――雑踏の中、法衣に身を包んで己の胸に手を当てている、と言うのは些か奇っ怪な振る舞いだったのは違いないが。
魔術と関わりがあるからこそ、綺礼は自身に起きた現象を理解するのに時間を要した。
汚泥まみれの綺礼の体は死体、人間としての彼は第四次聖杯戦争と共に終わりを迎えている。
瀕死の蘇生ならはともかく、あるべき心臓など十年前に置いてきている。今更蘇生も何もあったものではない。
ならば、考えられる可能性は少数に絞られる。
「――主人、すまないが鏡を貸してはくれないだろうか」
「アぁ?果物屋に変なこと聞く兄ちゃんだな。
…まあ、手鏡ぐらいあるけどよ」
最寄りの果物屋の主人……と呼ぶには僅かに抵抗を覚える屈強な男が、訝しがりながらも小さな手鏡をこちらへ渡す。その服装を見ても、やはりそれに一致する文化衣装すらも思い浮かぶことはない。
いっそ街の住民全てが仮装しているとでも考えれば、いくらか納得もいかなくもないが。
それにしても、我ながら馬鹿な事を考える。しかし、死人の心臓が動いている時点で今更だろう。
「……やはり」
自然と紡がれた声には、ある種の諦観のようなものが混じっていた。
伊達に鍛錬をしていたわけではないと自覚している。己の体に何かしらの変化があれば、それに気づくぐらいの事は容易だ。
綺礼からすれば明らかな差異だ。大袈裟に言えば全身から力が漲る様な、全身の筋肉が若返った様な感覚を覚えたのだ。
――実際、手鏡に映されていたのは十年前……即ち、第四次聖杯戦争時の綺礼の貌であった。
時間操作。或いは時の逆行。
いずれにせよ、人智を越えた存在をもってしても容易く辿りつけぬ領域――大いなる神秘、魔法に値する。
それを一個人に使用するなど以ての外、そもそもそれを行える者があの場に都合よく存在する筈が無い。
第二魔法か第五魔法。綺礼とて魔術に精通しているわけではないが、その存在の強大さは知っている。
いずれも使い手が明らかになっているその魔法には、少なからず時間という概念が関連している。
特に第五魔法は、時間旅行を可能とする魔法だ。それは己だけでなく、他者の時間も操作する事ができる。
故に、あの瞬間『綺礼の屍が死を迎えた時間』を過去、或いは未来に飛ばすことで死を回避すること自体は不可能ではない。
しかしその場合、世界に無駄な負債が溜まる事となる。あくまでそれは『死を回避した』、遠ざけただけに過ぎず、一個人に対して安易にそれをしてしまえば、致命的なズレが生ずる可能性も十二分にあり得る。
その上、第二、第五魔法の使い手と綺礼とでは何の接点もない。百歩譲ってあの場に居合わせていたとしても、まさか綺礼を助ける程の物好きでもあるまい。
「……よお、兄ちゃん。
まさかおめえ、人様にこんな気ぃ遣わせといてリンガ一つも買いやしねえってんじゃねえだろうな」
「―――、」
再び沈みかけた思考の渦を、苛立たしげな主人の声が振り払う。
我に返り正面を見れば、額に僅かに青筋を浮かべた強面の男が、眉を引くつかせながら精一杯の笑みを此方に向けていた。
此処に至った過程を今どうこう言っても仕方が無い。元の世界に戻る必要もなければ、戻りたいと望むこともない。
故に、
「――すまないが、生憎と金の持ち合わせが無くてね」
「お前も一文なしかよっ!」
情報を集める事から始めるとしよう。
◆◇◆◇◆◇◆◇
親竜王国ルグニカ。
四大国と呼ばれる王国の一つであり、当然ながらその規模も中々のもの、二百万人程がこの王国に身を置いている。
その名の通り、何百年単位で竜と良好な関係を築いており、神竜ボルカニカに守られて繁栄してきたと伝えられている。
