その日の夜、私は湯船の中で何度も彼の姿を思い浮かべました。
「八幡君……」
彼に掴まれた腕には、じんじんと温もりが残っている。
そこにそっと手を触れると、胸が締めつけられた。
……もう忘れなきゃいけないのに……でも……。
あの瞬間、驚きと共に、微かな感情が湧いていた。
喜び?期待?
名前のつけようのない前向きな感情が生まれていた。
あの場で違う言葉をかけられていたら……抱きしめられていたら……きっと私は……。
私は頭をぶんぶん振って、甘い空想を振り払う。水滴が辺りに飛び散り、髪が額に貼りつく。
そして、勢いのまま湯船に体中を沈めた。
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火照った体を冷ますように、窓を開け、夜風を浴びると、ようやく色々と現実味を帯びてきた。
そして、一つの事実に思い至る。
……全然忘れられてないなぁ。
あの時、本当はどんな瞬間が訪れて欲しかったんだろう?
答えなんてわかりきっている。私だって……私だって……!
「八幡君の……ばか」
何かを八幡君のせいにしながら、私は俯き、声を静かに涙を零した。
このくらいは許してくれるよね?
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「はあ……」
頭を抱え、ベッドにうつぶせに倒れ込む。
……何をしてんだ、俺は。馬鹿じゃねえのか……。
右手には、まだ彼女の体温や柔らかさが残っていた。最後の抱擁と同じくらい鮮明に。
最早言い訳のしようもない。
危うく約束を破るところだったのだ。
彼女の儚げな笑顔を見ていたら……仮に今から時間を巻き戻しても、さっきみたいになっていたと思う。
時間を巻き戻せたら、なんて考える日が来るなんて思わなかった。
これまでは、自分なりに最善を選んできて、後悔などなかったはずだ。
誤魔化しようのない気持ちは、理屈で押さえ込むこともできずに、ぐんぐん膨らんで頭の中を埋め尽くす。
結局のところ、やっぱり俺は……
そこで、思い出したように彼女から貰ったチョコレートの入った箱を手に取る。
お洒落な包装を解いて、中を見ると、手作りのクッキーが入っていた。丸いシンプルなクッキーは、いつか見た満月に似ていた。
一つだけ取り出し、しばらく見つめてから口に含むと、やたらと甘く感じた。
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「ねえ、最近八幡……元気ないよね。何か理由があるのかな?」
「ふむ……我も人づてに聞いた話なのだが…実は斯々然々で……」
「……そっか……そうだったんだね……」
「我も詳細まではわからんが……」
「うん。教えてくれてありがとう。ていうか材木座君、彼女できたんだね。おめでとう」
「……けぷこん、けぷこん。では我はもう行くとしよう……」