイリにとっては、南海航路(海のシルクロード)は思った以上に穏やかで静かなものだった。

 

海が穏やかであっても、東南アジア海域では海賊に襲われる商船も多かった。しかし、間違ってもイリの船を襲うなどすれば、海賊の方が皆殺しにされただろう。

 

南アジアは、雨季に入ると南西の季節風が吹きはじめる。

 

アフリカ東岸から発し、インド、東南アジア、中国沿岸から、東アジア、日本にまで渡る、地球の4分1を吹き抜ける長大な季節風(アジアモンスーン)に帆を当て、ただひたすら北東へと進む航海である。

 

嵐と遭遇するかしないかの「運」だけが問題だった。

 

遥か水平線に目を凝らし、海と空の色の変化を発見した時には、既に台風回避は間に合わない。

 

僅かな風の匂い、湿気、温かさ、気圧など微妙な変化を五感で感じとり予測をし、諸島のどこかの小島に逃げてやり過ごすか、それでも安全とは言えず、結局最後は天に祈るしかない。

 

 

イリは台風の難をさけるため、

 

持衰(じさい )を同乗させていた。

 

持衰(じさい)とは、航海の安全の為に船と同乗者の災厄悪運を一身に引き受ける人身御供のような者である。

 

航海中、身体を洗わず髭も剃らず、衣服もそのままであり、穢れを我が身に集めてじさいはひたすら航海の安全を祈り続ける。しかし、嵐で時化になれば海の神への生け贄として荒海に投げこまれてしまう。

 

命がけで、祈りを捧げるものである。

 

 

イリは船上で素っ裸になり、じさいに向かって、

 

「サイコロメ舞いる!」と、叫び

 

くったくなく男根を振りながら、両手を大きく広げ三回舞った。

 

 

ペルシア人も、じさいも、皆な、恥じる様子もない堂々としたイリの裸踊りを見て、腹を抱えて大いに笑いころげた。

 

船中が明るい雰囲気に包まれた。

 

古代から続く、航海の安全を祈る船上儀式であり、運が全てである船乗りにとって、寨コロは神器の様なものである。

 

そして、洋の東西を問わず船乗りの世界では女人禁制が常識であった。

 

海の女神が嫉妬して船を沈めるという。

 

いささか迷信的であるが、男のしるしを見せる船上の男根儀式も恐らくそのような事に由来し、

 

包み隠さず、

 

「船に乗っているのは男だけ」

 

と、でもいうのだろうが、言祝ぎもなく楽しそうにくったくなく踊るイリの舞いに、皆、心をくつろげ、

 

「運とはかようにして引き寄せるものか」

 

と、感服した。

 

そして皆、吾も吾もと着ているものを脱ぎ捨て、すっ裸になって踊り出した。

 

いずれにしろ、嵐の海に遭遇すれば人間の力など無力であり、結局は「運」が全てである以上、船乗り達はどんな些細な運でも迷信でも、全て担ぎ上げねばならなかった。

 

 

イリ達の船は、無事に南シナ海を抜けて、東シナ海へと入った。

 

この辺りまでくれば、和国は目の前である。

 

南西諸島から、奄美大島群島へ島づたいに渡る航路であり、台風の進路と遭遇する危険な海域でもある。

 

太宗皇帝尭ずの報はアジア世界を駆け巡り、既に聞き及んでいたイリは、

 

「急ぐことはない」と、判断し、

 

直ぐに和国へは向かわずに、南西諸島に寄港して、ここからは慎重に進んでいくことにした。

 

島に逗留し諸島部族達に反唐を説き、高句麗とのつながりを強化する目的もあったが、ここまで来た以上、万に一つでも、嵐に遭って海の藻屑となる訳にもいかないかった。

 

「志のある者を、天は見捨てぬ」という

 

強い信念を持っていたが、決して無謀なことはしない。

 

イリ達はここで大地に足をつけることの有り難さを久しぶりに存分味わった。

 

船上よりも、南西諸島から見る海は遥かに美しく見えた。

 

航海の間中うんざりする程見続けてきた水平線だが、大地に足をつけて見る水平線は格別である。

 

 

(特に朝焼けが美しい)

 

そう思った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

水平線に赤光が差し一筋の光の道が伸びて来て、真っ赤な日輪が浮かび上がる来光の瞬間を、イリは気に入っていた。

 

