声を失った少年【完結】   作:熊0803

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ついに、ついにここまでやってきました。

書きたいことが多すぎて、経過報告調が多くなっております。

それでも必要なことは書けた……のかな。

ともあれ、これが最後の話。

楽しんでいただけると嬉しいです。




100.声を無くした少年はーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………………………どれだけ、そうしていただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に目を瞑ってから、ずっとそこにいる。

 

 右も左も、後ろも正面も、それどころか自分が座っているのかさえも不明瞭な、先の見えない暗闇。

 

 出口などないその場所で、俺は何かを待っている。

 

 

 

 いや、何かから目を背けて逃げているのだ。

 

 

 

 それでもいい。逃げることには慣れている。諦めることにも、独りでいることにも。

 

 だから、待とう。何かもわからないその何かが、いつかやってくるまで。

 

「残念だけど、それはお勧めできないかな」

 

 とっくの昔に、忘れた声で話しかけられた。

 

 膝に埋めていた顔を上げると……そこにはとても醜悪な小鬼が立っている。 

 

 黒い筋の浮かんだ赤い肌、ボサボサで伸び放題の髪の間から伸びる片方だけの角、病院服のような格好。

 

 醜悪な姿をしたそいつは、微笑みながら紫と青の目で俺のことを見下ろしている。

 

「……お前、オクタか?」

 

 問いかけて、驚いたことに驚いた。

 

 なぜ驚いたのだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ああ、そうだとも。君を迎えに来たよ。さあ、行こう」

「行くって……どこにだよ」

 

 訝しんで問いかけると、もう一人の俺(そいつ)は笑って俺の手を取り、立ち上がらせる。

 

「君の帰るべき場所へさ」

「俺の……?」

 

 手を引かれるままに、暗闇の中を歩き出す。

 

 相変わらず正面がどっちかもわからないのに、オクタは迷いのない足取りで俺を連れて行った。

 

 ……まあ、いいか。ただ待っているのも退屈だし、こいつに付き合おう。

 

 そうしてなされるがままになっていると、やがて暗闇の向こうに何かが見えてくる。

 

「──っ」

 

 ……それに近づくにつれて、どうしてだろうか。懐かしさが胸の奥からこみ上げてきた。

 

 一歩近づくごとに胸中で膨らんでいくその思いとは裏腹に、それまで腰を曲げていたはずなのに目線が下がっていく。

 

 やがて、そのドアの前にたどり着いた。シミと汚れだらけな、古いアパートのドアに。

 

「さあ、ここからは一人で行くんだ」

「でも……」

「君も知っているだろう? 僕は君の願望、単なる補助。進むべき道は、君が決めなきゃ……ね」

 

 そう言い残し、オクタは暗闇に溶けた。

 

 鬼の手が消えるのを見届ける。その後に、躊躇いがちに自分の手をドアノブに伸ばした。

 

 ゆっくりと、軋んだ音を立てて年季の入ったドアが開いていく。

 

 そして、その向こうにあったのは──

 

「あ……」

 

 入ってすぐの台所に、誰かが立っていた。

 

 床に届きそうな髪。女性らしい曲線を描いた後ろ姿に、やや不規則に響く包丁の音。

 

 その人を見て、思い出した。ここはどこなのか。そして彼女は誰なのか。

 

 だから俺は駆け出して、女性の腰に思い切り抱きついた。

 

「……ただいま、()()()

 

 ここは、八富(おれ)の家だ。

 

「    」

 

 その人は……母さんは俺の頭を、やっぱり不器用な手つきで撫でる。

 

 危ないからというように、母さんが居間の方を指差した。

 

 それに従い、離れて居間に行く。そして小さな机の前に置かれた、古ぼけた座布団に腰を下ろした。

 

 室内を見渡せば、少し傾いたタンスや、木組みの小さな勉強机や、布団をしまっている、シミのついた襖がある。

 

 全部記憶の通りだ。ここは俺が母さんと一番長く暮らしていたアパートで……最後の隠れ家。

 

おかえり

 

 懐かしんでいるうちに、母さんが料理を終えてやってくる。

 

 テーブルに置かれたのは、やや焦げ目のついた卵焼きと、焼き鮭と、漬物のきゅうりと、一杯のご飯。

 

