『お疲れ様です。何事も無く、自宅へ戻ることが出来たでしょうか? 私たちも、学園艦へ帰還しました。
先ほどは、本当にありがとうございました。無理をしてでも会いに来てくれたこと、花束をくださったこと、誓い合ってくれたこと――思い出すだけでも、熱い気持ちになります。
こんな関係になるなんて、最初は思いもしませんでした。少し食べ歩きをして、そして縁が切れる――そういうものだと、考えていました。
ですが今となっては、あなた無しの人生なんて考えられません。私に、『幸せになって欲しい』と言ってくださる、あなたと離れ離れになるなんて嫌です。
良いことは重なるようで、聖グロのみんなが『応援します!』と言ってくださっています。とても嬉しいのですが、絶対遊んでますよね。
ですが、後ろ盾が出来たことにほっとしています。いつでも、聖グロに遊びに来てくださいね。……秘密の関係が消えてしまって、少し寂しいですけれど。
あと、突然で申し訳ありませんが、親に事情を話しても良いでしょうか? 将来のことを考えると、早く説明した方が良いと思いまして。
返事次第で、すぐにでも交渉してみます。
次に会う時は、冬休みの期間中になるでしょう。とてもとても楽しみです、本土でも食べ歩きに付き合わせてください。
特別な予定を組む必要はありません。あなたに会って、色々なものを食べられれば、私は幸せです』
茶山は、『是非、話し合ってほしい』と返信する。誰かと誰かが交際をする以上、やはり親の存在は避けては通れない。
好意的ならそれで良し、駄目なら良い男になるまでだ。ダージリンと両想いであるのに、何を迷う必要がある。
不信感を抱かれることなく、ダージリンの両親に認められたい。快く祝福されたい――家族とは、未来永劫仲良くしていきたいと、昔から考えている。
返信を終える。学習机の上に置いておいたダージリンティーを、一口飲む。
熱い。
カップをソーサーの上に置き、何となく息を吐く。ひと段落ついたからか、何だか心地よく疲れた。
本当、色々なことがあった気がする。
紅茶を飲み終え、台所でカップとポットを洗浄する。今となっては、これら食器も人生の仲間になったものだ。
当初、親からは「紅茶なんて珍しい、何かあった?」と聞かれたものだが、何だかこっ恥ずかしくなって「思い付きでね」とだけ返答したものだ――今となっては、「察して」ニヤつかれることもある。昔から、親に隠し事を通せたことはない。
食器を洗い終えると同時に、ポケットに入れておいた携帯が震える。1ループでバイブレーションが停止したから、メールだろう。
携帯を引き抜き、画面に表示されている「新着メール:ダージリン」を指でスライドさせる。
『たった今、両親と話し終えてきました。まず、母は『いい人と会えて良かったわね』と喜んでくれました。……問題は父の方で、シンパシーを覚えたのでしょう。猛烈に会いたがっています。
どんな顔をしているのか、どんな雰囲気をまとっているのか、何が趣味なのか――是非、『仲間』と対面したいのだそうです。
私としても、家族としても、こちらへお邪魔することは全く問題ありません。歓迎します。
――よろしければ、冬休み中に訪問してみませんか? 確かに家は大きいかもしれませんが、緊張する必要は全くありません。こちら側でおもてなしさせていただきます。
予定に組み込んでいただける際は、そちら側でしばらく食べ歩きを。数日が経ったらこちら側で食べ歩きを――でしょうか。私としては、あなたがお傍にいていただけるのなら、どこでも構いません。
食べ歩きをしてみるか、みたいな感覚で決めてください。
あなたのダージリンより』
―――
ダージリンと道を歩んで112日目。バイトに一区切りがついたかと思えば、街並みもニュースも空気も主食も、今となってはすっかりクリスマス一色だった。
寒かった本土も、今となっては凍えそうなくらい冷たい。雪も淡々と降ってきて、最初は「おっ、降ってきたな」と珍しがるものの、僅か数歩でそれも日常となる。
冬となれば、夕飯も温かいものが中心になる。テーブルを囲んで鍋をつつき、父や母と雑談をしながら、テレビ番組を何となしに眺める――こんな流れを、数年間繰り返してきた。
今年もぼんやりと新年を迎えるつもりだったが、今回は家族全員の表情がまるで違う。茶山は常に携帯を装備しているし、母は「で、いつ?」と微笑みながら質問する。父ときたら、豚肉を食いながら「部屋片づけとけよ」とか、余計なことを口にするのだ。
はいはいといい加減に返事をしながら、茶山は湯気だった豆腐を容器に入れる。タレで多少冷やしながら、豆腐を箸でつまんで口の中へ。
熱い。
この味を噛み締めるたびに、「鍋食ってるんだなあ」と実感する。この無遠慮な熱さが、茶山は好きだった。
『今はデート中ですか?』
『はい、そうなんですよぉ』
テレビの向こう側から、全てを愛しているような笑顔がプレゼントされる。前までは「へえ」で流していたのだが、今はもう他人事ではない。
父も母もインタビューに中てられたらしく、
「で、いつ来るの? 彼女さんは」
「だーから知らないって。今ごろは冬休みになったばっかりなんじゃないの?」
「となると、新年を過ぎた頃あたりか? 写真でもいいから見せろ」
「まあいいけどさ、そんなに顔が見たい?」
「見たい」
「見たい」
そりゃそうかと、鍋から白菜を捕まえる。今はやる気のない面構えをしているが、内心は携帯に対して過剰な警戒心を抱いている。
当たり前だ。だって、あと少しでダージリンと再会出来るんだぞ――
しかし、求めてばかりではロクな目には遭わない。それを知っている大学一年生は、平常心を装って白菜を噛み砕いていく。ダシが口の中にはじけ飛ぶ。
その時、チャイムが鳴った。父が「こんな時間に珍しいな」という顔をして、母は「はいはい」と素早く立ち上がり、受話器を手に取る。
「どちら様ですか? ……あなたのお友達みたいよ? 女性みたいだけど」
「……は?」
