宵闇に包まれていた空は陽光が爛々と照りつける晴天に、見窄らしく辛うじて人が住めるかという程に荒く廃れた町並みは、石製の良く手入れされた見栄えする街並みへ。
蔓延る人々も、何もかも。
―その全ては、綺礼が一度目にした物だった。
逆行をこの身で体験するのは、決して心地良いものではない。
込み上げる不快感、喉までせり上がってくる物を抑え、額に浮かんだ汗を拭う。
僅かに荒く乱れた呼吸が、素知らぬ顔で街道を歩く人々によって遮られ、今自身が何処に、何故この様な状況になったのかを嫌でも知らせてくれる。
最終確認というわけではないが、手鏡を貸してくれた主人に声をかける。
「主人、私の顔に見覚えは?」
「あん?
……いや、お客の顔は忘れない主義でな。覚えはないな」
「そうか、すまんが金は持っていない」
「出鼻くじくにも程があんぞてめぇ!
てかてめぇもかよ!」
――疑惑は確証に。
綺礼は戻った……否、"戻された"。
綺礼がこの世界の光景として初めて目に焼き付けた街並み、先程まで暗闇に包まれた盗品蔵にて戦いを繰り広げんとした彼が瞬時にこの光景に飛ばされた事に対して、それ以外にどう説明できようか。
加えて、自身の全てを一に返す様な言い表せぬ不快感を綺礼自身が感じている。元代行者としても、危険では済まされないこの状況を有り得ないと切り捨てる事は出来なかった。
ならば、誰が、何の為に?
盗品蔵での対峙相手、あの襲撃者が時間操作を可能とする者だとしても、それならばあの様な奇襲をかけることをせず、過去か未来かに綺礼の時間を操作して一瞬で方を付けてしまえばいい。
限定的な時間の操作という可能性もあるが、そう言った手合ならば正確な時間の操作ははたして可能だろうか?
と言うのも、城下町を照らすのは眩い陽光、綺礼がこの光景を初めて目にした時のように、空は青く澄み渡っている。
あたかも初めからやり直せと言わんばかりのそれは、決して軽視して良いものではない。強大な力の持ち主が時間操作を行ったと見ていいだろう。
「……、」
嘆息。面倒どころの話ではない。
魔法を奇跡と呼ぶならば、今己はその奇跡に触れてしまったのだ。それこそ多くの魔術師が血涙を流すであろうに。
ふと、綺礼自身の手でその命を奪った嘗ての師の姿が脳裏に浮かぶ。
遠坂家は宝石翁から課せられた"宿題"として、宝石剣と呼ばれる限定的な並行世界の観測を可能とする媒体の設計図を伝えられていると師――遠阪時臣から聞き、実際に魔術理論を展開している姿を目にした事もあったが、仮にこう言った事柄を体験をさせるのであれば時臣のような生粋の魔術師にさせるべきであろう。それこそ飛び跳ねて喜びを顕にするだろうに。
原因の特定もできなければ、それを引き起こした人物さえ見当もつかないとは……相当に深刻な状況であることは否めない。
何しろこの世界の"常識"と呼ばれる知識は大体把握したとはいえ、それでも不足している事には変わりはないのだ。
まさに八方塞がり。再び盗品蔵に足を運ぶ、という無駄とも思える案しか思い浮かばない程には困惑に支配されていた綺礼の思考であったが――
視界の端に、綺礼にとっては見慣れた類の衣服を着こなす少年を見た瞬間、弾ける様にその少年の後を追っていた。
言うなれば、極々普遍的な少年である。
特別華美でもないグレーのジャージ上下にスニーカー、目を引いたのは尾行を開始する前に捉えたその凶悪を思わせる三白眼か。
だからこそ、この世界ではあまりに目立ちすぎる。
綺礼の場合、法衣に身を包んだ状態でこの世界への現界を果たしたため、特別周囲から浮くような事もなかったが、恐らくはこの世界の文明よりも遥かに発達しているであろう前世界において、機能性を重視したスポーツジャージという物は、見た目、用いられる素材諸々のどれを見ても珍しい物であることには違いない。
率直に言えば愚行とも取れるのだ。恐らくは綺礼と同じようにこの世界への転移を余儀なくされた存在。ただでさえ勝手が解らないであろうこの世界において、目立つという事は何よりもの愚行。
何かしらの意図があるならばまだしも―――
「さあ、タイマンだ!
