さて、とタリアは口元に手を当てた。
夕焼けの落ちる美しい空の上でのことである。新人少尉を伴っての出撃は、片方の手で数えるのに苦労する程度には回数を重ねていた。目立った外傷もなく、目立ったドラマもなく、様々な観点から凹凸の激しい
その作業感溢れる戦闘こそが、本来タリア・スミスが求めた結果である。
劇的な戦闘には英雄譚が伴う。
世に一騎当千の武勇伝が溢れる時、一般の兵にとってその時代は地獄である。戦乱があればこその戦果、人死があればこそ生存したこと自体への評価が発生する。
彼女らが活きる時代では敵が怪物であるだけで、極々少数の勇士が輝かしく活躍するその舞台は無数の遺骨が土台となっている。それでも、その大前提を差し置いてなお彼女らが賞賛されるのは、守った命の価値があるからだ。
生きるに厳しい世情だからこそ、生命の値打ちが増す。生きているのが当然の世界ではこうもいくまい。極論、この世に死が失われたなら、生命活動が維持されることが非道く煩わしく扱われるようになるだろう。
無論タリアはそこまでのことを求めはしない。彼女のひとまずの目標は、弾雨の降り注ぐ戦場をただ平然として潜り抜けること、それだけだった。
刺激があるということは危機があるということだ。
故に戦闘というものは何の悲劇も喜劇も喝采もなく、普遍的に平凡なままで収められるのが理想なのである。語り継がれる武勇伝など――少なくとも彼女にとっては――必要ではないのだ。
「どうにかマシになってきたじゃない」
「そ、そうですか」
「毎度心の中で遺言を考えなくなっただけ、進歩した」
実家の弟妹に向けて、だとか、そういったことを最初の方は接敵するまで延々と思案していたのだから、笑いものである。大体墜ちたとして誰がそれを伝えるというのだ。まさかこちらに押し付けるつもりだったのか。手紙を書くのは面倒だし、ロマーニャまで行く時間などない。したがってそんなものは鼻で笑って然るべき思考だと言えるだろう。
もっとも、新人は得てしてそんなことばかり考えている。これまでに来た数人も、やれ故郷の両親だの幼馴染の少女だのと、頭蓋骨が
そんなものはテントで枕を濡らしてぼやいていれば良いのだ。
結局遺族に届くのはテントにある僅かな私物と、残っていれば識別票と、多少の額の慰問金がある程度だ。言葉でネウロイは墜ちてくれない。
遺書を書く度胸もないなら、引き金を絞ることだけに集中していて欲しい。これから戦場で優雅なピクニックに励む新人各位には、是非とも知っておいて貰いたいものである。
単純で生真面目なのが部下であれば、この女を指して言うには弄れていて素直でない、といったところか。どのような回路を経由していようと、彼女は部下の成長を賞賛しているのである。
他人を面倒と称して憚らない中尉殿こそ面倒な性格をしている。
わざわざ口に出してそれを指摘する者も居なかったが、基地の熟達の内では共通の認識である。上司が上司なら部下も部下、ひねくれ者の扱いは手馴れたものであった。
はてさて、しかし、未だ中尉殿との付き合いが半年にも満たぬカッサンドラにとっては、その捻くれた根性は幾分の苛立ちを持って受け取られるらしい。
少女は片眉を引き下げて口を尖らせた。
「だから、人の心を勝手に読まないでください!」
「私だって他人の遺言なんて読みたくないよ」
「まだ遺書には書いていません!」
「じゃあ書けば?」
これは全く、何ともすげない返答である。
大人気がないというのか、気が短いというのか。涙目の新人少尉はタリア・スミスという人物が偏屈であるということに今更疑いを持つこともないだろうが、ついでに狭量であるとも人物評に付け加えておくべきだろう。
擁護するとするならばこの時点での中尉は非常に寝不足である。というよりも常時睡眠時間の不足に悩まされている女性なのであるが、要約すると特別にこの日は不機嫌なのだ。主に生々しい事情によって。
