狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第56話

 「第二大隊、前へ」

 夕刻近く、近衛第一師団の官舎前にある広場に、凛とした声が響く。

 第二大隊長フォーライ・ブラキソマが、指揮台の上から号令していた。

 

「第二大隊は、只今より明後日朝までの夜間市街戦訓練に入る。各中隊は所定の計画通り、シュットガルド市街地各所に展開。追って別命あるまで待機せよ」

 ブラキソマの命令に従い、第一から第六までの各中隊が敵味方の二手に分かれ、王城から三本放射状に延びる大通りに沿って展開する。

 今夜は奇数中隊が守備、偶数中隊が攻撃側になり、模擬戦を繰り広げる。

 

 市街地を見下ろす山を背にした位置にある王城の前には、貴族の居住地区がある。

 さらにそれを取り巻くように商業地区、その外側に庶民の居住地区が広がり、急峻な山々をその一部に取り込んだ城壁が半円形に市街地を囲んでいた。

 夕刻までに市街地を王城から西に走る中央通りには第一中隊、北西に走る北通りには第三中隊、南西に走る南通りには第五中隊が貴族居住地区と商業地区の境界に、それぞれがバリケードを築き上げ、偶数中隊は一度城外に出る。

 深夜になって、人々が寝静まった頃、偶数中隊が城門から攻め入り王城を目指す。

 奇数中隊はこれを阻止し、王城を守る。

 王城の第一門の前に掲げた連帯旗を奪えば偶数中隊の勝利、朝までこれを守り通せば奇数中隊の勝ちだ。

 

 明るいうちにそれぞれの中隊は所定の場所で、今から行われることに必要な準備を整えていた。

 貴族居住地区とそれ以外の交通を遮断したところで、夕刻以降はほとんど問題にならないため、市街に大きな混乱は見られない。

 運悪く夕方近くに、出入りの貴族の屋敷に行っていた商人が面食らう程度だった。

 

 近衛第一師団は、第二王子パルストリック・マトグロッセ・リシア・ブルグンデロットが師団長を務めている。

 ベルテロイに駐在する第二師団と違い、師団長が直接指示することはなく、事実上名誉職だ。実際の指揮は歴代軍務卿の嫡男が執ることになっており、現在はアクロコル・ドニクティス・ロクソゾス子爵がその任に当たっている。第一師団が軍事行動を行うときは、王都に敵が攻め込んできたときであり、もはや国が落ちるかどうかの瀬戸際ということを意味する。それだけに規律や訓練は厳しく、ロクソゾス子爵の力量では師団を掌握しているとは言い難かった。

 それでも師団が軍の態を成しているのは、各大隊長がそれなりの指導力を有し、騎士としての矜持がそうさせているからだ。

 

 訓練の申請は各大隊長の裁量に任され、形ばかりの書類一枚でたいした審査もされず、ほとんどフリーパスだった。

 そのため、夕刻近くになって急に発動した命令を、大隊長の気紛れと感じた兵はいても、異常だと思う兵は極一部の例外を除き存在しなかった。

 

 近衛第一師団第二大隊が王都の要所を確保した頃、宰相ディアートゥス公爵邸に何台もの馬車が滑り込んでいた。

 貴族居住地の中だけ、それも王城に近い位置を移動していた馬車からは、第二大隊が各所に展開している行動は見えていなかった。

 それぞれの馬車からは軍務卿、財務卿、外務卿、内務卿と十人の政務参議官が夫人同伴で降り立つ。

 和やかな表情で出迎えるディアートゥス公爵に、礼儀正しく挨拶してから邸内に消えていく各人の表情も、穏やかに落ち着いているが、数人の婦人たちは緊張に顔を引き攣らせていた。

 

