―――眩いばかりの陽光と共に、もう見飽きる程顔を合わせた果物屋の店主の顔が映る。
今までは動揺こそ浮かんだものだが、流石に顔見知りに対してそう何度も失礼な態度を取るのは野暮と言うものだ。
道行く人々が、造りの良い石製の建築物が、再びこの場に帰還を果たした少年――スバルを嘲笑うかのように、同じように、最初に見た時と全くズレ一つない風景を見せつけてくる。
その現実の、なんと残酷な事か。なんと理不尽な事か。
――好きな相手の惨死を見せられたどころか、その死すら無かった事として片付けられてしまうのだから。
そしてその記憶は、スバルの記憶の中にだけ残っている。
自分が死ぬ度に、この世界は巻き戻されている。
その鼻で笑ってしまいたくなるような絵空事は、しかし実際に己の身に降り掛かった最悪の災難なのだ。まずは受け入れなくては始まらない。
前回では、それを殆ど解っていながらも認めようとしなかった己の愚かさによってあの惨状が引き起こされたのだから。
――皮肉なことに、"彼"には返せぬ借りを作ってしまったらしい。
複雑な思いを抱きながら滑っていく視線に映ったのは、紺色の法衣の様な物に身を包んだ男――スバルにキレイと名乗った、彼がこうして平常心を保てている原因となった人物だ。
サテラに激情をぶつけられ、本格的に縋る物が無くなったスバルが闇雲に伸ばした手を掴んだ、見る者を深く安心させる様な微笑みを浮かべる男。
この男ならば全てを任せられる、素性も知れぬ彼に理由なき確信を抱くほどに、スバルの心持ちに余裕が無かったのも事実ではあるのだが。
――しかし、サテラの死を目の当たりにしたスバルに彼が投げ掛けた言葉の数々は、どちらかと言えば救いではなく裁きに近かったと、スバルは思う。
あまつさえその言葉の全てがスバルの本質を的確に見抜いた上での物であり、刃となってその浅はかさを抉っていった。
――いっそ罵倒雑言の方がマシどころか喜んで受け入れたくなる程には、キレイから紡がれた言葉は重く、そして何よりも得体のしれない恐ろしさを持っていた。
――この男は、あの僅かな時間の中、言葉も殆ど交わしていないのにも関わらず己の本質を見抜いたというのか。
それが、たまらなく恐ろしかった。
引きこもりの割には精神性が強固な物だったスバルだが、その本質は決して褒められたものではない、ねじ曲がった歪なものだ。
嫌悪すべきその本質を、事も無げに、首が転がる血溜まりの中で微笑みすら浮かべて暴露していくキレイがスバルにはたまらなく不気味に映った。
――選べ。君自身の運命を、君自身の手で。
彼は言った。己の行いを善としろと。
彼は言った。剥き出しの己を曝け出せと。
彼は言外に言った。己の欲望を肯定しろと。
その全ての、なんと歪なことか。なんと醜く、無様な物か。
彼はスバルがサテラを助けたい理由を、己が生きる糧したいからだと言った。
その際、スバルは喉が凍ったかのように息を詰まらせ、反論の言葉一つ紡ぐことが出来なかった。
――何故、決まっている。心の何処か、或いはあらゆる所でサテラに縋れば良いと思っていたのかもしれない。
彼女を助ける事で返しきれない借りを作っておき、その後に役立たせるための――
「嗚呼、糞が」
だから、そんな自分がたまらなく嫌いだ。
彼女に抱いたこの感情は、初めてスバルを助けてくれた時に抱いたこの想いは、紛れもなく本物だと言うのに。
そんな彼女に対して、こんな薄汚い打算を考えてしまう自身がどうしようもないほどに嫌いだ。
だが、それは仕方の無いことなのだ。それがナツキスバルという男の変えられぬ性。自分の殻に閉じこもり、他者との関わりを持とうともしなかった故の修正できる事のない歪み。
――ならば、その歪みを抱えたまま己の為したいことを成せば良い。
どうして、どうして己はこんなにも単純明快な開き直りに気付かなかったのか。自分本位なスバルならば、真っ先に浮かびそうな物だが。
サテラを助けたいと思えば、この忌々しい死に戻りを受け入れて利用してやればいい。
その過程の果てに彼女が生きているのならば、寧ろそちらの方が好都合ではないか。
如何に己を嫌悪しようとも、如何に己の性を否定しようとも、変えられぬ部分と言うものは必ず存在する。
それを無様に否定しようとする方が、余程愚かに映ることには違いないのだから。
――その歪んだ性根の中でも、サテラという少女への想いを真の物だと断ずるのならば。
