始まり(再)
「最悪だ!」
風に乗って誰かの悪態をつく声が聴こえる。
町には夜の帳が落ち、漆黒が覆っている。その中を点々とした羅列で灯りが点いていた。
住宅街。家々が並び、住人が眠りに耽ようかという時間。
彼らが住まう境界の外では異形の存在が跋扈していた。
八つもある脚を器用に使い、家の屋根から屋根へと跳び移る。
夜の闇に隠れるかのような黒、その中に不気味に浮かぶ四つの紅い眼。常識では考えられない大きな躯。形状だけなら蜘蛛と分かるが、一般的なそれとは何もかもが違う存在。
その背中には、あと少しで中学生になるはずだった少年が乗っていた。
端からみれば連れ去られたようにも見えるだろうが、真実は違う。
その少年、三野元こそがこの異形の蜘蛛の主なのだ。
この世界には都市伝説に“虫”と言うものがある。青少年にとり憑き、夢を喰らうとされる異形の存在だ。そして、その“虫”に取り憑かれた者のことを“虫憑き”と呼ぶ。
『――貴方の夢をきかせてくれない?』
元は自分が“虫憑き”になった日の事を今でも覚えている。
学校からの帰り、夕暮れ時に丸いサングラスをかけた紅いコートの美女にそう問いかけられた。
次の瞬間、自分の意思とは関係なく自らの夢を語り、気付いた時には虫憑きになっていたのだ。
その美女は“大喰い”という人外であり、“虫”を生み出す元凶でもある。それは一般人では決して知ることが出来ない情報だ、しかし一般的な家庭に生まれたはずの元は識っていた。
簡略的に言うのなら彼は転生者である。
前世では十代半ばに交通事故に遭い命を落としてしまった只の一学生だ。それは現世でも同じ、他人より経験や知識を先取りして人生が始まっただけのこと。同年代より知識を多く持っているというだけであり、“特別な才能”というものはなかった。
その『知識』の中には前世に趣味として読んだ漫画や小説の記憶もある。“大喰い”とはその中の一つ、『ムシウタ』と呼ばれる小説に登場する者だ。
虫を生み出すモノは『原虫』と呼ばれ、思春期の子どもの夢を喰らうとされる。そして喰われた者は虫憑きになるのだ。
彼女は内の一体であり、その中でも己が食欲を満たす為に手当り次第に子どもの夢を喰らう暴食の化身。
僅かに芽生えた夢にさえ喰らいつくその
そして抵抗する術を持たない彼はそのまま虫憑きとなった。
そんな経緯があり、決して人には言えない秘密を持った元だったが、それでも何とか『普通の生活』を維持しようと思っていた。
だがしかし、そんな矢先に自宅に強盗が押し入るというトラブルが起きた。生前も平凡な生活を送っていた元にとってそれは初めてのことであり、焦りや怖れを抱いてしまった。
その気持ちを汲んでか、彼の虫は宿主の身を守ろうと姿を現し糸によって強盗を難なく捕らえることに成功した。
その件はそれで済んだのだが、すぐにまた別の問題が起きた。実の子が虫憑きであったという衝撃的な事実から両親は警察へと連絡を入れてしまったのだ。
その事を知った元は直ぐ様家を飛び出した。国家機関に知られたという事は必然的に『彼ら』が動くという事だからだ。
――虫の知らせか、溢れんばかりの焦燥感が一瞬息を潜めた。そしてその瞬間、耳が異音を拾った。
虫の羽音の様な、しかしそれにしては大き過ぎる音。気付いた時には元の虫は一際大きな跳躍をした。
そして次の瞬間、蜘蛛が居たはずの場所に大きな針が突き刺さった。コンクリートの塊すら容易く貫くであろう凶器に戦慄する。
振り向きざまに確認すると人よりも大きなミツバチが宙を舞っており、恐らくアレが行ったのだろう。
単純故にその脅威は解り易い。だからこそ、それから逃れる為蜘蛛は躯のバネを活かし建物の間を“縫いながら”跳び去った。
それを追いかけるようとミツバチが跡をつけた瞬間。
――その躯は突如宙に縛り着けられた。
凝視しなければ見えない程の、薄く細い糸が異形の虫の躯を雁字搦めにしていた。
――くそ! くそ! くそ!
