そして、鶴見留美は   作:さすらいガードマン

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どうにか7月中に更新間に合いました……(ギリギリじゃん)


鶴見留美は未来に迷う⑤ ゆっくりと視えてくるもの

 

 

 八幡が風邪をひいた。

 

 

 

 昨日、ゲリラ豪雨でずぶ濡れになった私と八幡。予定変更を提案するメールを無視してアパートに押しかけた私にシャワーを譲り、自分はタオルで拭いたから平気だと言ってシャワーを浴びずにいたからじゃないだろうか。

 そう考えると八幡の風邪は私が原因なんじゃないかと思えて申し訳なくなってくる。

 八幡は違うって言ってくれたけど……。ううん、間違いなく私のせいだ。だって、あの後――

 

 

 

 * * * * * 

 

 

 

「どうだ?」

 

「…………うん、触った感じでは大丈夫だと思う。思ったより時間掛かっちゃったね」

 

 エアコンの正面に吊るされて二時間ほどひらひらと揺れていた私の服は、どうやら着るのに問題ない程度まで乾いてくれたみたいだ。

 これで、素肌に八幡のスウェット一枚だけの姿で彼の横に座り――問題集を解いて、間違えた瞬間に八幡に鋭くダメ出しされる――というドキドキタイムも終了だ。 ……これ、ドキドキの方向性が間違ってるよね!?

 

「まあ、乾燥機ってわけじゃないからな。それに待ってる間にそこそこ課題も出来たし……まあ予定通り? なのか……」

 

「……今日はほんとにごめんね、八幡」

 

「いや、『今日か明日のどっちか』なんていいかげんな予定だったとはいえ、一方的にその予定変えようとしたの俺の方だし……。悪かったな、留美」

 

「八幡が悪いことなんて何も……」

 

「ま、お互い確認不足だったってことだな。ケータイ持ってると思うとつい約束とかアバウトになりすぎるよな……」

 

「…………」

 

 ……ごめんね、やっぱり私が悪いんだよ? 確認不足じゃ無いんだ。だって八幡のメールちゃんと見たのに……今日どうしても会いたくて――連絡が付かなければ……結衣さんたちと一緒に居るのを切り上げて早めに帰って来てくれるんじゃないか――なんて酷いこと考えて、知らんぷりして真っ直ぐここに来ちゃったんだもの。

 そう思ったけど流石にこれは言えないなぁ。それになんとなくだけど……八幡はなんとなく解っててそう言ってくれてるような気もするし……うん……、ここは彼の優しさに甘えてしまうことにする。

 

 そういえば、もし八幡とLINEで連絡してたなら、「既読」付いちゃうからこんな風にごまかしたり出来なかったかもしれないけど……八幡、いくら言ってもLINEやらないんだよね。

 

「いや……あれって既読付いてから一分以内に返信しないと『既読スルーした』ってキレられたりハブられたり離婚届突き付けられたりするんだろ? 対人スキルの低い俺には危険物過ぎるだろうが」

 

 だってさ。

 八幡が言ってるのは流石に極端すぎるとは思うけど……でも離婚届の話って実話らしいし、たしかに危険……というか怖い? あと面倒くさい部分もある……のかな?

 うん、同級生たちの間でも、「既読スルーはルール違反」みたいな空気が確かにあるみたいだし……。そんな風にお互いを縛り合うみたいなのが本当に友達なのかな……なんて、変なこと考えるようになっちゃったのは八幡の影響だね、多分。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「おし、じゃあ駅まで送るわ」

 

「え、別にいいよ。服だってちゃんと乾かしてもらったし、今日はまだ明るいよ?」

 

 元の服に着替えた私を、八幡は駅まで送ってくれると言う。内心は嬉しいと思いながらもそこは流石に遠慮すると、

 

「まあ……なんとなくそんな気分なだけだ。帰りにコンビニも寄る用事もあるしな」

 

 八幡はなんだか歯切れの悪い言い方でそう言い、さっさと玄関に向かうと私より先に靴を履いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 薄っすらと暮れ始めている駅までの道を八幡と並んで歩く。日中の暑さは影を潜め、まるでこの街を包む空気の全てがひんやりとしたものに入れ替わってしまったかのようだ。

 空は僅か数時間前の豪雨が嘘だったかのように晴れて、その空も、建物も、あちこちに残る水たまりもみな夕刻の茜色に染まり始めている。

 

 駅にほど近い小さな橋を渡る時、すうっと雨の匂いが残る風が吹き抜けた。ふと顔を上げると、欄干の上はそこだけポッカリと視界が開けていて、ずっと遠くまで見通すことが出来る。遥か東の空には天高くそびえ立つ大きな入道雲。それが陽の光を反射してオレンジ色にキラキラと輝いているのが見えた。

 

「あ、八幡、見て見て! すっごい綺麗!」

 

 私は夢中になって八幡の手を取り、ぐいっと引っ張った。

 

「あ、おい……」

 

「あ……」

 

 手を繋ぐくらいのことで今さら照れるなんて、と思われるかもしれないけど……。確かに彼と手を繋いだことなんて何度もある。けど、私はそういう時はいつも――こう、「よし! 行くぞ」みたいに覚悟を決めてから手を繋ぎに行ってるので…………。

 要するにこんな風に心の準備をしないままで手を繋ぐのはやっぱりドキドキしてしまうのだ。

 八幡は一瞬繋がれた手を見て何か言いかけたけど……そのまま何も言わずに私の隣に立ち、一緒に雲を眺めてくれた。

 

 

 

 まるで生きているかのようにゆっくりと形を変え、色を変えする雲をどれくらいの間見ていただろうか。私の手をにぎる八幡の手にほんの少し力がこもったような気がした。

 

「八幡……?」

 

「あんなに綺麗なのに……あの下じゃさっきみたいな大雨になってるんだよな……」

 

