砂漠の夜は寒い。
どこまでも、それこそ途方もないという形容詞でも足らない程に、星空はうつろに続いている。煌く赤光はないものの、さりとて生物的な揺らめきもない。
感傷的になるには十分だが、それをぶつける相手も居ないではつまらないものだ。満天の夜空を独り占め、そんな風に言えば多少魅力的な響きにもなるだろう。
いやはや、独り占めではなく独り法師なのだが、さあさて、そんな自虐も愈々くだらない。
タリア・スミスは喧しいエンジンの駆動音を聞き流し、夜間哨戒の任務を遂行していた。彼女にナイトウィッチの才はなかったが、部隊にその技能を持つ者は居なかったし、それ以前に彼女以外に空を飛べるものすら居ない有様であった。
つまり危機的状況と評されて然るべき状態、そんな中で少女――女性は呑気に空を見上げて観光気分である。
彼女が出撃前に確認した限りで本日は襲撃の周期から外れている。とはいえ、油断を突くから奇襲なのであって、寝込みを襲うから夜襲なのであって、全く警戒しないというのもいけない。そんな根拠なので凡そ戦意というものには乏しい様子だった。
たぶん来ないだろうけど、と来てみたはいいが本当に暇である。暇なのだ。僚機が居たならお喋りでもして時間を潰せたのだが、ないものねだりをしても仕方がない。独り言は趣味ではない。ならば、と見上げてみたものの、結局空は空なのだ。いくら見つめても劇的な変化が望める道理もない。
どうしたものか。油断する程の余裕もない。のんびりしているところに砲撃を受けるのはゴメンなのだ。シールドで防げるには防げる。ただ痛い。疲れる。よって寛ぎきれない。戦場でだらだらとする方がおかしいとも言えるだろうが、それはそれ。
眠いものは眠い。休みたいものは休みたいのである。
そんなえも言われぬ、文句とも取れぬ何事かを脳裏に瞬かせながら、タリアがふと顔を上げた。
あら――と。
彼女の固有魔法がひとつの反応を示した。敵意、害意、或いは殺意。その類のグロテスクな感情が吹き荒れている。我二本足を排除せん――明確なメッセージを受信して、果たして彼女は顔色一つ変えず、緩慢とした挙動で背中の狙撃銃を構えた。
狙撃銃としか彼女はその銃を知らない。弘法筆を択ばず、と言えば聞こえはいいが、こだわりがないだとか専門的な話が殆ど分からないだとか、そういった表現の方が妥当といえよう。
使えるものは使う、使えたなら他はどうでも良い。この女にとって得物とはそういうものらしい。
高倍率のレンズの先には黒いエイ。図鑑でしか見たことのない海洋生物のカタチをした異形だ。甲高い鳴き声は距離が遠い為に聞こえてこない。砲撃を寄越してこないところを見るに、未だこちらの存在には気づいていないようだ。好都合である。
息を吸う。一撃で仕留める必要はない。拠点からは離れている。
「こちらクローバー7、敵機発見。先制攻撃を仕掛けます」
了解、と返される前に引き金を絞る。真っ直ぐに弾丸が敵機の左翼に吸い込まれ、大口径故その半ばを大きく削り取った。率直に申し上げるとすれば狙いがそれた。実を言えばあまり狙撃が得意ではないのだ。無理をしてやっているわけでもないが、兎に角として得手ではない。
当たっただけ御の字として次弾を装填、直様ぶち込む。次は右に逸れる。ああもう、と呟いて更に撃ち込む。何故得意でもない狙撃銃を用いているのかといえば簡単なことで、遠くからドッグファイトを避けてある程度一方的に射撃が行えるから、ただそれだけだった。
近接格闘戦は面倒だ。当然である。何が好きで被弾するかもしれない、更に機体に体当たりされるかもしれない位置で戦わなければならんのか。どうせ落とすのは同じなのだから、遠くからの砲撃を避けつつ、重たい一撃できっちり削っていくのがいい。
言い訳をやめて率直に言おう。機銃も悪くないのだが、散ってしまう弾を一点に集中させるのが手間に思えて仕方がないのだ。
怠慢というよりも性根がだらけている。