それが見栄でも虚栄でもなく、何もかもを賭す覚悟があると言うならば。
ナツキスバルは、この身を危機に晒そう。
故に、駆ける。我武者羅に。懸命に。ただ、その果てにある最善の未来だけを信じて。
―――決意を確かにさせてくれた恩人には、声を掛けられないままに。
◇◆◇◆◇◆◇◆
――道化と呼ぶには、些か強靭に過ぎるか。
自身に対して様々な感情を織り交ぜた視線を向け、去っていった少年を見ながら綺礼は思う。
果たして自身の知った顔が――あまつさえ、特別な感情を抱いていた者が目前で殺されるという光景を目の当たりにして、その後再起できる者がどれほど存在するのであろうか。
死ねば全てが巻き戻るとは言え、その者が殺された事実は確かにその胸の中に残る。
それを受け入れ、次はそうならない様に尽力する――それが、その事態に直面した人間ならば誰もが取るであろう行動だというのだろうか。
否、断じて否である。
もうその者の死を見たくない。目前でその命を散らし、己の前に倒れ伏すの見たくはない。その全てを否定したい。
そんな願望を抱いた者が取るであろう行為――大抵は、逃避だろう。
ならば関わらなければ良い。その者の姿を見なければ、その死を見る事も無いのだから。
それが最善の選択でないと知りながらも、選べる選択肢はそれに限られているのだから致し方が無い。
――それが、普遍的な精神の持ち主ならばの話だが。
そう言った意味では、ナツキスバルという少年はその性根にしてもそれに似合わぬ精神力にしても酷く歪んでいるのだろう。
どうしようもなく無様な本性を晒していながら、それを糧だけに開き直り、それを精神の安定として用いる。
おそらく折れることは多々あるだろう。或いは腐りゆくことも十分にあり得る。
これから先彼の支えとなる者が現れれば、歪んだ彼を肯定する者が現れれば、話も違ってくるだろうが。
故に、彼は道化であって道化ではない。
それがどのような変化を辿るのか、綺礼自身ひどく興味があった。
おそらく前回でスバルの心を折ったとしても、時間を要せば立ち上がるだろう。
彼は、自身の我儘と無様な開き直りだけで己を奮い立たせる事のできる、酷く哀れな少年なのだから。
己に降り掛かった運命に抗うために、己の何処か歪んだ欲望を叶える為に。
その在り方は酷く不安定、加えて吹けば飛ぶような脆い定義によるものだ。
そして綺礼は、不安定な在り方を確立出来なかった者と、それを捨て一つの欲望を選んだ者を知っている。
ナツキスバルには、それと遠からぬ物を感じたのだ。
「だがそれは――ある種の破綻者とも言える」
道化ではなく、破綻者。
未だスバルがそう呼ぶに足る者であるかどうかを推し量ることは出来ないが――誰かを救う為に、喜んで自身の首を差し出すようになれば、その時スバルは綺礼とは異なる質を持つ『同類』となるだろう。
「―――くくっ、」
声が漏れる。衝動に負け、喉が小刻みに震える。
心底愉快げに、愉しげに、幸せそうに、笑う。嗤う。微笑う。微嗤う。
少年がどの様な変化を遂げるのか――それを、綺礼が傍らで見守れると言うのならば。
――それはなんと、甘美な愉悦なのだろうか。
雑踏が鳴らす乾いた靴音、街中に響く喧騒の音。
低く嗤う男の声はそれらに掻き消され、誰の耳にも届くことはない。
だから綺礼は気兼ね無く嗤う。己の性を肯定し、欲望に忠実に、ただ幸福だけを表すかのように。
その全てを、愉快だと断ずるように。
―――破綻者は、嘲嗤う。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「――とにかく助かったぜ、ラインハルト。
こうも堂々と他人任せってのはいっそ新品のパンツ下ろした時ぐらい清々しいもんだけどな!」
「構わないよ。
ああ言った者たちを戒めるのは本来僕の役目だ。
寧ろ彼らが非行に走ったことを教えてくれた君に、僕は敬意を示したい」
「最後までとんでもねぇイケメン力発揮すんのなお前……」
決意を新たにしたナツキスバルにとって、"他人を頼る"という選択肢に対しての抵抗は皆無に等しかった。
自尊心が殆ど無いからこその物だろうが、再び路地裏にてトンチンカンに遭遇した瞬間、前触れも何も無しに衛兵を大声で呼んだのだ。
その結果現れたのは、剣聖と呼ばれる衛兵。