 お決まりのメニューを前に、隣に座った母さんと一緒に手を合わせる。

 

「いただきます」

いただきます

 

 久しぶりなような、懐かしいような気分で箸を取る。

 

 最初に食べたのは、いつも通り焦げ目の目立つ卵焼き。

 

 口に入れると、少し焦げのジャリッとした感触がして、その後に甘い卵の味が口の中に広がった。

 

 母さんはあまり料理が得意じゃない。

 

 でも、不器用そうに一生懸命作ってくれたこの味が俺は好きだった。

 

 まあ、味の繊細さで言えば■■の方が……………………あれ? 

 

どうかした?」

「あ、ああ」

 

 ……今、誰のことを思い浮かべたんだ? 

 

 頭の中によぎった誰かの名前に、まあすぐに思い出せないあたり重要なことじゃないのだろうと結論づける。

 

 母さんのご飯を味わって、食べ終わると一緒に皿を洗う。

 

 それから母さんと一緒に本を読んで、昨日やったところの復習をして……いつも通りの日常、のはずだ。

 

 どこか、何かが違うと俺の心の奥底が訴えかけてくる。

 

 おかしなことなど、一つもないのに。

 

「……なあ、母さん」

なに?」

 

 振り向いて話しかけると、家計簿をつけていた母さんは顔を上げて俺を見る。

 

 いっつも変わらない無感情な、でも綺麗な母さんの青い目を見て、俺は意を決して言った。

 

「俺は、このままでいいのか?」

 

 そう聞けば、ピタリと母さんの動きが止まって。

 

 少しして動き出すと、自分の顎に指を当てて考え込む。

 

おいで

 

 しばらくして、何かを考え終わったのだろう。

 

 手招きする母さんに、机を離れて歩み寄る。

 

 近づくと、母さんは両手を広げた。寝転がって膝の上に頭を乗せる。

 

 母さんはぎこちない手つきで……それでも前に比べるとマシになった……頭を撫でてくれて、それが心地よかった。

 

何かあったの?」

「……何か、ってわけじゃない。でも、このままじゃいけない気がした」

 

 いいや、このままでいいはずだ。

 

 

 

 母さんと二人、俺たちを付け狙う奴から逃げ続けて、そうやって助け合いながら生きていけばいい。

 

 

 

 ──違うだろ。いい加減目を覚ませよ。もうお前は八富じゃない、他に果たすべき約束があるはずだ。

 

 

 

 それをして何になる。いつか裏切られるかもしれないんだ。だったら、ここに安住していればいい。

 

 

 

 ──それは欺瞞だ。できないとわかっていて、それでもできると虚勢を張ることは悪に他ならない。

 

 

 

 それでもいいじゃないか。現状維持万歳、母さんがいるなら、誰に理解されなくったって構わない。

 

 

 

 ──口から出まかせとはよく言ったもんだな。だったら何で……そんな辛そうな顔してんだよ。

 

「え?」

 

 母さんの手が、俺の頬にあるものをすくい上げる。

 

 それは涙で、父さんが俺たちのために死んだときからずっと、俺から欠けたと思っていたもの。

 

 目を見開く俺に、母さんはそっと……さっきよりも、さらに優しく俺の頭を撫でる。

 

悲しいの?」

「……悲しいもんか。母さんがいるのに、悲しいはずがない」

 

 嘘だ。

 

苦しいの?」

「苦しい? そんなの、とっくの昔に捨てた感情だよ」

 

 嘘だ。

 

じゃあ寂しいの?」

「……っ。寂しく、なんか」

 

 ……これも、嘘だ。

 

もうわかっているでしょう?」

「わかってる、って、何が……?」

 

 怖いと震える心を押さえつけ、母さんの顔を見上げる。

 

 母さんは、あくまで優しい顔で言うんだ。

 

ここは貴方のいるべき場所じゃないと

 

 ここはもう、俺の居場所じゃない……って。

 

 

 

 ……ああそうさ、わかってたよ。

 

 ここは俺のいる場所じゃない、ただの通過点だ。俺の未練が形をとっただけの、記憶という名のフィルムだ。

 

