そして、鶴見留美は   作:さすらいガードマン

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お待たせしました & だいぶ長くなってしまいました。


鶴見留美が守りたいもの④ 守りたいと願うもの

 一瞬、だった。

 

 ここを通り掛かるタイミングが十秒遅かったら、私は事件に気付きさえしなかったはずだ。

 

 雨の夕刻、通りから奥に入った暗い人気(ひとけ)の無い路地。

 だから、全てがはっきり見えてた訳じゃない。泉ちゃんの異変に気づいたのだって、直前に路地に入っていく彼女を見ていたからこそだろう。

 

 でも……私は自分の目に映る犯罪ドラマのような光景をにわかには信じられず、すぐには声を上げる事さえ出来ずにいたんだ。

 

 作業服の男に、後ろから抱き抱えられるようにして口を塞がれた泉ちゃんが、開けられていたトラックのドアの陰に引き込まれるまでほんの1、2秒。

 わずかにドアの下に見えていた足もすぐ見えなくなり、同じ作業服を着たもう一人の男が、逆さになって足元に転がっていた桜色の傘を、開いたまま車内に放り込み、バタンとドアを閉じる。

 そのトラックは左右にそれぞれ前後二枚ずつドアがあるタイプのものらしい。男が今閉じたドアの前のドアを開いて運転席に乗り込むと、トラックは慌てた様子もなく、丁寧にウインカーを出してゆったりとこちらに向かって走り出した。

 

……正にあっという間の出来事。ここに至って私は目の前で何が起こったのかをようやく認識する。人攫い、拉致、誘拐、とにかくそういう犯罪に私の親友が巻き込まれたんだ。

 

 足が(すく)み、頭の中は真っ白になる。自分の心臓の音が耳元で大きく聞こえるような錯覚。

 どうしよう、どうしようどうしよう……。そうだよ、警察に電話……。でも、こういう時警察はすぐには動いてくれないと聞いたことがある。

 

 通報は悪戯じゃないか? 見間違いじゃないか? いなくなったとされる人の家を訪ねての安否確認。出かけた先への行動の確認。捜索はそれからやっと始まるらしい。

 

 それまでどれ位かかる? そんなことをしてる間に泉ちゃんは…………。

 

 思考だけがぐるぐる回り、指一本さえ動かせないまま、スローモーションのようにトラックが私の目の前に差し掛かる。

 そうだ、ナンバーを確認しなきゃと見れば、泥を塗ったように茶色く汚れていて読めない! きっとわざと汚してるんだ。

 

 窓から中を確認しようとしても、街灯の明かりの反射と雨の雫で中ははっきり見えない。ドアには◯◯工務店と印刷されたシールみたいなのが貼ってあるけど、これも本物かどうかなんてわかりはしない。

 

 どうしよう、私、なにも出来ないの? 鼓動だけが速くなっていく。

 何事もなかったように私の前を通り過ぎ、細い道から表の広い通りへと向かうトラック。

 

 キンキンと頭の中でこだまするように暗い声が響く。このままじゃ泉ちゃんにもう二度と会えなくなるんじゃないか、何もしなくて良いのか、――()()見捨てるのか――と。

 

 きっとこれは過去の私からの声。

 

 気付けば私の脚はその声に追い立てられるかのように勝手に動き、トラックの後ろを追いかけ始めていた。距離にしてほんの電柱一本分くらいだったけど、すぐにぐいっと引き離されてしまう。

 

「そんな……()だっ……」

 

 走りながら叫んだつもりの私の声は掠れて頼りなく、雨音の中に融けて吸い込まれてしまう。

 すぐに動き出せなかった事への後悔と絶望、涙が滲む……。

 

 でも――広い通りに出る手間で、トラックがブレーキランプを光らせて止まった!どうやら前を走る車の列がすぐには途切れないようだ。

 やけに眩しく点滅するウインカー。

 

――今しか無い――。

 

 傘を放り捨て、必死に走る私。一度は引き離されたトラックの赤いテールランプが一気に目の前に近づいたけど、いつ走り去ってしまうかわからない。あと10メートル……5メートル……お願い、間に合ってっ!

 

 そして……ついに私はトラックに追いついた。

幌に後方をふさぐ布は無く、ぽっかりと暗い穴を開けている。私は荷台の縁に両手を掛けて地面を蹴り、そのまま硬い荷台……幌の中へと飛び乗ることが出来た。

 ほとんど同時にトラックが走り出す。車の流れに割り入るためか、グイッと曲がりながら加速したようで、私はバランスを崩して大きく尻餅をついてしまった。右の二の腕あたりを、積んであった何かの機械に(したた)かにぶつける。

 

「痛っ……」

 

 奥歯を噛んで悲鳴を上げるのをこらえた。

 鉄板にゴムか何かのシートを敷いただけみたいなゴツゴツと硬い床、手のひらとふくらはぎにこすれるザラザラベタベタした……暗くてはっきり見えないけど、たぶん砂とか土が散らばっているような感触。

 開口部から入るわずかな光を便りに荷台を見回すと、たくさんの三角コーンや看板。それに、さっき私が腕をぶつけてしまった――名前は知らないけど、道路工事とかで使ってるのを見たことがある、アスファルトを平らにする凄く大きな四角いアイロンみたいな形の機械とかがいくつも置かれてる。

……さっきのシール……工務店の車っていうのは本当なのかもしれないな。

 

 後方を振り向けば、ちょうど京葉線らしきガードをくぐった所だった。街灯や民家の灯りが飛ぶように後ろに流れていく。光に照らされる雨の粒はさっきよりも大きくなってきているみたい。

 狭い道では無いけれど、幹線道路という感じでもない。裏道、というやつかな。帰宅渋滞の時間はすでにピークを過ぎてるからか、車の流れもスムーズで、すれ違う車の数もあまり多くはない。

 

 

 

 無我夢中で飛び乗っちゃったは良いけど……これからどうしよう。

 車体の鉄板一枚隔てた向こうに捕らわれている泉ちゃんは無事でいるだろうか? 目を凝らしたところで先を見通せるはずも無く、今のところ車内からのものらしい音は聞こえてこない。走行するトラックの風切り音と幌を叩く雨音だけが私の耳に届いてくる。

 周りを走っている車に助けを求めるのはどうだろう……。でも、上手くいけばいいけど、泉ちゃんの今の様子も分からないこの状況でそれをやるのは危険すぎる。万が一にもそのせいで彼女を傷つけることになったら……。

 車の中でいきなり酷いことはされないだろう、きっと大丈夫、と無理やり思い込んで少し心を落ち着かせた。

 

 

 

 ホントのとこ……悪手だった、ということは自分でも分かってるんだ。不安だろうとなんだろうと、まず警察に通報してその場で待つべきだったとも……でも!