干戈を枕に野に伏した日々も、乱世であることさえも忘れてしまいそうなくらい美しく荘厳な風景である。

 

鮮やかな天色の海が一面に輝き、

 

優しい潮風と穏やかな波の音は、人の心を和ませる。

 

イリは高山に立ち、目を細めて沖を眺めては人生の前半生を過ごした大海の里を思い出していた。

おおらかに自分を育ててくれた、大海の翁のことが懐かしい。

 

美しい海に囲まれたこの島で、イリが巡りみてきたアジア天下を振り返ってみると、何故アジアの部族達が皆、東方の卒土の果て海を越えた和国に別天地としての憧れを抱き、困難な旅を乗り越えてまで必死に目指したのかが良く分かる。

 

この美しい海の彼方に、アジア大陸で目にしてきたほどの大戦乱があるだろうとは、とても感じられない。島の者達が、海の彼方から神の使いが来ると信じていることも、然るべきである。

 

和国は、西アジアの国々に比べたらまだ遥かに安全な国ではないかと思えた。

 

バビロニアや古代エジプトの時代から、西アジアの民にとっては、常に大国の支配を受け易い西アジアで生き延びる苦難よりも、東アジアに落ち延びて海を渡った新天地に逃げる旅の方が、未来につながる希望があったのだろう。

 

「東方の卒土の果て、更に海を渡った先には大国の支配も及ばない土地があるという。大国に支配され奴隷民族として生き続けるならば、いっそ東方の別天地へ逃げよ。」

 

と、決断し東を目指して民族の大移動を敢行した部族もいただろうし、ただ闇雲に転々と逃避行を続けていくうちに、たどり着いた部族もいたことだろう。

 

和国に小部族が多かったことも頷けた。

 

強大な大部族はアジアに盤踞し、弱小部族らはアジアの東の果てに逃げるしかないのだ。エフタル族の様な大部族の渡来や、エフタル族と突厥族の様に和国にまで来て刃を交えることは稀である。

 

ここで改めて和国の存在価値が感じられた。

 

高句麗ほど、部族どもの統制が面倒な国はない。少しでも抑えの手が緩めば隙を衝かれてしまい、挙国一致など程遠く、唐からは海陸同時に攻められ常に内憂外患の状態が続いている。

 

(例え王位につこうと容易にはゆかぬ、盗るならば和国からか…)

 

高句麗は、どろどろとした権勢欲の渦の上に王座がういている様なものである。高句麗に比べれば小国だが、それだけに小部族達が大化の改新でならされた後の和国の方が、比較的に権力を集中させ易いだろうと思えた。

 

(やれる、と思えばやれる)

 

イリの和国での立場は、皇太子弟である。那珂大兄皇子の義弟であり、義母は上宮法王の娘で元武王妃の宝皇妃である。

 

王室に繋がっている以上、王室を動かし、それを偉大な統率力として民衆を動かし、一国を制覇できるだけの壮気と智謀がイリにはある。

 

皇太子弟としての己の立場を活かし、己の力のかぎり、いのちの限り、それを果たそうと大志を立てた。

 

 

また、イリは南西諸島の文化に触れるにつれて、海人族達の足跡の存在を知った。

 

島から望む海は、海の蒼さも輝きも故郷の海とはまるで違ったが、どこまでも続く水平線を眺めていると、大海原の彼方に船をこぎだして和国へ行った海人族の先人達の思いが伝わってくるようである。

 

島土着の海人(うみんちゅ)は、顔や全身に刺青をほどこしている漁勞の民であり、和国に渡っていった海人族とはまた違う独自の文化を持つ。

 

高句麗や大海の里の冷たい海と違い、海中に潜って直接魚を獲る。半ば信仰的ではあろうが、刺青を入れていると海中で危険な魚に襲われることがないという。北海では考えられないことだが、イタチ鮫という巨大な人喰いザメが南海には出没する。

 

確かに、オコゼなど毒を持つ魚は派手派手しく威嚇をした種もあり、海中の生存にはそのような「派手さ」が適しているのかもしれない。

 

島に同化することなく和国へ渡っていった海人族らは、たんに文化の違いからということでなく、東方神起(東に神が起こるという伝説)の様にもっと東に向かう強い目的意識があったのだろうか。

