二度目の初恋を月の下で   作:檻@102768

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 ”増える”を主眼に置いた生命の定義の話です。
 ”変わる”と比較してどんな差があるのか、どんな共通点があるのか。

 もし興味をそそられたのなら、どうぞ。

 






解説
生命の定義 比較


 本作で、変わらない(死なない=死ぬ機能がない)ものは生命でないと述べました。

 月の珊瑚では、増えることが生命の義務と説明されました。

 

 この差はどこから来るのか。

 

 

 それは、私の”変わる”は個に対して視点を当てたものですが、

 ”増える”は全体、群体に対して重点を置いたものだからです。

 

 

 なので全体を「単体の集合」として見た場合、究極的には”変わる”事を求めているともいえます。

 それを『当代で行う』か『次代で行う』かの話ですね。

 

 ちなみに、単体と群体がイコールな存在だと、その両方を満たさずとも生命とも呼べます。

 〆に詳しく述べますので、良ければ脳裏にとどめておいてください。

 

 

 

 詳しく解説しましょう。

 

 

 そもそもなぜ生命である私たちは死ななくてはならないのでしょうか? 道徳的な話ではありません。単純に機能の問題です。

 どうせ死ぬのなら生まれる意味がない――――なんて考えたことは、誰でも一度はあるでしょう。

 

 答えは単純。順序が逆なのです。

 

 私達は()()()()()()()()()()()()()()()()のです。

 

 

 例えばの話。何らかの原因で、人間から死が失われ、生まれる事だけになったらどうなるでしょう?

 人間は増えるだけ、減ることが無くなったのなら。果たして世界はどうなるのでしょうか?

 

 もし最初に100人の人間がいたとします。内訳は男性と女性が半々としましょう。これが余りなく結ばれれば、計50組のペアが出来上がります。

 そのペアがそれぞれ子を為したのなら、人数は5割増しの150人になります。

 無論この第二世代も子供を産みますから、次の世代は新たな50人のペアの半分を加算し175人に……では、ないのです。

 親の世代が残っている以上、その親も第二子をもうけるでしょう。なので順当に増えたのなら、次の人数はそれに第一世代のペア数50を加え225人が正解です。

 倍々ゲームにやや足りないくらいですね。それでも結構なハイペースですが。

 

 ここまではめでたい話。誰も死なずただ増えるだけで子宝沢山喜び一杯万々歳…………とは問屋がおろしません。

 一つ重要な問題を、不死では解決できないのです。……否、不死”だからこそ”発生してしまう問題があるのです。

 

 

 その答えは”リソース”です。

 

 それは食糧の話であり空間の話です。

 

 

 仮に第一世代の5倍までを十全に賄える食料が星から常に提供されるとしましょう。

 日の光や大地の恵み、飲み水等を換算し、大雑把に量にして500。これが世代ごとに再出すると仮定します。

 折角なので余剰分は備蓄に回すという前提で進めていきましょう。

 

 

 なので第一世代100人のみなら皆おなか一杯です。備蓄できた資源は400です。

 これに第二世代が誕生したらどうしましょう? 150人です。まだまだ余裕です。資源は残り400(備蓄)+500(新資源)-150(消費)=750です。

 次は225人です。残りは750+500-225=1025です。子も備蓄も順調に増えていますね。めでたい事です。

 その次は338人です。残りは1025+500-338=1187です。うんうん。良きかな良きかな。

 またその次は506人です。1187+500-506=1181です。…………ん? 初めて備蓄の追加に失敗しましたね?

 またまたその次は759人です。1181+500-759=992です。結構備蓄を消費してしまっていますね。

 で、ついに次の世代は1139人です。992+500-1139=283です。マズいです。もう底をつく寸前です。

 その次は1708人。283+500-1708=-926です。大赤字です。

 不幸にもマイナスを埋める手段なんてないので、半数以上が飢えるか、消費を半分以下にするか位です。やってられません。

 更に次は2562人。もう考えるのも嫌ですね!

