和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦648~650年
大化の改新後、不満が鬱積している両大臣、蘇我石川倉麻呂と阿部内麻呂らは、ウィジャ王から気持ちが離れ、皇太子の那珂王兄王子を和国王に擁立しようとする。これを知ったウィジャ王は激怒し両大臣を除いてしまった。

第1話 新羅宰相 金春秋 唐に行く
第2話 和国大臣 蘇我石川倉麻呂の誅殺
第3話 拘兎尽きて猟狗煮られる
第4話 太宗皇帝の死
第5話 和国 ウィジャ王 百済へ帰国する
第6話 南アジア ペルシア王子とイリ



第8章 ウィジャ王 「和国撤退」百済へ

648年9月、

 

唐の莱州から海路で高句麗に攻め入り、泊汋城を落としてきた青丘道行軍総管の薛万徹が、唐へ帰国してきた。

しかし、薛万徹は軍中で勝手気儘に掠奪をし軍事物資を私物化していたことを、副将軍の裴行方に告発されて、身分を剥奪され辺境の象州へと流罪となってしまった。

 

 

 

【新羅宰相金春秋 唐へ行く】

 

12月になり、新羅宰相の金春秋が息子金文王を伴って入唐し、この年は暮れた。

 

金春秋は和国から脱出した後に暫く身を隠していたが、戦線が落ち着くのを見計らって唐へ向かって行った。

 

新羅と百済との戦いを上奏し今度こそ

 

「百済派兵を」と、

 

金春秋自らが請願するつもりであった。

 

翌年にいよいよ高句麗を攻め落とさんとする太宗皇帝は、金春秋の入唐を喜ぶ。

 

金春秋は、

 

「新羅の官服を唐制にならい唐の礼服に改めたい」と

 

太宗皇帝に願いでた。

 

太宗皇帝は大層これを喜び、金春秋に官位と礼服を与える。

 

 

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太宗にとって極東の平定は唐帝国安定化の為には避けられない悲願であり、権力欲を満足させる為のものでもなく、たんなる野望というものでもない。

 

隋軍100万を壊滅させ、太宗皇帝が自ら攻め入っても勝利することができなかった東アジアの強国【高句麗】の壊滅なくして、真の平和などあり得ないのだ。

 

新羅が、自ら唐の制度にならい改めるとは、独立性を手放した同化政策であり、金春秋の心を込めた誠願は、東アジアに唐の分国が誕生した様な語彙で、太宗の心を和ませた。

 

唐の太宗は宴を催して、金春秋を特進させ三品以上の待遇で遇し、息子を左武衛将軍に任じて厚遇した。

 

その上でまた、金春秋は、

 

「高句麗を攻めるならば、どうか今一度、百済攻めをお考え下さい。」と、

 

哀を乞う。

 

「ウィジャ王は、百済和国の王となり高句麗には息子の宝蔵王が君臨し力を蓄えています。このまま、新羅が高句麗へ攻め入ればまたウィジャ王に百済から攻められ、手薄になった新羅の城を奪われてしまいます。」

 

金春秋の派兵の願いに、ようやく太宗皇帝は真剣に耳を傾けはじめた。

 

 

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唐 太宗皇帝

 

「汝の国の金ユシンの勇名は聞き及ぶ。金ユシンではどうなのだ?」

 

との、太宗皇帝の問いかけに、

 

「金ユシンに少しばかりの才があるといえ、天子の御威光を借りなければどうして百済の患いを取り除くことが出来ましょうか」と、

 

金春秋はへりくだり更に懇願する。

 

太宗皇帝の髭のチリでも払うかの様なへりくだり様に、ついには金春秋の願いは聞き届けられ、太宗皇帝は反百済同盟を結び、

 

「20万人の援軍を派兵する」と、百済を討つことを約束する。

 

金春秋は、唐の年号と暦を使うことも約束した。

 

新羅は既に律令国家になりつつはあったが、農耕民族にとって国の年号と暦を手放すことは国を手放すほどの重大なことだった。

 

同じ律令や行政区に従うのが国であるとすれば、

 

そうした律令国家や部族国家が誕生する以前の、

遥か昔の農耕民族にとっては、

 

同じ【年号と暦】に従うのが「国」であった。

 

原始の農耕社会では、

 

王や巫女は、天を讀み、日を讀み

 

種蒔きから雨降り収穫の時期までを決めて民に伝え、民は皆一体となってその暦に従って農耕を行っていて『暦を制する者』のみが国を制していた。

 

武力や律令は、自然の驚異や飢えからは守ってくれない。

 

民は皆一体となり、王や巫女の示す天の暦に従って生きていたが、原初の頃は逆に干魃にでもなると王や巫女は柴を積み焼き殺されていた。

 

和国で言う大日霊や大巫女(フミコ)の時代にはその様なことは無くなり、

 

更に時代が下って、国家が育ち、

 

人災の驚異を防衛するためにも律令や武力が必要となる時代までは『暦』だけが国の根幹であったが、農耕民族にとって暦は根幹であることに変わりはない。

 

唐の年号や暦を受け入ることは、その根幹を手放すという意味に他ならない。

 

金春秋は、国学に行かされ唐の根幹を知ることになった。釋奠儀礼と(経典の)論義を見ることを請い、これも許されさらに『晋書』を賜わった。

 

翌年、息子の金文王が宿衛として唐に留まることになり、金春秋は長安に6ヶ月滞在した後、新羅に帰国した。

 

ところが帰路、金春秋は高句麗の兵に襲われて、従者の温君解が金春秋と間違えられて殺されてしまった。

 

金春秋は無事であったが、これはイリが高句麗から居なくなったことで新羅攻めの虚実が逆転し、留守を任されていたイリの息子ナムゴン達がもたらした難である。

 

「新羅は積極的に攻めてはならぬ」

 

というイリの戒めを破る機会をつくり、新羅を討つのは今とばかりに戦端を開こうとしていると思われた。

 

 

金春秋は、新羅の真徳女王の皇太子であり、唐もそれを認めている。

 

その金春秋には金法敏、金仁問、金文王の三人の息子がいて、より親唐化を進めようとする金春秋は、文王だけでなくそれぞれ唐の朝廷へ派遣して宿衛を務めさせることにした。

 

宿衛という制度は、唐の皇帝に仕える身分で、唐の朝廷でアジア大陸中の文化を集めた先進文明を学ばせ、同時に唐に感化させるという目的を持っている。実際、唐の都・長安は金春秋親子の想像を遥かに超えた国際都市であり、見聞きするもの全てに圧倒され衝撃を受けていた。東アジアでは、殆ど目にすることのない黒人や白人達が普通にいることにも驚き、世界の奥行きを思い知らされた。