燃えるような紅い髪、凛々しい輝きを放つ蒼の双眸と、どう見てもただの衛兵ではない――衛兵は衛兵でも世界最強の衛兵なのだが、この世界の知識が皆無な上に楽観的なスバルでは、その事実に気づきはしない。
果たしてラインハルトの目に、剣聖である事を知らず――自身にあれ程近い距離で接してきたナツキスバルはどのように映ったのであろうか。
剣聖とは剣神に愛された存在――すなわち、一度剣を振るえば無双とも言える恐ろしい強さを誇るのだ。
その剣聖の中でもラインハルトは飛び抜けた実力を持っており――それ故に、向けられる畏怖の視線も少なくはない。
スバルの言っていたことを信じるのであれば――彼は剣聖を知らなかった。つまり途轍もない世間知らずということになる。
それを抜きにしても、ラインハルト自身が身に纏っているであろう力の奔流、それを全く意に介していないスバルの態度が、彼には新鮮な物に思えた。
――故に、彼の背を値踏みするように見てしまうのも、ラインハルトにとっては半ば無意識な事だった。
彼の発言――銀髪の少女とは、恐らく王選候補者であるエミリアの事だろう。
ラインハルトはスバルの素性を何一つ知らない、それ故に"落し物を届けてあげたい"と言うスバルに心当たりは無いと答えた。彼から悪意の欠片も感じられず、探すのを手伝おうかとその後付け加えたため然程意味が無いのだが。
――ただ、軽口を叩きながらもその瞳に宿る光が、強いものであると同時に、何処か歪な物に思えて。
ナツキスバルが去った後、ラインハルトは引き止めておけば良かったかと後悔の念に苛まれるのであった。
「――それで、何時まで隠れているつもりだろうか?」
そんな中でも、やはりラインハルトが感じ取ったその気配は異質だった。
常人ではまず気付かない程に押し殺されたそれは、ラインハルトを以ってしても僅かに感じ取れる程度、と言うものだった。
薄暗い路地裏に響き渡る鋭い声、それを受けて其処に姿を見せたのは――法衣に見を包んだ男であった。
「何やらお取り込み中だった様なのでね。
出ていく機会を図りかねてしまった」
「――そんなにも巧妙に隠密を行ったにも関わらず、あなたは此処に姿を現すつもりだったと?」
「生憎荒事は苦手でね。
そう言った生き延びる為のくだらない術ばかりが上達してしまった、典型的な臆病者に過ぎない」
嘘をつけ、ラインハルトは口の中だけでそう断ずる。
この男を臆病者と断ずるならば、おそらくこの街の殆どの人々はそれ以上の臆病者ということになる。
強者だけが身に纏う鬼気、ラインハルトはそれを目前の男から感じ取ったのだ。
「――目的は何だろうか?
それがあの少年に害するものならば、僕は彼を守る盾となろう」
「―――君自身があの少年を推し量れずにいるのに、か?」
「――、」
鋭く細められた蒼い双眸が、僅かに揺れる。
本当に僅かな、しかし目前の男にとっては明確な心の揺らぎ。それも無理はない――この男は、ラインハルトとスバルのやり取り、そして今までにラインハルトと男とで交わされた僅かなやり取りから、彼のスバルへの疑心を見抜いたのだから。
「――少なくとも私はあの少年の
君が危惧しているような事も起こらなければ、衛兵に仇なすような立場でもない」
「―――しかし、」
「――疑心を抱いたままの盾では脆く、直ぐに打ち砕かれてしまう。
そうは思わないか、少年」
「―――、」
男から紡がれる言葉の一つ一つに、意を唱える事が出来ない。
その言葉の一つ一つが、寸分違わずこちらの心中を表し、その度に動揺が走る。
その苛烈な連鎖が、ラインハルトの口から言葉を紡がせる事を許さない。
――それはある意味、一方的な蹂躙の様にも思えた。
「此処で私を止めるのも一向に構わん。
それが君の義務であり、その疑心を押し殺してまで為すべき事だと言うのならば、な」
「………」
僅かな邂逅。一方的な言葉の蹂躙。
その得体の知れなさ、底知れなさの片鱗を見たラインハルトは、此方に背を向ける男に制止の声をかける事が出来ない。
―――恐ろしい。或いは、自身が抱えた心の歪みですら、この男には見抜かれてしまうのではないか。
悲鳴をあげた本性に抗った時には、既にラインハルトの目前から男は消えていた。
強烈な虚脱感――そして、怒り。
何故、なぜ、どうして――
あの男の前で、醜い本性から来る動揺を晒してしまったのか。
それが、ラインハルトにはどうしようもなく腹立たしく、憎らしかった。