大体にしていつもこんなものじゃないか、という意見もあるだろう。今は度外視しよう。
単に自分が死ぬかも知れないと怒るのは構わない。そうでいて貰わないと困る。由縁のない全能感に駆られて猪突猛進、いくら命があっても足りるわけがない。十四・十五あたりの魔女にはよくあることなのだ。なまじ元の日常から抜け出せないから、非魔女との比較で自らが何か抜きん出た才能を持っているのだと錯覚する。
魔女も死ぬ。どう足掻いても魔力を持っただけの人間だ。
時折それを忘れる者が居る。レディはそういった意味で良い方であった。
だからこそ、逐一気になるくらいなら早いうちに遺書の一つや二つは書いてしまえば良い。遺書の内容を気にして遺書が必要になるとは失笑ものだ。
死んだ時の備えをして、後はせいぜい生き残る為に必死になればいい。
「いや、意外と本気の話」
カッサンドラが細い眉を限界まで釣り上げたので、タリアは茶化すように言った。
頭痛腹痛その他諸々の不調に加えて騒音まで奏でられては堪らないのだろう。想像していただけば分かり易いだろうが、二日酔いの朝、日頃は微笑ましい子供たちの甲高い挨拶が途轍もなく暴力的に思えてしまうことがあるだろう。彼女の考慮したことはその類だ。
「遺書のことですか? それは確かに……」
「気になってどうしようもないなら、書きなさい。いや、今はマシだけどね」
今のところは、と。
微塵も悲壮な色の含まれない声がエンジンの唸りにかき消された。
この地域は比較的ネウロイが単純な方である。アフリカの中でも前線にありながら、何らかの機能に特化した個体が現れることは稀であった。機能特化型と自分は勝手に呼んでいるが、他の地域で報告される魔女の魔法に該当するような尖った能力を持つ個体、それが極めて少ない。
襲撃の頻度は高く、規模もそれなりのものであることを考慮すれば、驚くべき現象であることは理解している。今のところ具体的な要因が分からないから深くは考えないようにしていた。
然れども、好みの問題ではなく居るのだ。一種の殺意に溢れた個体というのは、一切の兆候もなく現れる。出現して、大打撃を与えて消えていく。
そんなものが現れたとして、その時に死んだ後のことを心配されては拙い。
「兎に角、道もないのに空で迷うのをやめなさいな。かっこつけて言うなら――迷うな。迷う暇があるなら撃て――みたいなもんよ」
「中尉が言っても様になりませんね」
「知っているとも」
気取ったセリフはマルセイユにでも任せておけばいいのだ。アレの方が余程似合っている。
中尉なら悪役の方が似合っていますよ、などと笑顔で述べてくれた者を食料調達係として砂漠に送り出したこともあったような気がするが、どうも定かではない。
格納庫に戻る頃には太陽は沈みきっていた。丁度夕焼けと夕闇が混ざり合う時間である。魔法の時間とはよく言ったものだ。認めるのは癪だが感動的な風景であることは確かだった。眺めて息をつく暇があれば嬉しいものである。
この土地にやってきた頃は、上司も居て同僚も居て、もっと楽だった。いつの間にこんなことになってしまったのか。軍規違反を避けていたせいで貧乏籤を引かされ続けているのだ。
しかし処罰を受ける為に規則を破るのも馬鹿らしい。随分前に北に飛ばされたらしいビューリングが羨ましいと思えてきたのだから末期だ。銃殺刑など死んでもゴメンだが。
上層部からの嫌われ方で言えばいい勝負なのが、また悲しいところである。
過去に遡ればタリアもタリアで色々とやらかしていたりもする。当人は綺麗さっぱりと忘れているが、将軍へ攻撃的な文面の書状を送りつけたり、一時期金を巻き上げられた兵たちからの苦情が殺到したりと、悪評には事欠かない彼女である。