 

 

金春秋は帰国した後、唐の年号と衣冠制度を採択しアジア世界の中心文明である「唐」に同化した。

 

 

 

 

【和国 大臣蘇我石川倉麻呂誅殺】

649年、正月

 

和国では上宮法王が定めた冠位12階が、ウィジャ王によって647年に七色十三階に変更されていたが、この年、ウィジャ王は更にこれを改正して十九階にまで広げた。

 

そして、八省百官を置き新たな和国の政治機構を樹立する。

 

しかし、左右両大臣はこれには従わず、ずっと

 

新たな冠をつけずに古冠をかぶり続けていた。

 

まるで大臣の権威を剥ぎ取る様に、位冠を幾つもに細分化されてしまったことに対し、

 

「これでは位階褫奪に等しいではないか」と、

 

狡猾なウィジャ王のやり方に対し両大臣は怒り、

 

示し合わせた様に逆らっていた。

 

 

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冠が序列を意味するものである限り、先に新冠位に従って戴冠した方が、序列が下であるといった意地でも、互いに引けない状況であった。

 

難波の宮では、冠位改正と八省百官を置いた新機構が始動し、人々は冠を拝し新に整備された朝廷の官位に帰属していったが、その刷新された宮中にあって両大臣の反抗は宮で映えるほどに注目を集め、臣下の序列を確固たるものにしようとしているウィジャ王はこれを看過できず両大臣に対し殺意を抱くようになった。

 

蘇我石川倉麻呂の方も、ウィジャ王を廃し那珂大兄王子を次期和王に擁立するしかないと考え始めていた。

 

 

和国王座を狙う那珂大兄王子にとっては、

 

和国と百済に君臨するウィジャ王の勢力が強まるにつれ、王座が一段と遠くなってしまったように思ていえた

(本当に次期和王の座を継がせる気があるのか)

 

と、不信に思うほど、

 

ウィジャ王は那珂大兄王子のことなど眼中になく尊大になっていく。

 

 

高句麗には息子の宝蔵王がいて、新羅の金春秋までも来和させ従わせるウィジャ王に比べ、那珂大兄王子はあまりにも無力であり、味方が少ない。

 

那珂大兄王子の存在が和国で引き立てられたのは、ウィジャ王の内臣中臣鎌足の影響力によるものだ。

 

那珂大兄王子が後ろ盾と頼りにしている右大臣の蘇我石川倉麻呂さえも、中臣鎌足の仲介による縁である。

 

右大臣蘇我石川倉麻呂は、越智娘だけでなく姪娘姫も那珂大兄王子に嫁がせていたが、しかし一方では、ウィジャ王の後宮にも乳娘姫を輿入れさせている。

 

左大臣の阿倍内麻呂は、孫の有馬王子の存在を喧伝し続けているが、一方で有馬王子の祖父でありながらも、政敵の那珂大兄王子にも如才なく橘姫を嫁がせてる強か者である。

 

後継者争いが例えどちらに転ぼうとも、王室の外戚の地位を得る。

 

 

那珂大兄王子はこうした、彼らの閨閥づくりが面白くなかった。

 

かと言ってこれを拒めば自ら敵をつくることになる。

 

(吾の味方ではなく、日和見で動くか)と、思い

 

常に彼らの動きに注意していた。

 

実と見えて虚であり、陽と見せて陰であり、皆、一癖も二癖もある厄介な者共であり、虚々実々の世渡り巧者らが今日を得ている。

 

那珂大兄王子は、蘇我石川倉麻呂の姫達を嫁にして何重にも絆を深めたつもりでも、ウィジャ王の後宮にいる蘇我石川倉麻呂の娘・乳娘姫が産んだ子は政敵となってしまう。

 

逆に右大臣の蘇我石川倉麻呂にしてみれば、那珂大兄王子と左大臣阿部内麻呂の娘・橘姫の縁組みは面白くはない。

 

が、政敵である阿部内麻呂にも、那珂大兄王子の和王即位は利がある為、

 

「まずは共にウィジャ王を廃し那珂大兄王子の擁立を」と、

 

手を組むことも可能となった。

 

 

これには、ウィジャ王は最も警戒していた。

 

両大臣を「憎悪反目」の対立をさせておく企みから外れ、両大臣が共に手をとりあって那珂大兄王子を擁立するなどあってはならないことである。

 

しかし、ウィジャ王の警戒を余所に那珂大兄王子は、両大臣に「談合」を持ち掛けこれを現実のものとしようと謀った。

 

 

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那珂大兄王子

 

周囲の者は味方であろうとも、果たしてどこまで本当に自分の味方なのか虚実がわからぬことに強い苛立ちを感じていた那珂大兄皇子は、

 

(阿倍内麻呂を何とかせねばならない)と、思い

 

「橘姫を皇妃に」などと匂わせて、阿部内麻呂にも協力を呼びかけた。

 

そして、

 

両大臣が古冠をかぶり続けウィジャ王への反心が強まったところへ、

 

「共に謀りウィジャ王の退勢を狙い、吾を立てよ」と、

 

王位擁立の談合を持ち掛けた。

 

「吾が、即位した暁にはウィジャ王の定めし冠位と公地公民も改め、元に戻すことを約束しよう。」

 

那珂大兄王子は念押しする。

 

両大臣にとっては、狡知に長けたウィジャ王よりも御しやすいと思われる那珂大兄王子を王にすえた方が、有利だったかもしれない。

 

互いに計算が働き、阿部内麻呂と蘇我石川倉麻呂は手を組みウィジャ王を廃し、那珂大兄王子を擁立することとした。

 

裏切りという以前に、朝露の如く儚い乱世を生きるには、忠誠心や愛国心など元々微塵もない。

 

 

しかし、一月もしないうちにこの企みはウィジャ王の知るところとなった。

 

那珂大兄王子の父・武王を倒し百済王となり、蘇我勢力を除き和王に君臨し、大化の改新を進めてきたのは、那珂大兄王子を王にするためではない。

 

皇太子としたのは、あくまでも政治的配慮でしかなく、陰でウィジャ王のことを

 

「父武王の敵」と呼んでいる那珂大兄王子などを本当に王にしてしまえば、戦にもなりかねない。

 

ましてや「ウィジャ王を廃し那珂大兄皇子を和王に」などとの談合を両大臣が行うなど許しがたい反逆であり、両大臣の冠位への反抗の怒りよもこれに激怒したウィジャ王は、

 

