「う…」
目を覚ましてまず気づいたのは、ひどく喉がいがらっぽいと言うことだった。
そして次に頭を占めたのは悔しさだった。ウィーズリーに負けた。
マルフォイは宙吊りから降ろされて必要の部屋の外にクラップゴイルとともに寝かされていた。誰がそうしたかは明白だった。
敗者への礼節も忘れないってか?
気取りやがって。
痛む身体を引きずりながら、マルフォイはのそのそと立ち上がり廊下を進んだ。
爆発音と、遠くに燃え盛る炎。
ハリー達が負けているとは思えなかったが、それでもマルフォイはそこへ向かった。
轟音を上げて崩れ行く校舎。
まるで世界の終わりだ。
父と母の安否を祈りながら渡り廊下を走っていると、突然目の前に篝火が降ってきた。
それは火の粉を撒き散らし冷たい石板の上に投げ出された。
突然の明かりに目が一瞬使えなくなる。よくよく目を凝らしてみると、炎に焼かれてるのはハーマイオニーだった。
「やれやれ…あんたのおばさん、なかなか手こずったわ」
ハーマイオニーは頬についた灰を払うとマルフォイを見ていたずらっぽく笑った。
そして星が爆発したような眩い光が見えた後、マルフォイは倒壊する天文塔を見た。ハーマイオニーに担がれ、次の瞬間にはその現場に運ばれていた。
マルフォイは胃が投げ出されたような浮遊感を味わうと同時に例のあの人が地面にめり込み、力なく項垂れてるのを目撃した。
これが、力…
天から舞い降りるハリーを見て、マルフォイは確信した。
そうか、やはり筋肉が…
筋肉こそが魔法使いに求められる力だったんだ…!
あの人はハリーに敗北した。ハリーは筋肉の愛により心の筋力においてもあの人に圧勝したのだ。
あの人は今度こそ地面に崩れ落ちた。
しかし、地面に何か落ちているのを発見し、不敵に笑い始めた。
「天は俺様に味方した!」
そして緑の光がハリーを撃ち抜いた。
「…あれ?」
ハリーは自分がさっきまで何をしていたのか思い出せなかった。自分の両手を見る。ひどくやせっぽっちで頼りない骨だけの両手。
ああ、夢か…。
ハリーは筋肉のない己を見てようやく先程の衝撃を思い出した。
緑の光と、心を引き裂かれるような悲しみ。
今自分がいるのは、真っ白な光に四方から照らされたキングスクロス駅だ。ひどく眩しいのに不思議と目は痛くない。
「久しぶりじゃのう」
懐かしい声が聞こえた。
ハリーのすぐ横に死んだはずのダンブルドアが立っていた。
これまた不思議なことに、いまダンブルドアが横に立っていることはひどく自然なことのように思えた。
「ダンブルドア先生…」
「ハリー、ようがんばった。誇りに思う」
「僕は死んだんでしょうか」
「いいや、死んじゃおらんよ」
ダンブルドアは生前と何ら変わらない優しい笑みをこぼす。
「まさか…呪文が筋肉を貫くなんて」
ハリーは安心感と悔しさと懐かしさと、いろんな感情ですっかり頭が混乱してしまった。キラキラした涙が頬を伝う。ダンブルドアがやわらかい紫のハンカチでそれをふいた。
「いいや、ハリー。君の筋肉は貫かれてなんかおらんよ。」
「けど、すごく痛いんです…」
「それは心の痛みじゃよ。…少し歩こうかの」
ダンブルドアは立ち上がると、どこまでも続くレールの先を見ながらホームを歩きだす。ハリーも慌ててついていく。
筋肉のない体は軽かった。
「君は立派に戦った。筋肉を鍛え、対話し、より高みへ登っていけた。その痛みは、同じ力を持つものと全力で戦い…そのものに裏切られた痛みじゃよ」
ホームの先にベンチがある。
真っ白い世界にそぐわないほど鮮やかな赤が行く手を遮っていた。ひどく嫌な感じがする。錆びた銅の匂いが立ち込めた。
「筋肉を裏切ったものの末路じゃよ」
ダンブルドアは悲しそうに言った。
「君は最後の分霊箱じゃった。ヴォルデモートの呪文はたしかに君を貫いた。しかし、君の中にあるヴォルデモート自身の魂を貫いたのじゃ。」
細切れの肉を思わせるそれは、胎児のように力ない6年前のヴォルデモートだった。影と霞に過ぎない哀れな生き物はがさがさの喉を震わせて必死に呼吸していた。
「君の心の筋肉は彼の力では貫けなかったんじゃよ」
心…とハリーは小さく繰り返した。
「先生…僕の、僕の筋肉はどこですか?」
「あるとも。君の心に」
「そういう問題じゃないんです!体のはなしですよ!」
ダンブルドアはキョトンとした顔でハリーを上から下まで見た。
「僕の筋肉は呪文を防げなかった!それが悔しくてたまらない!!早く帰ってトレーニングしないと」
「そうか…君はもうワシのしってる小さな男の子ではないのだな…」
汽笛がなった。
次第に大きくなる音とともに光も強くなっていく気がする。
ダンブルドアの姿が光に溶けていく。
「存分に鍛えるといい。筋肉はいつだって君を裏切らない」
「はい。あ!先生、ここは一体何だったんですか?」
次第にダンブルドアの輪郭が消えていく。ハリーの視界いっぱいが白く塗りつぶされていく。
神々しい光に包まれた駅に汽車がやってきた。
「ここはすべての筋肉がうまれ、やがて至る場所じゃよ」
ダンブルドアの着ている薄い布が光に溶けてしまったとき、ハリーははっと気がついた。
ダンブルドアの肉体に宿る老いてもなお輝く筋肉を…完璧な肉体を。
「すべての筋肉に幸あれ」
筋肉こそすべて。
筋肉が世界の真理だったんだ。
よく分からないが、きっとそういう事なのだ。
空だ。
夜明け前の溶かしたような空色が視界に広がっている。
星はまだ瞬いていて、数光年も前の光を放っている。何十億もある星星が雫のように煌いている。
清浄な気分だ。
ハリーは起き上がった。
身体は無事だ。
自分を殺そうとした男を見た。
彼は最後の力を全て出してしまったように、枯れ葉が枝から落ちてしまうときのように、風に吹かれて崩れ落ちた。
周囲は呆然とそれを見守っていた。
ハーマイオニーの歓喜の叫びが、ロンがハリーの名前を呼ぶ声が聞こえる。
世界は喜びに満ち溢れていく。
沢山の歓声と覚めやらぬ熱気にハリーの意識は塗りつぶされた。
けれどもあの駅の光景はいつまでもハリーの心に残っていた。
夜は終わったのだ。