あんまり愉悦しちゃうとスバルくんが心折れてしまうので……今回は綺礼が綺麗してるかもです。愉悦待ってた人ごめんちゃい。
――父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです
ルカによる福音書より
◇◆◇◆◇◆◇◆
――無、或いは虚無のみが広がる空間が実体として其処に存在しているのであろうか。
果てのなき闇、無限に広がる深淵の中に、宙に浮かぶ巨大な本が一つ。
読み手なしに次々と捲られる紙が、周囲を包む闇と相まって奇妙な光景を創り出している。
現実では理論的に有り得ないであろうその空間、それはそこが正しく秘匿される神秘として扱われるべき場である故にか。
やがて、その奇妙な闇の中に嘆息が木霊する。
「――異物が紛れ込んだと思えば、こちら側の住民を掠め取っていくとはな」
嗄れた男の声。だが、それを聞く者がいれば誰もが気圧されるような、圧倒的なまでの重圧をその声は伴っていた。
言わば、その声の持ち主は万物の超越を志し、あろうことかそれを達成してしまった……控えめに言っても化物である。
そんな人物の嘆息は、そう中々聞ける物ではない。そもそもそんな貴重な物を聞いた者がいたとすれば、恐らく喧嘩売られて死滅しているだろう。
それ程までに、出鱈目な存在である男を以ってしても、『事態』は唐突に引き起こされたものだった。
「こちら側の負債、と言うものを考えて欲しいものだ。仮にまた顔を見せるような事があれば、全力で消し飛ばしておくべきか」
ご老体にあるまじき豪快なお言葉。実際この条件だけでこの男が何者であるかを特定できる輩は、決して少なくはない。
良い意味でも悪い意味でも、この異様な空間に居座る老人は何かと有名なのである。
喧嘩っ早い彼がみすみすその異物を逃した事も、またその心情を荒立たせていた。
その反面、"世界"には大した変化は見られなかった。
『あり得る可能性の中で最も厄介な結末』を迎えた第五次聖杯戦争後の世界において、いつ何が目覚めてもおかしくはない状況なのだ。
そんな中で、並行世界でも無い全くの別世界から異物が紛れ込んだともなれば、何かしらの変化を引き起こした物だとばかり思っていたのだが――
一人の神父の消失。
元々死にゆくだけの運命だった男の、唐突な消失のみが世界の変化だった。
それが如何に異質かつ見過ごせない出来事である事は、並行世界を観測する彼だからこそ解る物であった。
――言峰綺礼は確かに人間として見れば驚異的な実力を持つが、抑止力が働くには到底及ばない。紛れ込んだ異物にしても、抑止力が働いていない事から直接的な脅威は皆無だろう。
しかし、かの神父は残り数秒で死を迎える様な動く屍である。
彼に起こる結末を変える理由、それだけが老人の気がかりでもあった。
――単純に、あの破綻した価値観に興味を持っただけかもしれんが。
何しろあの不遜な王にもいたく気に入られるほどだ。そう言った手合には案外人気者なのかもしれない。
漏れる嘆息。そこで老人は言峰綺礼に関する観測を中止する。
訪れる奇妙な静寂。再び本が捲られる音のみが場を支配する。そんな中老人は―――
「――嫌がらせでもしてやろうか」
何やら末恐ろしい事を言い出すのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
驚愕は停滞を生み、無自覚の恐怖は声なき絶叫となって空気に染み渡る。
薄赤い陽光が入り混じる蔵の中、本来は美しい光の影が生まれる筈の木床には――
―――脈々と流れる紅い鮮血が、闇となって光を覆い隠していた。
湿った音が、重い音をたてて転がる人だったモノの一部が、理解を理性で拒む人々の目に何処までも残虐非情な現実として突き刺さる。
誰一人として目前の現実を理解しながらも、喉を震わせ、声を発することが出来ない。
それは、一瞬にしてこの場が惨劇に変わった事への困惑か、恐怖か。
静寂という名の拮抗、首を失った少女の胴体から覗く妖艶な黒髪の女性の貌。
その口元は悩まし気な微笑みを浮かべており――
