あべ☆こべ   作:カンさん

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第二十一話 ラッキー? アンラッキー?

 

「いや、その、あの……!」

「た、田村さん……?」

 

 頭の中がグルグルと周り、顔が凄く熱くて、自分が何を考えているのか分からない。

 ただ、一つだけ思うのは――どうしてこうなった?

 

 

 第二十一話 ラッキー? アンラッキー?

 

 

【――原因はあの日の夜の事だろう。

 その時の私はあんなことになるとは思ってもいなかった】

 

 

「ぬぐぐ……」

 

 私こと、田村ひよりは頭を抱えて唸っていた。我ながら情けない声を出しているが、ここは自分の部屋なので咎める人間は居ない。

 そんなことよりも、何故私はこうして頭を抱えているのか。いつもは同人の締め切りに唸る……というよりも悲鳴を上げているのだが、今回は違う。

 それは……。

 

「入学して結構経つのに、まだ返せていない……」

 

 机の上に置かれた一つのハンカチ。これは、私を助けてくれた恩人であり偶然にもクラスメイトとなった柊キョウくんの物だ。本来なら、オタクである私が男子……それもレベルの高い彼の所持品を持っているということはあり得ないことだ。というか、下手したらキモイとか言われたりするかも……。

 ぐっ、中学時代の忌まわしき記憶が……。

 でも、柊くんはそんなことを言わない人間だという事を私は知っている。

 見ず知らずの私を助けてくれたというのもあるが、それ以上に学校生活での彼を見ていると分かるのだ。彼は、私が見て来た男子とは少し違う、と。

 そう例えば……。

 

 

 

 

「アハハハハ! それマジ!?」

「でしょでしょ!? マジヤバいと思うわ~」

 

 私のクラスの男子生徒の人数は六人で、所謂()()()だ。他のクラスが二人だったり三人だということを考慮すると、このクラスは恵まれている方だと思う。男子が居ないクラスなんてざらだし。

 でも……。

 

(騒がしいなぁ……)

 

 私は、あまり嬉しくなかったりする。男子たちの声は、何というかこう……耳に響くのだ。

 眉を顰めるも、物申す気は起きない。だって今は休憩時間だし、する度胸もない。

 しかし……やっぱり共学に行く男子は色々と大胆だ。騒いでいる男子たちをチラリと見ると、上着を脱いで下のシャツを曝け出している。今はまだ春だから冬用でそこまで露出は無いけど……夏になると目線に困りそうだ。

 

(それに対して……)

 

 視線を別の方へと向ける。そこには岩崎さん、小早川さんと談笑している柊くんの姿が。

 柊くんはクラスの男子と違ってキッチリと制服を着ていた。新入生代表に選ばれるくらいだし、そういうことには真面目なのだろうか。普通の男子はダサいとか言って独自に着こなすからねぇ。

 それにしても……。

 

(柊くんって色々とレベル高いなー)

 

 私から見て、柊くんはボーイゲーやエロゲーで言う正統派ヒーローみたいな子だ。

 最初のオープニングで紹介されてCGが他のヒーローよりも多く、パッケージには中央に陣取り、ルートによっては学校卒業後のエピソードも描かれて、そのゲームの真のエンディングを見るためには欠かせない存在。

 柊くんはそんな男の子に見える。我ながらおかしなことを言っていると思うが……。

 

 で、そんな彼と縁ができた私だが……。

 自然と私の意識が鞄の中にあるハンカチへと向けられる。

 本来なら、出会ったらすぐに返そうと思っていたのだが……いざ本人を前にすると緊張してしまって逃げてしまう。あの時は意識がはっきりしていなかったからあまり顔を見ていなかったからねー……。

 

 しかし、本当にどうしようか。あれ以来話しかけることが出来ず仕舞いだし……。

 というか、此処では絶対に無理だ。

 意識を周りのクラスメイトに向ける。傍から見たら会話をしているように見えるが、何度か柊くんをチラチラと見ている。彼女たちも柊くんの性格……というよりも女子に対して偏見を持っていないことを知っているから、どうにかお近づきになりたいんだろうなぁ。

 

 あと、あの噂も関係しているのかな? 柊くんがビッチだっていう……。

 私は小耳に挟んだ程度にしか聞いていないけど……普段の彼を見ている限りそうは思えないなぁ。というか、彼はビッチの正反対でしょ。清純派とか正統派。

 まぁでも、清楚ビッチというジャンルもあるし……あるし……。

 

(……柊くんが、清楚ビッチ……?)

