ニュルンベルクの都市全体を照らしていた日が沈み、夜が深まった頃。
都市中心に座するニュルンベルク城の城内。その深奥区画にあるラインハルトの自室付近では、夜も良い頃合いだというのに扉の前で衛兵達がしっかりと警戒を厳重にしていた。いざ不審な輩がいつ来てもいいように交代制で見張りを行っているため、一瞬でも彼らの目を盗んで部屋の扉を開ける事は不可能である。正に鼠一匹入ることも出来ないのだ。
この厳戒態勢は今だけの特別期間というわけではなく日頃からのものであり、連日これが続く。
彼らは皇室付き近衛兵と呼ばれる者達で、幾つかある衛兵のランクから見ても最高位と言って云いだろう。それは貴族しかなれない帝国の上級騎士にも匹敵する程で、特に皇室の近衛兵は誉れ高き栄誉とされており平民であれば誰もが一度は憧れる職種なのだ。
だが、そのため兵士達には相応のレベルが求められる。
過酷な時間配分にも耐えうる精神と敵から主君を守る忠誠心はもちろん。強靭な肉体とその力を振るう能力が必要になり、生半可な思いではこの業務に耐えられないだろう。
そして、これらを審査するのが皇近衛騎士団長のシュタイン・ヴォロネーゼなのだが、これが最も厳しいとされている。
他の基準をどんなに超えていようと彼の御眼鏡に止まらなければあっさりと希望者は落とされる。
その証拠に毎年行われる審査会でも多くの皇室付き希望者が落第させられてきた。
中には審査内容に不満をもち文句を言って来た大男もいたが、そいつはシュタイン自らの手によって物理的に落とされた。今でもどこかの病室のベットで安静にしている事だろう。
腰に帯びた細い剣も使わず拳ひとつで黙らせたシュタインに参加者全員が顔を青くさせたのは想像に難くない。
よって選定された近衛兵達に弱卒はおらず誰もが一廉の武人というわけだ。
そして、そんな彼らの前に一人の女性が対面していた。
彼女の前に立つ近衛兵の男は無表情を努めていたが隠せない筋肉の強張りが表情を固くしている。信じられない事だが勇猛な彼らは目の前の女性相手に緊張しているのだ。別にその美しさに目が眩んでというわけではなく。
彼女が発する無形のプレッシャーによってだ。
男は圧力に耐えられずゴクリと喉を鳴らす。
が、しかし流石はシュタインによって選び抜かれた猛者である彼は簡単に屈する事はなかった。
己の職務を全うするため乾いた唇を開かせたのだ。
「で、ですから何度も言いますが夜も深まった頃合いですので誰かを通す事を固く禁じられているのです。なので入室は御控え下さいセルベリア様」
対面する女性である軍服姿のセルベリアはジッと近衛兵の男を見返していた。顔には納得いかないと不満な思いが込められている。
「私は殿下の御側役だぞ。なにゆえ尋ねる事も禁じるというのか、執務室で待機するだけだというのに」
「その、申し上げにくい事ですが....特にセルベリア様をこの時間以降は通すなと団長からの厳命でして」
「またか.....確か昨夜も門前払いを受けてな、今日はそれより早く来たのだがな....」
どうしてだろうな?と冷え切った目が言外に物を語っている。
その言葉通り、セルベリアはは昨夜もラインハルトの部屋を訪れていた。その時も番兵に拒まれてあえなく立ち去る事を余儀なくされたのだ。
だからこそ今日は昨夜よりも早く仕事を終わらせて来たのだが、今もまたすげなく門前払いされようとしていた。これには納得できるはずもない。
黙るセルベリアから不可視の波動のようなものが発っせられている気がする。いや、発せられていた。それは怒りからくる威圧感で。
どうしようと入れる気のない近衛兵達にその感情を抱いているのだった。
徐々に強くなっていくプレッシャーに近衛兵達も気が気ではなく内心では猛烈に不安を感じていた。
それでも表面上は毅然とした態度で扉を塞ぐ辺り流石と云える。
「さあ、お帰り下さい」