 

 泉ちゃんを見捨てるなんて出来ない! もう二度と出来る訳がない!

 

 そもそも事件に気付けたことだけでも奇跡みたいなもの。せっかく得た泉ちゃんを助けるためのチャンスなんだ。なら、私がやるべきことは?

 

 とにかく誰かに今の状況を伝えて、助けを求めなくちゃ。

 私の言葉を悪戯や冗談ではと疑ったりしないで、すぐに最善の手を打ってくれそうな誰かに……。

 

――八幡の顔が自然と脳裏に浮かんだ。私がこの世で一番信頼してる、彼の顔が。

 

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 

 

「八幡っ? 良かった出てくれた!」

 

 電話は拍子抜けするほど簡単につながった。

 

『おう、どうした慌てて? 明日はそっちに――

 

「聞いて八幡、泉ちゃんが誘拐されたの。駅から帰る途中に拐われて……」

 

『……留美?』

 

 彼が息を飲む気配が伝わってくる。

 

「コミセンの裏の通りの近くでトラックに連れ込まれて……私、追いかけて荷台に乗っちゃって……それで……

 

『な、荷台にって……じゃあ留美も? 馬鹿お前何やってんだよ……』

 

 う……本当にその通り。馬鹿なことしてると思う……。

 

「ごめんなさい……。でも……」

 

『いや待て、言い方悪かったな。留美は無事なんだな? 気が付かれて無いんだな? その……犯人っつーかには』

 

 彼の声から、混乱と戸惑いが伝わってくる。

 

「うん、多分……」

 

『藤沢の方はどうしてる?』

 

「わかんない。泉ちゃんは前に……トラックだけど四枚ドアがあってね、その後ろの席に居るはずだけど……」

 

 相変わらず雨がトラックの幌を叩くパラパラという音は結構大きく響いており、トラック室内の様子を伺えるような物音は聞こえない。

 もっとも、そうであればこそ、こうして八幡と電話をしたりも出来てるわけだけど。

 

『そうか、ダブルキャブの……。よし、そこ……荷台か、ずっと隠れてられるか?』

 

「幌被ってて荷物たくさん積んでるから、奥の方に居れば大丈夫……だと思う」

 

「なら落ち着いて、お前が見つからない事を最優先にしてじっとしてろ」

 

「でも泉ちゃんが……」

 

『自分が安全な時に分かったこと教えてくれれば良い。いいか、絶対に危ない真似はするなよ』

 

「でも……。うん……」

 

 焦っている。考えも無しにこんな無茶をしておいて、結局何の役にも立たない自分に……苛立っている。

 

『まず……そうだな、今どっちに向かってるか分かるか?』

 

「最初にガードくぐったから……多分、東か北の方に向かって走ってると思うんだけど……」

 

 宵闇、雨の車道、それも後方に流れていくだけの風景。もう何度か角も曲がったようだし、あまり車を利用することも無い私は、正直この車がどこに向かってるかなんて、確信を持っては言えない。

 

 

『とにかくケータイもマナーモードにし――

 

 唐突に八幡の声が途切れた。

 

 あっ、と思ってスマホの画面を見れば通話が切れちゃってる。こんな時に……。関係あるかはわからないけど、直後に派手な飾りを着けた大型車が視界の向こうへと走り去って行くのが見えた。

 

 アンテナ――電波レベルが、最低ラインになったり圏外になったりと安定しない。移動しながらは繋がりにくい場所なのかな。そういえば、外に見えている明かりが民家のものより工場とかの方が多くなって、随分とまばらになってきた気がする。そんな事を考えてながらも、八幡が言いかけただろう言葉にしたがってスマホを音も振動も無いマナーモードに切り替えた。

 充電残量は半分ぐらい。これからどうなるか分からないし……肝心な時に使えなくならないように節約しなきゃ、ね。

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 しばらく時間が経った。何もしていないと不安で……ダメ元でもう一度八幡に電話してみようか……なんて悩みながら、ついスマホの画面を見てしまう。

 

 雨は徐々に強くなり、幌に当たる音がうるさいくらいだ。

 私の今の服装は、ゆったりとしたTシャツに目の細かいレースのキャミを重ね着し、下はキュロットに近い感じのショートパンツ。本格的な夏も近いこの季節とはいえ、夜に屋外にいると流石に少し肌寒く感じてくる。

 

……一体どこまで行くんだろう。何か特徴のあるものでも見えればそのことを八幡に連絡できるんだけど……そんなことを考えていたら、スッとトラックが止まった!

 

 ガチャッと、ドアの開く振動音が伝わってくる。幌布一枚隔てたすぐそこで男が何か言ってるみたいだけど、雨音とエンジンの音のせいでよく聞き取れない。

 

 私の事に気付いた、というわけじゃあ無いとは思う。

 ただ、このまま後ろに回って覗かれたら見つかってしまうかもしれない。私は身を縮めて、工事用の荷物の陰、出来るだけ奥に身体を押し込んだ。ガソリンのような……燃料だがオイルだかの臭いに息が詰まる。

 

 カチャカチャと金属同士がぶつかるような音がして、続いてギギッと何かが軋む音。

 

 そして車が動き出す。ゆっくりと大きく方向を変えたトラックは、ガクンと段差を乗り越えたように揺れ、それから大きく前に傾いた!

 

 うわ、何? と驚いたけど、急な下り坂を降りるということらしい。坂を少し下ったところで、斜めのままトラックが止まる。

 すると……トラックの後ろ、私の視線の先に、おそらくさっき泉ちゃんを拐ったであろう作業服姿の男が立ってる!

