星の目覚めに映るのは
ところ変わって、わたしの部屋である。
私的な空間くらい、それなりの愛嬌に満ちている。
女性には欠かせない、身だしなみを整える化粧台に鏡。
開け放っている戸の方に目を向ければ、月が見えるあの丘とは違う、丹精に整えられた緑いっぱいの庭が一望できた。
差してくる陽光は、目を眩ませられない程度に部屋の中を照らし上げる。
その光で様々な色彩が浮かび上がる
見るも相応しくない、物々しい代物がでんと存在を主張していた。
正面には木石の文鎮と和紙。
右方には筆と
左方には代えの半紙の山。
わたしは彼との約束を果たす為に、日ごろは埃を被ってる机に膝立ちで向かい合い、今まさに、執筆に取り掛からんとしていた。
硯には既に磨った墨がたっぷりと湛えられており、望めばいつでも前方の純白に黒色を混ぜ込むことが可能だ。
…………うん、準備万端。
もう開始に必要なのは気構えだけ。
肝心要のそれが自分に揃っているとは言えないけど。
「うーん……ま、やるしかないか……」
二の足を踏んでも仕方がない……なんて消極的な決意くらいはもっている。
そんな風にぼやきながら組んでいた腕を解いて、筆を硯に溜まった墨に浸した。
「ん……」
半紙に筆先を置き、とりあえず思い当たる文字を書いてみる。こう、ぐぐぐっと。
そもそも文字を読めない以上、あんまり注意深く眺めたこともないし、どこをどう区切ればいいのかなんてさっぱり。
ひとつひとつに「書き順」なんてものもあるらしいけど、わたしは全く詳しくない。
でも、大体こんな感じよね?
「……その記号というか、図形染みた物は文字なのかな?」
「ん? そのつもりだけど何に見えるの?」
「…………、……その、文字のつもりだろうというのは察したんだけれど……何と表現すればいいのかの
「…………考えてみれば、初めて書いたんだから当然よね」
手元を覗き込んだ後、難しい顔でうんうん
でも覚束ない試みも決して無駄ではなかったらしく、一転して明るい表情に。
駄目なところばかりじゃなく、喜ばしい発見もあったみたい。
「だが、一安心できる要素もある。
盲目の者が色彩を識別できない様に、何らかの先天的な理由で文字が書けない……という訳ではないことが解ったから」
「そうね……わたし以外は、ある程度書けると思うけど」
「文字……言語とは『何を重視しているか』を基点に差異ある物を区別することで、
相手の
なので、まずは思考を文字に起こすこと自体に慣れてみるのが先決かな」
書き順に沿って書いてみるだけでも随分違うし、と彼は締め括った。
本当なら今日から物語を書き始める予定だったけど、どうやら変更になるみたい。
どうするかが固まってしまう前に、ちょっと思ったことを尋ねてみる。
「でも、そんなに苦労して文字を
わたしが実際にそうだし。例えば今、彼がどれだけ熟練した腕を発揮して何を書いても、読めないわたしには空振りにしかならない。
そう思いながら、和紙を押さえてるそれをちらっと
「そうだね。というか、それは原理的に無理だ。言葉にそこまでの機能はない。
たとえ文章を自在に操れても、完全に意図を『伝える』というのは不可能だよ。生憎だけれどね」
「ねえ。それなら貴方がわたしの言葉を聞き取って文字にしたほうが早くない?」
そう打診してみる。どうせ伝えきれないものが在るのなら、零れ落ちるのを織り込み済みにした方がよっぽどお手軽でいいと思ったのだ。
……実は、割増しになりそうな作業量を億劫に思ったのは秘密。
「無論検討はしたのだけれど、やはり私経由だと二重に
折角書くのなら、出来る限りは自然のままで。そちらの方が君としても好ましいと思うよ」
「…………うん」
「なに、こと順応能力において、君たちは特筆に値する。
私の言語習熟の域に直ぐにでも達するよ」
「『君たち』って、この島の人間ってこと? わたしたちも充分『情熱を失ってしまった人類』だけど――――」
「? いや、言葉そのままの意味だけれど……」
「…………」
なるほど。たしかに少し会話が
このまま原案だけ出して書くのを任せるのは確かに不安。彼だって落ち着かないだろう。
こっちの返答を待つ彼をじいっと眺めながらちょっとだけため息。
それは落ち込みを表すものではなく、気分をリセットするためのもの。
――――書くって、一度決めたからには。
「ちょっと、頑張ってみますか」
気合を入れて改めてそう宣言すると、彼はにっこりと嬉しそうに笑った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
むかしむかしのお話です。
影の海という処に、女の子の形をした、一つの石がありました。
美しい髪と、可愛らしい唇。
誰もが好きになってしまう、そんな形をしていました。
女の子のまわりにはくるぶしほどの湖と、見上げるばかりの
なぜそんな姿になったのかわからないけど。
女の子はたくさんの人に望まれて目を覚ましたお姫さまでした。
でも、お姫様が目覚めた時。
お姫さまを待ち望んでいた人たちは、ただのひとりもいなくなっていました。
☆ ☆ ☆
空に氷。氷に空。
この世界を温かな氷で包んでほしいと彼女はお願いされていました。
誰にお願いされていたかは定かではありません。
彼女が望まれていた時にたくさんいた人々は、彼女が目覚めた時には みんなきれいに消えてしまっていたからです。
