長い、長い、ちょうど子供の額に浮いた汗が顎から落ちるまでの間が空いた。
男たちは手を止めることなく、何も言葉を発しないままに作業を続けている。
何か言おうとした者も、感情を形にできないまま喉の奥にそれを押し込めた。
彼らの顔に浮かぶのは――後悔なのだろうか。
上司である女性に、たった二十歳を数年過ぎただけの娘に、仲間の死という重責を負わせたままにしていたことを理解したのか。
それとも、それを知りつつも無力であることを理由にして、何もしてやれなかったことを自覚したのか。
どうせ魔女でないのだから何もできやしない、自分は一兵卒であるから指揮官の指示に従ってさえいればいい、これまでずっと一人で――たった独りでも彼女は自分や仲間を守ってくれていたのだからきっと大丈夫だ、そのような言い訳をもっともらしい大義名分として安堵していたのではないか。
機器がぶつかる音が鳴り響く基地に蠢く空気は重く、必要最低限の通達が行き交うだけで、本来喜ぶべき砲火の轟音が体の芯を震わせない状況が誰にとっても歓迎し難い状況であった。
少女もまた、通信機を手に沈黙していた。
カッサンドラ・レディの目には遥か上空の激戦の幻影が映し出されているのだ。彼女にとって面倒で世話がかかり適当にも程があり、いいところを挙げようとすると中々苦労する上に数もさほどのものではなく、反面悪いところを挙げていけば雨霰と罵詈雑言が浮かんでくる上司が奮闘している姿を想起している。
あるいは実際に彼女はその光景を観ているのかもしれない。何せ、親愛なる中尉どのが有する魔法はモノがモノだ。脳内に思い浮かべた言語のみが先行して伝播しているとは限らない。
そもそも、魔法などというものは非常に不安定なものだ。如何に優れた才を持っていようと、きっかけがなければそれに気付くことができない、という事態も珍しくはない。
場合によっては限定的にしか発現していなかった固有魔法すら、その本来の能力を発揮してしまうということがあってもおかしくはないのだ。実際、そのような事例は少数であるが報告されている。それを目撃した人間の中にはタリアの同期も含まれていたのだが、今は関係がない。
現在重要なのは、魔法的な要素がこの事態を打開し得るかということ、その一点である。
そして、カッサンドラの身に奇跡が訪れた様子はない。
「そう」
肝が太いのか、細いのか、多少疑問に思っていたが彼女は意外と繊細だったらしい。
自分は考えていなかった。
なんとなく中尉はいつまでも自分の上司で、いつの日か別の隊に異動命令を受けるまで憎まれ口を叩きながらやっていくものだと、そう思っていた。
そうであれと願っていたとまでは言わない。
好きではなかった。
でも嫌いかというと、そうでもない。
少女の意識の外側面には、未だ断続的にタリアからのテレパス通信が届き続けている。
撤退、ストーム・ウィッチーズの到着を待て、合流し迎撃に当たれと。
独り足止めを行っている魔女は繰り返していた。
だからこそ、である。
カッサンドラ・レディの表情が徐々に変化を見せていた。
「ふざけないでください」
教官に嫌われ、このような僻地に送られて、そんなどうにも格好のつかない少女を拾い上げて鍛えたのは、かの中尉殿だ。
口煩いのが嫌だと何度も彼女は愚痴をこぼしていた。神経質で気が利かず、士官学校出の癖に上官への態度がなっていないと、副官に何度も酒混じりの声で絡んでいた。
それでも魔眼の魔女は、見捨てることだけはしなかった。
何度も怒鳴りつけて、訓練では粘つくようにハンマー片手に追い掛け回し、実は悪い部類に入る酒癖を大いに発揮してワインを瓶のままで喉に流し込んだこともあった。千鳥足になった年下の少女を指差しながら笑っていたのも中尉である。
だから指示に従ってただ逃げていればよい――のか。
否である。
唯々諾々と従い、淡々と撤退の準備だけをしていればよいのであれば、その行為に納得しているのであれば小さな魔女は立ち止まってなどいない。
見捨ててもよいだけの大義名分は用意されている、然れどもそれを認めることができない。
