──心地よい風が吹く。
諏訪神社はいつも風が吹き抜ける。茜空とつむじ風に誘われるように目を閉じる。
まだ現世にいた頃、私は前宮から見下ろす景色が好きだった。住んでいる街が見えて、湖があって、そしてお二柱の住まう社を感じる。
あの場所が好きだった。諏訪の地に優しく包まれているみたいで、どこか暖かい。
暖かい場所は好きだ。お二柱のことが好きだ。
ふと、あの子を思い出した。
彼女も不思議な包容力を持っている。似たような安心感がそこにはあった。
それがどこかあの場所に似ていて、だから好きになったのかもしれない。悩みながらも暖かくて、いつだって迷っているけれど、だからこそ優しい方。そんな袖引さんの事が。
髪を撫でつける優しい風が吹く。けど、この風はどこか寂しそうで、悲しかった。
私、東風谷 早苗 奇跡を願ってます。
茜空の下で粛々と清掃を終えて、夜ご飯は何から作りましょうかね、とかぼんやり思考を巡らせていました。
すると、境内に小さい人影が一つ。カエルの被り物をされた神様こと、諏訪子様が空を眺めておりました。
「ねぇ、早苗。随分と今日はゆっくりと掃除するじゃないか。私はお腹が空いてきてねぇ」
どこか芝居がかった口調に内心首を捻りながらも、答えを返します。
「え? でもまだ夕方ですし、夕陽が……あれ?」
そう言えば、どこのくらいここでぼーっとしていたんでしたっけ。夕暮れも、風も冷たくなっていてもおかしくない時期なのに。
そんなことを思いながら、ついつい腕時計を見る仕草をしてしまいます。
「もう夜になっててもおかしくない時間だよ」
まぁ今は時刻も、時分も関係ないけどね。と、ころころと笑いながら空を見つめました。
「ひょっとして……これって異変ですか?」
「ひょっとしなくても、だろうね」
その声を聞くや、色々な用意をする為に箒をほっぽりだし駆け出そうとするやいなや声が掛かります。
「ちょい待ち、早苗」
くいくいと袖を引かれ、立ち止まる。
夕陽に浮かび上がる諏訪子様。それは袖引さんを彷彿とさせるような立ち姿でございました。
「行く前にさ、一つ質問」
長く伸びた影に飲み込まれたように足を止める。敬愛する諏訪子様と目が合います。
「その心当たりについて神託でもあげようってことだよ。既に目星はついている。そうだろう早苗?」
「なんでも……お見通しですね」
異変と聞いて、頭に真っ先に浮かんだのは袖引さん。駆け出して駆け付けてお話を聞こうと思ってました。
その考えが私だけのものだと思っていただけに、見抜かれて悔しい。でも、ほっ、としたのも事実で。
恨みをちょっと込めた視線を向けても、諏訪子様は素知らぬ顔でけらけら笑いました。
「いつから見てきたと思ってんだい。で、どうするつもり? 倒すの? 話すの?」
「それはもちろん……」
いまいち何を聞きたいのかわかりません。異変とあらば巫女が元凶を退治する。というのはここの決まり。けれど、彼女とは友達ですので。
「もちろん倒してから、話します!!!」
意識ある程度までに留めておけばお話も出来ますし、退治すればお二方のためにもなりますので、一石二鳥ですね!!
