――酔って寝ている間にガリア軍がクローデンの森を奪還した。
その吉報は直ぐにメルフェア市を駆け巡る。
俺が起きてきた昼頃には市民のほとんどに情報が回っていたぐらいだ。
そこからも彼らの関心が窺える。町中が喜びに包まれていた。
その一方で俺は二日酔いに悩まされていた。
口当たりが甘くて飲み過ぎたのもあるが、アルコール度数も相当の物だったのだろう。酒に関しては自信があったんだけどな。粉々に打ち砕かれた気分だ。
やつれた顔で一階に降りて来た俺は、
宿屋のカフェテラスで酔い覚ましのコーヒーを一杯飲む。
前に座るイムカの呆れ混じりの視線が痛い。彼女はもう先に座って俺を待っていた。
――頼むからそんな目で見ないでくれ。事情は教えたよな?
調子を取り戻すのに幾ばくかの時間を要した。
周りからは愛する妻との慎ましいティータイムにしか見えない筈だ。
部屋の隅で後ろにも人は居ない。
声を落として俺は言った。
「それでどうだった」
「うん、ハルトの見立て通り。
この街に着いてからハルトを尾行していた男は――この国の諜報員だと思う」
それをいち早く察知したのはイムカだった。
この街に着いてから宿屋に入った後も何者かの視線を感じると聞いて、俺達は一芝居を打つことにした。道楽の若者を演じて浴びるように酒を飲み続けたのもその為だ。
後は根気くらべだ。市民と酒を飲み続けるだけの俺に、初期調査を諦めて帰る男を、先に部屋で休ませていたと見せかけたイムカにその男をつけさせたのだ。誤算は紺比べが朝方まで続くとは思わなかった事だが。
「やっぱりか。つまり国境の時点で勘ぐられていたと云う事か」
なるほどな。一度安心させてから大きな街に滞在する仲間に身辺を調査させる作戦か。国境を通過できた安心感でボロを出させる狙いだな。メルフェア市は南部から入ると必ず通過する事になるから、ふるいにかけるにはうってつけの場所だ。
――なんだ思ったよりずっと優秀じゃないかガリア軍。
彼らを過小評価し過ぎていたかもしれない。これなら期待できるな。
俺がわざわざ手を貸す必要もないかもしれない。
だがここまで来た以上、潜入計画は進行する。
俺達は何としてもランドグリーズに向かわなければならないのだ。
「張り込ませているだけなら俺達の素性に気付いた訳ではないだろう。
――だが分からないな。なぜ勘づかれたんだろうパスは完璧だったはず」
「それはきっと目だと思う」
「目?たったそれだけでか?」
「訓練した者なら目だけで対象の情報を読み取る事が出来る。
それにハルトの目は一般人のそれとは明らかに違うから」
考えた事も無かったな。.....目か。
目を見ただけの情報だけで俺を追い詰める。
これから俺はそんな敵を相手にしなければならない。
ガリアの暗部を甘く見ると一瞬で詰むな。
今回はイムカが気づいてくれたから助かったが、次もこう上手くいく保障はどこにもない。油断はできない。気を引き締めないとならない。
同じ思いのイムカもコクリと頷く。
ならばやるべきことは一つだ。出立の準備だ。
ラインハルトは立ちあがる。
真剣な顔つきで彼は言った。
「これから俺とデートに行くぞ」
「......え?」
思ってた言葉と違う。とイムカは思った。
**
外はちょっとしたお祭り状態だった。
街を襲う危機が一旦は遠のいたのだ。喜ばないはずがない。
賑やかな大通りを突き進み街を見て回る。
昼食は露店で買い食いだ。
「コレとコレをくれ」
「はいよ!」
頼むと露店のおっちゃんが手際よく調理を始める。
周囲に焼き肉の香ばしい匂いが漂う。
唾が喉を伝う。すきっ腹には堪える。そうして手渡されたのは牛肉の串焼きとテールスープだ。ガリアの通貨ダカット(DUCAT)を支払ってイムカにも串を渡す。キョトンとしている。手慣れている俺がそんなにオカシイのだろうか。平民の料理くらい俺だって食べる。