本能そのものの声が、口から漏れた。母も心当たりがないらしく、首をかしげたが――次第に「ははーん」と口元を曲げる。
「……母さん」
「何」
「とりあえず、対応してくれない?」
はいはいと、母が超嬉しそうに玄関へ向かう。いやまさか、そんな馬鹿な、いやしかし。
メールを確認するものの、『今日飲んだ紅茶は――』で、話題がストップしている。この情報を信じるのなら、ダージリンは海の向こう側の学園艦で紅茶を淹れているはずだ。
玄関の戸が開く、母が「どちらさまですか?」と声をかける。そして――
「今晩は、夜分遅くに申し訳ありません。私、茶山さんとお付き合いをさせていただいている、ダージリンという者です」
父が、「マジか!?」と、玄関へ視線を向ける。母ときたら「あら、あなたが! どうぞどうぞ!」と、子供のように喜んだ。
めちゃくちゃ恥ずかしくなって、玄関でお出迎えなど出来るはずも無かった。
「で」
とっくの昔に、ダージリンは鍋の輪に加わっていて、
「どうしました? 茶山さん。手が止まっていますわよ」
いつの間にか、ダージリンの分の食器が用意されていて、
「いや、なんで君がここにいるの」
「それはもちろん、あなたに会いたかったからですわ」
当然のように、茶山の隣に座っている。
一方の茶山は、逃避するようにうつむいていた。
「あらあらあら、いい感じじゃない」
「うるさいよもう」
「お母様に、そんなことを言ってはいけませんわ」
父が、全くだと首を振るい、
「こんな上品な子と付き合っているなんて……お前、どう会った?」
ニタニタと父が笑う、実に迷惑だ。スポンサーにしたのは間違いだったのかもしれない。
「茶山さんとは聖グロリアーナ女学院学園艦で知り合いまして、彼は食べ歩きの最中でしたわ」
聖グロという単語を耳にし、父も母も「えっ」と声を出した。
「お前……聖グロといったらお嬢様学校じゃないか、ええ?」
「うん、まあ、そうだね」
「あんたみたいなのが、どうやってこの人と釣り合ったの?」
「え? まあ……偶然会ったのをきっかけに、色々食べたりおしゃべりしただけだよ」
父が、未だ信じられんという顔を浮かばせながら、
「えーっと……ダージリンさん、でしたっけ?」
「はい」
「その、本当に息子と、付き合っているんですか?」
失礼なおっさんだなと思ったが、よく考えなくともおかしな組み合わせだとは思う。
茶山はスポーツマンでも、秀才でも、金持ちでもない。食うことが好きなだけの、普通の大学生だ――それに対し、ダージリンは正真正銘のお嬢様だ。それも、戦車隊隊長という輝かしい実績つき。
誰が見ても、嘘くさいカップルだと思う。親の目だからこそ、かえって疑わしく思うのは仕方がないことだ。
――しかし。
「はい、茶山さんとは正式に交際させていただいています。将来は、結婚も想定していまして……」
そこで、ダージリンが頬を赤らめる。乙女の顔を前にして、父が「おお……」と声を漏らした。
「あなた」
「すまん」
「……そう、そうですか。うちの息子のことを、そこまで」
ダージリンが、迷うことなく「はい」と頷いた。
「茶山さんは、私に色々なものを教えてくれました。食事の楽しみ、愛される喜び、祈られる幸福さを」
父が「へええ……」と、感嘆の声を漏らし、
「そうですか。それは、良かった」
父が安堵する。ここでようやく、鍋の中を箸でつつき始めた。
「まあ、こんな息子ですが――どうか、仲良くしてやってください」
「はい」
ダージリンが笑顔になる。母も嬉しそうに顔を明るくし、
「さあ、遠慮なく食べて、ダージリンさん」
「ありがとうございます。では、いただきます」
父は豚肉をつまみ、母は白菜を回収する。ダージリンはしいたけを取り上げ――
「ダージリン」
「え、なんです?」
「えと……今日ここに来るっていう、メールは……」
目的自体は達成出来たから、別にあらぬ感情を抱いたりはしていない。ただ、疑問を解消したかっただけだ。
「それは……この前の、仕返しですわ」
「仕返し?」
ただならぬ単語を耳にし、父の目がダージリンに移る。
「黒森峰との練習試合の際、あなたときたら黙って会いに来たでしょう? しかも、花束持参で」
母が「へー?」と、実に興味津々になる。
「あ、お父様、お母様、失礼しました。私、戦車道をたしなんでいますの」
豚肉を食いながら、父は「ふむ」と頷く。
「それで――茶山さんったら、自分は王子様だから、お姫様に会いに行くのは当然だー、とか言って。心臓に悪いサプライズでしたわ」
うわあ言われた。
またしても茶山はうつむき、箸を持ったままの手で額を支える。
「お前……あ! もしかして、それを言うために金を借りたのか?」
「……さあね」
「だいたいは当たっていると思います」
さらっと。
「……嬉しかったですわ。やはり、私には茶山さんしかいません」
ダージリンが、手のひらで頬を抑える。その顔は、少しだけ赤い。
一方、両親ときたら「もっと聞かせて」と目をきらきらさせている。茶山の心拍数もひと際輝いていた。
「その後、茶山さんは、黒森峰に勝った私の事を、抱きしめてくれました」
きゃ―っ。
母が黄色い声を出し、父が「マジか? お前そんなことやったのか? 本当か?」と、背中をバシバシ叩いてくる。茶山はあくまで沈黙したままだが、今の状況からすれば悪手以外に他ならない。
「その後は、色々あって、その、えっと……」
危機感を覚え、茶山が獰猛に顔を上げる。隣で腰を下ろしているダージリンに対し、待ってくれと目で訴える。
「え、ダメ?」
「駄目、もう持たない」
しょうがないなあとばかりに、ダージリンが口元をへの字に曲げる。
「え、ウチの息子が何かしたんですか?」
「いえ、悪いことは何もしていませんわ」
きっぱりと、ダージリンが否定した。
「茶山さんは、私に対し肯定的な行動をとり続けてくれました。それこそ、大洗の戦車道ではなく、聖グロの戦車道を支持する程に」
「……そう。良かったわね、ダージリンさん」