「国土乱逆の叛臣を除く!」と、

 

両大臣の誅伐を実行に移す腹を決めた。

 

本国百済では新羅との戦に大敗してしまった上、唐が攻めてくるとの噂がまことしやかに囁かれ風雲急を告げる状況であり、ウィジャ王は百済への帰国を急いでいた。

 

まして今は煩わしいイリも高句麗にも和国にも居ない。それどころか、誰も入唐した後のイリの所在を知らない。野心家のイリがいれば、改新に従わぬ大臣を交代させる隙につけ入るに違いなかったが、しかし、当分和国に現れることはないだろうと判断したウィジャ王は、これは今こそと実行に移した。

 

 

3月17日、

 

海辺で、左大臣 阿部内麻呂の死体が発見された。

 

 

これで、一翼が失われた。

 

この時代の謀略は冤罪が常套手段である。

 

ウィジャ王は、

 

「阿部内麻呂殺害は、右大臣 蘇我石川倉麻呂の謀反であるに違いない」と濡れ衣を着せ、

 

すぐさまこれを糾弾した。

 

大伴駒、三国麻呂、穂積咋将軍らが蘇我石川倉麻呂宅に押し寄せ、

 

「謀反を明らかに申し述べよ!」と、詰め寄った。

 

蘇我石川倉麻呂は、

 

「ウィジャ王様に直接お会いして、申し上げます。」と、

 

これを拒んでいたが、

 

「謀反人をウィジャ王様に直接合わせるなど、できると思うか!!」

 

と、更に詰め寄った。

 

 

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蘇我石川倉麻呂

 

 

『蘇我石川倉麻呂が窮地に立たされている』

 

と、聞き及んだ那珂大兄王子は、

 

すぐさま反撃の姿勢になり、蘇我石川倉麻呂の元へと兵を率いて急いだ。

 

(なんと軽はずみなことを…!)

 

先触れを聞いた蘇我石川倉麻呂は、那珂大兄王子が兵を率いてきたことに驚く。

 

那珂大兄王子が駆けつけてくると、蘇我石川麻呂の義弟蘇我日向が道をはばみ止められてしまった。

 

「 あなたに対して謀反を起こそうとしているのです!」

 

噛みつく様に喚く。

 

「どうか危険ですので行かないでください!」

 

両手を広げ、わざと大声を張り上げ蘇我日向は必死に那珂大兄王子を止めた。

 

「讒言します!私の異母兄の蘇我倉山田石川麻呂は、皇太子殿下が海岸で遊んでいらっしゃるところを斬りかかって殺害しようとしておりますぞ!」

 

ここで那珂大兄王子が向かえば、巻き添えにされてしまう可能性もあり、ましてや兵を率いてなど、誅伐の口実になるだけである。

 

もはや蘇我石川倉麻呂が、謀反人にしたてられてしまってる以上、那珂大兄王子を連座させる訳にはゆかない。駆けつけて来るであろう三国麻呂らにも聞こえよとばかりに、声の限りに叫ぶ。

 

蘇我日向は、蘇我石川倉麻呂が謀反人にされてしまったことを逆手にとって、

 

「那珂大兄の王子に対して謀反を行おうとしている!」

 

と言い張り、那珂大兄王子を被害者にしたて必死に切り離そうとしていた。

 

(今、駆けつけても、巻添えになるだけです。どうかここでを引き返し兵をおさめてください)…

 

蘇我日向は、那珂大兄王子に摺寄り小声で呟く。

 

「蘇我石川倉麻呂は阿部内麻呂を殺害した謀反人ということにされてしまってます。もはや申し開きは許されず逃れられないかもしれません。ならば義兄は全て被り死ぬでしょう。命を無駄にしないでください。那珂大兄王子様が駆けつければ、共に反逆者にされ誅されるだけです。ウィジャ王様との戦など起こしても敵いません」

 

そして、

 

「どうかウィジャ王様に『蘇我石川倉麻呂が謀反を企み殺されそうになった』と訴え出て下さい。今、兵を率いたことを正当化するのはそれしかありません。」

 

と、涙ながらに説得した。

 

ウィジャ王は阿部内麻呂の殺害は、蘇我石川倉麻呂の仕業で「謀反」として扱って、なんとしても蘇我石川倉麻呂一派を全滅させようとしている。

 

那珂大兄王子はこれを受け入れ、引き返した。

 

翌日、

 

「蘇我石川倉麻呂は私を殺そうとした謀反人です、やむなく兵を率いました。」と、

 

涙をこらえて、ウィジャ王に自ら訴えでた。

 

薄笑みを浮かべこれをしたりと受けると、ウィジャ王は、

 

「謀反人!蘇我石川倉麻呂を逃がすな!屋敷を包囲せよ!」と、

 

軍兵を、送る。

 

ウィジャ王の出兵を知った蘇我石川倉麻呂は、二人の息子・法師と赤猪を連れて茅淳道を逃げて大和の堺まで抜け、長男の興志のいる山田寺(奈良県桜井市)に立て籠った。

 

しかし、那珂大兄王子が謀反を讒訴したことがわかると抵抗を諦めて、

 

3月24日、自殺した。

 

 

「願わくば世世、君を恨むまい」と、

 

那珂大兄王子のこと恨まず死ぬと仏に祈願し、

 

この世を去った。

 

蘇我石川倉麻呂が亡くなり、その財産を没収しようと調べにいった者達は意外なものを発見した。全ての遺品に『那珂大兄王子様の物』と書かれていて、那珂大兄王子への謀反など企むはずがないということは誰の目にも明らかだった。

 

 

 

 

【拘兎尽きて猟狗煮られる】

 

(中国の諺=中国では狩りが終わると猟犬は獲物と一緒に煮られ食べられてしまうことに例えて味方として利用し用済みになれば処分するという意)

 

両大臣は、蘇我政権打倒に協力しウィジャ王を擁立した功臣だったが、正に用済みとなり処分された。

 

翌4月、

 

ウィジャ王は、左大臣に巨勢徳太を右大臣に大伴馬合を任命した。

 

二人とも反唐の壮士で共闘してきた同志であり、乙巳の変での実行部隊である。

 

日頃から

 

「渇いても唐の水は飲まず、窮しても唐の陰にいこわず。」

「親唐になるくらいなら死んだ方がましだ」

 

という程、堅忍不抜の根っからの唐嫌いである。

 

 

蘇我王朝の頃、大伴馬合が唐返礼使の高表仁の接待役についた時に、礼儀について口論となり、大伴馬合は一歩も引かなかった為に、高表仁は怒って帰国していった。

 