 見れば、そのオレンジと朱に煌めいている巨大な雲の足元は、暗い灰色に(けぶ)ってそこにあるであろう街の風景をすっかり覆い隠してしまっている。もしかしたら、今日私達をずぶ濡れにしたのも今見ているあの雲だったのかもしれない。

 

 美しいものと恐ろしいものが重なり合って存在するその姿。私は……私たちはただ圧倒されたように、暫しそれを無言のまま見つめていた。

 

 

 

 また、川面を渡る風が吹く。八幡が今度はちょっと大きなくしゃみをした。

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 やっぱり私のせいだよね……。あの時、けっこう風冷たかったし……。

 

 

 

 今日のお昼ごろ、昨日家庭教師の次回の予定をはっきりと決めてなかった事を思い出して八幡に電話した。別にすぐじゃなくても良かったんだけど……その……こ、声が聞きたかったというか……。

 まあこれはいつものことで……去年八幡と連絡先を交換してから、私は何かと理由を探しては八幡に電話をかけたりメールしたりしてるんだよね。

 この一年そんな風にしていると、なんとなく八幡が嫌がらないコツというか、ルールというか、そういったものがぼんやりと解ってくる。

 

①なんでも良いからはっきりとした理由を()()こと。

 これは「声が聞きたい」とかいうのはダメで、今回みたいに「予定を決める」みたいなのならOK。

 

②最初に、今大丈夫か、いつなら話せるかを聞いて、だめならその時間にかけ直す。

 

 

③一回の話は短めに。代わりに、一日に何回かかけたとしても八幡は呆れはするけど案外嫌がらない。

 

④メールは普通に送って大丈夫。……時には長文も返してくれるし、女の子とのメールにも慣れてる感じ。

 意外……でもないか。結衣さんやいろはさん、最近は雪乃さんとも結構メールしてるみたいだし。

 

 

 と、そんな感じ。

 別に厳密なルールってわけじゃ無い。話を始めてしまえば、それでいつの間にか最初とまったく違う話になっても別に機嫌を損ねるというようなことも無いし……。多分、八幡も私と同じでけっこうめんどくさいタイプなんだと思う。きっと何をするにも「理由」とか、「必然性」みたいなのを欲しがる……というか、うーん? そういうのがあると自分の行動に安心出来るんじゃないかな。

 

 

 

 まあその話はひとまず置くとして、とにかくその時彼の声が明らかに(かす)れていたたので、もしかして……と思い聞いて(問い詰めて?)みると、渋々ではあるけど、今悪寒がして熱が高い――要するに風邪をひいたことを認めた。

 彼は、

 

『さっき薬飲んだし、今日は休みだから一日寝てれば治んだろ……。溜まってるビデオでも視るのに丁度いい』

 

 なんて余裕そうなこと言ってるけど、電話越しに聞こえてくる声は言葉に反して結構辛そうだ。

 

 私が「今からお見舞いに行く」と言うと、八幡は「大したこと無いから」と当たり前のように断ってきた。

 私は八幡に風邪を引かせてしまった責任も感じていたから、

 

「ちょっと顔出すだけですぐ帰るから……八幡が風邪ひいたの私のせいだし……」

 

 そう言って粘ってしまった。

 

『あー……だからお前のせいじゃないって……』

 

「でも……大丈夫なら大丈夫で……その、やっぱり顔見た方が安心できるし……」

 

 私はどうしても行きたいとアピールする。

 

『いや、だから……』

 

「…………」

 

『…………早めに帰れよ?』

 

「……! 八幡…………」

 

 結局、八幡はちょっぴり呆れたような感じで折れてくれた。

 

『駄目って言ってもどうせ勝手に来そうだし……また昨日みたいにいきなり来られてもな……』

 

 うう、行動読まれてるなぁ……。

 

『こっち着いた時、もし俺が寝てたら起こして……

 

「大丈夫! 私、鍵で入るから寝てていいよ。チェーンだけ外しておいてくれれば……」

 

『それは今もかけてないが……。あ、もしかしてお前、鍵使ってみたいだけだろ』

 

「そ……、えーと? あはは、そうかも」

 

『ったく……』

 

「まぁまぁ……ね、何か必要なものとかある?」

 

『……じゃあ、後で払うから500のスポーツドリンク2、3本頼むわ。あとは特には……思いつかん』

 

「そう? あ、なら……プリンとヨーグルト、どっちが良い?」

 

『…………プリン』

 

「ふふ、じゃあ今から買い物して行くから……多分遅くても2時前には着くと思う」

 

『おう、なんか……悪ぃな』

 

「全然。じゃ、後でね?」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 八幡の引っ越しの日にも買い物をしたスーパーで買い物を済ませる。休日ということもあり、お昼すぎの時間帯にしてはけっこう混雑していた。

 頼まれたスポーツドリンクと……プリンはオーソドックスなものと、牛乳プリン・マンゴープリンみたいな変化球も合わせて五つも買ってしまった。だってどれも美味しそうだったんだもん。

 まあ、私も食べるし(居座る気満々)残った分は冷蔵庫に入れておいて後で食べてもらえばいいよね。

 

 程なくたどり着いた八幡のアパート。寝ているかもしれないのを起こしちゃいけないから――というのを言い訳にして、私はチャイムも鳴らさずそっとドアノブを捻ってみる。

 やっぱり回らない。私はちょっぴりドキドキした気持ちでポケットから鍵が3つつけられたキーホルダーを取り出した。

 

 私の家の鍵、ロッカーの鍵、そして八幡のアパートの鍵。

 

 数秒、鍵を見つめる。ふふ、自分でも頬が緩んでいるのが――要するににやけているのが分かった。

 まあ……さっき電話で八幡に言われたとおり、私はこの鍵を使ってみたかったんだよね。だって、男の人の家に合鍵を使って入るのって……その、か、「彼女」っぽいというか……えへ。

 

 だいぶテンションがおかしくなりながら、私は鍵を差し込み、ゆっくりと回した。

 

 カチリ、と硬質な音が思っていたよりも大きく響く。

 

 もし八幡が起きてたら、今の音で気付いちゃったかな……。でも、なるべくそっと……。私は静かにドアノブを回し、そうっとドアを開ける……と、

 

 

 

 

 

「ど、泥棒っ!」

 

 誰かの強張った声が響き、正面からいきなり何か棒のようなものを振り下ろされた。

 

「きゃあっ!!」

 

 反射的に私は掠れた悲鳴を上げ、目を閉じて手で身を庇うようにして座り込む。

 

「へっ!?」

 

 

 

 殴られた!……と思ったんだけど……あれ? 覚悟していた衝撃が来ない…………?

