小さな格子から見える景色が長閑な麦畑になった所でイムカは警戒の糸を解いた。
ガリア公国――南部国境線を無事に潜り抜ける事に成功した。誰かが追って来ている様子もない。
どうやら潜入に成功したようだ。
最初の難関だった。ここが抜けられなければ、わざわざ危険な長旅をして来た意味がない。
――ここまで来るのに一か月以上かかった。
それも敵国である連邦領を通ってガリア公国に入るという大胆な作戦のせいだ。
なぜ帝国からのルートを使わなかったのか分はからない。
だけど何か考えがあったのだろう。帝国ルートを使えない理由が。
ラインハルトがそれを語る事はない。
危険を冒してでもガリア公国に来た理由も謎だ。
だけど、なぜ自分が彼の護衛に選ばれたのかは分かる。
それは私がダルクス人だからだ。
この世界で最も人々から蔑まれている人種は何かと尋ねられれば、私はダルクス人だと言う。
世界から虐げられ続ける歴史を鑑みればおのずと出る答えだ。
子供でも分かる。――だからこそ気づけるはずがない。
最も被差別意識が高い帝国。その中で最も高貴な血筋を受け継ぐ男がダルクス人を妻と呼び親し気にしているなんて。笑い話でも出ないだろう。
国境も過ぎ去った。もう通常の兵士と主君の関係に戻るべきだろう。
それが何故か寂しく思った。心の中で笑う。
一時とはいえ彼の特別になれたのだ、これ以上を望む事は許されない。
だからイムカは意を決して、
「皇子....これからの転向は?」
だがラインハルトは何も言わない。
聞こえなかったのかな、もう一度言うが、やはりだんまりだ。
無視されているわけではないはずだ。たまにダルクス人とは喋りたくもないという人がいるが、ラインハルトはそういう類いの差別はしない。
あえて知らんぷりしているように見える。
少し考え.....まさか、とイムカは結論に至った。
まだ続いているのか。もしそうなら確かに彼は今の呼び方で振り向かないだろう。
仕方なく顔を赤らめたイムカが恥ずかしそうに言った。
「......あなた」
それまで見向きもしなかったラインハルトが簡単にイムカの方を振り向いた。
そして極上の笑みを浮かべて言うのだ。
「どうした我が妻よ」
「ま、まだ続けるのですか、この設定」
「勿論だ、少なくともこの国にいる間は俺とお前の関係は夫婦と云う事になっている。例え二人だけしか居ないと分かっていても、その油断が命取りになる事だってありうる。その可能性を減らすためにも演じる事に徹底するんだ」
「分かった。いえ....分かりました」
「なんならマイダーリンと呼んでもいいんだぞ?.....冗談だ、そう怖い顔で睨むな」
そんな事を言えるはずがない。恥ずかしさのあまりジト目で睨みつける。
この人は信じられない事だが、この状況を楽しんでいる。そうとしか思えない。
だとすれば狂気の沙汰だ。
敵地に二人で潜入すること自体が狂気のそれでしかない。
これがラインハルトでなければ誰も付いて来ない。
「――コホン、目的に変更はない。俺達は王都ランドグリーズを目指す。
.....その途中幾つかの街を中継する事になるだろう。ガリア軍が常駐している事は確実だ。俺達の素性がバレる様な事は避けること、これは問題ないだろう。問題なのはむしろ......」
「帝国軍の動向」
「そうだ帝国軍の侵攻が思ったよりも早い」
ラインハルトが頷く。
連邦領に入ってから聞こえた噂では、
陸軍を中心とした帝国軍はガリア内部を破竹の勢いで進んでいる。
新聞社の話では東部ブルール、南部クローデン、北部ファウゼンといった地方や都市が帝国の制圧下に落ちたと報道されていた。ガリア公国が落ちれば其処を橋頭保に帝国軍は新たな軍事ルートから軍を動かす事が出来るようになる。『ノーザンクロス作戦』を発動している連邦としても対岸の火事ではないのだ。
ラインハルトが危惧している事は一つ、
中継する街のどこかで帝国軍とかち合ってしまうのではないかと云う事だ。
ガリア国内の中でも中部は最も広大で肥沃な土地で知られている。
河川で遮られた西部と中部を繋ぐ橋がある。王都に続く道だ。
当然ガリア軍の中部防衛にかける優先度は断トツだと予想される。