 広間には立食スタイルのパーティー会場が設えられ、山海の珍味が所せましと並べられている。

 温かそうな湯気を上げるもの、既にこの時期金満家でなくては入手不可能な氷で冷やされたものが食欲をそそる匂いを立てていた。

 ディアートゥス公爵が広間の中心に立ち、パーティーの開始を告げると侍女たちが高級酒の栓を抜き、各人に次いで回る。

 軍務卿ロクソゾス公爵が挨拶に立ち、当たり障りのない話を手短にしてから、乾杯の音頭を取った。

 さんざめくパーティー会場のそこここでは、明日への不安やしばしの別れを小声で話し合う夫人たちがいる。

 その声を意図的に掻き消すように、閣僚や政務参議官たちは必要以上の大声で話し、笑い合っていた。

 

 その頃、アービィたちは屋敷の裏に馬車を置き、いつでも出立できるように待機していた。

 既に護衛する夫人たちとの面通しは済んでおり、その際にハーミストリアとはレイやセラスの話でしばし歓談している。

 定刻まではまだ暫くあるため、手持ち無沙汰でいるとパーピャがやってきた。

 

「アービィ様、昨日は身の程知らずに対し、お相手いただきありがとうございました。最後に寸止めされたことは、私の未熟を思い知らされました。私は、アービィ様を絞め落とす気で挑みましたが、遥かに及ばないようです。次に我が国にお越しになるまでには、もう少し本気で当てていただけるよう努力します」

 素直に負けを認め、更なる精進を誓う。

 

「パービャさん、あまんり卑下しないで。充分強いと思うよ。止められたのは、偶々だから。でもね、試合でも絞め落とす気じゃだめ。殺す気じゃないと、ね」

 アービィがアドバイスすると、何か感じるものがあったか、パービャは深く頷いた。

 

「どうもありがとうございます。では、次は殺す気で挑みます。……何か、嫌な気配が……?」

 パーピャが何かを察知したときには、アービィが身体中から闘気を発散させている。

 

 

 パーティーが佳境に入る頃、市街各所に展開した各中隊で諍いが起きていた。

 

「ここを通すわけには参りません。どうかお引取りいただきますよう、お願い申し上げます」

 中央通りのバリケードを守る第三中隊第一小隊第二分隊長が、強引に貴族居住地区に通ろうとする同中隊第三小隊に対し槍を向け、一歩も退き下がるまいと頑張っていた。

 

「貴官は黙って通せばよい。小隊長命だ。抗命罪は死罪だぞ。分っているのかっ!?」

 第三小隊長が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

 それぞれの背後では状況が理解できない第一小隊第二分隊と、第三小隊が困惑の表情で槍を向け合っていた。

 

「小隊長殿とは命令系統が違います。どうしても小官の分隊をどかしたいのであれば、第一小隊長殿を通してご命令をいただきたい」

 分隊長は、軍としては至極真っ当な返答をする。

 第三小隊は第四小隊と共に攻撃側の突進力を削ぐため、バリケード前面に展開しているはずだった。

 

 言葉に詰まった第三小隊長が歯噛みして悔しがっている頃、第五中隊でも同様の睨み合いが続いていた。

 こちらはバリケードの防備に就く第一小隊第二分隊と、前面に展開していた第三第四小隊とが向き合ったとき、異常を察知した第一小隊長が矢面に立っている。

 

「貴様、大隊長殿のご命令だ。今すぐ、そこをどけ」

 第三小隊長が吼えるが、第一小隊長は全く動じない。

 

「中隊長殿からは新しい命令は受けていない。中隊長殿が解任になったならともかく、現状においては貴官を通すわけにはいかん」

 こちらも軍として至極真っ当な返答だ。

 直属の指揮官が健在であるにも拘らず、さらに上級指揮官がそれを飛び越えて下級指揮官に命令を出すなどということはない。

 それをしてしまえば、中級指揮官の存在理由がなくなってしまうからだ。

 

 軍の規模が大きくなり、一人の指揮官では戦況全てを見渡すことができなくなってきた現在では、その戦闘規模に見合った判断能力を持つ者がその場に見合った指揮を執る必要がある。