 

 彼は、アコーディオンみたいな形の扉を閉め、取っ手のところに鎖か何かを巻いているようだ。

 

 そして……その作業を終えた男がこちらに向かって来る。コツコツと大きく響く足音。

 音――そういえばさっきまでうるさいくらいだった雨音が今は聞こえない。そうか、建物に入ったから。

 ここが目的地ということ? ずっと遠くまで連れていかれてしまうのかと覚悟してたけど、案外近い場所だ。トラックに飛び乗ってからせいぜい三、四十分、走った時間から考えて間違いなく千葉県内だろう。流石に千葉市内ではないと思うけど、車で移動することの少ない私はそのあたりの確信が持てない……。

 

 少しでも、この場所のヒントになる情報が無いかと隠れていた機械の陰からちょっとだけ首を出し、なんとか外の様子を眺めようとした。

 

 ふと、男の視線が私に向いたような気がした。

まずい、油断してた。トラックのすぐ後ろ、間近に迫る男。周囲が暗く、表情を窺えないのが余計に怖い。

 私は息を止め、限界まで身を縮める。

 

 

 

 

 

……男はそのまま私の見える範囲から逸れ、幌の陰に隠れた。

 

 止めていた息をゆっくりと吐く。どうやら見付からずに済んだみたいだ。

 

 バタンとドアが開閉する音がし、車が今度はゆっくり走り出した。

 すぐに坂道は終わったらしく車体の傾きは元に戻り、それからトラックは大きく左に曲がる。キュキュッとタイヤの鳴る甲高い音がコンクリート壁に反響して大きく響いた。暗い中、時折ブレーキランプが点く度にこの建物の中の様子がポウっと赤く浮かび上がる。

 途中白線が何本も引かれていて、おそらくビルの地下駐車場なのだろう。でも、それにしては非常灯さえ点いてないし、あちこちに大きな段ボールに入った荷物が置いてあるし、第一他の車が一台も無いし……と、普段使われている気配がない。

 

 そこで私はさっきの男がしていた事を思い出す。

 あんな風にわざわざ扉で入り口を塞いでいるということは、ここは工事中か何かで閉鎖されてるビル……とか、そんなのかな。うん、きっとそうだ。あの蛇腹のように開け閉めする扉って、工事現場とかに良くあるやつだし。……リフォーム? 解体? こういうの詳しいわけじゃないけど、新築にしては薄汚れた感じがする。

 

 トラックはそのまま片仮名のコの字描くをように進み、奥へと入り込んだところで停まった。エンジンの振動が止まり、一瞬の静寂。

 

 ドアが開く音が大きく響き、それからコツンコツンとトンネルの中みたいに反響する足音が聞こえてくる。

 

「そっちの白いボックスっす。ブレーカー2つとも上げちゃってください」

 

 すぐ近くから急にはっきりと声が聞こえて驚いた。反射的に体がぎゅっと強ばる。

 

「こいつか。これ入れても外のライト点いちまったりしないのか?」

 

 今度は少し離れたところからの声。声を聞いた限りでは、この人のほうが年齢が上に感じる。

 

「それはここだけのやつです。上のは赤いほうのボックスなんで大丈夫っすよ」

 

「よし……」

 

 パチンパチンと音がする。ワンテンポ遅れて周りがぼんやりと明るくなった。

 

「じゃ、車のライト消しますね。…………ほら、降りるぞ」

 

「あ、待って。見えなくて怖い……です」

 

 泉ちゃんの声が聞こえる! 良かった……無事でいるんだ!

 

「チッ。……社長、目隠し、もう良いっすよね?」

 

「……そうだな」

 

 車体が少しだけ揺れ、バタンとドアが閉じる。車から離れていく足音。

 私は荷台の床を這うように移動して、幌の陰ギリギリから外の様子を覗ってみた。

 

 見えるのは、今まで聞こえてきた声の主であろう誘拐犯の姿。金髪に銀縁の眼鏡を掛けた、二十代半ばに見えるやや小太りの男と、焦茶の短めの髪、眼鏡の男よりは年上に見える中肉中背の男の二人だ。

 

 

 男たちが明かりをつけたのは、工事用の休憩所みたいな場所らしい。

 細長い机が2つ、パイプ椅子がいくつか。その奥の壁にはパネルボードが取り付けられていて、「本日もゼロ災害でいこう」「重機旋回内立入禁止」などののぼり旗がくくりつけられている。

 

――そして、泉ちゃん。

 

 泉ちゃんがパイプ椅子に座らされているところが見えた。膝の上に乗せられた両腕はテープのようなもので縛られていて、おでこのところにアイマスクのようなもの。

 ぱっと見た感じ大きな怪我は無いみたいだけど、少し顔色が悪いようには見える。

 

 あとは……他に人影は見えないし、少なくともここにいる「誘拐犯」は二人だけのようだ。

 

 私の隠れてる車から泉ちゃんたちとの距離は10メートルちょっと位だろうか。この距離で見つからないでいられるのは、こっちが暗くて向こうが明るいのと……何より彼らが、このトラックに誰かが隠れて乗ってるなんて塵ほどにも考えていないからだろう。

 

 泉ちゃんの無事が確認出来た今、私がやらなきゃいけないのは、隙を見て誰か――出来れば八幡に、警察に、今の状況を伝えること。

 ただ、周囲が静かだから電話は気が付かれてしまう可能性が高い。せめてなんとかメール出来れば良いんだけど……。

 

 

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 あれから一時間ほどが過ぎてるけど……今、事態は完全に膠着状態に陥っていた。

 

 

 

 まず犯人たちの方だけど、いわゆる身代金の要求――現金じゃなくて、ネットで何かを買わせようとしてるみたい――をしようとした泉ちゃんのお母さんと連絡が取れないらしい。

 若い方の男が、

 

「今日は家にいるはずじゃないのか?」

 

 と問えば、泉ちゃんは

 

「急に予定の入った伯父さんの代わりにニューヨークの美術館に出張になって、今は飛行機に乗ってる」

 

 みたいな事を答えた。

 

「でも、娘のケータイからなら出るんじゃないか?」

 

 そう言って年配の方の男が、泉ちゃんから取り上げてあったらしい彼女のスマホを取り出す。

 

「ん……? これ圏外になってるぞ」

 

 そう、私の方の問題はこれ。誰かに今の状況を伝えようにも、そもそもスマホが圏外で使えないのだ。

 

「マジすか? こっちのプリペイドは弱いけど普通に入ってますけど……キャリアが違うせいですかね?」

 

「もっと入り口寄りなら……」

 

 そう言いながら男は、泉ちゃんのスマホを片手に、さっき車が入って来た方向へと歩き出す。二十メートルほど進んだ所で……

 

「おお、ここならアンテナ立つぞ」

 

 そう言って彼は電話をかけた……けど、

 

「駄目だ。留守電になっちまうな」

 

 男が首を振ってそう言う。

 

 でも……私もあの辺りまで行ければスマホ使えるかもしれないのか。だからといって今飛び出せばあっという間に捕まってしまうだろう。犯人たちが油断するのを待つしか無い。

 

 

 

「しかし、参ったっすねー」

 

 眼鏡の若い男のほうがぼやく。

 

「じゃあ……メールでやるか? 飛行機の中でもメールぐらい見るだろ」

 

「それだと、娘の声を聞かせて信用させるってのが出来ませんね……ただの悪戯だと思われるかもしれませんし」

 

「今の……縛られてる写メ添付す(つけ)るとか……」

 