 

 

 

 ――俺と、秘密の思い出を作る?

 

 夕焼け色で染まる放課後の教室。

 椅子に腰かけたその男の子は、普段の清純さが消え失せて、怪しい笑みを浮かべると――。

 

(――って、何を考えているんだ私はー! クラスメイトをそんな目で見るなんて……!)

 

 ……入学式の時のことを本にした私が言っても手遅れなような気がするけど。

 助かったけど……確かに助かったけど!

 次の本にまた登場させそうになる己の欲望を抑えつつ、私は視線を柊くんと話している二人へと向ける。

 

「あはは。やっぱりあれって柊くんのことだったんだ」

 

 小早川ゆたかさん。男子よりも背が低くて、本当に飛び級していないのかと密かに疑っている。

 柊くんとはこの学校に入る前から親交があったのか、入学当初から仲良くしているのを見かける。

 本来なら柊くん狙いの女子にとっては障害になるはずなんだけど……やっぱり体が弱いからか、そういう風に見ていない。

 

「……私もびっくりした。みゆきさんも同じことを言っていた」

 

 反対に最大の障害として見られているのは、岩崎みなみさんだ。

 イケマンで、運動もできて、勉強もできる。

 男子に凄く人気で、モテない女子から嫉妬の視線をよく送られている。

 そんな彼女が柊くんと仲が良いことに危機感を覚えているのか、何処となく落ち着きのない様子を見せる人がチラホラ。

 まぁ、あの二人ってお似合いだよねー。テンプレというか王道というか。

 でも、小早川さんと柊くんの組み合わせも良いと思う。小早川さん小さいからぎりぎりあにロリにできそうで。

 そうだなぁ。やっぱり此処は三角関係にして、近所のお兄さんとお姉さんが付き合い始めて、祝福しつつも内心嫉妬するロリっ子――。

 

(――って、私は何を考えているッスかー! クラスメイトをネタに使うなんて!)

 

 いつの間にか描いてしまっていたノートを勢いよく閉じて、頭を抱える私。

 これはいけない。人としてやってはいけないことだ。

 ……前科ある私が言ってもアレだけど。

 

 とりあえず自重しろ私。ネタよりも、早くこのハンカチを返さないといけない。

 この壊れたフィルターを何とかしなくては……。

 

 

 

 

「あ、ちょっとごめんね」

「あ、うん」

(! よし、今だ)

 

 席を立ち教室を後にする柊くんを追って、私も席を立った。

 そして彼の後を違和感が無い距離を保って後を追い――。

 

(あ、これは不味い)

 

 進路を変えて女子トイレに向かった。

 するとブワッと冷や汗が湧きだし、心臓の鼓動がうるさく聞こえた。

 

「と、トイレに行くつもりだったんだ……」

 

 あのまま最後まで追っていたら、お礼を言うどころか一生話せないようになっていた気がする。

 トイレに行く男子をストーキングする女子……。

 どう見ても不審者です。どうもありがとうございました。

 

「男子に蔑んだ目で見られたら、心折れるよ私……」

 

 それが柊さんになるとダメージが倍に……。

 

 

 

 ――この、変態が。

 

 心底軽蔑した目で相手を見下ろす男の子。

 そんな目で見られた女は、何故か体が火照っていき……。

 

(いやいやいやいや! 何を考えているんだ私は!

 た、溜まっているのかな……)

 

 浮かんでしまったイケない妄想を何とか振り抜き、私は教室に戻ろうと踵を返して――。

 

「あ」

「へ」

 

 目の前に柊くんが現れた。

 すると必然と、先ほどの妄想が再び呼び起こされてしまい――。

 

「あの、たむ――」

「ご、ごめんなさーーい!」

 

 思わず私は、その場から逃げ出していった。

 

 

 

 

「ヘタレだなー、田村は」

「うぐ。そんなにバッサリと行かなくても……」

 

 結局あの後、柊くんにハンカチを渡す機会に恵まれることなく放課後を迎えた。

 仕方ないので今日は諦めて漫研の部室に行ったのだが……気分が沈んでいるとなかなか良い物が描けず、先輩に心配されてしまった。

 そこで私は要点を押さえて説明したところ、さっきのように罵倒されてしまった。

 自覚しているだけに、反論できず私はため息を吐いた。

 

