和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語   作:ジェロニモ.

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西暦500~588年、
西アジアで突厥とペルシアに挟撃された「エフタル族」は東アジアへと逃げ、和国と呼ばれる日本列島にまで逃れてきた。そして、和国の大和勢力の武烈王を新羅へと追いやり、九州勢力の磐井君を倒し和国を統一する。エフタル族は新羅を支配下におき、百済を制圧しエフタル族の欽明皇子を百済皇太子にすえ、その版図は三国に及んだ。朝鮮半島と日本列島の政権交代が目まぐるしく続く混乱の時代、約一世紀の世界観の要約。

1話 エフタル族 和国統一
2話 二匹の争う狼
3話 新羅エフタル族
4話 丁未の乱



チュートリアル 和国統一「エフタル王朝」大渡王

中国は、紀元前から続いた漢王朝が滅んで以来400年の間、王朝が分裂し久しく統一されるということが無かった。589年に、隋が南朝の陳を滅ぼしたことによって中国全土が統一され、長い分裂の時代が終わった。

 

朝鮮半島や日本列島も、統一された大国はなく、いくつかの小国や部族の集まった連合国が多かったが、朝鮮半島では百済や新羅など新たな国家らしいかたちを整えた国が誕生しはじめていた。

 

日本列島にあった和国も有力部族たちの連合国家で、日本列島を統一した王朝はなく、まだ朝鮮半島と日本列島の間には明確な国境もなかった。

 

 

アジア世界には主に、農耕民族、遊牧民族、狩猟民族、三種の民族が存在していた。

 

それぞれの民族文化の中には、幾つもの部族(ペドウン)が存在し、最も力のある部族が民族や国を率いていた。

 

部族の中には、製鉄や技巧、商団や特殊な漁労など職能を生業とする一族(ウル)が所属し、アジア世界の果てにある日本列島にはアジア各地から逃げてきた、こうした一族や小部族が多く存在していた。

 

高句麗・百済・新羅など朝鮮半島からの支配階級をはじめ、大陸北方の騎馬民族や西方の製鉄民族、南方の海洋民族、江南の中華民族、西アジアや中央アジアからの移民など、様々な部族たちが段階的に日本列島に渡来し、有力部族同士が結びつき合いながら支配を強めていた。

 

和国の勢力交代は繰り返し続いていて、

 

6世紀頃の日本列島と半島南部は、九州勢と大和勢が中心的な勢力だった。

 

 

 

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【エフタル族の和国統一】

 

西アジアに「エフタル」という民族がいた。非常に戦闘力が高く、一時は中央アジアからインドにまで迫る強大な勢いで、周辺国へ勢力を広げていた。

 

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エフタルの西の隣国「ササン朝 ペルシア」は、100年もの間エフタル族の侵攻に悩まされ続けていた。ペルシアは敵わず、カワード一世ペルシア王の時代にはエフタルに半ば臣属させられていき、莫大な貢納を課せられる様になってしまっていた。

 

この重圧に耐えかねたペルシアは、東側でエフタルと対立していた「突厥(とっけつ)」族に救援を求めた。

 

突厥は、狼の子孫を名乗る芦名氏が建国した遊牧民族の連合国である。

元々モンゴルの柔然王に仕えた製鉄部族だったが、これを倒し、北アジアの部族(ペドウン)らを結集させ空前の大版図を拓いて、北アジアから西アジアにまで至る長大な国家(イル)を築いていた。

 

ペルシア王家はこの突厥王家との間で互いに王子と王女の婚姻をさせ反エフタル同盟を結び、ササン朝ペルシアと突厥は共闘し反撃にでた。

 

 

突厥とペルシアは、双方から同時にエフタルを攻める挟撃戦を度々行った。

 

 

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突厥族は戦闘に優れた遊牧民族である。男子は皆、幼い頃から馬に乗り馬術が巧みで、その起動力でアジア大陸北方を支配してきた。兵は精悍で鋭く、ペルシアと共に執拗な挟撃戦を続けていくと、やがてエフタル族は掃討されて東方へと逃れていった。

 

この時代のアジア大陸は、中央に中国、北に突厥、南にインド王朝、西にはローマ帝国があった為、大陸での争いで敗れた民族は、大国の少ない東アジアに逃げることが多かった。

 

アジア大陸で国を失った民族は、他の大国に捕えられ奴隷にされる運命であり、生き延びるため安全な場所へと逃げるには、なんとか大陸北の草原地帯を抜けて東の果てまで行き、東海を渡って、まだ国家が定まっていなかった日本列島にまで逃げこむしかなかった。

 

 

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エフタル族も突厥の追撃から逃れる為、民族の大移動を敢行し、大陸北方から東海を渡り、弊賂弁島、大渡島(16世紀頃水没)と佐渡島を経由し、

越の国へと渡ってきて日本列島の東(関東甲信越地帯)へ乗り込んで、東和を掌握した。

 

 

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突如として、数十万もの強大な勢力が興ったため、即位したばかりで当時大和勢力の王位にあった武烈王は、驚いて朝鮮半島の「新羅」へと逃げていってしまった。

 

これほどの壮強な大部族(ペドウン)が渡来してきたことは、かつて無く、日本列島と朝鮮半島は混乱の時代を迎える。

 

新羅は、中央アジアのタリム盆地のタバナ国(竜城国)の末裔たち「昔氏」によって建国された国である。

 

朝鮮半島南東部のこの地方はアジア西方からの移民の入植地であり、東アジアの他の和韓諸国(列島・半島の国々)とは民族も違い、独立独歩の気風が強く一線を画していた。

 

新羅の習俗は西アジアに近く、戦いに闘斧を使い儀式にはリュトン(ギリシャ角杯)を用いる。

 

王の神器を杯や斧にしている北西アジアの白人部族・スキタイ族の特徴が濃い。

 

和国へ渡来したエフタル族は、当初は日本列島の中心部(中部地方)に盤踞し、越の国から尾張の(福井県〜愛知県)東和から西に睨みをきかせていたが、西側の少数部族らからも姫を差し出させていた。

 

和国の先住部族で誉田別王の曾孫の【振姫】をめとり、エフタル族に和国の血をひく大渡王が生まれた。

 

6世紀の初めにこのエフタル族の大渡王が、朝鮮半島の新羅の北にある高句麗の王の後押しを受けて、「新羅」に出征することになった。

 

東アジアの玄関口にある高句麗という国は、

「夷を以て夷を制す」(=異民族を使って異民族を制する)政策を続けていて、逃げてきた部族といちいち戦うことはせずに亡命を助け後押しをして、朝鮮半島や日本列島に送り込むのが基本だった。

 

 

大渡王は、まず日本列島から出征するための拠点確保に、西へ移動して河内へと拠点を置いた。

 

エフタル族の版図が、東和から裏日本の越の国、そして河内まで伸び、大和勢力が包囲されるような形となった為、武烈王が新羅に逃げ王不在になった大和では、エフタル族を恐れ跡を継ごうとする者がなく、大和部族達を見捨てて逃亡する王族が後をたたなかった。

