「どうやら
「......うん、ルッツが上手くやってくれたみたいだ」
東の森付近にて、本陣を構えていたアイスは視界の端でハイドリヒ軽騎兵団と先遣隊の合同部隊と思われる友軍が、東の森に向かって撤退していくのを確認しほっと安堵する。
「本当に良かった。危険な任務を彼に任せてしまった、全滅もありえただろう」
.....それでも彼らは少しも躊躇することなく職務を全うしてくれた。僕の無責任な命令に従い。
感謝の思いもあり同時に申し訳なさを感じる。
ジッと軽騎兵団が逃れた森の先を高みから眺めていると、すぐ横から声が掛かる。
「この湿原の要所を逆手にとったアイス様の的確な指示と意図が彼らを救ったのです。そうでなければ団は全滅していたことでしょう、あなたの判断は正しい」
脱色した銅線のような髪とたくましい長身の男。自分と似た赤い髪が燃えるように逆立つ。
アイスが十五歳で初めて戦場に出た頃からの副官。ワーレンである。年は二十後半と云ったところだ。
山賊の様な迫力のある顔だが、反して細やかな心配りの出来る男だ。
今も無理な命令を下した負い目を感じているアイスに向けて間違いではないとそっと言った。
その言葉に救われたのかフッと肩の力を抜く。それまで張っていた緊張感が解けていくのをアイスは感じていた。
「時には諌めてくれよ?お前は僕に甘すぎるから」
「その時がくればしっかりと、まあその時がくるとは思えませぬがな.....」
慇懃に頷く彼を見てアイスは苦笑する。
さてと視線を戦場に移した。
優先すべき課題は何とか達成する事が出来た。後は自分達がこの局面を無事に乗り越える事だけだ。だがそれが難しい。
「強いな....」
アイスの呟きが戦況を如実に表していた。
遥か前方では連邦軍の装甲部隊が波のように押し寄せ。列火の如き進撃を続けている。それを迎撃するハイドリヒ軍だが徐々に後退を余儀なくされていた。鎧袖一触とまではいかないが、かなりの苦戦を強いられている。あまりにも練度が違い過ぎるのだ。
本来であれば包囲対象である軽騎兵団に気を取られている内に、こちらは攻撃陣形を整え。
先遣隊による奇襲攻撃によって混乱する連邦軍の背後を先制攻撃するはずであった。
だがそうはならなかった。
こちらが陣形を整える前に敵は混乱を収拾し、逆に手痛い一撃を加えてくる始末。
目の前の連邦軍は真に精鋭であった。
調練を施した戦闘集団とはいえ、一私設部隊でしかない貴族の軍では本物の軍には及ばない。
だからこそライン川にて援軍が到着するまで防衛に徹するべきだったのだが。
「もはや簡単に逃がしてくはくれないだろうね」
ワーレンもその意見に同意する。
「目前で獲物を取り逃がした鬱憤を晴らそうというのでしょうな、こうなったら敵もタダでは諦めません。貴方様の首を取るまで食らい付いて離さない事でしょう」
「だがこのままでは勝ち目は無い、彼我に実力差がありすぎる。あの敵と互角に渡り合えるのはハイドリヒ軽騎兵団ぐらいのものだ」
「ですな、練度においては我が軍随一でしたから」
「やれやれ、こちらは最強の手札を早々に失ってしまった訳だ、本来であればもっと後に使うつもりだったのだけれど。半壊した彼らはもうこの戦いでは使えないか.....」
考えれば考えるほど厳しい状況の悪さに
出来ればこうなる前に連れ戻したかった。というのが偽りなき思いだが、今更それを考えたところで遅きに失している。この状況下で打開しなければならない。
現状の手札で打てる策は限られている。そして、敵は最強の手札であったユリウスを手玉に取った戦術家だ。
自軍が持てるすべてを用いたとしても最後には力で負ける。
それがアイスの出した結論である。
ならば、普通に戦って勝てないのであれば、兵法という理の埒外から鬼策をもって凌ぐしかない。
「......下策も下策。常道ではないのだが致し方ない、我が天運に賭けて見るとしようか」