タリアは一発一発を微妙に中心のコアから外しながら、しかし命中弾によって体勢を崩し砲撃の狙いを明後日の方向へと無理矢理に変えながら、結局十発程度の弾薬を消費して中型ネウロイを撃墜した。
真直ぐとした棒を身体の正面に突き立てると考えてみていただきたい。この時その人物の右肩を押したなら、必然、そのとき棒の先端の方向も彼の人から見て右方へと変わるだろう。それなりの魔力量と大口径の銃器があっての理論ではあるが、この時彼女が行った攻撃とはそれだけのことだった。
高度な機動戦はない。寧ろやらない。何故なら疲れるから。
そんなどうしようもない理論で戦ってしまう馬鹿なのである。しかも勝ってしまうのである。ふざけやがれ、と言われたことは数知れず、そんな女なのだ。
涼しげに硝煙臭い茶髪を掻き上げ、タリアは一転して気怠げにため息をついた。
「いい加減来るのをやめてくれたらいいのに」
無線機に敵機撃墜、とだけ報告してまた空を見上げる。晴れて撃墜記録に数字がひとつ足されるわけなのだが、大して嬉しくもない。
考えてもみて欲しい。コツが分かってからというもの一対一の戦闘は(夜間戦闘の八割は)終始このような有様だ。遠くからの攻撃なので避けるのは容易い。つまり多少避けながら狙いをつけて撃つだけの作業なのだ。
強い敵来い、などというほどのウォーモンガーではないにしても、それで褒められて今ひとつ心に響くものがないというのもキテレツではないはずだ。
偶に聞かされる話によればネウロイがある程度学習し、形態を複雑に変化させて襲撃に臨んでくる地域も多いという。そういった地区の魔女からは苦情を受けそうなのだが、アフリカの辺境、しかも微妙に激戦区とは言い難い区域の異形というのは、どうにも勤勉とはいかないようだった。
それほどにやる気がないのなら、いっそ襲撃自体をやめてくれたならどれだけ楽だろうか。空を飛ぶのは楽しいが、平和的に旅行でもさせていただきたい。そうは問屋が卸さないから襲って来るのだろうけれども。
彼女は思い付いたように無線機に口を近づけた。頭から突き出た黒猫の耳が合点承知とばかりに駐屯地の方角に駆動する。
「こちらクローバー7、質問よろしいですか?」
「そら、我々の方が階級は下ですから、拒否権はありませんよ」
どうぞ、と眠そうに言った中年の通信手に、彼女は人知れず首を捻った。一応ブリタニア空軍中尉の階級章を与えられている女なのである。
「増援部隊について連絡はありましたか?」
書類については事前に話を通してあったので、通信機の前でガサガサと紙を手繰る音がした。指揮官の真似事をして日は経つものの、特に事務仕事は手が回らないこともあった。
「良い報告はありませんな」
「ストームウィッチーズは」
「手が回らないそうで。一応ロマーニャは新人の面倒を見るなら、とのことですがね」
蛇の威嚇するような音を立て、ついでにタリアは鼻で笑い飛ばした。
「つまり、まともな戦力を送る気はないってことですよね。まあ分かっていましたけど」
地上部隊、というか非魔女の部隊はそれなりに数がいるので始末が悪いのだ。取り敢えず人員だけは居るように見える。現状どうにかなってしまっているので、激戦区でもない以上対応は遅れる。
しかも待ちに待って遂に先々月派遣された扶桑の新人など、初出動初接敵からものの三分で機銃掃射を躱しきれず墜落、助ける間もなく砂に飲まれてしまった。思い返すに惜しいことをしたものだ。
化粧の影もない女らしい唇から陰鬱に吐息が漏れた。全体的に薄汚れて窶れた風体であっても、その仕草だけは不思議と様になっていた。
元々は自分など下端の一人でしかなかったというのに、上の者が次々と二階級特進を遂げたせいで、面倒を見る側になってしまったのが何よりの悲劇だ。おまけにそのお陰で、この部隊の指揮官となった者は死ぬという嫌なジンクスが出来上がってしまった。自分はどうなるというのだ。
新人にしても上官にしても、勝手に死んでもらわれては面倒なのだ。結局こちらに皺寄せが来るのだ。ふざけるなと小一時間墓に文句を垂れたいところだが、中身がないことも多いので困る。