「逞しくなったねぇ」
変わらずからから笑う諏訪子様。いまいち内心を掴みかねていると、空を仰ぎました。
「早苗。彼女が最初に来たときのこと覚えているかい?」
「最初………わ、私が連れ去ったときのことですか?」
今思えばもう懐かしいとも思えるくらいですが、何故今なのでしょうか。本音はもうそろそろ飛び立ちたいのですけど。あと、恥ずかしい。
「彼女はね、お願いをしたんだよ。それは叶えてやらないといけないものなんだ」
「お願い……?」
何かしてましたっけ。思いつくまえに諏訪子様は振り返ります。
「いいかい? これからやるべきことをよく聞くんだ──」
夕暮れを薄く雲が這っています。夕合いに紫が染みてまだらになる。それを横目に全速力で山を下っていきました。
結局何だったのでしょうか。何を願っていたんでしたっけ? あんまり覚えていないというか、あの時は焦っていたといいますか。
諏訪子様の言葉が頭を過る。
「彼女はさ。こんなに力を持ってはいなかっただろう? 消える気でこれをやってる筈だよ。何かあったのかは知らないけどね」
急がないといけませんね。と、決意を新たにぐんぐんと風を切り裂き、駆け抜けていきました。
胸に残る一抹の不安から目を背けながら。
しばらくすると、遠くに見える三人の影がポツリと浮かぶ。今回の異変の主犯者(決定)たちでした。
「袖引さん!!」
見えるやいなや、すかさず声を張り上げて突進します。何故こんなことをしたのかとか、どうしてそんな状態なのに一言も相談をしてくれなかったのかとか。そんな言葉を掛けようとする。
けれど、それが口に出ることはありませんでした。彼女が振り返ると、こう言ったのです。
「あ、早苗さん。こんばんは。いえ、こんにちはですかね?」
いつものように、本当に日常の一コマのように彼女は笑って手を振りました。
その様子に拍子抜け。そして急ブレーキ。いつも通り過ぎて、胸にある不安や違和感が偽物だとわかり、ほっと胸を撫で下ろしました。
異変の主犯者(疑惑)に語りかけます。
「こんにちは、ですよ。袖引さん」
だからいつものように挨拶をして、いつものように世間話をする。そうすれば、きっと日常が続くと信じられるから。信じたいから。
心配のしすぎだって、笑ってもらおう。そして一緒に解決出来たらそれはきっと楽しいことだろう。
「今日は変な天気ですねー。夕方がずっと続く。こんなこともあるんですね。やっぱりこれは異常で──」
「えぇ、私がそうしてますから」
切れ味のいい刃物が胸を突くように、ひやりと冷たい感覚が体に広がっていきます。
きっぱりと、その日常は終わっていく。そんな予感がして。
「ふふ、知ってますよ! 異変の首謀者め! ここで止めないと退治しますよ!」
それでもやっぱりいつもが欲しかったから、出来るだけ茶化してしまう。
この暗雲が胸に詰まった感覚を私は知っている。現世でも幾度となく感じては気味悪がられていた。
「ごめんなさい。今は倒される訳にはいかないんです」
「ふふふ、目的があるんですね! 冥土の土産です聞きましょう」
聞かない方がいい。聞かないで倒して、それで終わりでいい。決まってこの感覚は悪いときの感覚だから。
聞きたくない、聞きたくない。はやく倒して終わりにしてしまえ、そんな警鐘をよそに彼女は口を開く。
「私はもうすぐ消えるんです。まだ色々と見て回りたい。だから……ごめんなさい」
「き、消えるって、冗談ですよね! もー、そんなこと言っても騙されないんですからねっ!」
お散歩があるから。そんな日常のような一言なのにとてもずれている。もし、彼女が本当に消えるのであれば取り乱さないと不自然だ。不自然なはずなのになんとなく納得が出来てしまう。
あぁ、わかってる。諏訪子様の言葉も、感じていた不安もこれはそういうことだ。
「嘘ではありません。私はここからまもなく消滅します。死ぬ、と言い換えてもいいですね。昼間にそちらにいこうとしてみんなに止められましたから……消える前に会えて良かったです。早苗さん」
日常が、壊れる音がした。
それから内心で取り乱しながらも顛末を聞きます。過去のこと、いまの彼女のこと。まるで世間話の一つのように語っていました。
この非常時なのに、彼女だけが不変で普遍。
袖引さんは何も気負ってなんて無くて、助けも何も求めて無くて。ただただ日常として自分が消えていくことを受け入れている。