「うーん、計画の『保護したからそのお礼をしてもらう』って建前が無くなりますから、逆に即通報ってことも……。んでも、そこまでやるならいっその事こいつの指の二、三本折っちまうってのはどうです?」

 

「おい、人質に怪我させると、警察に通報させずに素早く少額をってのが無理になるんじゃないか?」

 

 とんでもない事を言い出す若い男に、難色を示すやや年配の男。

 

「手の指ならそのへんで転んだって後で言い訳させられますし、何よりとっとと金払わないと娘がずっと痛い思いし続けるぞって脅しにもなりますよ」

 

「しかしな……」

 

「社長大丈夫っすよ、手の指くらいで死んだりしませんて。……一時間ごとに一本折るぞ、みたいな脅しかければ、すぐにでもこっちの言うこと聞こうって、なってくれるんじゃないすかね」

 

 若い方の男がそう言ってがしりと縛られている泉ちゃんの腕を掴む。

 

「や……止めてください。わたし……」

 

 彼女の目の前で交わされる物騒な相談。今まで犯人たちには大人しく従ってきた様子の泉ちゃんもさすがにこれには涙声で抵抗する。

 

「いやー、お宅のママさんが電話出てくれないのがいけないんだよー。だから、ちょーっと痛いかもしんないけど我慢してねー」

 

 男は片手でスマホを構え、もう一方の手で泉ちゃんの指を掴もうとするが、泉ちゃんも嫌がって、テープで縛られたままの両腕を振り、椅子から滑り落ちて逃げようとする。

 

「くっ……。やっぱり一人じゃ無理か……。社長、すいませんこっち、撮影頼んます」

 

 男はそう言ってもう一人の方に持っていたスマホを渡すと、泉ちゃんの手を両手 ガッチリと捕まえた。

 撮影役を押し付けられた形になった男は、渋い顔をして戸惑った様子は見せたけど、この蛮行を止めようとまではせず、半ば諦めたような顔で二人に向かってスマートホンを構える。

 

「お願いです、手は……。痛い、離してっ」

 

 どうしよう、このままじゃ泉ちゃんが……。

 

 さっきまでは「しばらく様子を見て、隙があればこっそり出口の方に移動して電話を……」なんて考えてたけど、そんな状況じゃなくなってしまった。

 

 

 手に、指に大怪我をする――誰だってそんなの嫌に決まってるし大変なことだけど、泉ちゃんにとってはそれ以上に特別な意味を持つ。

 

――画家になりたい。

 

 将来の目標を真っ直ぐな目をして語っていた泉ちゃん。私と同じ年でありながら、自らの未来へ向けてのビジョンをしっかりと持っていて、ついこの間も、志望高校・志望大学・そこで師事したい先生のことまで熱っぽく語っていた泉ちゃん。

 多くの人に期待もされている彼女。夢への第一歩として、展覧会へ出品するための絵の制作を、手首に湿布を貼ってまで頑張っている泉ちゃん。

 

 絵はどれ位進んでいるんだろう……。彼女が参加する予定の二科展、作品の持ち込み期限は8月の半ば過ぎだったはず。

 泉ちゃん自身、少し迷ってる感じもあって、夏休みあまり遊べないかも、なんても言ってた。

 

 自分の将来のことなんか漠然としか考えられず、迷って悩んでばかりの私にとって、彼女の、自身の夢にどこまでもひたむきに向き合う姿はただただ眩しくて、憧れにも似た姿で……。

 

 だから……だからこんなことで泉ちゃんが怪我するなんて、悪意によって大怪我させられるなんて――そんなことがあっていいはずがない。

 

 

 

 金髪の方の男が泉ちゃんの右手の指を両手で掴み、力を込めようとしてる……。

 

「ダメっ!」

 

 私はそう叫んでトラックの荷台から飛び降りた。

 

 唖然とした顔でこちらを振り向く、泉ちゃんと犯人の男二人。……無理もない。――トラックの荷台に誰かが隠れてる――なんて、全く想像してなかっただろうから。

 

「泉ちゃん待ってて、すぐに助け呼んでくるからっ」

 

 と、()()()()()()()()()()()()()()言いながら出口へと向かって走り出した。

 

 

 当然、「助けを呼ぶ」と言って出口に向かおうとする私を放っておいてまで泉ちゃんに危害を加え続けるはずもない。男二人は私を捕まえようと躍起になって、道を塞ぐように追いすがり、立ちはだかる。

 

 私は何度かは彼らを躱したものの、結局出口にたどり着く手前で、金髪の男のタックルを受けて捕まってしまった。

 

「はあ、はあ……。お前……一体どこから……?」

 

「……とにかくあっちに、明るい方に連れてくぞ」

 

 私は犯人二人に両脇から抑え込まれたまま泉ちゃんの近くの椅子に座らされると、彼女と同じようにテープで両腕を縛られ、リュックの中に入ってたスマホは取り上げられてしまった。

 

「留美ちゃん!」

 

「……お前の知り合いか?」

 

「…………」

 

 答えるのをためらう様子を見せた泉ちゃんを男たちが睨みつけた。

 これは……逆らっても、あまり意味ないかな。そう考えて私から答えることにする。

 

「中学校の友達……です」

 

「そうか……しかし、これからどうするか……」

 

「ホント、予定通りに行かないっすね……けど……」

 

 ねっとりとした視線を感じ、ゾワリと全身の毛が逆立つ。ぼやいた若い男が、私を、頭から爪先まで嘗め回すように見ている……?

 

「きゃっ!?」

 

 いきなり太ももを触られた。

 

「へへっ、すべすべだねぇ」

 

 私が躰を引いて逃げようとしても、全く意に介さず、無遠慮になで回し続ける。

 

「ちょ……やめてっ」

 

 全身が泡立つような感覚。私は服の上から胸までまさぐられる。思わず立ち上がって逃げようとたところを、逆に押し倒すように組伏せられてしまった。

 

「痛っ、離してっ」

 

 さっきぶつけた右腕をがしっと強く掴まれ、小さく悲鳴が漏れる。

 

「留美ちゃんっ」

 

 心配そうな泉ちゃんの声。なおも暴れようとする私に、

 

「お前……大人しくしないとお友達が酷い目に遇うかもな?」

 

 そう言って、自分の指を持って折り曲げるような素振りをしてもう一人の男に目でサインを送る。

 

 く!、「騒げば泉ちゃんの指を折る」と言ってるんだ……。

 

 私は……悔しいけど抵抗を止める。

 男はメガネの奥でニマッと笑い、また私の太ももをまさぐり出した。しかも今度は内腿にまで無遠慮に触れてくる。

 

