雪ノ下大規模侵攻後、由比ヶ浜結衣は放課後に家庭科室の貸し出し出来る様に鶴見先生から許可を頂き、その足で三浦達の元に戻って放課後なにを行うのか素直に告白したのであった。
雪ノ下に言われた言葉が彼女を突き動かしたのかも知れない。
『あなたの他人に合わせようとするのやめた方がいいわ。見ていても不愉快になったし。三浦さんの態度も悪いけど、人の顔色ばかり見ていた貴女にも非があるわ』
率直の意見に、由比ヶ浜の隣で聞いていた八幡も「うわぁ」と呟くほどであった。似た様な感想は抱いていたが、それはあまりにも直球過ぎる。もう少しオブラートに言えないものであろうか、と思っていたら――。
『か、かっこいい……』
瞳を輝かせて雪ノ下に詰め寄ったのであった。
これにはさすがの雪ノ下も目を丸くさせる。横で成り行きを見守っていた八幡も動揺であった。
『……あなた、話しを聞いていた? 私、結構きつい事を言ったつもりだったのだけど』
自覚があった事にも驚いた所であるが、何よりも由比ヶ浜の予想もつかない行動に驚きを隠せない。目の錯覚か、ご主人を見つけた子犬の様に尻尾を振っているように見えて仕方がなかった。
『そんなことないよ! 確かに言葉は酷かったし、ちょっと引いたけど……。でも、本音って感じがするの。人に合わせてばっかだったから、こう言う“お話し”って初めてで……』
何時も顔色を伺っていた由比ヶ浜からしてみれば、雪ノ下の言葉は新鮮であった。言葉の内容は酷かったが、こういう風に面と向かって人の顔を見て話してもらった事など彼女の経験上では少なかったのであろう。だから、率直に自分の意見を人に話せる雪ノ下に憧れの様な感情が芽生えたのかもしれない。
『……ごめん、ゆきのん。放課後、少し遅れてもいい?』
『いいわ。準備する時間もあるから、少しぐらい。……もちろん、比企谷君も手伝うのだからね』
『へいへい。分かりましたよ』
***
放課後、雪ノ下から“本音”を学んだ由比ヶ浜は、三浦達と対面する。
「んで、ユイ。なんで、雪ノ下さんとクッキーを作る事になったの? 別にあーし達に話してくれてもよかったんじゃない?」
「ごめん、優美子。けど、以前優美子は「いまどき、手作りを渡しても重いだけよね」って笑っていたから……」
以前、遠回しに由比ヶ浜はそれとなく「人にプレゼントする時、手作りとかどうかな?」と聞いた事がある。その答えに三浦は否定的な返答をしたのであった。
「それを聞いたら、なんていうかさ。手作りのクッキーを渡したいって言うの、何となく恥かしくなっちゃって。そんな話しを平塚先生と話していたら、ちょうどいい人員がいるがどうだ? って提案されたの」
「それが雪ノ下さんってわけ?」
「……うん」
軽く頷き、三浦の言葉を待つ。けど、三浦も何も言う事ができないでいた。友人の由比ヶ浜に相談されなかった事にショックを受けたのは間違いないのだが、そうさせたのは自分の軽はずみな考えから出た言葉であったからだ。今の聞いて、由比ヶ浜を責める事など出来ない。なら、彼女に対してなんて言ってあげたらいいのだろうか。
と、思考を働かせて考えていると、葉山が彼女のフォローに入る。
「もういいだろ、優美子。結衣だって悪気があった訳じゃないんだから」
「隼人」
「けど、正直驚いたよ。あのヒキタニ君が他人の為に自分からフォローを入れるなんて」
「そう言えば、あの……ひ、ヒキオだっけ? 随分と隼人に馴れ馴れしかったけど、知り合いなの?」
「知り合いと言うか、彼とは同じ部隊に所属していたんだよ。A級8位比企谷隊のガンナー。それが前の俺の肩書だったんだ」
衝撃の告白であった。その場にいた全員が目を剥いて、一歩後ずさる。
最初に喰ってかかったのは、もちろん由比ヶ浜であった。
「えっ!? ひ、ヒッキーってそんなにすごかったの」
「過去形にしないであげなよ、ユイ。ヒキタニ君は今でも凄いんだからな。数多くのオプショントリガーを考案しているし、木崎さんの弟子と言う事もあってパーフェクトオールラウンダーになりうる人材なんて言われているんだから」
