この作品も残るところあとわずか、最後までお付き合いいただければ幸いです。
楽しんでいただけると嬉しいです。
作戦前の二日間は、瞬く間に過ぎていった。
幸い週末だったので学校に行く必要もなく、一日中自宅で過ごした。
過ごしたっていうか、断固として雪乃がどこにも行かせてくれなかったんだけどな。
前日の夜のやり取りは何処へやら、トイレや風呂以外は基本どこでもくっついて回られた。
まあ、今日死ぬかもしれないっていうんだからそうもなるよな。つうか俺が逆の立場だったらそうなるし。
でもね雪乃さん、二日連続で一緒に寝るのはどうかと思うの。手ぇ出すのめっちゃ我慢したよ?
あとはまあ、小町と電話して雪乃と同じように脅されたり、後ろで義父さんが義母さんに叱られてたり、etcetc……
そんなこんなで、俺の休日は過ぎていき。
今俺は、支部の準備室で着替えている真っ最中である。
『……重いな』
スーツを着込んでから首輪をつけ直し、両手を見下ろして独り言を言う。
いつもの瞬発力と速攻性に特化させたスーツとは裏腹に、だいぶ装甲が分厚めだ。
しかも背中にはナノマシンの詰まったバックパック、パワーアシストを起動してないのでかなり重い。
『本当に動けるのかこれ……?』
オクタに切り替われば問題ないんだろうけど、なんか不安になる。
や、あの人の開発したものだから性能は確かなんだろうけどさ。むしろそこしか信用できないし。
そこはかとなく不安を感じながら、ベルトを装着して電磁式のホルダーに装備品をつけていく。
最後に、椅子に置いていた黒棒……《ナノブレード》を手に持つ。
『……今日も頼むぞ』
強く握りしめ、マントをまくって腰に取り付けた。
「む、なんだ相棒。まだ終わっていなかったのか」
『おう……って』
隣の部屋からやってきた材木座は……なんというか、変な格好をしていた。
いや一般人から見れば、このスーツを着てる時点でコスプレまっしぐらなのだが、そうではない。
『お前、それ着てくのか?』
「なんだ、問題なかろう。ドクター津西の特注品であるしな」
材木座が来ていたのは、いつも制服の上から着込んでいるトレンチコートだった。
山吹色に染色されたスーツと妙に親和性が高いのがムカつく。てか普段からそんな大層なもん着てたの?
「これは我の一張羅だ、別におかしくはあるまいて」
『いやおかしいだろ……まあ、パフォーマンスが落ちないならいいけどよ』
「無論、その辺りは抜かりない。あまり我を舐めるでないぞ」
こいつの場合口だけじゃなくて、普通に戦えるからな……言動さえまともならリア充になれるものを。
いや、あり得ないな。もともと人間不信だし、厨二病的な言動もそれを隠すためのファクターな部分もある。
「それに、我には約束があるのだ」
『約束?いろはとか?』
「ぬぐっ、なぜわかった」
『むしろなんでわからないと思ったの?』
こいつと何か約束するほど仲の良い相手とか、俺以外にはいろはしか思いつかない。
むしろ他の女が寄ってきても追い払うレベル。昔からいろは以外の女と喋ってるの見たことねえし。
あれ、ずっと前からそんな感じだった?雪乃と付き合い始めたから余裕が生まれて、今更わかるようになったのか?
『で、約束がなんだって?』
「ふっ、聞いて驚け。なんと我はな、一色殿とそれは重要な契約を……」
『あーもういいそれ以上喋るな。だいたいわかったから』
「最後まで言わせてすらくれぬだとっ!?」
いやそんなゆるっゆるの顔で言われたらどんだけ俺が捻くれててもわかるわ。なんなら某男性IS乗りでもわかる。
『どうせあれだろ、告白するとかだろ。さっさと当たって砕けて弄られてこいよ』
「何故にそこまで辛辣なの?我泣くよ?」
『やめろ気持ち悪い。男が泣きわめくのなんか見たくもないわ』
そんなもの見るくらいなら結衣に嫌いとか言われる方がまだマシである。
いや待て、それはもっと無理だ。別の意味で精神的が激しく摩耗する。
「あはは、仲良いね。なんならもっと密着して睦まじくしてもOKだよ?」
「……ぬ、いたのか海老名殿」
「はろはろ〜。二人とも調子はどう?」
いつの間にやら入口の壁に寄りかかっていた海老名さん。こいつら無断で入ってくるのデフォルトなの?