 

 もう逆倍々ゲームみたいなものですね。当たり前ですが。

 一度マイナスが出ると復帰させる手段なんてなく、残量を延々と希釈し続ける羽目になります。元がどれだけ矮小だろうが、世代を重ね続ける限り破綻を避けられません。

 

 

 ま、実際にはここまではいきませんけれどね。それ以前に、分配する生命力の基点である食料が無くなった時点で、繁殖自体が出来なくなりますから。

 『子供を産む』というのは、想像を絶するくらいにエネルギーを必要とするものなのです。…………時に、母体もろとも事切れてしまう位には。

 

 

 さて、次は生き残った者同士でパイの取り合いになります。

 その内共食いでも起こすしかありませんね。だって食べるものがないんですから。

 新たに提供される分で満たされなければ、既にあるモノを食べる位しかないでしょう?

 

 ああでもどうしましょう。素晴らしいことに不死なのです。この段になってはこんな傍迷惑な奇跡は他にありませんね。だって殺しても死なないんですもの。

 死んだ人なんてただの肉でしかありませんが、死なない肉は生きた人です。それでも食べるしかない。生きたままで。

 そんな踊り食い、私なら遠慮したいですね。胃の中から食い破られそうです。どこのエイリアンだ。

 

 

 ま、無理もありません。

 それが形而上の(かたちない)ものであれ形而下の(かたちある)ものであれ、この宇宙に無限の資源など存在しません。

 私達の宇宙は閉じており、最後には無に帰る事で帳尻を合わせるのだから。

 

 

 そして。

 

 もし無に帰る(死ぬ)機能が失せたのなら、一体どうなるかなんて知れたこと。

 

 

 

 だから人間を一個生命でなく社会生物として見た場合、”死”とは本来”生”の中でも、『生』きる事(せいぞん)ではなく『生』まれる事(はんしょく)に付随する機能なのですね。

 

 

 

 

 

 

 述べておきます。人類は完全な存在ではありません。

 

 なのでより優れた生命になるために、小刻みにステップアップを行います。

 時に環境に適応し時に研鑽を積み時に天敵を排除し……と、段階を刻んでいく訳ですが、ここで『人類は常に進歩している』という前提で見ると、旧世代は新世代が生まれた時点で用済みになります。

 それは無意味ではありませんが、無価値です。…………否、自ずと『無価値になる』。

 

 だっていうなれば進歩するために、次の世代を更なる高みへ(いざな)う、踏み台になる為のものですから。

 だからそこを通り過ぎた以上は、もう誰も目もくれなくなる。

 

 いらなくなったものは、処分しないといけません。この種全体で処分する機能が、”死”な訳ですね。

 もしこの機能が無くなると、先程述べた終末世界(パンデミック)が発生します。

 

 で、この進歩も”変わる”生命機能です。立ち止まらない、安定しない。

 より良い生命にランクアップするために、今の自分を塗り替えていく。

 そして”増える”というのは、これを世代を跨いで実現させる機能です。

 

 それが異性同士の配合(かけあわせ)しかり、単一個体の複製(ぶんれつ)突然変異(メタモルフォーゼ)しかり。

 共通しているのは、新世代(つぎ)旧世代(まえ)と違うモノになる事を目的に行われるという事。

 

 暑い地域に住んでいる人と寒い地域に住んでいる人は、それぞれの地域に適した耐性を持っているでしょう。

 もしこの二人が子を為したのなら、生まれてきた子供は『暑い場所にも寒い場所にも対応できる』体質が期待できます。

 

 こんなハイブリッドが生まれた以上は、型落ち片手落ちな両親なんて必要ありません。

 次世代の為に食い扶持を減らして(いなくなって)もらうに越したことはないでしょう。

 