本部から派遣される士官が見事に戦死を遂げていくこともその一因として挙げられるべきだろう。この点に関しては彼女に非はないとしても、である。
更にそれに重ねること、読心の右眼の存在が邪魔をする。
「中尉は、何か書かれたのですか」
「あん? ああ、まあ」
「だったら」
カッサンドラが何かを言おうとしたのを、タリアの交差した人差し指が塞いだ。年齢にしては少々無理を押し通したような可愛らしい素振りである。誰が得をするのか。
「あのね、鍛冶屋の娘に正式な遺書の書き方なんて、分かるわけがないでしょう」
「う、いえ、それはそうかもしれないですが」
「一応あんたの実家、貴族でしょう? なんか、こう、ないの? ほら、高貴な作法みたいな」
そもそも自分はただの田舎鍛冶屋の一人娘である。最低限の礼儀作法は一般常識の範囲で身についていても、あまり格式張った物事は分からない。確かに軍のやり方で良いのなら問題はない。とは言え、家族に宛てた遺書が軍事的な報告書のようになってしまうのは、いくらなんでも味気ないだろう。
世に残る文化的なものを作り出すのは、大抵の場合名の知れた上流階級の人間だ。庶民に開発するだの研究するだのといった余裕はない。文字を覚えるより働け、といった風潮は港町を訪れてみると案外簡単に見られるものだ。
何が言いたいのかというと、高度な作法に則った文面など考えもつかない。
無学を隠そうと無駄な努力をする無為な時期は、彼女とって既に過去のものとなっていた。端的に言えば中尉殿とて以前は多少教養のあるような振る舞いをしていたのだ。
部下の中に本物の教養人がいたせいで、彼女の見栄は虚しく打ち砕かれることと相成ったわけだ。強がって知識のある振りをすると、結局肝心のところで役に立たなくなるという実体験によって学習したのである。
ある意味で学術的な部分の知識においては、タリアはカッサンドラにすら劣りかねない。上流階級の人間が富を得るのには、権力があり元手があるからというだけでは足りない。それを生かすだけの、全くこれは知識・教養としか言い表しようのないものが、確実に蓄積されているからである。
レディはまたも唸って首を捻る。一体どうしたというのか。
目の前で延々と牛のように鳴かれては、自分としても居心地が悪い。主に整備班からの、どうにかしてやれと言いたげな視線が痛い。何を期待している。三年前に水着なら着てやっただろう。
「……あの、あれよ。そんなに気張らなくてもいいじゃない」
「力を抜けと言われましても、無理ですよ」
「どうせ読まれるのは死んだ後でしょうに」
「私は中尉と違って責任感があるのです!」
責任感というのなら碌に貯金も作らず早死する方が不孝者だと思うのだが、どうなのだろう。
どうしたものか。今日の書類は片付いている。部下の管理も上官の仕事であるのは、その通りだ。精神的な部分での処置も必要とあれば実行に移すのも吝かではないが、正直面倒になってきている。
眠い、頭が痛い、腹も痛い。嗚呼、やたら今日に限って萎れている新人にお薬を出して済ませてはならないのだろうか。駄目なのだろう。第一、この娘が上に入った状態など想像するに最悪である。反射的に上官特権を行使、銃に手が伸びるかも知れない。
タリアは懐を探り、アンプルが入っていなかったことであからさまに溜息をつくと、後頭部を掻いた。
「分かった。でもここで話すことでもないし、あんたのテントに行こうか」
「……相談に乗って下さるのですか!?」
「仕事だよ。不本意だけど」
そこまで驚くか、と中尉殿はもう一度大きく息を吐く。
これもまた、日頃の行いが成した結果である。自業自得とまではいかないが、普段から人に優しく親切に接していれば、もっと違う反応もあっただろう。
