第一話に記載した通り、この話からオリジナル色が強くなっていきます。
願いの対価とその余禄
今年の寿命も数えるほど。
十二回目の満月の夜。
今夜は一段と明るい海。吹く風は温かくも冷たくもない。冬という季節は、この島には無縁のモノなのだ。
「空に水。水に空。月の空には砕け散った海がある」
この島に緑が蘇ったのは、島の近くに隕石が落下してからだという。
そうして出来上がったのが、月の珊瑚と呼ばれる新しい海洋世界。
最初のおばあちゃんが海に
月のいちばん見える夜、珊瑚が光るようになったらしい。
「星はまたたく。海はさざめく。人恋しくて珊瑚は謳う。
わたしたちは
「おや。今夜はまた、一段と元気そうで」
白黒の彼はふわふわ浮かびながら現れた。
かすかな光を撒いて舞う姿はちょっとだけ
昨日は空飛ぶ海月みたいだと思ったけど、こうしてみると蝶々の方が近いのかも。一度そう考えると、真っ白な体躯に浮かぶ様に纏わりつく黒色も相まって
わたしが元気なのは、月の満ち欠けの影響だろう。気持ちの問題もあって今夜は特に調子がいい。
「はいこれ。わたしの本、受け取って」
「ありがたく頂戴しよう。
…………それで、何か
「それは正直思いつかなかったの。でも、だからこそ思いついたコトがあって」
「?」
言葉が前後で矛盾しているかもしれないが、本当のことだ。
あれから一晩かけて願いを模索してみても、わたしには結局欲しいものなんて見当たらなくて。
折角だから求婚の際の難題でも出してみようかとも思ったけど、改めて見返すと、
そこで。
「昨日、知識でもいいって言ってたでしょう?」
「ああ、言ったね。――――つまりは、何か知りたい事でも?」
「相談事があるの。意見を聞かせてくれないかしら」
報酬というのはそれだ。昨日あれこれ考えたあげく、求婚について相談することにした。
島のしきたり。
何より。
今まで求婚者達に散々提示してきた難題が、なぜか『欲しいもの』として思い当たらなかった事。
自分自身でも理解できないそれについて。彼なら、是非を問うてくれると思ったのだ。
一通り話を聞くと、感心したように、
「君の祖の物語は月の天女のようだと思ったけれど、
何ともロマンスに溢れた一族だね、君達は」
と、軽く感想を述べた後。咀嚼するように微かに首を上下させる。
「一つだけ確認したい。
その言いぶりから察するに、君は、それが欲しくて欲しくて仕方がない……という訳、ではない?」
そうして再度口を開いたと思うと、問いへの回答を告げるのではなく問いへの補足を求めてきた。
疑問に対し首を縦に振る。もちろんそう。
わたしは今まで述べた難題のどれか一つでも、心から追い求めたことはない。
…………断る口実と見受けられるのも、致し方ないと思うけど。
煙に巻かれた、と憤慨して立ち去る者がいた。
出来る訳がない、と悲嘆にくれて踵を返した者もいた。
命には代えられない、と我が身を惜しんで諦観を浮かべた者もいた。
彼らの愛を蔑ろにしていると、唾棄されても仕方がない。
でも、わたしは誓って真剣だ。
難題を踏破できた暁には、この身の全てを捧げるつもりでいる。
それを踏まえた上で、彼はこう言った。
「君は誠実なのだろう。
愛することに理由を求めるのは、愛することをやめないよう繋ぎとめる理由を望むのと表裏で同義だ。
愛に理由がないのなら、次の瞬間愛しい誰かがなんでもないその他大勢と同じになってしまうかもしれない。
愛の不在証明を、愛なしでは為し得ぬ難題の背理を以て
自分の一生を捧げるのに、相手の一生を求める……というのはそういうコトだ。
一生分の愛を込めてカタチにできるなんて。君は、とても情熱的なんだね」
…………こんなセリフを微笑み交じりで全く裏表なく告げられた。
正直、ちょっとだけ照れる。
褒められて嬉しいような、それでいて内訳が見当外れでくすぐったいような。
第一、情熱的と言われても困る。
わたしは愛を知らない。わたし以外にはあるらしいけど理解ができない。
安心も打算も組み込まれた、明確な作業として現実に現出させられる訳でもない。
そんな不確かだから。わたしは愛を信じられないから、愛を証明して欲しいと思ってたのに。
そんなあやふやな感情、自分にはないものだと――――
……そうやって内面に疑問を投げかけるわたしを眺めつつ、彼はふむ、と顎に手をやる。
「もう少し、君に知恵を貸そうか。
何故、君は愛を信じられないのか。私にはわかるよ」
声を掛けられるまで気付かなかったけど、どうやら続きの思慮を巡らせてくれていたらしい。
声色には自信ありげな響きが詰まってるし、納得がいく形に解釈が出来上がったみたい。
でも……愛が信じられない理由なんて、「明確な形がないから」「現実的でないから」以外があるのかな?
