目が覚めたのは夜も更けた、天幕にぼんやりと月光が移りこむ時間のことだった。寝つきはいい方で、布団から放り出されない限り決まった時間以外に起床した例がなかったので、誰かが自分を起したに違いない。
だが、室内に人影は見られない。
不思議に思っていると、その言葉だけがふと聞こえてきた。
総員起床、直ちに撤退準備――伝令である。
だが、とカッサンドラ・レディ少尉はアイロンをかけた軍服に素早く袖を通した。
一体誰がこのような意味不明の伝達手段を採れるというのだ。自分の耳に無線機はない。ということはその場で呼びかけられたのでもないなら、他人の声が聞こえる由縁がない。
疑問を解決することなく屋外に出ると、既に基地は怒号と戸惑いの会話に溢れる戦場となっていた。砲撃音がなくとも、尋常の事態ではないとの判断は容易い。
そうなれば、夜間哨戒に出ている中尉の代理として指揮を執るのは、自分となってしまう。中尉は居ないのだ。指示なら出せるかもしれないが、このような緊急時に自分が部隊を動かすとなると、自信がない。
その時、丁度自分を探していたらしい中尉の副官の姿が見えた。
「――レディ少尉、何かこの現象に心当たりはありませんか!」
「副官さん、いえ、私もこのようなことは――」
親しみ深い男も矢張りこの事態については把握できていないらしい。
彼は眉間に皺を寄せたまま、
「中尉が何かされたのか」
と呟いた。
自分としてもその線が濃厚であるように思われる。何しろ、あの中尉だ。何か気に入らないことがあって、それで八つ当たりをしないとは言い切れない。
言い切れないような人なのだが、戦場で悪ふざけをする人でもない。
カッサンドラはやけにしおらしげな表情で爪を噛んだ。
上官への評価は酷いものだが、それでも自身のその評価を覆したい、あたかも誰かにそのようなことはないと否定して欲しいかのように、少女の表情は移ろいでいる。
喧騒の中にあり、彼女の煮え切らない態度はよろしくない。しかし、責める者も居なかった。騒ぐ兵たちもこの事態を飲み込みかねている。逆説的に、であるが、それはタリアが紛い形にも上官として一定の支持を得ていたことを如実に示していた。
男だけでなく、カッサンドラもいくばくかの信頼をタリアに寄せていたのだ。もしこの事態を引き起こせるとしたら彼女だけ、と発想はしても悪意的とは思わない。
そんな中、どうにも暢気な調子でネウロイの大侵攻だって、と中尉の声がした。声、とはいうものの、鼓膜が捉えたにしては鮮明すぎる。誰も彼もが混乱して騒ぐ中で、中尉のメッセージだけが浮上しているかのように、頭蓋に響いた。
「ち、中尉!? これは一体どういうことですか!」
カッサンドラが虚空に叫ぶと、どこから返答がこだまする。
侵攻である、緊急事態である、直ちに撤退し、部隊の維持に努めよ、と。
――なんなのだ、この現象は。その場に居ない人間の声がする、そんなものは今日日安物のロマンス小説でも使い古された展開だ。
大体、自分は中尉を熱烈に想ったことなどない。断じてありえない。仮にロマンス的な奇跡だとして、それが起こるとしたら自分ではなく、中尉殿の極めて無駄かつ無様に膨れ上がってご成長なされた肥満的な胸部脂肪に、不躾で下品な視線を向ける阿呆共に降りかかるべき奇跡だろう。
もし、そんなことが現実であるとしたら、
魔女としてどうなのか、という彼女の思考であるが、これは仕方がないことだ。何故ならば士官学校ではどうあれ、カッサンドラ・レディがこの部隊に配属されて以降、タリアが施した教育は正にそうした、魔法といった要素を最大限排する方針だったからである。
多少優れていようと魔女も人間、死ぬ時は死ぬ。無理なものは無理。
故にこそ、これは一種の背信行為である。
親愛なる中尉殿は、全く以て度し難いほどに正々堂々と、部下たちに嘘を教えていた――いや、本当のことを言わなかっただけ、と彼女は言うだろうか。
そういえば、嫌なことを思い出した。
初めて中尉の固有魔法を知った時、アレは何と言っていた。
少女の口元が苛立ちに歪んでいく。
騙されたことへの憤慨か、現状への逆上か。本人も分からないだろうし、実際そのどちらでもあるのだろう。真相というのは実につまらないものだ。事実と真実が微妙にその意味するところを異としているように、言葉遊びというのは気が付けば面白くもなく腹立たしいだけのものだ。
幸いにして融通は利かないが出来のよい頭をしているので、少女は五つも数えない内に真相に辿り着いたのである。
ふざけるな、とカッサンドラの喉が震えた。
「ふざけないでくださいよ! 何であの時、もっとしっかり言わなかったのですか!」
「少尉、とりあえず撤退の指揮を……」
「ああもう、副官さん! 砲台からどんどん運んでください! ああ、ああ!! もう馬鹿らしい!