何回、何十回目になるか分からない悪態を心の中でついた。
分かっていたことだ、しかし予想よりも早過ぎる。
『彼ら』……特別環境保全事務局――通称“特環”のあまりに早い対応に元は頭を抱えた。
特環とは虫憑きを捕らえ、隔離し、そして兵士として使役する組織だ。公にはされていないが政府の秘密組織であり、虫についての噂や報告があった場合秘密裏にそれを片付けるよう務めている。
虫を相手にする以上、勿論荒事になるは必然。その為捕縛、または殲滅の際は戦闘慣れした者が出向く場合がほとんどだ。
恐らく、今回の元の一件もそれに属している。
場馴れした相手に、まだ不慣れな虫で挑むのはどう考えても分が悪い。選択など逃げ一択だろう。
しかし、先も述べた通り特環は政府の機関だ。情報網は馬鹿に出来ず、あらゆる所に手回しすることも可能だろう。いくら虫の力を使えるからと言ってもそんな権限や権力を持つ者たちから逃げ切るのは至難の業。
特に元は既に面がわれており、頼れる仲間もいない。憑いてる虫も極めて普通の分離型だ。能力は未知数とはいえ、最もやられ易い虫で徹底抗戦するのは厳しいどころの話ではない。
――ならば一体どうするか?
必死に生き延びるため思案した。
だからだろう、すぐ傍にまで脅威が迫っていることに気づくことが出来なかったのは……。
ザッと靴が砂利をする音が聞こえた。同時に人の気配を察した元は振り向きそちらを見やる。
丸く大きな月をバックに黒いコートに身を包んだ少年がいた。
ゴーグルによって表情は窺えず、髪は逆立っている。そのゴーグル以外に特徴的な印象を持つことは出来ない。しかしそのコートを身に着けているということは特環の局員なのだろう。
複数人での行動ではなく単身で接触してきたということは号指定局員と見て間違いない。
瞬間的、且つ暫定的ではあるがそう観察し危険を感じ取った元は即座に「逃げよう」と判断し、踵を返そうと――する前に絶対に見落としてはならない物を視界に捉えてしまった。
その少年の手には似つかわしくない物があった。この日本では決して一般人が持つことが許されない物……自動式拳銃だ。
黒く怪しく光るそれを見逃さなかった元は慌てて逃げるのを中断した。
逆立った黒髪、ゴーグル、黒い特環のコート、自動式拳銃。
これらを満たす人物に思い当たる節がある元は無意識の内に唾を呑んだ。
「まさか、そんなはずは……」そんな否定的な思考も沸いたがそれもすぐに消し飛んだ。
黒いコートの少年の下に一匹の緑色の虫が舞い降りた。
それは少年の肩に触れると溶ける様に一体化を果たした。
体は緑色の模様が侵し、それは拳銃にまで達すると得物は異形へと姿を変えた。
「ま、さか……お前は……」
悪魔。そんな言葉を体現したようなものを前に元は恐怖で足が動かない。
僅かに振り絞る声すらか細い。
だがその声は確かに少年に届いたらしく、彼は口の端を吊り上げ応えた。
「――“かっこう”」
その言葉は正に死神の鎌と同義であった。
“かっこう”――『ムシウタ』における主人公である少年のコードネームだ。
特異な能力こそないものの、その圧倒的な火力から恐れられている最強の虫憑き。多くの虫憑きにおける恐怖の象徴。
そんな存在が今、元の目の前にいる。
逃げることは不可能、戦っても負けるのは必須。
「くっそぉ……!」
自身にできる選択などもう何もなくなった。出来ることなど悪態をつくことだけ。
そしてそれすらも一瞬の内で終わってしまった。
一度は強く握りしめた拳から力は抜け、こんな現実を直視したくない想いから顔は空を見上げた。
こんな絶望的な状況であっても月は怪しくも綺麗に輝いていた。
そしてその月下には悪魔がいる。
笑うことすら出来ないこの状況に元の心は折れてしまった。
――こうして、元の身柄は特環の預かりとなり、彼は否応なく虫憑きの戦いに巻き込まれることとなった。
一人称だったものを三人称にし、ついでに多少書き加えてみました。