「おいおい、まだガキじゃねーか」

 

 茶髪の男が、若い男をたしなめるように言うと、

 

「イヤ、でもこの娘すげぇ美人ですよ? それに……ここまで見られちゃったら、俺らの事誰にも言えなくなるよーに、キツく口封じしとかないと……ねえ社長」

 

 声音に含まれる下卑た期待。

 

「それはそうだが…………仕方ねえ、か……」

 

 社長と呼ばれてる方の男が、苦虫を噛み潰したような顔で、

 

「好きにしろ」

 

 と言うと、若い男は待ってましたとばかりに、私にのしかかるようにして抱きついてきた。

 

 さっき雨に濡れたからか、少し湿った作業服のごつごつした感触、湿気と汗の混った、蒸れた臭い……。

 

 いきなり左の鎖骨の辺りに顔を押し付けられ、匂いを嗅がれてしまった。

 

「ぷは~っ、甘くて良い匂いっ」

 

 男の目が血走り、興奮してるのがわかる。逃げ出したいけど……一瞬泉ちゃんの方を見て、私は唇を噛んだ。

 

 悔しい……感情が抑えられず涙が滲む。

 

「ひひ、涙目もかっわいいなー」

 

 そんな事を言いながら、太ももやお腹の辺りに腰を擦りつけて息を荒くする男。

 

 ズボン越しに感じるゴリゴリした硬い感触は……多分男性器だろう。私にだってそれくらいの知識はある。

 つまりは――私を性の対象として興奮してるんだ……。そんな事実を突きつけられて、沸き上がってくるのは猛烈な嫌悪感。吐き気と恐怖。

 

 じっとしていられず、少しでも逃げようともがく。地べたに押さえつけられたままでもなんとか地を蹴ろうとするけど、膝に力が入らない。必死に突っ張ろうとする足はバタバタとむなしくコンクリートの床を叩くだけで、男の体に割り込まれたままの脚を閉じる事さえ出来ない。

 

「暴れんなって、このっ」

 

 私にのし掛かっていた男はさらに体重をかけるようにして私に覆いかぶさり、私の乳房を服の上からぎゅっと鷲掴みにしてきた。

 

「痛ッ……」

 

 針で刺されたような鋭い痛みが胸元から頭頂に抜け、我慢していた声が漏れる。

 

 今ので少し体勢がずれたのか、男が擦り付けてくる硬いものが、私の大切な部分を数枚の薄い布越しにグリッと擦りあげた。

 

「っ……」

 

 一瞬だけの事。だけどそれが今まで考えないようにしていた「この先に私の身を襲うかもしれない最悪の事態」をいやが上にも想い起こさせる。

 

 嫌だ……私……こんなやつに……。

 

 怖い。嫌だよこんなの。……助けて、誰か助けて。八幡…………。

 

 心臓を押し潰されそうな絶望。上げそうになった悲鳴だけは噛み殺したけど、溢れる涙は止められない。

 

 目尻から耳元に伝う涙をべろべろと舐め取られた。

 

「うひゃぁ、しょっぱい!かわいい!」

 

 

 

 汚されていく。躰が、心が。

 

 

 

「ささ、お洋服脱ぎ脱ぎしようね~。っと、そうだ、『口封じ』なんだから写真撮らないとね」

 

 妙にテンション上がって楽しそうな男は、私を組み敷いたままズボンのポケットからスマホを取り出した。

 フラッシュが光りカシャッというシャッター音が響く。

 

「泣き顔ゲット~。それじゃ……」

 

 スマホを一度脇に置いた男は、左手で縛られた私の両手を押さえつけ、右手で私のTシャツの裾を捲りあげた。

 ついに素肌と下着が男の目にさらされてしまう。

 

「ひゅーっ、可愛いブラ付けてるねー」

 

「嫌っ。やめて、見ないでっ」

 

 男は私の訴えなんか知らん顔でまたスマホを構える。

 

 どうして楽しそうにこんな酷いこと出来るの?……私……やめ……撮らないでっ。

 必死で身を捩って男の目を避けようとしたけど、腕をガッチリ抑えられて思うようにいかない。

 またフラッシュが光る。

 

「暴れたらきれいに撮れねーだろ……。まあいい、次は……ひひっ」

 

 男が舌舐めずりをして私の下着に手を伸ばしてくる。私……もう…………。

 私はただぎゅっと身を縮めて目を閉じることしか出来ない。

 

 

 

 

 

 不意に。

 

 押さえ込まれていた体が急に軽くなり、私は何事かと思わず目を開いた。

 

「ぐえっ」

 

 男は私に向かって手を伸ばした体勢のままで引き剥がされ、放り捨てるように転がされた。シャツの襟首を強く掴まれたらしく、首元をおさえてゲホゲホと咳き込んでいる。

 

 

 そして――目の前には八幡がいる!

 

 何故? 助けに来てくれたに決まってる。

 どうやって?……そんなのどうでも良い。

 

 八幡が……私のところに来てくれたんだ。

 

 相手の反撃に備えてか、険しい目で男を睨みつけながら彼は私に駆け寄って腰を落とし、心配そうな顔を向けてくる。

 

「留美っ……」

 

「は……ちまん……」

 

 上着をはだけられ、泣いている私と目が合った八幡。その瞬間、元々厳しかった彼の表情が一段階剣呑(けんのん)さを増したものに変わった。

 彼は素早く私のシャツの裾を戻して男の方に向き直った。

 

「ケホッ……なんだおま……ひぃっ」

 

 まだむせながらも立ち上がろうとしていた男が、八幡の顔をみて息を飲む。その瞬間、八幡は男の脇腹に容赦ない蹴りの一撃を放った。重い物を床に落としたときのような鈍い音がした。男はもんどり打って床に倒れ、外れた眼鏡が床に転がる。男が悶絶してるところを、八幡はさらに今蹴った同じところを踵で踏みつけるように蹴り飛ばした。

 

「が……ハッ」

 

 男は変な息を吐いてそのまま動かなくなる。どうやら気を失ったみたいだ。

 

「お前、よくも!」

 

 仲間を倒され、社長と呼ばれていた方の男の方が激昂して、懐から出したナイフを構えて向かって来る。

 けれど、八幡が私を庇うように立つと、彼の顔を見て怯んだように立ち止まった。

 

 するとどこからかパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。動揺する男。

 

「……全く、すぐに警察が到着するからタイミングを待とうと自分で言っていたのに……。……でもまあ、今のは仕方ないかしらね。それにしても、最後のは流石にやり過ぎじゃないかしら」

 

 急に近くから聞こえてきた声にに振り向くと、いつの間にか泉ちゃんの傍らには、パンツスーツ姿で髪をアップにまとめ、細いフレームの黒縁眼鏡をかけた女性が立ち、男をじっと睨みつけている。

 

 ……でも、この声もしかして……雪乃さん? やっぱりそうだ! なんで?

