――私の名は、イルゼ・ラングナー。第34回壁外調査に参加。第二旅団最左翼を担当。帰還時に巨人に遭遇。所属班の仲間と馬も失い、故障した立体機動装置は放棄した。……北を目指して走る。
――そう、走っていて――巨人に遭遇してしまった。
馬の走力が無ければ……、人間の足では 到底巨人から逃れる事は出来ない。だから、死を覚悟した。最後まで、決して屈しない。それだけを胸に。……起きている事の全てを紙に書き記すだけだった。
――そして、予想外の事が、驚くべき事が、何度か起きた。人間を食う事しか頭に無いとされていた巨人が、言葉を発したのだ。そればかりか、表情を変え、姿勢も変えた。……意思を通わす事が出来る可能性もあった。……巨人は 私、イルゼに敬意を示したのだ。
――だが、それも長くは続かなかった。私自身の罵声に苛立ったのか、或いは『ユミル』と言葉を発した事から、私自身が『ユミル』ではない、と気付いたのかはわからない。突如、豹変し襲い掛かってきたのだ。 うめき声をあげ、自らの手で目元の肉を引き千切り、まるで血の涙を流しているかの様にさせながら……襲い掛かってきた。
――人間の足では、到底巨人には敵わない。……逃げる事も、敵わない。直ぐに私は捕まり、片足、片腕を握られた。……そのまま、大きな口を開く。私は、悲鳴を上げながらも、懸命に抗おうとしたが、巨人の力にはまるで無力だった。大きな口が、私の頭を………。
――私は、死んだのだろうか。だが、死んだのであれば、何故 今を紙に記す事が出来るのだろうか。何故、戦いを続けられているのだろうか。私は、今本当に混乱しているのがよく判る。自分自身が正気ではないのではないか? と自問自答を繰り返してしまう程だった。
――そう、だ。もう1つあった。本当に予想外の出来事。今回の作戦で、最重要な出来事。……目の前で、眠っている男だ。この男は突如現れた。……何処から現れたのか、判らなかった。それに身形をみても明らかにおかしい。この壁の外で そんな服装で、……兵装で、人間が生きられる訳がないからだ。
――だが、驚くべき所は、武器も兵装も無く……、立体機動装置も無く、壁の外側で生き残っている、と言う点ではない。そう、私が今 生きている理由に直結する。
――死を待つだけだった私に時間が……出来た。折れた腕でこうやってペンを走らせ、記せている理由は……目の前の男のおかげなのだから。男は、私と大差ない体躯だというのに、その小さな人間の拳で、あの大きな巨人の身体を吹き飛ばした。一度だけではない。二度、三度、四度……と、何度も何度も。
――男の戦いぶりは、人類の怒りを、虐げられ、殺され続けた人類の怒りをそのまま体現してくれている様にも私の目には映った。……でも、何度も倒している理由は単純な事だった。倒しても、倒しても、巨人は起き上がってくるから、攻撃をし続けなければならなかったんだ。途中で、叫んでいた事もあり、間違いないだろう。……巨人は、急所を抉らなければ、何度でも傷を再生して、襲ってくるのだから。
――だから、私は巨人の弱点を教えた。絶命させる事が出来る部位を、男に教えた。すると――、どうだろうか。男は笑みを浮かべていたのだ。私に対して、『ありがとな』と言ったのだ。命を救われたのは私の方だというのに、男は私に対して、礼を言っていたのだ。
――それからは、本当にあっという間だった。男は巨人をうつ伏せに倒して、弱点であるうなじ部分を、削いだ。全て拳と脚。生身の身体で、行った。
――紛れもなく、人類史上でも類を見ない力の持ち主だという事は判った。……人類最強の兵士リヴァイ兵士長よりも――。だが、楽観的に考えてはいけない。様々な可能性を考え尽さなければならない。……何故なら、判らない事が多すぎるから。
――この目の前の男が……、もしも、《人間の振りをした巨人》だとしたら……? 巨人には判らない事が多すぎる。でも、さっきの6m級の巨人とは確かに言葉を交わす事が出来た。奴らには未知の力が隠されているに違いない。巨人の力を身に窶したまま、人間の姿になる事も……出来ないとは言えない。
――ならば、私は人類の為に、どうするのが良いのか。目の前の男が、本当の脅威かもしれない可能性を捨てきれない事実に目を瞑ったままで良いのだろうか。……この男と、共にいても良いのだろうか。或いは……今、ここで…………。
それは、イルゼのペンが動きを止めたのと、殆ど同時だった。
「ん……んー……」
先程までは、小さな鼾、そして吐息だけが聞こえてきていただけだったのだが、目元を擦って、ゆっくりと起き上がったのだ。
「あれ……? 寝てないのか。大丈夫か? 結構疲れてると思ってたんだが」