 それを無視して上級指揮官が一局面に口を出すようになってしまっては、戦局全体を見誤る。

 今回の訓練では大隊長は審判の役だ。一小隊の配置に口を出すべき立場ではない。それは各中隊長の専任事項になっているはずだった。

 第五中隊長は第一小隊長から報告があった、中隊長を無視した命令とやらにきな臭い匂いを感じ、第一小隊長に現地死守を厳命し、斥候小隊に各中隊の様子を探るように命じた。

 

「埒が明かん。第三小隊、前へ」

 

「どかぬと言うなら是非もない。第三第四小隊、前へ」

 中央通と南通りで同様の命令が下された。

 

「退くなら反逆罪の罪には問わん。今すぐ、槍を収め、原隊に復帰せよ」

 第三中隊第一小隊第二分隊長と第五中隊第一小隊長の警告が、別々の場所でほぼ同時に響き渡った。

 

 

 同士討ちの危険を孕んで同じ中隊同士がにらみ合う頃、城外ではさらに深刻な騒ぎが起きていた。

 

「どういうことか説明してもらおう」

 偶数中隊を統括指揮する第二中隊長が、自らの指揮下にある第二小隊長と、第四中隊第二小隊長に向かって叫んでいた。

 

 守備側の奇数中隊と違い、進撃予定時刻まですることのない偶数中隊では、烹炊班が炊き出しを始め、通状警備に就く兵士以外は武装を解き、最低限の装備を身に着けているだけだった。

 槍やロングソード、盾といった重兵器は、所定の場所に集められ、各自は自衛用の短剣を腰に佩き、鎧もそれぞれの決めた場所に置かれていた。

 その状態を第二中隊第二小隊と第四中隊第二小隊が完全武装で取り囲み、通常警備兵を殺害し、残りの将兵に投降を呼びかけていた。

 

「中隊長殿に恨みなどあろうはずもございませんが、我らが理想のため、今暫くの間ここにて拘束させていただきます」

 第二中隊第二小隊長が代表して話し始めた。

 

「貴様、反逆罪だぞ、これは。何をしているのか、分っておるのか!?」

 第二中隊長が激昂する。

 

「中隊長殿は、この国の現状をどう思われますか? 庶民をのさばらせ、貴族を貴族とも思わない。誰のお陰で日々の暮らしが成り立っているか。誰のお陰で生かされているのか。それを現閣僚や政務参議官は、まるで庶民の手先のようだ。貴族は庶民の上に立ち、これを指導するべきだ。心ある指導者たる貴族の方々が、この国の現状を憂い、行動を起こされる。我らはその尖兵となり、この国を正道に立ち戻させるのだ」

 口髭を震わせ、高邁な理想を語る庶民層出身の小隊長。

 

「貴様とて庶民だろうが。その話だと、虐げられる側に貴様はいるのではないか!?」

 第二中隊長が冷静に返す。

 次の瞬間、彼はあることに気付いた。

 狂っている。国軍相討つなど狂っている。爵位に釣られたか……

 

「小官たちは、事が成った暁には男爵位が用意されております。そうなれば、中隊長殿とは立場が逆転。今のうちに謝罪されるならば、暴言はなかったことにして差し上げますよ」

 想像通りの言葉が第四中隊第二小隊長から返される。

 彼らの瞳には、欲望と、偶数中隊全員の生殺与奪の権を握っていることから来る優越感、そして狂気が浮かんでいた。

 

 

 同時刻、各奇数中隊が抑えたバリケードの内側と王都を囲む城門の周辺で、石が擦れあう不協和音が響き渡った。

何体ものガーゴイルが動き始め、宰相邸や第一師団の官舎、常備軍の駐屯地、治安維持に必要な兵の詰め所、そしてアディポサリ公爵邸に向かって進み始める。

 一つ一つの動作はぎこちなく、一つの動作から次の動作に移る速度は遅いが、一つの動作を完成させる時間は異常に早い。

極端なコマ送りを見ているかのような動きだ。いつ倒れるかハラハラする動きだが、確実に一歩ずつその距離を詰めていく。

 

 

