水より安いビールを飲み
水より安いワインを飲み
美術館に行こうと思って向かった先が不思議な呪文で飲み屋に変わり……。
エッフェル塔を見ながら出店でビールを飲むという、飲む、飲む、そして飲むの三拍子で全く当てにならない……。フランスに何しに行ったんだ俺。
口から吐いた息は白かった。先週から格段に落ちた気温は今週に入ってもまだまだ落ち続けるようで、もうすっかり吐く息は白く染まり、手袋とコートが必要な季節になっていた。
季節は冬まっさかり。再来週にはクリスマスを控えている十二月のある日午後の日の事、俺は何となく村にある教会を訪れることにした。畑仕事もなく、暇だったと言うこともあるし、何となく外に出て見たい気分だった。
頭上を仰げば厚い雲が一面を覆っている。この曇天さを見るに、近いうちに雪でも降っても可笑しくないな。
強い風が大地を撫でる。
――うぅ、寒い寒い。
俺はコートのポケットに両手を突っ込み、少しばかり足を速めることにした。
教会の重く大きな扉を開ける。キィーと金切り声を上げて開かれた礼拝堂の中には誰もいなかった。まぁ、この昼下がりにはミサもやっていなし、誰もいなくても可笑しなことはない。シスターも神父も基本的にこの村にあるもう一つの新しい教会に在住しているし、少し寂れたこの教会を訪れる人は少ない。
教会の中に一歩踏み込む。木製の床が軋んだ音をたてる。もう一歩踏み出す、今度は先ほどよりもさらに高い音がした。きっと、床が老朽化しているからだろう。このままいけば数年後には床がすっぽりと抜け落ちそうだ。
祭壇に近い一番最前列の木製の椅子に腰をかける。
正面の祭壇には神父が説教する時の机に、その後ろにはイエス様が形どられたステンドグラス、そしてその窓からは十字架が下げられている。
きっと、新しい方の教会にいけば誰か知り合いでもいるのだろう。
でも俺はこの古い寂れた教会の方が好きだった。それは日本にいる時も同じだった。信仰が現状で集められ続ける場所よりも、信仰が終わった後の方が好きだった。
京都にある有名なお寺や神社より、近所にある小さな寂れた神社の方が好きだった。そんなところの方が信仰を感じられたし、神様がいそうな気がした。
左胸に手を当て、目を閉じる。
別に誰に祈ってるわけでもない。俺は確かに日本にいた時から神社やお寺、そして教会めぐりが好きだったが、それは別に神様を信仰している訳ではなかった。
別に俺にとっては神様がいようが、いまいが別に関係なかったし、興味もなかった。神社巡りも教会めぐりもただ雰囲気が好きなだけであって、信仰されていたという跡が好きなだけであって別に信仰自体には興味はなかった。
そもそもの話が、俺は今確かにフランスで生きてはいるが、その大本は未来の日本の経験で形成されいる。根本的な在り方がこの中世フランスの人とは違うんだ。
かの哲学者ニーチェの言葉である。『神は死んだ』。この言葉が正しければ、ここに住む人達に神はいても、俺の中には神はいない。
そう、俺は神の死んだ後の人間なのだ。
だからこそ、この時代の人達とは根の部分から神の在り方が違うのだ。
でも、神を信じなくても、奇跡を信じなくても、信仰心はなくても祈ることは出来る。神に祈るわけでもなく、仏に祈るわけでもない。言うなれば、時代に祈る、運命に祈る。自分のために祈ることは出来ないが他人、この時代の人に対してなら祈ることが出来る。
――君に救いあれ。
これから先過酷な運命に翻弄されるであろう、少女のこれからを。
無力な俺は何も出来ずに、ただ目を閉じて、思うことが精一杯だった。
全く時と場所が変わったと言うのに、この世の世知辛さは、変わらないときた。本当に嫌になるよな……。
礼拝堂で吐いた息は、外と同じく白かった。
部屋に戻ると先客がいた。
「お兄ちゃんおかえりー。どこ行ってたの?」
そいつは俺のベッドに寝転び、毛布と布団に包まりながら何やら紙を読んでいた。
最早、言うまでも無い、ジャンヌだ。
「ちょっと、散歩にな」
なんで俺の部屋にいるかなんて、聞くまでも無い。いつもの事だ。俺もこれだけ付き合いが長いとすっかり慣れてしまった。環境に順応するというのはある意味で怖いものだ。
「ふーん、そうなんだ」
ジャンヌは俺に興味があまりないようで、手元の紙をめくる。