手の部分が露出した迷彩色のスーツを纏った海老名さんは、材木座同様にすでに準備は完了済みのようだ。
ていうか、今さらっとおぞましいこと言ってたよね?気のせいだと切に思いたいんですけど。
「ふっ、こやつとくだらぬ諍いをする程度には万全よ」
『まあ、こっちも似たようなもんだ。ていうか、俺は本番には関係ないんだけど』
「まあまあ、そう言わずに。ていうかさっき約束とか話してたよね!?もしかして二人は禁断の愛を密かに交わし合っていてこの戦いが終わったら愛の逃避行をしようとか語り合ってたの!?」
『「断じて違う」』
詰め寄ってきた海老名さんに、俺と材木座の即答が返った。なんて恐ろしいことを言うのだこの人は。
「なんだ、残念。それならなんの約束?」
「うむ、任務を無事達成して生還した暁には、あることを伝えると一色嬢に約束したのだ」
「おお、青春だねぇ。それでそれで?比企谷くんは雪ノ下さんと何かないの?」
『……まあ、必ず帰ってくるとは約束した』
改めて口に出して言うと、なかなか恥ずかしいなこれ。ラノベの主人公ばりにキザなセリフを言った。
偽らざる本心ではあるのだが……それを他人に伝えるとなると、どうも気恥ずかしさが勝る。
「ほほう、二人とも大切な相手との大事な約束、と。いいね、ノーマルは守備範囲外だけど応援するよ!」
『女子としてそれはどうなんだよ……』
「こんな時にする話ではないが、海老名殿はそういうのはないのか?」
「あ……うん。私はそういうのはいいかな、って」
やや固い声で言う海老名さんに、俺たちは彼女の地雷に足をかけたことを瞬時に悟った。
ぼっちの鉄則その1、他人の恋愛事情に安易に踏み込まない。面倒ごとが起こるのは目に見えてるからだ。
もし触れてしまった場合は、即座に土をかけて踵を返し、見なかったことにする。そうすりゃ自分も相手も被害はゼロだ。
「まっ、今は結衣がいるしね〜。せっかく私を受け入れてくれた友達のところに帰りたいっていうのは、私も同じかな?」
「結衣、とは由比ヶ浜殿のことか。ふむ、彼女は実に堅剛な心の持ち主であるな」
『ああ、それについては賛同するよ』
ほんと、俺たちのような化け物を許容するとか、あいつのメンタルどうなってんの?
懐に穴空いてるんじゃないかと時々疑うほどに、由比ヶ浜結衣はお人好しだ。
だからこそ雪乃の友達にもなれたのだろう……こんな俺ともな。
「じゃあ、私たちみんな同じ気持ちを持った仲間だね。手早く任務を終わらせて、みんなで帰ろ〜」
「応!」
『……おう』
柄にもなく、普段全くと言っていいほど面識を持たない俺たちは不思議と連帯感を感じた。
不敵に笑みを浮かべ、三人で拳を軽く合わせると仮面を被って部屋を出る。
さあ、任務の時間だ。頼むぞオクタ。
────
……僕は、僕が生まれた時のことをよく覚えている。
僕が生まれたのは今から5年と少し前……彼がノスフェラトゥの監視下に置かれてからしばらくした頃だった。
6年前のあの日、彼は大切な人間を手にかけた。
それは望まざることであり、しかし悲しい哉、生き延びるためには必要な行為でもあった。
その理由は彼を変異させたウィルスにある。
実はあのウィルスは、研究所にいた時点で既にある程度抑制されていた。
というのも〝彼女〟……彼の大切な人間が、半ば強引に食べさせていた食事に混ぜて、ある薬を投与していたのだ。
それは、ウィルスの進行を遅らせるワクチン。味覚が変質して味が認識できなかった彼は気づかなかった。
それは愛情故の行為だったが……あの日、生き延びるために逃げていた彼にとっては重い枷になる。
逃亡中に遭遇した警備員の銃撃を受け、腹部に重傷を負ってしまった。
あのウィルス……ある映画にちなんでO–ウィルスとでもしようか。
その特性は鬼種に相当する身体能力と、高い再生力の獲得。
しかし薬で抑えられたウィルスはその効力を発揮せず、あのままではいずれ出血多量で死んでいただろう。
ウィルスを完全に活性化させ、彼にあそこから逃げるだけの能力を与えるには新鮮な遺伝子が必要だった。
継戦能力を向上させるため、O–ウィルスは人間を捕食することで再生力が増す設計になっていたのである。
つまり、弱っているウィルスを本来の効力まで引き上げるには、そうするしか方法がなかった。
そして彼は、彼女自身に願われてある約束とともにそれを取り込んだ。