「......どうしても入れる気はないようだな」
「はい、申し訳ございません」
憮然とした面持ちで首を振る近衛兵にセルベリアの目はスッと細まり。
「分かった.....」
そう言ってクルリと態勢を変えて元来た道を歩き出す。
離れていく背中に近衛兵達もようやく帰って来れるかと安堵の思いになる。
自分達としても心苦しい思いではあるのだ。できれば部屋に入れてあげたいという気持ちもあるのだが、上司の命令では仕方ない。シュタイン団長は職務を違反した輩に対する罰がキツイ事でも同僚達の間では有名なのだ。
セルベリアを通そうものなら恐らく自分達は地獄を見るはめになるだろう。それはたまったものではない。
しかしどうやらその心配はないようだ。......と思っていたのだが廊下を歩き始めたセルベリアの足が唐突にピタリと止まった。
何故か立ち止まるセルベリアに怪訝な顔を見せる近衛兵達。
「ならば押し通るまでだ」
そう言って振り返ると近衛兵を見詰めるセルベリア。まるでお前達は私の敵だと言わんばかりの目に男達は慌てる。
「なんのおつもりですか!自分が何を言っているのか分かっているのですか!?」
「無論だ。コレはお前達の実力を試す為に行うのだからな」
きっぱりと頷くセルベリアに思わず衛兵達はご乱心されたかと考えたが続く言葉に困惑する。
「なにを言って.....?」
「真に殿下を守るに値するかどうかお前達の実力を私自らがはかってやると言ったのだ。さあかかって来るがいい」
勝手な主張にますます混乱する近衛兵達をよそにセルベリアは既に戦闘状態に移っていた。僅かに腰を落として構えをとる。重心を低くしていつでも動けるようにしたのだ。
「いいか、コレはあくまで近衛兵の実力を審査する為に行う抜き打ち試験のようなものだ。別に私欲に任せて力づくで入ろうとしているわけではない、分かったな?」
「まさか......」
まるで念を押すような言い方にようやくセルベリアの意図する事を理解した。
つまり部屋に通す気のない自分達を倒して中に入ろうと考えたが、それは流石に立場上マズすぎるのであくまでこれは試験の為であり仕方なくと云った感じに取り繕うつもりなのだ。
あまりの暴論に言葉もない。
「本気ですか」
「すまないな。私とてこのような手は使いたくないが、どうも抑えるのは無理なようでな」
「抑える....?」
いったい何のことだ?と不思議に思い、思わず同僚と目を合わせる。横合いに立つ片割れも分からないようで首を捻っていた。
セルベリアの謎の独白は続く。まるで自分自身に対して言っているかのように。
「成就されない想いと自身に言い聞かせずっと押さえ続けていた。一緒に居るだけで良かった.....だがこの前の一件以来、私の箍は外れてしまったようでな、気持ちが抑えられないのだ。何とかしようとしたが無理だった、もはやこの想い伝えずにはいられない.....!」
グッと拳に力を込めて決意を固め。思いを新たにセルベリアは邪魔者を見やる。
分かってくれるかと思い少しは期待していると、目の前の近衛兵二人は難しい顔でお互いを見合いやがてセルベリアに視線を合わせ臨戦態勢をとった。
やはり簡単に通す気はないようだが。
「我らの役目はこの扉を守る事。如何なる理由があろうと通す訳にはいきません。ですが、セルベリア様の熱い想いに免じて、その試験とやらを受ける事にやぶさかではありませんが」
どうやらセルベリアの考えに乗ってくれるようである。それが彼らが出せるギリギリの妥協案だった。警笛を吹かないだけマシだろう。
「感謝する」
「それは少し早いのでは?我らも本気で参りますのでご容赦の程を」
つまり仕事なので手を抜くつもりはありません。ここを通りたければ俺達を倒してからにしろ、負けても文句は言うなよ。と云うわけだ。
発言の裏に隠された意味を理解してセルベリアの笑みが濃くなる。
「もちろんだ」