 それでも、そうだとわかっていても目を背けていたかった。

 

 だってそうすれば、母さんはずっとここに……

 

「……母さん」

なに?」

「母さんは……俺が息子で、よかったのか?」

 

 母さんは、また少し動きを止めて。

 

 それから、とびきり優しい顔で笑ってくれた。

 

「……そっ、か。なら、もういいか」

 

 

 

 終わりにしよう。この嘘を。

 

 

 

 ゆっくりと目を瞑ると、母さんが眠気を誘うような手つきに撫で方を変える。

 

 

 

 その凪ぐ風のような心地よさに、俺はたゆたう意識をもう一度暗闇に任せて──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──いつでも見守っているわ。だって私は、あなたのたった一人の母親ですもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それきり、母さんの声は聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

 

 

 チリン、と鈴の鳴る音が聞こえる。

 

 

 

 

 

「ニャー」

 

 続けて、何かに頬を叩かれる感触。

 

 プニプニとしてて、暖かくて、何度も実家でカマクラに押し付けられたそれは……

 

「……?」

 

 ゆっくりと、目を開ける。

 

 最初の景色は真っ白で、徐々に視力と思考力が回復していくと、それが部屋の天井だとわかった。

 

「ニャー」

 

 そこへ私も忘れるなと言わんばかりに、再び猫の肉球が押し付けられた。

 

 錆び付いたような首を動かすと、そこにはつぶらな青色の瞳。

 

 猫の中でも美形と言える白い顔立ちによく映えるその瞳は、母さんの青みがかった目を彷彿とさせた。

 

 俺はこの猫を知っている。というか毎日洗面所で挨拶してるのだ、見間違えたら猫を飼ってるやつの風上にも置けない。

 

 こいつはリエ、俺たちが……正確には雪乃が飼っている猫だ。

 

「…………?」

「ニャン♪」

 

 なんでここにと思いながらも首を擦ると、リエはゴロゴロと機嫌良さそうに鳴く。

 

 俺が目覚めたことで満足したのか、しばらくするとリエは体の上から降りてどこかへいった。

 

 少しだけ力の戻ってきた体を持ち上げると、近未来的なドアが開き、リエがそこから出ていく。

 

「おや、君は雪ノ下嬢の……ご主人の様子はどうだったかね?」

 

 廊下の向こうから知人の話し声が聞こえた。

 

 その声の主と、あの扉と、改めて見ると見覚えのあるSFチックな病室に、なんとなく状況を理解しはじめる。

 

 そんな俺に正解とでも言うように、リエを腕の中に抱いたドクター津西が部屋の中へ入ってきた。

 

「…………」

「ん? おお! これは驚いた! 本当にお目覚めじゃないか!」

 

 ……この距離なのにうるせえ。相変わらず態度と同じくらい声のでかい人だな。

 

 もう呆れ顔を浮かべるくらいには見飽きた笑顔を浮かべ、ドクター津西はこちらに歩み寄ってくる。

 

「気分はどうかね? もう完全に体は再生しているはずだが」

「──」

「ん? ああ、新しい発声装置と接続できていなかったか。ちょっと待ちたまえ」

 

 ポケットからスマホサイズの端末を取り出して、何かを操作するドクター。

 

 思わず首を傾げていると、パチリと喉に静電気のような感覚が走った。

 

 思わず触ると、そこには何かがくっついている。場所的には普通なら声帯のある辺りだ。

 

「話してみなさい。使い方は旧型と同じだ」

『……あー、あー、あー』

 

 何回か「あ」を繰り返していくと、首輪の時に設定していた、本来声帯がある状態での声になっていく。

 

『なんすかこれ、すごいっすね』

「はははは、そうだろうそうだろう? それは君の使用データを元に、改良に改良を重ねたものでね、体温で肌に吸着して……」

「はい、ストップです。覚醒したばかりの怪我人にまくしたてないでください」

 

 後ろから頭を叩かれるドクター。下手人は案の定池田さんだった。

 

 相変わらずこの人たちは変わらないな……いや、そもそもあれからどれくらいの時間がたった? 