結果として彼は力を手に入れ……しかし狂ってしまった。
彼女を手にかけた悲しみ、それを許容した自分への怒り、そしてこんな事態を招いた元凶への憎悪。
壊れることのできない心から溢れ出た悪意は彼に一時的に理性を失わせ、怪物へと変えた。
そして彼は、眼に映るものすべてを虐殺した。
研究員も、警備員も、あの男も……自分と同じ、哀れな被害者たちまでも。
その数、約340人。うち半分以上が、被験体として誘拐、あるいは人身売買で買われた子供だった。
そうして皆殺しを行い、全てが終わった頃……その時になって、ようやく秩序の番人達はやってきた。
被験体を救助しにきた彼らは、壊滅した研究所と赤い肉山の前で泣き叫ぶ小鬼を目の当たりにして動揺した。
狂い果てた怪物を前に、隙を晒したのだ。結果がどうなったのかは……想像に難くないだろう。
未だ収まらない狂気と闘争心の中で、彼はエージェント達も殺した。敵味方の概念など最初からないのだ。
弱いものから首を食い千切った。頭を叩き潰した。心臓をえぐり取った。
殺すのは簡単だった。彼らは皆新人で、指揮官以外は数の多い被験体の救助のために数を揃えただけの寄せ集めだった。
故に連携も陣形も何もなく、あっさりと彼に命を刈り取られ……そして、ある女に目を留めた。
人間と
彼は新たな獲物に飛びかかり……けれどこれこそが、彼の最初の転機だった。
女は、彼を殺した。誰もが手を出せない中、無敵の怪物の喉をその手で貫き、初めて動きを止めたのだ。
彼女は恐怖と混乱の極まった絶叫とともに、彼を執拗に殺した。喉を抉り、臓物を引き裂いた。
再生力がすぐには追いつかないほどのダメージに、彼は一時的に生命活動を停止させるまで追い込まれ。
一度死ぬことでようやく、彼の止まることのできない殺戮は終わったのだ。
生き残ったエージェント達は、死んだにも関わらず再生を始めた彼を見て、貴重なサンプルとして回収した。
それからしばらくして、彼は特殊な人外を収容するための独房の中で目覚めた。
窓も、出入り口もない。ベッドとトイレ、食事を運ぶための細い穴しかない部屋。
研究所のあの部屋を彷彿とさせるその部屋で、彼は長い、とても長い間監禁された。
──そして、これこそが僕たちの始まり。
唯一の近しい人間さえ自らの手で殺めた彼は、誰もいない独房の中で独りぼっちで耐え続けた。
寝ては彼女を殺した時の夢を見て目覚め、また眠り、夢を見ては目覚め。
箱庭のような世界で、ただひたすらにその繰り返し。常人ならば、たとえ心の強い人外でもいずれは狂うだろう負のサイクル。
その中において、彼は変化しなかった。否、できなかった。
壊れない自我。それは一見すると聞こえがいいように思えるが、現実逃避さえ許さない厄介なものでしかない。
自分の所行を思い返して荒れ狂い、壁を殴って手を潰しても、あるいは頭を割っても、それでも終われないのだ。
女に攻撃された中での中途半端な再生のせいでゴッソリと丸ごと消えた声帯は機能せず、泣き叫ぶこともできない。
やがて、全てを諦めた彼は自問自答に耽るようになった。
変質した自分の体、摘み取った無垢な命、たった一人だけ欲した家族を殺した、後悔と罪悪感。
特に、生まれつき裏切りと逃亡の中で生きてきた彼にとって唯一気を許しかけていた彼女を殺した事実は、重くのしかかり。
そのすべてを、狂えない彼は真正面から受け止めざるを得なかった。彼はそれを罰として許容した。
だが面白いもので、そんな彼の意思とは裏腹に、人間としての機能を残した脳は別の反応を起こした。
人間は強い衝撃を受ける出来事を体験すると、精神を安定させるためにその記憶を封じたり、別の人格を作り出して攻撃する。
彼においては、その反応のうち壊れない自我という特性が関係したのか、後者が色濃く出た。
同時に、長い時間の中で彼の中に蓄えられた、自己嫌悪と諦観。憎しみ、怒り、悲しみ……そういった負の感情。
それは彼の中に、ある虚像を作り出した。
〝完全に自分の力をコントロールできる、強い自己〟という虚像を。
その虚像は自己防衛本能と結びつき、やがて彼の中に彼が望むものに近い人格を形成して──
──やあ、初めまして。僕は君で、君は僕だ。これからよろしくね。
そうして、僕が生まれたんだ。
────
……ん。どうやらうたた寝をしていたようだ。
「おや、起きたかね?タイミングの良いことだ」