「ハンカチくらいパパッと渡せば良いのに」

「そんなこと言われても……ほら、私ってこんなじゃないですか?」

 

 我ながら典型的なオタクみたいな女だ。事実オタクだし。

 そんな私が高嶺の花である柊くんに話しかけて、男物のハンカチを渡そうものなら、一体周りにどんな目で見られるだろうか。特に男子の反応が怖い。絶対キモイとかそういう感じのことを言われそうだ。それだけ、世間のオタクに対する偏見は酷いのだ。

 だから私は、情けないけど周りの目が無い所でハンカチを返そうと思っているんだけど……。

 

「このままじゃ私ストーカーッスよ」

「もう片足突っ込んでいる気がするけどなー」

 

 そうでしょうけど……そうでしょうけど!

 

「なんだったら、私が代わりに渡してあげようか?」

「う~ん」

 

 チラッと先輩を見る。

 染められた金髪に褐色の肌。そして気の強そうな顔。

 そんな先輩が柊くんを呼び出す。

 そうなると……。

 

 

「や、やめてください!」

「いいじゃん。私と良いことしようぜ?」

 

 無人の空き教室で抵抗する男子生徒。

 必死に助けの声を上げるも、時間と共に廊下に響く声の種類が段々と――。

 

 そこまで考えたところで、私は先輩にアイアンクローをされた。

 

「おいこら。先輩使ってナニ妄想してんだ?」

「い、いや。不良と優等生とか妄想しやすいシチュというか……!」

「誰が不良だっ」

 

 確かに、先輩は見た目は不良みたいだけど、中身は薔薇厨のオタクだもんね。

 ジンジンと痛む頭を押さえて変形していないか確認していると、先輩は呆れ交じりに言う。

 

「まぁ、渡すならさっさと渡して来なよ? そういうのって時間が経てば経つほど渡しづらくなるからなぁ」

「そ、そっスね」

 

 ……そんなこと、私だって分かっているんだけどなぁ。

 

 

 

 

「ふー……体はさっぱりしても、心はさっぱりしない~っと」

 

 火照った体を手で仰ぎながら私はパソコンをカチカチと操作していた。

 一人で考えても悶々とするだけで何も解決しないから、ネットに答えを求めていた。

 まさに藁にも縋りたい気分だ。

 

「う~ん……何か良い方法無いかなー……」

 

 ちゃんとあの時のお礼を言いたい。

 目が合った時に目を逸らしたことを謝りたい。

 本人を前にしても平常心で居られるメンタル。

 周りの人の目が無い状況を作りたい。

 どんどん求めるレベルが高くなり、己の意識は低くなっていく。

 

「――あ」

 

 そして、ふと目に入れた情報に私は釣られてしまった。

 

「『あの人と急接近できる占い』?」

 

 本来の自分なら、ただの釣りだと判断して気にも留めなかっただろう。

 でも、この時の私は何故か『これだ!』と思ってしまい――。

 

 

 

 

 そして次の日。

 夜遅くまで同人誌を描いていたからか、私はその日はずっと眠気に襲われていた。授業も身に入らず、気が付いた時には放課後になっていた。まるでタイムスリップしたみたいで、ちょっと不思議な気分。

 それにしても、今日漫研休みで助かったー。まだ原稿も仕上がっていないから先輩に締め上げられる所だったよ。

 

「……帰るか」

 

 寝起きの気怠さを感じながら、私は立ち上がり、帰路に就こうとし――。

 

 ガララ。

 

「ん? ……あ」

「……あ、田村さん」

 

 前の扉が音を立てつつ開き、そこから入って来たのは柊くんだった。彼を見た私は思わず声を出してしまい、それに気づいた柊くんと視線が交じり合う。

 柊くんは私の名前を呼ぶが、私は反応できなかった。不意を突かれた、というか何というか。

 何を言えば良いか分からず、無意識のうちに私の足は逃げようと動き出した。

 しかし。

 

「あ、待って!」

「っ!」

 

 気づいた柊くんが大きな声で呼び止めて、私はビクリと体を跳ね上らせると金縛りにあったみたいにその場に固定された。

 

「ごめん、大声出しちゃって。でも……一回田村さんと話し合いたかったから……」

「え……」

 