「それでは.....行きます!」
言葉の直後に近衛の男は駆け出した。防御力よりも機動力に重きをおいた近衛の制服に身を包む男は間を置かずセルベリアの前に躍り出ると腕を振り上げた。ゼロから起きる挙動が驚くほど速い。まだ動きを見せないセルベリアの首筋に手刀を叩き込む。
....少しの間、眠っていただく。
その思いで繰り出した一撃は鮮やかに首筋へと迫り、瞬間――男の視界は反転した。
「は?」
グルリと回る天地。
呆気にとられた声が漏れ、男は背中を地面に打ちつけた。
いったい何が起こったのか分からず目の前の天井に視線を彷徨わせる。
簡単な事だった。ただ単にセルベリアが目にも止まらぬ速さで手を動かし男の手を掴むと、手首を返して男の態勢を変えたのだ。それを未だ理解できていない男は不可思議な現象にしか思えず、すわ妖術の類かと思った程だ。
「これはジュウジュツと云う武術の技でな。徒手格闘に特化し相手を不殺で無力化する事も可能だ。このようにな」
その言葉に釣られたように男は腕から違和感を覚えたので視線を移すと、なんと自らの腕が奇妙な方向に曲がっているではないか。
「うわあ!?なんだこれ!?」
「安心しろ、後で繋ぎ直してやる。だから今は眠っていろ」
「ガッ!?」
驚きを隠せない男の後頭部に手刀を当て意識を刈り取るとセルベリアは前に出る。残ったもう一人の兵士を相手にする気だ。
一瞬で同僚が倒される光景に固まっていた近衛兵が我に返る。
首をブンブンと振って、
「いえ、自分は止めておこうかと思います!何も見ていませんからどうぞお入りください!」
あっさりと自らの責務を放り出すと、道を譲るのはまだ年若い青年の門番。それでいいのかと思わざるをえないが彼とて何も考えずに投げ出したわけではない。自らの力量を冷静に量った上での行動だ。
傍で見ていたにも関わらずセルベリアの動きに目が追いついていなかったのだ。
つまり自分ではセルベリアの攻撃を見切る事ができない以上戦いの結果は目に見えていた。
それにセルベリアが敵ならまだしも本来は味方である(しかも殿下の側近だ)。守護すべき対象が危険に晒されないなら別に譲ってもいいだろう、無駄な事はしない主義だ。という考えである。
「いいのか?私としては構わないが上司に知られたらタダではすまんかもしれんぞ」
「いいんですよ、結局の所。結果が変わらないなら俺がここでどうあがいても意味がありませんからね」
仮に衛兵の青年が止めようと止めまいとセルベリアはここを通っていくだろう。まったくもって意味がない。だったら潔く通したほうが痛い思いもせずにすむ。これが利口な行いと云うものだ。
まあ、もし上司の目があれば話は変わっていただろうが......。
「まさか自分の上司が居る前でそんな事を言うとはな。なんとも剛毅な男だ」
「........え?」
構えるかと思いきや腕を組んでうんうんと感心する風のセルベリアに、
セルベリアの言葉をゆっくりと理解していき同時に顔を青く染めていく。
慌てて周りを見渡した。しかし無表情の貌の男はどこにも見当たらない。
「......ど、どこにも居ないではないですか」
「そこにいるじゃないか。まあ、私も今しがた気づいたのだがな」
からかわれたのかと思い胡乱な目で見るが、何気ない動作でセルベリアは廊下の奥に指を指す。
白魚のようなセルベリアの指が廊下の端に連なるよう建てられている豪奢な造りの柱の一つに向けられた。
そこに向かって声を飛ばす。
「もう其処に居るのは分かっている出て来い」
すると、
柱の裏からゆっくりと人影が現れた。
「だ、団長!?」
途端に絞り出すような声を上げる近衛兵。
視線の前に出て来たのはシュタイン・ヴォロネーゼ。正しく自分達の上位者にあたる人物である。
女性のように端麗な顔つきをしているのに、それを帳消しにする無表情さ。
感情の起伏が薄い怜悧な瞳がセルベリアに向けられる。