『ドクター、おはようございます』
目を開けると、そこにいたのはドクター津西。
手元の端末を操作しており、どうやら転送装置の調整をしているようだ。
顔の近くにあるパネルを見ると、時刻は二十三時五十三分。どうやらギリギリの起床だったようだ。
「珍しいねぇ、君が眠るとは。私の記憶では君の時に睡眠状態に入ることはなかったがね」
『長いことこの姿勢だったので、ついうとうとしてしまいました』
転送装置に繋がっている円筒状のカプセルの中は意外と居心地が良く、眠気を誘われた。
仕方がないよね。
他の部屋では、同じようにカプセルの中に入って材木座くんたちも作戦開始を待っているはずだ。
とはいえ、この装置の扱いは非常に繊細だ。転送する人間との細かな調律と長い準備を経て、ようやく使える。
なんでも《地球外知的生命体六号》の技術を使っているらしい。元はなんとかブリッジというのだとか。
「そうかい?まあ、それならそれで気負っていないようで結構。もっとも、君にそんな感情があるのかはわからないがね」
『さて、どうでしょうか』
僕の本質は彼の理想像、つまりウィルスの力を安全に行使するためのもの。
その為には余分は必要ないと脳が判断したのだろう、僕という人格に感情らしき感情はない。
あるとすれば、原始的な欲求への反射的な反応だけ。そういうふうにできている。
『気負っているといえば、彼は平気ですか?』
「ああ、八兎くんだね。まあ平気だろう、彼はある意味で君以上に平静だ」
覚悟が決まっているということかな。精神面の成長が著しいね。
「さて。それでは最後にもう一度、作戦の確認といこうか。しっかりと覚えているかね?」
『はい』
今回の任務の目標は、全部で三つ。
一つ、津西博士の捕縛あるいは殺害。
二つ、研究所及び研究所内にあると思われるA.D.Sの製造プラントの破壊。
そして三つ。A.D.S.他、津西博士の研究データの回収だ。
まず、研究所に侵入後材木座くんが施設内のネットワークに侵入。内部構造を把握して安全なルートを検索。
次に、陽乃さんたちが研究所を動かしている動力部に携帯する超小型爆弾を設置し、一時間後にタイマーをセット。
その間に材木座くんが製造プラントを停止させ、ネットワークから研究データを探し出して回収。
そして僕と八兎くんで津西博士を探し出して拘束、できない場合は処分する。
作戦時間はきっかり二時間。それが月面支部の兵器が研究所を拘束できるタイムリミットだ。
それを超えた場合、僕たちは研究所もろとも各支部から発射されるミサイルで木っ端微塵にされるだろう。
任務が成功した時には携帯した端末を使い、再び転送装置で帰還する。
『……と、このように記憶していますが』
「素晴らしい!では装備の説明と注意点についても、もう一度言っておこう」
『それは助かります』
自分が命を預けるものだ、しっかりと性能を把握しておくに越したことはない。
「まずスーツだが、普段のものを改良し、ジアメン製のスーツに超高圧縮ケブラーにグラファイトをコーティングしたプロテクターを増量することで耐久力を増してある。その分重量も増しているが、パワーアシストも強化してあるから安心したまえ」
『それは頼もしいですね』
「だろう?まあ君の場合は肉体のコントロールにシステムを割り振っているがね。背面のバックパックには使い捨ての簡易ジェットブースターと、宇宙空間でも呼吸ができるヘルメットをナノマシン状にして入れてある。もし外に放り出されても一度だけなら戻ってこられるよ」
『あまり考えたくはないな』
「はは、私もだ」
いくら不死身といえど、宇宙空間でまで生きていられるかは謎だ。彼を待つ雪乃さんのためにもなるべく頼りたくない。
「もしも使うときはガントレットのボタンを押したまえ。武器はスーツのプロテクターと同じ合金のナイフが三本、同じくナイフ型の手榴弾が五つ。銃は君の希望で外したが、いいのかい?」
『ええ。正直苦手なので』
射撃訓練はしているし、当たらないわけではないのだけど、どうも性分に合わないんだよね。
それよりもナイフか刀で斬るか、殴り殺したほうが早い。そのほうが仕留めたという確信が大きいし。
「そうか。では代わりにナノブレードが一本追加で二本と、予備の刀身用のナノマシンが一回分。すまないがこれで実用段階までこぎつけたのは全てでね」