 次は……なんでしょう? 例えば乾燥地域と湿潤地域の掛け合わせの子供と更に掛け合わせれば、4種類の耐性を持つ次々世代が期待できますね。

 或いは運動能力が高いとか、思考速度が速いとか。そういった相手と番えば、できることの幅もより広くなるでしょう。

 それを延々と続けていく。

 

 

 繰り返し言いますが、生命というのは本来子を為した時点で用済みになります。

 なので『子を為した後も生存している生命』って生物全体から見ればかなりの少数派です。身近な例では鮭なんかが有名ですね。

 苦労して川を遡って、一度繁殖を済ませたらその時点で息絶える。

 他にはカマキリなんかもそうですね。

 オスがメスに遺伝子情報を提供し終えたらメスに食べられる。

 

 これ残酷に思えるかもしれませんが、種の存続という視点からなら極めて合理的なんです。要するに使い道のない残骸を食料資源として次代の糧にできている訳ですから。昆虫はそのあたり群体生命としての完成度が高いものが多いので、一度興味を持たれたのなら調べてみるのも面白いかと。

 

 

 要するに生命の根源である生命力、繁殖力とは、如何に既存のコミュニティ、旧世代を自壊させるかのペースのことなんですね。

 

 『より』完成度の高い新世代を築き上げる、既存の欠陥を改善しリメイクする新陳代謝、自浄機能と言い換えてもいい。

 

 

 完全足りえないながらも、私達が生存していられるのはこういう事。

 完全に近づいていく。その過程に存在が許される。生も死も超越し、『生物として完成(いつだつ)』するまでは。

 

 生命とは()()()()()()()()()()ですが、生物とは()()()()()()()()()の一種なのですね。

 

 

 ちなみに私達は有限の宇宙にいる有限の存在なので(つまり無限=全能・完全に至れないので)、人間である限り延々と生存することになります。

 『不完全として完成している』矛盾存在。

 

 数字に上限がないのと同じで、有限の耐性も優秀さもいくら積み重ねても無限にならない。

 でも積み重ねる。届かないのはわかっているけれど、それでも、人間(それ)はそういうものだから。

 『終わりがないのが終わり』と遺伝子(システム)に組み込まれているのはいい事なのか悪い事なのか。それは(のち)の歴史が決める事。

 

 まぁ深く悩んでも仕方がないので(というか、どんな結論も改良された新世代に否定され得る余地があるので)、『人間は完成できない』なんて考えもいつか「それは違う! あなたは間違っている!」と言ってくれる人が現れるのを待って、未来に下駄を預けておきましょう。

 

 

 

 更なる蛇足ですが、これに人間以外で優れているのがペイルライダーでおなじみ病気だったりします。

 

 毎年騒がれているインフルエンザなんて皆さんうんざりした顔で見ているでしょうが、実際あれは同名を持つだけで実質別物です。中身はそっくり入れ替わっているぐらいの認識で全く問題ありません。

 去年ワクチンを打ったり抗体をつけたりした筈なのにたった一年後に再びかかる様な病なんて普通に考えて存在しません。

 

(ちなみに生命学では暫定的に、インフルエンザを始めとしたウィルスは生命でない……という事になっています。生命は存在の最小単位に『細胞を持つこと』が暫定条件とされていますが、ウィルスは持たないので。

 ですが人に感染し、それを素材に増殖・変異する以上、原作や今作の定義に見合って言うのなら、ウィルスも紛う事無く生命と呼ぶ事ができるでしょう)

 

 

 

 ちなみにこれは社会制度などの、自然以外の環境も含めます。

 

 文字を生み出して、

 学問を生み出して、

 経済を生み出して、

 宗教を生み出して…………と、色々Ver.アップさせていますね。

 だからこその問題も山ほど出てきていますが。

 

 文字:識字率格差

 学問:能力格差

 経済:貧富の格差

 宗教:言わずもがな

 

 

 現状の最新社会モデル・資本主義も、貧富の格差を始めとした問題がかなり積み重なっています。

 まぁ人間が完全でない以上、人間が創出する物だって完全足りえないのが道理ですし。

 