母が、滲み出るような声で喜んでいる。父も、豚肉を口にしたままで頷いた。
母からの言葉に対し、ダージリンも嬉しそうに微笑む。しいたけを口にし、おいしいと一言。
その一方、茶山は、水を飲んで頭を落ち着かせている。僅か数分のうちにしっちゃかめっちゃかがあったものの、今日も何とか生き残れそうだった。
テレビを見て、父が肉を食べて、茶山とダージリンと母が思い思いの具を掴んで、父が肉を食べる。すっかりダージリンも馴染みきったようで、主に母と雑談を交わしあっていた。
安堵する、呼吸をする。再び肉を確保しようとした父に対し、「おいコラ」と声をかけてやった。
――ひと時の安心が生じたからだろうか。ダージリンが、決意するように「すうっ」と呼吸した。それを茶山は聞き逃さない。
「あの」
父と母の目が、ダージリンに独占される。
「お父様、お母様。その……えっと」
父が、言ってみなさいと目で促す。
「……私は、大学を卒業した後に、茶山さんと結婚しようと考えています」
父も母も茶山も、沈黙を貫く。
テレビ番組の音が遠ざかっていく。
「それで、私の家は……その、ある土地の地主を務めていまして。どうしても、跡継ぎが必要なのです」
父が、「ああ」と声を出す。言わなくてもいい、把握した、とばかりに。
「――1つ、聞くぞ」
父の強い視線が、茶山に突き刺さる。これまでに幾度の隠し事、悪事を暴いてきた、父の必殺技だ。
正直怯みそうになる。親はいつだって恐ろしい、これからもそうだろう。
だが、今は、今だけは――隣にいるダージリンへ視線を向ける、不安げな目が合う。
気を張る。無表情の勇気を、沸き立たせた。
「お前、ダージリンさんのことをどう思ってる?」
「世界一愛してる」
あまりにも、決まりきった答えだった。
父は「ふう」と、小さく息をつく。ゆっくり、ゆっくりと、ダージリンと目を合わせる。
「ダージリンさん」
「はい」
「――息子を、よろしくお願いします」
望んでいるかのように、受け入れたかのように、父は深々と頭を下げた。
母も、続けて「よろしくお願いします」と礼をした。
「お父様、お母様。顔を、あげてください」
十九年間、茶山を育て上げてきた父と母が、ゆっくりと顔を上げた。
――父も母も見たはずである。ダージリンの顔を、ダージリンの濡れた瞳を、ダージリンの目からこぼれ落ちる雫を。
「ダージリンさん」
「はい」
父が、箸で鍋を指す。
「……さあ、鍋を食べましょう。遠慮しないで、あなたは家族なのですから」
ダージリンが、両肩で深呼吸した。それは不安によるものなのか、喜びに満ちたからなのか、緊張しているからか、一区切りつけたかったのか、或いはそれら全てか、それ以外か。
鍋の茹でる音が、聞こえてきた。
「……はい!」
―――
茶山とダージリンと父と母が鍋を味わって、数時間が経過した。「家族団欒」が成立した今となっては、父もダージリンに接し、母もダージリンを可愛がる。そのたびにダージリンは会話で接し、きゃあきゃあと表情を明るくするのだ。
ここぞとばかりに茶山が傍観しようとするも、目が合えば「そういえば茶山さん」と声をかけてくる。この時ばかりは、父も母も空気を読んで無言になるのだ。ニヤけ面丸出しで。
――本当に、何でもない時間が過ぎ去っていく。
茶山もよく食ったし、母も随分と鍋を堪能した。父は懲りずに肉ばっかり狙ったが、ダージリンに「お父様、野菜もとらないと」とたしなめられた時は、上司に怒られた時みたいに「す、すみません」とへこんだものだ。
「あー、食った」
これまでのこともあってか、鍋を制覇して一種の達成感すら覚える。腹をさすってみると、少し太ったような錯覚すら覚えた。
食った、本当に食った。
ダージリンも父も母もすっかり力が抜けているが、あと一つ、やらなければいけないことがある。一同は、よっこいせと姿勢を正し、手を合わせ、
「ごちそうさまでした」
母が鍋を片付けようとした時、ダージリンが「手伝いますわ、お母様」と食器を回収していく。ならば自分もと立ち上がったが、ダージリンが「殿方はここで」と手で止められてしまった。
すとん、と腰を下ろす。笑いがこぼれる。
居間から台所へ、繰り返し繰り返しダージリンと母が行き来する。由緒正しきお嬢様の顔は、今、とてつもなく楽しげだった。
「なあ」
「何」
テレビを見たままの父が、声をかけてくる。今は歌番組を放送しているらしく、女の子が軍歌を披露していた。
「いい嫁さんになるな、ダージリンさんは」
「あー」
ダージリンが、最後の食器を手にとる。その時に茶山と目が合ったが、にこりと表情を変えてくれた。
再び、ダージリンは台所へ戻っていく。何気なく、「実は、食器を洗ったことがあまりなくて……」の一言が聞こえた。
「だね、僕もそう思う」
父が、茶山の背中に手を当てる。
とても、大きかった。
食器を洗い終えたことに達成感を覚えたのか、ダージリンは実に良い顔をしていた。たぶん、練習試合で勝利した時もあんな感じなのだろう。
ダージリンが白いエプロンを外し、母に「ありがとうございました」とエプロンと返す。母も「こちらこそ」と、小さく頭を下げた。
「では、私はそろそろホテルへ戻りますわ」
玄関には、ダージリンの所有物らしい赤いキャリーケースが直立している。たぶん、ティーセットもお持ち帰りしているのだろう。
「実家じゃなくて?」
「ええ。だって、明日『からは』あなたと食べ歩きをする予定ですもの」
すっかり前提に組み込まれていたらしい。しかし、このまま新年を迎えるよりはよっぽどマシだ。
茶山は「分かった」とだけ。
「で、ホテルって、どこの?」
「ああ、近くにあるビジネスホテルに。場所は確保してありますわ」
そこで母が、顎に手を当てて思考に飛び込む。珍しいな、と茶山は思った。
「今日は本当にありがとうございました。次は、何かお土産でも持っていきますわ」
「いえいえ、また来てください」
父が、静かな声で歓迎する。ダージリンも、堂々と「はい」と返事をする。
「……あ」