高表仁は尊大な態度で和国に反唐の種をまきちらしいったが、この事により大伴馬合は唐という国が死ぬほど嫌いになり、徹上徹下の反唐の人となった。

 

巨勢徳太も反唐の血の気の濃い、武闘派の一遍者である。

 

権力志向ではない、反唐志向の大臣が誕生した。

 

出世など眼中にないが、二人は望外の栄誉に感激する。

 

ウィジャ王にとって、先の両大臣は王子時代から支え続けてくれた者達だったが、

当然その「見返り」に権力の座を求めるという、借りのある臣下はこれでいなくなった。

 

蘇我日向は、筑紫の国に左遷させられた。

 

九州勢は120年前の決戦で磐井君が敗れて以来、朝廷に服しているが決して消滅した訳ではなく、筑紫の国では磐井君の世襲もひっそりと続いていた。

 

 

 

残る邪魔者は、高向玄里である。

 

 

 

大化の改新後、新たな和国の国づくりの為、高向玄里の政治知識を必要としてきたが、八省百官を置きもはや必要は無くなった。

 

裏日本で、イリの義弟・阿部比羅夫が越国岩舟柵を設け東方地方を従える拠点を築いていたが、東国には及ばず、

 

ウィジャ王は

 

「東国の領憮が必要である」と、

 

高向玄里を東の辺境の地に左遷を命じ、

 

東国の最東端の総(千葉県)へと追いやってしまった。

 

これより北は、蝦夷と呼ぶ異民族が住む地であり、和国の国境最前線となる。

 

古代には日高見国があり、世界最古の文明シュメールが中央アジアに誕生した4000年前頃には既に、栗の栽培で栄えた縄文人の国があり、遥か古えより総以北には和国とは異なる国々が存在していた。

 

用済みとなった高向玄里も、ウィジャ王にとって異分子でしかなく、このような辺境の地に追いやって夷を以て夷を制する以外の利用価値はなかった。

 

高向は、両大臣の死を目の当たりにし、ウィジャ王の命令に従って動き続けない限り、「拘兎尽きて猟狗煮られる」ことを恐れ、是非もなく東国へ向かっていった。

 

東国の部族らの多くは、ウィジャ王にはしたがわず、彼らは今でも古墳造営も平然と続けている。

 

高向玄里は、領撫するどころか相当の反発は覚悟しなければならなかった。

 

総の北岸の香取海には、海人の里があった。

 

古くは大海上国といい、太平洋の黒潮に乗ってやってきた海人族らが住む地である。

 

120年前の、大和勢と九州勢の和国統一決戦の時、九州にいた海人族らは戦いに敗れ各地に逃れ、一部の部族は海を廻り本州最東端のこの東国へと逃れてきて、内海である香取海を望み拠点とした。

 

(香取海=現在の茨城県~千葉県にかけて、霞ヶ浦、印旛沼、利根川流域が全て内海だった)

 

香取は鹿取とも云う。

 

高向玄里は、丹後半島の海人族・大海の里の翁とは嫡子イリを預けたほどに昵懇の仲であり、そのつてを頼りに、なんとか鹿取海人族らに渡りをつけてきた。金一族同様に古く遡る縁である。

 

東国と東北を分ける様に広がる内海・香取海。

 

太平洋に向かい口を開けた入り口に、「沖洲の津」と呼ばれる細長い中洲があり、香取海へ入る拠点となっている。

 

高向玄里は、船旅にてまずここに立ち寄り、香取の翁へと協力を依頼することにしていた。

 

「どのような人物だろうか、、」

 

津に接岸し錨を下ろしながら、思索にふけっていた。

 

唐や中央アジアでしか手にはいらない、貴重な品々を携えて、腰を低くして調停への帰服を説得した。

 

120年前、大和勢に敗れ、朝廷から最も遠い最東端のこの地に敗走した彼らは、中央から僻地に追いやられたことによって朝廷の干渉も少なく、独自の部族文化を守り続けてきた。

 

「素破!朝廷軍の侵攻か、、」

 

と、構える者もいたが、高向は朝廷の世が変わった事を丁寧に説明し、従うよう説得した。

 

香取の翁は高向の言を受け入れ、高向と共に部族らをまとめ、朝廷との調和を熱心に説き続けて香取湾を望む【香取郡】(評)を設置した。

 

 

ウィジャ王は、和国をほぼ掌握し体制を整えつつあり、百済軍が先の戦で敗退したとはいえ、まだ新羅への覇権は諦めてはなかった。

 

金春秋が入唐した事に対しても強気で、詰問する使者を新羅へ送った。

 

しかし、

 

「金春秋の人唐によって、新羅は唐の制度にならい今は反百済同盟を結んだ。もはや先年までの新羅ではない。いずれ吾が国の攻撃だけでなく、百済は唐からも挟撃を受けるだろう。」

 

と、逆に強気で返されてしまった。

 

「新羅に勝つことさえ出来ぬ百済軍では、大国唐軍に攻められればひとたまりもないであろうな、、されば新羅は百済など捨て置き和国から攻め落としてやろうか、、

 

先触れで和国の使者は今ここで斬ることになるが、生貸して返すが故、ウィジャ王には吾が刃の餌食としてやると伝えろ!」

 

金ユシンは強烈な殺気を放ちながら、和国からの使者に言い放った。

 

詰問するつもりでやってきた使者だが、あまりの金ユシンの恐ろしさに言葉を返すこともできず、身のすくむ思いで和国へと戻っていった。

 

 

使者は、唐新羅で反百済同盟を結んだことと、脅されたことをウィジャ王へ報告した。

 

「ボラ!」と、叫び怒りもしたが、

 

これに驚いたウィジャ王は、一応は新羅に備えて近江の比良宮(滋賀県滋賀郡)に兵を増員する。

 

和国の改新に時間を掛け、長いこと百済を留守にしすぎたこともいよいよ心配になってきた。

 

そして、東アジアに覇を唱える大望は一瞬遠退いてしまった様に感じた。

 

新羅の強気は今のところ唐だけのようだが、もしも那珂大兄王子が裏切り新羅に呼応した場合は、大望は一気に崩れる可能性さえある。

 

ウィジャ王を除き、両大臣が那珂大兄王子を擁立しようとした一連の企みには、

 

「那珂大兄王子が、百済・和国の二か国を領土とする王に即位した暁には、新羅と和平を結び、ウィジャ王が簒奪した新羅の領土を元に戻すことを約束しよう。」

 

などと、新羅を味方につける為の裏切りもあったのかもしれない。

 

そう考えると、冷や汗が出た。

 