『材木座くんたちもいるんです、仕方がないでしょう』
むしろ予備があるだけありがたい。
この作戦のために備蓄してある分を全投入してもらうのだから、文句は言えないだろう。
ピ、ピビ…………
そんなことを考えていると、カプセルが電子音を上げた。
《博士、作戦開始五分前です。席に戻ってください》
ドクターの白衣につけられたマイクから池田さんの声がする。
「おっと、どうやら時間のようだ。とにかくそういうわけだ、頑張ってくれたまえ」
『はい』
「ああそれと……一つだけ言い忘れていたよ」
はて、なんだろうか。面倒臭がりなこの人のことだ、必要なことは最初に全て言ってしまうはず。
不思議に思っていると、ドクターはカプセルの縁に手をかけ、内緒話をするように声を小さくした。
「……愚弟のことは、どうしようもなくなった時はなるべく苦しませずに殺してやってくれ。君たちの過去を思うと難しいかもしれないが、よろしく頼むよ」
『それは、姉弟の情というものですか?』
「そんなものでは……いや、そんなものであるのか。いまいち解析できないが、そういうことだろう」
おや、珍しい。人間の規範で言えばろくでなしの彼女が誰かを気にかけるとは。
「私はこの性格だ。家族すら血の繋がった他人としか、昔から思えなくてね」
『まあ、そうでしょうね』
ドクターはいわゆる面白いかどうかで動く人間だ。衝動的かつ快楽的、価値がないと思えばあっさりと興味をなくす。
僕たちに構うのだって、単に脆弱な人間の体で、鬼種の細胞に適合した貴重なサンプルだからこそ。
だというのに、なぜ今更普通の人間のように弟のことを気にかけるのだろう?
「だからまあ、愚弟とも互いに研究者としての対抗心しかなかったわけだが……そんな私の無関心さが、今のアレを生んだのかもしれない。私と違って、奴には誰もストッパーがいなかったのだよ」
『あなたと違って、ですか』
そういえば、助手である池田さんは昔からの友人だったと聞いたことがある。
なぜ真面目で常識的な彼女がドクターの助手をしているかと聞くと、腐れ縁だと本人は言っていた。
中学時代、その当初はドクターも〝奴〟と同じようにタガが外れかかっており、誰もが手を焼いていた。
そんな彼女に、たった一人真っ向から立ち向かったのが池田さんだった。
奇行ばかり繰り返すドクターを時に叱り、時に躾け、時に寄り添い。
気がつけば今も世話をしている、と苦笑いを浮かべたのが印象的だった。
「姉としては、奴に倫理観を教えるべきだったのだろう。いわばほんの僅かにではあるが私の責任でもある」
『ドクター、責任という言葉を知っていたのですね』
「はは、茶化さないでくれたまえ……私には戦う力がない。頭でっかちの研究女だ。だから愚弟を止めてやることもできん」
『だから、自分の代わりに僕たちに彼を殺してほしいと?』
ドクターは稀に見る神妙な顔で、僕に頷いた。
……ふむ。
『まあ、善処しましょう』
「それで構わないよ。まあ、これまでやったことのツケを支払わなくてはいけないのも事実だ、無理なら徹底的にやってくれたまえ」
情があるのかないのか……いいや、彼女にとっては肉親への唯一の温情がそれなのだろう。
そうやってドクターと話しているうちに、いよいよフル稼働した転送装置が起動しようとしていた。
《転送開始三分前。近くにいる人間は速やかに退避してください》
アナウンスが流れ、カプセルの外から次々と機械が作動する音が聞こえ始める。
ついには放電を始めたカプセルから離れ、ドクターは僕に不適に笑う。
「それでは、任務の成功を祈るよ」
『サポート、よろしくお願いしますね』
「任せたまえ。この素ン晴らしい我が頭脳で、君たちを完璧に導いてあげよう!」
いつもの自信満々の笑顔で言い切った博士は、白衣の裾を翻して部屋を出ていった。
それから数秒もせずに、カプセル全体が激しく揺れ始め、放電現象が強くなっていく。
カプセルの蓋に表示されたケージが域値を超え、完全に転送装置が起動し──
《転送開始。作戦を遂行します》
『……さて、一つ派手に暴れようか』
最後の呟きと共に、僕の視界は光で満たされた。
読んでいただき、ありがとうございます。
次回からいよいよ潜入、乞うご期待を。
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