 

 

 二人に挟まれる形になった男は、何かを迷うように動きを止める。彼はどんどん大きくなるサイレンの音に顔をしかめて、

 

「畜生、何で俺はいつもいつも……」

 

 なんてブツブツ言いながらナイフを持つ手を雪乃さんの方へ向けると、

 

「動くなよ。大人しくしてくれれば怪我をさせるつもりは無いから」

 

 そう言って八幡の方を警戒しながら彼女たちの方へジリジリと近づいて行く。多分二人を見比べて、雪乃さんのほうが与し易しと考えたんだろう。

 

 雪乃さんは動揺する様子もなくただ無表情。目だけが男の動きを追っている。……あ、今ちらっとこっちを見た?

 

 そう思った時には八幡の手から何かが放たれていた。男の足元で「ガチャーン」と派手な音が響く。鉄パイプを繋ぐための金具……だろうか。

 

「うっ!」

 

 男の気がそちらに逸れた瞬間、雪乃さんが滑るように前へ踏み込む。

 彼女がナイフを持った男の手首を掴んだ――そう思った瞬間、男はくるりと一回転して背中からコンクリートの床に叩きつけられていた。

 苦悶の表情を浮かべてナイフを取り落とす男。

 

 雪乃さんは素早くそのナイフを拾い上げ、駐車場の一番奥の方へと放り投げた。キィーンと硬質な音が響く。

 

 

 

 その直後、入口の方で強い明かりがいくつも光り、大勢の人がこちらに向かってくるのが見えた。

 

 「警察だ! もう逃げられないぞ。直ちに武器を捨てて…………」

 

 床に倒れ伏す犯人二人。既に解放されている人質…………。

 

 お巡りさんたちは拍子抜けしたようにお互い顔を見合わせていた。

 

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 

「留美、大丈夫か?」

 

「は……ちまん……」

 

 目の前に八幡がいる。いてくれる。

 私はもうそれだけで涙が溢れてきて……ほんとに怖かったから、安心して、頭がぐちゃぐちゃで……

 

「バカ野郎、動かないで待ってろって言っただろ。なんで無茶したんだ!」

 

 八幡が膝をついて、私の手首に巻かれていたテープを剥がしてくれる。

 

「ごめんなさい……。でも、あいつ、泉ちゃんの指を折るって……泉ちゃんの……。そんなの――そんなの絶対だめ……でも、私しかいなくて、だったら私がやらなきゃって、なんとかしなきゃって……」

 

 また逃げたらきっと後悔すると思っちゃったんだもん……。

 

 彼は何か言いかけて……首を左右に小さく振ると、スッと立ち上がり「はあー」っと一つ息をついた。

 

「立てるか? 留美」

 

 彼はそう言って手を差し出してくれる。

 

「八幡……」

 

 目の前わずか数十センチのところにある彼の大きな手。

 けれど、その手を取る事に私の心は(ひる)んでしまう。だって今、見られてたんだもの、私が惨めに(なぶ)られているところ。

 

 今すぐに八幡に抱きつきたい……けれど、私は自分が酷く汚れているように感じていて……だって、あんなやつに、私――

 

 私は、犯人の一人……あの金髪で眼鏡の男に、無遠慮に、乱暴に躰を触れられた。あと少しで女の子として大切なものまで奪われかねなかった。

 八幡たちのおかげでそうならずには済んだけど、私の躰に(けが)れた何かが擦り付けられまとわりついてるような不快さが、心を汚されてしまったような後ろめたさが、さっきからずっと消えずに残ってる。

 

 私が本当に怖いのは……多分、八幡に嫌悪されてしまうこと。わたしのことを汚いものを見るような目で見られること。

 勿論八幡はそんな事考えるような人じゃ無いって分かってる。でも、頭で考えるのと生理的な嫌悪感は別だ。

 私に触れることをたとえ不快に感じていたとしても、八幡はきっと優しくしてくれる。――内心では嫌な思いをしながらでも。

 

 想像しただけで目の前が暗くなる。そんなの……嫌、絶対に嫌だ。

 

 目の前に八幡がいるのに手を伸ばせない。だって、触れたらきっと解ってしまう――本当は今の私には触れたくないんじゃないかって。

 強張(こわば)って握りしめてしまった指先が小刻みに震え、その爪が手のひらに食い込む。

 

 

 

 すると彼は、逡巡したまま動けずにいた私の両手を強引に掴んで引っ張り起こし、そのままぎゅうっと抱きしめてくれた。

 

「あ……八幡……?」

 

「大丈夫、もう大丈夫だから」

 

 そう言って八幡は、左腕は私の背中を強く抱いたまま、右手で優しく労るように私の頭をなでてくれた。

 いつの間にか指先の力が抜けて、手の震えも止まってる。私はそっと八幡の背に両手を回した。そこで初めて彼も小さく震えていたことに気がついた。

 

 八幡がどんなに私のことを心配してくれたか、今どれほど安心したか……八幡がどれだけ私のことを大切に思ってくれているかが、私を包むように抱いてくれている彼の全身から伝わってくる。

 不安を感じていたことが申し訳ないと思えるほどに、八幡は、私への嫌悪なんか欠片さえ感じないでいてくれてる。そう確信できるくらいに、彼の腕の中は安心できたんだ。

 

 なら、もう大丈夫。他の誰かに何を思われようと、八幡が今まで通り私に接してくれるなら、私の心は「それで良いや」と思えてしまったから。

 

 だから私も両腕に力を込め、ぎゅうううっと強く彼を抱きしめる。

 

 もう安心なのに……ううん、安心したから、かな。体に力を込めたら、まるで自分で自分を絞ったみたいにまた涙がじわじわと溢れてくる。

 

「でも、ね。はち……八幡……っく、こわ、怖かったの……。う、うぅぅぅっうぅぅ………………」

 

「ん……ごめんな、遅くなっちまった」

 

「そんなの……は、……う……うぅ…………」

 

 もう……こんな時まで謝らないでよ…………。

 

 あーあ、涙と鼻水で私の顔は相当みっともない事になってるはず。想い人に見せたいような顔じゃないけど……離れたくもない。

 

 「あ…………」

 

 八幡の腕の力が緩み、回されていた手が私の背を離れる。

 お願い、もうちょっとだけ……。

 