その時、母から「!」という意味不明の音が聞こえたと思う。母の顔を覗ってみると、両目は見開かれ口は半開き、おまけに「今、物凄い良案を閃いた」とばかりに口元が釣り上がっていた。
茶山十九歳は、母に対してろくでもない予感を抱いていた。こんな顔をした母は、初めて見たからだ。
「ねえ、ダージリンさん」
ダージリンが、きょとんとした顔で「はい?」とだけ。
「ウチに、泊まっていかない?」
ほらな。
「……え、え、えッ!?」
まず、「え」で首をかしげ、「え、え」で表情が崩れ、「え、え、えッ!?」のところで顔が真っ赤になる。母の中では予定が出来上がったつもりなのか、「これは夕飯が楽しみね」とか、好き勝手なことを言っている。
「そ、そんな……ご迷惑になってしまいますわ」
「何を言ってるの。ダージリンさんはもう、家族同然よ」
家族と言われ、ダージリンの抵抗が軟化する。「いずれはそうなる」のだから、仕方がない展開だろう。
「そ、その、本当にいいんですの?」
「もちろんよ。いつ来てもいいし、いつ帰っても構わないわ」
「うむ」
父も、その通りだとばかりに同意する。
「そ、そうですか。そういうことでしたら、その、」
三者の視線が、瞬く間に茶山へ殺到する。ほぼ決まりかけではあるものの、決定権は茶山に握られているらしい。
父の目を見てみよう。「男ならドカンと決めろ」
母の目を見てみよう。「信じてるわよ、ねっ?」
ダージリンの目を見てみよう。「茶山さん……」
「ウチでよければ」
大勝利した瞬間である。
「そうですか……よかった」
ダージリンが、ほっと胸をなでおろす。父も母も、よく言ったとばかりに笑顔となった。
「……で、ここからが肝心なんだけれど」
ダージリンと父と母が、「はい?」と言いたげな顔をする。
「ダージリンさんは、何処で眠るんですかね?」
まず、父と母は、何でもないような動作で茶山と目を合わせた。次にダージリンだが、「うーん……」と考え込んでいる。戦車道の顔そのものだった。
「……いやいやいやまずいでしょそれは」
茶山のセリフを耳にし、ダージリンが思考の海から戻ってくる。何のこと? と言いたげに。
――そして、すぐに空気を把握する。聖グロの頭脳はとても優秀で、想像力にも長けていた。
「え、ええッ!? そ、そんな……!」
あっという間にダージリンの顔が赤くなり、両手で口を抑える。父と母からの反論はない、どちらかといえば「そういうものでしょ」と言いたげに苦笑している。
「ああ、もう、いくらなんでも……」
「といっても、ねえ? あなた、何処で寝るの?」
「居間でいいよ居間で」
「ダージリンさんを一人にするの?」
茶山の足掻きは、母の一言で蹴り飛ばされた。
いやいやしかし、だからといって、
「そ、そうですわね……茶山さんがここにいるのに、どうして一人で眠らなければ……あ! いえいえっ、無理にとは言いませんわっ」
ダージリンもすっかり飲まれているらしい。当たり前だ、こんな場面なんて初めてだろうから。
「……じゃあ、僕は自室の床で眠るよ。布団ってあったっけ?」
父が、「はあ?」と目を歪ませる。
「無いな」
「無いっけ?」
「無いと思うし、そもそもあれだ。ダージリンさんを寂しがらせるつもりか?」
「あ? ……は? いやいやいや、まずいでしょ一緒に眠るのは」
父の思考を読み取り、全力で首を振るう。
「ダージリンも何とか言って」
一人では何ともならないので、ダージリンにバトンを手渡す。しかしダージリンは、瞳を輝かせながら何かを思案していて、
「……茶山さん」
「あ、はい」
「……私たち、いつかその、結婚する、予定ですのよね?」
頷き、肯定する。
「……なら……」
本当にもう恥ずかしいのだろう、ダージリンの目線が茶山と一致しない。――ちらちらと、茶山を覗ってはいたが。
「……わかった」
茶山の返答に対し、ダージリンが、黙ってこくりと頷く。
「じゃあ、部屋片づけてくるよ」
「私も手伝いますわ」
「いやいやいいから、汚いし」
「そう言わず」
茶山が「まあまあ」と言っても、ダージリンが「まあまあ」と受け流す。父と母は笑うだけで、干渉もへったくれもなかった。
「……本当にいいの? 幻滅しない?」
「汚れを気にしては、戦車道は務まりませんわ」
納得しそうになるが、やはりめちゃくちゃ恥ずかしい。自分の部屋というものは、本人の写し鏡以外に他ならないからだ。
勢いで二階まで上がり、あっという間に自分の部屋の前まで来てしまった。ドアノブに手をかけるが、いつものように捻ることが出来ない――後ろに、両手で拳を作っているダージリンがいるからだ。
「あー、先に僕だけが入るっていうのは、」
「汚れがあれば、綺麗にすれば良いだけ」
「いやでも」
「あなたの部屋でしょう? なら、問題なんてありませんわ」
断言された。
ダージリンが何故、聖グロの世界で頂点を掴めているのか、何となく分かった気がする。この人は、言葉がうまい。
「……開けるよ」
何でもないように、ダージリンが頷いた。
ドアノブが捻られる、馴染みきった世界が視界に入る。
天井、壁は暖色系でまとめられていて、学習机に本棚、テレビ、名物ラーメンカレンダー、床に放置された食べ歩きガイドブックに充電器、一床のみのベッドと――いたって普通の自室だ。広さも、床に寝転がれる程度はある。
振り向く。ダージリンはどんな顔をしているのだろう、もしかしたら「汚い」とか思ってはいないだろうか。こんなことなら、掃除を趣味にしておけば良かったとつくづく思う。
「ここが、茶山さんの部屋」
「は、はい」
思わず敬語口調になる。一生分見たはずの世界なのに、何だか現実味がまるでない。
まさか、ここに女の子を連れてくるなんて思いもしなかった。それもお嬢様を、ダージリンを。
「お邪魔しても?」
「どうぞ」
たぶん、拒否したところで聖グロ流交渉を食らうだけだろう。もうどうにでもなれと、茶山はその身をどかした。
「失礼します――まあ」