(企みに気づき大臣を誅殺するのが、あと少し遅れていたら危うかったか、、)

 

和国でさえ、この有り様である。

 

ウィジャ王は、百済の様子が気になりいても立ってもいられなくなった。

 

 

 

 

 

【巨星堕つ・太宗皇帝の死】

 

649年7月、

 

唐の太宗皇帝が崩御し、皇太子李治が高宗皇帝として即位した。

 

 

太宗皇帝は、元号を「貞観」と改元し没するまでその治世は23年に及んだ。

 

アジア帝国の大壮図を夢に描き、道半ばいくも、

これほど治世が継続したのは中国史上では稀なことであり、太宗皇帝の理想的な善政として

 

「貞観の治」と呼ばれた。

 

太宗皇帝は、

 

「天下を治めるには人を本分とし、その民百姓を安寧にするのは州刺史である」

 

を旨とし、

 

唐王朝の統治を行き渡らせる担い手、地方官である「州刺史」を誰にするかを重要視して、常に地方官の配置を把握してその熟慮を怠らなかった。日々、唐の全州図を張りだし、そこに州刺史の名を掲げ眺めては考え配置に心を砕いていた。

 

 

そして、人材の確保を求め臣下に推挙を求めた。

 

しかし、唐の支配階級は先帝の配した門閥貴族に既に独占されていた為、二年を待っても臣下からの推挙はなかった。

 

臣下の封徳彝という者が、

 

「まだ現在のところ奇才や異能の持ち主がいないのでございます」と、

 

これを怠ると、

 

「前代の優れた王たちは人を使うのに、その人の資質にそって行った。才能を別の時代に借りたのでなく、皆、使う士をその時代に求めていたのだ。卿は伝説を夢みて、太公望呂尚の様な賢人に逢うのを待ち続け、その後に政治を行うとでもいうのか?」

 

「そうではない!何代もの間、賢人が無いということが有るものか。ただただ民間に遺している賢人がいるのを知らない事を心配しているのだ」と、諭し

 

広く天下にその人材を探し求めていった。

 

いかに英才賢臣がいても、用いる才がなければ治る器ではなく、君主失格である。

 

科挙を行い、側近の長孫無忌と共に厳格な役人審査を敢行し、初代高祖皇帝が配した役人達による弊害を取り除いた。また臣下からの強い諌めに対しては、自分に間違いがあれば認め改めていった。

 

そして、幼なじみでもある長孫無忌の妹を皇后とし、人徳と才智をそなえた長孫皇后を深く愛した。

 

長孫皇后は早くになくなってしまったが、太宗皇帝が他の女性に産ませた子も、その母が亡くなると自分の子の様に育て、女官が病になれば自分の薬を与え、華美な服装はせず質素な品行と仁徳に誰もが感服していた為、皇后が在位していた後宮は、『皇帝の寵愛を求める』閨閥争いで乱れることが全くなかった。その為、太宗皇帝は後顧の憂いなく全力で国家の大事に専進することができた。

 

長安は大変繁栄し、東西交易(シルクロード)も栄えた。

 

常に治世方針を再検討するだけでなく、李靖が行軍総管だった頃、草原の十八部討伐の際に勝手な行動を取り暴走が問題視されたが、それを機に軍隊の改革を行った。

 

そして、アジア最強軍を編成し、アジア天下四方に覇をとなえんと出征を続けてきたが、とうとう高句麗を討つことなく臨終を迎えた。

 

皇太子李治への遺言は、

 

「朕の死後は決して高句麗を攻めてはならない。」

 

という戒めだった。

 

「高句麗という国は、建国以来1000年近くなるが、それは中国史上誰一人として、あの国を滅ぼす事が出来なかったという事だ。」

 

「朕は、中国全土を平定し西域を討ちクチャを征服し安西都護府を置いた。そして、北の突厥を掃討し『天河カーン』の称号を得て、北方を統治する為に突厥の首都があった鬱督軍山に燕然都護府(モンゴル)を置いた。南越の交州大総監府(ベトナム)を押さえ、天竺(インド)には王玄策を遣わせ、吐蕃(チベット)には文成公主を降嫁し、当にアジア天下に覇を唱えんとした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

残る東方の支配に全力を挙げこれを行ったが、高句麗だけは従わせることも倒すことも出来なかった。朕が成し得なかったものをお前が出来ると思うな。高句麗を甘くみてはいけない。

 

高句麗は、滅ぼすことは出来なかったが、国力は奪ったので気息奄奄として暫くは立ち直れないだろう。だからといって、こちらから攻め入ってはいけない。必ず反撃される。絶対に高句麗とは戦をしてはならない。」

 

と、戒めを強く残し、この世を去っていった。

 

皇太子李治は『高宗皇帝』として即位するとすぐに父・太宗皇帝に言われていたとおり、左遷していた李勣将軍を呼び戻して、9月に宰相の座に就け朝廷の重鎮にした。

 

 

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高宗皇帝

 

太宗皇帝の死後も、蘇定方・契苾何力らが二十万の兵を率いて高句麗に討ち行ったが、大した戦果もなく還り、太宗皇帝が行おうとしていた高句麗撲滅戦は遺言どおり中止された。

 

この蘇定方らの出兵はもともと金春秋が入唐がした事による唐新羅同盟による発動で、高句麗攻めでありながらも百済を攻めるそぶりを見せるという、百済を牽制する目的があった。

 

百済では殷相将軍が、新羅に出兵し石吐など7城を攻め取っていて、新羅は金ユシンらを派遣し向かえ討ったが、戦場は五ヵ所に渡り一進一退のままになかなか決着がつかなかった。

 

激戦により両軍の被害は大きく、大地は血で赤く染まり野に屍が満ちた。

 

金ユシンは、ここで全軍に対して、

 

「もうじき唐の蘇定方の援軍がやって来るので、討って出ず守りを堅めそれまで持ちこたえよ」と、

 

指令を送った。

 

蘇定方と金ユシンの陽動作戦は成功し、間者によってこの情報が百済軍に伝わると、蘇定方は攻める素振りを見せ百済軍は見事に動揺した。

 

そして百済軍は唐軍の援軍を警戒して各前線から撤退し、引きあげてきた兵が道薩城に集まってきたところをみはからって、金ユシンが総攻撃をかけ百済軍を撃破した。

 

殷相将軍ら敵将を捕らえ、百済兵9千人を斬り兵馬一万頭を得る大勝利だった。

 

 

更に、新羅は

 

「唐軍は高句麗でなく百済に攻めてくる」

 