 もう少し抱きしめていてほしい私は、八幡の背中に回したままの両手で彼のシャツを逃がすものかとばかりにぎゅっと掴み、彼の胸に頬をぐりぐりと擦り付けて目を閉じた。

 

「おう……?」

 

 八幡は、しょうがないなぁという感じでもう一度腕に力を込めてくれ、私の背中を優しくぽんぽんと叩いてくれる。ふふ、温かくて、不思議と安心する彼の匂い。耳に心地好く響く少し速い心臓の音。

 

 ふと目を開くと、八幡の腕越しに雪乃さんと目が合ってしまった。

 うわぁ、状況が状況とはいえ、八幡にこんな風に甘えている姿を見られるというのは正直ばつが悪いなぁ。

 

 けれど、雪乃さんは私に向かって苦笑しながら頷いてくれる。彼女の目が、「今日は仕方ないわね」とでも言ってるみたいに感じた。

 

 お許しが出たから、という訳でも無いけど……私は彼の隣にピッタリくっついたままで、疑問に思っていたことを八幡に尋ねてみる。

 

「ね……八幡。どうして私たちが居るのここだって分かったの?」

 

「さっき留美と話したあと、前に使った……いまココアプリだっけ? あれの事思い出して、それを追いかけて来た」

 

 いまココアプリ……そういえばそんなことあったなぁ。まさか自分が本来の用途でこのアプリのお世話になるなんて想像もしてなかった。

 

「ただあれって、お前の方でも地図アプリとか起動するか、設定で調整するかしないと、5分に1回しかGPSサーチしないようになってるらしい。……まあ、そうじゃないとすぐにバッテリー切れちゃうからだろうな」

 

 そうか、常に測定・発信してるわけじゃあ無いんだね。

 

「位置検索したら最後の履歴がこの少し先の交差点あたりでな。そのあとの新しい位置情報(データ)が更新されないから、電波が繋がらないのか、電池切れか、犯人に捕まってスマホ取り上げられたんじゃないか、とか色々考えて……とにかくその場所の近くまで来てみることにした。もちろん警察には今までの状況を伝えた上でな」

 

 それで警察よりも早かったのか。

 

「で、ついさっき位置情報がここに更新されて……まあそんな感じだ」

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 スーツ姿の警察の人――刑事さんかな? に引き起こされ、諦めが良いのか大人しく連行されていく二人の男たち。

 

 すると雪乃さんが、制服の警察官に止められながらも、彼らに何か声をかけていた。年上のほうの男が一瞬だけ私たちを見て、何かを諦めたように左右に小さく首を振る。

 

 雪乃さんが一歩引いて道を譲ると、今度こそ彼らは出口へと連れられて行った。

 

 

 

 そして、

 

「留美ちゃん……ごめんなさいっ。わたしのせいで、こんな……」

 

 泉ちゃんが涙目で私に抱きついてくる。

 

「泉ちゃん! 違うの、私が勝手に無茶しただけで……」

 

「ま、確かに無茶だったな。でも無事だった。……藤沢もよく我慢したな」

 

 八幡は、二人の頭を両手で抱き寄せるみたいに撫でてくれた。すると泉ちゃんが感極まったようにまた声を上げて泣き出してしまう……。

 

「八幡……また女の子泣かせてる……」

 

「え、俺っ? またってなんだよ、人聞きの悪い……」

 

 もう……()()()()だよ。その、頭撫でてくれるのって、すごい破壊力あるんだから……もうっ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 地上に出ると、もう雨は上がっていた。私たちが囚われていた建物は二階建てのそれなりに大きなもので、改装途中の商業ビル、みたいに見えた。周りには沢山のパトカー赤色灯を点滅させたまま停まっている。十台くらい居るだろうか。

 今、私と泉ちゃんは、警察の人たちから「怪我はないか、気分は悪くないか」みたいなことを聞かれ、それから住所・氏名・年齢なんかの確認をされてるところ。

 

 そこから少しだけ離れたところに回転灯の付いていない黒い高級そうな車が停まっていた。いわゆる覆面パトカーなのかなとも思ったけど、そういうわけでも無いようだ。

 八幡と雪乃さんがそのすぐ横に立ち、後部座席の誰かと話をしていた。誰だろう。

 

 しばらくして、八幡がその誰かに深々と頭を下げると、車は軽くクラクションを鳴らしてゆっくりと走り去っていった。

 

 

 

 ようやく安心できる世界に帰って来れた。ほっとして見上げた空はさすがに真っ暗で……。それでも、スマホで時間を確認すれば、あれから――泉ちゃんが拐われたあの時から――まだ三時間も経っていない。

 そんな僅かな時間だったとは思えないほど、何かもう酷く心が疲れていて、何もかもがただただ面倒くさい。

 

 はぁ、早くお風呂に入って寝たいなぁ。でも、八幡と離れるのは嫌だなぁ。

 

 そんなことをぼーっとした頭で考えていた。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 それからの事。

 

 解決が早かったとはいえ「誘拐事件」だ。さすがに私たちもすぐに解放というわけにはいかず、私と泉ちゃん、それから八幡と雪乃さんもパトカーに乗せられ、病院へと連れて行かれた。

 あらためて怪我や体調不良がないかを確認するということらしい。

 私も泉ちゃんも、縛られた腕が赤くなってはいたものの大したことはなく、怪我らしい怪我は私がトラックの荷台で転んだときの腕の打ち身くらいだった。

 「経皮鎮痛消炎剤」とかいう難しい名前の、伸びる肌色の布テープみたいなのを貼られ、今日のお風呂はシャワーだけにしたほうがいいでしょう、とお医者さんに言われてしまう。

 ゆっくり湯船に浸かる事を楽しみにしていた私にとっては地味にショックな指示だなぁ。

 

 そんな事を考えて、ふと我に返る。

 あんな目にあったばかりなのに随分と余裕。私はおかしくなってるのかな?