問題点は王国にも関わらず国を束ねる王が現在不在であることと、亜人――獣人の様な者に対しての差別の名残が根強く残ってしまっている事。
城下町では少なからず格差が生まれており、貧民街が存在している。貧民街には盗品蔵と呼ばれる文字通り盗人が盗んできた物を扱う蔵があり、それを目的に貧民街へ足を運ぶ者も少なくはない。
「……こんなところか」
澄み渡る青空が徐々にその色を橙へと変え、やがて日も沈もうかという夕刻。
現在置かれた状況を把握しようと躍動した綺礼であったが、思いの外情報収集は難航した。
――薄々考えてはいたが、どうやら此処は未来過去という次元ではない、完全に概念を違えた"異なる世界"である事は間違いない。
ルグニカという国名もそうだが、使われている金貨や銀貨はルグニカ独自の物である。その上、意思疎通や値札などに用いられている文字も見覚えのない象形文字の様な物だ。何故言語が通じるのかは不明だが、少なくとも口でのやり取りは可能と見ていいだろう。
他にも、己の法衣やロザリオを珍しい物として扱ったりとキリスト教やイエスの存在が知られていない……否、概念として存在していない。
端的に言えば、綺礼は心臓が役割を果たしていた十年前の体にまで何者かに時を弄られ、その上に並行世界とも在り方を異とする完全な異世界へと送られたのだ。
それだけの事を成すのにどれほど出鱈目な力と過程が必要になるかを考えるだけで目眩が襲いかねないが、先ずはこの超常現象を現実として受け入れなければならない。
――嘗ての世界において、あの宿敵との戦いに己の全てを賭けた綺礼にとっては、何とももどかしい気分であることには違いない。別段あの結末に不満を抱いていたわけでも無し、寧ろ己の在り方を最後まで貫き通した事には僅かに満足感すら覚えたものだが……こうも何事も無かったように己が再び生を受けている事を受け入れる、と言うのも中々酷な話だ。
とは言え、此処で野垂れ死ぬ気も更々無い。綺礼の歪んだ信仰を未だ神が許しているかは解らないが、その様に命を無碍にする事はあまり褒められたものではない。
故に綺礼は、この世界で生き抜くための資金を得る必要があった。
当然ながら此処においては嘗ての日本札や硬貨はただの紙切れと鉄屑。硬貨に関しては金にならないことも無いが、それでは気休め程度にしかならない。或いは綺礼ならば盗みを働く事など容易いのだが、この男、あくまで悪人ではあるが姑息な邪道ではない。盗みを働くという手段が綺礼の中であまり優遇されていないのは確かである。
幸い、この世界の人々が身に着けている衣服や小物等は前世界にくらべて粗末な物が多い。いざとなれば戦闘用として特殊な素材が使われている法衣も、充分な価値を生むだろう。それを気休め程度の糧にして、適当に職を見つけていけばいいだろう。
――その資金獲得のため、現在綺礼は薄暗い貧民街を歩いている。
目的は盗品蔵だ。道中叩きのめしたゴロツキ三人衆から盗品蔵に身を置く爺が、物に目利きが確かだと言う情報は得ている。その筋に関しては知識が疎い綺礼にとって、下心にまみれた下賤な商人に任せるよりかは、こういった過酷な環境下の中で生き抜いてきた者の方が信用できる。尤もその過酷さの中で生き汚さだけを身につけた類ならば、下賤な商人の方がマシなのかもしれないが。
街の最果てとも言える場に、それは密かに佇んでいた。なるほど確かに蔵と呼ぶに相応しい、だが盗賊の居城には全く相応しくない構えをしている。盗っ人猛々しいとはよく言ったものだ。
「夜分遅くに申し訳ありません
どなたかご在宅で――」
声を掛け、止まる。