正々堂々とかかってこいよ!」
少年が路地裏に入ったのを確認した後、進路に回り込んでその表情が見える位置に陣取っていたのだが。
時間が巻き戻っている為に懲りなく復活し、少年に金銭を要求するごろつき三人衆。
綺礼がこの三人衆と叩きのめした際、それぞれにはやり場のない怒り――ある種の八つ当たりの様な感情を感じた。
この少年がその原因なのかは解らないが、おそらくこの三人衆は綺礼と相対する以前に、盗みに失敗していたのだろう。
その三下に向かって啖呵を切った少年ではあるが、その貌には隠しきれぬ怯えと緊張。
この程度の脅威……障害にも僅かな躊躇いを見せる、その時点で少年が実力者であるという可能性は皆無。その服装を変えない理由も、単にそこに意識を割く余裕が無いというだけのことだろう。
此処で数の暴力によって叩きのめされる事があれば、手助けが必要になるかと諦観を込めて観察していたのだが。
「超絶、甘ぇ!」
その運動神経、奇抜な戦闘方法には幾分か興味を惹くものもある。型もおざなりだが、恐らくその動きから剣道を少し齧った程度には嗜んでいる。
相手を軽々と持ち上げた事からも、それなりに鍛錬を積んでいるようにも思える。
三人衆の内二人は為す術なく沈黙、残るはリーダー格と思える細身の男だけであったが、ここで綺礼にとって少し引っ掛かる振る舞いを少年は見せる。
懐に手をやる細身の男。その姿を見た瞬間に、少年は男の顔面を蹴り飛ばしたのだ。
迷いのない動き、男が取り出そうとしていたのは小型のナイフであった。
しかし、ナイフがあった位置は少年の視点では認識する事が出来ない。強いて言えば少年は男が懐に手をやる前に、男に向かって走り出していた。
――恰も、最初からナイフを持っていた事を知っているような。
「―――早く、盗品蔵に行かねえと……!」
その一連の行動、そして決意を新たにするように今しがた紡がれた"目的地"
それに一つの仮説を見出し、綺礼は薄暗い路地裏で一人ガッツポーズを決める少年の尾行を続ける事を決意した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
赤みが差す夕刻の空。その空模様すらも、綺礼にとっては二度目のものであった。
少年の追跡から約二時間、微笑ましいと言えば聞こえはいいだろうが、少年の中での盗品蔵への道の所要時間が二時間だと言うならば、それは遠回りどころの話ではないと直接言及したいものだ。尾行する身にもなってほしいというのは酷な話だが。
――以前、凛と共に迷子になった事があった。
遠坂のうっかり属性を父以上に色濃く継いでいる故に、無意識にからかいたくなるのが遠坂凛という存在だ。
しかしながら、最終的には綺礼自身が振り回される様な形になっていたのは気のせいでは無い筈だ。
……あの姉妹はどうなっただろうか。あの正義がアレを止められたと仮定するならば、それなりの"悪くはない未来"を過ごしているだろう。
尤も、彼らにとっての幸福を、綺礼が想像することは不可能なのだが。
閑話休題。
血を吐く思いで、と言わんばかりにため息を付く遠回り空回り少年は、盗品蔵の扉を二度叩く。
小気味よく響く軽い音が来客を知らせ、蔵の主人はその来客を快く迎え入れようと扉を開け―――
「誰か……誰かいるんだろ!
頼むよ、返事してくれ……!」
蔵の中から応答が無かったのか、少年は叫びながら何度も扉を叩き始めた。
どんなに焦っていようとも、扉を叩くのは二度で充分である。ましてや大声を張り上げるなど、強盗と勘違いされても文句は言えない愚行である。
――案の定勢い良く開かれた扉によって盛大に吹き飛ばされる少年を見て、綺礼はその愚かさに自然と嘆息が漏れるのであった。
確かめるべきなのは少年と蔵の主人による会話の内容ではない。
あの時蔵で感じた血の匂いが蔵の主人、或いは少年の物であるならば、それを引き起こしたのは綺礼自身が対峙した襲撃者で間違いない。
襲撃者の虐殺を止める必要はない。あらゆる可能性を吟味するのであれば、なるべく前回と起こりうる結果を同じにした方が綺礼としても状況を把握しやすい。
ただ、その襲撃者が盗品蔵を訪れるのは少し後のことだろう。未だ空は宵闇に包まれておらず、その片鱗を僅かに見せるに留まっている故に、だ。
少年が盗品蔵へと足を踏み入れてから一時間弱。盗品蔵全体が見れる位置に陣取った綺礼が目にした明確な変化と言えば、金髪朱眼の少女が蔵の中へと入っていった事だろうか。
その身なりからこの盗品蔵においての正客、持ち込んだ盗品の目利きをしてもらいに来たのだろう。
未だ襲撃者は姿を見せていない。
……だが、姿を見せるのも時間の問題だろう。日は大分傾き、沈みつつある故、綺礼が蔵を訪れた際の景観と一致する。