「流石ですな、良くお分かりになられましたね」
「フン、お前のせいで私は気配というモノを嫌というほど感じられるようになったからな」
「貴女は昔から出来が良かったものですから、私もつい楽しくなってしまったものです」
懐かしむような言い草でありながら、お前の事なんかミジンコよりも興味がねえっとでも言わんばかりに表情は動かない。
「嘘つきめ.....まあいい、それでお前も私の邪魔をする気か?いや、尋ねるだけ無駄だったか......」
途中、シュタインがおもむろに腰の剣をすらりと抜き放つのを見て、セルベリアは無駄な言葉だったと切って捨てる。
そして自らも腰の剣を抜くと構えた。
戦意を闘志と変え剣氣へと昇華させる。
――瞬間、両者からプレッシャーが放たれた。
瞬時にお互いから発される膨大な殺気が城内の回廊を向こう側まで圧迫したのだ。
ゾッと肌が粟立つのを感じながら青年兵は二人を遠巻きに眺めている。早々に持ち場から離れて柱の陰に隠れていた。
「なんでこんなことになっちまったんだよ.......!」
今日が自分の担当だった不運を嘆く青年の声が回廊の隅で空しく響いた。
★ ★ ★
先に動いたのはセルベリアだった。
踏み込む音すら置きざりにする勢いでシュタインに迫ると剣戟を打ち合う。
これまで数多の武芸者を葬ってきたセルベリアの死の舞踏。それにシュタインは平然とした様子で追いついてきた。
細かい足捌きを瞬く間にお互いが交互に繰り返すので立ち位置が何度も入れ替わる。その都度、激しい剣戟の残響音が廊下全体に反響を重ねる。
セルベリアが攻めの剣ならシュタインは守りの剣だった。
幾重にも繰り出される剣閃を機械的に防ぎきると一瞬の隙を突いて剣突を放つ。
咄嗟にセルベリアは顔を反らして剣先を躱すと直ぐに態勢を変え側転する。一瞬の後に直前まであったセルベリアの顔を裂こうと剣が横に振られた。
ヒュンと空気を裂く音を聞きながらセルベリアは地面に手を着いて回転すると素早く態勢を整える。
しかし、剣を引いたシュタインは流れる動作で鋭い蹴りをセルベリアに打ち込んだ。
「っク!」
何とか片手で防ぐが思いのほか強い威力にたたらを踏み。その刹那、風が鳴る。シュタインの剣身が横凪に振るわれたのだ。一連の動作に淀みなく惚れ惚れするような繋ぎ方だった。
凄まじい勢いで跳ね上がった剣身が肉薄し、セルベリアは咄嗟に剣を立て防ぐも、その剣撃に軍刀は手元から弾かれる。
「.....ここまでです、さあ諦めてお帰りなさい」
弾き飛ばされた軍刀が金属音を響かせながら固い床に落ちるのを見て、シュタインは言った。
これで勝敗が決したと思ったのだろう。
確かに本来ならその考えが正しかった筈だ。
――相手がセルベリアでなかったならば....。
ギラリと眼光強くシュタインを見て。
「まだだ。まだ終わっていない、何をもう勝った気でいる.....?」
「これ以上やれば只では済みませんよ、綺麗な顔に傷を付けたくないでしょう」
「その言葉そっくりそのまま返してやろう。私は剣が無くとも戦える」
セルベリアは転がる軍刀を一瞥もせず無手で構えた。
その目には少しも臆した気配はなかった。この状況でなお勝つつもりなのだ。
「自分の力を過信するのは良くない事ですが、良いでしょう。その鼻っ柱を折ってさしあげます」
「私は誰よりも強くならなければならない。殿下を守ると誓ったあの日から私の望みは変わらない」
「.....それはなにより。誰よりも高みを目指せばいい、それが殿下も望むところでしょうから。――ですが」
この時、初めてシュタインの声音に感情が籠る。
「ラインハルト様の御身は私達が守ります。貴方はただ殿下の敵を滅せればいいのです」
言葉を最後にシュタインは剣を閃かせる。鮮やかな一線が振り切られた。セルベリアは半身になって刃を躱すと笑みを浮かべ、