ダージリンが、するりと自室へ入ると同時に、床に落ちていた雑誌を拾い上げる。表紙には学園艦の写真とともに、『学園艦
「良いかしら?」
手で、どうぞと促す。ダージリンはぱらぱらとページをめくっていき、
「まあ、ここは……」
ダージリンの後ろからページを拝見してみると、そこには「あの」牛丼屋がでかでかと特集されていた。
値段は普通、ボリュームばっちり、客入りも悪くない。味は、最高の部類に入るだろう――あの、ダージリンも訪問した店なのだから。
「なんだか、懐かしい気がしますわ」
ダージリンが、顔だけを茶山に向ける。何だか嬉しくなって、何だか遠い過去のように思えて、何だかアルバムを見たような気がして、茶山にも笑みが生じた。
「本当、偶然だったなあ」
「ええ」
ダージリンは、そのページをめくろうとはしない。牛丼の写真を、人差し指で撫でている。
「いつか、また食べに行きたいですわね」
「そうだね」
「……本当に、ここに来て良かった」
茶山も、黙って頷く。
ダージリンが、ぱたんと雑誌を閉じた。
「――あ」
ダージリンの関心が、学習机に移る。学習机の上には、
「これっ」
早歩きし、とっさにティーセットを掬い上げた。ダージリンとおそろいの、青い意匠が刻まれたティーセットを。
「使って、くださって」
「うん。下には、ダージリンティーの茶葉もあるよ」
「……そう……」
嬉しそうに口元を緩め、海のように瞳を照らす。まるで我が子のように、カップを撫でていた。
「時間がある時は、それを使ってティータイムを開いているんだ。まあ、一人でだけど」
高ぶった感情をごまかす為に、茶山は乱暴に苦笑する。ダージリンは、「そう……」と呟き、
「――今度、私と一緒にティータイムをしません? なるべくなら、二人きりが良いかな、と」
「やろう」
そんなの、ハナから即答に決まっていた。ダージリンは、ぱあっと表情を明るくする。
「よろしくお願いしますわ」
「うん。まあ、マナーはてんで素人だけど」
「そう言わず、一緒に紅茶を飲むだけでも嬉しいのに」
「そっか。じゃあ何を飲もうかな、新しい紅茶がいいかも」
ダージリンの表情をチラ見する。「むう」と、ダージリンがふてくされた顔になる。
「ダージリティーを飲もうかな」
「当然ですわね」
いつもの、誇らしい微笑に早変わりした。
やっぱり可愛いなあ、この人。
「――しかし、あれだ。汚くてごめんね」
「そんな、綺麗ではありませんか」
「いやでも、床に雑誌はちょっと」
「生活感があって、逆に安心しましたわ。それも、食べ歩きの雑誌でしたし」
そういうものかなあと、茶山は思う。汚いのは嫌だが、積極的に片づけるタイプでもない。
「まあ、ダージリンがそう言ってくれるのなら」
「ええ。そう気を遣わず、いつもの調子でくつろいでくださいな」
女の子、ましてやダージリンを部屋に入れている時点で、そうもいかなくなる。これからは、ホコリ一つすら見逃さない目ざとい男になるだろう。
けれど、悪くはない。
部屋が受け入れられた瞬間から、本当の意味でダージリンとは通じ合った気がする。
その後は、一緒に雑誌を読み合ってあれ食べたいとかこれ食べたいとか、明日になったら名物を攻略したいとかで結構盛り上がった――夕方になったら、ティータイムをしようと約束して。
ここまでは本当に平和だったと思う。何せ、いつもの会話しかしていなかったのだから。
――問題は、夜十二時くらいを回った後だ。
夜遅くになれば眠くなるし、明日の予定だってある。夜更かしをする趣味も無いから、必然的にベッドへ潜り込むわけだ。ダージリンと一緒に。
「……なんで、こんなことになっちゃったんだろうね」
「……こんな格言を知ってる?」
「何だい?」
あまりにもこっ恥ずかしいので、ダージリンとは背中合わせで横になっている。しかし、どうしても体温は伝わってくるから、否応にも「実感」を抱かざるを得ない。
「運命とは、最もふさわしい場所へと貴方の魂を運ぶのだ」
茶山が、まばたきをする。
「イングランドの劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの言葉よ」
ああ、そうか。
ここが、この場所が、この場面が、自分とダージリンにとっての居場所なのか。
「信じるよ、その格言を」
「私も、信じてますわ」
この時、茶山の心に火が付いた。
たぶん、ダージリンが「愛の言葉」を口にしてくれたからだと思う。魂という単語に、心惹かれてしまったからだと思う。
茶山が寝返りを打った瞬間、ダージリンの金のロングヘアーが、茶山の視界を瞬く間に支配する。暗がりだからこそ綺麗に映る、心地よく魅了されていく。
――ダージリンがこちらを向く前に、そっと抱きしめた。
ダージリンがびくりと震えるが、少しずつ体の力を抜かしていく。割れ物を扱うように、慎重にダージリンの腕を撫でる。
ダージリンは何も言わない、何も応えない。ただ、茶山の腕をぎゅっと握りしめるだけ。
戦車隊隊長の体は、あくまでも乙女そのものだ。
自分はダージリンよりも弱い人間だけれど、ダージリンのお腹を満たすことは出来る。これからも、ダージリンの元気を守り抜こう。
今日は眠れるかなと思ったが、その心配は無用だったらしい。明日への食欲が、茶山とダージリンを夢へ誘った。
―――
ダージリンと接して113日目、朝を迎えて「何でダージリンがここにいるんだっけ」とか口にしそうになり、同じくして起床したダージリンが「あ、おはようございます」と顔を赤くして挨拶をしてくれた。
その際に「狭かったでしょ? 眠れた?」と質問してみたが、ダージリンは「はい、とても温かかったですわ」とだけ。
カーテンを開け、日光を浴びる。脳細胞が活性化した気になる。
母から「おはよう」とニヤつかれつつも、あえて受け流して軽く朝食をとる。白米に味噌汁、卵焼きにたくあん――ダージリンは、「素晴らしい朝食ですわ」と感想を漏らした。
「ありがとう、ダージリンさん」
「いえ。――あの、お母様」
「はい?