 

 最後に覚えているのは、全身を包み込む炎の熱。全身を焼き尽くされ、俺は……

 

『池田さん、ドクター、俺は……』

「どれくらい眠っていたかって? そうだね、かれこれ三年ほど……」

「やめなさい。比企谷くんが絶望してるでしょ」

 

 二度目のツッコミ。今度は池田さんが珍しく私語でチョップした。

 

 さっきまでいた暗闇のどん底に突き落とされていた俺はそのリアクションで冗談だとわかり、ドクターを睨む。

 

「失敬失敬、ほんの数週間程度さ。ついからかいたくなってね」

「もう……そういうことだから心配しないで、長くは眠っていないから」

『はぁ……それならいいんですけど』

「納得してくれてよかったわ。あとでこの馬鹿にはきつくお灸をすえるから」

「馬鹿とは失敬だね君ィ、私ほどの天才はそうは……」

「はいはい、さっさと検査始めるわよ」

 

 いつもの調子に入ろうとしたドクターを軽くいなし、俺の身体検査を始める。

 

 池田さんがバイタルチェックの機器と連動した端末を操作するのを、リエの背中を撫でながらぼうっと見る。

 

『……あ、そういえばみんなは』

「安心したまえ、しっかりと全員帰還しているよ」

「落ち着いたら会うといいわ。みんな比企谷くんが目覚めるのを心待ちにしていたから」

 

 そうか、あいつらちゃんと生きて帰ったのか……あんな真似したんだ、生きてなきゃ困る。

 

「それにしても、よく思いついたねえ」

『なんのことですか?』

「君の機転の話さ。まさかブレードの交換用に持たせていたナノマシンを、壊れたバックパックと接続してヘルメットの材料にするとは」

『……はい?』

「おかげで頭部だけは守られて、私たちが回収できたの。もしそれがなかったら、今も比企谷くんは宇宙の中で肉片の状態で漂っていたわ」

 

 ……そんなことしたか? 

 

 あの時は材木座を乗せた自分に酔って、なんか色々恥ずかしいことを考えてた記憶しかない。

 

 そもそもバックパックの中のヘルメットのデータがまだ使えるなんて知らなかったし、ナノマシンのことも忘れてた。

 

 と、すると……

 

『……またあの女か』

「何か言った?」

『いえ、なんでも。ところで今日は帰れるんすかね?』

 

 二人は顔を見合わせ、それから珍しく揃った笑顔で俺に頷いた。

 

「ええ、大丈夫よ。見たところ投与し直した抑制剤も効いているし、バイタルも問題ないわ」

「そもそも、君は一週間前からただ眠っていただけで、あとはいつ目覚めてもおかしくない状態だったのでね……それに、こういうのは私の柄ではないが」

「?」

「会いたい人も、いるだろう?」

 

 ……本当に、驚いた。

 

 奴が生きていると知った時と同じか、それ以上の驚愕とともにドクターの顔をガン見してしまう。

 

 すると、なんかドクターがモジモジとし始めた。この人が顔赤らめてると怖いな。

 

「そ、そんな顔で見ないでくれたまえ」

「似合わないこと言うからですよ」

「う、うるさいなぁ! 早く仕事をしたまえ助手クン!」

「はいはい。ふふっ」

 

 ……やっぱり、なんだかんだで仲良いよなぁ。

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

 

 

 諸々の検査を終えて、俺は今自転車を漕いでいる。

 

 

 

 

 向かうのは実家でも、今の家でもない。というかもう実家には行った。

 

 小町は体育祭の振り替え休日だったらしく、顔見せた途端に大号泣でタックルかまされた。

 

 あとはまあ、義父さんと義母さんにその上から抱きしめられたり、久々に会ったカマクラやインラスとじゃれたり。

 

 そんなことをしてたらすっかり昼を過ぎ、また帰ってくると約束をして今度は今の家の方へ向かった。

 

 しかし、雪乃は家にはおらず。日付を見れば、総武はもう体育祭の日はとっくのとうに過ぎていた。

 

 ならば学校かと、制服に着替えて遅めの登校である。

 

 ちなみにリエは置いてきた。なんでも雪乃があそこへ連れてきてくれていたらしい。

 

 

 ──夕焼けが綺麗だね。

 

 

 おう、オクタか。やっと起きたな。

 