という流言を和国にも流しウィジャ王にも揺さぶりをかけた。

 

 

 

【和国ウィジャ王 百済へ帰国】

649年8月

高宗皇帝が即位し、唐周辺国は、祝賀の使節を唐に派遣した。

 

和国のウィジャ王は左右両大臣を除いて、左大臣巨勢徳太と右大臣大伴馬合を据えると、いよいよ百済への帰国に向けて本格的に動き出す。

 

「唐が百済に攻めてくるのでは?」という恐れは日に日に強まってきたが、かといって焦って帰国し九仭の功を欠く訳には行かない。

 

折りしも、太宗皇帝が崩御し唐の東征は暫くはないだろうと判断していたが、

 

蘇定方らの動きにより、

 

「唐軍は高句麗攻めから百済攻めに作戦を変えた」

 

との噂が信憑性を帯びてきている。

 

ウィジャ王は、大急ぎで和王の座を継承させる為に、百済から息子の孝王子を呼びよせた。

 

孝王子(ヒョ)は、百済蘇我氏のモク妃が生んだ子である。

 

乙巳の変の後には百済蘇我氏も冤罪により一部は粛清されたが、モク妃を軸にまだ孝王子の勢力は残存していた。ウィジャ王は彼らの台頭を抑える為、『孝』を和王にしてしまう事で切り離しを計った。

 

孝王子は和国では頼りとする者は少なく、外戚力が低い為、百官の上にすえるには都合が良い。

 

ウィジャ王にとっては、本人が実直で野望がないと言う事だけでなく、周囲に担ぎ上げる野心家がいないという事が重要なのである。

 

那珂大兄王子が味方として頼りにしていた蘇我石川倉麻呂を除いた今、ウィジャ王はイリもいない和国で躊躇することは何もない。

 名ばかり皇太子である那珂大兄王子など、まったく相手にせずに息子・孝王子を堂々と即位させ、難波朝廷の埼宮に和国王の玉座を譲った。

 

 

突然のことに那珂大兄王子は、驚く。

 

ウィジャ王は、

 

「孝王子に和王をまかせる。汝は、今度は孝の皇太子となれ」と、だけ

 

冷酷に言い放った。

 

那珂大兄王子は、いきどおったが、味方をもがれ手も足もでず、吾が身の軽挙を悔やみつつ従うしかなかった。

 

父・武王を殺され、タムラから和国へやってきた頃に息子を殺されてしまった苦い経験をまだ忘れてはいない。隠忍自重し、ひっそりとしていた頃の那珂大兄王子のように戻ってしまった。

 

 

武闘派の巨勢徳太はウィジャ王の帰国に際して、

 

「今こそ、新羅を討つ時!」と、

 

強硬策を献じた。

 

大化の改新を進めていた和国からは、まだ新羅を攻めたこともなく、百済も新羅との先の戦で戦力を失ってしまった為、今こそ和国からも出兵すべきではないかと上申した。

 

高句麗も「決して新羅と直接ぶつかってはならない」という、イリの厳命によって、対峙することはあっても積極的に攻めるということをしてこなかった。

 

イリが高句麗にいないのは好機であり、今のうちに、イリの第二子で反発の強い部族派のナムゴンを焚き付けて新羅に攻め入らせ、高句麗と同時に靺羯も動かして、和国・百済からも出兵すれば一気に新羅を殲滅できると訴えた。

 

しかしウィジャ王は、

 

唐の出方は不穏であり、何より百済軍の再編の必要がある為、今は時期尚早であるとして新羅への総攻撃は先送りし、百済に戻った後の和国のことを中臣鎌足に託し内政を固める事を優先した。

 

 

そして、改めて帰国の前に東の辺境の地へと追いやった高向玄里に対して、暫く東国の経営に力を注ぐようにと厳命した。

 

朝廷の野心家どもを排除し、左右両大臣には権力志向でない反唐派をおき、諸部族らは八省100官に帰属させ、もはや政権の体制は万全に整えた。

 

ウィジャ王は、息子孝を和王に即位させると、次に自分の皇妃だった間人皇妃を娶らせて王権の体制をかため、百済へと戻っていった。

 

 

【挿絵表示】

間人皇妃

 

和国王孝王は、父より賜った五つ年上の美しい皇妃に心を奪われた。

 

そして、父・ウィジャ王が、先代の反唐の志を貫き孤軍奮闘していた頃に孝徳の王とも呼ばれていたことにあやかり、孝王とは名乗らずに「孝徳王」と名乗った。

 

 

その即位したばかりの孝徳王のもとに、新羅から金多遂という使者が、突然やってきた。

 

出自は真骨の血統のようであったが、正式な新羅からの使節という訳ではなく、表向き即位を祝う使者を装った亡命者だった。

 

新羅では今や金春秋・金ユシンが権力の中枢にあり、彼らの支配が強まっていくと、金多遂ら傍系の金氏らは新羅の中で憂き目もなく、落剥した日々を送っていた。

 

この先も金春秋・金ユシンの下で忍ぶのをよしとせず、金多遂は同志を募り思いきって二代目孝徳王が即位した新たな和国へと亡命してきた。

 

孝徳王こと孝王子の実直な様子は、新羅にも聞こえてきていた。覇気の強いウィジャ王も和国を去った為、孝徳王の下で新たに伸びようとする和国に活躍の機会を求めて、金多遂は技術者や学者37人を引き連れ、孝徳王の下へ参向し帰化を願い出た。

 

和国では、都はずっと大和の国に置かれていたが、ウィジャ王が難波に都を遷して和国を改新し、大和王朝の時代が終わって難波王朝の時代がきたことを世に示した。

 

そしてその踪を嗣いだ孝徳王も、難波王朝を更に確固たる存在にする為、新時代に相応しい豪華な王宮を建て、都を興起させようとしているところだった。

 

しかし、新羅を除く東アジアの国々は、全て反唐国であるが故にアジアの中心文明である唐の先進文化からは取り残されつつあり、和国の様式もやや時代遅れになってきていた。

 

孝徳王は、難波王朝の象徴となる宮殿は、なんとしても先進文化の精髄と芸術の粋をこらした豪奢なものにしたかった。

 

この為、孝徳王は金多遂ら新羅の技術者や博識者の集団の帰化の願いを大いに歓迎し、新たな難波の都の造営に役立てることにした。

 

しかし、かといって金春秋・金ユシンに反目してきた者をあからさまに帰化させ臣下にすることは憚りがある。間者であることも一応は疑わなければならない。

 