「コネでもあれば違いますかね」
「中尉殿がコネ作りに現場を離れられたら、まあ、お戻りになられる頃にはすっかり地均しされていましょうよ」
自然と他人の肩に自分たちの命を載せてもらわないでいただきたいものである。このような小娘に何かと重荷を背負わせるのだから酒が欠かせないのだ。自覚してはいるがアルコール中毒寸前である。
タリアは適当に会話を切り上げ、冷えてきた手を擦り合わせた。この日のうちに襲撃があるとは考えていないようだったが、不毛な会話を続けても疲れるだけだということは万人共通の認識である。損耗し疲弊した部隊を更に窮地に追いやるのは、或いはこういった心理なのかもしれない。
彼女が欲するのは実戦経験のある航空歩兵三名。たったそれだけと思われるかもしれないが、世界情勢からして三名の熟練兵はあまりにも貴重である。
野砲が幾つ揃っていようとウィッチなくしてネウロイに対抗することは困難である。航空部隊が居たとして大した差はない。
故に部隊唯一のウィッチであるタリア・スミスは人類の矛として連日全日戦い続けるより他がないのだ。戦うことへの忌避感がなかろうとそのプレッシャーがどれほどのものか、一々語って聞かせるまでもなかろう。
そのような経緯から飲酒を正当化して、彼女はスキットルのブランデーに口をつけた。科学的に述べるならば過度の寝酒は逆効果なのだが、既に帰投後の速やかな就寝にアルコールが欠かせない状態に陥っているのだから救えない。
「ああ、空で飲むお酒の美味しいことと言えば! 生き返る気分だわ。死んでないけど」
酩酊状態になって冷静に(自覚する限りで)考えてみる。
このままで生き残ることができるのだろうか。難しいが無理ではないだろう。
一人でも魔女が居てくれたなら、少なくとも精神的な負担は軽減される。前回の新人とて錬成を怠っていたわけではないが、尚の事慎重に扱えばやがて使い物になる時も来るだろう。昼夜問わずして自分が出撃しなくてはならないという現在の惨状も、何時か改善されるかもしれない。
どうせ手柄を立てても出世はできないのだ。ならば精々生き抜くことを第一に考えるべき――とは思う。それでもと思う部分はあるが、如何に。
朝日が昇る時間帯まで彼女は不気味な呟きを通信機に吹き込みながら考え続け、やがて格納庫に定時ぴったりに戻るなり、副官扱いの男に告げた。
「ロマーニャの新人、育ててみましょうか」
「おや、よろしいのですか?」
「考えが変わりました。軍務については皆さんに多少の負担をお願いしますが」
副官は鷹揚に頷いた。
「ええ、皆喜んで引き受けるでしょう。ところで酒臭いのは――ああ、分かりましたよ。何時に伺えば?」
無言で嫌そうに手を振ると、彼は嘆息と共に肩を竦めた。
「そうですね、仮眠は一時間で。どうにも歯ごたえがなかったですから、昼頃には陸戦型と一緒に来るかもしれません。最近は予報も外れるようになったらしいですし」
「……了解」
もう少し休ませてやりたい、という悔恨から副官は僅かに眉を寄せて敬礼の姿勢を取った。そのあたりの考えは理解しているが、だからこそ口には出さず踵を返す。下手な気遣いは無神経にも優って人を不愉快にするものだ。
他の軍人のものとは離れた位置にある自分のテントに潜り込む。ガラクタと酒、古びた戦術教本が放りっぱなしになっていた。注意する者は既に居ない。注意されても片付ける気はない。洗濯物は部下に洗わせているので大丈夫(時々風に飛ばされたといってズボンが紛失すること以外は)である。
ロクデナシだな、と無意識に零して彼女はベッドに身を投げた。誰に向けての言葉だったのか、知る者は居ない。恐らく彼女自身判然としてはいないのだ。
戦績だけを見れば華やかな部分もある。強力な個体との戦闘はなくとも、継続して防衛線を維持していると言えば評価の余地はあろう。
だとしても、だというのに、左目の眼帯も取らぬままに、胎児の如く手足を縮め込めたその寝姿は、非道く惨めだった。