来月で十歳になるジャンヌは夏のころとあまり変わらず、短い金髪に碧眼。最近は冬で寒くなって来たというのに殆ど毎日、外で野山を駆けめぐる生活を送っていた。ようするに活発、やんちゃな美少女のまんま。
唯一変わった面と言えば、こうして文字を読むことを覚えた事だろうか。
あまりに勉強嫌いで、すぐに逃げ出すジャンヌに匙を投げた彼女の両親が、目をつけたのが俺だった。何故かジャンヌは俺に懐いており、毎日俺の下に来る。そこで両親はジャンヌに家で勉強をさせることを諦め、俺に押し付けるような形でジャンヌの勉強を見るようにお願いした。
少しばかりはバイト代もでるし、ジャンヌの両親も半ばあきらめ半分の面があり、出来れば読み書きと簡単な計算だけ出来ればいいとのことだったので、軽い気持ちで引き受けたのだった。
「待ってたのなら、リビングで待っていればよかったのに。あっちは暖炉があって暖かいだろ」
我が家にある暖房設備は、リビングにある暖炉と湯たんぽくらいなものだ。いくら布団と毛布があるといってもリビングの方が断然温かい。
「大丈夫だよー、お兄ちゃんの毛布と布団があるし、それにおばあちゃんから湯たんぽも貰ったもん」
ジャンヌは目線を紙に落としながら話す。どうやら機嫌もいいらしく、鼻歌交じりに読み進めている。
「そうか、まぁお前がいいならそれでいいけど、風邪は引くなよ」
何とかは風邪をひかないと言うし、ジャンヌは間違いなくその何とかなのだが、万が一ということも一周回ってどうこうという可能性がないわけではない。風邪なんて引かれた日にはことだ。
「大丈夫だよ、私今まで一度も風邪ひいたことはないもん――うん、よし読み終わった!」
最後の行まで読み終えたのか彼女は満足げに頷くと、起き上がる。
「お兄ちゃん面白かったよ!」
「そうか、それは良かった。それは持って帰っていいぞ」
「本当、お兄ちゃん!? ありがとう! 愛しているよ!」
「はいはい」
抱き着いてくるジャンヌを適当にいなす。
ジャンヌに渡した紙は俺が書いたものであり、ジャンヌの教材代わりにもなっていた。
「やっぱり、悪の魔王は勇者によって滅ぼされるんだね!」
渡したのは、ジャンヌのように子供でも読みやすいように書いた物語。勇者様が魔王を倒すという王道中の王道だ。簡単な文法と簡単な単語を選んで書いているため、内容はちと薄いが、それでもジャンヌくらいの歳の子供からすれば十分楽しめる内容を書いたつもりだ。
初めは聖書でも渡すかと考えたのだが、ジャンヌは意外なことに教会によく顔をだして、シスターや神父の聖書の朗読を何度も聞いている。内容もその殆どを暗記しているようだった。なので、知っている内容を読んでも面白くないだろうと俺が適当に物語をつくり、それを元に勉強しているのだった。
「面白かったのなら良かったよ」
「うん、流石お兄ちゃんだよ! 次はあるの?」
「あぁ、もうできてるよ」
引き出しから暇な時に書きためた物語を取り出しジャンヌに差し出す。
「勇者様と悪の王様?」
ちなみにその勇者様の性別は女性。親しみを持ってもらおうとジャンヌを主人公にしてみた。ジャンヌも往々にして気に入ってくれているようだ。
「よく読めたな。偉い偉い」
頭を撫でてやるとジャンヌはエッヘンと胸を張る。
「最近は聖書も少しずつ読めるようになったんだよ! 凄いでしょ!」
「それは凄いな。この調子で頑張れよ」
勉強を教え始めたころは全くと言っていいほど文字を読めなかったジャンヌだが、ぐんぐんと進歩していき、今ではそこそこの文章なら読めるようになっていた。子供の成長というのは凄いものだ。特にジャンヌは聖書は好きだからなぁ、何かを読むというのはもともと性に合っていたのだろう。代わりと言っては何だが、数学の方は……。
まぁ、そこはジャンヌの人権のために黙っておこう。
「うん、お兄ちゃん。私はね、将来この物語の勇者様のように、誰かを救えるような人間になりたいと思うんだ」
真っ直ぐな穢れのない碧眼が俺を射抜く。ジャンヌは芯から純真無垢な笑顔だった。その表情から見て取れるのは憧れと切望。
「――そっか」
きっと俺の今の顔は歪んでいるだろう。
「――だって、正義の味方は必ず勝って救われるんだから……!」
物語を書いたことを少しだけ後悔した。