足掻きである。
しかし、漠然とした表現をするならば、それは心地のよい悪あがきであった。
几帳面で融通の利かない少女が、今まさに命令違反を犯そうとしている。軍属としては失格だ。上官の命令に背いてはならない。士官学校どころか単なる新人教導の場においても、真っ先に叩き込まれることだ。
規則に厳しい少女が、この土壇場で指令に従うことなく、佇んでいる。
その理由は明白であった。
「いかさまで獲られたお金、返してもらっていないですから」
「……うん?」
中尉の裏返った声が兵たちの心に直接届いた。
ああそういえば、と誰かが少女に続いた。
「俺も前に貸した金、返してもらってないな」
「――そういやぁ、俺もワイン没収されたままだったな。アレ、いつか返すって話だったんだが」
「自分は箱ごと煙草没収された」
一人が言い出せば次から次へと飛び出す上官への貸し、我も我もと募り募って、いつの間にか作業をしていた人々の手が止まっていた。
撤退作業はこの時、確かに停止した。指示があったわけではない。むしろ中尉殿の思惑には反している。それ以前に、彼女の予想とは全く違う方向に話が流れ始めているのであるが――果たして、膨れ上がった声はシュプレヒコールのような合唱となり始めていた。
誰かが金を返せと言っている。
他の兵が酒を寄越せと叫んでいる。
また違う人間が休暇を認めろと空に拳を突き上げ、若干名が自身の尻の状態悪化を訴えた。
意見は多種多様であったが、一つだけ共通していることがある。
二等兵から曹長、仮にこの場に将軍がいたとしてもそうしただろう。階位の区別なく総員がただとても挑戦的に口元をゆがませていた。
どうにも面白くて仕方がない、というように、犬歯を剥き出していた。
これまでは一人残らず守られているばかりだった。これは、魔女が軍属として広く用いられるようになってから、あるいは更にそれ以前、有史以来怪異に行き遭った人々はそうせざるを得なかった。それが最適解であるとされてきた。
新人は
故にこそ、今、彼らは
「ちょっと、あんた、あんたたちね――!」
「まあ、そのついでに中尉を助けるくらいならやってあげてもいいかもしれませんね」
「そうですなあ。独り身で寂しく亡くなるというのは、ちょっと気の毒ですな」
あんた、あんたたち――と中尉の言葉が途切れた。
隣で副官が、好戦的に笑っていた。その手にはいくらかの弾倉と、質素な拵えのクレイモアが握られている。
「副官さん、それは一体?」
「中尉の私物ですよ。折れたからって捨てられていたので、整備班がジョークで直していたものです。まあ、使うことはないでしょうが持っていってあげてください」
忘れ物ですからね、なるほど、と同じ上官をもつ二人は小さく頷きあった。迷惑をかけられているもの同士、あるいは親愛なる中尉殿に恨みや親愛の念を抱くもの同士、何か言語化すべきでない感情を共有しているのであった。
気持ちを言葉にすることは重要である。
だが時として、無粋だ。
何も言わずに、勝手に他人の感情や思考を分かったような気分になって、そうして自分勝手に突っ走るのも人間の楽しみというものだろう。
故にカッサンドラ・レディは頷いた。自身の分だけではなく、大空で舞い踊っている誰かの為に、そして名前を覚えてすらいない後方の味方の為に、過重量であることが明らかな量の銃火器を背負い、腰には時代錯誤の刀剣を差して、闇に覆われた空を睨んだのである。
何の意味があるだろうか。敵が落ちるわけでも、味方の士気が高揚することもない。
しかしそれは――誰にともなく、何に対してでもなく、ただ己の信念と感情を裏切らない為に自己肯定の宣誓であった。
「皆さん、座標は私が指定します。砲撃の準備をッ!」
機械仕掛けの箒が唸り声を上げる。風が乾いた砂を舞い上げた。
「中尉、今夜はあなたを眠らせません」
後の証言によれば半数ほどの兵士が、その時タリアが噴き出すのを聞いたと言う。
いやいや、とタリアは首を振った。