 

見捨てるというより、そもそも大和の部族達にも「王を守る」という気持ちはなく、守って貰うことはあっても国や王を守るという意識は全くなかった。

 

この極東にあっては、他の和韓諸国の部族連合も皆、自分たちの部族(ペドウン)や一族(ウル)を守る為にだけ、国(イル)や王の存在価値があった。

 

王不在の大和は、東のエフタル族の脅威だけでなく西日本の有力部族達が虎視眈々と狙っていて、いつ侵害されてもおかしくない危うい状況だった。困り果てた各部族の首長たちは相談した結果、河内にいるエフタル族の大渡王に帰服の使者を送った。

 

「大渡王様の情け深さで、どうか大和の民の王となりて給わりますよう何卒お聞き届け下さい」と、

 

大和の有力部族、大伴金村と物部麁鹿火の使者らは平身低頭して懇願する。

 

しかし、大渡王は既に新羅出征の準備を進めていて、大和勢や九州勢の有力部族達の小競合いに関わっている場合ではかった。

 

海から向こうの半島を睨んでいる今、草深い大和の王になりに内陸部へ後退する訳がない。

 

大渡王は大伴金村の訴えを背にして、新羅へと進撃していった。

 

 

そして大渡王率いるエフタル族は見事に新羅を制圧し、大渡王は「智証麻立カーン」(カーン=王)と名乗って新羅に君臨し、新羅の州郡県制を整備し直し支配下に置いた。

 

新羅の隣国の百済も、高句麗からの侵攻が続いていたところへ、エフタル族の強力な圧力が加わった為、百済王はたまらずエフタル族へと帰服する。

 

百済は、高句麗と同様に扶余族が枝分かれして建国した国である。

 

扶余族はアジア北東から朝鮮半島まで広く分布していたが、元々はバイカル湖周辺にいた古い民族だ。

 

扶余国、高句麗、百済と、支配階級が朝鮮半島を南下しながら建国を続けてきた。

 

百済は暴君が除かれ王権が交代したばかりで、和国生まれの(※佐賀県唐津)武寧王「嶋」が王位にあったが、この嶋王がエフタル族に帰服してくると、大渡王こと「智証麻立カーン」は嫡子の欽明皇子と百済嶋王の娘「手白香妃」の婚姻をすすめた。

 

大渡王は、欽明皇子を百済皇太子とすることを条件に、新羅統治下にあった任那の国境地帯の4県を割譲し百済に与えるとした。

 

百済は、北方を高句麗に切り取られ都の漢城が奪われてしまい、南の熊津に遷都した後だった為、

 

嶋王はこの南方合併の条件を受け入れて自分の嫡子は和国に送り欽明皇子は任那の4県と共に百済の皇太子となった。

 

 

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「大和の民の王となって給りますように」と、

 

大渡王に帰服の使者を送っていた大伴金村は、この大渡王の任那割譲によって大和の部族たちから

 

「あのような王を認められるか!」と、責められ、

 

仮病を装い館に籠もってしまった。

 

衆目の見るところ、大度王が大和の為に王になるとはとても思えない。

 

(大和とて、いつ切り売りされるか分からぬ)

 

誰もが不安に感じた。

 

 

半島から列島にかけて、大渡王の勢いに乗って、和国・新羅・百済とエフタル族の大勢が決しつつあるかにみえた。

 

高句麗王はエフタル族を後押しはしていたが、もともと新羅を抑えるためにエフタル族の武力を利用していただけだったので、エフタル族の勢いが強くなりすぎると、高句麗王の息子の安蔵は反転して、エフタル族の大渡王と敵対するようになっていった。

 

大渡王は、新羅で「智証麻立カーン」として君臨していたが、北の高句麗との対立が始まり、また新羅の有力部族や任那にも内と外から抵抗され、南は和国の九州勢力からも包囲される四面楚歌となると次第に大勢の維持が難しくなっていく。

 

513年、和国から新羅へ逃げて行き場を失ってしまった武烈が、大渡王に忠誠を装って帰順してきたため、大渡王は新羅の王制に従い葛文王となり(葛文王=王の父・義父の尊称、大御所・上皇)、武烈に朴妃を嫁して新羅を任せて、和国へと帰国した。

 

 

 

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大渡王をなんとか和国へ追いやった武烈は、新羅で法興王と名乗り即位し、次々に改革を行った。

国号を正式に新羅として王号もカーンから王へと変えた。兵部と十七等の官位制を設けて「律令」を頒布し、頭品制(骨品)を整え直し内政を固めていった。

 

国内を固めると、すぐに百済と共に中国の南朝「梁」に調使し、任那の大伽耶と婚姻を結び、金環伽耶を滅ぼすなど、外交と外征を行った。征伐された金環伽王族・金一族は新羅に下り本領を安堵され、新羅の王族へと吸収される。(金仇亥)

 

そして法興王武烈は、群臣の反対を押切り仏教の国教化を進めていった。

 

                 

一方、エフタル族の大渡王が和国へ戻った頃、和国の一勢力であった大和勢は、武烈が新羅に逃げた後の後継者が途絶えたままで危機に瀕していた。

 

大和勢の有力部族だった大伴氏は、他の部族らを再び説得し、半島から列島にかけて猛威を振るった大渡王をなんとか味方に引き込んだ。

 

河内でエフタル族の馬飼いをしていた伽耶人を通じて働きかけをし、放っておかれたままであった大和の王位継承を進めて、大渡王に大和王権を継いで貰って体制を持ちなおした。(この為、継体天皇とも呼ばれた)

 

 

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大渡王

 

エフタル族と大和勢が合併したことにより、大和勢は和国最大の勢力となり、和国は次第にその支配下に置かれていく。

 

大渡王が大和の王権を継いだ翌年527年には、九州勢と大和勢の間で、最後となる決戦が起こった。

 

大渡王にとっては、大和勢の味方になったことで敵がまた増えただけのことである。

 

大渡王は大和勢の軍事部族の物部麁鹿火将軍に、

 

「長門より東は自分が統治する、筑紫より西は汝が統治せよ。兵権は任せるのでいちいち報告することはない」

 

と指示し、

 

物部麁鹿火将軍に全権を託して九州征伐へ出征させた。

 

古代和国で最大の戦となった「百済・大和勢 対 任那・九州勢」の戦いは一年に及んだが、磐井君が率いる九州勢が敗退し、エフタル族大渡王の大和勢によって、東国の蝦夷族を残しほぼ和国は統一された。

 

 

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【二匹の争う狼】

朝鮮半島から日本列島まで勢力を広げたエフタル族だったが、やがて敵対していた高句麗の安蔵が和国へ攻め込んできて、和国(任那出身)の毛野臣将軍の裏切りにより、大渡王は倒されてしまった。

 