そのどっちか一つでも、信じない根拠には十分だと思うのに。
「『愛』というのはつまるところ、二面性のある万象から都合のいい半面だけを取り出す
時代はもう歩みを止めているからね。前向きだろうが後ろ向きだろうが、一歩も進んでいないのなら変わりないさ。
ああ、だから…………」
つまるところは。
そんな疑問は、彼にとってはたった一言だけで表現可能な、わかり切った問いかけだったらしい。
「 君、『幸せになりたい』って思ったこと、ないだろう? 」
一瞬。
きょとんと、何を言っているのか分からなくなる。
…………『幸せになりたい』と、思ったことがない?
……確かに、そんな願いを抱いたことはないけど。
それのどこが、愛を信じられない根拠になるんだろう?
◆ ◆ ◆
返答に目を点にする少女を見て、最初に問われたこちらのほうが驚いてしまった。
…………そんなに衝撃的な回答だったのだろうか。
愛と幸福は手段と目的という対応軸を持つ以上、愛と価値を結び付けるよりかは、飛躍の度合いは少ない筈なのだが。
しかしどうにも得心いかないらしいご様子。まるで口に入れたはずのものがすっと消えてしまったかのような、力いっぱい霞を噛んでしまったかのような、難しい顔をしている。
なに、丁度いいと言えば丁度いい。
少しばかり清聴願おう。
愛とはなんであるか。
愛とは何のためにあるのか。
愛とはどのような事象か。
愛おしみ、慈しみ、それを以て喜びとする、その行動原理の根幹。
◆
「愛とは
この世で最も割のいい取引は強奪だが、最も能率のいい手段は同化なんだ。
いのちについて話した時、”愛情がもっとも効率よく長続きするシステム”だと言っただろう?
私達は他人事にもかかわらず、『まるで自分のことのように』
これが道徳の上で”徳”と呼ばれるものだ」
子を育む親が代表的だろう。繁殖に背を向けた現代では希少かもしれないが、一昔前では誰もがそうだったと聞いている。
自分の食べる分を削ってでも、子により多く、よりおいしいところを食べさせる。
そうしたところで自分の腹が膨れる訳じゃない。むしろ取り分としては明確に減っている。
でもそれを当たり前のように良しとする。愛しい誰かの笑顔を見るために、躊躇なく己を犠牲にする。
その一見どうしようもなく理不尽で、しかし内実非常によく
長く
博愛や恋慕などの正の面として、美しい
「とある宗派で金科玉条とされる『汝の隣人を愛せ』、『汝の敵を愛せ』とはそういうことだ。
敵すら我が子のように愛せたのなら、
本来なら、現実的に見たのなら耐え難い、どれだけ理不尽で横暴な所業だったとしても、そこに愛があれば歓迎に値する事象にすり替わる。
自分の食事を減らしてでも、子により多く与える親子の営みと同じになる」
それは当然の帰結と呼べた。
前後不覚の酩酊。己と他者を区別しない錯乱。一方通行の共益。
幸福など所詮、脳が垂れ流す麻薬の幻覚を小奇麗にリパッケージした名称に過ぎない。
愛も幸福も物質に依存しない精神現象だからこそ、その現象は物質的な資源を用いずに起こすことができる。
そして。
それを可能にする
「君は愛が理解できないと言ったが、理解に苦しむのは幸福だって同じことだ。
愛も幸福も、それを感じる肝心要の『心』自体が取り出したり分析できない、実体のないものなのだから」
幸せはモノの有無に左右されずになる事ができる。
同時に。幸せになるのにモノはそこまで役に立たない。
…………こんな、ある意味では救われて、同時に救いようのない結論を得るまでかつての人は歩みを止めなかった。
そして止める術さえ手中に収めてしまえば話は単純だ。『横暴によって奪う』事による負の繋がりから『自主的に捧げる』正の繋がりへの転換。
ひたすら食い荒らす獣か、ただただ貪り尽くされる餌か。弱肉強食の掟に縛られ、どちらかに属することを強いられるこの地上で、それは正しく天啓に等しい”発明”だっただろう。
星に
「かつての人間はやる気に満ちて業突く張りだったから、不幸を無駄に抱え込むリスクをしょい込んでまで、幸福の総量を増やしたいと思っていた。
だからかつての地上には愛が溢れていた。情熱を資源として惜しみなくとめどなく、際限なく欲望として消費し続けた」