無理に決まっている。自分だって力の限界と言うものがある。なるほど、確かにこれでも腕が立つという自覚はある。だとしても、数が数だ。ひとりで戦線を維持することなど、できない。
本当にできないのか。
タリアの思考に小さな疑問が生まれた。
それはくだらない想像でしかない。子供がままごとをして、夢を語るような小さな願いにも似ている。
実現の保証など、どこにもない。むしろ露と消え去る可能性のほうが、余程高い希望というにも馬鹿らしい展望である。
だが、と彼女の理性と反する心が自問した。
もしかすると、ひょっとしてひょっとするかもしれない。
基地からこの座標まで、空戦ウィッチの移動速度を前提とすれば間に合わないではないのではないか。
だとすれば、自分が墜ちるよりも先にレディが合流してしまうのではないだろうか。
もし、合流してしまったのならば――、
「――お馬鹿! この、間抜け! 何を命令違反なんてしているのよ! いいから戻りなさい!」
「馬鹿はそっちです! 手遅れですよ、もう離陸しましたからね!」
「開き直るな、このまな板娘!」
この馬鹿とくれば、大体、どうしてこの会話が成立しているのだと思っているのだ。
自分がいなければ、この通信すら成立していない。自分で何をやっているのか、その代償が何なのかも考えていないのだ。
あの娘が死ねばどうなる。自分とは違う。家族もいる。兄弟がいる。地位もある。金だって、比べ物にならないほど動くだろう。阿呆かと言いたくなるほどに真面目だが、だからこそその人格を認める友人も居ないではないに違いない。
だというのに、何故ここまでするというのだ。
たかだか一年にもならない関係だ。
そんなに命を懸けるようなことではない。何せロマーニャからは遠く離れて、別にここで退いたところで祖国に直接打撃があるということはない。大切な人間も、国土も、一切侵されることなく次の手を打てるはずなのだ。既に連絡が行っていることを考えると、マルセイユが到着するまでの時間は、部隊が後退することで十分に稼げる。いや、保証はないが自分が粘りさえすれば問題ないのだ。
タリアには一つの発想が抜けていた。
彼女が耳障りだとする部下の声、それを届けているのも彼女の魔法なのだ。
嫌なのであれば目を閉じればよい。ウインクなど似合いもしない女であるが、できない訳ではないだろう。
であれば、それを選んでいるのは彼女自身だ。
意識の内にあるかどうか、それは問題ではない。
タリア・スミス、彼女自身が生存の可能性を選び続けているということこそが、真に重要な事態なのである。
嗚呼、如何に彼女が死のうと考えても、感情がそれを許すかどうかは別問題である。
理解と納得は別のものだ。
次元が違うのである。
筋が通り、理論が正しく、即ち理路整然ともたらされた結論であろうと、それを拒否する選択をできるのも人であるが故のことだ。
人間存在の希望として、愛と勇気の象徴として、誰一人それを望んで生まれたわけではないにしても、そういう存在である魔女だからこそ荒唐無稽な希望に向かって無意識下であっても邁進を続けるのだ。
彼女は模範的なウィッチではなかった。
いい加減で、適当で、どうしようもない人間である。軍属でなければ、とうに妙な男に引っかかって破滅していたかもしれない人間だ。
しかし、魔女としては正しかった。
真正面から命に向き合っていた。
身を省みず、名前も知らない誰かの為に命を棄てる、その尊さを知っていた。
犠牲の下の日常を、その得難いことを知っていた。
だから論理的に死を選んでも、感情で生を掴もうとしていたのだ。誰が証明するでもない、この状況がタリアの生きようとする想いそのものである。
若干、不恰好ではあるが。
砲火を搔い潜り、弾丸が頬を掠めても、それでも戦い続けたのだ。
「――くそ、くそ! もう、この馬鹿、阿呆ども! なんで私の言うことを聞かないんだ!」
「そんなもの、中尉を助けたいからですよ!――理由はどうあれ」
「い、いや、金なんてそんなにないから!」