「ルティ、ティア、ハーミストリア様をっ!! パーピャは公爵様たちをっ!!」

 アービィはそれだけを言い残し、屋敷を飛び出して邪悪な波動に向かって駆けた。

 

 ルティとティア、パーピャはパーティー会場に急ぐ。

 広間ではパーティーが佳境を迎え、ざわめきに紛れて閣僚や政務参議官たちは、あと数時間後に訪れるはずのテロ対策について話し合っていた。

 そこへパーピャがディアートゥス公爵に、異常事態の報告が届ける。公爵は子細を確認するため、側に控える使用人に外を見てくるようにと、会場の動揺を誘わぬように落ち着き払って命じた。

 

 使用人はウエイターの姿を崩さぬまま広間を後にし、廊下へ出た瞬間に本来の仕事、つまり影としての動作を取り、屋敷から姿を消し去った。

 パーピャは侍女服のまま公爵の側に付き、袖口とスカートの中に忍ばせた短刀をいつでも抜き放てるよう構えている。

 暫くして外を見に行った使用人が、再びウエイター姿で戻り、ガーゴイルの襲撃を公爵に告げた。

 

 

「どうやら、パーティーにゲストがいらっしゃるご様子。奥方様たちには申し訳ないが、ここからは男共が楽しみの時間と相成ります。どうか、次第の不手際をご寛容下されば幸いにございます。誓って後日、この償いをさせていただきましょう。では、これにて、中締めと相成ります。奥方様におかれましては、これより案内の者が付きます故、その指示にお従いいただきます」

 軍務卿夫人とハーミストリア、そして後二名の政務参議官夫人にルティとティアが付き従う。

 そして、それ以外の夫人たちを宰相家の影の者が取り囲んで広間を退出する。

 

 

「さて、どこから漏れましたかな。ま、犯人探しは無用か。今は、どう生き延びるか、それが先決じゃて」

 ディアートゥス公爵は壁に飾られた剣を取る。

 それ以外の者たちは、付き従ってきた従者から、それぞれの剣や槍を受け取った。

 

「必要でしたら、どれをお使いいただいても構わぬ。何、実用本位の物ばかりじゃ。使ってこその剣や盾。弁償のご心配など、無用!!」

 気合い一閃、公爵が剣を振り下ろす。

 誰もが公爵が剣の鍛錬を欠かしていないことは知っていたが、これほどの太刀筋とは思っていなかった。

 

「宰相閣下は衰えという慎みを、ご存じないようですな。これでは、いつまで経っても若者が育ちませぬ。いい機会ですから、一度くらい殺されてやっては如何?」

 政務参議官ブレフェリー公爵が笑いながら言う。

 

「手厳しいのう、ブレフェリー殿は。ま、今回のことを防げなかった無能な老人は、事が終われば引退じゃ。陛下に願い出て、蟄居という名の隠居でもさせていただくとしようかの」

 ディアートゥス公爵も笑いながら返す。

 

「宰相閣下、それは困ります。わたくしなど、まだまだ未熟者。今暫くはご指導願います。……親父、まだ枯れちゃ困るんだよ」

 四十を目前にして充分すぎるほど政務の経験を積み、次期宰相を今すぐにでも継げるほど有能だが、それ故に自分には国を治める老獪さに欠けることを熟知している嫡男が茶々を入れる。

 久々の荒事に若かりし頃の血のたぎりを思い出し、その頃の言葉遣いに戻っていた。

 

「若造が吹きおるわ。まだ父は枯れてはおらぬぞ。どちらが多く石像を壊せるか競争じゃ!!」

 年甲斐もなく息子の言葉に乗せられた公爵が吼え、やはり荒事へ期待に血がたぎるか剣を息子に突きつけ、大笑いした。

 場が和んだところで全員が剣を、槍を構え、広間の大扉を睨みつける。

 