目をはっきりと開けた彼は起きているイルゼを見て、書き記し続けてる彼女を見て、そう言っていた。その言葉の意味は、イルゼははっきりと分かる。彼の正体は判らずとも……、彼は自分の身を案じてくれている、と言う事が。
「い、いえ……。目が冴えてしまってて……眠れそうに無いんです」
「………ぁぁ。成る程な。確かにそれもそうか」
ひょいっ、と身体を完全に起こすと、首をぐるり、と回してコキコキっ、と鳴らせながら、聞く。
「オレ、どれくらい寝てた?」
「ぁ……、その、詳しくは……。多分、1時間くらい…だと」
「あー、悪い。こんなとこで時間なんか判らないか。……よし、とりあえず 身体は何ともないな。……あれだけ動いたんだから、滅茶な筋肉痛ぐらい覚悟してたんだが」
身体を動かして、何処も異常がない事を確認した。その後にイルゼの方を見た。
「見様見真似な応急措置だが、大丈夫か? 腕と脚は」
「あ、は、はい。大丈夫です」
「無理はするなよ。診断は出来ないが、……折れてるだろ? それは」
イルゼの、青紫色になった腕と脚を見て、そう言う。
「はい。……確かに折れてると思いますが、大丈夫です。その、訓練で……これくらいの傷は何度もあった事、なので……」
「そうか。だが、無理はするなよ? それに、色々と聞きたい事が山の様にあるんだ。休める内に休んでおいた方が良い。……あ、そーだった」
何かを思い出した様で、男は指をさしながら、聞いた。
「さっきの様なでっかい奴の話は、早めにしときたい……。この木の高さ程あるヤツもいるのか? 異常な高さの木が並んでるけど。……30mくらい?」
少し表情を引きつらせながらそう聞いた。
如何に彼であっても、それ程の大きさの巨人は相手には出来ない、と言っている様にも聞こえた。
「いえ、大丈夫……だと、思います。巨人は、大きい者で15m程までしか確認されてないので。……木の下を通る時、物音を立てなければ、安心かと……」
「あー、そっかそっか。ありがとな。ちょっと疲れたからって、肝心な所を訊かずに寝たのはやばかったな。……寝込み襲われたら終わりだな」
苦笑いをしている。そして、つづけた。
「オレは、曰く抜けてるトコも多いみたいなんだ。悪いが、変なトコがあったら指摘してくれ」
「え、えっ? えっと……変なトコ……と、言われても……」
「あー、でも 容姿とか、服装とかは無しな。ぜんぜん自信ないから」
「よ、ようっ!? そ、そんな事は言いませんよっ!?」
「そっか? ならオレ、結構イけてる?」
「え……、い、いや、その…… わ、わたしは……」
「……そんなに真剣に考えなくても。軽いジョークだ」
「あ……、そ、そうなんですか……。あ、あはは……」
少しだけ、笑みを見せたイルゼを見て、また軽く笑った。
「よし。笑ったな」
「……え?」
「ずっと緊張してるのか、表情が硬い様に見えたからな。……状況が状況だから、仕方ないかもしれないけど。少しでも落ち着けたら、と思って。その方が話もし易いだろ? まぁ、苦笑いでも、硬くしてるよりは良いと思うし」
両手を上げて、そういう。
敵意は無い。……敵ではない。そういっている様にも見えた。そもそも、敵であるのなら、命を助ける理由なんか、無い筈だから。
「……その、まだ……ちゃんと、言ってませんでしたね」
イルゼは、手帳の最後の一行部分を、何度も何度も擦って消した。
「本当に、ありがとうございました。命を……、命を救ってくれて……」
「良いよ。君は、本当に運が良かった」
運が良い。
それは、間違いない事だ。元々、彼ははじめは逃げるつもりだった。……あの巨人に戦いを挑むなどと。……ハダカも同然な身形で、戦いを挑むなどと、バカげている。ゲームで言えば、装備無し、道具もなし、レベル上げもなしで、ボスに挑む様なものだから。
本当にたまたま、どういう訳か、自分自身に異常な力が備わっていたからこそ。……今はなぜか聞こえない変な声の主が発破をかけてくれたからこその行動だった。それらの奇跡が備わって初めて、救えたんだから。
「……あなたは、本当に優しい方、ですね」
「優しい、か。……」
上記の件があったからこそ、目の前の女性を救う事が出来た。行動が出来た。もしもなければ間違いなく逃げていた。……何故か力を持っていたから助けたんだ。持ってなかったら、助けにすらいかなかったと思う。……これが、本当に優しさなのだろうか。
「あ。私の名は、イルゼ・ラングナーです」
でも、笑顔に戻った彼女を見て、今はそれ以上考えるのは止めた。
以前の世界の様に……助ける事が出来て。
ろくでなしが……、人を救った。救う事が出来た。と言う事を喜ぼう、と。
「オレは大神 晃だ」
そうして、互いに自己紹介を終えた少し後に、イルゼは スイッチが切れたかの様に、眠りに入ったのだった。