 資本主義って能力主義と言い換えられますが、その上で問題があるのなら普通は「人間は能力が全てじゃない! 一人一人を平等に扱うべきだ!」ってなりそうですが、それを標榜していた旧世代モデル・共産主義がコケたので、次世代モデルはかなり五里霧中みたいです。

 

 

(ちなみに共産主義が廃されたのは、ひとえに徹底的に効率的ではなかったからです。

 人間って全員能力が違うのに、同じように扱おうとするとかなり無理が生じます。高校や大学に偏差値や学部を設けず、教える内容全部統一するみたいなものですから。この時点で『適材適所』という概念が一切考慮されなくなります。

 それに向き不向きはどうしても出る。でも頭数で平等を考えると、能力差はあっても報酬・給与が同じになります。

 

 …………能力差が加味されない(=能力を上げるための努力が報われない)のに真面目に勉強する人なんていませんよね。

 

 結果誰も頑張る人が居なくなって経済成長とかが滞りまくり、国内の生産率がダダ下がりして諸外国と差が開き過ぎてしまって……と駄目な事続きだったので、ソ連を始めとした共産主義国家は「ごめんこの主義無理」と撤回を申し出ました。それが俗にいうソ連崩壊。

 無論これだけが理由ではありませんが、原因の一端を担っていたのは間違いありません。

 

 以上ちょっとした歴史背景でした)

 

 

 頭数の平等では駄目で、能力の平等も不具合ありとくれば、次はどんな視点で平等を掲げる制度になるのやら。

 

 

 

 

 

 

 水は、そのまま置いておけば淀んで腐る。何をするまでもなく。何もしていないのに。

 

 元の”水”は死に、それを苗床に新たなものが生まれる。

 水を素材に細菌が繁殖し、次第に”腐った水”という新たなコロニーが出来上がる。

 そうして生まれた細菌を苗床(エサ)にまた新たなものが生まれる。

 突然変異だったり、外部からの侵略だったりと要因は様々ながら、刻一刻と変化し変動し違うモノに入れ替わっていく。

 

 

 では仮により厳重に、徹底的に滅菌した上で密封したのなら。

 その水はどうなるでしょうか?

 

 

 きっと、何も変わらないでしょう。

 何もしていないのだから。

 息を、していないのだから。

 (いき)を、していないのだから。

 

 中にある生命生物を全て滅殺しきったのなら…………要するに全てが死骸と変わらない。

 奪う事も奪われる事もない、死の閉鎖世界。

 

 

 ですが仮に自分だけで完結し、なおかつ”生きているもの”があるとするのなら――――それは正真正銘、”繁殖(ふえること)も”変動(かわること)”もしないにもかかわらず、生命であると断言できるでしょう。

 

 

 

 自分だけで循環するもの――――

 

 何者にも奪われる事がないほど強く、

 何者からも奪う必要が無いほど強い。

 

 それを寂しいと思う弱さすら、無い何か。

 

 

 まるで神様のような、完成した命。

 自分だけで完結し、賄うモノ。

 

 

 時に神とも崇められる、幻想の頂点。

 でも神とは違う、生命の頂点。肉持つ幻想。

 

 

 

 それを一般では――――――――――――龍、と呼びますね。

 

 

 

 龍は神話上では河の氾濫が元になっているものが多いのですが、それは水という生命に必要不可欠な液体がモチーフなのは偶然ではないでしょう。

 

 生命に必須なもの自体(そのもの)を擬神化した結果。

 冒頭に述べた、『単体と群体がイコールな存在』。ただ一つで種を為し得るモノ。

 

 

 尾を喰らう蛇(ウロボロス)を始めとして龍の類が永遠の代名詞とされるのは、『生きていながら』奪わないし奪われない、生死を超越した理想の完成形・集大成だから…………という面があるのでしょう。

 







 以上、生命についてでした。

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