 

 

和国海人族、

 

 

海人氏(アマ氏)=阿海氏、または天氏とも云う。

 

山人(ヤマト)の民と同様に古い部族である。

 

和国の海人族は、どこから来たのかよくわかっていない。

 

始祖を讃える『君が代』を謳い、西アジアのユダヤ氏族の特徴が色濃い。

 

自らは海神族と名乗り、伝承ではアジア最古の文明シュメールの末裔であるとしていた。竜船に乗り、イリ達と同様に中央アジアから南海航路を渡ってやってきたという。

 

そして、南西諸島から島づたいに和国に渡っていって、志賀島(福岡県福岡市)を聖地と定め社をおき、九州から列島各地に広がっていった。

 

 

 

イリは彼らの様に南西諸島から奄美諸島づたいに和国へ向かうことはやめた。

 

(ウィジャ王の功臣の蘇我石川倉麻呂が誅殺され、ウィジャ王は百済へ戻ったらしい、、)

 

和国の意外な情報がもたらされると、

 

予定を変更をし和国より半島に近い、済州島(耽羅)へ立ち寄って、和国と半島の政情を伺うことにした。

 

南西諸島の滞在で充分英気を養ったイリは、北に向かって出航する。

 

済州島(耽羅)は、高句麗とも他の東アジア諸国とも貢納関係にあり中立的である。奄美諸島や九州などより百済の事情も分かり易い。

 

 

済州島(耽羅)の島部族達は、丁重にイリを迎えた。

 

イリは島部族の高氏のもとに逗留させて貰い、彼らを通じて東アジアの情報を集め動静を伺った。

 

 

 

【和国 難波王朝・孝徳王】

650年、ウィジャ王は、百済から和国の安芸国に倭漢直縣・白髪部連鐙・難波吉士胡床らを遣わして、百済舶2隻を造るよう命じた。

 

そして、ウィジャ王と入れ替わりで和国に戻ってきた中臣鎌足は、宰相として新和王となった孝徳王を補佐した。

 

 

この年、難波の都には難波王朝二代目の王となった孝徳王の即位を祝い、穴門の国(下関)国司より白雉が献上された。

 

新時代の王化は東西にゆきわたっていた。

 

有力部族と所謂地方豪族の大きな違いは、有力部族の中にはそれぞれの王統を持つ者達がいるということである。

 

彼らは、大和朝廷に服しながら王の陵墓古墳を造営するだけでなく、独自の王号や元号を使うこともしてきた。

 

それだけに穴門の国(下関市)より白雉が献上されたことの意味は重たかった。

 

ウィジャ王が去った後でも、和国難波王朝の威光は変わらず磐石であり、難波王朝の重鎮らは次々に孝徳王に対して『白雉』が献上されたことの喜びを述べたてる。

 

僧道登・僧旻らは、

 

「吉祥である」として、

 

「王者四表に旁く流るときは白雉見ゆ。又、王者の祭祀相蝓らず宴食衣服、節有るときは至る。

又、王者の清素なるときは、山に白雉出づ。

又、王者の仁聖にましますときは白雉見ゆ」

 

と、中国の故事を引き

 

孝徳王の義兄でウィジャ王の王子・豊璋も、

 

「後漢明帝のときも現れました」と

 

追従を述べこれに続いた。

 

白雉は、難波王朝の孝徳王の世に目出度い吉兆であることから、元号を「白雉」と改号することにし、2月に難波の都で孝徳王の改元を祝う式典が盛大に行われた。

 

白雉を宮中の園に放つため、儀仗兵が威儀を整え、百官 群臣のいならぶ中、雉を輿に乗せ閲覧させる。

 

孝徳王は、

 

「吾は虚薄であり聖君ということではないが、天命により君臨し、臣らは皆誠を尽くして新制度につき奉じたおかげである」

 

と感謝し、

 

ウィジャ王が打ち立てた難波王朝の制度に、臣下が服したことを大いに褒めて大赦をおこない、長門国では鷹狩りを禁じた。

 

元号が「白雉」となり、孝徳王の王威が和国で示され、難波王朝の新しい時代が始まっていった。

 

