「さて。人も揃ったことだし、話始めようか」
職員室での一悶着の後、本題を思い出して滝先生と校長室へ戻った。
マサさんから何か言われるかと思ったが、「何かあったの? まあいいや」と流れるように流された。これからされる話は恐らく、話す前後に何があろうがどうでもいい程重大な話なんだろう。さっぱり見当が付かない。
目の前のテーブルに英語が羅列された資料が置かれる。文字を認識する前に言われた。
「篤。うちの楽団に来ないか?」
「……え?」
真っ直ぐな声音で告げられた言葉は思いもよらないことだった。
楽団? うちのって、マサさんがいる世界トップクラスの? なんだってそんな話になるんだ。
「この一ヶ月ちょっとキミの演奏聴いてて思ったけど、その才能は高校で終わるにはもったいない。楽団に入って、プロの世界で、もっと思い切り音楽をやらないか?」
実力重視の世界で思い切り。それに勝る甘美な文言はない。だが、
「ま、待ってください。いきなり言われても。その、今までまったく考えてこなかったことですし」
「プロの世界でやっていけるか不安、じゃないんだね」
「まあ、そうっすね」
ぷっと吹き出される。いや俺それどころじゃねえって。
「滝クンから聞いたけど、進路、取り敢えず大学行って就職してって感じなんだろ? 音楽の世界に身を置く人間として、キミの才能を埋もれさせたくはない」
ありがたいことを言ってくれてるんだろうが、前半が引っかかる。
「滝先生?」
「すみません。話すのをうっかり忘れていました」
ジト目で先生を向くと申し訳無さそうな顔をされた。
知られたからどうこうってことは何もないが、せめて一言言って欲しかった。つーか教員が生徒のそういうの勝手に話していいのか。進路関係だし俺はいいけどね。滝先生だし。
「橋本先生。黒田くんに詳細を」
「はいはい。始めに言っておくけど、これはスカウトじゃない。ボクの個人的なお誘いだ。こんな大層な所に来てする話じゃない。ただまあ、筋は通しておこうと思ってね。篤の実力なら、この話を受けることと入団内定はほぼイコールで結ばれるから。資料見てくれる?」
いくつかある資料の中から、マサさんが「コレコレ」と言ったものを抜き出す。A4の紙が数枚ステープラーで止められているだけの簡易的な冊子だ。
日本語の文章より少し時間がかかったが、流し読みで要旨は把握できた。入団試験の案内要項らしい。
これによれば、現在一次試験が行われている期間……って、
「今年の試験、もう始まってるじゃないですか」
「説明なしでなんで内容わかるのかは置いておいて。そう、今年の試験はもう始まってるんだよ。次にチャンスがあるのが来年とも限らない。もしかしたら五年、十年。或いはそれ以上先かもしれない」
この人の話に乗ったら俺は社会的にダメ人間になるんじゃないだろうか。心の天秤は依然としてプロの道に傾かない。
俺の疑いの視線もなんのその。訥々と説明を続ける。
「そこでボクの出番だ。篤が二次試験から参加できるよう話を通す。説得材料として、演奏の様子を撮影するぐらいはさせてもらうけど」
「なんかコネ感が強いんですけど」
無条件で一次突破してるようなもんだし。
「それを吹き飛ばすだけの演奏すればいいんだよ。得意だろ? 実力で捻じ伏せるの」
「いや言い方」
そして何故わかった。得意中の得意だから実力主義万々歳だよ。
いや、つか待ってくれって。いきなりプロって。今までまったく考えたことない道だから流石に動揺している。RPGでマップの見取り図出来たと思ったら未開の地を見つけたみたいだ。
突然可能性って道が見えて、驚いて、でもちょっとおもしろそうだ。
だけど踏み出す理由が見つからない。理由なしに飛び込めるような世界じゃないだろ、プロの世界なんてもんは。
マサさんからいろいろと説明を受けながら、頭の片隅でずっと考えた。
俺はプロになりたいのか? 音楽を仕事にしたいのか? これで食っていきたいのか?
迷う。ぐるぐると。もやもやと。うろうろと。
「今答えを出せなんて言わない。今じゃなくていいから、こっちに来るでも来ないでも、近いうちに教えてほしい」
「はい」
「黒田くん、今日、部活はどうしますか?」
突然こんな話を聞かされた俺を案じてくれているんだろう。
「出ます。パート練が主ですし」
「わかりました。無理はしないようにしてください」
「はい」
――――――――――――――――――――――
「話、聞く?」
「ああ。よろしく」
部活後の帰り道。なんとなく晴香と帰る流れになった。お互いのこと、多少わかってるからなあ。
晴香が知っている――俺がいない間に部内で駆け巡った――話を伝える方が優先度が高いと判断したんだろう。様子見をすることもなく、すんなり尋ねられた。
「あすかのお母さんが職員室に来て、あすかが部活を辞めるかもしれないって噂でみんな動揺してた。黄前さんが何か知ってるらしいからって訊きに行く人がいたけど――」
じっと見られる。うん。まあ、意味はわかってる。けど、の後も大体。
職員室から出て校長室へ向かう前、久美子と少し話しをしたのだ。今見たことを誰かに言うな。知ろうとするやつがいれば俺の名前を出せ、と。あの失言女王のことだ。尋ねた者には漏れなく、俺に口止めされていると言っているんだろう。
鼻から短く息を吐き、渋面を浮かべて顎をさする。
「俺、そんな恐い?」
「あすかのことだとね」
む。認めるが、ちょっと足りない。
「晴香のことでもこんなんなるっての」
「ほんとに?」
「遊んでる?」
「あすかには負けると思ってる」
あすかには負けるって、お前俺の彼女だろ。
「俺が悪いのか?」
「え?」
「いや、あの、もうちょっと伝わってるもんだと思ってたから。晴香のこと、大事だって。だから、その、」
何と言えばいいんだろう。わからないけど、俺が何か言わなきゃいけない。口をパクパク動かして、続けて喋る意志を出す。
いつの間にか足が止まって向かい合う。晴香は少し困ったような、しょうがないなあって言うような笑顔で待っていてくれている。
酸素を取り入れ頭を回す。口も回る。
「ちゃんと伝わるよう、努力します。上手く出来ないと思うけど、それでも頑張るから。嫌んなったら別れてくれ」
「嫌になったらって、どっちが?」
「言ってるだろ。晴香が俺のこと嫌になったら」
「篤は結構臆病だね」
「晴香にしか言われねえよ」
「じゃあ私以外に言わせないでね」
「晴香は結構独占欲強いよな」
「言われたことないよ」
「じゃあ知ってるの俺だけだ」
交わす言葉は甘い甘い快楽物質。さて、ここに浸ってもいられない。あいつのことがある。
「そっち、野次馬以外に何かあったか?」
「ううん、噂で動揺してるだけ。ねえ、篤はなんで職員室にいたの? 部活前の用事って呼び出し?」
「まあ、そんなとこだ」
呼び出された先がまさか校長室だとは思うめえ。
「どうしたの、って聞いていい?」
う、と言葉に詰まる。言っていいのか? まず言う必要があるのか? いつかは言う。いつかは言うが、今じゃないだろう。俺の中で答えがまだ見つかっていない。それに、あすかのことでてんやわんやになるであろう晴香に、俺個人の余計なものを与えたくない。
だから今はこう言っておく。今の俺が伝えられるだけの誠意。
「そのうち、ちゃんと言うから」
「わかった。待ってる」
「ありがとう」
さっさと考えなきゃな。ゴールまでは遠そうだ。