 

 ──ああ……すまない、あの時は負けてしまって。僕は君の完全なる理想像なのに。

 

 

 気にすんな。それ言ったら俺もボコボコにされたしな。

 

 あれだ。俺たち、どっちもまだ未熟ってことだ。

 

 だから今後も、一緒にやってこうぜ。

 

 

 ──ああ、ありがとう。それじゃあ、おやすみ。

 

 

 おう、おやすみ。

 

 オクタの意識が消えたあたりで、タイミングよく学校に到着する。

 

 夕方の学校は、ほとんど生徒の姿は見受けられなかった。グラウンドで部活やってる運動部くらいだ。

 

 駐輪場で自転車を止め、校舎に向かうと、その道すがらで誰かがグラウンドから駆け寄ってくる。

 

「おーい、比企谷」

『ああ、なんだ。お前か』

「ちょ、せめて立ち止まってくれないか!?」

 

 チッ、なんでよりによって最初に見るのが葉山の顔なんだよ。

 

 サッカー部の練習中だったのだろう、なんか無駄にいい感じの汗をかいた葉山は俺のところまでやってくる。

 

「はぁ、はぁ、無視することないだろう」

『いや違うぞ、正確には認識した上で必要ないと判断したからスルーした』

「それ、もっと酷くないか?」

『お前にはこんくらいがちょうどいいだろ』

 

 変わらないなぁ君は、とか言って苦笑いする葉山。そりゃあ簡単に変われたら誰も苦労しねえよ。

 

「ところで、もう怪我は平気なのかい? 交通事故にあったと聞いたけど……」

『……あー、まあ見ての通りだ。ピンピンしてるよ』

 

 そういやそういう設定になってたな。とりあえず合わせとくか。

 

「そうか、なら良かった。実はそれを聞きに来たんだ。だからそろそろ行くよ」

『おう、せいぜいボール踏んづけてすっ転べ』

「はは、そんなヘマはしないさ」

 

 そうだろうよ。

 

 最後まで爽やかだった葉山が走り去っていき、今度こそ校舎に行く。

 

 靴を履き替え、職員室に行って退院の報告を担任……平塚先生にしてから、奉仕部の部室に向かった。

 

 あの人、「八兎からも大体は聞いている。ご苦労だったな」とか言ってマッ缶をくれた。

 

 さりげない気遣いのできる人だ。マジで結婚できない理由がヘビースモーカーと鉄拳制裁くらいしか見当たらない。

 

 あーいや、八兎とはどうなんだろうな。あの人のことだから、今は生徒のやつに手は出さないだろうが。

 

『……結衣は八兎のことどう思ってんだろうな』

 

 益体もない呟きを、マッ缶と一緒に飲み込む。

 

 空き缶をゴミ箱に放ると、珍しく外した。

 

『あーくそ、ミスった』

 

 踵を返し、缶を拾おうとして……その前に誰かの手がそれを拾い上げた。

 

 下に向けていた視線を上げると、いつの間にそこにいたのだろう。

 

「ハズレ、ですね♪」

『……お前か』

 

 そこにはあの女……新月がいた。

 

「快調そうで何よりです、兄さん。私が助けて良かったですね?」

『やっぱりお前だったのか』

「はい♪ ああでも、もう助けませんからね。兄さんはあのへっぽこ弟と違って、ちゃんと強いんですから」

 

 へっぽこって……確かに性能こそ劣るが、八兎だって頑張ってただろうに。

 

 いやまあ、それを言ったら俺とオクタもぼろ負けだったんで何も言えないんだけどな。つーかこいつがいなかったら勝てなかった。

 

『まあ、色々とサンキューな』

「いえいえー。私も楽しかったですよ、若い人間が好むようなメール回しても、出来損ないが湧いて出てきても平然としてた兄さんの必死な顔が見られて」

 

 おい待て、今こいつさらっと重要なこと言ったぞ。

 

『あのチェーンメールお前だったのかよ』

「はい。兄さんがあんまりにも人間ヅラしてるから、気持ち悪くて。いっそのこと剥がれないかなーって思ったんですけど……案外頑固ですね?」

 