ウィジャ王が制定しなおした冠位も効を表し、階級が細分化されたことにより、努力して上の位官を求め欲する者らが出始めた。部族社会の中で力の弱かった者にとっては部族社会の復興運動などよりも、猟官運動に力を注いだ方がまだましなのである。

 

不満を募らせる者もいたが、なんやかやと皆、冠を被り、難波の官制に従って上を目指す機運が出来上がっていた。

 

 

 

一方、新羅でも、新たな世が始まっていた。

 

唐の礼服を着るようになり、また官制と律令も倣り、全てが唐制に刷新され、新しい新羅に生まれ変わっていた。

 

6月に金春秋は、金法敏を唐に使わせて、百済との戦いに勝利したことを報告した。

そして、高宗皇帝即位を祝う五言詩「大平頌」を献じて高宗の即位を讃えた。

 

高宗は、これを喜び、金法敏を大府卿に任じて帰国させた。

 

 

唐もまた三代目の高宗皇帝の時代となって、新しい世界に変わっていた。戦を止め周辺国らと講和し、一部を除いてアジアには平和が訪れていた。

 

しかし、戦が無いとはいえ、百済の使者が入貢すると高宗皇帝はこれを戒め、

 

「新羅と戦争をしてはならない。そんなことをしたら、吾は出兵して汝を討つ。」と、愉告し

 

略奪した新羅領を返還するよう言い渡した。

 

東アジアはウィジャ王の態度次第で、唐の出方が変わるであろう緊張した状態ではあるが、高宗皇帝が即位してからは対外的には講和政策に転じた為、アジアは平穏を取り戻したかの様だった。

 

が、しかし唐国内では早くも内訌の芽が出始めていた。

 

高宗皇帝の力は弱く、高宗の伯父である長孫無忌が朝政を牛耳り始め、先代の太宗皇帝が抑えていた門閥の均衡は崩れていた。

 

中国には「関隴集団」という古くから続く門閥がある。

 

隋よりも昔しから国政を貪り、易姓革命(王朝交代)が起こる度に新王朝に加担して、王朝を跨いで生き延びてきた既得権集団である。

 

唐が群雄を討ち、いち早く国を建国できたのはこの関隴集団が味方についた為とも云われている。

 

高宗皇帝の正妃である王皇后は関隴集団の妃であったが、皇子がいなかった。

 

その上、厄介なことに側室の淑妃に皇帝陛下の寵愛を奪われてしまっていた。

 

そこで王皇后は、なんとか淑妃から皇帝の目をそらさせようと、美女を探し、太宗皇帝の後宮にいた「武媚娘」という者に目をつけ高宗皇帝の後宮に献上できないかと考えていた。

 

 

【挿絵表示】

武媚娘

 

元々、武媚娘は、先代の太宗皇帝の側室である。父は唐の功臣で大夫をしていた。

 

イリが生まれた翌年、624年に生まれた。

 

武媚娘が生まれた時、導士に占って貰うと、

 

「この子は必ず天に昇るであろう」と

 

預言を受けた為、父は英才教育をしてきた。

 

武媚娘が少女になる頃には、漆の様に黒く光る髪と幾千の星を宿した瞳に、桃の唇と薔薇の頬と、その美しさが評判となり、

 

14歳という若さで後宮に召し入れられた。

 

しかしある時、白昼に太白星(金星)が現れて、太宗皇帝が天文博士に天の異変を占わせたところ、

 

「唐は三代で滅し、女帝・武氏が興る」

 

という、預言がなされた。

 

これにより、

 

「武氏とは武媚娘のことであり、武媚娘を誅殺すべし」

 

との流言が王宮で流れるようになり、側近の長孫無忌にも武媚娘の処分を迫られた太宗皇帝は、次第に武媚娘を遠ざけていった。

 

吾身の危うさを感じ追い詰められていた武媚娘は、やがて皇太子である李治に頼っていって、あろうことか二人は密通してしまう。

 

そして、道ならぬ恋に落ちた皇太子・李治は武媚娘の魅力にすっかり籠絡されてしまった。

 

王皇后は武媚娘に目をかけていたが、李治が高宗皇帝として即位した今も、それほどに心を奪われたままであるとは気がついていない。

 