ダージリンが、まるで照れを隠しきれていない表情で、
「……いつか、その、夕飯の時間になりましたら、お手伝いさせていただけません? その、料理を覚えたくて」
年下の意図を察したのか、母は「もちろん」と笑顔で応えた。
次の食べ歩きコースに選ばれたのは、ハンバーグ専門店だ。評判は聞いていたのだが、ついつい後回しにしてしまっていた。
なので、せっかくだからと入店した。瞬く間に香ばしい匂いが鼻孔へ吸い込まれ、茶山とダージリンは容赦なく椅子へ腰を下ろした。
――数分後、
「ほんとにさー、ウチの父さん母さんってばはしゃぎすぎて……」
「まあまあ。恋人が出来たのですし」
恋人というワードを、何の躊躇いも無く口にしながら、ダージリンはハンバーグをナイフで切り裂く。茶山もそれに続き、ハンバーグをフォークで刺しては口の中に放り込む。
熱が肌に襲い掛かり、ソースが体の一部へと溶け込んでいく。何重もの肉をかみ砕き、飲み込めば、腹はもっと飢えていくのだ。
「うまいねえ」
「ええ、とても」
さらに美味く感じるのは、今日が冬休みという点に尽きる。ましてや朝っぱらからという健康的な時間に、それもダージリンと一緒にハンバーグを食しているのだ。どう考えてもポジティブな状況でしかないから、飯は進むし舌が活性化する、おまけに腹は減る。
「何だか、すっかりダージリンも馴染んだよね。こういう店に」
「そうですわね。――あなたがいなくなった後でも、私は色々な店を訪問したものです」
「ほうほう」
「和食店、洋食店、ピザ屋、ジャンクフードも食べてみましたわ」
「いい食べっぷりだ」
どうも、ダージリンは満たされた生活を歩めているらしい。茶山は、満足そうに笑った。
「けれど」
「けれど?」
ダージリンが、茶山と目を合わせる。
「……やっぱり、あなたと食べ歩きをしたいですわ。これからも」
ああ。
それに関しては、同意するように頷く。
「僕もだよ、ダージリン」
にこりと、ダージリンが笑顔になる。
「……あ、そうですわ」
何かを閃いたらしい。ダージリンが、ナイフでハンバーグを小さく切り取り、
「あーん」
それを、フォークで刺しては茶山に差し向ける。
「――は?」
「恋人同士の基本でしょう? はい、あーん」
「えっ、やだよ恥ずかしい」
その時、ダージリンの目に光が籠る。親に捨てられた子供のような、希望が感じられない瞳だった。
「……私たちは、恋人では、ない……?」
「え!? いやいやいや」
「あーん、してくれないんですの……?」
「す、するよわかったよもう」
瞬間、ダージリンが喜色満面の笑みを浮かばせる。
「はい、あーん」
ちくしょうやられた。何となく予感はしていた。
だが、ダージリンの落ち込む顔など見たくもないわけで、何とかしてやりたいわけで。
「あー……ん」
めちゃくちゃ恥ずかしかった。周囲を見渡すものの、特に関心は抱かれては――いる。
髪を整えた状態のダージリンは「優雅」であり、他人からすれば「触れてはいけない美しい象徴」だ。
だが、今現在のダージリンの髪型はロングヘアーだ。それは普遍的であり、故に親しみやすく共感もされやすい。ストレートな魅力がある。
ここまでなら問題は無いのだが、ダージリンはどうしても美しい。ただでさえ目を惹く存在が、ロングヘアーという「普通さ」を主張しているのだ。俺が僕が私がと、格好の注目の的になってしまうのは仕方がない。
もしかしたら彼女に出来るかも、あのモデルさんは誰だ、女優さんか何かだろうか――きっと、そんなことを考えているのではないだろうか。
ナンパの一つにも遭遇しなかったのは、茶山というお邪魔虫のお陰だろう。
「いいですわね」
シチュエーション的には良いが、心境的にはあまり良くない。男どもからは「は?」という目をされているし、女性からは「ええ……?」と疑問視されている。
確かに、我ながら夢みたいな現状だとは思う。けれど、
「じゃあ、はい、あーん」
ハンバーグの一部分をフォークで刺し、ダージリンに向ける。
「……えっ!?」
「恋人同士なんだから、あーん」
「そ、そんなっ、えとっ」
「……そっか」
茶山が、わざとらしく落ち込む。ダージリンと比べれば、なんという演技力のなさか。
しかし、ダージリンはあたふたと表情を変え、
「わ、わかりましたっ、食べます食べますわっ。あー……んっ」
躊躇いはしたものの、ハンバーグを口にしてしまえば笑みがこぼれる。しっかりと、充実しているように噛み締めている。
「うまいよね」
「ええ、とても」
これから、ダージリンと釣り合う男になればいい。
両想いなら遠慮することはない。見せつけてやろう。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
―――
ダージリンと人生を満喫して、114日目。「家族」一同で夕飯をとっている際に、
「ねえ、ダージリンさん」
「はい、なんでしょう」
ダージリンがほっけの骨を、ぺりぺりと剥がしていく。茶山は、実家の味噌汁の味を堪能していた。
「ダージリンさんって、外国人? それともハーフ?」
「えっ!?」
ダージリンの目が、まん丸に見開かれる。茶山は「あー」と、仕方なさそうに声を出し、
「いや、ダージリンは日本人だよ」
「あらそうなの? じゃあ、ダージリンという名前は……」
母が大真面目な顔をして、顎に手を当てている。真正面から考察されることがなかったのだろう、ダージリンは申し訳なさそうにうつむいていた。
「ああ、何というのかな。聖グロでは、紅茶の名前で呼び合う伝統があるんだ」
「あら、そうなの? へえー」
実に感心したように、母がうんうんと頷いている。ダージリンは、弱弱しい声で「は、はい、そうなんです」と返事していた。
「まあ、いいんじゃないかな。ダージリンという名前が、とても似合っているし」
父から助け船が入った。実際のところ、本名よりも、ダージリンという呼び方がしっくりきてしまっている。
「ありがとう、ございます……」
「いえいえ。ごめんなさいね、変な質問をしてしまって」