 

 多分、あの時八幡が抱きしめてくれたからだ。

 大丈夫だって言ってくれたから――隣にいて良いって全身で伝えてくれたから、私は私に安心していられるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そのあと病院の応接室のようなところで、警察の人に簡単な事情を聞かれていると、お母さんがやってきて、飛びつくように抱きしめられた。目を赤くしているお母さんに、心配掛けてごめんなさいと謝る。

 それからすぐ、泉ちゃんの伯父さんと藤沢さん(泉ちゃんの従姉。クリスマスイベントの時の書記さん、今は副会長さんらしい)が到着する。

 ようやく泉ちゃんのお母さんとも連絡がついたようで、電話で話す泉ちゃんの目からはさっきやっと止まった涙が溢れていた。

 

 もうだいぶ遅い時間であり、またそれぞれの保護者も到着したことから、

「明日改めて詳しい事情を伺わせてください」

 ということで、私たちは一旦警察の事情聴取からは開放された。

 

 

 

 

 

 

「本当に……本当にありがとう、比企谷君、雪ノ下さん」

 

 今まで待ってくれていた八幡たちに、お母さんと並んで改めて頭を下げる。

 

「いえ、とにかく留美たちに大きな怪我がなくてで良かったです。……それに今回みんな無事だったのは雪ノ下の親父さんのおかげですから」

 

「雪ノ下さんのお父様?」

 

「はい。俺をすぐに車で拾ってくれて、途中までしか分からないのにアプリの……留美のいる場所探すのに付き合ってくれたんだよ」

 

「そうだったんですか……」

 

「それに、警察がこんなに速く動いてくれたのも雪ノ下さんが移動中に電話一本入れてくれたからだ」

 

「ちょっと比企谷くん、そういう話は……」

 

「?……」

 

「まああれだ、千葉県警ってな、言葉通り千葉県の警察なんだよ」

 

「うん?」

 

 それはそうだろうけど……。

 

「つまり県警にとって、有力な県会議員の一言(ひとこと)ってのは、へたすりゃ国会議員や大臣に何か言われる事より重いってこと。予算やら人事やらにも意見できる立場だからな」

 

 そういうことか。雪乃さんのお父さんは、地元では有名な建設会社の社長さんで、県議会でも重要なポストにいる、地元政財界の名士だ。八幡に説明されれば納得の行く話ではある。

 

 

「雪ノ下さん、お父様にもお礼を……本当に感謝していますとお伝え下さいね」

 

「県民を守るために何かをするというのはごく当たり前の……いえ、では父にはそのように伝えておきます」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 もう一度頭を下げる私たちに対し、実に姿勢の綺麗な礼を返す雪乃さん。

……眼鏡は伊達メガネらしいけど、スーツ姿の雪乃さんって……本当にかっこいいなぁ……。

 

 

 

 

 

 

 警察の方からは、「パトカーでお送りしますよ」と言われたけど、それは母が固辞して、その日はタクシーで家に帰った。

 

 

 

 

 

 翌日は警察署で改めて事情説明。お母さんが休みを取って一緒に来てくれた。

 

 私より先に着いていた泉ちゃんと並んで座り、お母さんと同じくらいの年齢に見える優しそうな女性警察官さんに最初から一通り話をする事になった。

 トラックに飛び乗った時の話をしたら、私は彼女から「もう無茶なことはしないように」とお説教をされてしまった。

 通報してもなかなか捜査しない、というのはドラマとかに出てくる()()警察で、本当の警察は、通報があれば、たとえイタズラの可能性があっても、義務として必ず出動して確認しなければならないことになっているんだとか。だから、何かあったらすぐに110番してください、と。

 

 その場ではもちろん、はい、すいませんでしたと素直に謝っておいたけど……あれだけの数の警察官がすぐに動いてくれたのは雪乃さんたちのおかげであることも間違いないと思っている。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

「誘拐事件『超』スピード解決」

 

千葉県警によると、6月◯日午後7時頃、千葉市美浜区の路上で、近所に住む中学生児童(13)が車で連れ去られるという事件が発生した。しかし、目撃者らの通報などにより、およそ2時間半後、同県Y市内にある建築途中のビルの駐車場で児童を無事保護。現場にいた二人組の男が未成年者略取・拉致監禁などの容疑で現行犯逮捕された。児童に怪我はなかった。

男らは調べに対し、身代金目的で児童を拉致したものの児童の保護者に連絡がつかず、脅迫電話もかけられないうちに捕まってしまったなどと話しているという。

 

 

 事件は翌々日、日曜日の新聞――地方紙の社会面に、こんなふうに中くらいの記事として載った。

 

 記事に被害者の名前が無かったことにホッとする。

 

 ローカルテレビのニュースでも取り上げられてはいたらしいけど、あまり大きな話題にはならなかったようだ。

 

 八幡によれば、

 

「発覚した時にはもう犯人も捕まり人質も無事解放されてる。『スピード解決』ということ位しかニュース的な価値はなかったんだろうな。あとは……もしかしたらだが、雪ノ下の親父さんが気を使ってくれたのかもしれない」

 

 とのこと。

 

 

 

 ◇  ◇  ◇

 

 

 

 そしてまた日常。発売されたばかりの雑誌「Girly Style」をパラパラとめくりながら、その中に登場している自分を、まるで自分自身ではないような不思議な感覚で見ている自分がいる。

 

 八幡にそんなこと言ったら「お前は哲学者か?」なんて言われちゃいそうだけど……。

 

 今回は八幡や雪乃さんに助けられたけど、平穏な日常は当たり前にあるものじゃ無いって嫌でも解らされた。

 友達を守ることは出来た。でも決して正しいやり方じゃあなかったし、色々と運が良かっただけだろう。

 そう、一歩間違えていたら、私は……。

 

 たまたま運が良かったから、私は八幡とドレスで踊ってる写真をうっとりと眺めていられる。あの時一つ歯車が狂っていたら、私はこの写真を泣いて破り捨てていたかもしれない。

 

 あるいは……見ることさえ叶わなかった可能性さえある。

 

 

 日常――今の自分の周りのささやかな世界を守るだけのことさえ決して簡単ではなく、守り続けるだけの楽園には未来は無いという。

 それなら、未来のために今を壊すのが正しいのか、そう問われたとしても簡単に頷ける訳もない。

 

……私が守るべきなのは……今、それとも未来?

 

 守る()()? 今か未来かの二択?

 

 ううん、きっとそうじゃない。

 「守りたい」という想いが大切なんだ。未来は、何かを願ったからといってそのとおりになるものじゃあない。守りたいと思うだけで確実に何かを守れるほど世界は優しくない。

 

 それでも。

 

 私が守りたいのは、守りたいと願うものは――――。

 

 

 

 

 




 
どもども。

今回も長くなってしまいました。(19000字位)
ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。

さて、ピンチだった二人もどうにか無事でした。ただ、この事件はそれぞれの心に何らかの変化を与えるのは確実でしょうね。

今回、八幡は泉に対して薄情なくらい絡みが少ないですが、そうしないとうっかり泉まで八幡に惚れてしまう恐れがあるので……。ただ、目の前で助けられて……というパターンなら、スーツゆきのんに惚れてしまう可能性も微レ存?


ご意見・ご感想お待ちしています。では~。
 

7月10日 誤字修正 clpさん報告ありがとうございます。

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