 首をかしげるな、あざとく指を唇に当てるな。こいつがやると相変わらず恐怖しか湧いてこんわ。

 

 あれほど許さないリストに入れていたというのに、こいつが相手だと全て無意味に思えてため息を吐く。

 

『俺はいいが、二度と雪乃を傷つけるようなことはするな』

「はーい、兄さんの頼みなら聞きます♪」

『前から思ってたんだけど、その兄さんって何? 八兎のことも弟つってたけど』

「んー、一番それっぽいから?」

 

 なんともテキトーな答えが返ってきた。それっぽいからって某芸人の英会話と一緒かよ。

 

「私もともと吸血鬼で、ちょっとヘマしてあのオッサンに捕まったんですよねー。で、あのウィルス打ち込まれて完成した、ハイブリットタイプ? とかで。それであのへっぽこが生まれたのが私の後なので、順番的にはそんな感じ?」

『いよいよ弟でもなくなったな』

 

 いやまあ、これまでの得体の知れないところから、こいつが相当な実力者だというのはわかってたんだが。

 

 おそらく、俺がまともにやりあったら確実に負ける。あの津西とすらやり合えるかもしれない底知れなさを感じる。

 

「まあ、今はご主人様に保護されて、そこそこ楽しく暮らしてるんで。これからも面白いの、期待してますね?」

『いや、極力お前と関わりたくないんだけど……』

「うわ辛辣! でも絡んじゃいま〜す」

 

 けらけらと楽しそうに笑いやがりますねこいつは……っと、そうだ。一つだけ聞きたいことがあった。

 

 すでに立ち去ろうとしている新月を見て、俺は新型の発声装置に言葉を送る。

 

『質問がある……お前の言うご主人様ってのは誰だ』

 

 そう聞いた途端、ピタリと新月は止まった。

 

 それから腰の後ろに回していた手を顔の方へ持っていき、何事か考える。

 

「……ああ、気になりますよねぇ」

『まあ、なきにしもあらずってとこだ」

「あはは、嘘ばっかり」

 

 それまで向こうを向いていた新月は、ゆっくりと顔だけこちらに振り返る。

 

「一つ、伝言です」

『伝言?』

「〝約束を守ってくれてありがとう〟」

「っ!」

 

 その伝言は、やはり……! 

 

「それでは、またいつか。さようなら兄さん」

 

 言葉の真意を聞く前に、新月は影の中に溶けるように消えてしまった。

 

 それきり、いつの間にか消えていた周りの音が戻ってきて、もうここにはいないと直感で悟る。

 

『……相変わらず掴めないやつだな』

 

 ひとりごちて、俺は踵を返した。

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

 

 

 それから奉仕部の部室まで、知り合いの誰にも会うことはなかった。まあ、そんな都合よく会えはしない。

 

 リノリウムの床を上履きで鳴らし、歩くことしばらく。

 

 ようやく、そこへ行き着いた。

 

 夕日に照らされた戸を前に、一度立ち止まる。

 

「……フゥ」

 

 一度深呼吸をして、それからノックをした。

 

「どうぞ」

 

 中から聞こえてくる。冷たい声。

 

 いつもよりいくらか覇気のない……でも懐かしいような、とても愛しいその声に、口が緩む。

 

 その気持ちに押されるがまま、からりと戸を開ける。

 

 教室の隅には、机と椅子が無造作に積み上げられていた。

 

 まるで倉庫のような様相とは裏腹に、黒板側の半分には長机と、三つの椅子。

 

 いたって普通の部屋。

 

 だが、そこがあまりに暖かく思ったのは……一人の少女がそこにいたからだろう。

 

 

 

 少女は、斜陽の中で本を読んでいた。

 

 

 

 世界が終わりを告げても、きっと彼女はこうしているんじゃないか、そう錯覚させるほどに、その光景は絵画じみていた。

 

 それを見たとき、俺の中の感情が時間を早めたかのように溢れ出した。

 

『雪乃』

 

 はたと、彼女のページを繰る手が止まる。

 

 それから息を飲んで、美しい横顔を驚きに染め上げる。

 

 振り返った彼女の、見開かれた美しい瞳、何度見ても端正な顔立ち。流れるような黒髪。

 