大渡王を倒した後、高句麗の安蔵は弟の安原に高句麗を任せて、自らは「安閑王」と名乗り和国の王となった。

 

しかし、エフタル族の生き残り、猛将・宣化将軍が激しく抗戦し、高句麗の安蔵は「安閑王」などと名乗ったものの和国での王権を維持できず2年も持たずに倒されてしまった。

 

和国の覇権は目まぐるしく移り変わっていく。

 

 

  

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そして、大渡王の後の王位継承をめぐり、エフタル族同士で後継者争いが始まった。

 

和国の混乱に乗じ、百済の大臣だった蘇我氏(百済系蘇我氏)が、すでに523年に百済王として即位していたエフタル族の嫡子・欽明聖王を和王として擁立し、欽明聖王とともに和国の掌握に乗り出してきた。

 

欽明聖王は北の高句麗と529年に交戦し、大敗した後だったので一時身を引く必要があり、半ば亡命の様なかたちで、蘇我氏に推戴されるままに和国へ渡ってきた。

 

宣化将軍は、和国を簒奪した高句麗の安蔵(安閑王)を倒したのだから、当然自分が次の和王になるつもりであり『宣化王』を名乗りその玉座に座っていた。

 

しかし、エフタル族の嫡流ではなかった為、嫡子の欽明聖王に比べると従うエフタル族は少なく、欽明聖王が和国へ戻ってくるとエフタル族の兵力は欽明聖王に集まっていった。

 

 

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和国での覇権を確かなものとしようとする欽明聖王は、

 

「秦氏を味方につければ天下をとれる」という夢をみたので、

 

和国の渡来系有力部族の秦氏を召し寄せて仕えさせた。

 

秦氏は多数の部族を率いて、古い時代に弓月王に続き和国へやってきた隠然たる力のある部族である。

 

弓月国は天山山脈の北(カザフスタン)、バルハシ湖周辺にあった景教徒(キリスト教)の国だったが、長年に渡り隣国である中国の万里の長城使役に駆り出されていた。

 

弓月王は是に耐え兼ねて東方へと逃げ、西アジア移民の入植地である新羅を通じて和国に亡命してきた。

 

この弓月の民を率いる秦氏は、七千戸18000人を擁する有力部族で、大和朝廷では大蔵省などの財務を代々司っていた。

 

欽明聖王が

 

「汝は、夢のお告げに何か心当たりはあるか」と、秦氏に問うたところ、

 

「私は二匹の狼が戦うのを見ました。お二方は神であるのに争っていれば、猟師に捕えられてしまいますと言って、戦いを止めました。」と、答えた。

 

秦氏は、エフタル族同志の宣化将軍と争うのは、敵国・高句麗に利するだけということを例え話で諌めようとしていた。これを聞き欽明聖王は、和国内で宣化将軍と衝突することを避ける方策を秦氏と共に検討しはじめた。

 

欽明聖王は、先代の王を追いやって武烈が専横してしまっている「新羅」へと、宣化将軍を出征させ、その矛先を新羅征伐へと向けさせることにした。

 

 

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宣化将軍

 

宣化将軍も高句麗の安蔵と戦い、強敵があることを知っていて、和国の有力部族や将軍が裏切れば先代の大渡王の様に倒されてしまう危険性があることを肌で感じていて、エフタル族同士で戦うよりも、まだ先に敵に矛を振るわなければならない局面であることも充分心得ていた。

 

宣化将軍は、王位継承権は弱かったが、戦さには長けていたので、欽明聖王から兵を与えられて勇んで新羅へと出征していった。

 

欽明聖王は宣化将軍を新羅に行かせている間に足元を固めようとした。まず、高句麗の安蔵が「安閑王」と名乗り和国王になった時、皇后にした春日山田妃を和国女王にして、自分はその夫となり和国王につこうとした。

 

ところが、春日山田妃は

 

「欽明聖王の盾代わりに使われるなどあり得ぬ」と、

 

頑なに固辞した為、この合体策はかなわず、仕方なく欽明聖王は春日山田妃を『皇太后』にし、敷島(奈良県桜井市)を和国での王都として定めて、自ら大渡王の跡をつぎ和王に即位した。

 

そして蘇我氏は欽明聖王と百済の力を背景に、大伴氏ら旧大和勢力の有力部族達を一気に排除して、自らは宰相となり和国の権力をにぎった。

 

蘇我氏系の部族も百済から渡来させ、欽明聖王のエフタル族と合わせ十数万人の和国最大の勢力となった。

 

蘇我氏はもとは「木氏」といい、百済では巷奇大臣といわれていたが、和国に乗込んで来てからは「蘇我」と名乗りを変え、和国の名を名乗ることで(和国籍)和国人としての旗幟を鮮明にしていた。

 

さらに秦氏が味方についたことにより、大渡王が和国を統一して以来、初めてとなる本格的な戸口調査が行われた。

 

一方、新羅に渡った宣化討軍は、欽明聖王の即位に悔しがったが、もう後へ引くこともできず、和国に戻っても既に居場所はなく新羅を制圧するしかなかった為、和国に残っていた配下の挟手彦将軍にもエフタルの精鋭を率いて出兵させ、なんとか新羅の法興王(武烈)を倒して、自ら「真興王」と名乗って、新羅王に即位した。

 

 

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宣化将軍=【真興王】

 

欽明聖王は、朝鮮半島半島南部にある任那日本府より

 

「勝手に王を名乗るなど裏切りではないか」と、

 

詰問の使者を送ろうとしたが、既に任那日本府にも裏切りの兆しが出始めていた為、半島側の騒乱を回避する為にひとまずは容認し、列島側の内政に努めることにした。

 

新羅・真興王となった宣化将軍は、突如猛攻を始める。

 

新羅を領有し兵力を確保すると、一旦は欽明聖王側と和合し百済不可侵協定を結んで高句麗に侵攻し10郡を奪い取ってしまった。

 

そして、返す刀で百済・和国が領有する任那(任那日本府)へと進攻し、百済・和国と新羅の間に戦端を開いた。

 

エフタル族の後継者同士の争いは、和国の内紛から国と国との戦争へと発展し、百済と新羅の間の伽耶(任那)の領有をめぐり戦局が朝鮮半島へと移ったため、欽明聖王は和国を蘇我氏に任せ、百済へと戻っていった。

 

そして538年、欽明聖王は北方の高句麗からの圧力を避けて南方の戦線に備える為、百済の都を熊津から南の泗沘に遷して後顧の憂いをのぞき、国号を「南扶余」と改めた。

 

 

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548年に、高句麗の安原王が没し、高句麗でも王子同士で後継者争いが起きて一時的な内乱状態へと陥った。

 

新羅の真興王と百済の欽明聖王はすぐさま休戦し矛を納め、安原王の兄王子(陽原)と敵対する弟王子側(香岡)を援護して高句麗を攻めたてた。

 