それを肯定するように、黒い装束に身を包んだ女が蔵の扉の前に立ち、先程の金髪の少女と言葉を交わした後、蔵の中へと入っていった。
強者だけが纏う瘴気、女が意図的に隠していたそれを目敏く感じ取った綺礼は、かの者が対峙した襲撃者だと判断する。
――条件は揃った。後は、此処で起きる惨劇の結果が何を齎すのかこの目で確かめればいい。
扉が閉まったのを確認し、綺礼は音もなく扉の前へと移動する。
常人であれば、虐殺を起こすのがあの女だと解っていた場合、怖気づきながらもその犯行を止めようとするのだろう。
しかし此処にいるのは何処までも無慈悲な男。
常人との……否、人間との価値観も違えば代行者としての切り捨てる覚悟もある。
言峰綺礼は、人の死を道端の石ころを退かす様に受け入れる事もできれば、それを見て嗤う事もできるのだ。
刹那、大きな物音共に野太い雄叫びが蔵の中から外へと漏れ出し、張り裂ける音となって響き渡る。
何かが壊れる音、苦悶の声、悲鳴、湿った何かを裂くような音、悲鳴、衝撃、肉を断つような不快な音、水音、悲鳴、雄叫び、泣き叫ぶ声―――静寂。
耳を塞ぎたくなる音が幾度も響く中、綺礼は眉一つ動かすことをしない。
ただただ冷静に、残酷に。
――或いは、蔵の中で起きている悲劇を、綺礼自身が喜劇と感じている故だろうか。
瞬時に扉を蹴破り、袖口から数本の黒鍵を投擲。
鋭さと正確さを以って空を切ったそれを、高い音と共に弾く金属音。
その音を頼りに綺礼は襲撃者の位置を特定。爆裂する様な踏み込みと共に襲撃者へ肉薄、力を込めた拳を穿つ――のではなく、その場で素早く足を回転させ、襲撃者の軸足ごとバランスを刈り取る。
襲撃者はその反動に身を任せて体を宙に浮かせ、地面ごと貫かんと言わんばかりに放たれた神速の拳を得物を犠牲にして回避する。
そのまま俊敏な動きで綺礼の猛攻を潜り抜け、一度大きく距離を取る。
その隙こそが綺礼が望んだもの。
瞬間、綺礼は周囲の状況を素早く確認する。
切断された腕面からトクトクと血を流す巨体の老人、その小さな体に詰まった鮮やかな臓物を木床に撒き散らし、どす黒い血を貌に浴びながら焦点の合わない目で虚空を見つめる少女。
――切り裂かれた腹部から薄赤色の腸を覗かせ、涙と諸々の液体で貌を汚く濡らした少年。
綺礼がなんの感慨も抱かずに状況を確認し終えたのと、黒装束の襲撃者が綺礼に肉薄したのはほぼ同時だった。
寸分違わず綺礼の腹部を狙ったククリナイフを、綺礼は襲撃者のナイフを視界にすら入れず、片手間にするように弾き、受け流す。
それは聴頸と呼ばれる技法、腕と腕が触れ合った刹那に、相手の次の動きを予想すると言う馬鹿げた達人にしかできぬ絶技である。
「―――!?」
刹那、得物を弾かれた襲撃者は身に迫る悪寒に危機を覚え、咄嗟にその場を離脱する。
それを待たずして、先程まで襲撃者がいた位置に幾本もの黒鍵が上から飛来、床に深々と突き刺さる。
辛うじてその全てを避けきったかに思えた襲撃者だが、その退路には鮮やかな血液が彩られており、その華奢な体の肩に浅くない傷を負っていた。
「―――嗚呼、素敵だわ」
「君の中での私は、さぞかし素敵なのだろうな」
その傷を負いながらも襲撃者の女が恍惚と紡いだその言葉が前回と全く同じなのを確認し、綺礼は皮肉混じりにそう襲撃者に告げる。
一瞬訝しがる様に眉を顰めた女ではあったが、直ぐに元の妖艶な笑みを貌に貼り付けると、
「どちらにせよ、楽しめそうだわ……!」
何処か狂気を滲ませながらそう呟き、再び綺礼へと肉薄する――――刹那、
不快感。
全てが戻される様な感覚。全てが逆流する様な感覚。全てが還元され、自身を構成する物全てが抜け落ちていくかのような強烈な不快感。
血液が、汗が、目に映る景色が、瞬く間に姿形を変え、壊れた様に巻き戻されていく。
「その楽しみ、少し先延ばしになりそうだ」
綺礼の声がそう響き、それを最後に――世界は再びの遡行を開始する。
◆◇◆◇◆◇◆◇
宵闇に包まれていた空は陽光が爛々と照りつける晴天に、見窄らしく辛うじて人が住めるかという程に荒く廃れた町並みは、石製の良く手入れされた見栄えする街並みへ。
蔓延る人々も、何もかも。
その全ては、綺礼が二度目にしたものだった。
しかし――――
「おい兄ちゃん!大丈夫かっ!」
見覚えのある男――果物屋の主人が、石床に突っ伏して倒れている見覚えのある少年――盗品蔵にて息絶えた、綺礼が尾行した少年の体を揺すっている。
大きな変化。矛盾。
それを確認した綺礼は、右手で顔を覆い天を仰ぐ。
周囲から見れば、それは何かを嘆いているようにも見えただろう。
故に、誰も知ることはない。
―――唯一覆われていない口元が、弧を描いていることに。
愉悦部副部長、始動。
※部長、特別顧問、マネージャー、狂犬、番犬は無断欠席です。ご容赦を。