人の感情というものは伝播するものである。顰め面を前にして気分の良い人間は少ないだろうし、幸せそうな者を妬むことはあるだろうが、それもその状態が好ましいものであるという前提に基づくものだ。
タリアの決め事にしているような仏頂面は一般的に言って損である。加えて本人の性格も捻じ曲がっているのだから救いがない。
いくら見目には美しい範囲であっても、大概そんなことなのだから嫌われる。扶桑の諺で言えば情けは人の為ならず、その真逆だ。
カッサンドラのテントは清潔で、整理整頓が行き届いていた。部屋の内装は人柄を表すという説もあるが、正に少女の細々として神経質な
「あの、中尉。遺書って何を書けばいいのですか?」
「無難に財産の扱いでも書いておけば? 金は便利だけど面倒事の元。扱いはきちんとしておくに越したことはないでしょう」
「はあ」
「たぶん上等な保険に入っていると思う。念の為だよ」
ランプの灯りで照らされた便箋に丁寧な文字が連なっていく。残念なことにロマーニャ語は分からない。生返事から察するに。恐らくは勝手にしてくれ、好きなように、そんなところだろう。
貴族様の保険金というのはどれほどの金額になるのだろうか。庶民の自分には想像もつかない。下手をすればこちらが稼ぐ一生分の給与にも並ぶのかもしれない。
不平等である。当然である。平等などというものは、突き詰めたら誰もかもが同じ顔をしていなくては我慢できないということだ。気色が悪い。
「他には」
彼女が関係のないことを考えている間にカッサンドラは万年筆の先を止めていた。
「ああ、そうね。何か……言い残すことは? あんた、下の兄弟に言いたいこととかないの? 可愛い弟と妹でしょう? 姉上が居なくても強く生きるのよ、みたいに」
「急に言われても思い付きません……」
「じゃあ、ほら。墓には何を供えて欲しいとか。いや、柩の中身は空かもしれないけどさ」
躊躇うようにペン先が漂い、一分が経過したところで少女は筆を置いた。
カッサンドラの視線は机に落ちている。だが紙面に集中している様子ではない。きっと、彼女の瞳はそこにはない何かを見つめている。頭蓋の内側で瞬く恐怖や不安を凝視して動けなくなっているのだ。
掠れた高音がタリアの名を呼んだ。
「スミス中尉は」
「ええ」
「何と書かれたのですか」
聞いてどうするのよ――とは彼女も口にしなかった。
タリアは机の傍から離れ、断ることもなくカッサンドラのベッドに腰掛けると、組んだ足の上に肘を突いて天幕の入口から覗く三日月を眺めた。
何故かその光景は淋しく、可憐であった。
「何も」
偉そうに語ったが、自分もいざ書こうとして中身が思い付かなかった。
溜め込んだ金はあくまでも自分の為のもので、死んだ後にどう扱われても知ったことではない。
兄弟は居ない。両親は居るが何を言ったものか。家を追い出されたようなものでも、自分から抜け出したようなものでもあった。実家を出た時には殆ど考えというものはなかったのだ。
今更反省も恨み言もない。気遣いをする程殊勝な性格でもない。
遺書として用意した便箋はあるものの、未だ紙面は白紙だ。
レディがどうしてか、安心した風に肩を落とした。
「白紙でもいいのですね」
「――ええ、そうね。白紙でいいかもね」
そして眉間から険が抜けたのはタリアも同じことであった。
形のない物質が溶けたような変化であった。彼女は手のひらで目元を覆い、小さく項垂れた。脱力して、瞼を伏せる。安堵した様な、とは彼女にも言えることであった。
「じゃ、そういうことで。私はもう行くけど、いい?」
「あ、はい」
部下の管理は上々、悪くない結果に終わったらしい。
自分のやることはもうない。取り敢えず飯を腹に詰め込んで仮眠を摂らねばなるまい。
立ち上がり、テントを後にしようとしたところで声をかけられた。
「あの、中尉」
「何?」
「その……ありがとうございました」
タリアは無言で手を挙げ、