「オプション? パーフェクト?」
「ああ、ごめんごめん。つまり、ヒキタニ君は結衣が思っている以上に凄い男って事なんだよ。認めたくないけどね」
あれで、あんな捻くれた性格でなかったらどんなに良かったかと葉山は愚痴る。
比企谷の達観しすぎた性格と何度衝突した事か。それさえなければ戦闘時の連携も悪くなかったし、作戦会議の話し合いも新鮮味があって充実感があったと言えよう。今の所属している部隊も悪くないが、少し物足りない感があるのも否めない隼人であった。
それを聞いて真っ先に反応を見せたのは、終始黙っていようと思っていた海老名姫奈であった。
「ま、まさかのリアルハヤハチッ!? 過去に同じ部隊であった二人。何らかの理由で離ればなれになって、けど思いは断ち切れる事なく、キキマシタワーっ!!」
何を想像したのか分からないが――知っている一同もいるが知らない振りをしつつ――海老名の鼻から滴る赤いそれを見て、誰もが苦笑いする。
「姫菜、擬態しろし。……分かった、ユイ。けど、今度からは真っ先にあーし達に相談しろし」
「う、うん。ごめんね、優美子。これからも仲良く、できるよね?」
「友達なんだし、当たり前なこと言うなし」
***
「雨降って地固まるって所か……」
ドアのすぐ真横に寄りかかり、由比ヶ浜達の話しを立ち聞きしていた八幡は家庭科室へ向かい始める。雪ノ下に遅れた理由を考えながら、廊下のむこうへ消えていった。
***
「や、やっはろー! ゆきのん、ヒッキー。遅れてごめんね」
調理器具の準備をしていた最中に由比ヶ浜が登場する。
「こんにちは、由比ヶ浜さん。事前に遅くなるって聞いていたから大丈夫よ。……少しはそこの男にも見習ってもらいたいわね」
そこの男、比企谷八幡へ冷たい眼差しを送る。なぜか、八幡は腕を後ろに回されて紐で動けない様に拘束されていた。
「ひ、ヒッキー。何しているの?」
「何もしてねえよ。この女、俺がちょっと遅れただけで「手伝って貰うって言ったでしょ。遅れるとはいい度胸ね」とかなんとか言って、俺を縛りつけやがったんだぞ。なんだよ、その捕縛術。お前、いったいどこを目指しているんだよ」
「今のゆきのんの物真似? 少し似ていたけど、なんかキモイよ、ヒッキー」
「るせぇ。見ていないで解いてくれ。縛り方が完璧すぎて解くに解けないんだよ」
「え、えっと……」
由比ヶ浜はゆきのんの方へ視線を向ける。人の顔色を伺うなとばかり言われたにも関わらず、彼女は氷の女王様の顔色を伺わずにいられなかった。由比ヶ浜が何を言いたいのか察した雪ノ下は、用意していたエプロンを彼女に渡し、自分も手早く装着する。
「そのサボり魔君は放っておいていいわ、由比ヶ浜さん。あと、比企谷君、今後その口調で話したら、あなたのパソコンにウィルスを流すわよ」
「横暴だ! そんな事で俺のデータを壊すとかどんだけ怒っているんだよ。てか、この状態では手伝う事も出来ないんだが、それでいいのかよ」
「別にあなたの料理の腕に期待してないわ。味見して感想をくれればいいのよ」
***
「だ、だからと言って、こんなものを食べさせようとするやつがあるかっ!」
八幡の目の前に物体Xが置かれる。
「な、なぁ。お前らはクッキーを作っていたんだろ。何をどうすれば、こんなダークマターが作れるんだよ。まさか、俺を亡き者にしようとハメやがったのか!?」
「黙りなさい比企谷君。見た目はあれだけど、食べて見ないと分からないものよ。ちゃんと味見役として仕事をしなさい」
「雪ノ下。それは言い間違えだ。これは味見ではなく毒見と言うんだ! それにお前、本当にそう思っているんだろうな」
「……看病ぐらいはしてあげるわ」
あからさまに目を逸らす雪ノ下。彼女も自分が監督役を買って出たにも関わらず、結果がこんな体たらくになってしまった事に悔んでいるのであった。
「なんでうまくいかないのかなぁ……。言われた通りにやっているのに」