―――理解を強要するように、手に持ったククリナイフで首無しの腸を抉り取るように貫いた。
粘着な、絞り出すような音と共に再び鮮血が吹き荒れ床に染み込む血を新しい物で塗り替える。
凄惨としか言えない血の舞踏。それを何の感慨もなく直視しているのは、この場で黒髪の女性――エルザと綺礼のみであった。
そして、その他の人々にも遅れて理解が訪れる。
奇しくもその兆候が最も早く訪れたのは――
「――――ぁ、あああァあああっ!」
銀髪の少女の惨死、それを最も理解したくないであろう黒髪の少年――ナツキ・スバルであった。
喉を裂き、空気を割らんばかりの絶叫。
唯一の支え、唯一の希望。
それを目前で打ち砕かれた少年が負った傷は、あまりに大きい物であった。
その眼から溢れ出る液体が貌を濡らし、しかしその眼は心情と裏腹に少女の死を受け入れる様に、刎ねられた首と体とを交互に見つめている。
微動だにしない少女の体。清廉さを思わせる純白の肌が、艶を失いながら質を異とする白に包まれていく。
それでも誰も少女の元に、叫びを上げる少年でさえも駆け寄ることはなかった。
――死んだ
誰もが、そう確信していたからである。
焦点の合わない眼を剥いた首が、無造作に床に転がっている。
その死に様は、見るものにとって最も死を受け入れやすいものだった。
スバルの激情は虚しく空気を震わせ、しかし誰もその悲痛に応える事は無い。
だからスバルは、その貌を濡らしながらも周囲を見回した。
せめて、この悲しみを皆が共有してくれているだろうか。悲痛に顔を歪ませてくれているだろうか。
それがねじ曲がった願いで、何より彼自身が何も救われないことを知らないままに――
己が縋った――綺礼が、何食わぬ顔でその惨状を見ている事に、気付いてしまった。
あまつさえ、その口元が歪んでいる様に思えて――
「何で……何であの子を助けてくれなかったんだよ!」
気付けば、その胸倉を掴んでいた。
血走った眼が、力を込めすぎて血の気を失った両手が、スバルのやり場のない悲しみを、怒りを何よりも表している。
その八つ当たりがどれほど見苦しくとも――目前にその激情の原因を作った殺戮者がいたとしても、最早正確な判断を下すだけの理性は、彼の中に残されていなかった。
その激情を受け止めた神父は、自身の歪んだ衝動を押し殺しながら、見る人々に安心を与える様な柔らかな笑みを浮かべる。
さながら彼が崇める主のように、場に似合わぬ神聖さすら持って。
スバルでさえもその微笑みに一瞬怒りを忘れ――
「では問うが――君は、私に何を求めた?
……君は私に、何の助けを求めたのだ?」
非情な言葉が、紡がれた。
その言葉が、あまりに今の自分の醜態を的確に指していたから――その言葉に、何より自分自身が納得を覚えてしまったから。
「―――、」
ただただ、口を開けて声無きうわ言を紡ぐことしかできない。
――神は、形振り構わず人を導きはしない。それが愚者であるならば、尚更だ。
「君は確かに私を縋った。だがそれは一体、何に対して、私が何をすれば君が救われるのか……その手掛かりとなる物を、君は何一つ私に話そうとはしなかった」
本来この状況下で交わされるのは愚かとも言えるやり取り。だが、綺礼から紡がれる言葉に乗せられる異様な重みに、エルザさえもその口元に明らかな笑みを浮かべながら聞き入っていた。
「故に私は、数少ない手掛かりの中で君の中での助けを推測することしかできない。
――君は、「俺を助けてくれ」とそう言ったのでは無かったか?」
「――ちが、」
「偉そうに言えた口ではないが、人は極限にまで追い詰められた時、自身の心の奥底にある感情……本性や本心が出ると私は思っていてね。
果たしてあの時の君には、あの少女は映っていたのかな?」
「俺、は、あの子を、たすけ、て――それで」
「――君が生きる糧としたい、と?」
「―――」
物事の言い様、というものは様々な物があるが。
本来ならば激昂し、義憤を表すべき綺礼の残虐な物言いにもスバルは何一つ反論することはできなかった。
理性が否定しても、本性はそれを肯定する事しかできない。