太宗皇帝が崩御し、後宮の女達は全て太宗皇帝を弔うため髪を卸し尼になっていて、武媚娘も明空法師と号し道教の寺院に入っていたが、王皇后はなんとかこの武媚娘という美女を還俗させ、高宗皇帝の後宮に召し入ようと画策していた。

 

  

 

 

内訌の暗雲が立ち込めてきたこの年の10月、唐三代に渡って仕えた功臣・李勣は突如宰相を辞任し引退した。

 

 

【挿絵表示】

李勣

 

三代に仕えるのは並み大抵のことではない。その様な真の忠臣は、佞臣に讒言され誅殺されるのが常であり、何事にも慎重な李勣は長孫無忌の権謀を警戒し、自ら身を引いたと思われる。

 

 

 

【イリと市王子】

 

耽羅(済州島)

 

和国の様子を配下の者に探らせに行かせたイリは、ここで腰を落ち着け策略を練っていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

一人、胡床に座り考えている。

 

すると、

 

済州島の島部族の高氏の長が、二人の母子を伴いやってきた。

 

「私の娘、海女姫とその息子・市王子です。」

 

「王子だと?すると、その海女姫の夫が済州島の王だということか、」

 

「いいえ、違います 」

 

「では、寡婦か離縁されたということか?」

 

「いいえ、そうではないのです。娘の産んだ子の父親はキョギ様です。今、和国で那珂大兄王子と名乗ってらっしゃる方がこの子の父親なのです。」

 

「なんだと!」

 

「那珂大兄王子か!その名を聞くのは久しぶりだ、、」

 

イリは、胡床から身を乗り出し、海女姫と市王子の顔をしっかりと見た。

 

目もとが、よく似ている。

 

(さすがに済州島まで来ると和国が近い訳だ)

 

ということを改めて思いいる。

 

「キョギ王子様が百済から島流しになり、この済州島へ滞在していた折りにご寵愛を受けました。」

 

イリの意識は西遊を経てガラリと変わった。

 

もはや直情的なイリはではなく、以前より老獪狡猾になっている。母子を目の前にし、頭の中では急回転で深謀を巡らせた。

 

(ここで市王子を手なづけて、那珂大兄王子の足元を掻き回す手駒とするか)

 

と、イリは決めた。

 

「父のいる国、和国へ行ってみたいか?」

 

「はい。行ってみたいです叔父上さま」

 

(なるほど、、なはからその気か)

 

この日よりイリは、連日のように高氏と海女姫、市王子らと宴を催し、アジア諸国や唐高句麗戦について語った。

 

済州島とは別世界の出来事の様な話しだが、島では聞くことの出来ない他国の話しに興趣は止むことがなかった。

 

イリがまだ少年だった頃、ウィジャや金ユシンの話しに夢中になったように、少年・市王子の興味は高まり、イリへの憧憬は強くなった。

 

そこに、反唐の気概にあてられ、

 

市王子も少年ながら壮士に憧れ始めていた。

 

イリは、「修行に励み強くなれ」と、

 

激励し時には直接、剣の手解きをした。

 

イリは、師匠であり、叔父であるが、

 

実父を知らない、市王子にとってはまるで父親の様な存在に感じられ慕わしく思えた。

 

壮(つよ)さへの憧れは漢(おとこ)たる者、皆、少なからずある。

 

剣の修行を続けるうちに、(吾身の力を試してみたい)と、向上心にかられ、外の世界に意識が向くこともあり、

 

イリは、市王子に剣術修行をさせながら巧みに和国への野心を育て上げていった。

 

 

 

【新時代の新羅 和国を威圧する】 

651年、6月

 

和国に、新羅の使者が訪れていた。

 

百済の使者も来和したが、いつもとは違う新羅の使者の有り様に言葉を失っていた。

 

 

皆全て唐の官服で揃え、護衛に付き添う衛士らも唐軍の軍装を纏う。

 

唐の旗こそないが、新羅の使者達は、唐軍の軍旗を押し立て乗り込んで来たかのような威圧的な軍容である。

 

和国の難波朝廷も、ざわめきたった。

 

「新羅は唐に服従し、もはや唐国となったか!」

 

「吾らは唐と国交を結ぶ訳ではない!」

 

整然と歩み来る新羅一団に怒号が飛び交う。

 

使者らは、全く怯みもしない。

 

出で立ちだけでなく、態度も唐そのものであるかのように堂々としていた。

 