 

 恐る恐る目を開くと、私に叩きつけられようとしていた棒のようなもの――ビニール傘だった――は、私の額に当たる直前、数センチ手前で急停止していた。

 

「留美ちゃん!?」

「小町さん!?」

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

「いや~、小町びっくりしたよ~」

 

「……それはこっちですよぉ……」

 

 

 要するに……小町さんは八幡の風邪とか関係なく、普通に休日暇だったからという理由で八幡の所に顔を見に来たらしい。

 で、来てみたら八幡が風邪引いて寝込んでいたので、それじゃあ、お昼を食べてない八幡のためにお粥でも作ろうかと思い、すぐ近くのコンビニまでちょっと買い物に出ようとしてたんだって。

 

 そしたら靴を履こうとしていた彼女の目の前で――チャイムも鳴らさず……しかも勝手に鍵を開けて、音を立てないように入ってこようとしている不審人物(私)が――。

 小町さんはそのピッキング犯人を撃退すべくとっさに武器(傘)を取り……、ということだったらしい。

 

 

「うんまあ、さっきのももちろんびっくりしたんだけど……他にも色々、ね」

 

「色々?」

 

「ええとね……その、鍵のこととか」

 

「あ……」

 

 そういえば、八幡には「誰にも言うな」みたいなこと言われてたよね。……でも、小町さんには目の前で鍵開けるとこ見られちゃったし……どうしようかな。

 それに今はそんな事より、

 

「あの……八幡の具合は……」

 

「多分大丈夫……今は少し寝てると思うよ? 小町が来た時うつらうつらしてたし。熱はさっき測って37度6分(ななどろくぶ)。朝は38度3分(はちどさんぶ)だったって言ってたから、一応薬は効いてるんだと思う」

 

「そうですか……」

 

 うん、ちょっとだけ安心。

 

「あ、じゃあ小町そこのコンビニ行ってくるから、お兄ちゃんのことよろしくね」

 

「あ、はい」

 

「……寝顔、ちょっと可愛いから今のうちに見ておくといいよっ♪」

 

「な……」

 

 絶句する私を尻目に、小町さんは鼻歌を歌いながらさっと出ていってしまった。

 

 八幡の寝顔……小町さんが変な言い方するからなんだかドキドキしてしまう。

私はなるべく静かに引き戸を開けて部屋に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 ベッドの上で静かな寝息をたてている八幡……。ボサボサの髪、熱のせいか少し赤らんだ頬。

 

 こうしてベッドの横に置かれた椅子に座って見下ろすと、彼はいつもより随分と幼く――私とそれほど変わらない年頃にも見える。ふふ、小町さんの言う通り可愛いなぁ……。

 

 私は手を伸ばし、八幡の額にそっと掌を当ててみる。結構熱い……。小町さんは大丈夫って言ってたけどやっぱり心配になるよ。

 

 八幡がピクッと眉を動かし、ゆっくりと目を開けた。

 

「……留美……?」

 

「あ……ごめんね、起こしちゃった?」

 

「いや……。あれ? 小町が来てたような……あれは夢……か?」

 

「大丈夫、夢じゃないよ。今ちょっとコンビニ行ってる」

 

「ん。そうか……あの薬、効くんだけどやたら眠くなっちまうんだよな……」

 

 八幡が弱々しく首を振りながら頭を掻く。

 

「それで……風邪の方はどう?」

 

「大丈夫……とは言えんかこれじゃ。 ……まあ朝よりはだいぶ良くなってきた。熱も下がってきてるし、寒気はもう無くなったな」

 

「ん、そっか」

 

 それを聞いてまた少しホッとする。今日はだいたいのお医者さん休みだし、ここに来るまではかなり心配だったんだよね。

 そうだ、ここに来るって言えば、

 

「そういえば八幡、私がお見舞いに来るって小町さんに言わなかったの? 鍵で入ろうとしたら泥棒と間違えられそうになっちゃったよ」

 

 流石に「傘で殴られる寸前だった」とは言わない。相手病人だし。

 

「あ~……すまん。なんかぼーっとしてたから……。一回寝たら……そもそも留美と電話したのが夢だったか現実だったかわかんなくなってな……」

 

 電話ではそんなに寝ぼけてる感じじゃなかったけど……熱が高い時なんてそんなものかもしれない。

 

 

「でも、そんなの電話の履歴見れば……」

 

「無い」

 

「無い? 無いって……スマホ?」

 

「おう……。寝落ちしたみたいで……気が付いたらスマホどっか行っちまった。どうせその辺に転がってるとは思うが、探すのも億劫でな……」

 

「はぁ……しょうがないなー八幡はぁ」

 

 言いながら私は八幡に電話をかけた。

 八幡のすぐ近くで聞き慣れた彼のスマホの着信音が鳴っている。 ……どこだろう? 八幡の頭の方……ここかな?