つまり激戦地だ。中部に近づけば近づくほど危険性は高まるだろう。
本格的な防衛戦で街が封鎖される事もありうる。
できればその前に王都に潜入したい。
「危険に付き合わせて悪いな」
「私の役目はあなたを守ること。任務だから仕方ない」
「そうか....ありがとう」
面と向かって礼を言われると、どうしていいか分からない。
どいうか兵士に言う言葉ではない。
いちいち上司が部下に顔色を窺う必要は無い。
やはりこの人は変だ。
傲慢な帝国という数年前まであった印象がガラリと変えられてしまったのは間違いなくラインハルトのせいだ。変人だが、この人の横にいるのは心地いい。
――だから忘れてしまいそうになる。
私が彼の元に居る理由を。
――全ては私の故郷を滅ぼした奴らに復讐するため。
それだけが私の生きる目的だ。
ラインハルトと一緒に居るのは、その機会を得るには好都合だから。
なぜ今そんな事を考えたのか自分でも分からない。
けれど胸騒ぎがする。この国に入った時から心が落ち着かない。
もしかしたらその時が訪れようとしているのかもしれない。
仮にその瞬間が目の前に訪れたとして、
その時、私は彼を守るのか。それとも――
考えるのが怖くなってイムカはその疑問に答えを出さなかった。
――聡い子だ。
寄りかかって来たイムカを見てラインハルトは思う。
華奢な体だ。この小さな体には復讐の炎が抑え込まれている。
解き放たれれば壊れてしまうのではないか。そう思った。
だから言わなかった。なぜ彼女を護衛に選んだのか、その理由を。
理由を言えば彼女は走り出すだろう。復讐の道を。
なぜなら、
――彼女の復讐するべき相手がこの国にいる。
その可能性が極めて高い。彼女も薄々その事に気づいている。
そして迷っている。
正しい道を模索している状況だろう。
俺が彼女にしてやれることは何もない。自分で考え自分で選ばなければならないからだ。そうでなければ後々必ず後悔する事になる。俺もそうだった。
仲間が殺され復讐を誓った。この世にない知識を再現した。何万人もの将兵を地獄に落とした。
その度に悩み苦しんだ。本当にコレは正しい事なのかと。
正しい答えは誰にも分からない。
だけど考え抜いた末に出した答えに後悔はない。
彼女にもそうであって欲しい。
俺が出来る事はない。
だけど彼女が悩んでいる間、寄りかかれる場所なら与えてやれる。
広い肩ではないがイムカを支えるぐらい訳はない。
――なんたって妻を支えるのは夫の役目だからな。
ラインハルトは何も言わず静かに寄り添った。
自動車のエンジン音だけが車内に静かに聞こえる。
ガリア南部と中部の境目にメルフェア市という地方都市がある。
四方をマイルス川に囲まれた天然の要害である其処は古くから交易都市として栄えてきた。
歴史ある町並みだ。位置的にも重要で帝国との国境方面にはクローデンの森が広がっている。
別名『ガリアの南門』と称される街に入った俺達の目には厳戒態勢を取るガリア軍の姿が映った。
どうやら帝国軍がクローデンの森に潜伏しているらしい。
そのせいで続々とガリア軍の部隊がこの街に集まっている。
協力者である商会の男と別れて俺達は宿をとった。
「なに?義勇軍がクローデンの森に進軍しただと」
宿の主人と他愛ない話をしながら情報交換をしている流れでそれを聞いた。
どうやらこの街に集まる軍は正規軍ではなく義勇軍であるらしい。
ガリア公国陸軍には大まかにわかて二つの軍がある。
一つは職業軍人を中心とした正規軍。陸軍の大半を占める軍隊だ。
昔からの慣習が今も残り古くからの貴族が指揮官に座る事が多いらしい。
プライドが高く平均的に能力は高い。帝国も似たようなものだ。
そしてガリア義勇軍。
ガリア公国は国民皆兵制度を義務としている。
この制度では各教育機関での軍事訓練を、単位科目として義務付けており,
十八歳から二十五歳の若者は必ず実施しなければならない。
有事の際には一般市民が、義勇軍に招集されるのだ。
その義勇軍が攻勢に転じている事を知り俺は感心した。
「その義勇軍の指揮官は有能だな」
「へえ?旦那それはどういう事ですかい?」