 次の瞬間、盛大な破壊音と共に大扉が弾け飛び、二十体のガーゴイルが広間に雪崩込んできた。

 動きこそぎこちないが、動作の一つ一つの速度を見て取った公爵に、油断はない。ガーゴイルの動きの癖を見切り、隙を突いて間接を狙い剣を叩きつける。

 ガーゴイルの構造自体はあまり頑丈ではないらしく、簡単に腕も脚も叩き落とせるが、痛みも恐怖も感じない石像は、完全に破壊するまでは動きを止めることはない。

 片脚を失えば片腕で補い、人間にしてみれば不自然な姿で歩き、両足を失えば両腕で這い寄る。

 

 攻撃も殴る蹴る、体当たりに頭突きと単純だが、岩を叩きつけられるようなものだ。

 モーションは大きいから動きは読めるが、一動作が一呼吸にも満たないうちに完成されてしまうため、全てを避け切ることができない。一瞬で叩きつけられる攻撃に、閣僚や政務参議官の年齢による体力の急激な損耗が追い打ちをかけ、徐々に劣勢へと押しやられていた。

 若い政務参議官たちにしても同様で、疲れを知らない無機物と、いつかは疲れが気力を上回る生身の差が顕在化し始めている。

 ましてや老体を庇いながらの戦闘だ。

 劣勢は否めなかった。

 

 パーピャも公爵を援護しつつの戦闘に、次第に無理が出始めている。

 刃物を持たないガーゴイルの攻撃は、出血がない分致命傷にはなりにくいが、頭に一撃を食らえば即死しかねない。一撃で死なないまでも、脳震盪でも起こせば、次の一撃がこの世との別れになる。四肢に受ける一撃も、受けどころを間違えれば即骨折だ。骨が折れなくとも鈍い痛みは動きを阻害する。ある意味刃物より質が悪いと言えた。

 ガーゴイルが振り下ろす腕や、蹴り抜く脚を受け流す自身の手足は、徐々に打撲によるダメージが蓄積されていく。パーピャに限界が近付いてきた。

 

 ここまで完全に破壊して脅威ではなくなったガーゴイルは、まだ五体だ。

 あと十数体が暴れ回り、ビースマックの重要人物を襲っている。

 老骨に鞭打って戦うディアートゥス公爵は、まだまだ意気軒昂だったが、少しずつだが意志と身体の動きが一致しなくなってきた。

 それでもガーゴイルの隙を突き、腕を、脚を、首を落としている。

 だが、突然剣を取り落とし、その場に立ち尽くす。

 

 背後から拳を打ち込んできたガーゴイルの動きを読み切れず、一撃を食ってしまったのだった。

 笑いながら言われた言葉に、今納得し、では一度殺されてみるかと、公爵は心が澄んでいくのを感じていた。

 

「親父ぃっ!!」

 棒立ちになった父とガーゴイルの間に割って入った嫡男だが、攻撃を防ぐには至らない。

 このまま、二人纏めて撲殺されると誰もが諦めた。

 

 

 次の瞬間、破壊音と共に腕を振り上げたままガーゴイルが吹き飛ばされる。

 何が起きたか理解できない人々の目に、片っ端からガーゴイルを弾き飛ばし、当たるを幸い牙で噛み砕く巨狼の姿が飛び込んできた。

 瞬く間に全てのガーゴイルを完全に破壊し尽くした巨狼は、公爵に一瞥をくれると破壊された大扉から、また姿を消し去った。

 公爵はその眼差しから、パーピャはその発せられる闘気から、巨狼の正体を朧気に悟っていたが、その推測を口にすることは永久にないと自身に誓っていた。

 

 アービィは記憶に残る邪悪な波動を感じた瞬間に、屋敷を飛び出していた。

 偵察のつもりで街を駆け抜け、ガーゴイルが宰相邸に迫るのを確認すると、念話でティアと合流地点を城門の外と相談した後、町中のガーゴイルを破壊して回った。

 近衛第一師団の官舎を襲ったガーゴイルを殲滅した直後、ルティの思念が宰相邸の危機を告げてきた。

 走っても間に合わないと判断したアービィは、瞬時に獣化して建物の屋根に跳び、一気に宰相邸まで翔け抜けた。

 