心底不思議そうな顔をして由比ヶ浜は自分が作ったダークマターに手を伸ばし、そのまま自分の口へ入れた。
「うぅ~。に、苦いよ不味いよ」
涙ながらにぼりぼり音を立てて齧る由比ヶ浜に、直ぐ紅茶が入ったティーカップを渡す雪ノ下。
「なるべく噛まずに流し込んだ方がいいわ。これで、口直ししてちょうだい」
言われた通り、呑み込んだ由比ヶ浜は直ぐに雪ノ下が淹れた紅茶に手を伸ばし、口に含む。
「……さて、比企谷君。由比ヶ浜さんも食べた事なのだから、貴方も食べなさい」
「おい、待て雪ノ下。苦い、不味いって本人が言っているだろ。もう味見をする意味もないはずだ」
「ダメよ、何か問題なのか把握するにはこれしかないのよ。原因を追究するためには危険を冒す事も必要なの」
「だからと言って、これを一人で全部食わすつもりじゃないだろうな」
「つべこべ言わずに食べなさい。食べさせてあげるから」
言うが早いか雪ノ下は残ったダークマターの一枚を取り出し、それを八幡の口元へ持って行く。けど、八幡の口が開く事はなかった。さながら鎖国を行った日本の様に外国との交流を拒絶したかの如く。
「比企谷君。口を開きなさい」
「断る。俺はノーと言える日本人だ。そんなダークマターを食したら死んでしまう」
「食べても死なない事は由比ヶ浜さん自ら証明してくれたわ。さ、この私が“あーん”とやらをしてあげるのだから、有り難く受け入れなさい」
「断固拒否する」
黒船雪ノ下の開国要求を断る。けれど、黒船の武力は圧倒的であった。八幡が動けない事を良い事に、遠慮なく雪ノ下はダークマターを口へ押し当ててくるのだ。逃げようと腰を引く八幡であるが、動きを封じられているせいで一定以上動く事ができない。
「(どうする俺。どうすれば、この状況を打ち勝つことが出来る)」
考える八幡。大量のトリオン兵と相対した時と同様の圧力が圧し掛かってくる。
「ゆ、ゆきのん。それ以上、ヒッキーに無理をさせなくてもいいよ」
見るに見かねて、由比ヶ浜がストップをかける。自分の料理を受け入れ拒否されている姿を見て、見るに堪えなかったのが正直なところ。けれど、自分の料理が不味いのは事実だから怒るに怒れなかった。
しゅんとする由比ヶ浜。その姿を見て、さすがに拙かったかと反省した八幡は僅か、ほんのわずかだけ由比ヶ浜作のダークマターに齧り付く。
「ひ、比企谷君?」
ぼりぼり齧って咀嚼する八幡にギョッとする雪ノ下。まさか、本当にあの様な代物を食べるとは思ってもみなかったのであろう。顔面蒼白させながらも食す八幡を見て、慌ててティーカップに紅茶を淹れて差出す。
「に、にげぇ。由比ヶ浜、お前レシピ通りにやったのか?」
「……」
「由比ヶ浜?」
「……はっ!? ちゃ、ちゃんとやったよ。隠し味も入れたし、言われたようにやったし」
「隠し味だと? 何を入れたんだ、お前」
「えっと、コーヒーを少々」
「いやいや。少々どころじゃねえだろ。この苦味はコーヒーのそれだったのかよ。……雪ノ下、お前はちゃんと指導したのかよ」
ちゃんと面倒を見ていれば、隠しきれていない隠し味を導入させるはずがない。そもそも、素人に隠し味なんて入れさせること事態が間違えている。そんな事を知らない雪ノ下ではないと思いたい所である。
「失礼ね。……と、言いたい所であるけど、非はこちらにあるわね。由比ヶ浜さん、まだ少し時間があるから、今度は私の真似をしてちょうだい。比企谷君、拘束を解くから由比ヶ浜さんがおかしな真似をしようとしたら止めて頂戴。いいわね、サボったらまた同じ目に合うと思いなさい」
「……あぁ。今回は全力で協力するさ」
また、あの様な口に言えない代物を食わされてはたまらない。拘束を解いてもらった八幡は全力で協力する事を誓うのであった。
けど、由比ヶ浜大規模侵攻は二人が思っているほど簡単な事件ではなかった。
まとものクッキーを作るのに、三回も臨死体験を強いられることになるとは思ってもみなかったであろう。
***
「ま、これならいいんじゃねえか?」