「私は欲深でな、どちらも遂行してみせる。殿下を守り敵を滅ぼす、その為の力だ!」
言下に、お返しとばかりに蹴りをシュタインの腹部に入れるも、紙一重の差でシュタインは後方に飛び退いた。
薄い鉄板にクッキリと足跡を残す程の威力を誇るセルベリアの一撃だ。間違っても当たるわけにはいかない。
「どちらか一つを選びなさいセルベリア、その傲慢が殿下を傷つけるのだと何故分からない」
「殿下がそう望んでおられるのだ。ならば答えて見せるのが臣下の務めであろう」
「いずれ後悔することになるでしょう、それならいっそ私が貴方を.....」
.....いや、それは殿下が望むことではないか。
シュタインは首を振って、激情の込められた瞳でセルベリアを見た。
どちらにせよこれで終わらせる。
「主よ我が献身に答えたまえ」
ポツリと呟かれた独白を後に、シュタインは走り出した。影がググッと迫りセルベリアの前に立つと刃ではなく峰の部分が当たるよう寸前で柄を持ち変え剣を振るった。
鮮やかな白刃の線が、セルベリアの首筋に吸い込まれる。
だが、その瞬間。近衛兵の時と同様セルベリアの手が霞の如く動いていた。
――そして。
時間が停止したかのように、二人の動きは静止した。
「ばか....な」
これまで多くの刺客達が思った陳腐な感想をシュタインも呟く。その声からは余裕が消えている。
常に冷静だった黒い瞳が初めて驚きに見開かれていた。
自らの持つ剣の真っ白な刀身はセルベリアの首に触れる前で、セルベリアの手によって刀身は止められている。
セルベリアの―――黒い手袋に包まれた五本の指が剣腹を掴み、ピタリと微動だにさせなかった。
「片手による白刃取りだと!?」
峰打ちだったとはいえ少しでもタイミングが遅れれば手の骨は砕けていた筈だ。到底正気の沙汰とは思えない行動に驚愕の声が漏れる。
「私を甘く見過ぎだぞシュタイン・ヴォロネーゼ!これが私の覚悟の証明だ!」
叫ぶセルベリアは空いた片手で拳打を叩き込んだ。シュタインの腹部に鈍痛が走りたまらず剣を手放すと後ろによろめく。
態勢を立て直そうとしたところで、
ピタッと首筋に刃の冷たさを感じた。
シュタインから奪い取った剣をセルベリアが突きつけたのだ。
「ここまでだな。さて、すごすごと帰ってもらおうか。自分の部屋にな」
恐らくさっきの意趣返しだろう。フフンと笑みを浮かべるセルベリアを見てシュタインはそう思った。
既に顔は無表情に戻っており、以前のままだ。首筋に刃を当てられていると云うのに全く関心を寄せていない。
視線はセルベリアだけを映していた。
「......さきほど貴女は覚悟と言いましたね。成る程、確かに強い意志だ。でなければあのような狂人染みた技を躊躇う事無くできる筈もない。先の言葉が生半可な思いで発せられたのではないと云うのも頷ける」
「当たり前だ殿下の命と比べれば私の腕の一本など安いもの」
「その言葉もまた嘘偽りなく本気なのでしょう。ですが私にとっては違う」
「ほう?殿下の命と比べても、なお自分の身の方が大事という訳か」
シュタインの言葉にセルベリアは失望する。
.....貴様の言う忠義の心はその程度のものなのか。
そう思いかけたが、
「いいえ、殿下の腕と比べれば私の首など
瞬間――シュタインは地面を蹴る。
首に当てられた剣刃がシュタインの血によって染まるのも無視して、驚くセルベリアの前に躍り出た。
ドバっと血が出ているのにも関わらずシュタインはやはり無表情のままセルベリアの手首と胸元の襟を掴んだ。
しまった――とセルベリアが思った時には遅く。
シュタインは素早くそして豪快に一本背負いの要領でセルベリアを投げた。
「かはっ!」
一瞬の浮遊感の後に勢いよく地面に叩き付けられたセルベリアは衝撃で肺から息が絞りだされる。
まったく受け身を取る暇すらなかったのだ。
痛む背中に苦悶するセルベリア。だが、痛みを感受している暇もなかった。