 私はベッドに手をついて、八幡の体越しにマットレスと壁の隙間を覗き込む。

 

「あ、あったよ。ちょっと待ってね」

 

 私は、よいしょっという感じに更に奥へと手を伸ばす……と、

 

「あっ……」

 

 身を乗り出しすぎてバランスを崩した私は、八幡に覆いかぶさるように倒れ込んでしまった。

 

「おわっ、と。留美、大丈夫か」

 

 衝撃はほんの僅か。八幡は私の肩を抱くようにして支えてくれた。大丈夫、どこもぶつけたりしてない――けど、この体勢……心の方が大丈夫じゃないみたい……。

 

 薄い肌掛布団越しに感じる彼の体温、微かな汗の匂い。すぐ目の前に八幡の顔。近い吐息、わずかに濡れた唇とまばらな無精髭……。

 男の人、なんだなぁ……。

 

 風邪って……誰かに感染(うつ)しちゃえば治るとか言うよね……なら…………。

 

 ふわふわと落ち着かない頭でそんな事を考える……。

 

 

「はち……まん……」

 

「おい……留……美……?」

 

 トクン、トクンと、自分の心臓の音がやけにはっきり聴こえる……。

 

 ふらふらと吸い寄せられるように八幡に躰を寄せていく私。風邪で弱っている彼は私を振り払うことも出来ずに…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「たっだいまー」

 

 小町さんの元気な声と同時に玄関のドアがバタンと開く。私と八幡はお互い飛び退くように離れた。

 

 な、何しようとしてたの私……。八幡もびっくりしてあんまり抵抗してなかったみたいだし、もし小町さんがもう少し遅かったらあのまま…………。

 残念なようなホッとしたような気持ち。

 

 とにもかくにも、私はずっとここに座ってましたとでも言うように足を揃えて椅子に座り、八幡は半身を捻って、さっき私がスマホを見つけたベッドと壁の隙間に突っ込むようにうつ伏せになった状態。

 

 そこですっと引き戸をあけて小町さんが入ってくる。

 

「お? お兄ちゃん起きたんだ……って、何やってるの……」

 

「……いや、スマホ落っことしちまってな……」

 

 八幡は言い訳みたいに言って自分でスマホを拾った……まあ嘘ではないし。

 

「ふーん」

 

 小町さんはさして興味無さそうに言い、

 

「ね、留美ちゃん。こっち手伝ってくれる?」

 

 今度は私にそう言ってニッコリと笑った。

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

「小町が作る時は分量とかてきとーなんだけどね、お出汁はこんくらいをおたま一杯のお湯で溶いて……」

 

 私が今小町さんから教わりながら作っているのは、お粥があまり好きじゃない八幡でもけっこう気に入って食べるという、「甘い梅干しのお粥」だ。

 正しくは「はちみつ漬け梅干しのお粥」らしいんだけど、比企谷家ではそれで通っているんだって。

 小町さんがコンビニで買ってきたのはこのための材料、「はちみつ南○梅四個入り」

 

「……あとは粒の大きさ次第だけど、だいたい一粒で丁度かな。種抜いて、小さくちぎってまぶすように入れて軽く混ぜる……そう、そのくらいでいいよ。

……あと、無ければ塩で良いんだけど、普通の甘くない梅干しをほんの少~し入れて塩加減を調整して……と。あとはもう一回軽く火にかけるだけ……。ね、簡単でしょ。これ、食欲無いときはさっぱりしてて良いんだよ~」

 

「あ……梅のいい香り……美味しそう」

 

「でしょー。これ、冷めてもイケるから猫舌でも大丈夫だしね」

 

 あ、なるほど八幡が気に入るわけだ。

 

 小町さんのおかげで「甘い梅粥」は無事完成。

 彼女は小さなスプーンでお粥を掬うと、フーフーと数回吹いて冷まし味見をする。

 

「んっ、いい塩梅っ。留美ちゃんって手際も良いし、料理のセンスあるよね~」

 

「小町さんの言うとおりにやっただけだよ?」

 

 褒められるのは嬉しいけど、大げさじゃないかな、そんな風に思って聞いていると、小町さんがこぼすように言う。

 

「それがねー……隣で同じように教えても、人間が食べられないあまり美味しくないモノを作ってしまう人も中には居るわけですよ……」

 

 言って小町さんはがっくりと肩を落とす。

 そ、そうなんだ……。誰の事かは敢えて考えない事にしよう。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、小町洗濯物やっつけちゃうから、留美ちゃんはこっちお願いね」

 

 小町さんにそう言われ、私は出来上がったお粥を小鉢によそう。ふわん、と梅と蜂蜜、お出しの甘い香り。

 

「食べ終わったら薬飲むように言ってね」

 

「はーい」

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「八幡、具合どう? 少し食べてお薬……ぷ」

 

「なに笑ってんだよ」

 

 なにか文句でも言いたげに睨む八幡。でもちっとも迫力がない。彼のおでこには、さっき小町さんがコンビニで梅と一緒に買ってきた冷えピタが貼られていて、さっきより余計可愛く見える。

 八幡は最初抵抗したものの、結局小町さんには逆らえず最後はおとなしくおでこを差し出したんだ。

 

 

 

 ミニテーブルをベッドサイドに寄せ、梅粥とお吸い物、水と薬を用意して私は先程の椅子に座った。

 さっき変な雰囲気になってしまったせいで、二人だけで面と向かうと気恥ずかしい……というかなんだか落ち着かない。

 私は照れ隠しと……それから悪戯心で、

 

「八幡ちゃん、ごはんでちゅよ~」

 

 そう言ってわざとらしくにいっと笑う。

 

「留美お前な……」

 

 八幡が抗議の声を上げるのを微笑って流し、私は手に持った小鉢から木のスプーンで梅粥を一口掬い、軽くフーフーと吹いてから八幡の口元へと差し出した。

 

「はい、あーん」

 

「ちょ……1人て食えるっての」

 

「あーん」

 

「だから……」

 

「あーん」

 

「…………」

 

「あーん」

 