兄王子側が優勢で、敗れた王族・群臣らは次々と高句麗から和国へ亡命してきて、和国の宰相の座にいた蘇我氏はこの者達を擁護し自分の派閥へと組み入れていった。

 

高句麗の始祖「チュモン」の子孫の長背王など身分のある王族もこの中にいた。

 

最終的に、安原王の兄王子と弟王子の勢力は宮門の前で激突し、弟王子側は一族郎党2000人の死者を出して全滅してしまった。

 

兄王子はすぐに「陽原王」として即位し、早々に新羅・百済と交戦することになったが、狡猾な陽原王は新羅と内通して離間策を用いることにした。

 

陽原王が、高句麗の支配下にあった元百済領だった城を新羅に渡るようにするなどして新羅にだけ有利な割譲を展開していくと、百済の欽明聖王と新羅の真興王の関係は不穏になり、疑心暗鬼に陥ってしまい、共に高句麗を攻めることを諦めてしまった。

 

この争乱で、高句麗側は漢城(ソウル)を失った。

 

 

そして、高句麗への侵攻を止めた百済・新羅は、再び南方の任那地方の戦線で対峙した。

 

新羅は、百済と和国の中継地であるこの任那地方を押さえない限り落ちつかず、欽明聖王は、百済と和国の両国を統治する為には任那を奪われる訳にはいかず、ここでの争いは北方の高句麗に利するだけと分かっていても引くことはできない戦線だった。

 

その上、高句麗は新羅と通じていたので、欽明聖王は二国を敵に回し苦しい状況に立たされ、高句麗への牽制のため和国の蘇我氏に高句麗へ兵を出すことを命じた。

 

蘇我氏は、今まで、和国からの援軍派兵を命じられながらも、遅々として応じず兵をなかなか送らなかったが、この時ばかりは任那戦線の後詰として北九州に駐屯していた扶余昌に和国軍を率いさせ、高句麗へと向かわせた。

 

欽明聖王はこれを、

 

(あやしい)とは思わなかった。

 

戦が得意でない蘇我氏が兵を出すこと自体、そこに何らかの狡猾な企みが存在している。

 

欽明聖王を擁立した蘇我氏だったが、既にこの時はこの「扶余昌」に乗り換えていた。

 

 

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扶余昌

 

扶余昌は、高句麗の政変時に兄王子だった陽原王側に滅ぼされた弟王子・香岡の子で、高句麗から逃れて和国へ亡命してきていた。

 

高句麗の王族であり姓は高氏といったが、亡命先の蘇我氏の擁護によって欽明聖王の婿養子になり、百済の王族の姓である「扶余」を名乗る欽明聖王・王子扶余昌になっていた。

 

扶余昌は、陽原王との跡目争いで、宮門で父・香岡王子と一族を皆殺しにされた敵を討つ機会を得たと喜び、不倶戴天の敵・陽原王を討つための和軍を与えてくれた蘇我氏に感謝して、勇んで高句麗へと出兵していった。

 

高句麗に遠征した和国軍は、百合野という荒涼とした地に陣を構えたが、突如、鼓笛が響き、高句麗の軍勢が押し寄せてきた。

 

扶余昌は自ら先方に立ち、その姿を高句麗軍の先鋒や斥候からわざと見えるようにしていた。

 

その日は扶余昌は硬く陣を守り戦わずにいたが、夜明けになり高句麗軍から五人の将軍がやってきて、

 

「我が軍中のものが、百合野の和国軍の中に高句麗の客将がいると言っています。礼をもって出迎えざるを得ません。よろしければ、私共が礼儀をもって問答する貴方様の姓名、年齢、位をお聞きしたいのです!」

 

と、聞いてきた。

 

高句麗の将軍達の丁重な態度は敵に接するような態度とは思われない。五将軍らは幕舎に通され扶余昌と対面し、一目して驚く。

 

扶余昌は余計なことは口にせず、5人の将軍を見据え

 

「姓は高句麗と同姓、位は干卒、歳は29歳」とだけ、

 

静かに答えた。

 

姓は高句麗と同姓ということは、即ち国号の「高」を名乗るのは高句麗の王族である高氏であり、その一言で、高句麗の王族であると名乗ったことになる。高句麗軍の5人の将軍達に緊張が走った。

 

そして年齢を言えば、高句麗の者ならばその名を聞かずとも、先の政変で陽原王側に破れた弟王子・香岡王の子息であることは誰でもわかった。

 

その後、一切言葉を発しようとしない扶余昌の威圧によって、高句麗軍の5将達は萎縮してしまった。

 

高句麗・新羅 対 百済・和国の戦の中にありながらも、その実、高句麗の香岡王の王子が和国軍を率いて陽原王に復讐するために乗り込んできた、高句麗王家の内戦であることを理解した。高句麗の中ではまだ弟王子・香岡王を支持するものも多く、5将軍にとっては矛先の鈍る難しい戦となる覚悟が必要だった。

 

5将軍らは丁寧に挨拶をして陣を去っていき、積極的に攻めようとはしなかったが、

 

反対に扶余昌は

 

「兄王子・陽原王側についた者は許さぬ!」

 

とばかりに高句麗軍を強襲し、

 

自ら鞭を打ち戦場を駆け、凄まじい殺意で敵将を屠りまくった。

 

そして将軍の首を矛先にかかげ、戦闘意欲を顕わに進撃を続けていく。

 

扶余昌は死力を尽くして戦い、ついに不倶戴天の敵・陽原王を平壌の東北にある東聖山にまで敗走させた。

 

これにより、高句麗は百済・和国 対 新羅との戦いから退かざるを得なくなった。

 

陽原王を倒すには至らなかったが、高句麗側の敗戦によって戦いはまた任那地方の戦線が主戦場となる。

 

任那戦線で対峙する新羅の宣化将軍は、エフタル族の大渡王を倒した高句麗の安蔵をも破り、そして新羅の法興王を討ち、向かうところ敵なしの常勝将軍であった為、

 

「正面から衝突するには危険すぎる」と、

 

百済の欽明聖王は堅固な陣を構えて決して討って出ようとしなかった。

 

新羅エフタル族はなんとか欽明聖王おびき出そうと苦心していた。

 

 

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しかし、エフタル族の嫡子の欽明聖王と、エフタル族最強の宣化将軍こと真興王との争いは和国からの援軍がきたことであっけなく終わった。

 

554年

 

蘇我氏は、高句麗で勝利した和国軍を再び九州に後詰めとして配置していたが、これを百済への援軍として出兵させた。応援に駆けつけた九州勢は早速新羅へ攻め入り、筑紫の火矢の名人を使って新羅の函山城を火計により焼いて、落城させた。

 

この勝利により、勢いづいた和国軍は扶余昌に率いられ進撃し、固く守っていた欽明聖王も百済兵を率いて出陣し和国軍ともに攻撃に転じることになった。

 

ところが、この援軍の勝利による進撃は、百済側を勢いづかせ欽明聖王を誘い出すための周到な罠であった。

 