それを否定する言葉もこの前まで女子高生だった私には持ち合わせておらず、何て言葉を掛けたらいいのか、私にはわかりませんでした。
言葉に詰まり、足も止める。なんとか継ぐ言葉を考えていると、目の前には小傘さんの姿。
「袖ちゃんは急いでるの。悪いけれど、ここは私が相手するわ」
決意のこもった目が私を射抜く。左右色違いの瞳が夕陽を取り込んで煌めきます。
引いてくれそうな雰囲気は無く、ただただ立ちふさがる。やるしかないことは一目瞭然でした。
けれど、これでお別れにはしたくなくて、袖引さんに語り掛けました。
「──ねぇ、私は楽しかったんですよ」
彼女の頑固さはよく知っています。行かないでといっても止まることはないでしょう。今、私に出来ることは多くありません。
「早苗さん……」
「知り合って、色々あって。あなたのおかげでここに馴染めました。あなたがいたから楽しかった、本当に感謝しているんです」
ねぇ、袖引さん。馴染めない私を引っ張ってくれたのはあなたでした。ここで、どうやって笑えばいいかを見せてくれたのはあなたでした。
止まって欲しいと素直に思う。けれど、時間は止まってはくれはしません。時間は誰にだって平等で残酷なもの。置き去りにされた夕暮れだけが、駄々っ子のようにここに残るだけでした。
戸惑うように止まる彼女を、フランちゃんが促します。
「袖ちゃん! 行こう。時間がないよ」
フランちゃんがぐいぐいと引っ張るのを、袖引ちゃんは優しく引き剥がし、こちらを向きます。
夕空の下、いまだけはここには私たちだけ。そんな気がして。
「早苗さん」
「……はい、なんでしょう。袖引ちゃん」
「私も楽しかったです。本当に会えて、今日ここで会うことが出来て、よかった。どうかどうか……お元気で」
ぐっ、と奥歯を噛みしめ、口元を覆う。そうしないと涙が流れてしまいそうで、崩れてしまいそうで。
また明日、なんて言いそうなくらいな気軽さで彼女は飛びさって行きました。それをぼんやりと眺めます。
いつまでやってたのかわかりません。ただ、突然の声とともに我に返りました。
「ねぇ、早苗?」
「なんでしょうか」
「これからどうするつもり?」
小傘ちゃんからの問いかけ。もちろん答えは決まってます。ぐしぐしと涙を拭いて答えました。
「──追いかけます。追いかけてどうにかします」
「頼もしいね」
奇しくも諏訪子様と同じような答え。
「けどね。あなたじゃ無理。ううん、私でも他の人でも」
「そんなことっ、は……」
白くなるほど握り締められている右手が目にはいってしまって、言葉は尻すぼみに。
静かに首を横に振る彼女。
「袖ちゃんはね、諦めてる。傷ついて、悩んで、消えることを受け入れてる」
何かを飲み込むように、ぐっと堪えながら彼女は言いました。
「妖怪か、神か、袖ちゃんは選ばなかった。ううん、選べなかった。変わることは彼女にとって失うことだから」
早苗、と小傘ちゃんは言う。
妖怪はね、精神に左右されるの。消えたいと思ってしまえば、もう引き返せない。小傘は呟く。
「だから、私は私の役割を果たすわ」
そうやって戦闘体勢に入る小傘ちゃん。
淡々とした物言いにむっ、としてしまい思わず食って掛かりました。
「あなたの役割ってなんなんですかっ!? だって、だったら、袖引さんの側にいてあげたほうが!!」
「──っ!? そんなの……そんなの、わかってるよっ!!!」
図星を刺されたかのように顔が歪み、唇を噛み締める彼女。ついには堪えたものが決壊し叫びが夕焼けに木霊しました。
「私が側に居たくないと本当に思ってるの!? 私が袖ちゃんを助けたいのっ! でも、それは私でも、あなたの役割じゃないのっ!!」
堰を切ったように流れた涙と、感情のままに叩きつけられる弾幕。スペルカードがかざされて光弾が目の前を埋め尽くしました。
「救うのは……私でも、あなたでもないっ!!!」
悔しさを吐き出すように、悲しいとわかっていながらもどうしようもないように声が木霊する。
「──救うのは、袖ちゃんを止められるのはっ!!!」
悲しいほどに赤い夕焼けが私たちを照らし出す。
「魔理沙なのっ!!」
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