シュタインがいつの間にか取り返していた剣をもって断頭してきたのだ。
紅い瞳の中に白刃の閃きが映る。
咄嗟に避けようとするが間に合わない。
そして、セルベリアの白い喉元の寸前でピタリと静止した。
城内の廊下が静けさに満ちる。
やがてゆっくりとシュタインは剣を離した。
静寂の中に呟きが生まれる。
「私の.....負けですね。これで通算361戦180勝181敗。とうとう勝ち越されてしまいましたか」
「フン。どこを見たらそんな事を言える。お前の勝ちではないか」
むくりと起き上がるセルベリアはムスッとした面持ちでシュタインの言葉を否定する。納得していない様子だ。
しかしシュタインは血に濡れた首に触れて、
「いいえ、あの瞬間。セルベリアが咄嗟に剣を引かなければ私は今頃、床に転がって絶命していた事でしょう」
淡々とした口調で言った。
確かに、あと少しセルベリアが剣をそのままにしていたらシュタインの首は半ばまで切り裂かれていた事だろう。間違いなく致命傷だ。
だがそれを承知で迫ったシュタインにセルベリアは呆れた。
「人の事を言えたぎりではないが、ひょっとして自殺願望でもあるのか貴様」
「そんなことはありませんが。ただ一言、言うなれば意地でしょうね」
「意地?」
「ええ、同じ御方を恋慕う者として負けられなかっただけのこと」
「そうか.....ん?」
危うく聞き流すところだった。
耳を疑うセルベリアは驚きに染まる。
「まさか貴様.....!」
「おっと、少々血を流し過ぎて体がふらつくので、私はここで退出するとしましょう。医務室でラグナエイド治療を受ける必要がありそうです」
「は、話を聞け!」
衝撃的なカミングアウトをしたくせに、あっさりと帰ろうとしているシュタインをセルベリアが止める。
億劫そうに振り返るシュタインは面倒臭そうに顔を歪める。
「ふぅ、なんでしょうか、このままでは出血多量で死にそうなんですが。もしやそれが狙いですか、敗者に鞭を打つ方ですね」
「違うわ!貴様がたわけた事を言うからだろうが!恋い慕っているとはつまり、そういう事か?」
「......安心なさい、貴女の下賤な肉欲とは違い私の想いはもっと高尚なものです。崇高なる忠義の愛。焦がれるからこそ近寄りがたく、私はあの方の求めに応えたい。ただそれだけ、それで十分私は満たされる.....だがセルベリア。私は時々お前が羨ましいと思うよ.....」
「なにっ」
「私はもう殿下の力になれないですから」
「.....なんだと、どういうことだ?」
その問いに答えずシュタインは視線を変えた。柱の影でこちらをこっそり覗いている近衛兵の青年を見て、
「そこの衛兵、肩を貸しなさい。血を流し過ぎて思うように動けません」
「は、はい!」
呼ばれた近衛兵は慌てた様子で駆け寄るとシュタインに肩を貸す。予想よりも軽い体に驚く。
「どうしました?」
「いえ!なんでもありません!」
「......むぅ」
さっきの言葉の真意を問い詰めたいセルベリアだが、本格的に危険な量の血がダクダクと流れ続けている様子に黙って見送るしかない。
呼び止めたせいで死なれても困る。
と、セルベリアが見つめる中シュタインは背中越しに語った。
「セルベリア。貴女に任せます、殿下を命にかけて守り抜きなさい、そして精々生き残ることです、殿下の計画に貴女の存在は必要なのですから」
「......無論だ。言われるまでもない」
「.....ふ」
シュタインは微かに笑みを浮かべると、ゆっくり歩き出す。
肩を担がれながら去って行くのを見送ったセルベリアは一体なんだったのかと首を捻る。
先程の戦いはあの男と私にとって挨拶代わりみたいなものだから別に問題ないが、
「結局あいつは私に何を言いたかったのだ.....?」
当初は邪魔をする為に来たのかと思ったが、それだけではない様子。
そして最後に言った意味深な言葉。任せるとはいったい....?