 その途中、近衛第一師団第二大隊が、馬車を抜けさせる予定の大通りで睨み合いを続ける場面に遭遇し、馬車を護衛するルティとティアに安全なところで待つように伝え、自身は宰相邸に突入する。

 そして、ガーゴイルを殲滅し、宰相とパーピャに視線で後を頼むと告げた後、ルティの元へと飛んだのだった。

 

 

 馬車で待つルティはアービィの気配を誰よりも先に感じ取り、正体を見せるわけにはいかないと、着替えを入れたバッグを抱えて馬車を飛び出した。

 同時にティアは馬車を曳く馬に思念を送り、御者の制御を無視させてアービィが見えないところへと誘う。慌てる御者を誤魔化しつつ、その混乱に乗じてルティが飛び出すのを援護した。

 街角の物陰に巨狼の姿を見つけたルティは、バッグを放り投げる。

 バッグを器用に銜えた巨狼が姿を隠し、ルティはアービィが出てくるのを待った。

 

「ルティ、中央と南通りが封鎖されてる。どうも、近衛師団の中にも反乱に加わったグループがいるみたいなんだ。北通りから行こう」

 アービィが見てきたままのことを言った。

 

「分ったわ。随分と厄介ね。決起は明日のはずなのに、どこから話が漏れたのかしら」

 ルティが同意と疑問を口にした。

 

「それは公爵様に任せておこう。僕たちはあの人たちを無事ベルテロイまで連れて行くほうが大事だよ」

 念話でティアに現在位置を知らせ、拾いにくるように伝えたアービィが答える。

 やがてティアが馬を思念で操る馬車が現れ、アービィとルティを拾い、そのまま北通りを目指した。

 

 第一師団官舎は、現在混乱の極みにあった。

 反乱を起こしたのが第二大隊全体なのか、一部なのかが分らない。宰相邸を包囲するという第二大隊長の命令が、大隊全体に宛てだと確認されているためだ。だが、場外では偶数中隊が包囲され、武装解除されている。

 さらに中央通りと南通りで小隊同士が睨み合っているという噂が流れている。

 

 師団長パルストリック第二王子以下副師団長ロクソゾス子爵、第一大隊長ピラムターバ、騎馬大隊長ジャウー、魔道大隊長ブラキラムら師団首脳は、情報の少なさに有効な手が打てない。

 迂闊に兵を出し、近衛師団相討つ事態は絶対に避けたい。

 かと言って噂が真実であれば、このままでは最も恐れる同士討ちが始まってしまう。

 

 第二大隊長が反乱に身を投じたことは確実だが、それ以外に誰が反乱に加わっているかが判然としなかった。

 そして、現在は官舎で兵装待機している各大隊の誰が反乱に加わっているか、誰もが疑心暗鬼に陥っていた。

 

 そこへ第二大隊第三中隊第一小隊長からの伝令が、息せき切って師団官舎に走りこむ。

 ここに至って第一師団は動き出す。師団長令ではなく、市街で反乱を起こした第二大隊第三中隊第三小隊と第五中隊第三第四中隊を逆賊と認め、これを討つ正式な第二王子からの命令が下った。しかし、どの大隊も動けない。第二大隊の様子から、部下を信じられなくなっていたのだった。これがクーデターグループの狙いだった。

 シュットガルドの混乱は、治まる気配を見せなかった。

 

 

 アービィたちを乗せた馬車が北通りへ向かっているとき、中央通りでは第三中隊第三小隊を、南通りでは第五中隊第三第四小隊を、それぞれ残りの小隊が包囲している。

 包囲された側は、貴族居住地区からの脱出者を阻む意図でバリケードを占拠していた。第三第五中隊長が投降を呼びかけるが、小隊長たちは頑として聞き入れない。

 しかし、兵たちは反乱ということをここに来て理解しており、小隊長の命令と中隊長の命令の間で板ばさみになっている。

 