ダージリンが、滅相も無いとばかりに首を横に振った。
―――
ダージリンの格言を聞いて、115日目。一通りの食べ歩きを終えた後は、居間で二人きりのティータイムを開いていた。
「ここは、良い家ですわね」
「うん、そう思う」
ダージリンが、「ええ」と同意し、
「私も、良い両親に恵まれましたわ。――その、私の父と母とは、すぐに仲良くなれると思います」
「だといいねえ」
話によると、自分はダージリンの父とダブっているところがあるらしい。それ故に父からは仲間認定され、母も出会いを武勇伝にするくらいには、一般庶民への理解があるらしかった。
「……いつ行くの?」
「新年早々に」
「……でかいよね?」
「おそらく」
金持ちの家とは、一体どんな生態をしているのだろう。
茶山の貧困な発想力では、「宮殿」だの「金色の意匠だらけ」だの「自家用ヘリ完備」だのと、それぐらいしか思いつかない。
ダージリンティーを片手に、ちらりとダージリンの目を見る。
茶山の目の前にいるのは、文字通りのセレブだ。茶山という縁が無かったら、普通の居間で腰を下ろすこともなかっただろう。
ため息も漏れる。ダージリンを手離すつもりはないが、かといって金持ちの中心部へ踏み込む度胸もない。聖グロの連絡船でさえ、かなりのビビりが入ったというのに。
「かといって、緊張する必要はありませんわ」
茶山の心境を読み取ったらしく、ダージリンは何でもない表情でダージリンティーを一口つけ、
「何度も言いますが、あなたは部外者ではなく、私の大切な人です。ですから、私の家にお邪魔しても誰も文句は言いません」
そこで、何かを思い出したかのように「あ」と声を出し、
「妹は……どうでしょうね。両親は納得しているのですけれど」
「妹さんがいるんだ」
「ええ。いつまでも甘えん坊さんで」
「いいじゃない」
茶山がポットを手に持ち、ダージリンティーを注いでいく。
「だから不安なんですの。あなたに対しての、反応が」
「あー、なるほどねー」
体験したことはないが、よくある話だとは理解している。姉の優先順位が曲げられそうなのだ、それはもう面白くない話だろう。
「ですがご安心を。必ず説得してみせますわ」
「ありがとう。まあ、僕も頑張ってみるから」
間。
「で、本当に行かなきゃダメ?」
「――私との結婚を、破棄するおつもりで?」
ダージリンの両目が、狐のように細くなる。タダの一般人である茶山は、「滅相もありません」とひれ伏すしかなかった。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
―――
ダージリンと寄り添って、116日目。ポニーテールのダージリンが、母の指導のもと、夕飯にカレーライスを作り上げてくれた。
茶山と父、母にダージリンの分と、それぞれの皿がテーブルの上に置かれる。出来立ての湯気は、胃の中を容赦なくすっからかんにしていった。
「これは……」
「リンちゃん、料理の才能があるわー。ささ、食べて食べて」
白いエプロンを着たダージリンが、もどかしそうな顔をしながら、指と指を合わせている。
事の始まりは、「私も何か、夕飯を作らせてくださいませんか?」という、ダージリンの主張だった。
最初、母は「あらあらまあ」と戸惑いながらも、母はこれを快諾した――茶山に、親指を立てて。
「そんな、ほとんど手伝っていただいて……」
「何を言っているの。包丁さばき、見事だったじゃない」
「あ、ありがとうございます……」
ダージリンが作ったカレーという時点で、味は決まりきっているようなものだ。腹は減っていき、食欲が促され、変な高揚感すら生じる。
「頑張ったのよー、リンちゃん。さあ、最初にあなたが食べなさい」
そんなの当たり前だった。
茶山は、カレーに手を合わせ、
「いただきます」
「め、めしあがれ」
可愛い一言と共に、茶山はスプーンを装備する。それでカレールーをいくらか掬い上げ、白米にかけた。
よし。
人生初とは、出会いよりもかけがえの無い瞬間だ。生まれて初めてダージリンは料理をこなして、その完成品を茶山が味わう――この時間を、一生忘れないようにしよう。この場面に、ずっと感謝し続けよう。
心に強く刻み込みながら、ダージリンカレーを口に運ぶ。
「うまいっ」
茶山の心が明るくなる。ダージリンの顔が、輝く。
「まあっ……やったっ」
「うまいよこれ、凄い美味い。ほら、父さんも食べて」
父が「ああ」と頷き、手を合わせる。
「いただきます――これは、うまい、うまいよ、ダージリンさん」
「ありがとうございます」
ダージリンが、泣きそうな笑顔を浮かばせる。
茶山は、心の中で「良かった」と喜ぶ。手は止まらない。
「調理中ね、凄く良い顔をしてたわ、リンちゃん。戦う女性の顔っていうの? あんな感じ」
「戦車道してるからなあ、ダージリンは」
困ったように、ダージリンが「いえいえそんな」と謙遜する。
正直な話、容易に想像はついた。
「料理に熱心で、愛情も抜群。ああ、結婚相手が羨ましいわねえ」
「やめなよ」
茶山が厄介そうに吐き捨てるものの、ダージリンは「ふふ」とだけ。一方、父は食ってばっかりだった。
「さて、水も持ってこなくちゃ。リンちゃんは先に食べてていいわよ」
「はい、お母様」
当たり前のように、茶山の隣に腰かける。もう、誰も注目などしない。
「茶山さん」
「何?」
カレールーつきカツを、もぐもぐと咀嚼する。カツ特有のパワーが、油が、ルーの甘みが、ダージリン補正が、茶山の身も心も満たしていく。
「これからは、レパートリーを増やしていきますわね」
思う。
ダージリンは、本当に情熱的な女の子だ。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
―――
ダージリンと手を取り合って、117日目。茶山は「くそうくそう」と悪態をつき、ダージリンは「せっせっ」と声を出していた。
「なんで真昼間に大雪降るかねー」
「冬ですもの」