だって訊かれなかったし、とタリアの念話の口調がいじけたフリをした。
思わずして副官も、カッサンドラも、当然物資を運んでいた色男たちも、一人残らず一斉に溜め息を吐いた。客観的な意見だが、ネウロイの大群の前でこの嘆息の旋風を披露することが出来れば、あの厄介な黒坊主など簡単に吹き飛ばせたのではないだろうか。
あまりにも脱力してしまい、誰かが弾薬箱を足に落としたのか、痛い、という情けない声が基地の只広い空間に響き渡ってしまった。
今の今まで、あの女は切り札を隠していたのである。それはさながらギャンブルのように、もしくは、ただ言うのが面倒くさかったのかもしれないが、どちらにしても彼女に関しては否定する者も居まい。
「ま、知れたところで役に立つことはあまりないでしょう」
「それはそうですけどね……皆さん手を止めないで、急いで撤退を――」
撤退をして、救援を呼び、それでどうする。
元も子もない中尉殿の言葉に(通常、通信機がある以上念話で何かを伝える必要がない)、一度はカッサンドラの脳天にまで駆け上がった血液が、急激に冷却された。
彼女の思考の裏ではタリアがカッサンドラに殿を務めること、ストームウィッチーズに迅速な救援信号を送ることなどを指示している。勿論、念話が成立しているということはタリアもまたカッサンドラの脳内を覗いているということだが、あえて無視しているようだった。
味方の退却を助ける。殿にて中尉の撃ち漏らしを切り落とす。いいだろう、それは構わないのだ。自分以外には出来ない。そのまま徐々に後退し、やがて来るだろう統合戦闘飛行隊――ひいては陸戦ウィッチたちと合流する。それも良い。
中尉はどうするのだ。
カッサンドラは出撃ハッチに辿り着くなり、飛び込むように飛行脚を着装、決して多くはない魔力量ながら無理をしてライフルと機関銃を担ぎ上げた。
この頃には副官も、そして部隊の男衆も現在自分たちが迎えている局面を正確に理解していた。当初ざわめいていた空気も、意味もなく張り上げられた声も、最早存在し得ぬ。必要最低限の言葉を取り交わし、唯、作業に没頭することで導き出される結論と向き合おうとしている。
この状況に陥ってしまった。時間が巻き戻らない以上、人間が出来ることは無いと悟っているのである。総員が兵士だからこそ、その無情に理解が深かった。
「あなたは、どうされるのですか……?」
「まあ、まあ。気にすることじゃない。そういうものさ――こういうものだよ。場末の指揮官なんて、特に私みたいな……嫌がらせ達者の指揮官なんてさ」
タリアの指示はその場凌ぎにしては悪くない。だが、そこに彼女自身の生命は考慮されていない。
当然である。敵影を発見したのは彼女であり、戦闘を開始したのも彼女であり、味方が来たところで被害を増やすだけならば、即ち一人で戦い続けるしか方法はない。
もし中尉殿が引いたならば、基地の兵たちが撤退するだけの時間など存在しない。更に機能特化型ネウロイの通信妨害範囲に入ってしまえば、救援要請すら儘ならないという最悪の状況が出来上がる。
指揮官として、上司として、そして何より無辜の民を守る責務を与えられた魔女として、彼女はあの場、独り法師の夜空で戦わねばならないのだ。