そして、和国にも金一族の里があり、隠然とした影響力があった。イリの妻の額田文姫をはじめ金ユシンの縁者も多く、彼らに矛先が向くであろうことは容易に予測された為、孝徳王は、あくまでも表向きは「人質」という事にして目的もつまびらかにせず、暫く彼らを囲っていくことにした。

 

 

 

 

【南アジア ペルシア王子とイリ】

ペルシア最後の王ヤズゲルト王は、アラブに攻められ東方に逃げた後、ホラサーンやトカラ(アフガニスタン)に救援を求めた。

 

唐へも救援を求めたが、即位したばかりの高宗皇帝はアラブとの接触を避ける為必死にこれをこばみ、仕方なくヤズゲルト王はトカラへ逃げ込もうとする。

 

ヤズゲルト王の長子のぺーローズ王子と第二子のダーラヤワフ王子は天竺(インド)に逃げていた。

 

インドとペルシアは縁故浅からぬ関係であり、インドはぺーローズ王子らの亡命を受け入れた。

 

この頃、天竺(インド)は仏教が衰えてしまって、ヒンズー教の台頭に押されていた為、仏教勢力はペルシアの拝火教(ゾロアスター教)の神々を新たに取り込んで、ヒンズー教への対抗を試みているところだった。

 

拝火教の神アフラマスダを取り入れ「大日如来」を神格化し、盂蘭盆会など様々な火を拝む修法を盛んに行う様になっていた。

 

(後に密教化が進んでいくと衰退してしまい結局ヒンズー勢力にとってかわられてしまう)

 

遊説を終えたイリも南アジアへ向かい、インダス川を越え天竺(インド)へとはいっていた。

 

イリが連れていたペルシア人の一部は、既にイスラム化しつつあった故地ペルシアに残った者もいた。

 

老骨とはいえペルシアから和国までやってきた壮強な職人達である。

 

かつて知ったる西アジアからインドへ向かう路は、それほど苦ではなかったが、暑さに慣れていないイリには堪え難く、夜になっても眠れぬほどの酷暑に朦朧とし、月光さえもゆらいで見えた。

 

イリは、旅を続けるうちにイスラム教のアラブなど大陸の列強国の存在を知るにつれ

 

「イスラム教のアラブ、キリスト教のローマ、そして仏教国だったインドにはヒンズー教が台頭してきている。国の強さとは皆、神と信仰の強さなのか?!」

 

と、宗教のもつ威力に驚かされはじめた。

 

人間の征服欲は教義や説法でなくなるものではなく、乱世を制するのは力であると信じていたが、

 

「国の繁栄は王者の力と仁徳による」

 

ーという考えはもはや改めた。

 

力や仁徳よりも、信仰の強さは優位であり、宗教によって強力になる国威を認め、

 

「いずれ、吾が国にも強力な神が必要だろう」

 

と、思った。

 

仏教が伝来する以前の高句麗は、鬼神と霊星を祀り、始祖の廟と祖先の社禝を祀っていた。王は天を祭り東の洞穴を祭っていたが、世の盲冥を照らす教えも人々の救いとなる霊言もなく、強力な神と結びつく信仰ではなかった。

 

現世利益を説くこともなく、民族的であり、多民族に対しても同化させるほどの支配的な影響力をもつ強い神もいなかった。

 

強力な神であればあるほど、信者網という横の団結力も強くなるのであろうと、イリは理解した。

 

後に、イリは拠点を伊勢においた時、伊勢神宮を保護した。後世、寺に墓地が弔われる様になるまで、その役割を持っていたのは神社である。どの部族にも、自分たちの宮があり社を祭っていた。社を守ることは、その一族や部族の依りどころであり、それぞれの部族風土が存在していた。

 

元々、伊勢神宮は海人族の渡会氏の磯宮であり、海の無い大和朝廷はここに天照大神を遷宮したが、イリが伊勢で神威を受けたことによって格別に伊勢神宮の存在は高められ、やがて和国の権力の座についた時にはイリは一時、仏教の布教を停止させたほどである。

 

更に時が下り、イリの息子法敏が文武天皇として即位すると、伊勢神宮の大造営を行って内宮を造営し、和国に数ある宮の一つでしかなかった伊勢神宮は和国の頂点にまでその社格は押し上げられていった。

 

ゾロアスター教の「王とは人間の姿をした神である」という信仰に興味を惹かれていたイリは、インドにペルシアの王族が居ることを知ると、残っていたペルシア人達を使者として送った。

 

ペルシア人達に救援を請われ

 

「吾、これを捨て去れば死に到らん」と、

 

誓ったイリは、その志を伝えてくるよう命じた。

 

ペルシア王子だった上宮法王とぺーローズは同じ一族である。

 

イリが連れているペルシア人は皆、上宮法王に従って和国まで渡り、上宮法王亡きあとは、高句麗のイリのもとでその志をとげようとしていた者達であり、祖国ペルシア王家のぺーローズ王子の前に立ち、懐かしいペルシア語を聞くと、誰もが涙が溢れて止まなかった。

 

宝皇妃の父・上宮法王の存在はペーローズも知っていた。

 

イリの使者らは高句麗の宰相イリと和国の存在を説明し、

 

「もしもの時は東へ逃げてこられるように」

 

というイリの意を伝えてきた。

 

天竺(インド)のヴァルナダ朝は、三蔵法師玄奬の往復以来、唐と国交を持つようになったが、この頃は王位継承問題で混乱し、唐の王玄策の加護を受けていた為に、相当な親唐国となっていた。

 

その為、イリは直接堂々と会いに行くことはできなかったのである。

 

 

 

(できることなら)と、

 

イリは思う。

 

ペルシアの王族を招聘して彼らから直接、ゾロアスター(拝火教)と「現人神」の王制の在り方をもっと吸収したかった。

 

現人神とは、国王のことで、

 

国王とは神そのもの、

 

「神にえらばれし者」

 

「神の代弁者」などではなく、

 

神の化身なのである。

 

かつて、和国の民衆にとって支配者とは、自分たちの所属する部族の族長のことであり、「国」とはその部族長が加わっている連合の名前や土地の範囲を表す言葉でしかなかった為、国王に対しての畏敬も直接的には存在しなかった。

 

古代に祭政一致の時代があったにせよ、東アジアの信仰や崇拝は、祖先や始祖に対する神格化が大きく、実在する現在の王そのものが神格化され信仰と結びつくというものではなく、神官や巫女が王になるということもでもなかった。

 

これが、上宮法王によって初めて国王の存在が高められ、仏教は部族を超えた共通の教養とその象徴となった。

 