 私がやめようとしないのを見て彼は抵抗するのを諦め、やれやれという顔であーんと口を開ける。

 ひょいとスプーンを差し入れるとぱくんと口を閉じ……ちょっとだけ甘酸っぱそうに頬をすぼめ、少し味わうようにモグモグ。それから満足そうにゴクンと飲み込んだ。

 良かった、どうやらお気に召したみたい。

 

「塩加減とかどう? 小町さんに教えてもらいながら作ったんだけど……」

 

「おお、これ留実が作ってくれたのか。凄いな、小町のと変わらんぞ」

 

 良かった。でも八幡の「凄い」の基準は小町さんなんだなーと思ったらなんだか笑ってしまった。

 

 あーん、ひょい、ぱくん、モグモグ、ゴクン。

 あーん、ひょい、ぱくん、モグモグ、ゴクン。

 あーん、ひょい、ぱくん…………。

 

 ふふ、動物に餌付けしてるみたいでなんだか楽しくなってきちゃう。結局彼は小鉢一杯分のお粥をきれいに食べてくれた。

 

「もう少しだけならお代わりあるけど……」

 

「いや、ずっと寝てたからそんなには食えん」

 

「ん、あとはお薬だね……」

 

「その、ごちそうさん。旨かった」

 

「うん」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 デザート、と言うほどのものでも無いけど、小町さんと三人で私が買ってきたプリンを食べる。ちなみに八幡はやっぱりと言うか……一番普通の甘いプリンを選んで美味しそうに食べてくれた。

 

 それから八幡に薬を飲んでもらい、その後小町さんと私は、あまり(うるさ)くならないようにと気をつけながらお互いの近況などの雑談をして過ごす。八幡はぼんやりしながら私たちの話を聞くともなしに訊いていたようだった。

 

 最初は私たちの話にツッコミを入れたりしていた八幡だけど、気が付くと静かに寝息を立てていた……またスマホを手に持ったまま。

 もう、しょうがないなぁ。

 私は彼を起こさないように気を付けながら彼の手からスマホをそっと外すようにして、八幡の頭の上、ベッドに作り付けの棚の上へと乗せる。小町さんが肌掛布団を八幡の肩のところまで引っ張り上げた。

 

「ん……もう食えねーよ……」

 

 八幡の寝言……。ふふ、どんな夢を見てるんだろう。

 私は小町さんと顔を見合わせて、二人でくすくす笑ってしまった。

 

 

 

 その後小町さんは、かけうどんのスープを作り、麺はさっと茹でて冷まし、器に入れてラップを掛けて冷蔵庫の目立つ所に入れた。

 夜八幡が起きた時、ちょっと温めればすぐ食べられるようにと考えたのだろう。

 

「じゃあ、家のこともあるからそろそろ小町は帰るけど……留美ちゃんは?」

 

「私は……もう少し居たいです」

 

「んん……それじゃ、もう少しお兄ちゃんのことよろしくね。うどんの事とかは一応メモ書いてここに置いとくから、お兄ちゃん起きなくても適当な時間に帰るんだよ?」

 

「はい。明日は学校ですし……」

 

「うんうん。あと……『鍵』よろしくね!」

 

 小町さんがフフンと笑う。

 

「あの、小町さん……。鍵のことなんですけど、その……」

 

「あはは、いーよいーよ留美ちゃん。その話は、お兄ちゃんが元気になってから(いじ)り倒して聞く予定だから」

 

 ほっとしたような余計心配なような…………。

 

 そんな感じに小町さんは帰って行った。

 

 

 

 

 八幡の寝顔を見つめる。静かな呼吸、まだほんのりと赤い頬。二人きりの静かな部屋。

 

 小町さんも帰っちゃったし、八幡も寝てるし、なんだか手持ち無沙汰になっちゃった。もう帰ろうかな……。

 でも、もし八幡が目を覚ました時に小町さんも私もいなくなってたら――きっと寂しいよね…………うん、八幡が目を覚ますまではここにいよう。それでちゃんと「また来るね」って言ってから……。

 

 それにしても八幡よく寝てるなぁ。眠くなり易い薬、かぁ……。

ふわぁ、八幡の顔見てたら、なんだか私まで眠くなってきちゃった。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 目の前のお皿に色とりどりのショートケーキが3つ。

 

 イチゴのミルフィーユ、抹茶のシフォン、チョコレートモンブラン。

どれも美味しくて、私は行儀悪く次から次へとそれを平らげていく。

 

「さあ、お次はこちらをどうぞ!」

 

 食べ終えるとすぐに次のケーキがお皿に追加される。今度はバナナのミルクレープと紅茶のティラミスかな。

 本当にみんな美味しいけど、さすがにお腹いっぱいになってきた。これ食べたら終わりにしよう……。

 そう思ったのに、

 

「ほら留美、次だ」

 

 何故かパティシエ姿の八幡がそう言って、前のケーキがまだ残っている私のお皿に次のケーキをひょいと乗せてしまう。

 しかもこれ……梅干しのショートケーキ!? 見た目はまるっきり苺のショートケーキ。ただしトップには苺の代わりに大きな梅干しがデーンと乗っかっている。

 

「ちょ……お腹いっぱいだよ」

 

 そう言って私はお皿を置いてその場を逃げ出す。

 

「おい留美…………」

 

「留美…………」

 

「留美……」

 

 相当遠くまで逃げたはずなのに、私を呼ぶ八幡の声だけがどこまでも追いかけてくる。

 

「留美っ」

 

「だから、もう食べられないよー」

 

「……留美いい加減起きろ」

 

「…………ふぇ……」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 気がつくと私は八幡のベッドに突っ伏してすっかり眠ってしまっていたようだ。

 

「なにが食べられないんだ?」

 

 寝言聞かれたっ!? 思わずガバっと起き上がると、ベッドの上で半身を起こした八幡がくっくっと愉快そうに笑っている。

 