言って天を仰ぐ。陽射しの降り注ぐ青い空を見て。
次に眼下の戦場にぽつぽつと形成された沼地の確認をした。そこに含まれる水量の有無を確かめ。
最後に肌を通り抜けてゆく風を感じる。背後の森から多量の冷たい空気が流れてくる。
凡そ条件は満たしている。
これならば発現する可能性は極めて高い.....。
「大丈夫、策はある。この場所だからこそ可能な作戦が。......いや作戦とも言えないのだけれど条件は全て揃っている。賭ける価値はありそうだ」
「ほう.....この湿地帯だからこそできる策ですとな?」
一体何なのか分からないワーレンは首を傾げる。
.....はたして主はどのような作戦を考えたのか。
「ああ、そして僕らは何もする必要は無い。ただ目の前の敵の攻撃を防ぐだけで良い。その策というのは.......」
作戦内容を教えようと口を開いたが、
その時、本陣に一人の兵士がふらりと入って来るのが見えた。帝国軍の兵卒に与えられる赤銅の鎧兜を身に纏うその兵士は実に悠然とした態度で二人の元にやって来る。あまりにも自然だからか周りに立つ衛士は未だにその異常に気付かない。
唯一その異常に気付いたワーレンが制止した。
「待て、なんだ貴様は!」
咄嗟にアイスを庇うように立ち、無造作に近づく鎧兜を睨みつけた。
臆病な性根の者なら腰を抜かしてしまうだろう眼光の鋭さである。だが兵士は動じた様子もなく。兜で隠された表情は読めない。
時間が止まったかのような一瞬の緊張感を切って、鎧兜の男は言った。
「......安心しました。このままハイドリヒ卿の背後を取れてしまうのではないかと些か危惧しました」
男の言った言葉はつまり、アイスの首を狙って来たと告白したようなもので。一瞬驚きに目を見開いたワーレンは直ぐにその巨眼に怒りを灯した。
「曲者だ!護衛兵よアイス様を守れ!」
本陣に響く怒声。主人を守れとの命令に反応した衛兵は弾かれたように動き出した。瞬く間に刺客である鎧甲冑の男を中心に円陣を組むと。古来より本陣を守護する儀式的な意味合いで使われる短槍を突きつけ包囲した。
少しでもおかしな動きを見せれば即座に突き殺されるだろう。
普通であれば生きた心地のしない針の筵に座らされた気持ちのはずだ。だがこの状況においても鎧兜の男に取り乱す様子はない。それどころかあっさりと両手を上げて無抵抗のポーズを示す。
その態度は追い詰められた者とは思えない。未だ余裕があった。
そこまでくると何やらおかしい。彼は本当に刺客なのか。いや、そうとは思えない。
「貴様いったい何者だ!我が軍の者ではあるまい!」
「.......」
目をグワッと見開き威圧するワーレン。殺気で逆立つ真紅の髪は獅子を思わせた。正体不明の怪しい存在を本陣の只中まで侵入を許したのだ。主の傍に控える副官の一人として、その事実は容易く看過できるものではなかった。
対する鎧兜の男は無言を貫く。この状況で大した度胸だなと逆に感心を覚えるほどだ。
「答えぬか......ならばその命いらぬと見える!よかろう語る事もなく死ぬがよい!」
「......待て!殺してはならない、槍をおろすんだ」
いよいよ我慢の限界を迎えたワーレンが男を処刑しようとしたところで待ったをかけたのはアイスであった。
敵ではない。ある種の直感でそう思ったアイスは守る様に立つワーレンの背から前に出ると、護衛兵達の警戒を解かせる。危険です!と背後から聞こえる声を手で制して目の前の一兵卒に扮した刺客に問う。
「君はいったい何者だ?僕を殺す気であればあの距離だ、そのまま殺す事もできたはず。だがそうしなかったということは君の目的は僕を殺す事ではないんだろう?という事は僕に用があるのだと思うんだがどうかな」
両手を上げたポーズを崩さぬままに、鎧兜は素直に頷いた。