除雪スコップで雪だまりを突き刺し、それを掬っては、体全体を使って指定個所へ放り投げる。
降雪が止み、夜の七時に除雪を開始したわけだが――まったくもって終わりのめどが立たない。
まあ、いつものことだ。
この時期になると、一度や二度は大雪が降り注ぐ。そのたびに茶山や父、ご近所の方々が家から出撃して、除雪スコップを武器に雪だまりと戦いを繰り広げるのである。
一瞥する。
環境問題とは無縁そうな、真っ白い雪原が家の前を手広く支配している。子供の頃は足跡をつけて遊びまくったものだが、大学生からすれば「はいはいまたかよ」としかコメント出来ない。純白の雪も、大人にかかれば単なる厄介者だ。
「父さーん、もうやめない?」
「続けろ」
だよねーと、やる気なく除雪を再開する。そんな中で、ダージリンは文句のひとつも言わずに雪を放り込んでいた。
「ダージリンさん、いいんだよ? ここは俺達に任せて」
「いえ、ここも私の家ですからっ」
ダージリンの赤い除雪スコップが、また空を舞う。最初は茶山も止めたのだが、「私も家族の一員ですので」と押し切られてしまった。
正真正銘のお嬢様が、肉体労働に励む――そのことに異論はないが、何だか物凄く申し訳ない気分になる。
「疲れたら、いつでも休んでね。僕が何とかするから」
「分かりましたわ」
しかし、ダージリンの表情は硬い。家の前を何とかしようと、家族を助けようと、必死になって除雪作業を続けている。
――自分の頬を叩く。ダージリンを守り抜くと決めたのは、自分だ。
「よし、気合入った。やるぞ」
「よく言った、やれ」
焦らず、急がず、力なく放り投げる。それが除雪のコツであり、基本だ。
小さい頃は嫌々やっていたものだが、今となっては雪も軽い。単に、終わりが見えないからやる気が出にくいだけだ。
だが、今はダージリンがいる。少しでも、ダージリンの負担を軽くしたい――そう考えてみると、何だか体が温まってきた。
「よっと」
雪を引きずり出し、雪山と化した指定個所へほいっと投げる。ダージリンから「いい投げっぷりですわ」と褒められた。
「これが終わりましたら、一緒に紅茶でも飲みましょう」
「いいね」
親指を立てる、ダージリンもピースしてくれた。
そんな若者に対し、父は「いいなー」と笑うのだった。
ダージリンが、掛け声とともに雪を放り投げる。最初こそぎこちなかったものの、徐々に飛距離が増していった。
その表情は実に楽しげで、上手く投げられたと思ったら「どう?」と目を合わせてくる。
やっぱり自分は、この人が好きだ。
―――
ダージリンを愛して118日目。何だかんだで大晦日を迎え、「せっかくだしお参りに行こう」というノリで、徒歩で神社までやって来た。
夜も更けているというのに、更けているからこそ、神社の前には人が殺到している。この日ばかりは神社も明るく照らされ、参拝客の笑顔も絶えない。
普段の静寂は何処へいったのやら、今となっては喧騒が場を塗り替えている。まるでお祭りの会場だ。
「結構、並んでますわね」
「そうだねえ。いやあ、二年参りなんて初めてやるよ」
緑色のベレー帽を被ったダージリンが、実に嬉しそうに口元を緩ませる。
周囲を見てみると、多数のカップル連れが、友人グループが、老人が、大人の男性が、若い女性が、この神社の中を楽しげに歩んでいる。
みんな、今日という日まで生き残ってきた。そして、来年も強く生き抜くつもりなのだろう。
感慨深く、ため息をつく。
「みんな……何をお願いするんでしょうね」
「なんだろうね――そうそう、ここの神様は凄く頼りになるよ」
「そうなんですの?」
茶山が小さく頷き、
「前にさ、OGと交渉したことがあったじゃない? ――その時にさ、ここでお参りしたんだよ。交渉がうまくいきますようにって」
最初は何のことか分からなかったダージリンも、次第に表情を明るくしていく。
「あの時の……それは、期待できますわね」
不意に、腕に抱き着かれた。それも両腕で。
茶山が情けない声を上げるが、ダージリンは全く意に介さない。たぶん、何を言っても離そうとはしないだろう。
そのままの姿勢で、賽銭箱まで到着した。
長かった、実に長かった。恥ずかしすぎて、途中で蒸発しそうになったと思う。
自分も、精神力というものが成長したらしい。或いは、今の関係を受け入れられているのか――たぶん、両方だ。
「じゃあ、お金を入れよう」
互いに五百円を取り出し、同時に賽銭箱へ入れる。鈴を鳴らして二礼二拍手一礼を行い、沈黙をもってして願い事を繰り返し伝えた。
一区切りつける。
茶山とダージリンが礼を行い、賽銭箱を後にする。次に控えた参拝客は、カップル連れだった。
「……茶山さん」
「何?」
「なにを、お願いしました?」
「えー」
照れを隠しもせず、ダージリンから目を逸らす。こうなったダージリンからは、逃げられないというのに。
「じゃあ……同時に言ってみる?」
「構いませんわ」
「ふう」とひと呼吸する。
未だ、喧騒は絶えない。参拝客がそれぞれの望みを、願いを、期待を胸に秘め、賽銭箱にお金を入れる。鈴を鳴らして神様を呼ぶ。
その光景が、なんだか愛おしく感じる。きっと、ダージリンと出会ったからだろう。
ダージリンは、自分の世界を変えてくれた。だから、ダージリンのことを――
「あなたが、幸せに生きられますように」
「あなたが、幸せに生きられますように」
神社で、これからの新年を迎える。参拝客が、あけましておめでとうと高らかに挨拶をした。
さて――あともう一か所ほど、挨拶しに行こう。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
本当は短くなる予定だったのですが、思った以上に長くなってしまいました。
次はたぶん、短くなると思います。
これからの展開ですが、ダージリンの家訪問→春休み編→大学編→エピローグと、サクサクと進んでいくと思います。
3007日間があっという間に過ぎ去ると思いますが、最後まで読んでいただければ、本当に嬉しいです。
ご指摘、ご感想、いつでもお待ちしています。