望む・望まぬ、出来る・出来ないなどという次元の話ではない。
やらなくてはならぬ。
やる理由がある。
やるべきである。
故に、孤独であろうと圧倒的劣勢にあろうと、或いは彼女が幾ら奮戦したところで部隊は全滅するかもしれないとしても、その後の命の有無など真に瑣末な結果論でしかない。
今この時まさしくこの瞬間、タリア・スミスに逃走は許されず、タリア・スミスは闘争せねばならぬのである。
「あなたは、あなたはそういう人じゃあないでしょう!? どうしてそんな……」
馬鹿だね、とタリアは疲れた内心で返した。
「そりゃあ、使命なんて柄じゃない。でも結局どうにもならないじゃない。え?」
考えなしに兵になって、気が付いたら古馴染みの同僚は一人残らず死んでいて、部隊なんて重荷を任されてしまった。
タリアは語る相手を考えてはいないのだろう。独り言のように零した。
「面倒だけど、死んでいった連中は重荷のために命を賭けた。そいつらの負債が私に回ってきて、困ったことに踏み倒せない」
言葉に詰まった気配がした。
そうだ、当然だ。無理もない、この瞬間も中尉は戦っているのだ。ネウロイの大群と戦いながら、態々集中力を殺いでまで自分たちに伝令を送っている。
カッサンドラの中で何かが符合した。
死ぬだろうこと、それは兵にとって常である。戦場にあるのなら老いも若いも男女もなく、いつかふとした拍子に死んでいく。それが道理だと魔女は説いた。
怖いのならば文字にして悔いを残すなと、彼女が言ったのだ。
然れども、魔眼の魔女は白紙で遺書を置いていた。彼女は自身の行動を無関心からそうしたのだと分析していたが、そうではなかった。
中尉は書けなかったのだ。
自分や、部隊や基地のことが気がかりで心配で仕方がなくて、未練を残すようなことをしたくなかったのだ。それこそ、最悪自分に重荷を押し付けるようなことにはすまいとしたのだ。
だからこそ、条件が揃った今語っているのは、自分が無理やりに背負った重荷を、共に過ごして戦った人々に受け渡す必要がないからである。
「……中尉」
「ええ、まあ、そうなるね」
「これは遺言ですね」
「ああ、そう。遺言だ、遺書かもね。とにかく計画通りにいけば――この程度、マルセイユたちが何とかするでしょう。あんたたちはそのまま、連中の下に付きなさい」
仮にその後別所に向かわされたとしても、今ほどの苦境にはなるまい。上層部から嫌われた
だからこそタリアは一人で残るのだ。
一人で戦い、一人で墜ちて、そうして初めて、彼女は背に圧し掛かる数多の屍骸の重圧に、腰に纏わり付く人々に、正式に別れを告げることが出来るのである。
馬鹿だ、この女は馬鹿だ。大馬鹿だ。
なし崩しに押し付けられただけの責任をまともな形で果たす為、唯それだけの為に今宵死んでみせると言っているのだ。
「そう。そうだよ、そうだとも。私は大馬鹿だよ。でも、予定とは違うけれど、まあこれでようやく全て終わる。たぶん、きちんと綺麗に収まるはずだから――」
戦場に在り、殺意の矛先を一身に受けているだろうに、何処か嬉しそうに、力なく魔女は歌った。
「――だから、もう許してよ。いい加減、私も