 ――それって一体。

 男子に……というよりも柊くんにそんなことを言われて、私は分かりやすいくらいに動揺した。

 もしかして……? そんな期待と不安を交じり合わせた感情が浮かび上がる。

 今までのことをすっかり忘れてそんなことを考えていた私は、柊くんの次の言葉にガツンと頭を殴られた。

 

「俺……田村さんに嫌われているよね?」

「――え」

 

 心の中が空白になり、底から湧き上がる【何故】という二文字の言葉。

 

「え、なんで」

「田村さん。俺のこと避けているよね? 正直理由は分からなかったけど……多分俺が何かしたんだと思う。俺、ちょっと常識を知らないところがあるから……」

「いや、その……」

「だから――ごめんね」

「――」

 

 夕日の差し込む教室で、泣きそうなのを精一杯堪えて笑顔を浮かべる彼を見た私は――今までの感情が爆発した。

 

「ち、違う! 謝るのは私の方だよ!」

「田村さん……」

「本当は、入試の時のこと、お礼言いたかった! でも、実際に会ったらなかなか言えなくて、避けちゃって、悩ませちゃって……!

 本当にごめんなさい、柊くん! 助けて貰ったのに、恩を仇で返すようなことを……!」

 

 私のせいで柊くんに嫌な気持ちにさせてしまった。自分の勝手な都合で、ちっぽけな自尊心のせいで。

 そしてまた私は自分のために、感情に従うままに、頭を下げて謝った。

 許してほしいのではなく、ただ謝りたかった。

 

「……田村さん」

「……」

「安心したよ」

「……え?」

 

 彼の言葉に恐る恐る頭を上げると、そこには先ほどの表情を霧散させて優しい笑みを浮かべている柊くんの姿があった。

 彼の言葉が理解できなかった。

 彼は何を言っているんだ?

 

「実は、何となく田村さんが思っていること分かっていたんだ。いつも教室で暗い顔をしていたから」

「え……じゃあ今のは」

「あ、避けられて傷ついたのは本当」

「やっぱりごめんなさい!」

 

 もう一度私は頭を勢いよく下げた。

 すると柊さんは慌てて私の頭を上げさせようとする。

 

「お、落ち着いて田村さん!」

「で、でも……」

「まぁ、何となく分かるよ。田村さんはこのままじゃ納得できないんでしょ? でも、俺もああいう悪趣味なことをした訳だから……。

 そこで悪趣味な俺はこう提案します。お互いに相手に嫌なことをしたということで、お互い様ってことにしない?」

「――」

「そして、明日からは普通にクラスメイトとして……できたら友達として、ね?」

 

 ……柊くんの言葉は私にとって凄く優しい言葉で、頷きたくなるほど魅力的なものだった。

 友達になりたいと言われたことも、嬉しかった。

 

「でも……やっぱり私にはそんな資格ないよ」

「……なんで?」

「だって、入試で迷惑かけたし……そのことをまだ謝っていないし」

「なんだ、そのことか」

「え……?」

「田村さんは一つ勘違いしているよ。確かに俺は田村さんを助けた。そして、その時に掛けるべき言葉を、田村さんは既に言っているよ」

 

 ――「あ、ありがとうございます」

 ――「いえ、気にしないでください。ただ――」

 

「……あ」

「ね? 田村さんが気にするべきことは何もないんだよ」

 

 そう言うと柊くんはにっこりと笑顔を浮かべた。先ほど見た無理して作ったものではなく、自然と浮かべた柔らかいもの。

 そんな彼を見ていると、ウジウジしている自分が情けなくなり――一度深く息を吐いた。

 本当……情けないなぁ私。女の私よりも、柊くんの方が女らしいや。

 私は、自分の鞄からあの時のハンカチを取り出す。

 そしてそれを目の前の彼に差し出して――ずっと言いたかったことを言った。

 

「柊くん。あの時助けてくれてありがとう。そして、こんな私で良ければ友達になってください」

「……喜んで」

 

 柊くんはそっとハンカチを受け取りながらそう言った。

 

 

 

 

「それにしても、嫌われていなくて良かったよ」

「いや、本当に面目ないッス。私、男子に慣れていなくて……」

「あー……でもこうして友達になれたから結果オーライってことで」

 

 こうして会話していると、柊くんの特異さが良く分かる。私が今まで出会ってきた男子とは全然違う。

 性格が凄く良い。やっぱり彼は他の男子とは違うようだ。

 