それに今は連邦市民だからな。皇子としての体裁なんて気にする必要は無い。
勢いよく肉汁滴る焼き串に齧り付いても咎める者は居ないのだから。
.....おお、美味い。炭火で焼いているから外はカリッと中はジューシーな出来合いだ。
何度も咀嚼しないと噛み切れないが、噛めば噛むほど旨味が出てくる。口の中に残った油をコップに入ったテールスープで押し流すのも何とも言い難い。凝縮された骨髄のエキスが大量に入っていて口当たりは濃厚だ。濃い目の肉料理を更に濃ゆいスープで上回るとはな。露店ならではの荒々しい料理だ。
それにしても、飲み終わったコップを返しながら俺は露店のおっちゃんに聞いた。
周りを見渡しながら、
「ここは食糧販売店が多いな。どこを見ても飲食店ばかりだ」
「当たり前だ!ここはガリアでも有数の穀倉地帯だぜ。知らないのか?ガリア国民の三分の二の腹はメルフェアが満たすって言われてるぐらいなんだぜ!」
「南部の生産自給力が高いのは知っていたが聞くのと見るのでは違うな。此処がガリアの食糧生産流通の入口か.....」
一大生産都市であるメルフェア市が発端となって物資が全国に流通する。
ガリア軍の関心は王都の次に高いはずだ。
この流通ルートを封鎖されればガリア国民の半数以上が飢える事になるからだ。
そう考えるとガリア正規軍ではなく義勇軍が南部の防衛を任されたのも頷ける。
ガリア正規軍は中部方面の防衛に大勢力を展開している。
理由は王都を守るのもあるが、半分は南部から送られる物資の流通ルートを確保するためだろう。
兵站物資は戦争において最も大事な要素の一つだ。
これを維持できるかで戦局は大きく変わる。
逆に言えば兵站の維持に労力を割いている間は戦争を諦めていないと云う事だ。
朗報だ。ガリア軍はまだ戦う意思を棄ててはいない。
俺は焼き串をもう一本買ってその場を後にした。
**
――三時間後、
イムカは喧騒から遠く離れた広場のベンチに座っていた。
連れまわした当のラインハルトは何処かに行ってしまった。
商会の男と会って来ると言っていた。
どうやらこの時間に落ちあう約束をしていたらしい。
.....何の用事だろう。いやこれだけは分かる。
また何かよからぬ事を企んでいるに違いない。
そして誰もが驚く様な事をするのだ。
ラインハルトという男はそういう人だ。
自然にフッと笑みが溢れる。
楽しい、そう思ったのは久しぶりだ。
街を巡って色々な名所を見て回った。いつしか時間を忘れて、彼の手に引かれるのを楽しんでいた。心がざわつく。彼に気付かれるんじゃないかと思った。
彼をに触られるとドキドキして胸がキュウっとする。
病気かな。と同僚の女兵士に言うと何故かにんまりと笑うだけ。
意味が分からない。私は......。
「あの....となりに座っても良いですか?」
ぼんやり考えていると声を掛けられた。
その一瞬、イムカは警戒するが声の主を見て直ぐに緊張は解かれた。
それは少女が自らと同じ人種であったからに他ならない。
すなわちダルクス人だ。純朴を絵にかいたような少女だった。
どう見ても敵の諜報員ではないだろう。
「.....構わない」
イムカの返答は素っ気ないものだったが、パアッと花が咲いたような笑顔を浮かべ少女は「ありがとうございます!」と礼を言ってベンチに座った。
聞いてもないのに喋りかけて来た。
「私ここで兄さんを待っているんです。貴女も誰かを待っているんですか?」
コクリと頷く。流石に無視はできない。
物怖じしない性格なのか少女は気にした様子もなく。
「あ、すみません私はイサラと言います」
「.....イムカ」
「イムカさんよろしくお願いします」
よろしくも何もない。