「っ~~……」

 

 は、恥ずかしいとこ見られちゃった…………。

 

(もだ)えてるとこ悪いが……」

 

「悶えてないもん!」

 

「あー……まあいい。とにかく時間見ろ」

 

 言われて私はベッドの棚に置かれている目覚まし時計の方に振り向く。

 

 07:10

 

「え? 七時過ぎ!?」

 

 窓を見ればカーテンも引かれていないのに、部屋の中はすっかり暗くなってしまっている。 ……私、どれだけ寝てたのよ……。

 

「こんな時間! 帰らなきゃ。あ、その前に小町さんのうどん温めて……」

 

「うどんはいいから。もうだいぶ楽になったし自分でできる」

 

「熱は……」

 

「今測って37度(ななど)ジャスト」

 

 そっか。治ってきてるみたいで一安心。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 私が帰り支度をしていると、

 

「しかしけっこう遅くなっちまったな……。着替えて駅まで送るわ」

 

 八幡がとんでもないことを言い出す。

 

「何言ってるの八幡? 駄目に決まってるでしょ、大人しく寝てて」

 

「いや、流石にもう暗いし、それに熱もだいたい下がったしな」

 

「それは薬が効いてるの! 今無理したら風邪ぶり返しちゃう」

 

「けどな……」

 

「駅までそんなに遠いわけじゃないし、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。もう子供じゃないんだから」

 

「……子供じゃないから心配なんだろーが」

 

 八幡が小声でボソリと言う。

 

「え……」

 

 それって……あぅ、その……。

 

「すまん、変なこと言った……。まあ何だ、留美も少し自覚を持った方が良いっつーかだな……」

 

「でも流石に今日送ってもらうのはちょっと……。あ、そうだスマホ!」

 

「スマホ?」

 

「うん。ね、八幡。今から八幡のスマホに私のと同じアプリ入れてもらっていいかな」

 

「別に構わんけど……」

 

 そう言って八幡は私の手に自分のスマホをひょいと乗せる。

 

「え! 私がやるの!?」

 

 そんな簡単に他人にいじらせるなんて……。

 

「ロックは今外した。分からんことあったら訊いてくれ」

 

 もう……。私は彼のスマホを操作し、とあるアプリをインストールする。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「なんだこの『る』って?」

 

 八幡のスマホに新しく追加されたアイコンは水色の「る」という平仮名がパステルピンクで縁取りされているという図柄。

 

「オリジナルアイコン。可愛いでしょ」

 

「いやそういう意味じゃなく……」

 

「えーとね……とりあえず起動してみて」

 

 八幡はベッドの端、私は椅子をベッドギリギリまで寄せ、肩を寄せ合うようにして二人で八幡のスマホの画面を覗き込む。

 

 黄色いシークバーが一瞬だけ表示され、すぐにアプリが起動した。

 

「これは……地図?」

 

 画面上にはこの辺りの割と詳細な地図が表示され、青い丸と赤の人形が交互にゆっくりと、まるで点滅するように表示されている。

 

「えーとね、青が現在地で、赤いのが私。薄い点線みたいなのが足跡」

 

「おい、これって……」

 

「お父さんが『いまココアプリ』っていうのに私のスマホを登録してて……パスコードを入れると私を見守る事が出来るんだって。たしか5台まで」

 

「勝手に俺を登録して良いのかよ……。それに、駅に送る話じゃ無かったのか?」

 

「お母さんは八幡なら良いって。だから八幡はこれで私のこと見守っててよ。駅まで――家に着くまででもこれから毎日ずっとでももちろん良いけど……」

 

「いやそれ、色々とまずいだろ……」

 

「でも、八幡こういうの好きなんじゃないの? 去年八幡の部屋で読んだ小説に、恋人の位置情報とか心電図とかをずっと見守ってる――みたいなヒロインがいたでしょ。八幡、部屋にそのヒロインのフィギュア飾ってたしさ……あ、心電図が無いとダメとか?」

 

「俺、どんな特殊性癖なんだよ! リアルタイムで心電図見守って喜んでるとか普通に怖いだろうが」

 

「そう?」

 

「そう! それにフィギュアはゲーセンで取ったやつだし、一体だけじゃなくちゃんと黒の剣士さんと並べて飾ってあるから!」

 

「それ、わざわざ強調するようなことなの?」

 

「いやそう言われると…………でも何故か言わなきゃいけなようなプレッシャーがどこからともなく――『閃光さんのパートナーは黒の剣士さんです(これ重要)』――みたいな感じ、か?」

 

「…………」

 

 

 

 

 

「それはともかく、だ。大体だな、ずっと居場所を見られてるのって落ち着かないし嫌だろ?」

 

「う~ん? 私は……八幡に見ててほしいかも?」

 

「……っ、何いってんのお前……」

 

 今、八幡照れた? それとも引いたかな……? 

 

「あ、お前じゃなくて留……」

 

「それはもう良いだろ……」

 

「とにかく、今日はこれで見ててくれれば良いから、大人しく休んでて。今からこっち出るってお母さんに電話もするし、うち着いたら八幡にも電話するから……でも寝てるかな?起こしたら迷惑だよね……」

 

「今さら別に迷惑とか思わねえよ。連絡無いほうが心配になる。……面倒ならメールでも構わんし」

 

「電話、する。 ……だって……声聞きたいし」

 

「声って……今話してんだろうが」

 

「……でも……それでも、だよ?」

 

「…………おう……」

 

 ふふ、なんだか変な会話。照れくさいというか……心の奥がムズムズする感じ?