「はい、ご推察の通りです。私は主君ラインハルト様の命により馳せ参じた使いの者です」
「!そうか、やはり殿下の。ではなぜそのような格好で来られたのだ。使者ならば軽装で十分のはず」
「申し遅れました、わたしはギュンターと申します。主に殿下の身辺警護などを任せられているのですが、仕事柄あの主の御友人と名高きアイス殿の警護の程に興味を持ち、今回このような愚挙を行った次第です、真に申し訳ございません」
鉄の兜を脱いで、丁寧に腰を折るギュンター。
アイスは慌てて頭を上げさせた。殿下の使いであれば何の問題もない。
兜に隠れていた彼の顔は予想と違って凡庸だった。どこにでもいるような特徴のない顔をしている。強いて言うならば帝国に多数存在する平民の平均的な特徴.....と言う表現が正しいように思える。外見だけで云えばお世辞にも貴族の本陣に一人で乗り込む等という大胆不敵な行いをした者とは思えない。だがその目だけは闇の中を覗いているような深淵の黒をたたえていた。
正真正銘の貴族であるアイスを見るその目にも幾分の臆した気配はない。
逆にこちらが気圧される気分になる。
「なるほど、流石は殿下の警護を許された者という事か。君もまた只者ではないようだ」
「さて、そんなことより。主から預かってきた物をお渡しします」
どうぞ。そう言ってギュンターが手渡して来た物は三つの袋だった。掌に乗る小さなそれをアイスは受け取る。
これは?と疑問を問うアイスに対してギュンターが返した言葉は耳慣れないものだった。
「コウメイの知恵袋です」
「.....コウメイとは誰の事だ?」
「.....さて、私にも分かりかねますが、中には主の言葉が書かれた紙が入っています、アイス殿はそれに従って動いていただきたい」
「......ああ、いつものアレか」
彼自身も知らないようで困った表情に既視感を覚え納得する。
時折だが殿下は耳慣れない言葉を言う時がある。恐らく異国の言葉だと思う、何故それを殿下が知っているのかはしらないが、もう慣れている。今回のコレも殿下の遊び心が多分に含まれているに違いない。
どの様な意味なのかを聞くには直接会って訊ねるしかない。
さっそく、一つ目の袋を空けて中にある紙を読む。
内容はこちらの状況を把握している旨と計画の多少の変更について書かれていた。
「了解した、直ちにこれより殿下の元に向かう事とする。君もご苦労だった」
内容について頷くと殿下の任務を見事果たしたギュンターに労いの声を掛ける。
コクリと小さく頷いたギュンター。本当に極僅かな動作であった。最低限の愛想に苦笑を禁じ得ない。任務を終え後は殿下の元に帰参するギュンターを見送ろうかと思ったのだが、何故か彼はそこから一歩も動かなかった。
どうしたのだろうと思い。遅れて戦場を眺めているのだと気が付いた。
やがて口を開く。
「かなり厳しい戦況のようですな。迫り来る敵の攻勢に迎撃が追いついていないといった様子ですが、ハッキリと言って惰弱極まりない軍です」
「ああ、お恥ずかしい限りだ。全ては僕の無能さゆえだよ」
「そのようですな」
「っな!貴様!無礼だぞ口を慎め!アイス様の苦悩を知りもせぬ走狗如きが.....!」
怒りをあらわにしたワーレンが気炎を昇らせながら近づくのを片手で抑える。
「よせ、本当の事だ。こうなる前に手を打っておくべきだった僕の落ち度だ」
自身の為に我が事の様に怒る副官を見て胸が詰まる思いだが、彼の言っている事も正しい。もし彼が本当に僕の命を狙う輩であったなら今頃、僕は死んでいただろう。返す言葉もない。
「ですが撤退する隙を与えない敵の攻勢にどう対処するつもりなのか興味があります。アイス殿個人の力量を見定めさせて頂く」
「試されられていると云う事か。君の期待に答えられなかったら?」