 城外では、別の混乱が巻き起こっていた。

 第二中隊第二小隊と第四中隊第二小隊に、丸腰の兵士たちが踊りかかった。

 槍や剣で脅していれば、まさか近衛相討つ事態には至らず大人しく投降すると思っていた反乱側の両小隊長ばかりでなく、第二中隊長にも予想だにしなかった動きだった。

 

 丸腰の同僚相手に本気で槍や剣を叩き付けることができない兵たちを、片っ端から殴り倒していく。

 辛うじて態勢を保っていた反乱側の兵たちも、小隊長の行動に疑問を感じていたためか槍の穂先で突くことも、剣の刃を立てることもせず、自衛に徹していた。

 それでも騎士へ取り立てるという甘言に釣られた兵の手に掛かり、命を散らす兵士たちが続出していた。

 

 その間に反乱部隊を除く中隊は、急速に武装を整え戦闘準備を完成させていく。

 一旦偶数中隊全体が戦闘態勢を整えてしまえば、いくら反乱部隊が先手を取っていたとはいえ多勢に無勢だ。

 場外の反乱は、程なく収束に向かって行った。

 

 騎士大隊長が師団長の許可を取り、市街へと出撃していた。

 歩兵中心の第一大隊では展開の速度が遅く、対応に遅れが出る危険性があったからだ。騎士大隊は第三中隊からの情報を元に迅速に市街へ展開し、中央と南通りでは反乱部隊へ投降を呼びかける。

 北通りに急行した騎馬中隊は、そこに展開していた第二大隊第五中隊を拘束し、第二王子からの命令通り、国外脱出するはずの馬車の逃走路を確保した。

 

 

 アービィたちが北通りまであと少しのところまで来たとき、背後が急に明るくなり、貴族居住区の一角に火の手が上がった。

 アービィは馬車を戻すように御者に言ってから飛び降り、火の手が上がった方角へ走った。

 

 ハラや、キリンドリクス、プルケールに裏切られたアディポサリ公爵邸には、十体のガーゴイルが突入していた。

 片端から使用人や侍女を殴り殺したガーゴイルは、状況を理解できず、恐怖に固まるアディポサリ公爵を追い詰めていた。その最中に殴り飛ばされた使用人が廊下の照明に激突し、そのとき倒れた松根油から火が上がった。

 廊下に倒れた使用人や侍女たちを、生者も死者もひとしなみに盛大な火葬に付しながら、屋敷はあっという間に火に包まれてしまった。

 

 アービィは迷わず火の中に飛び込み、生存者を探して走る。

 だが、目に入るものは元は人間だったことが辛うじて分るほどに焼き尽くされた死体か、生きながら焼かれ既に手の施しようがない犠牲者ばかりだ。

 その中でまだ息のある者から、絞り出すような声でアディポサリ公爵の救出を依頼され、アービィはそのまま屋敷の奥へと走りこんで行った。

 

 アディポサリ公爵にガーゴイルの腕が振り下ろされようとした瞬間、アービィがガーゴイルをタックルで吹っ飛ばす。

 壁に激突したガーゴイルは、そこに人が余裕で通り抜けられそうな穴を開け、そのまま関節が外れたのか動かなくなった。

 次々に襲い来るガーゴイルは火事の炎に熱せられ、触れば火傷しそうなほど熱くなっている。

 アービィは蹴り上げ、掌底を叩き込み、『凍結』の呪文を叩き付け、ガーゴイルを破壊し続けた。

 程なく全てのガーゴイルを破壊し尽し、アディポサリ公爵を救出して外へ出るが、公爵は恐怖のあまり口を利くことができないようだった。

 

 屋敷の前で待機していた馬車にアディポサリ公爵を運び込み、第一師団官舎を目指す。

 同乗している軍務卿夫人からアディポサリ公爵の素性を知らされ、共に国外へ連れて行くわけには行かないと判断したアービィは、第一師団にアディポサリ公爵の保護を依頼するつもりだった。