 この雰囲気も名残惜しいけど、いつまでもこうしてて、ほんとに遅くなっちゃうとまずいしなぁ……。

 

「……それじゃ、帰るね」

 

 私は未練を断ち切るように立ち上がり、八幡の手の指をそっと握る。

 

「ん……」

 

 そう返事をして八幡は立ち上がろうとする。多分ドアまででも送ってくれるつもりなんだろう。

 私はそんな彼を制し、

 

「このままでいいよ、そのまま寝てて。 ちゃんと鍵かけて帰るから」

 

 そう私は笑って言ったんだけど……。

 

「そう……か」

 

 信じられないことに、八幡は少し寂しそうな顔を()()()くれた。私の指先を握った彼の手に、ほんの一瞬だけ「離れがたい」とでも言うかのようにキュッと力がこもる。

 

「気をつけて帰れよ」

 

「うん、おやすみなさい。あと、お大事に……だね」

 

 私たちは十秒ぐらいかけて、ゆっくりとお互いの指を解いた。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 そして私は八幡のアパートを後にする。

 

 別れ際に見せてくれた八幡のあの顔……。

 

 八幡が自分のことを「ぼっち」だとか言いながら実はけっこう寂しがりやだったり、普段の態度とは裏腹に人とのつながりを大事に思ってたりすることは……この一年以上近くにいてよく知ってる。

 でも八幡はそういう部分をなかなか表に出そうとしないんだ。だから私たちは、彼の言葉や態度の端々から透き見えて来るもので八幡の心を推し量るしかない。

 

 だけど……風邪でまだ少し熱があるせいかな? それとも薬でぼうっとしてるせいかな? 八幡は、「私が帰るのは寂しい」という態度を全く隠そうとしてなかった。

 

 まるで今から留守番をさせられる犬みたいに……恋人とのデートの別れ際みたいに。

 

 それって……それって……。

 

 

 

 どこか夢見心地で駅までの道を歩く。実際問題として、深夜ならともかくこの時間なら人通りも多いし八幡が心配するほどのことは無いと思う。

 

 それでも、いつもなら八幡がとなりを歩いて送ってくれる道を一人で歩くのはやっぱり寂しい。寂しい……けど、今、スマホのアプリで一生懸命見守ってくれてるのかな、とかそんな姿を想像したら勝手に頬が緩んでくる。

 

 声を上げて笑いそうになるのを何とかこらえて顔を上げると、仕事帰りらしい二十代半ばぐらいのお姉さんと目が合ってしまう。う……一人でニヤニヤしながら歩いてるのをばっちり見られてしまった。恥ずかしいなぁ、私。

 でも今なら、そんな恥ずかしくって格好悪い自分も許せるような気分。なんの根拠もない無敵感が私を包んでいる。

 

 

 昨日雲を眺めた橋に差し掛かると、前方に駅の明かりが見えてきた。ふと思い付いて空を仰ぐ。 ……位置情報の人工衛星ってどのへんにあるのかな……ね、八幡見てる? 私もうすぐ駅に着くよ。

 

 

 

 家に着いたら……八幡と電話で何を話そうかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 

 週明け。放課後の教室。

 

 今ここにいるのは、藤野さん、佐川さん、津久井さん、そして私の四人だけ。

 津久井さんに「今日ちょっと残って欲しい」と頼まれたんだけど、どうやら話があるのは、私の正面に立ってさっきから一言も話さない藤野さんのようだった。

 

 先週の「告白」の裏事情みたいなものを聞いてしまっている私としては……彼女とただ向き合っているというのはなんとなく気まずい。

 

 

 藤野さん……?

 

 佐川さんと津久井さんの二人は一歩引いた場所で心配そうに見てるけど……どうやら口出しする様子はないようだ。

 やがて覚悟を決めたように藤野さんが口を開く。

 

「鶴見さん、ごめんなさい!」

 

 彼女は一気にそう言って、私に頭を下げた。

 

「え、あの……。謝ることなんて何も……」

 

 だって彼女は辻堂くんの告白の仲介をしただけで……。彼は彼女の想い人。むしろ彼女のほうがよっぽど苦しい思いをしたはずなのに……。

 

「ううん……私、知ってたの。鶴見さんに好きな人が居るって事。佐川さんがね、鶴見さんは小学校の頃からその人一筋みたいだよって」

 

 私ははっとして佐川さんを見る。彼女はなんとも言えない表情で私に両手を合わせるので、私は微笑って首を左右に小さく振り、気にしてないよとサインを送る。

 

 そうか、佐川さんはあのクリスマスイベントのとき一緒だったし……なら、私と八幡の事は知ってるよね……。

 絢香の話だと、実はあの時演劇班の小学生みんなで私の事応援?してくれてたらしいし。

 

 藤野さんは一度ぎゅっと唇を引き結んで下を向き……静かに言葉を続ける。

 

「だからあいつが振られるのわかってて……わかってたから応援するって言ったの。

 でもほんとに告白する事になったら……上手くいっちゃったらどうしようって心配になって――」

 

 彼女の声が止まる。

 藤野さんは、言葉を探すかのように一度宙を見つめ、それから、

 

「あの時……鶴見さんの顔見てあいつが……冬也が振られたのわかって、私ホッとしたの。……安心したの、嬉しかったの。

――チャンスかも、なんて思っちゃったの」

 

「…………」

 

「最低……だよね」

 

 そう……かなぁ? 言われてしまえば確かにそうかもしれない。

 

 でも――藤野さんはそんな風に言ったけど……私はなんだかほっとしてしまっていた。

だって……自分の好きな人の恋を応援するなんて私には出来ない。そんなの想像だってしたくない。

 自分の気持を抑えてそれが出来た藤野さんはなんて凄いんだろう、私はなんてちっぽけなんだろう――そんな風に感じていたから。

 

 だから――同じなんだってちょっと安心しちゃったんだ。

 

 

 断られるのがわかってる告白を辻堂くんに勧めた藤野さん。

 

 結衣さんや雪乃さんとの時間を邪魔するみたいに八幡のアパートに押しかけた私。

 

 

「私も……一緒だよ……」

 

「一緒? 鶴見さんが?」

 