格段に良くなった由比ヶ浜製のクッキーを食した八幡の感想に、雪ノ下はほっと胸を撫で下ろし、由比ヶ浜は両手を上げて喜びを表す。
「ほんと!? ほんとに本当? ヒッキー」
「おう。少なくとも最初のダークマターと比べたら、格段に美味くなっているぞ。そうだろ、雪ノ下」
話しを振られた雪ノ下は「そうね」と頷く。
「まだまだ改善点は少なくないけど、最初に比べたら格段に美味くなったわ。後は努力あるのみよ、由比ヶ浜さん」
「ゆきのん……。ありがとーっ!!」
「ちょっ。由比ヶ浜さん、暑苦しいから離れてちょうだい」
嬉しさのあまり、雪ノ下に抱きつく由比ヶ浜。彼女の豊満な胸に埋もれた雪ノ下は何度も彼女を離そうと試みるのであったが、喜びに満ちた由比ヶ浜を離す事ができないでいる。
「これで、犠牲者が出なくなって良かったな。少なくとも嫌われずに済んだと思うぞ」
彼女の被害者になったかも知れない人間の命を救えたことに満足したのか、八幡は近くにあった椅子に座りこむ。今更ながらどっと疲れが押し寄せて来たらしい。
***
翌日。
「……あ、ヒッキー」
昼休み時、八幡はいつもの安息の地へ赴こうと立ち上がると、由比ヶ浜によって呼び止められた。
「なんだ、由比ヶ浜」
「あの、その……。これ!!」
突き出されたそれを反射的に受け止める。綺麗にラッピングされたそれを見て目を細める。
「これは?」
「お礼だよ」
「……礼? 昨日のお礼なら気にする事ないぞ。あれは部活動の一旦だから」
「ううん。これは第二次大規模侵攻の時のお礼。……お礼が遅くなってごめんね、ヒッキー」
言いたい事を告げると、由比ヶ浜は逃げる様に葉山グループの元へ去って行く。
「第二次大規模侵攻ってお前、二年も前の事だぞ。……俺、アイツと会っていたか?」
記憶を掘り下げようと思考の海に投げ出す寸前、懐から振動が発生する。受信を知らせる振動が伝わって来たのだ。
八幡は私用の携帯電話の他にボーダー専用の携帯電話を所持している。懐で鳴っているのは私用の携帯電話であった。
誰だよ、と思いながら送信主を確認すると相手は可愛い可愛い妹の小町からであった。
「……どうした、小町?」
『お兄ちゃん、助けて!』
「っ!? 小町、何があった?」
『ネイバーが。ネイバーが来て、三雲君が――ツーツーツー』
「小町? どうした、小町!? 小町っ!!」
話しの途中で通話が切れてしまう。何度も掛け直すのだが、返ってくるのが『電波が届きません』と言った機械音のみ。
「くそっ! ここからだと十分以上かかるか。……葉山っ! 手を貸せ」
怒鳴る様に声を荒げる八幡の要請に、葉山は静かに立ち上がって己のトリガーを取り出す。
「ネイバーが出たんだな、ヒキタニ君。標的はどこにいる?」
「奴らは俺がいた中学に出た。現地にはB級隊員の三雲がいるが、どうやら押されている模様。ここからだと俺達が一番早く到着すると思われる。悔しいが、お前の力を貸せ葉山」
「分かった。市民の平和を護るのがボーダーの役目だ。手を貸すよ、ヒキタニ君」
「よし、それじゃあやるぞ。トリガー起動」
「トリガー起動っ!」
トリガーを起動させて、トリオン体になる八幡と葉山。
輝く玉狛支部のエンブレムと鈴鳴支部のエンブレム。お互いにトリオン体になったのを確認した二人は大きく頷き合い、教室の窓を開けて飛び出す。
『今後の戦いにどうしても必要な出来事みたいなんだ。メガネくんを独りで戦わせることに意味があるようだ』
迅はそう言っていたが、いざ現実になると冷静に判断なんか出来ない。今後、どれほど未来に大きく影響するか知らないが、大切な妹と弟子が危機に陥っているのだ。助けに行かないなんて選択肢は八幡には毛頭なかった。
***
トリオン兵、モールモッドを撃退した三雲は目の前にいる友人の姿を見て愕然とする。
「どうしてだ……」
それは信じられない光景であった。親友と思っていた友人がネイバーであった事に未だに信じられなかったのである。
「どうしてだ、空閑っ!!」
三雲と相対する敵の名は空閑遊真。昨年から交友を深めていた親友の名前である。