「そういえば、それって……」

「あ、これ? ちょっと先生に頼まれちゃってね」

 

 柊くんの手にはプリントがあった。何でも、日直の仕事をしていたら先生に頼みごとをされてしまい、一つ片付けるとさらに他の先生の頼みごとが……みたいに時間がかかってしまったとのこと。

 それもこの教室の連絡事項のプリントで最後なのらしいが……。

 

「あ、じゃあそれ私がするよ」

「え? でもこれは……」

「良いよ良いよ。それを貼るにはどうしても椅子を使わなくてはいけないし……だったら女の私の方が」

 

 罪滅ぼしっていう訳じゃないけどね。

 善意からの申し出だったのだが、柊くんはジト目でこちらを見ると……。

 

「……それって俺の背が暗に低いってこと?」

「うぇ!? いや、そういう意味では!」

「……あはは。冗談だよ冗談。じゃあ、お願いするね?」

「あ、うん……」

 

 そう言って笑いながらプリントを渡してくる柊くん。

 う~ん。柊くん、多分無意識だろうけど、女を手玉に取るのが上手いなぁ。

 ……単に私が処女なだけかもしれないけど。

 取り敢えず私は手頃な椅子を使ってプリントを掲示板に貼ろうとし……。

 

「……? ねぇ田村さん。その椅子ちょっとグラついていない?」

「え? ……ああ、確かに。でもすぐに終わるから」

 

 気を付けないと気づかない程度のこと。それに、普段から使っているのだから別に問題ないと判断した私は、特に深く考えずに椅子に登り画鋲を使ってプリントを固定しようとし――。

 

 パキンッ!

 

「へ?」

 

 そんな音が響いたかと思うと、グラリと視界が……いや体全体が傾き――。

 

「危ない!」

 

 柊くんの声が響いて――ドタンッと音を立てて私は床に落ちた。

 いや、落ちたと言っても椅子から落ちただけで、どちらかと言うとこけた感じだった。

 でも、急にそんなことになったら当然驚く訳で、心臓がキュッとした。

 しかしそれ以上に――何で視界一杯に柊くんの顔があるの? おかげで心臓がもう一度キュッとした――じゃなくて!

 

「いや、その、あの……!」

「た、田村さん……?」

 

 頭の中がグルグルと周り、顔が凄く熱くて、自分が何を考えているのか分からない。

 

「田村さん、怪我はない?」

「……あ、うん」

「良かった……それならさ、一つお願いがあるんだけど」

 

 思考停止した頭で、柊くんの言葉に反応する私。

 正直何を言っているのか、変なことを言っていないか、それすらも分からない。

 そんななか、柊さんは頬を薄っすらと赤く染めて視線を逸らし……凄く言い辛そうにしながらも口にした。

 

「……起き上がって貰っても良いかな? その、体が……」

「……あ」

 

 彼の言葉で体の感覚が戻った気がする。

 床についた際の衝撃でジンジンと響く軽い痛み。そして自分の物とは違う人の――柊くんの温度。

 問題は……どこでそれを感じているか、だ。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 私は勢いよく腰を引くと起き上がる。恥ずかしそうに上半身を起こした柊さんは気まずそうに視線を合わせてくれない。このままでは不味い。そう思った私は弁明の言葉を吐き出そうとして――。

 

 ガララッ。

 

「柊く~ん。遅れてごめんね? 一緒にかえ……」

 

 私の言葉を遮るように、扉を開けて入って来たのは小早川さんだった。

 柊くんと帰るつもりだったのか、彼女はいつものようにほんわかとした笑顔を浮かべながら彼の名前を呼ぶも、こちらを見ると硬直する。

 さて、ここで一度整理しよう。今の私たちの態勢は非常によろしくない。分かりやすく言うと、男を襲おうとしている痴女そのもので……。

 

「だ、だめー!」

「ちょ、小早川さん落ち着いて……」

「ひ、柊くんにえっ……いけないことはダメです!」

「大丈夫だから! 俺は大丈夫だから! 田村さんも説得して!」

 

 ああ……私は……。

 

「すみませんっしたー!」

「ちょ、今謝ったらっ」

「あ、謝って済む問題じゃないですー!」

「いや、だから……もう何でこうなるの!?」

 

 ――結局、全ての誤解が解かれるのは三十分後の事で。

 ――次の日私は、柊くんに話しかけることができなかった。

 

 ――どうしてこうなった? 

 

 


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