欽明聖王の配下は一枚岩でなく、百済の部族達も欽明聖王が同胞と信じるほどには、王を信じていなかったし、中には新羅と通じ裏切りを企んでいる者がいた。

 

欽明聖王は、この戦の中、

 

[入り婿の王子が奇襲にあって危機に陥っています! 」と、

 

味方からの偽の伝令におびき出されてしまい、兵を率いて救出に飛び出したところを、待ち構えていた新羅軍の伏兵から自分が奇襲を受けて戦死してしまった。

 

欽明聖王には、エフタル族的な集団的意識が残っていて、真剣に王子を助けようとしたことが裏目に出た結果となった。

 

 

九州からやってきた援軍の裏切りの罠に陥り、王を討たれてしまった百済軍は3万人の死者をだす大敗をしてしまい、この戦いで勝利した新羅の真興王は、任那を滅ぼしてほぼ領有する。

 

まだ欽明聖王は、後継者を決めてなかったままでの突然の戦死だったため、蘇我氏は急遽、高句麗の王位継承争いに負けて和国に亡命してきていた高句麗安原王の孫で欽明聖王の養子「扶余昌」を百済王として擁立した。

 

蘇我氏は、亡命してきた扶余昌を擁護し、あらかじめ欽明聖王の婿養子にして後見していたので、扶余昌の擁立によりそのまま権力を持ち続けることとなった。

 

百済では他に恵王子など、王位継承候補がいなかった訳ではないが、百済兵三万人を新羅との戦で失った直後であり、九州から筑紫兵を派兵してきていた蘇我氏の専横に抗う余力が全くなかった。

 

扶余昌は、欽明聖王の跡を継ぎ百済王に即位すると、「威徳王」と名乗り欽明聖王の定めた「南扶余」という国号を「百済」に戻した。

 

 

蘇我氏は、百済の威徳王となった「扶余昌」を和王敏達としても擁立し、欽明聖王と同様に両国の王位を継承させて、その力を後ろ盾に、和国では引き続き蘇我氏が実権を握って、和王に代わって和国を総督した。

 

そして「扶余昌」こと威徳王敏達には、蘇我氏の姫を嫁がせ外戚としての地位を強化していく。

 

 

【挿絵表示】

 

「扶余昌」= 威徳王敏達

 

 

欽明聖王をおびき出し戦死させるに至った、王子とは「扶余昌」のことであり、和国内では

 

「欽明聖王が奇襲で戦死したのは、蘇我氏との謀ごとで扶余昌の誘因の計により死地に追い込まれたからだろう」と、

 

蘇我氏と扶余昌の裏切りによる誘殺が囁かれていた。

 

そして、威徳王敏達が和国の王になると直ぐに、高句麗から烏の羽に墨で書かれた機密文書(吏読)が届くようになって、高句麗とのつながりも噂された。

 

威徳王敏達は、高句麗への復権をまだ諦めてなく、高句麗国内に残る弟王子派の者達と連絡を頻繁にとりあっていた。

 

いずれにしても蘇我氏が和国の権力構造の中心であり、和国の影の支配者であるという存在感は増していった。

 

結果的にみれば、蘇我氏は、新羅の力を使って欽明聖王と百済兵三万人を討ち、任那を失わせ、百済が弱りきったところで、いとも簡単に乗っとってしまった様なものである。

 

任那を餌に、百済と新羅を戦わせ弱らせた「二虎競食の計」が成功したと言えなくもない。

 

欽明聖王にとって百済・和国の二国を統治する為には、中継地である任那を失う訳にはいかなかったが、そもそも和国を狙う蘇我氏にとっては、百済と和国を分断する為に、任那は邪魔だったのである。

 

半島から列島にかけて、百済・和国・新羅三国がエフタル族の政権下におかれてしまってきたが、

 

エフタル族同士が激しく戦い、その権勢の隙に乗じた蘇我家の権謀によって、百済と和国には高句麗出身で扶余族側の王が擁立されてしまい、エフタルは政権を失った。

 

そして、その犠牲となった

 

和韓部族の熔鉱炉の様な争奪戦の地

 

「任那」は、

 

最後に残っていた高霊伽揶が562年に新羅に下り

 

これで、完全に滅び新羅の領土となった。

 

新羅もまた蘇我氏の裏切りのおかげで、城をひとつ焼いただけで難なく欽明聖王を倒し、任那を手に入れて和国と百済の分断がかなった。

 

任那を領有した真興王は、新しい領地を巡り各地に記念碑を建てていった。

 

 

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後に、新羅と和国は交戦状態となった。

 

 

かつて朝鮮半島南端から九州北部にかけて海峡文化を築き上げ、製鉄で繁栄していた海峡部族たちは、対馬海峡を挟んで南北に分断されてしまい、それぞれの国の中で生き延びていくことになる。

 

 

 

 

 

【新羅エフタル族】

 

 

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新羅と、百済・和国の戦いは、新興のエフタル族同士の争いから、旧勢力の扶余族側とエフタル族の争いへと更に戦いの様相が変わった。

 

しかし、和国に残留していたエフタル族残党はこれには従わず進退を図りかねていて、和国の戦力は大きく低下していた。それどころか、新羅エフタル族の宣化将軍こと真興王と連絡を取り合い、和国から内応する恐れもあった。

 

和国の蘇我氏と威徳王敏達には、これを自力で解決する力はなく、新羅に君臨しているエフタル族の生き残り「真興王」に徹底的に対抗する為、アジア北方の雄『突厥連合』にも援軍を要請していた。

 

突厥は、長大な勢力で隋とアジア天下を二分していた北方の大国である。そして西アジアからエフタル族を追った突厥は、決っしてエフタル族とは相いれない関係だった。

 

和国からの援軍要請に応える形で、突厥軍は和国に進駐していった。

 

かつて、突厥は西アジアでペルシアの要請に応え、援軍を派兵し共にエフタル族を掃討したが、そのままペルシアに駐留し今ではペルシアを支配下に置きつつある。

 

 

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西アジアから東アジアまで長大な勢力で抜いているアジア最大の勢力の突厥が、和国にまで勢力が及んでも不思議ではない。東西の距離だけなら、後世の英雄ジンギスハーンにも及ぶ版図である。

 

こうした驚異的な行動範囲の広さは遊牧民族の特徴であり、13世紀の遊牧民族チンギスハンだけでなく、2世紀頃の遊牧民族の英雄・檀石傀なども、このような長大な版図を広げた。

 

 

「東アジアはエフタル族になどに渡さぬ!」と、

 

エフタルの覇権を奪う覚悟で和国へ向かった。

 

東アジアにまで寄せてきた大部族や同盟国に対する高句麗の基本的な方策は変わらない。

 

威を以て威を征すとの言葉どおり、

 

決して高句麗には駐留させず、自国を通過させ半島や列島に後押しして送り出し三国を弱らせる火種としている。

 

 

一方、エフタル族の真興王(=宣化)は、新羅から和国へ侵攻する野心をまだ捨てずにいた。

 