それがナツキスバルだ。何の取り柄もない、ただただ閉鎖された空間の中でしか自分を認められない、普通の人間の本性だ。
抗える物でもなければ、否定できる物でもない。
全ての願いは自身の利益に直結する。それを本性ごと他者のために使うなどという事があれば――それは最早、人間ではない。
「――ナツキスバル、それは決して咎められるべきことではないのだ。」
だから神父は、そんな普通の人間に救いの手を差し伸べる。――
「それは決して悪ではない。
君が自身のその本性を醜いと思っていたとしても、剥き出しの人間こそが最も美しい――虚飾にまみれた上辺だけの感情を晒さずに済むのだから」
――尤も、それが他者に受け入れられるかは別の話だがな。
口の中だけで呟いたその言葉を、綺礼はスバルに伝えようとはしない。
たとえスバルにとってその言葉の一つ一つが傷を抉る物だとしても――その言葉の全ては、彼のために紡がれているのだから、質が悪いどころの話ではないが。
「……我々に出来ることは、常に自分の行いを是とする事だけだ
――君がもし、君自身の行いを否とするならば」
綺礼は知っている。己を切り捨て、人々を救う事に命を投じた愚か者を。
――己を切り捨て、一人の人間を救うために命を投じた愚か者を。
「選べ――君自身の運命を、君自身の手で」
傷を開くことで、状況が良好になる事も時にはある。
容赦なく紡がれた綺礼の言葉ではあったが――スバルに一つの決心をさせるには、十分すぎる物だった。
――それが、綺礼の意図した事とは知らずに。
「―――俺を、殺してくれ」
ずっと思い至っていた可能性――否、スバル自身が現実として認めようとしなかっただけのこと。
縋れる物を喪った今、その不確定な現実に賭けるしかない。
自分がもっと早くにこの現実を受け入れていれば、少女の死を見る事は無かったのだろうか。
自分がもっと冷静に自身の置かれた状況を把握していれば、こんな醜態を晒さずに済んだのだろうか。
諦観に満ち溢れた心情、それも、やり直しができると心で思っているからに過ぎない。
――でも、こんな醜い本性の中でも、少女を助けたいと言う想いは確かに存在しているのだ。
唐突な浮遊感。感覚が鈍ってゆく。
自然と上に上がる視界には、紅い液体が舞っている。
目に映るものが掠れて行き――やがて、首を失って倒れる己の肉体を目にする。
――ああ、これでお揃いだな。
死に際のスバルには、助けたいと思う少女と死に方が同じというだけで、満足感を得る事ができた。
次は必ず救ってみせると言う、確かな決意と共に。
転がる視界は、己に言葉を投げかけた男の貌を見上げる形で止まる。
暗闇に包まれる視界――男が浮かべていた微笑みが、微かに――確かに、歪んでいる様に思えて。
―――恐ろしい、そんな本能的な感情を最後に抱き、ナツキスバルは命を終えた。
不快感。
全てが戻される様な感覚。全てが逆流する様な感覚。全てが還元され、自身を構成する物全てが抜け落ちていくかのような強烈な不快感。
血液が、汗が、目に映る景色が、瞬く間に姿形を変え、壊れた様に巻き戻されていく。
少年の死を媒体として、世界は遡行を開始する。
それを確認した綺礼は、この世界での最後の光景として少女と共に転がるスバルの首を見やる。
そこに諦観の色は無い。少年は、己の望む結末を得るために抗い続けるのであろう。
道化は、或いは過程を経て英雄にもなり得る。
――ならば破綻者は、言峰綺礼はその行く末の見届け人となろう。どちらにせよ運命共同体なのだ、背に腹は変えられない。
別段、ここで少年の心を折るのも一興ではあった。
それでも綺礼がそれをしなかったのは――死ぬと戻される、その現象を繰り返し、少年がどう変化していくかに興味を持ったからだ。
全ての願いは己の為に――そして、言峰綺礼はその醜い本性を隠そうとはしない。
その在り方を、美しいと思うのもまた、間違った捉え方では無いのかもしれない。
kirei kotomine theme song 名前のない怪物
てか今回すごく難産だった()
なんか文章とかもいつも以上に支離滅裂な気がする。