 第一師団官舎に駆け込んだ馬車から、軍務卿夫人とアディポサリ公爵を背負ったアービィが降り、副師団長アクロコル・ドニクティス・ロクソゾス子爵、即ち彼女の息子を呼ぶように衛兵に告げた。

 

 とっくに国外へ脱出しているはずの母から呼び出され、何事かと慌てて飛び出してきたアクロコルは、アービィが背負う人物を見てさらに慌てて衛生兵と治癒師を呼んだ。

 アディサポリ公爵を第一師団に預けたアービィたちは、アクロコルから北通りを確保していることを確認し、来た道を戻っていった。

 

 宰相邸前には第一大隊が展開し、周囲を警護している。

 アービィたちが馬車を止め、現在の状況を聞いていると、邸内から宰相ディアートゥス公爵が剣を携えて出てきた。

 

「英雄殿、どうやら反乱は鎮圧できそうじゃ。どうするかの、もう逃げていただく必要もなくなりそうじゃて」

 老いて尚、血気盛ん。先程のダメージは、鍛えた身体からすでに抜け落ちていた。

 公爵は楽しそうに言う。

 だが、その視線は感謝の光で彩られていた。

 

「そうですか。それはなによりです。宰相のお心遣いにはとても感謝しておりますわ。ですが、この国難。夫の側で力にならなくて、何が妻ですか。私たちは残ります」

 軍務卿夫人が一同を代表して答える。

 

「さようか。では、そのようになさっていただこう。そのほうがいい」

 公爵は満足げに答え、すぐに北通りを確保する騎馬大隊に馬車の通過がなくなったことを伝令に託して知らせる。

 同時に早馬を手配し、ベルテロイのフィランサスに反乱鎮圧と、婦人たちの国外脱出の要がなくなったことも知らせる手はずを整えた。

 

 既に中央通りと南通りでも、反乱軍は鎮圧されている。

 部隊の行動に疑問を持った兵たちが、次々に投降していた。

 第三中隊第三小隊長と第五中隊第三小隊長はかろうじて自決直前に身柄を確保したが、第五中隊第四小隊長の自決は止められなかった。

 

 第二大隊長は行方不明。

 既に反乱軍の統制は第二大隊長名で行われていたことが判明しており、あれこれ詮索するまでもなく国家反逆罪は明白だった。

 城外に逃亡した様子はなく、程なく捕縛されるものと見られていた。

 

「どれ、飲みなおしといこうかの。いかがかな、英雄殿?」

 ディアートゥス公爵が問う。

 

「はい、では遠慮なく」

 アービィが答える。

 

 公爵に付いて屋敷に入る。

 カーゴイルが暴れ、荒れ放題に荒れた広間には、主要閣僚たちと政務参議官が車座になって酒を飲んでいた。

 ビースマック出身の夫人たちは、ガーゴイルこそ排除したが、街中に反乱軍が溢れている危険性を考慮して宰相邸に留まっていたため、夫と共に歓談に興じている。

 

「まあまあ、あなたたち、何てはしたない!!」

 いかにも嘆かわしいという表情で軍務卿夫人が一同を叱り付ける。

 

 普段は優雅な振る舞いを常に意識している友人や、毅然とした態度を崩すことのない夫を含む重要人物たちが、荒れ放題の床を掃除することもなく直接座り込んで杯を煽っていたのだ。

 額に指を当て俯いた軍務卿夫人に夫であるロクソゾス軍務卿が杯を渡す。

 

「まあ、そう言うな。たまにはいいもんだぞ。祝杯じゃ。英雄殿も、早く来なされ。宰相ばかりが武勇伝を聞けたなど、許せん」

 すっかり出来上がった夫の姿に、毒気を抜かれた夫人が自棄を起こしたかのように杯を受け取り、一気に煽る。

 

「英雄殿、旅の途中の楽しみにと思っておりましたが、今から語っていただきますよ」

 逃がさないぞ、という意志を込めて夫人がアービィを見た。

 

 アービィたちは、徹夜の覚悟を固めていた。


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