 藤野さんは驚いたように顔を上げ、なんだかキョトンとした顔をしている。

 

 うん、一緒。きっと私たちは一生懸命に恋していて、散々悩んで、時にはずるだってするんだ。

 よく「恋する女の子は輝いて見える」とか言うけど――案外その内側では暴風雨が吹き荒れていたりするのかも。

 

 

 

 私もちゃんと言わなきゃね。私も――ずるいんだよって。

 まだちょっとだけ怖いけど――彼女たちならきっと大丈夫。

 

 

 

「ね、藤野さん、聞いてくれる? ……それに佐川さん、津久井さんも」

 

 そうして私は彼女たちに話す。今まで勝手に壁を感じて言うのを躊躇っていたこと――八幡の事を。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「はぁ……やっぱりあの比企谷さんか~。あの頃からって……鶴見ちゃんも一途だねぇ」

 

 佐川さんは何故か嬉しそうに言う。

 

「でもさ……ライバル? に鶴見さんより綺麗な人が何人もいるって、ちょっと信じられないんだけど……」

 

「ああ、それは私も思った。……だって鶴見さんよりすごい美人ばっかりって……」

 

 津久井さんが首を傾げながら洩らした言葉に、藤野さんが頷きながら同意する。

 

 私が何と返したものかと言葉に詰まっていると、

 

「いやー、それが結構マジなんだよねぇ……。まあ? 今の鶴見ちゃんなら負けて無いと思うけど……。あのクリスマスの時は、確かに比企谷さんの周りにいるの、すっごく綺麗で可愛い人ばっかりだった。

 特に同じ部活だって話の二人が比企谷さんと仲良さそうにしててさー、……あ! そういえばあの時鶴見ちゃんがめちゃ機嫌悪かったの思い出した」

 

 佐川さんは私をからかうようにそう言って悪戯っぽく笑う。

 

 ちょっ、変なこと思い出さないでよ……。

 

 ふふ。でもあのクリスマスイベントの時はまだ佐川さんとこんなに仲良く話をすることはなかった。

 小学生の時は、学校は同じでも違うクラスだし、顔見知り程度の関係でしかなかった彼女……。それがいつの間にか軽口を言い合える友達になってる。

 

 そして私は今日また一歩だけ進む事ができた。

 

――私が、八幡の事を絢香や泉ちゃん以外の人にもに話せるようになる日が来るなんて……。

 

 もちろん全てを話せた訳じゃない。例えばアパートの合鍵を持ってる事とか……まだ話せないなって思ってしまう事はたくさんある。

 いつかは……そんなことも打ち明けられるようになる日が来るのかな……。

 

 でも……うん、焦らなくていいって解ったし。だってこれから――たとえ立ち止まったとしてもまた私は進む事ができる。

 それは今回の事だけじゃない。進路の事だって八幡との事だって――きっと一歩ずつでいいんだ。

 

 八幡を好きだって自覚したばかりの頃は、彼が私を好きになってくれる未来なんてとても考えられなかった。

 もちろん夢は見てたよ。八幡と恋人になったら、結婚したら……そんな事を勝手に想像してドギマギして……そんな子供っぽい……たわいもない夢を。

 

 

 

 でも……昨日、お見舞いの時の八幡……。

 

 もしかしたら私は……少しは期待してもいいのかな、八幡の気持ち。私と八幡がずっと一緒に居られる未来があるかもって、本気で期待しても……。

 

 教室の窓から見える晴れた空。校庭の木々は風に揺れ、雲の流れも早い。私が外を眺めながら「ふふっ」と笑ったら、佐川さんたち三人は不思議そうに顔を見合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 




 
  
相変わらずゆっくり更新で申し訳ありません。呆れずに、あるいは呆れながらでもお付き合いくださる読者の皆さん本当にありがとうございます。
お気に入り・感想・評価など付けていただいている方には重ねて感謝を。

「未来に迷う」は今回で終了です。大きな山の無い話でしたが、留美の意識の変化という意味ではけっこうな変換点だったかもしれません。

次回は久々の幕間を予定しています。一回でまとめるのは難しいかもしれませんので、その場合は分割ですね……。


ご意見・ご感想ぜひお寄せ下さい。一言感想、過去話の感想なども大歓迎です。


8月2日 誤字、変換間違い修正。clpさん報告ありがとうございます。また、林間学校編の誤字も報告していただきましたので複数話まとめて修正しました。重ねて感謝です。






p.s.米農家コーナー(何だそれはw)作品には関係ないのでスルー推奨。

今年は暑さのせいか稲の成熟が早く、現在稲刈りに向けての準備を始めています。
この時期カメムシや病害対策の薬を散布するのですが、その作業中……軽度の熱中症になってしまいました。

うちは無人ヘリコプターを頼まず、動力噴霧機という、最長でノズルの先端から30~40メートル先まで水を噴射できる機械で薬を撒いています。
で、その作業の何回目か。その朝から気温30度という日に、上下ヤッケ、ゴーグル、農薬用マスクのフル装備で、田んぼの畦道を50メートルほどホースを引っ張りながら散布、というのを十数回繰り返していたら、急にフラフラして立っているのも辛くなり、両手がしびれて握力が無くなるという状態に。慌ててトラックに逃げ込み冷房をガンガン効かせてスポーツドリンクをがぶ飲みして暫く休んだら落ち着いたのですが……あれはけっこう急に来るのでやばいですね。

喉が渇く前に細かく水分補給が有効だそうですから、同志の皆さんは是非気を付けて下さいね。

お前が気を付けろ、そもそもそんな日に作業するなと言われてそうですが……。
この薬は穂が出てから成熟するまでの間を狙ってかけないと効果が薄い上に、私自身兼業農家なので普段の仕事の休みが取れる日に、さらに雨が降ると不可……となるとなかなか難しいところもあるんですよね~……頑張ります。


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