宿屋の主人は俺の言葉が気になったのか聞いてくる。
「なに簡単な事だ。まず帝国軍を相手に防衛戦は自殺行為だ、機動力に秀でた戦車部隊が退路を塞ぎ、前面から物量で押されるとガリア軍では太刀打ちできない。勝率はゼロに等しい。
――だが攻めるなら勝ち筋は幾らでもある」
「ですが帝国軍は守りも強いですよ、義勇軍では歯が立たないのでは?」
「そうでもないぞ。確かに帝国兵は自軍の拠点を守る事に秀でている。だがそれは帝国の豊富な資材や技術で要塞化された防塞拠点であればの話だ。森林で埋め尽くされたクローデンには物資を搬入するだけでも苦労するはずだ。そんな環境ではろくな拠点も造れはしないだろう」
「な、なるほど」
「それにガリア軍には地の利がある。ゲリラ戦法を駆使して戦えば機動力を封じられた帝国軍なぞ、ハネ豚から羽が取れたようなもの。この戦いガリア軍は圧倒的な優位に立てる!」
「おお......!!」
気づけば説明に熱が入り。周囲には人だかりが出来ていた。
みな一様に聞き耳を立てていたようだ。
ラインハルトに感心した様子だ。ここまで自信満々に語る奴も珍しいのだろう。
帝国軍の実状を知っている俺が言うのだ間違いない。
「旦那は軍学士なのかい?」
「ただの連邦市民さ、帝国との関係は知っているだろう?嫌でも詳しくなる」
「そうか旦那は連邦の....。今は連邦も大変だろう、もう何十万人も犠牲者が出たとここにも噂は届いているよ.....」
「ああ、アレか....惨いもんだよ、帝国の奴ら加減ってもんを知らねえ」
俺が連邦市民と云う事を知ると明らかに空気が変わった。
ラインハルトは首を傾げる。何のことかさっぱりだ。
詳しく聞いてみるといま世間では、ある新聞が巷を騒がせているらしい。
見出しはこうだ。
『四十万人が戦死!?指揮官は帝国の脅威、殲滅のラインハルト!!』
6月7日、連邦政府は北東戦線の被害状況を発表した。
――その数、実に四十万人。
驚くべきはこれが一か月にも満たない短期間で起きた事である。
連邦政府の見立てでは、敵はあらかじめ準備を整えて連邦軍を待ち構えていたとされる。
これは信じがたい事だ。連邦軍が発動した『ノーザンクロス作戦』は重要機密とされてきた背景をもつ。そのため帝国軍の虚を討つ狙いがあった。これはその前提が崩れた事を示す。
さらに驚くべきことに、これを実行したのが帝国の皇位継承権第二位のラインハルト・フォン・レギンレイブ上級大将である事が判明している。(この戦争後、副元帥に任命される)
彼はこれまで表立って目立つことは無かった。
自領にある工業都市で兵器開発を積極的に進め、これが評価されて来た功績がある。
今後は彼の動向にも注目が集まるだろう。
現在は皇帝の意向に逆らった事で謹慎処分を受けている模様......。
新聞を持つ手が固まる。
そこには俺に関する情報がつらつらと紙面一杯に書かれていた。誤った情報も多い。まず四十万人も殺してない。十万人近くは捕虜にしたし、残り十万はアイスが撃破した分だ。俺が殺したのは二十万人ぐらいだ。....それでも多いか。殲滅と悪名を付けられるぐらいには。
幸い顔写真は張られていない。あっても子供時代の物やイメージ像だ。
ずっと表舞台に顔を出してこなかったからな。出回っているはずがない。
「さあ旦那も飲め!酔って寝ている間に帝国軍なんかガリア軍が追い払ってくれるさ!!」
「あ、ああ.....」
メルフェア市民は土地柄か陽気な者が多い。
温暖な気候と肥沃な大地に恵まれているおかげだろう。
すっかりどんちゃん騒ぎに巻き込まれてしまった。
空になった酒杯に新たな酒が注ぎ足される。
それを一息に飲むと周りから歓声が上がる。
「美味い酒だ、おかわり」
「良い飲みっぷりだな!こいつは俺のおごりだよ面白い話の礼だ!」
素直に受け取った。潜入の為だ仕方ない。
そう、これはいらぬ疑いを掛けられないよう仕方なくなのだ。
南部産の極上のワインが止まらなくなったからではないのだ。
だからドンドン持って来い。
終わらない酒飲み達の夜はこうして更けていった。
後で二日酔いに苦しんだのは言うまでもない。