 クラスの有象無象の女子たちと同じ制服を着ているはずなのに、世界一可愛く見えてしまう。

 

 そんな、最愛の人は──

 

「……あなた、誰?」

『おい、第一声がそれか。世界を救ってきた彼氏に対して酷すぎるんじゃねえの?』

「あら、私にそんな大それたことができる彼氏はいないわ」

『へーへー、せいぜい俺はその程度ですよ』

「……ええ、そうよ。私が知っているのは、捻くれてて、不器用で、屁理屈ばかり捏ねて、無茶ばかりして……………でも、優しくて、いつも私を受け止めてくれて、それで……っ」

 

 その瞳から、雫が溢れる。

 

 彼女の涙だけは見たくないと思っていたのに、その瞳だけは受け入れたいと、そう感じた。

 

 だって……雪乃は、嬉しそうに笑ってくれたから。

 

『それで?』

「……私が、誰よりも好きな人よっ!」

 

 椅子から飛び出して、走り寄ってくる雪乃。

 

 今までのどんな抱擁よりも早く、そして力強い彼女のそれを、俺は真正面から受け止めた。

 

 

 

 

 

 ああ、この温もりだ。

 

 

 

 

 

 俺が守りたかったもの、欲しかったもの。知りたかったもの。

 

 

 

 

 

 何よりも大切な、俺の〝本物〟。

 

 

 

 

 

「遅いのよ、馬鹿、ボケナス、八幡……っ!」

『すまん、ちょっと寝坊した。体育祭に間に合わなかったわ』

「もう、そうじゃないでしょう……」

 

 雪乃は、泣きはらした顔で俺のことを恨めしげに睨んでくる。

 

 それさえも愛しくて、俺は綺麗なその髪を優しく撫でた。

 

『雪乃』

「何かしら?」

『……ただいま』

 

 雪乃は、また目を見開いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええ、おかえりなさい。私の愛しい……八幡くん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時の雪乃の顔を、俺は一生忘れないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 ……これで、本当におしまい。

 

 

 

 どう、満足のいく終わり方だった? 

 

 

 

 それとも、首を傾げてしまうものだった? 

 

 

 

 私はどちらもいいと思うわ。

 

 

 

 楽しめたのなら嬉しいし、そうでないのなら、あなたが熱を上げる別の物語があるのでしょう。

 

 

 

 でも、これだけは覚えておいて。

 

 

 

 これは確かにあった物語。

 

 

 

 一人の傷つきすぎた少年が、一つの居場所を見つけて、一人の人間に戻っていく、どこにでもあるような物語。

 

 

 

 それだけは、あなたの心の片隅に。

 

 

 

 ……あら、どうやらお呼ばれしてしまったみたい。

 

 

 

 それではさようなら。

 

 

 

 また、いつの日か会いましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『リエ、ご飯だぞ』

「ニャー」

 

 

 

 

 

 声を失った少年 終




はい、ということで完結しました!


【挿絵表示】


自分で描いた完結イラストです(笑)

最初に小説を書き始めてから四年と数ヶ月、それなのに今更処女作を終えるとかいう意味のわからない長さになりましたが、やっとここまで到達しました。

書ききって、まずは感動。そして楽しんでいただけていたかという不安。

終盤はもはや原作を丸めてポイしたような超展開の連続となり、ついには宇宙での決戦とかいうSFなことになりましたが、私本人としては満足できた作品であると思います。

この作品の、原作とはまるで違う八幡やゆきのん、謎にメンタルが強いガハマさんを始め、普通にイケメンな材木座に、材木座が好きないろは、彼ら彼女らにとどまらず登場したキャラクターたちが、一人でも読者の皆様方の心に、どうか残りますように。

まあ高評価より低評価の方が多いとかいうことなりましたし、合わない方には生ゴミのような作品でしたでしょうが。想像を絶するつまらなさとまで言われましたし。

長い空白期間の以前から読んでいただいていた方、また、投稿を再開してからの読者様。本当に、このような稚拙な作品をご愛読いただき、ありがとうございました。

もしかしたら、また続きをいつの日か書き始めるかも?

それでは、今後とも自分の作品をよろしくお願いいたします。

熊0803でした。

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