「嘘を吐かないでください! 副官さんから聞いていますよ、箪笥の奥に突っ込んでいるのでしょう!」
「何で知っているのよ!?」
基地に居る副官の記憶が流れてきた。
タリアのこめかみに血管が浮かび上がった。
「あんた、
「仕方ないでしょうが! 中尉みたいなボサボサの女棄てたひとのズボンでも、男には必要な時があるのですよ!」
完全にノーマークであった。
予想外だった。
ついでに言えば副官の趣味は危ない。色々と危ない。物理的な火遊びが趣味なのだ。対象になどされてたまるものか。
と、タリアの頭上を赤い光線が通り過ぎる。対空砲火の嵐が、女の魔力盾を打ち据えた。
にも拘らず、魔女は絶望していなかった。その表情は、いつものように厭らしく皮肉にゆがみ、不機嫌に眉を寄せながら口元を吊り上げていたのである。
この状態でも彼女の魔法は基地の兵士たちの思考を読み取っている。色々と内緒で楽しんだとか、口には出さないが日々の感謝であるとか、何故娼婦を金で雇ってくれなかったのかなどという苦情に至るまで、実にくだらないことばかりである。
今にも彼女は死なんとしているのだ。
だというのに、何と薄情で身勝手なことか。
それが不愉快ではないのだ。
だから、彼女は笑うのだ。
腹が立つ。
どうにもならないかもしれない。
耐えて、凌いで何時間になっただろう。根性と言うのは扶桑人の専売特許ではなかったのか。自分のような怠け者が、どうしてこのような無茶をしなくてはならない。
だが、耐える。もう少し持つだろう。
何故かと言って、それでもこの、くそったれであほらしい連中を守ろうと思って飛んでいるのだ。
――分かっているのだ。どうせ自分は半端者だ。死ぬに死に切れず、結局ここまで生きてきてしまった。よくよく呆れ果てる。また、もう少しだけ、この苦行を続けようなどと思い始めているのだから。
「――この、石頭のまな板。ああ、全く。どうしてこうも思い通りにならないの」
そんなことをしていたから、とうとう少女に追いつかれるのだ。
数時間、十数時間もの単騎による戦闘を経て、深夜を過ぎ、時刻は徐々に朝へと向かいつつあった。
少女は間に合ったのである。
不恰好に多くの銃を担いで、そして中尉にクレイモアを投げつけて、不敵に微笑んだ。
「間に合いましたよ、中尉」
「ああ、そうね」
カッサンドラは口の片端だけを上げた。
ちょうど、タリアがそうするように。
「私の勝ちですね」
「かもね」
戦場が常に劇的な状態であるとは限らない。
だがこの時ばかりは確かに、彼女らにしては不釣合いなほどに、劇的であった。
タリアは緩慢な動作で剣を引き抜いた。
銀の輝きが、彼女の冷静に見れば耽美な顔を照らす。
片手に重機関銃を、もう片手に剣を、とんだ
中尉は一度ネウロイの群れから距離を取り、深く息を吸い込んだ。
彼女の双眸が眩いほどに輝いている。豊富な魔力量に後押しされたというのは風情がない。
ここに
「……仕方ない。いくよ、カッサンドラ」
「了解!」
最早この娘は
こちらの弱いところを的確に突いてくる、
そんな彼女の心境を知ってか、カッサンドラはよし、と頷いた。
「では、砲兵隊! 全弾発射!!」
直後、気の抜けた砲弾の迫る音がした。
意気揚々と基地の連中は砲撃を行ってくれたらしい。
座標は当然、自分たちの居るこの場所である。
成程、確かに自分の魔法は時差も間違いもなく情報を伝えるという意味で有用だ。瞬時の情報共有は自然なことである。
迅速な行動は悪くない。自分たちが着弾目標の傍にさえ居なければ。
「――この、お馬鹿!!」
――やがて夜明け、大急ぎで現れたマルセイユたちが目撃したのは、煤だらけで戦い続ける二人の魔女の姿であった。
通信機など使わずとも空に響く罵詈雑言の応酬に、「アフリカ」の面々だけではなくタリアの魔法の圏内にいる誰もが苦笑を禁じえなかった。
中尉殿の格好はといえば、衣服はほつれ、ところどころに血が滲むという悲惨なもの。汗臭く煙草くさく何処で呑んだのか酒のにおいすら漂わせている始末。
だが――不思議と彼女の表情は晴れやかであった。