「....今後、我が主との関係は断っていただく。これより先は強者でなくては生き残れぬ世界となるでしょう。足手まといの弱者と同盟する必要性は皆無。いや、どちらにせよ期待にそえねばここで死ぬのですが」
「同盟.....そうか君はそこまで先の事を考えて。.....ならば僕も期待に答えるとしよう。ラインハルト様の横に立つ友として、共に戦い合うと誓ったのだから......!」
故に此処で朽ち果てるつもりは毛頭ない。
そして、偶然か必然か、それは起きた。誰も気づかない戦場の只中で。事態は始まろうとしてる。
その変化を真っ先に気付いたのはやはりアイスだった。
....やはり予想は正しかった。
雲を切って覗く太陽光が大地に降り注ぎ。雨によって濡れた湿地帯は十分な水分と湿度を含み。陽の光によって蒸発、水蒸気となって大気中を漂う。背後の濡れた森の地面は密集する木々が影になる事によって冷たいまま空気中に冷却放射される。風は西に向かって流れている。つまり湿地帯に向けて。
冷却した冷たい風が湿地帯の水蒸気とぶつかり合えば、凝固する。
すると後はどうなる?単純な理科学の勉強だ。
凝固した水蒸気はいずれ上昇気流に乗って雨となる。ならば、
その前の段階はすなわち....。
――答えは目の前にある。
白――視界が白く染まる。最初はもや程度のものだったが、徐々に認識できるほどの規模に。
その現象の名は霧と言う。
珍しくも何ともない、世界中で起きうる只の自然現象。
それが湿地帯を中心にどんどんと広がりを見せていく。
空にミルクを溶かしこんだような真っ白な霧が、味方も敵も同様に覆い隠していく。それが始まって五分と経っていない。あっという間の出来事であった。
誰も彼もが動揺を隠せない中、ただ一人。この事態を読んでいたアイスだけは指示を出していた。
「全部隊に告げる!戦闘状態を継続しつつ、ゆるやかに後退せよ!」
霧が何もかもを吞み込む前に、指示を受けた帝国軍は動き出す。敵部隊に砲火を浴びせながらも徐々に下がっていった。それを追いかける連邦軍だったが直ぐに霧が前方の視界を覆い隠す。一寸先も見えぬ白。前後不確かになった部隊が混乱する。味方と同士討ちになる部隊すらあった。もはや戦闘どころではない。
本陣にも霧が広がってきた。
「これは......」
初めてギュンターの目に驚きの感情が垣間見えた。
劣勢だった戦況が一瞬で覆ったのだ。驚くのも無理はない。
彼の目が真っ直ぐにこちらを向いた。
「アイス殿はこうなる事を知っていたのですね?」
疑問符ではあるが、確信している物言いだ。嘘を言っても直ぐにバレそうである。
怖いので素直に頷く事にした。
「君はこの湿地帯が何と呼ばれているか知らないようだね。地元の人間しか知らない事だし無理はない」
「あ、そういえば此処でしたか」
ワーレンが思い出したように言う。
「そう。ここはネールゾンプ湿原、別名『霧隠れの沼地』と言われるほど霧が多発する事で有名な場所だ。雨が降り霧が発生する条件を全て満たしているとなれば高確率で霧が出現すると読んでいた」
だからこそアイスは迅速に対応できた。そして敵の指揮官はこの突発的な状況に対して未だ対処できずにいるようだ。両軍における指揮をとる者の初動の差が、この戦の結末を決定づけるものとなった。
―――すなわち。
「敵はこの霧で混乱している!この霧に乗じて我が軍はこれより撤退する!」
指示を飛ばし。アイス達も本陣から速やかに退去を行う。
そうして立ち往生する連邦の大軍を前にして、霧を盾にしたハイドリヒ軍は悠々と退いていく。
後に調べたところ死傷者は驚くほど少なかったと言われる。
辺境伯アイス・ハイドリヒは後世に残る見事な撤退劇を演じて見せたのだ。
ついぞこの湿地帯を舞台に起きた戦争で、連邦・帝国のどちらからも、確定しうる勝利者が出る事は無かった。
いや、あるいはどちらも自分達こそが勝者であると訴えるかもしれないが、
指揮官の胸中が語られる事はない。