もう話すことは無い、そう思ってラインハルトが来るのを待っていると、嫌に視線を感じる。イサラがこちらをチラチラ気にしていた。
まだ何かあるのだろうか。
「.....なに?」
「あの、失礼ですがもしかして....イムカさんってエンジニアですか?」
「え.....」
「鉄と油の微かな匂いからそう思ったんですが.....違いましたか?」
コテンと首を傾げる少女を――イムカは驚愕の目で見ていた。
恐らく少女の言う鉄と油の匂いはヴァールと手入れ油の事だろう。
当然、国境潜入の際は隠蔽処置をしていた。
完璧に隠していたはずのソレを気づかれた。この短時間で。
この少女はただの一般人ではない。
「貴女は一体....何者?」
「私は何者という訳ではないんですが、父が戦車の技術者だったんです。その縁で私も技術者を目指しています。......それで分かったんです、鉄と油の匂いは毎日嗅いでますから」
だった。ということは彼女の父親はもう.....。
苦労しただろう。
イムカの表情でそれを察したのかイサラは笑って、
「今は父の友人だった方の家に養子に入っています。御蔭で不自由なく生活を送れました」
「.....そう、良かった」
親の居ないダルクス人は悲惨だ。
身寄りのない子供は施設に入れられる。それならまだ良い。衣食住は賄われる。だが政府や自治体の非保護対象であるダルクス人は扱いが悪い。子供の頃から働きに出される事もある。働き口がなければ路頭に迷うだけだ。都市の裏にはストリートチルドレンが多数存在する。そのほとんどがダルクス人だ。過去の歴史のせいで自治権をもつことが出来ないせいだ。
少し前、帝国で自治権を求め武装蜂起したダルクス系武装勢力が存在したそうだが結果は壊滅よりも酷かった。無関係のダルクス人も含めたほとんどに重い重税が与えられ、苦しい生活を強いられた。ラインハルトが来る前のニュルンベルクがその筆頭だ。
この少女は多くのダルクス人と違い平穏な生活を送れていたのだろう。その笑顔を見てそう思った。願わくば少女の笑顔が曇らないでほしい。同じ民族の血を流す者としての些細な願いだ。
――だが世界は悪意で満ちている。彼女達の血はそれを引き寄せてしまう。
少しづつ会話に花が咲き始めたところだった。
「お!やっぱり!横顔も良いけど正面から見たら全然違うぜ――君達可愛いねえっ」
「おおマジだ!お嬢さん俺達と一緒に飲まない?」
「もちろんコイツの奢りだよ!」
「アハハハハハ!」
見知らぬ五人の男が寄って来る。
ヘラヘラと嫌な笑みを浮かべていた。
赤らんだ顔から見て男達が酔っているのは明らかだ。
恐らくこのお祭り騒ぎに便乗して昼から飲んでいるのだろう。
心の中でため息を吐く。この手合いは面倒だ。
立ち去ろうかと思ったがラインハルトが迎えに来る。
はぐれてしまうかもしれないのでベンチから離れられない。
それにイサらもいる。彼女を置いて行く事は出来ない。
男達が立ち退くのを待つしかない。
「.....いらない」
興味を微塵も感じられないほど無愛想に呟いた。これでイムカの意思は伝わっただろう。
だが男達は執拗に迫った。
「そう言わずにさぁ!知り合いがやってる店があるんだそこに行こう!」
「楽しいよ行けば君も喜ぶよ!」
「やめてください!」
言い寄る男達の手を払ってイサラは立ち上がる。
自分の意思をハッキリと悪漢に告げる。
「私達はそんな所に行きません、どこかに行ってください!」
イムカがしまったと思った時には遅い。
男達の薄い笑顔が消える。
「.....あ?」
イサラの態度が癪に触ったのか男が剣呑な声を上げた。
目の色が変わる。男の目には侮蔑の感情が宿っていた。
イムカ達の顔や服装を見て確信したのだろう。
「おいダルクス人。俺達はただ楽しくやろうって言ってるだけだろ?それを何だ、折角の気分が台無しじゃねえかどうしてくれるんだ」