使者は、強い語気で

 

「吾らは唐の文化に習い服装を真似ただけです」

 

と、言いはなった。

 

言葉はとぼけているが、立ち振舞いは唐国の使者のように尊大な振る舞いである。

 

新羅使者の目的は、

 

「和国と百済が新羅を攻めようものなら、その前に唐と新羅が、百済を挟撃する!」

 

と言う、唐新羅同盟の威圧を和国に与えることである。

 

まるで唐の使者となってやって来たかの様な新羅の使者の強気に、和国の群臣らに緊張が走る。

 

いざ唐人の格好をした使者を目の前にすると、

 

(唐は高句麗でなく、百済に攻めてくる)

 

という噂だったものがより現実感を増していく。

 

新羅にも既に、安芸国で百済式の戦船が造られているとの噂が伝わっていた為、使者の威圧で和国からの出兵を思い止まらせる狙いがあったが、唐の威圧が充分過ぎるほど効き、反唐である和国の難波王朝はこれに強く反発する。

 

左大臣巨勢徳太は

 

「今こそ新羅を討つべし!ここで攻めざれば100年の悔を残すだけである!」と、 

 

新羅使者を前に和国からの出兵を強硬に訴えでた。

 

人間は、文化の服装によって自分の集団と他の集団を区別している。左大臣巨勢徳太にとって新羅人は、もはや唐人にしか見えていない。

 

孝徳王は、ついに新羅の調使いを受けずに、新羅からの使者を追い返した。

 

しかし、そこで直ぐさまに出兵という訳にはいかなかった。

唐が高句麗だけでなく百済を攻めるとすれば、直接唐と矛を交えぬ国は和国だけである。

新羅が唐化し、半島全体が唐の影響を受け続けるであろうという時に、あえてこちらから唐の一部の様な新羅に戦をしかけることは危険が大きい。

 

新羅の存在は看過できぬが、火中の栗を拾うことなく、今しばらくは改新された和国での内政を充実させる時であるというのが、孝徳王の考えだった。

 

そして、新たな宮殿の造営を急いだ。

 

12月になり、和国難波王朝の象徴となる新宮はついに完成した。かつて、和国突厥勢が盛んだったころ威容を誇った四天王寺の北に、豪奢な宮都が誕生した。

 

孝徳王は喜び、念願の難波長柄豊崎宮の新宮へ移っていった。

 

出来たばかりの宮殿の空気は清く澄んでいて、凛としたみずみずしさがある。

 

あまりの宮殿の荘厳さに

 

(礼をもって)

 

と、誰もがそういう気持ちになった。

 

諸部族がひしめく上に王権が乗っていた様な古い和国の玉座とは違い、今までに無い品格がある。

 

孝徳王には、父ウィジャ王ほどの覇気は無いが、英邁でその玉座に相応しい気品を纏っていて、粋を凝らした宮殿と共に新しい時代の象徴として諸官の目に映っていた。

 

 

この年、ササン朝ペルシアはついにアラブのイスラム軍に滅ぼされた。

 

 

 

明けて652年、 

 

孝徳王は、難波長柄豊碕宮で政務をとり、国民の戸籍が作成された。

 

ウィジャ王の大化の初めより続けられてきた

 

【班田】の終りである。

 

ようやく、部族民を国民に変える為の作業が完了し、班田収授による国と国民との直接関係がここに築かれた。

 

 

難波王朝の新宮殿で、これを終えた孝徳王の喜びは大きい。ここから国家百年の繁栄が始まり、和国の輝かしい未来は自身の足元から続いている様に思えたが、これが難波王朝の絶頂であり、直ぐに瓦解することになるとは知る由もなかった。 

 

 

 

 

 

唐では、王皇后がいよいよ武媚娘を還俗させ、

 

「必ず、淑妃から高宗皇帝の寵愛を奪うように」

 

と、厳命し後宮へとおくり込んだ。

 

 

 

【挿絵表示】

武媚娘、

 

後に武則天として即位し中国史上初の女王となり、

 

『日本国』の建国に、重要な役割を果たす。

 

 

唐は、これより天下を揺るがすほどの骨肉の争いの時代に突入していく。

 

新時代の大変革の蠢動が始まっていった。

 

 

 


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