その原因は、単に扉が開いていただけのこと。これが普遍的な家屋ならば、確かにその様な不注意の一つや二つはあるだろう。
だが、あくまで此処は盗品蔵、こんな位置にある事からも、あまり公にして良い立場にある建物であるはずも無い。
ならば、扉を開けっ放しにすると言う愚行を、はたしてこの蔵の主人が許すだろうか。
黒鍵の柄を取り出し、魔力で刀身を生成してから法衣の袖に隠しておく。
幸いにもこの地には潤沢な魔力があり、綺礼自身も万全に近い状態の魔力を保有している。黒鍵の柄を此方の世界に持ち込めたのも僥倖だった。
蔵の中に足を踏み出す。外は宵闇に包まれている故、本来ならば綺礼の視界には何かしらの光源が飛び込んで来るのが道理だが、其処はただひたすらに暗闇に覆われていた。
――どうやら、物騒な事になっているらしい。
屋内の空気から瞬時に状況を判断した綺礼は、音をたてずに袖から黒鍵の刀身を覗かせる。
代行者として幾多の死線を潜り抜けてきた綺礼にとって、その"匂い"はあまりに嗅ぎ慣れたものだった。
息が詰まるような不快を思わせる濃厚なその匂いは、人間を構成する上でなくてはならないもの。
圧し殺すような静寂と共に強まっていくそれは、実体となって綺礼の足裏に纏わりつく事で形成す。
――ペチャリ、べチャリ、と。
本能的な嫌悪を思わせる、しかし綺礼にとってはすっかり慣れ親しんでしまった音。
即ち、その匂いは屋内に散らされた鮮血によるものであった。
刹那、淀んだ空気を裂くような鋭い音と共に、状況は一変する。
姿見えぬ襲撃、その襲撃者は瞬く間に綺礼に接近し、その腹部を自らの得物で引き裂く――事は叶わず、音もなく放たれた二本の黒鍵によって得物を弾かれ、阻まれる。
すぐさま綺礼は大きく息を吸い、
「―――っ、」
息を呑む音は、襲撃者から発せられた驚きのものか。
轟音を響かせながら唸る綺礼の拳は、咄嗟に割り込ませられた襲撃者の歪な形をした剣によって阻まれる。
が、その剣は拳の衝撃を受けきれずに刀身が砕け散り、武器としての役割を終える。襲撃者はその反動を利用し、軽やかな動きで宙を舞うと、そのまま綺礼から大きく距離を取る。
一瞬の攻防。この間、僅か数秒の出来事である。
視界も満足に得られない中で、人外じみた戦闘を繰り広げる両者は、奇しくも正しく人の道を外していた。
「――素敵」
艷やかな女の声。その声には何処までも悦びが滲んでおり、綺礼を愛しげに、恋人と久方ぶりの再会を果たしたかのような色を以って賞賛する。
対する綺礼は何も応えない。光に照らされていればおそらく広がっているだろう惨劇を引き起こしたのは、この襲撃者と見て間違いない。これではこの蔵の主人も無事ではないだろう。
相当な実力の持ち主だ。力ではなく、技で相手を翻弄する類か。
だが、対処できない相手ではない。自分の体に対して言うのも可笑しい話だが、この体ならば多少の融通はきく。
張り詰める緊張。僅かな動きすらも見逃すまいと両者は神経を研ぎ澄ませる。
或いは果てのない静寂の中、剣呑さばかりが苛烈さを増し、拮抗する。
その拮抗が限界に達した時、両者の体は弾かれた様に前進し―――――
不快感。
全てが戻される様な感覚。全てが逆流する様な感覚。全てが還元され、自身を構成する物全てが抜け落ちていくかのような強烈な不快感。
血液が、汗が、目に映る景色が、瞬く間に姿形を変え、壊れた様に巻き戻されていく。
不快感。
―――再びそれを感じた時、言峰綺礼は澄み渡る晴天の中、一人城下町に佇んでいた。
この人を書くのは楽しい。因みに桜ルート後の綺礼なので、幾らか達観している所はあるかもしれません。