まるで私に託すような言い方ではないか。守れとは貴族の連中からか、あるいは別の勢力を指しているのか?
殿下の計画とは何のことだ。
あいつは何を知っている。
暫く熟考したが答えは出ず、セルベリアは首を振って考えを止めた。
「.....まあいい、今はそんな事よりもこちらの方が大事だ」
後ろの扉に振り返る。重厚な扉を見て自然と口の端は弧を描き、期待で胸が高鳴る。
セルベリアは今宵ある決意の元に此処に来た。
その決意とは。
「今夜....夜這いをかける」
まるで戦場にて決死の作戦を告げる将校のようにセルベリアは宣言してみせた。
扉に手を掛けてゆっくりと開けていく。
.....作戦は開始する。
★ ★ ★
「ここまでで結構です。持ち場に戻りなさい」
「は、承知しました」
医務室の前まで来たシュタインは早々に近衛兵に告げる。頷く近衛兵の青年はスッと離れて後背に直立し、敬礼すると歩き出す。去って行く衛兵を横目で見て、
「.....次はありませんよ、ミュラー。自らの職務に
ビクッと背中が盛大に揺れた。このまま何事もなく終わるかと思った青年にグサリときたのだ。見えないが恐らく顔いっぱいに汗を流していることだろう。
「ハッ!」
固まった動作でぎこちなく敬礼すると逃げるように去って行った。
部下の姿が見えなくった所で、シュタインは重く息を吐いた。
「もう来たか、やはり短くなっているな......」
ぼんやりと視界を泳がせるシュタイン。広がる光景は斑模様の如く黒い点で染まっていた。これはなにも流血したせいで霞んでいるのではなく理由は別にある。
それは半年前の事だ。ある日突然、熱病に襲われてからこの症状が起きるようになった。
全力で体を動かすことがこの症状のトリガーとなり、徐々にシュタインの視力は奪われている。
このままいけば遠からずシュタインは光を失うだろう。
治る見込みはないと医者からも言われている。
だがシュタインは己の境遇を悲観してはいない。
「殿下は力をつけた。あの頃とは違う、私以外にも多くの者がラインハルト様を中心に集った。これでようやく奴らとも戦える。勝つことも不可能ではないだろう.....」
全ては殿下の為に、その結果この目を失うことになろうと構わない。本当の光を私は知っているから暗闇で迷うことはない。
心残りがあるとすればそれは殿下の行く末を見届けられないことぐらいか.....。
いや、諦めるにはその光景は惜しすぎる。
必ずや目の光を失う前に成し遂げて見せよう。
「申し訳ありませんラインハルト様。貴方は望まないかもしれないが、私は貴方を......皇帝にしてみせる」
それが私の夢だ。初めて出会ったあの時から、生きる価値すら否定された私を、あなただけが認めてくれたあの日から私の願いは変わらない。
だからこそ、まずは邪魔な存在を片づけなければ。
最初の標的はもう決まっている。
「マクシミリアン皇子。あの男を殺さねばなるまい.....」
冷徹に無貌の男から紡ぎ出された言葉は誰にも知られぬまま虚空に消えた。