「蘇我氏ごときに和国を専横させぬ」と、

 

介入の機会を狙っていた。

 

ところが、蘇我氏の勢力だけでなく、突厥勢が和国へ次々と乗り込んで来たため、容易に攻めることができなくなってしまっていた。

 

蘇我氏は更に別の一手として、先代のエフタル族欽明聖王の娘・推古王女を威徳王敏達に娶らせて『和国皇后』とし和国内のエフタル族を従わせた。

 

王室に、エフタル族の嫡流を入れ和国の王位を確固たるものにしたことで、エフタルの嫡流ではない真興王(=宣化)の影響力は徐々に低下していった。

 

しかし、蘇我氏の下風に立つことに不満を感じていた一部のエフタル族残党は、この合併策には従わず北日本の陸奥に下って、新羅エフタル族に内応しようと日本海側から密使を送っていた。

 

蘇我氏側は決して航海術に長けていた訳ではないが、新羅と日本海側の間でのこのやりとりをなんとしても分断する為、警戒は海上にも及び、密使を探しだし船上から海へ投げ捨てた。

 

 

575年、

 

真興王こと宣化将軍は意を決し、和国のエフタル族残党とも結託して一大決戦を挑んだ。

 

新羅から大宰府まで侵攻した。

 

大宰府は和国の西方の防衛拠点であり、高句麗式の山城・大野城が築かれていた。(福岡県大野城市)

 

しかし新羅軍はこの大宰府を打ち破り、瀬戸内海から東へと攻め上り、明石にまで進撃していった。

 

そして播磨を拠点とした突厥勢とここで激突し、激戦の末、新羅軍は敗れてしまった。

 

突厥の実力者である勇猛な大将軍が和国に進駐していて、見事に和国のエフタル勢を抑えたままエフタル族の真興王(宣化将軍)率いる新羅軍を徹底的に打ちのめした。

 

エフタルを破ったこの突厥の実力者は、戦闘力は高かったが野心家であり、突厥を東西に分裂させるきっかけになった問題のある人物である。

 

援軍というよりも、大陸にいられなくなり、自ら和国へ野心を持って渡来してきたとみることもできる。

 

後に、軍事部族である物部氏に婿入りし物部守屋と名乗り物部氏を率いた。

 

 

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翌年、真興王(宣化)は、新羅の青年軍組織を強化する。

 

美少年ばかりを集めた「花朗」ファラン(=美少年)という名の軍事訓練を目的とした組織で、部族長の子息達を徴兵し人質にする目的もあった。

 

単なる若衆の軍中教育ではなく、軍の求心力の中心に弥勒菩薩への信仰を置き、死をも辞さない程の屈強な戦士として育てる徹底した忠誠教育を行った。

 

強さと容姿の美しさを兼ね備えた「花朗」ファランは、新羅国内の羨望の的となり、

世俗五戒という教えで、今までになかった様な王への忠誠と護国精神と団結力を育て上げ、新羅において強力な存在となった。

 

しかし、「大元神統」という王の側近のミシルという巫女が、弥勒菩薩への信仰心を利用してその精神性を次第に支配していき、「花朗」を操る様になっていった。

 

大元神統とは、代々、王と交わり子を産む為に仕える母系血統の女性達である。ミシルは大元神統の血統でありながら、花郎の初代「風月主」(花郎の指導者)の血筋でもあった。

 

 

真興王(=宣化)はこの年、病没してしまった。

 

先年の戦の傷が元であるとも、「大元神統」の巫女ミシルの暗躍があったとも噂された。

 

王の側近だった「大元神統」の巫女ミシルは、真興王の遺言を偽って次男の真智王を即位させて、自らは真智王の王妃の座につこうとたくらんでいた。

 

だが、真智王は即位後にミシルを王妃にはしなかった為、怒ったミシルはファランの力を背景に圧力をかけ、逆に真智王を廃位に追い込んでしまった。

 

そして、元々の遺言どおり真興王の孫の真平王を即位させた。

 

 

 

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新羅の血統を聖視する「骨品制度」では、血の濃淡で王族を分け、王家の直系を「聖骨」(第1骨)といいエフタル王家の王位継承権が独占され、それ以外の外戚や王族は「真骨」と呼ばれる貴族とされていた。

 

真興王は、この骨品制度をより強固なものにして、聖骨以外は絶対に王位につけない様にしていた。

 

 

真興王の没後、かえって王統は弱まって、巫女ミシルの暗躍により新羅のエフタル王朝は乱脈を極め弱体化してしまった。

 

新羅の和国に対しての野心は直ぐに弱まり、任那4か村を和国に割譲して、その後も仏像を何度も献上するなど低姿勢の外交になっていった。

 

エフタル族は、西アジアから東アジアの果てまで逃げてきて一時は半島から列島にかけて版図を広げていき、和国を統一し新羅を領有し百済を帰服させ、和・新・百の三国に君臨するかとみえた。

 

しかし、エフタル族の大渡王が倒され、内紛と突厥の執拗な追い込みによって、百済の欽明聖王に続き、新羅の真興王も没してしまい、エフタル政権の勢いは短命に消えてしまった。

 

 

 

 

「ファラン 五戒

一、君には忠を尽くし

二、親には考を尽くし

三、友には信をもって交わり

四、戦に臨めば退かず

五、殺生は時を選べ 」

 

 

 

 

【丁未の乱】

威徳王敏達は和国を蘇我氏に任せたまま百済に留まり、引き続き新羅と対峙していた。

 

威徳王敏達は北斉や隋など中国の王朝に後ろ盾を頼り、その冊封体制下(中国が後見し王位の許可を与える制度)に入っていった。

 

王不在のままで、新たな支配体制となっていた和国は、威徳王敏達に代わって和王の代行をしていた蘇我氏と、渡来してきて明石で新羅軍を打ち破った突厥の実力者と、エフタル系の和国王女である推古王女の三頭体制で統治されていた。

 

 

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推古王女は、外戚の蘇我氏に実権を握られていた為、三頭体制とはいえ、権力は蘇我氏と突厥の実力者が二分していた。

 

 

突厥の実力者は、和国の有力部族である物部氏に婿入りして物部守屋と名乗り、蘇我氏との間で鬩ぎ合いを起していく。

 

物部氏はニギハヤヒを祖とする古い渡来部族である。

 

【物】とは刃物のことであり、刃物や兵器を扱う軍事部族である為「物部」という。

 

物(刃物)が並んでいる様を

「ものものしい」と言い

 

物(刃物)を扱う夫を

「もののふ」

 

物(刃物)の呪いで化けた

「もののけ」

 

と言うが、

 

物(刃物)の部族という意味どおり、物部氏は

 

製鉄の神を祭り、その名乗りのとおりに兵器や戦いをもっばらとする軍事的な部族であることが伺える。

 