人が誰かを愛すのは、それが幸せになれると本能で知っているからだ。
人が誰も愛そうとしないのは、それが楽だと理性で解っているからだ。
幸福を増やしたければ人を愛すし、不幸を増やしたくなければ愛すのを止める。
やるもやめるもコストは一切かからない。だってその本質が、どこまで行っても錯覚に過ぎないのだから。
……実際は、『コストはない』とは言っても、それはあくまで杓子定規な理屈の上だ。
幸福を共感するような相手なら無論、不幸も共有してしまうことも往々にしてありえる。
我が子が膝を擦り剥こうものなら、我が事以上に慌てふためく。紛うことなく他人事なのに、不要なまでに親身になり過ぎている。
傷付いたのは決して、自分ではないのに。
一度情を抱いてしまったら、それにしがみつく未練を断ち切るのは難しい。
それが状況が変わって不幸しか
今は違う。現代の人類は、未練が胸中に
そも幸福を希求せず、結果不幸を自分の持ち分以上に抱え込むこともない。
愛し愛されも気まぐれに。錯覚から現実に回帰するのも
「錯覚と言うよりかは、夢かな。夢から覚めるのに抵抗を覚える人がいないように、覚めたまま
夢に溺れるという文化も遥か昔か」
イデアの頃から、容量や合理という制限付きの現実では枷のない空想に及ばないとされたけれど、まさか現実が理想を上回るとは。
神の妄想が世界というのなら、人の妄想である夢程度が及ぶ訳もなかった……と言ってしまえばそれまでだが。
◆ ◆ ◆
流れる様に紡がれたソレに、ふと想起するのはアリシマの君。
十一回目の満月の来訪者。一番新しい求婚者。
わたしを、あいしているといったひと。
御簾越しに自分に向けられた言葉を覚えている。
『私の「愛」は貴女だ!』
『貴方のための献身! 貴方のための労ならば、それはむしろ喜びとなるでしょう』
これを見合いの席で聞いていた時、わたしには意味が分からなかった。
自らを使い潰されることを望む身投げ行為。己を薪と
口説き文句にしても整合性がない、システムの様な安定もない不可思議を、臆面もなく口にするものと。ずっと訝しんでいた。
でも、今。
それがどういう意味を持っていたのか、
彼は、わたしと添い遂げたいと。一つに交わりたいと言ったのだ。
それは肉ではなく心の
ずっとずっと。人間が何千年も続けてきたこと。
人が獣でなくなった時から、ずっと。
裏切られてもかまわない献身、その行動原理の根幹。
愛。
「――――――――」
言葉にできない全能感に知らず身を震わせる。
長年とっかかりすら見えなかったパズルが思いがけない切っ掛けで解けてしまったような陶酔。
咀嚼しきれず猥雑に歪曲していた理解と現実が噛み合った達成感。それに伴う認識世界の拡張。
変化し続ける事が宿命づけられた生命の、愛をも超える最大の行動原理の発露。
未知を既知に塗り替える事でシナプスを切り刻む、ミクロスケールの自傷行為。
今真に思い知る。知るという行為自体を知る。
最初の祖母も月の影で、同じものを授かったのだと。
…………ただ、惜しむらくは。
それを「
◆ ◆ ◆
「…………ご満足、いただけたかな」
「うん」
そう返しつつ、満面の笑みで微笑みかけてくる彼女。…………その顔を見れば、問うまでもないと分かってもいたが。
あれからしばらく、人心地つくまで時を挟んで。
それでも尚、未だ感動冷めやらず、といった風情で佇んでいる彼女。
この夜空に負けない程晴れ渡った、きらきらと輝く表情。楽しくて楽しくて仕方がないらしい。
その面持ちから、先程の問いは彼女の中でも根幹に近い要素を占めていたのだと推測する。
無理もない。何せ生命の原点だ。
そして彼女にとっては、彼女に至るまでに祖が辿った道のりでもある。
人を愛し、人を求め、永遠を捨て去った、月の珊瑚の軌跡。
今まで腑に落ちなかった長年の疑問がすっかり氷解したというなら、感動も
かつて。月に張られた空の氷が、跡形もなく砕けた時のように。
「本のお代はこれでいいわ。十分面白かったから」
「それは重畳。いい取引が出来たよ」
受け取っていた本をようやく自分の物にできた事実を噛みしめる。外套を広げ、袂の内側にゆっくりと本を押し込んだ。すると、たちまち本は水面のように波紋を立てる布の影に沈んでいく。