これを上回るほど国王の権威を高める為には、この「現人神」という思想を、即ち王は神であるという思想をいずれは根づかせなければならないとイリは思った。

 

イリが嫌いな血統主義である。

 

王位につくということは、則ち

 

『神にえらばれし者』のことであり、

 

「血統に関係なく誰でもなれる」

 

という中国的な王とは真逆の王位であるが、

 

ペルシア的な、神と王を同一視する新たな強力な力を感じずにはいられなかった。

 

 

イリらの一行は、インダス川を越え、パキスタンからインドに入るまでは無事にたどり着けたが、インドから先は東に抜けるのは難路であり、南越(ベトナム)には唐の交州大総監府があり唐の勢力圏も近くなる。

 

時間と手間はかかるが、ここからは海路で進むことにした。

 

インドから対馬海峡への交易航路は古くからあり、南海航路(海のシルクロード)からやってきたインドのアユタ国王女と伽揶国王との婚姻が結ばれた事もあった。

 

 

【挿絵表示】

 

アユタ国王女

 

 

 

南海航路は(海のシルクロード)、インドからスマトラ島を経由して唐の広州までペルシア船が行き来し、どの港も交易で栄えてきた。

 

台風さえなければ、時間は掛かるが陸路よりも海路の方が比較的安全なのである。その上、南海交易で使われるダウ船と呼ばれる船は、唐船と異なり波切りも良く、三角帆なので風上への切り上がりも可能だった。

 

 

南アジアは季節風も大きい。

 

 

イリ達は照りつける太陽の下、南西季節風を待ってダウ船に乗り込みインドを出航した。

 

ベンガル湾から南シナ海を抜けて、東シナ海へと向かい、和国を目指す。

 

 

 

 

 




第一部 あとがき *【貴種流離譚】*

イリは、唐の太宗皇帝に高句麗第二王子任武として謝罪した後、行方がわからなくなる。史書からも巷説の世界からも忽然と姿を消す。勉強不足なだけかもしれないが、巷の説を見回してもこれといったものがなく情報が少ない。

韓流時代劇でも、ヨンゲソムンでは

「山にこもり修業をしていた」としているし、

他の作品の設定でも

「やがて時はたち、、」という様に、

この頃のイリには触れない設定で空白のままにしている。

小林やすこ氏が、日本書記に、蘇我石川倉麻呂の謀叛を詰めに行った三国麻呂という使者がイリではないかと推測しているが、イリの人物像を考えると、今更ウィジャ王の手先となって大臣を詰める実行部隊をするだろうか?と感じてしまう。
何より数年後、650年代に入って「大海人皇子」という強烈なキャラクターとして、颯爽と和国史に再登場し孝徳王朝にとどめを刺すイリとは人物像がつながり難い。
イリは、高句麗の王を殺害し山背王を倒すクーデターを起こしたが、例えば幕末の人斬り以蔵の様に所謂暗殺部隊だったという訳ではない。

日本書記の三国麻呂を匿名の人物とするならば、イリ本人ではなく阿部比羅夫などイリの手先のものではないかと思う。三国という名からもなんとなく越国の高向玄里の息子・阿部比羅夫を想起する。

*三国(福井県三国市)=高向(現・坂井市)の隣。

唐での謝罪の後に足取りが途絶えたということであればその後、唐に監禁されたと考えるのが順当かと思われる。が、「唐の人質となった」という記録があってもよいし、無いのはなんらかの事情があったのではと思う。

「唐に行った後、和国・高句麗からも姿が見えなくなった。」という前提で、

唐に監禁されたか、

唐から逃げていた、という2択のもと、

『イリは逃げだし、唐の追跡を逃れて諸国を転々とした。』
という筋書きにしてみた。

巷説の世界ではイリは、幼い頃より諸国を周り、中央アジアや中国にも足跡がある。成人になってからの流浪はどちらかというとマイノリティかもしれない。


【挿絵表示】

サマルカンドのアフラシャブ王都で描かれた高句麗人の壁面。
650年頃に描かれたものでイリの足跡を示している。1965年に発見され、5000キロも離れた高句麗との交流に当時は驚かれた。

「貴種流離譚」とは、古事記・日本書記~現在の作品でも描かれている伝統的なストーリー構成のことで、
『貴種=王子などが、幼い頃より身をやつし奴隷の様に扱われたりしながらも、苦難を乗り超えて成長していく。諸国をめぐり段々と経験を積み重ねながら身を起こし、やがて王になる』
というストーリー。

ドラマ「ヨンゲソムン」では「貴種流離譚」風に描かれ、奴婢にされ朝鮮半島から中国アジアへと転々流浪する。

この小説では、イリは中国の貴族の娘と高向の間に生まれたという設定にしたが、もしも、貴種流離譚とするとしたら、

『高句麗の栄陽王が唐に暗殺され、高向玄里が大臣として乗りこんできた時。残された栄陽王の妻・宝妃は身ごもっていたので、反唐の血筋を絶やす為、宝妃ごと抹殺される運命だった。しかし、宝妃は、なんとか高向に引き取られ難を逃れ王子イリを産む。高向玄里は宝妃と夫婦になり自分の子供としてイリを育て守った。やがてその王子は高向に取り上げられ、宝妃からひき離されてしまい、
「子供の命を守りたければ」と高向から脅され、宝妃は親唐工作の道具となっていった。』

としても、良いかもしれない。

唐の傀儡の高句麗王ではなく、

正当な高句麗王の王子イリである。


巷説では、宝蔵王とイリ=第二子任武は、養子であるとしつつ、なんらかの血縁関係があったとされているので、その方がドラマとしては面白い。

他の作品を見ても、幼い頃からこれでもかというほど命を狙われ逃亡したり匿われたりする苦難のシーンが多く、イリの血統は明かされなくとも、対抗勢力にとって「必ず根絶やしにしなければならない」程の、ただ者ではない貴種であったことが伺える。

イリ・ガスミ(ヨン・ゲスムン)という呼び名で活躍した
650年頃の本章までを和国大戦記
【第一部】とし、

続いて大海人皇子と名乗り和国に再登場した後、
650年~700年頃までを和国大戦記
【第二部】としてみたい。

和国が無くなり、日本が建国され、

大宝律令の制定により国家が完成するまでを書き続けて、出来れば番外編には、かぐや姫伝説まで書き加え藤原氏に繋げらればと思う。


***
後半は本作品【和国大戦記】のタイトルどおり、白村江の戦い、壬申の乱と大戦の時代に入り、非常に長い文章になると思います。今まで長い話しにお付き合い頂きまして有難うございました。これからもどうか宜しくお願い致します。


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