反蘇我氏・反百済の勢力の者たちは、物部氏の元に集まり、百済から来和させた武将・日羅を呼び出して、密かに百済の攻略法を聴きこんでいたが、百済の情報を洩らしたことが付き人にばれてしまい、日羅は新羅の仕業のようにみせかけられて暗殺されてしまう。

 

和国が不穏な状態となり、百済にいた威徳王敏達は、蘇我氏と物部氏がせめぎ合っている和国へ戻ってきた。

 

威徳王敏達が百済にいる間、蘇我氏は和国で初の仏塔を建立し、仏殿を建てるなど、権力の誇示があまりにも増長していたため、蘇我氏によって擁立された威徳王敏達も蘇我氏を疎んじる様になり、物部氏よりになっていった。

 

蘇我氏は、自らが推進する「仏教」を道具にして新たな権力構造を和国でつくり始めようとしていた。

 

威徳王敏達は蘇我氏への権力集中を恐れ、伝染病が和国で流行ったことを理由に、「崇仏による神の祟り」として、廃仏令を出し、崇物派の蘇我氏の排斥を始めていく。

 

反蘇我勢力である物部氏は、仏教の排斥に動き、蘇我氏の造った仏塔や仏像を焼くなど暴挙はとどまるところを知らなかった。物部氏側にも「渋川寺」という私寺があったが、廃仏とは、蘇我氏を叩く為の口実に過ぎず、蘇我氏の仏教だけを徹底的に攻撃した。

 

蘇我氏は悔し涙を流したが、戦いが苦手な蘇我氏は物部守屋を恐れて何も手出しできずにいた。物部守屋の強勢に、和国の有力部族長達も恐れをなし、同じ物部氏の者でさえ、守屋を恐れた。

 

蘇我氏の首長だった蘇我馬子も、伝染病にみせかけられ毒殺されそうになってしまった。が、奇跡的に一命を取り留めて生き延びた。

 

蘇我馬子は怒り、今度は逆に廃仏令を出して蘇我氏を追い込んだ元凶である、威徳王敏達の暗殺を謀った。

 

 

蘇我馬子の息の根を止められなかったのは不覚であり、蘇我馬子にとって邪魔な王を殺すことなど、なんのためらいもなかった。実際、威徳王敏達がまだ扶余昌王子だった頃、先の任那の戦では共に謀って、先代の欽明聖王を死地に追いやった。

 

 

「因果応報」

 

 

(今度は、吾が死地にみまわれる番か、、)と、

 

蘇我氏からの暗殺を恐れた威徳王敏達は、百済へと逃げていった。

 

元々高句麗の王子だった威徳王敏達は和国になど未練はなく、和国の王座より高句麗の王座を見据えている。

 

高句麗王の後継者争いで、一族が皆殺しにされてしまった恨みは決して忘れず、なんとしても仇を討ち、高句麗王座について是を雪すぎたい。

 

「和国で蘇我氏などと空しく争っているくらいならば、」と、

 

和国からの高句麗出兵は諦め、百済単独で高句麗と戦うことにした。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

威徳王敏達が去り、

 

再び、和国は王が不在の状態となった。

 

 

威徳王敏達を追い出した蘇我馬子は、すかさず蘇我系の用明皇子を和国王として擁立した。

 

蘇我馬子は、

 

「いなくなった王などに仕えず、今、目の前にいる王に仕えよ!」と、

 

和国の有力部族らに号令する。

 

 

用明皇子は、先代のエフタル族欽明聖王と蘇我馬子の妹の間に生まれた王子で、蘇我一族の血を引く初めての王だった。

 

蘇我氏にとって王は、エフタル族であろうが扶余族であろうが意のまま操れればよく、意に添わない王は暗殺するので、擁立された王は蘇我氏の言いなりである。

 

これに対し物部氏は、物部本拠地である石上の穴穂部皇子を擁立して、蘇我氏の擁立する用明王を断固として認めず抵抗していた。

穴穂部皇子も先々代のエフタル族欽明聖王の王子で、母方が物部氏の血をひき、物部守屋とは義理の親子である。

 

 

蘇我氏は、更に王位をより強固なものとする為、妹の推古王女を女王に立て、今度は用明王と婚姻させようとする。

 

(※エフタル族など西アジア出身の部族では血統を神聖視する為に近親婚が常識で、兄妹婚もあり、より王の血が濃いほど王位は強固となる)

 

 

【挿絵表示】

推古王女

 

物部氏はこれも阻止し、今度は穴穂部皇子が推古王女を抱き込もうとしたが、

 

王女の側近の三輪逆という者が

 

「軍事部族の物部までもが、和国の王権を犯すというのか!」と、

 

これに強く反発した。

 

怒った物部氏と穴穂部皇子らは、

 

「王家を惑わす妖臣を除く!」と鬨の声をあげ、

 

後日、三輪逆の館を襲った。

 

ところが、物部氏は三輪逆をあえて逃がして、追い込むように敗走させ、蘇我氏側の用明王のもとへ助けを求めに行くよう仕向けた。

 

そして、三輪逆を討つ様に見せかけ、ともに用明王を襲撃してしまった。

 

三輪逆は討たれ、用明王は一命を取り留めたが、襲撃された時の傷がもとで翌年587年5月21日に没した。

 

擁立した用明王を殺された蘇我氏は怒り心頭であり、

 

「逆賊、物部を討つ!」と、号し、

 

蘇我氏と物部氏の激突は一触即発の状態となる。

 

頼りとしていた側近を討たれた推古王女は一時傍観するしかなかったが、

 

(物部と穴穂部皇子は許さぬ、、)

 

と、悔し涙を流していた。

 

 

 

和国の覇権をめぐり蘇我氏と突厥側の物部氏の争いは、廃仏の争いから、互いにエフタル族の欽明聖王の血統を立てての天下分け目の合戦へとなっていった。

 

蘇我氏は推古女王を擁立し推古・蘇我連合軍は、

 

587年6月に飛鳥の原で兵を挙げた。

 

蘇我氏は、推古の王子達も戦に参加させ、葛城氏、膳氏らを主力に阿部氏、春日氏など名門部族が加わり、大伴氏などの軍事部族らもこれに加勢して、物部氏を除く和国の有力部族のほぼ全勢力が結集していた。

 

連合軍はまず、物部氏が擁立していた穴穂部皇子の宮を急襲してこれを討ち、翌7月に物部守屋の館へ攻め込んだ。

 

物部守屋は一旦後退し、態勢を立て直すと反撃に転じた。

 

大和川を挟み対峙すると、

 

「軍事部族の物部一族の武勇を思い知れ!」

 

と、次々と蘇我連合軍の部隊を撃退していった。

 

物部氏は和国屈指の軍事部族であり、兵は訓練され強く、寄せ集めの和国部族連合の敵う相手ではない。

 

かつてはエフタル族の大渡王に従い九州勢を倒し、和国統一大戦を勝利に導いた壮強な戦士達の子孫である。

 