一連を打って変わって驚いた顔で見つめる少女の顔が少しだけ恥ずかしく、少しだけ誇らしい。してやったり、といった気分。
この外套の中は異空間と化しており、自在に物の出し入れが可能なのだ。彼女が執筆の際用いた文机もここから取り出したもの。着の身着のままで好き放題に各地を
◆
――――――さて。これからどうしたものか。
目当ての品は手に入れた。詳細こそ明らかにはならなかったが、知りたかった珊瑚についても訊けた。
何もかもの切りがいい。悪くない。この因果の廻り合わせにピリオドを打つにいい頃合いだ。
この島に、
…………その事実に、らしくもなく未練を感じた。”何処に”感じているのかは――――具体的には分からないが。
仮に後ろ髪を引かれるところがあれど、所詮は食べ終えた皿を名残惜しそうに眺める感傷に過ぎない。…………筈だ。
ならば。今回もそうだろうし、そうあるべきだ。再びふらふら漂いながら、目新しいものを見つけるなりを待つのがいいだろう。少なくとも、ここに立ち止まり、足踏みを続けるよりかは建設的だ。
…………なのに。当然すぎるその結論を、奇妙なほどに出し渋った。
裁決が下る寸前で踏みとどまっている。
それを他ならぬ自分の意思で行っているという事実に、思わず首を傾けて。
――――本当は、気付いている。
――――それでも。私は、それを我慢できないから。
――――他の誰もがそう形容しようとも、私だけは。
――――それを■だと言っては、いけないのだ。
声にならない苦笑が漏れた。悲嘆の色はなかったと思う。ただ、心底から呆れただけ。
自分がどんな生き物だったのか、思い出しただけの話だった。
ああでも、もう少しだけ。
それ位のわがままなら、きっと
だから。
さしあたっては。そう。折角あんなにも美しいものを見せてもらったのだから。
あの笑顔の対価位、追加で支払ってもいいだろう。
「少し、いいかな」
「? なに?」
別に彼女が望んだ訳でもないし、そもそも必要の有無の相談すらしていない。これは私が自発的に行う等価交換だ。
更に言うのなら、私が彼女に返せるものは
今からすることは、決して大それたことではない。
幸か不幸か。
生憎と今の自分には、大抵の奇跡が思いのままだ。
だから、こそ。
全く――――本当に価値がない。
「なに、大したことでもない――――」
つまるところは単純すぎる。ただそうできる機能があるからやってもいいと。
そんな、思いつきの様な気軽さで。
それを定めた愛を求める理念も。
今まで誰もが及ばなかった困難さも。
それを承知で追い求めた者達の無念も。
そんな事実を何もかも鑑みる事なく、省みる事もなく。
「――――――――君の難題、解いてみようか」
前人未到、神聖不可侵の聖域を。
どこまでもなっていない、
跡形もなく踏み
「死にたくない」と現世にしがみつく者はかつての歴史に多々いたが、「生きていたい」と常世から戻ってきた者はいない。
つまりは。死後の世界とは、さぞ居心地のいい桃源郷なのだろう。
なにしろ旅立った者は誰一人、此岸に帰ろうとはしないのだから。
彼女は月の世界を生きていながら見ることのできる死の世界と言ったけれど。そういう意味でなら、ここも死後の世界と変わらない。
誰も新天地を望まない、人の願いの終着点――――
かつての宗教とは苦難に喘ぐ生者を救うものでありながら、不可思議なことにその救いと安寧は死後にしか
なれど。今一度問うて欲しい。
数多の信念を間違いと断じ、異なる持論を更なる正論で叩き潰し。
多くの過ちを経て、それを正し。多くの正解を積み重ね、それを固め。
そうして幾年月が経った今。我々はようやく、人間同士の争いから解放された。
だがそれは。過ちを認め正すのではなく、問いかける事自体を放棄し掴んだ栄光。
放棄せざるを得ないまでに情熱を燃やし尽くし、彷徨い続けた流浪の果て。
獣と違い、
神と違い、
人である意味も、人である理由も、人の姿形も見失って。
それでも。
それでも。
人間は、生き続ける。
この疑問に解答を。
――――是非を問え。
生を望まず
/ 死を拒まず。
変化を求めず
/ 不変を願わず。
未知を欲さず
/ 既知を重んじず。
果たして。この結末を、『人の歴史』と呼ぶ価値はありや。