「そんな事は知りません、貴方達の勝手な言い分です」
「あーうぜ、家名も持たない下僕のダルクス人風情が口答えしてんじゃねえよ.....」
男の言葉にはダルクス人に対する差別の感情が込められていた。
そもそも男達はイムカの人種を分かった上で近づいたはずだ。
つまりこれは偶然ではない。
明らかに人種差別の対象としてイムカ達に近づいたのだ。
目的は嫌がらせだろう。
あっさり振られて化けの皮が剥がれたが。ほいほい付いていったら何をされていたか分かったものではない。ダルクス人の婦女子が暴行される事件は多いのだ。
「私の名前はイサラ・ギュンターです。ダルクス人でも姓を持てます。下僕ではありません!」
「嘘つくなよダルクス人が姓を持てるはずがない」
「養子に迎えられたら不可能ではありません」
「チッ.....だからなんだよ。歴史的に観てお前らには奴隷の血が流れてんだよ。
神聖なヴァルキュリアの加護を受けている俺達ガリア人に支配されてきた民族なんだよダルクス人ってのは.....!」
男が激昂する。
ヴァルキュリアの加護。恐らく大公家の事を指しているのだろう。
大公家はヴァルキュリアの血を引いている。そう昔から噂されている。
「大公家は例えダルクス人でも分け隔てのない平等な社会の実現を望んでいます。
私が生まれたガリア公国とはそういう国です!」
「小娘が知った口をきくんじゃねえ!」
驚く事に男は拳を振り上げ体勢をとった。イムカは瞠目した。
まさか殴る気か、この公衆の面前で。
最悪の予想通りだった。簡単に男の拳は落とされる。
酔っているせいで加減が出来ていない。大惨事になる。
イムカは咄嗟にイサラの手を引いた。先に体勢が崩れた事で間一髪直撃を免れた。倒れかかるイサラを受け止める。だがそのせいで次の攻撃を避けられない。
今度はイムカを足蹴にしようとする。当たる。
「――オイ」
「ゲボッ!?」
当たる直前、横から繰り出された足が男の横腹を足蹴にする。男は勢いよく地面に這いつくばった。痛みで悶絶する男を驚愕の様子で見ていた男が、その男を睨みつける。
「てめえ何しやがる!」
「それは俺のセリフだ。人の女を蹴ろうとするとか、どういう了見だ」
「――ハルト!」
険しい眼光のラインハルトが立っていた。
どこかの露店で買ったのだろう。両手にはアイスクリームが握られている。
男達もそれで事情を察したのだろう。ラインハルトとイムカを見比べて驚いている。
「ダルクス人の連れか?」
「見た目は俺達と変わらないぞ違うんじゃないか?」
「南部はダルクス人差別が強いと聞いてはいたが.....ここまでとはな」
想像よりも酷い、ラインハルトの顔はそう物語っていた。
こんなにも軽く見られるのかダルクス人は。
帝国のダルクス人に対する扱いとそう大差がないじゃないか。
その目には失望すら感じられた。
「てめえ.....!俺達のシマで手を出したらどうなるか分かってるんだろうな!」
仲間をやられて怒る男達。誰が見ても自業自得と言うしかないのだが、そんな事は男達に関係ない。酔いの良い気分と楽しみを邪魔された、というだけで処刑の理由には十分だった。
男達がジリジリと間合いを詰めてくる。
「コレ持っててくれるか」
「ハルト私も――!」
「いやお前は手を出すな周囲を見張ってくれ」
「.....分かった」
手渡されたアイスクリームを持って不承不承と頷くイムカ。
本当は一番に男達を殴り倒したい。だがそれをやれば疑われるのは必須だろう。
ここは敵地のど真ん中だ。状況的に男のラインハルトに任せた方が良いと判断した。
それにイサラが不安そうにしている。
「イムカさん、あの人は.....?」
「大丈夫、彼は私の.....夫だから」
その言葉には確かな信頼が込められていた。