その上、物部守屋の戦闘力は、三国に並ぶ者がないほど強力で、突厥の実力者として隋を相手に大陸で大暴れをしていた猛将・物部守屋に対し、和国に対抗できる将は誰一人としていなかった。

 

その物部守屋のもとに、和国最強の軍事部族であった物部氏が指揮下に入り、より強力な軍隊となり、寄せ集めの烏合の衆でしかなかった和国の部族連合軍はとても太刀打ちできず、緒戦以後は負け戦が続いた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

今までは、突厥やエフタル族らが大戦を起こしてきたが、そもそも和国の部族は自分達では、多くの部族が連合した大軍で戦うという大戦をまだ経験したことがなく、その戦い方さえも知らなかった。

 

連合軍を率いる蘇我馬子と弟の蘇我摩理勢の間でも仲間割れが起き、連合軍側は物部軍の三倍の兵力でありながらも進むことも引くこともできず、物部氏を攻めあぐねていた。

 

 

死傷者の数は日増しに増え、参戦していた王子達も負傷してしまい、陣営内は敗戦気分が漂っていた。

 

 

ここで、播磨の突厥勢がやってきて物部軍と合流してしまえば、連合軍の壊滅は必至だった。

 

しかし、絶望的な状況の連合軍のもとへやって来たのは突厥勢ではなく、突厥の「四天王」と呼ばれる猛将ら四将だった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

突厥最大の実力者であった西突厥の王(カーン)が、物部守屋の暴挙を聞き及び、物部守屋を排除する指令を出して、同時に突厥の四天王と呼ばれる四将軍を和国へと急遽遣わしてきたのだ。

 

物部守屋も元は突厥の実力者であったが、野心家で蛮勇を好み行く先々で騒動を起こし続け、突厥が東西に分裂する引き金となった問題のある人物である。

 

和国の王権にまで野心を向けた物部守屋に対し、遂に突厥最大の実力者が怒り、その排除を決めた。

 

四将軍らは、上陸後、戦いが始まってることを知ると、雷の様な速さで進撃し播磨の突厥勢に指令を伝え、連合軍に味方するために戦場へやってきた。

 

敗戦色が漂っていた和国連合軍は突厥の四天王ら猛将の参戦に歓喜した。

 

戦さ慣れした突厥の百戦練磨の四将が参戦し、連合軍について指揮に入ると、寄せ集めの烏合の衆だった和国部族連合は、突如として最強の軍隊に変わった。

 

突厥の将軍らは、和国の者が見たこともない様な【鳴鏑】(かぶらや)を使った。甲高い音の出て飛距離のある矢を信号弾として使い、進軍方向に向け射続けることで戦に不馴れな和国兵達を動かした。

 

突厥の四天王、歩利将軍・大聖将軍・龍神将軍・持国将軍らは連合軍を四隊に分け散開し、それぞれの将軍は戦場を読み阿吽の呼吸で間髪入れない波状攻撃をしかけた。

 

和国兵には

 

「音の出る矢の方向へ剣を抜き駆けよ!敵に遇えばほふれ!」

 

とだけ命じ、鳴鏑(かぶらや)を射続け、兵を手足をのごとく進軍させた。

 

和国の者は、大軍が一斉に動くこのような戦をいまだ見たことがなかった。

 

物部軍の兵らは圧倒的な光景に驚き震え上がり、

 

連合軍の兵達は皆奮い立ち共に戦場を駆けた。

 

突厥の将軍らは、ペルシアの三日月刀を改良し柄に反りを加えた刀を使う。遠心力にまかせ物凄い速さで振り下し和国兵の鎧は役に立たなかった。

 

これも和国の者が見たこともない様な当たらざる強さで、次々と敵を切り裂いていく。

 

物部軍は押しきられて、河内国渋川郡の物部氏本拠地まで後退してしまった。

 

その後、四天王は連合軍を二手に分け主力軍とは別に、軍事部族の大伴氏に別働隊を率いらせて物部軍を挟撃する戦法をとった。持国将軍は主力軍前軍、龍神将軍は後軍を指揮し、歩利将軍は別働隊につき、大聖将軍は弓の名手を集めて敵将を狙撃する暗殺部隊を編制し身を隠した。

 

衛香川で陣を張る物部軍の対岸から、持国将軍と龍神将軍が指揮する蘇我主力軍が攻めて、充分に引きつけたところで横合いから川を渡った別動隊の大伴氏が見事に急襲し、物部軍は撃破されてしまった。

 

大聖将軍の暗殺部隊に、物部氏の傍系氏族である長脛族(アラハバキ)の末裔の迹見赤檮という者がいた。

迹見赤檮は物部守屋を倒す為に、物部を裏切って蘇我氏側にやってきた者で、物部守屋の居所をよく知っていた。

 

 

散を乱して敵兵が逃げ惑う中、的確に物部守屋だけをとらえて射殺した。

 

結局、有力部族の多くは蘇我氏側につき、物部氏側は大敗して、物部守屋は味方の裏切りにより暗殺された。

 

その後、蘇我氏が擁立した泊瀬部が和王として即位したが、王権を誇示しようとしたために、逆に王位を狙う蘇我氏に殺されてしまった。

 

百済の大臣でしかなく和国を任されていただけの蘇我氏にとって、百済王とは別にわざわざ和国の王を立てるということは、将来自分がその王の座につくための一時的な手段でしかなく、

 

和国に「蘇我王朝」の誕生が近づいているかにみえた。





【挿絵表示】

【後書き】この小説を書くにあたって

この小説は、日本書紀には書かれていない巷説の世界観を元にした小説です。

論説では解説や根拠などを加筆する必要があり、結果的に文体が膨らんでしまい、ストーリーが分かりにくくなってしまう為、

日本書紀は、はなから無いものとして淡々と書いています。


また、ややこしいのが人物の名前の多さで、

例えば

舒明天皇は、田村王子、息長足日広額尊、高市天皇、岡本天皇、武王、


中大兄皇子(那珂大兄皇子)は、

葛城王子、キョギ王子、 天智天皇、近江天皇、天命開別尊など、

一人の人物に多くの名前があり、出来る限り一つにして

例えば欽明天皇=聖王などは、【欽明聖王】と合体させて書いています。


凡例
※威徳王(百済名)+ 敏達天皇(和国名)=【威徳王敏達】


古事記・日本書紀に書かれている様に初代天皇から大和王朝が代々続いてきたという建前的な考え方から、操作性のある書物であることが分かってきた現在では、何回かの王朝交代があっと考える方がよりリアルになってきています。

大和王朝の王権を継いで体制を持ちなおした継体天皇ことエフタル族のオオド王に関しては、アカデミズムからも「別の王朝では」と声があがるほどであり、この作品では別の王統の代表例であるエフタル族の時代から書き始めました。



まずストーリーとして把握する為、どのようなトンでも説でも、さらっと書いています。

日本書紀にはない、日本列島を超えた雄大な世界観のアジアの物語としてお読みください。

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