ひとりぼっちになったところで、彼女は多くの仮説を楽しみました。
不慮の事故。
不幸な
自発的な永眠。
あれこれ仮説を潰していく中、ふと彼女はこの国の法律を閲覧しました。
司法
こちらの住人はあちらの住人との恋を禁じる。
このルールを破ったものは、地上への落下刑に処す。
もしかすると。
人々はその罪でみーんなあちら側に落ちていったのかもしれません。
”うんうん”と……
いえ、首は一ミリも動かないので、気持ち的に
それでも彼女は真面目だったので、望まれた仕事を続けます。
都市部への余分な元素提供をカット。
娯楽施設も必要ありません。
その分を環境調整に費やします。
影の海は半世紀ほどで、樹木と空を完備した都市になりました。
樹木は石灰で、空は氷を張っただけのニセモノですが。
人々が望んだコトは、人々さえいなければ、こんなにも簡単にできることでした。
☆ ☆ ☆
七つの海を作ってからさらに半世紀。
望みを叶えれば戻ってくると思われた人々は、けれど影も形もありません。
音のない世界にひとりきり。
彼女は氷に映る、ここからでは決して見ることのできない青い星を見上げます。
人々はあの星に旅だったのでしょうか。
せっかく美しい森を作ったのに誰も見てくれないのでは、それこそ骨折り損というものです。
なにしろ彼女は、この森になんの思い入れもないのですから。
そんなある日のこと。
――――――ある日のこと……
「おや? 妙に思いつめたような顔だね。何か
月光が差す洞窟。水面に光が跳ね返って、陰になる空間にも柔らかく灯りが当たる。
穏やかな静寂に包まれたそこは、静かに筆を進めるのにうってつけだろう――――と、今回執筆の場所として採用した。
即席の
…………そんな気遣わしげな表情をさせる位、陰鬱な表情だったのだろうか。
心当たりは、あるけど。
「そういうのじゃないけど…………ここからね……もう一人、登場人物が出てくるの。
わたし、その人のこと、なんかこう…………あんまり好きになれないのよ。
でもその気持ちが入っちゃうと、おばあちゃんの話と違っちゃうじゃない?」
尻込みしていたのはそこだ。
わたしはあくまで書き手であって登場人物じゃない。
それでも、彼女が自分がいる環境に対して抱いていた気持ちは理解できる。
けど、もう一人の登場人物に対する気持ちの方は理解できない。
これが単なるわたしの空想の物語ならまだしも、書くのは伝記に近いとはいえ事実ありき。
彼女の真意がよくわからないのに、そんな
そんな腑に落ちない物を抱えたまま紙幅を費やすのは、正直…………
なんて煩悶と葛藤で、難しい顔をする私の言を。
「いや、構わないよ」
数瞬間が空いたものの、彼はそんな風にあっさりと聞き入れてくれた。
洞窟に声を
「私が欲しいのは客観的事実ではなく、
客観的事実なんて見てもつまらない。歴史の年表みたいに『いつ・何処で・誰が・何を・どのように』をひたすら並べた味気ない事柄の羅列はお呼びでない。それはそれで記録としては価値がありそうだけれど、今回私は求めていない。
どこまでも独り善がりな『いつ・何処で・誰が・何を・どのようにして、”どう思ったか”』を記した、生きた物語こそが知りたいんだ」
「随分と大げさね」
壮大なスケールに膨れ上がった表現に思わず笑みを零しつつ。
その内容を吟味しながら今の自分たちの暮らしを振り返ってみると、少しだけ疑念が湧いてくる。
生きた物語……
わたしが今、紡ごうとしている物語は。
本当にそう呼ぶに相応しいのか。
人々が情熱を失って。
築き上げた文明を手放して。
お互いに傷つけ合い磨き抜く事も無くなって。
何も生み出さず、際立って失う事も無い。
そんな目的もないフワフワとしたその日暮らしでも「生きた」内に入るのかな……
おばあちゃんの歌じゃないけど、本当に
…………海月。そう海月だ。
確か彼は、初対面の時に随分と不思議な表現をしていたような気がする。
ふと記憶の琴線に触れた物を、奥底から括りつけるように引っ張り出して舌に乗せた。
「そういえば。
初めて会ったとき言ってたわね。海月が『
あれってどういう意味?」
『強か』なんて、あんな水中でふわふわ漂う、自己主張のない透明色な生き物には随分そぐわない評価だと思う。
…………自己主張の塊みたいな、極端な二色の彼ならなおさら。
「遥か昔の話だが、ある種の海月が、幻想種でもない身で単体による『永続』を成し遂げたケースがあるんだ。
自身が燃え尽きた灰から新生する不死鳥に例える者もいる、なかなかに柔軟で強靭な生命なんだよ」
彼はやっぱり、穏やかな口調で幻想的な言葉を返した。
「へえ……」
ふと目線を傾けると、足を浸す今も
どんなざあざあ降りでも傷む事も穴が開く事もない、そも始まりから水の中な、澄み切った雨よけ。
見た目や振る舞いから頼りなさげな印象を抱いたわたしと。
生態や仕組みから生命らしからぬ強靭さを見出した彼。
同じものを知って、同じものを見ているのに。
全く違う結論を出している。
でも、今。
それを、違っていることを悪いことだと思わない。
「見方が変われば意味も変わる、か……」
すとんと、わだかまりが解けて腑に落ちた感じがする。
彼が何を求めて、何を
それなら。
わたしはわたしの書き方で。
解けない疑問も、見えない不安も。ありのままに――――